2006年12月31日

美術館

都市という総合芸術は文芸の前提に存在する。我々は文芸という観念造形的営為を暇つぶしの仕方として用いる。小説なる形式は、かの演劇術のために設らえられた台本の役割を果たす。
 我々は暗喩にあれ、人間活劇の方法論において小説を読む。万人のための脚本として模範を示す目的が文芸にはある。音楽、絵画、彫刻、建築、そして詩歌と順に次元を上げていく芸術構造は演劇という最終形式で完成するだろう。そして我々は芸術におけるモダニズムが普遍化を旨とする事を知っている。現代芸術家は審美という道を辿り、個性のための表現をやめて、やがて万人のための世界をかたちづくる。
 我々は自然への抽象という作為の結果、自らが芸術界の住人である事を悟る。彼らの環境作法を規律するための合目的方法論に関する試行が、芸術という適応営為なのである。則ち、演劇術、生活術において君は人生を崇高な作為と認識するだけの環境的恵みを必要とし、その演繹還元上の帰結として日常における合理観を調える。
 演技とは、合目的性あるいは合理観の演劇芸術的実行である。
 文明芸術の総合は、芸能人生においてその審美目的を達するのである。この様な当為的未来における芸術の完成のあとには、現代人類が認知する芸術とは違う概念が市民へ自覚共有されているだろう。現世人類までに至る我々は、芸術という形而上イメージをまずたんなる工芸分野区割の工夫に用いてきたにすぎない。また、その発展として、趣味という範畴を通じて生産工芸品を非体系的に民主審査し、環境学的合理性の時代適応度を再三試験してきたにすぎない。未来人または文明人が芸術という用語をつかうのは純粋技術の意味においてのみである。それは今日におけるごとき応用方便、或いは付加価値創発的な遊びを内容しない、ただの人間原理上の合理作為を表現するために表現されることばとなるのだ。それは特権的理念である事をやめるだろう。またしばしば高尚理想であるとすら意識されないだろう。創意工夫のとるにたらぬ独創や天才を指すものですらなくなる。我々は芸術というイデアを人間の環境再創造行為の基本主義として普通一般に認識するに至る。いわゆる造型美術における美術館の役目はそれまでのあいだ、大衆を啓蒙しつづける、暗喩下の社会環境模式を示した公民学校となることだ。更に、美術家とはここでの指導者を意味し、彼らの公務は想像しうるかぎりにおける普遍感覚の導引なのである。

善導

我々は言語概念を利用していずれ文明を促す。哲学は言語の用法を記述するに過ぎない、というヴィトゲンシュタインのideaは正当でないと批判できる。なぜなら言葉は道具であり、脱構築的にあれ実用的にあれある思想を形相づける方法。言語学批判に限らず。
 我々は言語固有の文化を持つ。よって普遍的観念即ち概念を創造するため、つまり啓蒙のために必要な文脈は各々異なる。脱構築という哲学的批判の方法は、文脈の相対化に役立つに過ぎない、それは語族に由来する仲間性を文学から排除する。脱構築とは文学批評専門の道具。そして無論、破格そのものは目的ではない。
 我々は破格によって哲学の終点へ辿り着く訳でもない。思想潮流による近代化をおこなうのは、文章の善導的使用の歴史的努力に違いない。文明は哲学を善導の中枢と見なす。

2006年12月30日

芸術教育論

芸術家一切の予備訓練は人文教養の涵養に他ならない――『判断力批判』
 いわゆる技法の洗練には多くの選択肢が要されるの必至だが、そこであやまたず、より適切な形相構成条件を導出させて止まぬ源泉こそ、かの勉励により育まれる高い人間性に違いない。我々にとって、芸術アカデミーにおける審美指導という事は全く不可能に属する。というのは、趣味の左右とは体系学のあずかり知らぬ所においてのみ有効だからである。則ち一般に知られる如く芸術それ自体は術であり、全くに学ではない。史学と審美は相異なる観念である。従ってフランス・ボザール式の芸術アカデミーの地球的伝播は多大な過ちを侵している。それは中世ルネッサンスへの潮流的規範意識から端を発する、古典主義への退行に寄与してきたに過ぎない。
 我々は、芸術教育とは究極、師弟間でしか十全な姿を取らぬ事を知っている。理念に対する人間的姿勢としてしか審美観の伝承はできない。巨匠が亡くなれば遺された傑作の模倣から、規範となるべき思想の跡を幾分汲みあげる事ができるだけである。我々の社会にとり芸術アカデミーに存続の価値があるとするならば、第一にそこで人文教養の滋養とみなされるべき、文化人類学的なliberal arts教育が行われる限りにおいてである。第二に、時代において最も基本的な方法としての造型技術が、極めて体系的に専門伝授される限りにおいて。そして第三において、又これこそが死活命題ともなろうが、当世第一流の芸術家を教授として招聘しえる限りにおいてである。
 だが人々は時代の先鋭に対しては否応なく無理解を以て応えるものであった。感性の先導、それが芸術の意義でもあるのだ。よって究極的に、芸術アカデミーは第二流以下の芸術家を以て仮に、暫時少なからず悪例としての審美学的授業における教授役の歴へ当たらす他には現況、致し方無いのである。大抵の我々がモダニズムのベクトルはanti-academicに発して行くのを史上に観察するなら、それはことごとくみなこの第三の理由に因るものである。即ち、凡そ芸術アカデミーにはたんなる審美観を生かす術においては常に、二流以下の啓発しか行えない仕組みになっている。我々は今後も永らく第一流の芸術家がいつでも芸術アカデミーの影響のない純正無垢な場所から生まれ出すのを幾度とも、歴史実中に観察するだろう。それは彼らが必修の第一、人文教養と第二、専門技術および第三、審美観とを独習で覚えて来たからであり、かねてより神話化され闇に封じられてきた天才による訳とも必ずしも言えないのだ。
 そして第三、審美観の養生は一流の師弟間感化、または去りし巨匠の模倣、さもなければ広範深遠な芸術史学によってしか育たぬ以上、いわゆる卒業単位取得がため二流以下の芸術教授とやらがため無理にでもおのれが作風を堕落せねばならなかった悪弊を補うだけの価値は、独習の苦労にはいつでも充分ある訳だ。我々がもし近未来のより素晴らしい、新たな芸術風土を生み出したいと願うならボザール流の既成芸術アカデミーをその権威ともども根本廃絶しなければならない。尤も、この学究的先覚が専ら百年のあいだ大衆一般からの理解を得ることはなかろう。従って我々は漸進的改良、即ち徐々の芸術アカデミー撤廃と新体制の樹立を以て来たるべき現代芸術家養成の環境を整えていかねばなるまい。我々には今でも第一、人文教養は一般大学のいわゆるliberal artsあるいは教養学部で補えることがわかるし、第二、専門技術に関しては、特殊な工芸の専門学校または通信教育のような技術専門の教育制度の意義を再認識し改良、かつ勃興奨励することで養成していけるだろう。そして第三、審美眼については、飽くまで個人の自律に基づく修業法の選択がなければならない。ある人の恩師がある人の反面教師であることは、芸術に限っていえば必然的にある事を思えば。
 尚日本の現状に即するため付与していえば、今では芸術アカデミーが少なからず兼ねているいわゆる芸術家サロンの役割を果たすための便宜を図り、我々は一般大学教養学部中に専門技術伝授の機関と相互提携した各芸術専攻の学部を設けるべきである。そうすればボザール式の古典主義的錯誤から起こっている、この様な用語はあり得ないが審美学的授業の単位制度による、多大な弊害、審美観退行の制度的強要を避けることができる。
 専ら三大基本芸術、音楽、建築、文学に関して言えば、今は音楽大学で専攻させている音楽部および美術大学での建築学部を、一般大学中のいわゆる文学部と合わせ教養学部・芸術専攻・各科に改造すべきである。因みにここでいう建築、architectureとは絵画と彫刻という部分技能を含む。また、映画やイラストレーション、漫画またはデザインといった応用芸術の類は、教育についてこれらの基本芸術の後にあるべきであろう。即ち、大学自身の財務的方針如何によりけりで事前専攻美術者のため便宜を図り、増設を行うべきものである。

自伝

凡そ考えつく限り、その職業が労苦に充分値するものだとも信じていなかった。というのは、思想とはしばしば文章の形で発表するほうがずっと割りのよい仕事なのは知っていたから。現攻、present specialtyの考えを導入する実証先駆けにもなった、と分かってもらう他ない。

芸術論

行為の痕跡という点まで遡ってこそ、芸術の根源的な意図は果たされるだろう。我々が文明都市を築くのはこの為だけだ。いいかえれば我々は生命の記録の為に懸命に生活体の粋を抽象しているのである。君は多くの遺跡のうちにのみ、このような芸術家の努力の痕とその意義を認める。
 美術郷土品として発掘される幾多の作品は都市遺跡の部分の意味で、我々へある時代背景を技法の次元で伝えるのだ。それが天才の手になるものか、あるいは大多数の凡人の手になるものかは重要ではない。というのは、模範的な指導者は他の全般諸工作へ影響を与えずにはおかなかったから。
 我々が文明の記録を後世へ延べ伝える使命には都心が携わらねばならない。実際には、都市計画の指揮を執る建築家にしかこの仕事の創造は不可能である。又、我々は音楽や文芸をこの都市総体の一部として建置する。どの側面が遺されるにせよ、文明建設の造型表出として芸術の史的位値はある。そして伝統に価する創意の結実こそが文明の証拠として芸術の普遍目的になる。

互恵的学業は効率の為のみ。副業は息抜きの仕方。

自伝

実際、私は次の規則を守っていた。科学・哲学・芸術とは異なる体系である。
 Kantを引用する迄もなく、それらは別個の学術体系であって、当然、学習法も教授法も、適宜応用すら異なる。にも関わらず私自身はそれらへ「等価に」参加することを必勢とした。いいかえれば私は、私が経過した学習能率の便宜を説明するために、殆ど忙殺にも値する多大な工夫、すなわち教育学を要しなければならなかった。
 それは批判哲学の簡略化というかたちをとり、私の講義の主たる支柱として常に導引、educationのため利用されねばならなかった。学識の禅譲には不当な援用だとは知りながら、である。生徒への直接な批判はいつでも適切ではない。すべて現場で発生する誤りの原因は教員自分の立場にある。また我々は自らの自律の知性が及ぶ限りについてのみ、分野横断は正当である。他人から教授された学問手段は所詮かれらの個性に合致せずいずれガラクタなのである。
 だから次のように言える。私は諸般に及ぶつまらぬscholarshipを利用して天性の生徒に通学用の無駄な労費を負わせ、青春の貴重な時を暇潰しさせ、換言「教授」なる自己欺瞞のため堂々搾取していたのだ、と。講義は謂わば、学究にまつわる芸能小咄の類に過ぎなかった、とここで明言しても良い。私は世間では輝かしい称号と信じられている天才という言葉を、ある種の蔑称、つまり通常の努力のおかげではなく遺伝子の突然変異のせいにして人間性を隔離するものとして受け取った。そうせざるを得ない事情は世界にはない。必竟、文明思慮の不足の前に無力な教育制度の拙劣に帰する。そして大責任を請け負うのは唯、世界中で私ひとりだと信じていた。それがたんなる気負いに過ぎないとしてであれ、私には自らの塵労を尽くして処方を改革しなければならなかったのだから必ずしも無駄な認識ではない。結局のところ私は教育者としての成功を素直によろこぶだけの余裕を、引退のその日までもまったく持ち得なかった。
 理由を述べる。第一に、研究の問題がいつも頭を支配していたからと言おう。第二にこれが自認する真実なのだと言うが、いわゆる担任後進生の中においてですら、originalな業績を果たすためには独学の姿勢が肝要であるとはっきり悟りきっていたからだ。老いても私は教員なるものに、学際的な慈善心を満たす副業、あるいは盆栽風な私的文化としての価値しかみいだせなかったのだと思う。よく云われるように、先天性は教育によって伸びるものではない。教育によって伸ばしうるのは後天性だけだ。そして後天的に得られることによって達成できる諸学而領域とは、所詮は「普通の程度」に過ぎない。それが、私が教育制度の中ではたったの一度も本物の天才には出会えかった理由なのだといまだに思っている。我々が高度教育によりはぐくみうるのは秀才だけだ。真の天才はおのずから生長し、我々のはるか頭上を自在に飛翔して、史上に滞るあらゆる疑問を難なく解決してくれるものなのだ。

2006年12月29日

分野

活動を整理する便宜としてしかジャンルは内容を持たない。

事件史学の目的

民族とか国家という観念は文明化の方途に現れた。競争は彼らへ協力の必要を悟らせる為の、自然からの課題だった。我々個人は社会において、事件を左右しなければならない。唯物史的必然と個人主義的偶然とが交わり、歴史を動かすのはその一点において。
 しかし君は次の事を知ると良い。好転か悪化か、事件には歴史的意義がある。
 そして偉業を導くものは広範な博識による熟慮断行であり、愚挙に堕するものは悉く無知から来る狂気。我々は歴史哲学を通じて、競争過度による戦を避け、協和の方便へ人民を導く最善の洞察力を得ることができるだろう。先覚者の巧妙な指導が事件史学の研究目的。それは温故知新的実用主義に貫かれた解釈学の体系でなければならなかったろう。

脱亜観

現状日本の東Asiaでの地位を鑑みれば、近い将来に予想される南北朝鮮の統一や中華人民共和国の崩壊と中華民国の確立とに期を譲らず、我々は飽くまで北側に立ち、「殆ど独立州・United Statesの一員と変わらぬもの」として一向平気に振る舞う方が得策だろう。軍備の如何、国政におけるその合理化の仕方如何に関わらず、である。とはいえこれは必ずしも万古不易の法律ではない。
 少なくとも我々にとり、脱途上と先進入とは明治維新以来の宿願であった。それは利己心ばかりでなく、福祉の為の必要でもあった。実際、白色人種とされてきた者以外の先進国民とやらは未だ日本人の他にいないのだから。ならば我々の世界文明史中での一挙手一投足はすべて後輩へ発展の勇気を与えるものだと自覚せよ。それはいかなる異民族無知からの抑圧にも構わず、前進を旨として模範的文明を築く使命である。我々の活躍だけが文明史中に多民族共栄時代への突破口を開くものだと信じなければならない。
 足を引っ張るものには圧倒的格差を見せつけないべきではない。

2006年12月28日

経済学

我々には元より完全な資本主義経済も完全な共産主義経済も不可能。重要なのは世界情勢に見合わせた国策によって両者の中道を執る事に過ぎない。
 我々にはこの経済的中道思想を要約する新しい言葉と、現代社会学理論が必要。仮に私はここで、調整と分配を旨とする経済体制の思考を協調論と名づけよう。事実、アリストテレスの経済学の知識の中には既に前掲の命題が予見されている。専ら我々はそれを適宜現代化して再生するだけだ。

労働者

夜明け前の大地にはどんな影もない。人々は沈黙の闇に沈み、語られない言葉は消えた。それでも太陽は昇る。誰にも止められはしない。君はあたかも自然に起きる。世界の建設へ参加する為の一日が始まったから。文明からの序曲がやがて周囲を満たす。君は朝日に溶けて、その限りない光へ身を浸す。働くだけで救われるなら安いものじゃないかと、君は自分に問いかける。懸命に献身するだけで良い。後は何も要らない。素晴らしく合理的な仕組みだ。社会は生産を能率化する事に集中していく。君は仕事を功利化していく事に集中していく。誰にそれらを邪魔できるのだ。働かねばならないと、君は呟いた。宇宙は私に関わらず続いている。進め。誰の為でもなく、生き延びる為だけに。

人類

地球の塵界に紛れ君独りだけ至高たれ。

2006年12月25日

美術論

私は絵と彫刻が建築の中に家具として消滅すべきだ、と感じる。それらを独立して扱って来たのは過去の事で、我々がかつて分業の形に工夫を凝らしたに過ぎない。誰が造ったかは問題ではなくその環境がある、という事が重要だ。

文明論

いかなる神格的天才と言えども愚者の分子を含まぬものではない。只人間精神には程度の差があるだけ。そしていかなる高貴も、如何なる愚劣もすべてこの範囲に属する。我々が学ぶのはより高級な格式へ到達したいからであり、それは社会内在化された生存競争の型であると言う事もできるだろう。
 我々は学習の密度によって智略を図り、結果として種内福祉を達成する。哲学は言語概念を利用して以上の図式を能率づける便法。その主要な手段は時代適応活動の思想による合理化。だから、あらゆる哲学は主体を離れては存在せず、謂わば常に時代精神に束縛される。この点で、哲学は時代の奴隷。
 にも関わらず思索の方式は次の事を示す。普遍性は仮象であったにせよ、哲学的合理化の中に暫定的な姿を現す、と。定言命令とか良心の声とか呼ぶ我々の理性概念は人間社会にとり不易なるもの。もし思想に価値があるとするならば、愚かさの程度に属する時代内主体へ理性概念を啓蒙し、天才の程度に属する者の道徳を益々普遍性へと引き上げる事だろう。言語概念はこの命題、文明論を推進する為の便利。我々はこの道具を巧みに扱う事を要する。
 究極には意味を取れない事、つまり差延とか、文脈を民主的歓待の次元へ揚棄する事、脱構築とか、いわゆるpost構造主義の分析哲学は修辞学の分野に属するものであり、言語の哲学的使用という文明論の基本命題に答えられない限り誤謬である、と見なされなければならない。

博学

正しい実践理性的見識を導くものは唯、ひたすらな博学。
 正しい思索の基礎には学習の蓄積がなければならない。見解の誤る率を最小化する為に哲学者は科学を推し究めるべき。

現代文学論

Nationalismを自主解体する事が現代政治の主要な目標なのは明白。国家の健全な国際的発展、乃ち漸進的連邦化への潮流は、国際競争における基本的対策。それは人民を尚一層雑種にし、独立自由の世界市民の発生を促す。紛れようもなく彼らの文民的結託だけが国際連合へ軍事権力を委譲させる原動力となる。人々は国家が仮の宿りである事を自覚せねばならないだろう。事実、国際経済の必然的展開は人間から国籍やnationalityを遊離する。なぜなら福利に反する体制は資本の自己運動に不能。いわゆる文学は、この新たな型の民情を養成する為に最も役立つだろう。世界文学は地球人類の統一された文明へ向かう準備の為に専ら、用意されなければならないだろう。
 独立した民族国家の形態は工業生産段階の過途的現象にすぎない。彼らの国力こそはより普遍的な文明結合、つまり国際連邦を産出する為の便宜。例えば民族間の好敵心は産業形態をより高度化せしめんとする競争により、功利の推究になおも適う。
 だが人々は富強先進国に俄然太刀打ちし得ぬ事を悟る時、自ずから民族思想を脱出する。そして産業に関する互恵制を目的として連邦を形成する。これらの結果、現代世界史は連邦同士の関係にまで発展しなければならない。やがて彼らは軍事力が邪魔になるだろう。なぜなら国益を乱すものこそ過剰な軍事浪費と気づくなら。極めて多くの場合、自由主義的統一世界において国際侵略じみた戦闘行為は国益に反する。それは技術水準への反建設的営為であるのが明らかだから。今日極めて限定的にしか販売不可能な武器に対して、利器は常に国際購買力を喚起する。
 以上の筋道を辿り、かの覇権国を含む最終的全連邦は軍事力を法的に共有化しなければならなくなる。現代世界文学がもたらすのはそのような世界像への展開を人民へ情動的に伝え知らせる事。

歴史学

歴史は学術的応用に関する技術革新とその敷衍により姿を変えて行く。産業水準が社会体制を築き、やがて文明の形相を変える。
 だが、唯物史観が歴史の一面である事も疑えない。個々人の努力なしに学術の精錬もなく、その体制的展開もない。
 人間の社会学は世界精神の担い手たる個人と、又彼らの置かれた環境との絶えざる相互作用のうちに見出されねばならない。言い換えれば、より高度の歴史認識には、ヘーゲル的精神史観とマルクス的唯物史観とは止揚さるべき訳だ。我々はこの新しい歴史観を名称して事件史観と呼ぼう。人類は事件の研究を通じて、歴史のより精密な理解に到達できるだろう。

自伝

若い私は海を好んでいた。そこで繰り広げられるdramaは常に寛大である。私にとって、海辺にどこまでも広がった砂浜と、地平線が織りなす景色は紛れない原風景だった。常に私はそこへ帰ろうとしていたのだ、と思う。にも関わらず、文明は都市化を要求する。私自身も例に漏れず、都心へと惹き付けられなければならなかった。私はどこまでも広がった大都市の夜景を上空から見た。超高層ビルの展望台から、いつまでも飽きずにその光の興演の中で繰り広げられる幾多の劇を夢想していた。

医学

人間の訳。彼らは何者なのか。
 精神を生化学的に立証し、形而上学的理性の段階を脱出しなければならない。それは全人類の啓蒙にかなり叶う筈。
 わが医学研究の主要で純粋な目的はこの精神の生化学的解明という興味熱情に支えられる。医術なるものは派生される已。その高度は理論の応用であり、主として後進生の役に立つだろう。

人類学

人類が大宇宙の中でいかなる地位にあり、どんな理由と原因で何の為に存在し、またこれからどうやって生存して行く見込みがあり、実際にはいかなる方途を辿り行くのかを説明せよ。そもそも大宇宙とはいかなる対象あるいは環境で自我はそこで何の意味を持つものなのか。
 彼らの繁殖活動の本質には何の目的と必要があり、あるいは自由と従事があり、人間はどんな経過を以てそこを通って来、また今後行くのか。
 社会の目的と現状の差異は一体何であり、我々が理想を達成するため可能な手段は何か。言語の成立と、統括整理した上でその方便を説き、或いは使用法を普遍的に定義し、実際に用いる例として以上を説話する論考。

合理的研究の為に

先ず仮説を数学的に論証し、後inductiveに実証せよ。
 この基本的な順序を誤れば君は、時間の大半を煩多な形式的作業に浪費しなければならなくなったろう。洞察を好奇より先に置けばこその知性だった。

2006年12月24日

自伝

君が動物園に住まわなければならない事態を想像せよ。実際、自己自身を高めれば高めるほど、世俗の事物は耐えがたい苦痛になる。いずれ我々の目的は堕落にはない。専ら人類内進化は知能の如何に懸けられる。

物理学

数理を定律する思考形態について学べ。論理の限界について知る事。
 なぜ微積分は流率法を駆逐したか。なぜニュートンは後者に拘泥したか。力学の可能性と限界を覚えよ。三次元運動に対する抽象的認識の方法論としての力学は、例えば建築技術を規定するのである。彼は世界を自律した運動組織と考えることでやっと、永久性に関する脱神学的認識に到達し得た。ならば脱力学的建築は異なる重量場でどの程度の可能があるか。相対論的認識に関する三次元建築における応用を覚えよ。
 なぜアインシュタインは確定性にこだわったか。彼が定常宇宙を空想した理由は何か。かの哲学はユダヤ教の神観念と不可分なのである。従ってからに、知性よりも信仰を優先させねばならなかったのである。
 現在までに得られた観測結果と最先鋭の学説とを相互参照せよ。また、量子論はどこが相対論と調和しづらいのか。その理由は何か。原因は何か。何を改善または工夫すれば問題は解決するのか。
 思想をより精密にして行くだけだ。それが知能にとり、最高の慰めである事は疑えない。
 生物が誕生し、盛衰し、進化し、繁殖する理由はなにか。彼らは何を目指す種なのか。
 以上をこなす化学的組成を覚えよ。なぜそれが発生したのか、地球天文の地学的環境を知れ。我々の確率、地球の確率、自分の確率、ユーモアの化学的組成の確率、宇宙の生成する確率、現宇宙の如き微妙な膨張をもつモデルを成型する確率、及びそこでの物理現象を誘導しうる現象論上の確率。暗喩としてのそれ。
 知能が導くのは何か。文明が築かれる理由は繁殖の合理化としての環境改良。知的生命体とは多少あれ自律した時空運動体の名称。彼らが為す所は繁殖の確率を環境改良によって達成せんとする生存活動。精神はこの生存欲求の自律的具現。
 では、他星に知的生命体がどの程度どう分布し今後何年後どう接触し、そのことで文明にいかなる変遷が起こり結局はどうなるのか天文学的に実証せよ。

博物学

なぜ宇宙は膨張しているのか。なぜentropyは増大するのか。人間精神とはいかなる生化学的現象なのか。彼らの芸術が宇宙で何の意味を持って存在しているのか。自然との違いは何か。違いがあるならその理由はなにか。どんな結果をもたらすのか。
 宇宙の終わりを予測し論証せよ。宇宙とは何か。どうして始まりがあったのか。時間とは何か、空間とは何か。
 数理とはなにか。我々はなぜそれを用いるのだろうか。認識とは何か。宇宙を認識することは一体何を意味するのか。Energieが創造性を持つ理由を分析せよ。論理とは何か。我々はなぜそれを用いるのか。
 文法とは、文明とは、人間とは何か。伝達の理由。我々は言語を通じて何を情報するか。思想の意味と限界について論及せよ。
 性別の理由は何か。生物はそれを通じて何を達成したかったか。文明と体制についての関係論を普遍的定義に結ぶ哲学を習え。脱構築する理由と結果。言葉は何を為しえるか。
 宇宙はそれを通じて何を意図されなければならないのか。人類の普遍的地位についての定義を為せ。生と死の生物学的定義とそれを合理化する理論の構築。法律の理想について、その方便性について。
 万物を統合して扱う理論により、彼らが到達する地位はどこか。芸術の普遍的確立を達成する事。

自伝

私は芸術の消滅、つまり普遍美の社会的実現を確かに予見するに到った。例えば、制作には常に「工学的背景」がつきまとう。我々はこの、時代の技術水準から独立に業を運ぶ事を許されない。即ち、科学と芸術は根元で不可分に絡まりあっている。私はLeonardo Da Vinchが既に、同様の課題に深く携わっていた事を知るに至った。同じく私にも、工学のみならず、純粋科学へ、また哲学へと興味が伸びていくのが自然だった。

2006年12月23日

不運

衆愚との接触を可能なかぎり間接化し、かつ遠避けることはかしこい処世だと言われねばならない。名分、すなわち肩書きはこの方便として有用。国際関係についても同様で、上級生は下流へ直接係わるべきではない。それは不効率であるばかりか、しばしば害をもたらす。つまり不運を。

2006年12月21日

男女の別の現実性

現実にどこまで女権を拡張して良いのか判断すべき時には、絶体絶命な状況の義務以外、と答えられるだろう。

2006年12月20日

科学論

科学は証明しうるかぎりにおいて、真実と仮定さるべき体系でなければならない。

世界宗教論

世界宗教の教義をまとめて、新しい一行に託さねばならない。すべて社会体制に残存する不条理に対する救いとして、信教は人間に不可欠なものだ。
 国際社会が発展するほど全人類統一教義の必要が自覚されるに違いない。それが聖人による意図の他の仕方で自立することはない。統一された世界宗教は新興されねばならない。それは宗教学者の手になることは疑いようがない。飽くまで現行世界宗教の特質を分別し、新たな体系を発明し且つ広めねばならない。

理想

君は生きる限り、人間に関わる。とすればその分、彼らを教化しうるだけ教化せよ。

自衛隊論

現代の軍は単に、国際福祉の介護役たる已だろう。

政治学

古代、唐の科挙は人民への官戸からの搾取を意図されていたが、あたかも公平な制度として開陳されていた。
 一方ほぼ完全に仕業が透明になった官公庁組織へと文明化が進んでいけば、争いの元になる侵略の誘引としての個々の富と蓄財への過度の利己性が緩和された暁に、無用の長物と化した政府機能としての防衛兼調整の縮小と消滅を予見しえる。人類間での淘汰作用は、軍拡競争の不経済性に比べた共生し易さから、おそらくこの平和な社会造りの気質を他の侵略主義なものより長期には生き残らせるだろうから。

 法の公共は理解の差によって、人々の意識をより道徳化する仕組みだろう。そしてそれは社会にとって中途の段階をこえない。
 法の理解度は人々の中に善悪の格差をつくりだしている、一つの現実策になっている。立法の原理が道徳の理念からのみ考えだされるのも似た構造だろう。いわば共感知能のよい生態に恵む、将来予知の才覚がそこには選択されるべき、といった人類社会の原型質がありそうだ。

2006年12月19日

Memo

金が本当に尊いものだと信じるずいぶんとおつむのわるくない御人は、墓場に迄それを持って逝くがいい。

金を動かすことは金を守ることより常に偉い。
かの威光は経済ゲームの熟知による。

道徳とは

人間関係自体を道具化しようとする意志はあらゆる悪意の中でも一番酷いものだ。にも関わらず、我々自然の本性はこれを競合心として残した。
 他人を利用すること、また究極的には人間関係の総体たる体制を利己的に援用する工夫。これらは他ならぬ倫理として、すべての聖人君子により正当化されて来たのだ。倫理は社会体制への功利的適応条件。我々はもはやこの悪意を普遍的正義と見なさざるを得ない。謂わば倫理は、彼らの社会を時代の産業水準へ整合づける使い捨て思想に過ぎない。我々は道徳を学ぶこと、乃ち哲学する行為を通じて、万人を奴隷化する方法に尚も長ける。たとえば他人を目的として扱うために必要な、愚か者への丁寧な言葉遣いを覚える。と同時に、実はそこから生ずる福祉として、世界中の人民への啓蒙という副産物がもたらされるだろう。
 他人の思想に浴する恩恵とはつまり、学習の伝承。

文明論

政経は学術より低い体系なのは疑えない。前者は基礎であり、後者は建物である。
 我々はどちらの体系をも必ずやつくるのだが、前者は後者に悉く指揮支配される。それは頭脳と肉体の関係にも喩えうる。より高度な部位はそれ以下をおのが統括下に置き、目的のため律して活動させる。
 而して人間社会の目的は文明であり、学術の最先端は常に社会自他の模式図となる。政経は後からこれらの理想に何とか追い着き実現しているに過ぎない。

政策案内

専らの現代日本が執るべき舵先は、
必要武装を「正当防衛専用」の方便と為し、
飽くまで十全経済力の一事で世界最大国土たる威信を全うする事である。
なぜなら平和主義は最高策意であるから。
それは建前と本音を適宜合理的に使い分けることで無敵国立根本を成す。

国風が文弱に流れることを憂う者には、国際親善試合でのsportsman shipを教えよ。
 軍隊、これは最早単なる「威嚇便宜」の贋物に過ぎず。

現代の実態たる武強国威は、世界スポーツ大会での優勝勢独占にある。

然らば軍備は縮小しうるだけ縮小し、限界ギリギリに切り詰めてよいのである。
 我々は軍人を飽くまで時代遅れの馬鹿野郎として軽蔑しうるだけ軽蔑してよい。

軍人、これは謂わば犬と同然である。
何もかも鵜呑みにし、右向けと言えば右を向く、左向けと言えば左を向く馬鹿力の阿呆は
文明の国土に一切不要の無能劣等種類である。
これらは雇われ奴隷に同然の野蛮猿奴に等しい。
少なくとも批判力によりて世論を為すNEET以下の愚民なり。
 一流スポーツマンにでもならぬ限り、日本国民として最下等の人種として日常から顰蹙の対象に違いない。

あらゆるかの家族からの抵抗を私は天下一人、甘んじて受け入れる。
馬鹿に馬鹿と諭すことは紛れない正義だから。

度胸と競技の関連性

スポーツは度胸の涵養で、限界状況への挑戦を繰り返すことでより大胆になり得る。

学問論

政治経済は形而下学に過ぎない。必要最小限度の忠告だけが政経社相への最良の貢献な由。

見識

人間の見識はどれほど高くても決して高すぎない。浮世に属する実存を有する限り、人間は永劫に成熟していく。中庸性は尚も、その極まり方次第で愚物を遥かに導く。学問の競合は彼らの種内生存力を文明度へ誘導する。蓋し、君はゆとりこそがあらゆる理由から鑑みても、彼らの文明度を養育するのを観る。社会集団は同胞感情を用いて、学習された情報の共有によって互いに競うのである。それを人類の生存のための競戯と名づけてよい。彼らは権益という餌の為に鎬を削り、やがては普遍的組織へと至る。

2006年12月17日

文芸論

自らの文体に唯一の正解がない様に、他のいかなる語の文体にも同様に唯一解はありえない。では、我々はなぜ文法を習いうるのか、と考えるだろう。一つには前例を手本にするためである。だから、ある時代において最も質の高い文芸が、およそ未来の教科書となる。二つには創造の為だった。破格されざる文体はない。
 言語表現の妙は、新しい型を絶えずつくりつつ情報伝達の密度を向上させる事であり、我々が文明を緻密にするほど以上の命題は抽象という形式であらわれる。文学は主として、抽象表現を全人的に示す語法上の手本の役割を果たす。口語でさえ暫しここへ従うものだ。なぜなら記録されない音は破棄されるから。

2006年12月16日

大空

冬のはじめどこまでも清き大空

教授

一流に習うものだけが一流に成る。

2006年12月15日

思索

程度として完璧に善悪へ分かち得ぬことによってのみ、人間は同類的である。この中庸錬性において人類各々の倫理は推し測れる。

仁慈

強弱の絶対差による仁慈は人間道徳の根本。

大学

大学は社会に反するのではない。また、社会の道具でもない。

万能は程。

余裕

賢者が人生へ十二分にゆとりを確保するわざもまた、処世の才の一つ。

道徳として育つに至った理性

人間は社会展開にあたって余暇を拡充させるだろう。最小労役と最大余暇による自由の享受は人類という自律有機体の普遍的命題。
 如何なる宗教といえどもこの文明の解放を破壊することはできない。道徳として育つに至った理性こそは暫定地球環境への適応行動なのだから。
 我々はより深く懐疑することによってしか思考を発達させ得ない。そして文明がもたらす福祉は常に、野蛮不文の混沌たる憂世を優る幸福をもたらす。

性差

分協業は人類文化の基礎だったし、性差はそうして生産手段へ合理的に体制づけられた。
 我々に自覚があれば、却ってこの便宜へ最適化する事により尚一層権益を拡張することも出来よう。事実、彼ら、時代の性差を全うした個体だけが生き残るのだろう。
 性差の流れは仮に、凡そ生産手段の技術革新によると見なさないべきではない。
 自然は知能を性別に創りたもうた。
 性差は人工的だが、条理に適うかぎりの自然である。

2006年12月14日

協業

不効率な協働をしなければならない以上の不条理はない。

2006年12月13日

専門

今の人生を100年と見積もっても、それだけの閑暇に為しうる研究は高が知れている。則ち、ひとは必ずや他人と分業せざるを得ない。そして協業法の巧みなほど人は大きな達成に近づける。一方で君をそれらへ最適化する方途が専門であることを認識せよ。

少年老い易く学成り難し。では彼らが学ぶのは何か。

2006年12月10日

間近

いい天気澄んだ青空間近な冬

2006年12月9日

詩歌論

全人類の魂を救済することを詩の最終目的に置かねばならない。

音楽論

西洋楽音は目的でなく、専ら音楽調律のため利用さるべき道具である。それはつねに仮設的なものであり、予てより練習されてきた抽象の手法でもある。
 結議、純音だけが唯一普通の音色を発する。万世の共有手段となりうる、本質まで音波還元された純音だけが現代音楽の基本原理にふさわしい。蓋し、純音の組み合わせだけが宇宙的律動を精密に顕しうる。そしてその様な楽曲だけが本来の未来派の環境音楽を隈無く形成する。

美術史論

ルネッサンス美術を伝統とみなす考えは単にボザール流の仮設されたそれに過ぎない、という正見を持つを得る。さもなければ現代美術を相対化できない。
 文化自体は多元律的。我々は社会情勢によってここにしばし等級づけるが、実際には、めずらしさはその社会資本格差によってしか育まれない。そして多様系は、審美観なる舞台の上にはまるで平等。乃ち、我々に伝統の道は複数多層にある。美術史は企画者に意図して作られるものであり、必ずやかねてよりありしものならず。
 文明の先鋭端は世界文化全体の傾向を否応なく導くものである。なぜなら教養の余裕度が作品の出来高を押し上げる。だからこそ伝統はつねに覚者による、おのが趣味の権威づけという作為。それはa prioriでない。飽くまで改編できる後天的なもの。美術家が為し得るのはこの流れをより条理よく普遍化する指向のみだ。最大多数の最高幸福たる文明の環境指導以外のどんな目的も美術史になし。
 美術史は多彩な傾向をなんらかの意図のもとに再構築した虚構にすぎない。我々はみずからの属する文明を理解するため応急にその試みを考え出した。しかしながら、大河的流れの中には決して数えきれない種子がある。事実、美醜の判断はここから宝と芥とを選別し、より綺麗な環境をつくる便宜。趣味とは生活様式の自意識的批判である。
 彼らは芸術を通して、人間たるものとして暗に誇りうる感性を有して世間の美化に寄与する者かどうか、絶えず試験される。事実それは職業でなければ文明人教養の類として必修。

有名

勲章は積極的に避けるに如くはない。なぜなら他より与えられた名誉はすべて、何らかの別の手段として仕組まれた偽造にすぎないから。誉は実力からのみ発する。そうした本物だけが時流にも永久消え去らない。

2006年12月8日

秘蔵

外人へ文化的玉を教えるなかれ。国体を賭してよく秘蔵すべし。

芸術論

都市の部分的出来栄えである限り芸術作品はみな錯覚に過ぎない。が仮構であればこそ人間をより普遍審美観へ導く。なぜなら事物は思想におき限定されねば認知されないからだ。でなければ宇宙なる偉大な創造以外の何ものも建設作業できなかったろう。
 審美観の養生、つまり普遍人へもっとふさわしい生活態度としての趣味教養が芸術という方法の人間目的である。これらは普遍都市を計画づける精神の意志である。

開発

天才性を開発する為人は学ぶのである。

建築論

文明の最終目的たる至宝は普遍都市である。この為だけに自律有機体はある、と結論しよう。繁栄は飽くまで目的ではない。至宝を永劫のもとに配置づける試練として、我々唯一の方法に過ぎない。

生活

名誉心、これはまだ低い欲求だ。人は天命を実行するために飽くまで無私であらねばならない。中庸の心矩が極まれば個性という信念は全く重要ではなくなる。最も偉大な人物は又、同類競争を超脱した普遍人だろう。彼の仕事はみな人類史への献身である。事実、自由律だけがこの大義を自覚させる方便か。
 文明は自由の結婚生活である。人間は文明舞台の役者である。より立派な役回りに就くためには、恣意を自らいなして道理に己を拘束しなければならない。だからして社会体制は個人を最小単位と見なす。戯れることを侮るなかれ。人間至善の本性とはより面白く遊ぶことだろう。高等遊戯とは神聖さの由縁である。

芸術について我々が真に対照すべき先例はすべて、古代文明の遺跡の中にあると私は思う。なんとなれば同時代の流行は浮世をわたる便利にすぎない。真の傑出した天才だけが、歴史より普遍的な匿名性をその作為において独創する。たとえ遥か後世に遺された幸運な結果が彼個人の制作に預からぬことであったにせよ、あらゆる文明の建設はかの模範の上に出来上がったもの。彼の神格的尽力は天性を十全に発揮しようとする。ならば傑作への崇拝はことごとく皆、とある文明を顕現した思想種を世界遺産として記録しようとする本性だ。知能の好しあしは千差万別の芸能をあらわすが、文明の粋を極めるのはそのうちの最高種だけである。他のあらゆる才能は模倣あるいは影響によってのみ社会建設へ参加する。芸術は趣味如何の建前のもとに環境改造の適応性を試験する制度に過ぎない。我々は美醜の別という概念を利用して公に議論し、この効率を図る。しかしながら崇高さ、つまり超越美だけが他のなべての駄作から傑作を見分ける特別の感覚である。以上を鑑識すれば我々が飽くまでも信頼し、大事にしなければならないのは崇高な作品だけだ。その直観は、単なる個のわがままを超えたものとしての、極度の合理物証を意味するから。そしてこの崇拝が文明度に則して広く合意形成すればこそ、世界遺産は命の結晶として未来へ栄光を照らし出す。むしろ警鐘しよう。我々自律有機体が繁栄によって目的とするのは、実はこの栄光の延長そのものである。謂わば希望として。繁殖を安寧に導くのは、未来永劫の人間ならざる世界へ向けた文化的貢献である。芸術、あるいは、ここで云うところのその近代理念を超えた希望の種としての崇高な象徴の創作とは、我々が我々自身の満足のためだけでなく、我々のあとに生き延びる人間ならざるものへ向けて贈り物をするための努力ではないか。尤も、人間の誰にもこのイデアに審美判断を下すことはできまい。彼らには命の生存欲求の演繹としてしか文明の至宝の意義を知れないから。

建築論

私は建築における普遍合理主義を信じる。土着性は道具だ。私は次の命題を審美判断する。すなわち、時代の工学を用いて社会情勢における理想をひきだし、文明の進歩を根気よく導く事を人間自然の目的と見なす。だが建築家たるものは、以上の召命を決して狂信するなかれ。臨機応変なればこその職能であり、折衝自律の立場であってのみ創作できる。

寡作

私は芸術について、寡作の高級さを信じる。創作における極度の優秀性が、理想の審美目的へ向けて必要な処世筋を最短で進む様な道理から育まれることを悟る。傑作を模倣し、後に量産するのは機械および後生の仕事である。

2006年12月5日

修養

文人の生涯にとって胃袋が要である。胃さえ強健なら修業の成就は堅い。だから若いうちからよく咀嚼し、穏やかに食事する習性を身につけるがいい。たとえ戦時中であれこの癖を捨て去るベからず。

矛盾

学問をすればするほど無知に目覚める。だが智恵はそうして得られる。

芸術論

過去の名作というものはみな、芸術家本人にとってすれば手本になるかさもなくば反面教師となるかしか価値を持ち得ない。彼にとって既製品は例でしかない。

2006年12月4日

暴力と文明

日本なる小国の大いなる世界史的使命は、経済実威以外の如何なる軍事的権力をも持たずに、世界覇権の批判的善導文明となることである。それは既に可能であるばかりか、間もなく現実になるだろう。実際に彼らの邪魔をするのは軍事的威圧以外のどんな暴力でもない。

2006年12月3日

服装

東アジアの為の服装流儀を立ち上げる事。東アジア人の体型、気候、生活様式に適合した服装を開発新造せよ。洋服ではなく、和服を流行の最先端に乗せ、やがて日常へ敷延させよ。

あき月

あき月澄んだ夜空のむこう側に

音楽論

西洋音楽における比例級数に基づく楽音の建設は文化の一縷にすぎないと認識せよ。それが多少あれ科学的な裏付けを伴ったが故に西洋音楽音は普遍性をかつて主張してきただけだ。いいかえれば同じ手法を援用して他の音楽文化を普遍化する手段も可能である。何れたがわず我々は現代音楽に飽くまで相対観を持ち込まねばならない。潔語、楽音は文化音階の一種別に過ぎないのだ。
 現代音楽家の大いなる使命は史的覇権を破格し続ける戦いである。

2006年12月2日

伝播

高尚の階層で実現された文化はやがて一般以下の大衆へも自然に伝播するもの。先導者はこの敷衍効率にかかづらうことはないだろう。媒介商売は二流以下の仕事。

破格

日本の文脈は西洋諸国のそれとは異質であり、応じてdeconstructionといった観念も我々の元では適当に変換されねばならない。私は破格という用語にこれを当て填めたい。我々に道に繋がる型の考えがあったのは確かだ。
 型破りのことをしばしば破格と云う。そして日本語において使われるその内容は、いわゆる脱構築で西洋人が意味しようと試みる語彙に近い。尤も我々は脱構築という語彙を破格とは別に保った方がよい。両者の間に横たわる溝が我々自身の文脈的自認を促すから。

文脈

世界言語が伝播する迄に文学が為し得るのは只に、各言語観念の微妙を保存養生しておく事に過ぎぬだろう。事実文学が民情の操作を旨とする社会活動である限り、それらは同胞意識を啓発する方途に臥される。
 普遍概念は各言語による表現では不完全な侭である。そこには国際差延の生じる余地がある。翻訳が必要なのは伝達の為。が文学は共感を目的として世界人類に和合を促す。文化的微妙はこの効率の道具。
 世界市民の互譲は相手方の文化尊重に於ける。だから織物は文脈づけられねばならない。作物を歴史化していく経過にしか文明はあり得ず。

自伝

私はいずれ動物的生活を侮蔑していた。それらは、果なく亡び去る戯れに過ぎないのだから。実際それらは私の知能を満足させるに充分な容積を持たなかったのだ。芸術と学問の神髄にある理想の趣き以外のどんな現実も、迫真をもたらさなかった。

社会機構

社会此一個のしもべなり。
 彼らの生活に実体なし。唯、文化の粋を顕す一条の実をともさんが為に、余裕の区域を拡大せしめんが機構なり。
 しかして彼らは後悔せず。究極理想はあらゆる労苦を一度に救済する。

精神病理

すべての精神病理は言語の病に過ぎぬ。抑圧そのものがそうある様に。
 君は文明人においてこれらすべてが、治癒というよりも解決されているのを視るに違いない。

審美論

芸術は少なくとも建設的にあそぶ為の方法論である。我々はこの結果を美と見なす。
 作品における建設性が遊戯性を上回って表現されたとき、少なくとも彼らの感性の敏感の度合いに応じてそう感じられたときその芸術美はむしろ崇高として、彼らの感情を抑圧から解放する。文明の建設は究極的なあそびだから。彼らはそこに人間の戯れを超えた神格的な遊びを観るだろう。

Occidentalismの皮肉

文明を目的とせざる者、悉皆旧習陋弊に欺かれたる野蛮衆奴なり。
 簡明に真理を説けば、形而上学はすべて古代人猿種族の児戯に等しく、われわれの命題は永久にそれらを啓蒙主義に用いる文明化。
 伝達理解を促進する工夫以外にいかなる哲学の命令もなし。

同胞論

現実の国際抗争は文脈の交錯にまつわる歴史的知的戦闘行為の氷山の一角に過ぎない。換言、彼らは文化同士に優位づけの論戦を頑張る根気比べの結果として文明の先轍を踏むのだ。翻訳はこの主要な技法だった。それは語族間に格差を生じる主要な側面だったし、今後とも必ずやそうだろう。
 同胞は語族の結束民情の刺激によって発する倫理だった。
 我々は次の事を自覚しないべきでない。文明は文化間競争を方便と為す。又、人類は文明を遊戯と見なすだけのおかしみを持ち合わせている。
 先ず啓蒙の効率は速巧翻訳程度の可否如何と言うも可なり。よって彼らの戦争は文化的伝播に対する適応の巧拙が極端化したときに生ずる同胞の不和に他ならない。
 極論、地球言語のみの世界なら平和は必然の条理に違いない。同胞意識を左右するのは彼らに託された知的民度だから。

教祖の心得

衆愚の崇拝を合理に集めるには絶対宗教を方途にせぬべきでない。
それは形而上観念を偶像化して馬鹿の信念を共同体的に結束する。
然ればこそ善用もしうるのであった。

 また宗教の段階を調整して説かぬばならぬ。

自然崇拝→多神教→一神教→法治国家主義→自律大義→実証説話→共済

これらの如何なる段階に相手方の徳義が達しているかを慧眼して、
より高次のlevelへ話題を興味づける工夫に長けるべし。

報道と大学

報道は現代の道具。大学は水準の為の機構で、journalismは教育の為の機構。自由の原理は自律。

現代思想

地球資本に対する勢力は地球資本の流動のうちにしか生まれはしまい。彼らは福祉の最大化のために働く。それが地球史的抗争について格差を方便と為すのすら自然である。彼らの目的は文明であり、それがもたらす福利にいずれ享受することによってしか知的生命たり得ない。世論の啓蒙という先進命題へあらゆる塵労を注ぎ込む他に誇大化した地球資本の自己運転を操作する仕方はない。
 学と名づけられて偶像化されうるところの芸術に限って文学は専ら未だ、民情に拠りて世論を最大和平へ導く最高の手段たりうる已。なぜなら思想は言語観念である以上、ことばによってこそいちばん伝え易い。哲学と文学とは同じ成形手段を持つが故に容易に時代類型可能であり、比較的相互変換もたやすい。
 現代思想が為すのは非道な国際搾取に対する世間義的圧迫であり、人道的福祉行為に対する国際的称賛の煽動。

2006年12月1日

徳性

人類が種内でしか働き得ない事を想えば、文明は適応行動の共同体的集合に他ならない。彼らの哲学は彼らにとっての哲学。特にその言語概念に依存する限りにおいて。それなら建設は集合に対する導きの是非議論。哲学とは啓蒙。また実際に哲学は道徳を表象するものであり、遥か古人が考えた如く智恵を庸する作為ではない。
 以上を信じない者は科学分野を研究する方がいい。哲学は彼らの処仕方を批判する徳性の発露にあって、西洋字源の如く智恵を要覧させるに足る営為でない。よって哲学を習うのは体系的ではあり得ない。彼らが自らにとっての善悪是非を考え続ける為にのみその定義はある。

理想

知能を目的として高める作為乃ち理想は彼らの種内競争を遊戯化した結果。
 実際、経済はこれを互恵的に用いた仕方、政治は威信的に、学術は求道的に用いた仕方である。それらを批判づける方法が考えられるべきだ。

但し書き

この本棚の分類は便宜的なものである。手間どらぬ次第に適当に投げ入れたfolderにすぎない。興味あらば後生の碩学により、検討の余地を願う。

2006年11月30日

勉強

万世不出の大天才の名声を幾ら欲しい侭にしようとも、道に限りなき以上飽くまで心骨を削り勉強しないべきではない。健全とは勉強のしやすき体を鍛える工夫にさときを云う。

2006年11月29日

科学

科学は順番に消化していく事。一度に複数の分野に手をつけてはいけない。ひとつずつ片付けるのがもっとも効率よい。

音楽論

わが音楽は構成ではなく、指揮である。

国家

文化的多元性の維促は種的適応行為。なぜなら単一化した世界に対して多様系の可能はより適応的。
 この為に必要なのは国家の保健。連合の形成に伴っても尚、国家はよく象徴として保たれねばならなかったろう。国家は目的ではないが、少なくとも手段として文化の違いを制度としてつける作為に寄与している。

中道

世界史に対して彼らが為し遂げるのは常に、文明建設だった。破格により再批判する対象は計画。資本主義的功利による福祉の充実でしか計画を推進する事はできない。民社主義的修整は実用的でなければならない。中道主義はこのような、実態としての現代文明で啓蒙と福利とを追求するに適当な思想。

2006年11月28日

建築論

再生鋼材の用途やスクラップ&ビルドの伝統は、建築寿命の使い分けの問題だった。簡便性は仮設性。

勉強家

勉強家の若者よりこの地上において幸運な者はない。彼らが成長するに従って益々この仕合わせを感謝するに至る。その学識に則り、凡俗を指導する権威を段々獲得するから。

2006年11月27日

建築論

耐用年数と芸術性の関連。適当な寿命に相応しい様相、用途との隔時代適合。時代は目的ではなく、彼の置かれた利用法。素材・構法・社会的要請は彼の総合する為の道具。築かれるべきは審美理想的象徴。

2006年11月25日

街の音

X'mas街の音

2006年11月24日

行動順位

知能行動に比べて、試行錯誤学習は物事の前半に集中していればいるほどに合理。

勝敗

成功の渦中に浮かれるより失敗に甘んじている方がどれほど居心地よいか悟っている人物は稀である。実際の所、人生肥料の大部分は失敗の間に耕される。だからあなたは悩むべきだ。どれほど長く失敗し続けて行けるのか、を。事実、次々とおのが限界以上へ挑戦しなければ繰り返し敗退するということは絶対あり得ない。巧く負ける事は下手に勝つ事、更に訳なく勝ち続けるより遥かに名誉である。

2006年11月23日

初雪

たのしみな初雪を待つうれしさよ

正邪

あしきもの、人類の良識を踏みにじる悪態。彼らを導きうるのは唯、少数の聖人だけ。衆愚より憎い如何なる対象もない一方、憎悪とは愚者の為にある用語である。

芸術論

芸術家の有能さは、時代潮流に対して与えた批判の大小で測られるもの。
 特別、審美力に優れた傑物ならば、芸術の本質へ踏み入ることで後世の先々へ迄も文化威力をはたらかせる。

文芸

文芸にとり、多かれ少なかれの不幸の述はみな、幸福へ不可欠だった。

理想主義

私は文学なるもの、文芸において次の事を発見した。私は文芸が言葉のあそびであることを知っている、それがゆえに合目的性を満たすのである。そして理想主義によってのみ、文明の崇高は創作しうることなのである。
 私は最初、現実主義を追求していった。有り得る物語を文章の眩惑の中で可能なかぎり、巧みに表現しようと試みた。これはルネサンス芸術一般に言える事ではある。だが君は写生の根本的不可能性に気づく筈だ。そしてあらゆる文章を詩化するまで抽象しても尚、その究極の形式にはどうやら到達しなかった。理想主義は文芸の最終目的である。形而下的生活の仮想であるにせよ、形而上的修辞の耽美にしても、それらの用いる仕方が一点の理想へ導かれているときにのみ、文は崇高な芸術となる。
 私は理想主義という言葉へ文化の終極を観た。専ら、文芸の制作に社会的価値があるとするならば、その文明性による。言葉遣いを一定の時代拘束から外すことで現実とは相異なる世界観を現し世へ表出することこそが、文学の義務なのである。私は創作の中で構想力のかぎりの理想的環境が次々と実現するのを視た。実際のところ、それらは私の精神が創造した理想的にこそ経験しうる新しい世界だった。逆に、現実なるものは今や単なる創作用のたとえに過ぎなくなったのである。私は人生にではなく、文学世界へ生きることで完璧に審美観の究極が充たされるのを感じた。そして如何なる意味合いにおいてすら、身体的に体感すべき生活は第二義的なものとなった。凡そ哺乳類の身体で産まれた人間の、社会環境の絶対不条理さにおいて、この文士的な暮らし方が本来的であるのを覚えてさえいた。
 私の文学は理想主義の確立によって現実世界の上位に立つ次元を獲得した。そして後世の文明はわが理想を模範とし、結果としてよりうつくしく生活するであろう。

2006年11月22日

芸術家

趣味に命を賭して、何事か崇高を探る人。彼らの慈悲。

負債

愚かな人類め。奴らが私へ金を支払わないことでみずから責めを受けているとも知らずに。この負債は死後の名誉によってしか清算できないだろう。高い買い物だ。

2006年11月21日

論理

知能の発達による文明の啓発は永らく人類血統の最終目標だったし、これからも随分そうだろう。彼らの理想性は非人間的ですらなかったか。
 我々が宗教の形勢に沿って中世、追求してきた神格はこの知能に因果する理想性だ。いいかえれば人は文明を破格する様な孤立した求道、つまりは非動物的純化を通じてしか人類進化の筋途を辿りえない。文の問題が迫真するのは理想の破格性において。数字・記号に対して文字が果たす範囲は著しく人間的。話の次元は現実的に過ぎないから。
 文と話とは親類。両者は言葉を以て媒介される。もし話が文より卑しい或いは現実的でしかないならば、その日常伝達性に原因がある。文は反対に、永久性への適度の故に、より理想的とみなされて然り。

知識人分析

人間社会へ上中下の無限差異を生じて機構の効率を計る知能の意義を悟れば、その知徳技、つまり真善美に及ぶ精鋭養育が又、人類時代の究極目的となることも自然なる已。
 文化の粋はあらゆる社会体制の結果に他ならず。経済是一個の豊富化便利なる哉。乃ち、社会一般文明の有閑余裕の増幅は彼らのもたらす功徳である。その無意識内需は文化人種へ貢ぐ関節の奉仕。
 逆説、必然文化人種の個人利益へ淡白なる原因を諭せば、最上等知能実証として地位・金利・名誉を積極自棄する。
 なぜかなら彼らの人類支配を合理化する為。地位は政治、金利は経済、名誉は学術の特性であると。三等の区別は、もっとも単純化すればこの職能的威力に由来するのでないか。

説話

愚衆風紀の経済へ宗教育至極緊要なり。

これを除けばいかなる社会とても安心の余地を入れず。

研究心

物理学的な野心、万有理論への夢。君を科学研究へ誘なう理想。

2006年11月19日

作文論

言語的不確定性の問題を解消する為に温故新規の手法を開発するを得る。
 文化的文脈に忠実な語句を改修すると同時に、微分して止まぬ語彙の幽閑へ親切の地理を述べるがよい。
 歴史到達は上記の手際を巧みにすればするほど強まる。
 非情にも確立の程は則ち感識的でしかない。暦程において趣味の左右は作文にとり二義的。還元すれば、文体趣味如何は教養の格差に帰着する。

2006年11月16日

長袖を着ているひとや風邪のひと

2006年11月15日

自伝

理想に生きる事。

信仰

人類達へ赦しを与えよ。

命の声

望む迄もなく彼らは、地上の子供に過ぎない。目的を持たぬまま愛情を理由に育まれ続ける幾多の新生児。どんな不条理を体験したにせよ、人は彼らに含まれている。そして常に社会改良へ奉仕する運命を以て任じられている。いかなる便宜を執るにせよ君には、参加しなくてはならぬ集合がある。絶望する勿かれ。その組織は文明を内容して絶えず、自律というものを包み込んでいる。どうしてそれが救いではないものだろう。人間は限られており、一歩はみだすこともできない。もしそうすれば狂気の名の元に排除されるのだから。知能はある特定の適応形質を推究していくのである、地球の種。人間性なるもの。我々はなぜ人間でなければならないのかと聴く者があった。そう疑問をするのは宇宙に唯、彼らしかいないにも関わらず。思考形態、君の同一性、そして同類の為に何を施すというのだ。理想へ高められていく己の魂をおもえ。たとえむなしくも虚構であったにせよ、君の思想にしか希望を産み出す原動力はない。だから文字を学び、困難な命題を習い、高尚の真実を解き明かせ。

夕べ

涙雲がそよぐ窓辺で鶴が宙に舞って泳ぐのを視る
旅先の店で渡された音楽が静かな夕べに鳴り響くのを知る
月の輪がどんどん広がって暗闇を侵してしまう
水中に流れる鮎の尾びれがはしゃいだ瞬間大気の彼方で繋がった虹が解けた
次第に歩き出す沢山の旅人の誰かが観た夜空には星が瞬く
等倍に分割され続ける物体が示す瞬間は二度と帰らない
岩場で住まう蟹の親子が志願した先々は現代であった
スコールで満たされた草原を走る一線の神風

2006年11月14日

Memo

Homelessの救済しかた。

平家

祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。裟羅双樹しゃらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうじゃひっすいことわりをあらわす。おごれる者久しからず、只春の夜の夢の如し。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。

人生の不可逆さ

一個の人生は取り返しの効かない水彩画の様なものだ。よく手順をかえりみずはやまれば余計な染みをも垂らしてしまう。
 尤も、型に嵌らぬ人間性はその余分の品にもよる。

道徳性の相対主義

人間が種内的な生き物である限り、つまり地球生態系に属する進化の筋書きである以上その最高の徳度もまた、種内環境への適応力に属する事柄な筈だ。
 仲間の為に殉死することや国家への献身といった構造主義的な行為がしばし礼賛されるのは、上記の理由にそのまま基づく。
 集団と個人を時代にとり最良に調和させる倫が道徳と呼ばれる共有概念ではないのか。
 自律精神の目的性を至上と視たカントに対して、私は道徳性の相対主義を持ち込まざるをえない。それが近代の倫理的世界を瓦解させる認識だとしても、更なる高みを目指す行人の歩みは止められるものではないだろう。

2006年11月13日

音楽論

音楽芸術は都市環境の最適な背景音となることでその使命を全うするだろう。

充実

人生を理想に捧げよ。

ゆっくりと光が舞ってきて、赤く染まった山の端を均一ならないにじみで充たす。夜の奥から聞こえる静かな声がやさしい人達の足跡を鈍らせてしまう。
 秋野原になびく幾重もの雲の一枚に乱れて懐かしい空が散りゆく刹那、君が代もまた杞憂の風犠に溶け、流れ去る。くるくると舞って大気のうちにその標識をあらわす落ち葉。更々になくも桜の情け。人々の喩えにも似て藤の原。咲く先々では果てり、誇り、忍ぶ。調度の向こうへくぐもる笑い声。綿毛を蒔いて花びらの夢中を知るたんぽぽの魔法に掛る。次第に明ける朝方のまで柳の渚を伐る未来。いずれさすらい、知らぬまでもなき由を聡る。そうして行く。

2006年11月12日

物理学

不可視性、センサーの仕組み。磁波と世界。

2006年11月11日

告白

私たちは神格を実在化してはならない。それは飽くまで超越論的仮象なのである。

理性

歴史との格闘に終わりはない。可能なかぎり現世を軽視せよ。それは有限であるから。
 栄誉の他にいかなる褒美もなし。若いうちに老いるべし。老いてなお若くある為には。
 徳は飽くまでも身を護る。長寿であるのは道徳性の傑出に等しい。なぜなら理性は我々種内にとっての理性であるから。

志を供にせざれば相友に図らず。だが、もし君が抜群の傑物だったら。

2006年11月10日

クリスマスの夜

麻美はその事を知らなかった。だからもし訊かれたとしても直ぐには応えられなかったろう。ひろは黙ったままだった。店内を照らす淡い暖色の間接光が二人の顔の造作を明確にしていた。グラスの中で氷が動く。からん、という効果音と同時に麻美は、できる限り率直にそう言ってみた。ふるえる声は少なからず上擦っていたが、あたりを包む空間はただ、虚ろさの深度を増しただけだった。一拍子をとり、目の前の真紅のワインに唇を触れてからひろはそれを聞くと、少し驚いた風だった。瞬間を置き、眉を微妙にうごかして返す。私は云う。待ってましたというばかりにひろは不快の表情を浮かべる。もう圧し黙るしかない。何一つことばには出さないけれども目にはみえない視覚線を通じてある感じが伝わる。私は遂に声を荒げた。口先のとがるのが分かる。彼から視れば、ごく醜い仕草だろう。彼は真っ赤になっている。隣のとなりの席に座っていたカップルがひそひそとこちらを指して笑いあった。ひろは懇願している。そしてもう一度、テーブルの下の足を浅いヒールで軽く、踏んでやる。苦笑いしながらひろは応えた。顔をのぞかせた仔猫がにゃあと鳴いた。

文芸論

知明の散種は文化的に経営されねばならない。知的所有権の主張は搾取の為にではなく、福祉の為に必要。究極の慈善は寄付よりもっと啓蒙であるのみ。あらゆる権威の市民化が文化の目的でなければならない。どの母語観念を用いて哲学を為すべきかは以上でよく説明される。乃ち、思想は文化間貿易において、初めて存在する。だから君は最も得意な語系で実用に為せ。哲学的思索により伝承速度差に従って語族を育む理由は共栄でしかない。だが恐らく又、文芸がこの文明格差を拡充するよう働くのがみられる。いいかえれば哲学に対して文芸は自律する。逆も然り。民情の慰撫養成は、敵へ塩を贈るような義功に対して保護的に役立つに過ぎない。
 語義案配は、まず哲学探求の同時代に常駐する世界言語への翻訳最適化文章にて為すべきで、つぎに文芸制作の文化の微妙差異細心へ向けた養いがいる。両方の文は知明散種の便利について互恵する。

2006年11月9日

美術論

自然美を強調する為には自然色彩をむやみに用いる必然はない訳である。寧ろ、対比と同化との微妙に関する適切な選択が、綺麗や崇高の情感を喚び醒ます。絵画・彫刻・建築としての空間造形の極意は、作為の環境適合にある。

公園の素描

星屑が墜ちる夕暮れどきに、子はてくてくかわべりを歩いた。いくつもの星の点が散れた。夜の背景にはネオンサインが元気にまたたく。 公園の遊具がくるくる回転している。まるで神がもてあそんでいるみたいに。事実そうですね。風の色がこの上ない薄青に染まって、感情を揺らす。大きなものがなだらかな軌道をすべってするっ、と暗黒へ沈んだ。魔法かなとかんがえた。しかし、気のせいだろう。ゆみは歩みを進める。犬の目線。どうして公平さを信奉しない。わたくしどもは飼い主へ忠義なわけなのに。街灯から視ると。あるけアルケー。川魚から看ると。やばいな。ゆみはぶいぶいいわせて走り出す。犬は呆れて笑った。ばうはうす。超人が飛び込んできて舞台を惑わす。やめれヤメレ。あほどもアホども。ぼくが救う地上だよ。太陽のレビュー。やめとけ。つまらん。散歩が導く趣味生活が楽ちんぷんかんぷんである。へいへいへいぶいぶい。夏休みの夕陽が秋の夕暮れに重なってくなくるなあ。どちらもおなじ幸せなオレンジなのであった。おかし。はゆしまばゆし味気なし、やばし。吐息白帰宅記、川の流れの様につらつら好し。

文体

鮮やかな半島に穏やかな太陽が照り返す頃、少年は海を眺める。山奥から響いてくる文化の音が耳元に春日の彩りを添える。運び続けられる空模様には幾重もにたなびく八千代雲。花びらが散り、少年の目の前を満たした。それから彼が大人になった。どこへ去る船か、飛鳥を連れて流れてく。もうかつてのように胸を震わせることもない砂浜の小さな湖に、子どもが遊んで舞う。君はそこに何の真を視たのだ、繰り返される命の営みのかなしみを。それとも失われていった夢の欠片を。海の向こうからまれびと来たりて、新しきもの、不吉なもの、なべてのものをもたらしてくれる。だが、そんな風景にもいつか終わりが来る。老人は月の沈む明け方の地平線へ自らの骨を投げた。波は弓なりの曲線を打ち寄せて時の渦を描いた。深々と降る細雪が墓碑に積もった。

引用

――流れの中で、我々は今どの波にいるかは大きな疑問です。アイゼンマンが言うには、まだ500年前に始まったルネッサンスの波の中にいる。そして一気に次の波へ越えてくれる天才を待っているんです。みんな電子メディアの新しい技術に期待しているけれども、本当にそれで変わるだろうか。私はそれに一番興味があります。――

福祉

君がなぜ生きているのかを問え。ただ福祉の為に。

2006年11月8日

環境倫理学

無駄の制度差を批判せぬかぎり、環境に対するいかなる寄付もない。ネオン街がidling stopより浪費でない証明を為せ。彼らは自然を搾取するが、同時にその為に恵与もする。試しにみよ森林伐採と菜園趣味を両手に持つ生物を。もし資本主義に疑念するなら、彼らの自然愛玩は偽善。制度化された環境破壊は我々の社会的必然から生じた以上、正義といわれる。
 寧ろ次のように考えよ。自然の回復は資本の福利からのみ制度化される、と。なぜなら我々生物自身が地球に適応しない行為はありえない。理性は昇華された本能に過ぎない。
 君が少しく理性的ならば、資本主義の論理を公共福祉の大義還流へ調整的に繋げねばならず、その為には文明化の他にどんな方途もない。配分をではなく、是政主義的調整を向け換えることに現代論議の核心はあるだろう。なぜなら資本の発展は経済的合理。たとえば夢中夜間に瞬くネオン宣伝術を自主抑制するより先に、広告環境税を徴収するがよい。交差点の待機を彼らへ停止させる努力より先ず、高速道路税から交通網を整形し治し人車分離し停止回数を失くすがいい。
 公衆世論間に、制度化された無駄の差分を調整する趣旨の議題を提案せよ。

認識論

人類の種が一つであるならばミトコンドリア・イヴ、人種とは風土適応解か。地球遊民において人類はしばし参照されるべき文脈にすぎない。文脈の破格は常に進化だろう。出身は民族的性行のしるしであり、そうしてある時代までの個性に彩りを添える自然からの工風だった。
 文語の領域で先ずこの全人的覚醒が謀られたのは文明の必勢だった。彼らを絶えず再生するものは古典。労働奴隷ならぬ自律文民の認識から市民化は始まる。

夕陽ヶ丘

月の輪が世界を囲む夕べに舞う風に乗る雲。落ち葉が飛んでいく景色のどこかに、彼らは歩いている。午後の陽気の名残りはまだアスファルトに蓄えられて、薄い上衣だけを重ねて歩く人にも心地よい。いなか町には物語るべき事件もない。或いはそれも真実かも知れない。彼らはなんの変迭もない行人にすぎない。大都会が絶え間なく供給する情報群。そこから随分と離れた所で、森からたちのぼる霞がかる空。彼らの会話はもうすぐ暮れる一日よりもずっと、儚い。だが、誰もそれを責めはしまい。芒野がふわふわ揺れる風景のすき間に消える影ぼうし。わんわんばうわう言う犬の鳴き声だけが向こうから聞こえてた。物語はない。小説でもないちょっとした生活。

文芸論

技法の高度な到達をのみ至上の段階へと積み重ねるべき。作品の長短はこの段階格に値する理念の文章的な組み合わせにすぎない。単一の段階であれ、多数のそれの複合であれ。

2006年11月7日

私徳

女子の貞操、男子の高潔といった社会人格として最低限度の倫理的基礎すらその身みずからに着けられなかった人物は、虚栄におごろうと反社会的である外ない。

母語の雑食性

日本語の雑食慣習は母語を高度化した。

礼儀

相手の倫理が己と異なる程、尚更丁寧な言葉遣いで接する可だったろう。

起源

自ら然りして発露し、地表をすべる人模様。神奈月かんなづきの流れるになびく無性ムショウの清花よ。形見を為して、柳にしだる。輝々として雪崩なだりゆく満開の桜桃歌にまだらの王子が写る。
 さりとて信ずるでもない。暫くすれば旭の礼頭温と共に枕の琴音がしげる。庭鳥テイチョウが吠う。山端やまのはに乱るくれない音符のうとよ。昇華されし品詞が舞う様言の葉の秋に酔う迄不忍しのばずや。
 滝川の流々と詣でるしがらみに揺れて雲雀ひばりがわなゝく白天に我。待つ宛とて知らず、目当てとてなき玉鬘。夢現ゆめうつつに惑い孵り照る空色の悠尋。唐笠を挿して這う人時雨ひとしぐれに紛れ、往時猶今わん。去ればかなしき哉。かなし。
 心地の侭にすら風に消ゆべき藍の岸。うをの群、自動車のともしび情仁なさけびとらのいとしき囁き。拡がり行く大気へ不知火しらぬいの矢を射ぬく花火へ。薄紫、血潮、青碧、白金、黄土、濃紺。はかなけり。やゝもすれば船になる。あそびに仕舞う雲になる。文に想えば色になる已徒然し。省みる亜細亜の旅人たびと

2006年11月6日

文芸論

品格とは文鋒の適度な抑制である。

芸術

凡そ芸術家に求められているのは風流の追求だけだろう。かの審美眼の極度に於て、活躍行為の影響は時代と場所とを超え、神格へ達する。

教授

哲学を教授することはできない。講義の場合によっては啓蒙し、思索を奨励できるだけだ。大学の自由は研究用の閑暇を社会的合理化により育む便宜を有する。

学問と芸術の差異

天才は学歴ではない。ある創造的構想を果たす技能は、科学的学習知性やその成果とは別の才能である他ない。彼らの天分は知性と徳性とを何らかの想像力上の奇跡によって媒介する様な才。よって、知性の為の学習、科学の勉強とか、或いは徳性の修養、思索の慣習とか、そういう活発は芸術家にとって副次的なものにすぎない。
 彼らが先ず第一に鍛錬するのは構想術の精通。美術分野に応じて微妙に重なり合いながらも異化しあう様な、技術上の趣味判断に多彩系がある訳だ。正解不正解ではなく、飽くまでも審美的感性の範畴に於いて。これは造型が一定の人間原理的な基盤に築かれる以上必ずしも世界史に孤立して点在するものではなく、参照という審美価値で過去の作風をまねぶことは彼らの屡々試みる修業だったし、これからも随分とそうだろう。いわゆる体系だった学問的なものは、作品の残存しその鑑賞に影響を与える時代に対する最低限度の教養として制作の端々で彼らの選択を自己批判する際に役に立つのみ。
 科学や哲学は芸術にとり必須ではない。それは基礎づけの知能程度に格差を設けるだけ。よって、芸術は学歴に依らない。
 又「私には天才がない」という論理は破綻している。美術芸術とは趣味判断の多様系の総称であって、天才とは個性の別称。だからそもそも芸術美術に教育は不可能で、いついかなる場合、誰にとっても唯、意見が出来うるだけだ。結局、構想洗練の相違による芸術の実現は、彼らの環境風情に対する愛玩の仕方を左右するだけ。つまり、芸術とは定型の文化的な美意識を意味内容する。それは様式。もし豚と人とに芸術家としてのちがいがあるなら、彼らの生活する様式だけなのだから。

2006年11月5日

芸術論

芸術の目的は環境優化にある。美とは価値観擁藍によって造型生産を合理へ淘汰する為に用いる概念已。高尚の趣味は最終目的ではなく常に、普遍的判断へ至るべく組まれた仮設。

若者

猶予が与えられる理由は、成熟までの高度の修養に期待があるからに他ならない。

外側の物語

扉が開くと世界があった。波の音が大地をそそぎ、未開の場から流れる血が生成する生命群を洗い祓う。
 僕は無限の地平を観た。光蔭が矢になり大気を貫くのを視た。神だけが現であった。誰もその計画に関与できない。有るのは実行されていく遊びだけだ。僕は唯、黙ってそれを見ていた。
 死が地表を覆う頃、彼らは何を想うのだろう。子孫もなく、光もなく、膨張し続けるだけの大宇を前にどんな夢をいだくのだろう。
 彼らは何の為に育まれたのかも、何の為に散り逝くのかも知れず、ちょうど果かない羽虫のように希望に向けて飛び発ち、直ぐに時代の隙間へ墜ちていく。
 それでも彼らは種をまもる為に愛を交易し、繁殖する。文明は拡充し、降伏する。総ての文章は織られると同時に破られる。
 僕は世界を隈なく探険した後、ゆっくりと扉を閉める。そうすればもう、何も始まりはしない。
 僕は外で暮らそう。そこには命はないにせよ。

2006年11月3日

軽い小説

一条の光が射す宵の都会にいる。月明かりだ。地上にはどこへともなく流れる自動車のヘッドライトが赤青黄、色とりどりの点々を抽出している。
 老若男女が入り乱れる風景のどこかに、君は紛れ込んでいる。ゆっくり推移していく時代はやがて、命を飲み込んでしまう。
 君は延々と列なる人波を眺めている。個性にはそれぞれの物語がある。そして語られざる想いを秘めて亡くなってしまうだろう。どんな予告もなく。

科学的転回

科学原理思想は不確定。それは地球文化構造惑溺の潮流に過ぎない。しかしその否定論拠がない限り、scienceは専ら地球人類建築の基礎であり続ける他ない。だが我々の最終目的が科学には無いことは明らかだ。科学は人類知能の探索遊戯であって、それ以上の定義にない。ならば、かような児戯の先に生成を導く思想形質が天才に由りいずれ産み出されることは想像に難くない。現代世界はこの為の準備舞台であると考えられる。なぜなら種内競戯を無期限に延長させる言い訳は単に、進化を誘発する為の環境創作で暇つぶしする待ち時間、という予備考案已だろう。文明は舞台制作に喩えられる。機械という俳優を立派にしつらえる為の。

2006年11月2日

知識層

福沢『痩我慢の説』に「富貴こそ、その名を虚しうする媒介なり」と。文士へも同然。

美術論

現在世界美術館長としてのAmericanの文脈から自己およびその作風が如何に審美市場価値に能うか、を狡智に援用言論定義しない限り、決して美術史上で主要な役回りを果たし得ない事情にも関わらず、美術は感性批判であり、学問でない。従って各土contextを抜きにどんな美醜の別もない。

現実

落ち葉を踏んで歩む足跡は軽い。綺麗な夕焼けが紅葉の層間を透けて射し込む。池を回遊活歩するうちに、後ろをいつのまにか着いてくる子猫がある。やからは岩間を這ってぴょこんぴょこん跳ぶのだが、仕舞に草むらへ墜ちそうになる。可哀想な奴に違いない。なんの因果で私に着いて来るのか。
 池の表面をぽちゃんぽちゃんと鳴らす環境音が一人と一匹の隙をく。途端に秋雨。世界はずぶ濡れに染められる。パーゴラの下に急いで避難する。猫もちゃっかり着いて来た。
「災難だね」
「全く」と、私は言う。
「これからどうするつもり?」と猫が聞く。
「別に」
「じゃあちょっと着いてきて」
 雨上がりの水上にはちいさな虹が架る。午後の講義終わりの私にはなんの予定もない。仕方ない。行こうか。
「いいところがあるんだ」
 獣路けものみちを抜けていくと、武道場の脇にあるちょっとした見晴らしの点に出た。
「ここ?」
「そう。ここ」と猫が頷く。
 人工芝のサッカーグラウンドが見渡せる。
通り雨にも構わずフィールドを駆け巡る22人のプレイヤー達。
「懐かしいな」
「なんで? 昔サッカーでもやってたの」と、私は聴いてみる。馬鹿らしい。なぜ猫がスポーツなぞを、と知りながら。
「うん。実はU-20の日本代表候補に上がったこともある」
だが、不意の事故による脊椎の損傷でメンバーから外されたのだ、と猫は云う。
「話せば長くなるけど」と、猫はちょっとため息をつく。
「ボクにも美しい青春はあった」
 沈黙。ホイッスルが鳴って、試合は決まった。勝った方の赤い服のチームは互いに抱き合って、一時の歓びを分かち合う。負け組はうなだれてる。灰色のユニフォームはぐっしょりぬれて重たそうだ。
 しかし、グレーの方の背の高くないキーパーが相手方の一人と握手をしたときに肩を叩き、なにか呟いた。
 すると猫が言った。
「ボクはあの選手の家で飼われてる」
へえ、と私は言う。そうなんだ。
「彼はとても優秀だ。だけど背が産まれつき低い。仕方ないね。きっとあれ以上、高いレベルには到達できないだろう」
 緑の地の上に赤と灰の混ざりあった点々が整列し、挨拶をして日が暮れた。
 私と猫はそのあと暫くあれやこれやの無駄話しをして時間を潰した。猫の好物は煮干しらしい。どうでもいいことだけれど。
 スタンドに灯りがともる。独りの選手がボールをリフティングしながら出てくる。
 居残り練習は続けられる。
「ああやっていつも変わらず努力しているのさ。もうみんなは帰っちゃったのにね」
「努力は報われるのよ」と、私は言う。
「果たしてそうかな。彼は丁度昔の僕みたいに日本代表になりたいんだよ。あの背では一生がんばっても無理さ。自分でも気づいてる」
「じゃあ、なんでああやって懸命にトレーニングしてると思う?」
「趣味さ」
シュミ、と私は不思議の表情をして、もうとっぷりと更けた闇にきらりと輝く猫の眼をみる。
「趣味。所詮、プロにはなれないんだもの」
そして社会のうすら寒い体制に組み込まれて慣れていく。定めだ、と猫は飽くまで冷静だ。
 サッカーボールが影を映さないよう四方から等角に投影される照明を受けてきらめく。
「夢中だ。教養小説の主人公の様だ」と、猫がけたけた笑った。
 それから猫は欠伸あくびをすると、さっさと夜の水戸へ消えてしまった。

必ずしも行動性に因る事なく、先覚を延べる恰好の筋を選び給え。貴方が近代人である限り息抜きは仕事の全てではないのだから。

2006年11月1日

回転

砂浜に寄せては返す波の音が、白くて細かい足下の素材に色んな模様を描いては変える。はしゃぐ女達は若い。肌を太陽からの放射に輝かせてUVカットしながら水しぶきを揚げて、きゃーきゃー嘆く。線の太くない水着は彼女らのはち切れるばかりに眩い体をきゅっと、締め付ける。ぴちぴちと水滴を撥ねるやわらかな肉からは、シャネルナンバーファイブにも似たマリリン臭がする、気がするが、気のせいだろう。ポップアートはない。空は薄い青。海岸線には殆ど人影がない。やかましい騒ぎ声の他には、自然の穏やかな営みをけがすどんな要素もなさそうだ。
 しかし、少しずつ何かが変化し出す。地球は回転し続けているからだ。
 女達の中の一人はいつの間にか、東京ディズニーランドに沢山居るみたいな、クマのぷーさん風味のキッチュなぬいぐるみを被っている。このくそ暑いのに! そうかと思えば沖の方から大きなサメがやってくる。映画ジョーズのテーマが背景で秘かに流される。
 不吉なムードに気がついた女のひとりが友人に危険を知らせる間もなく、巨大な姿態が海面に……と、じつは鮫の背鰭せびれみたく見えたのは只の張りぼてでした。表れたのは「もじゃもじゃした変なやつ」だった。なんだこれは。女達とぬいぐるみは、ぽんぽんもじゃもじゃを叩いて面白がっている。永久平和のために。赤く萌えた太陽はにこにこ笑って、みんなのお遊戯ダンスを眺めていた。溢れる涙は既に、遠い未来の物語へ溶けて、静かに渇いて消えてしまったのだ。
 夜になり、朝が来る。海岸線は様々にかたちを替えながら地球温暖化の影響を敏感に受け止める。
 空ゆくカモメの一羽が急降下してる。あれはジョナサンだ!
「エビのチリソース煮とライス・サラダ・スープのセットですね。かしこまりましたー」
店員は奥のほうに帰って、えびちりいっちょーとかなんとか叫ぶ。
「懐かしいね」
と、女が言う。
 そうだね。記憶に違いが左程はなければ、昔、僕らはあの白銀の浜辺で濱崎あゆみのメモリーズを元気よく歌ったものだ。
「あれから随分、時間が経つ。いまでは二人はよっぽど年老いてしまった」
「けれど、あの頃よりずっと幸せだわ」
「或いは」
すると、カーット、の声が掛って、演技は一時中断する。ダメだめーっ。そんな臭いセリフがリアルに聞こえるわけないだろ? もっと自然に。小説じゃないんだから、いい? チャンスはもう一度だけだよ。
 さあいくよ。リスタート
「あの日のきみはほんとにきれいダッタね……」
こらこらーっまたダメ。ほーら、なんにもわかっちゃいない……。だからお前みたいな三流役者は仕事とおまんまに今日だってありつけないんだよっ、ナメるなっ。バンッ。監督っそれ以上やめて。
 もうお願いだから彼をイジメないで……おねがい。なんだあ? お前、単なるグラビアアイドルの分際でカントク様に逆らう気かあ~いいご身分だな、おい。あ? なんだ、その表情は。ははーん、さてはおまえら出来てるなあ? おい。AD、こいつらダメだ。降板させろ! 直ぐこーばんだっ。カントク。ボクも反対です。素晴らしい演技だったじゃないですか……まるで俗物作家の鼻がひん曲がりそうにへたっぴな会話シーンみたいな光景でした! 是非ともこのまま続けて下さい。お願いします! うるうる。だーめだこりゃっカメラ。引き揚げーっ
 ぱおーん、とわななく象の一匹は自分がどこから流れて来たのか知らない。灯台が遥かに照らす行き先には、一体、何があるのだろう? 象は大きな瞳をしぱしぱ瞬かせて見る、象にもまぶたがあるならば、ずんずん町を、人々の愛しい生活を無関心に踏み潰して進め! 象。ゴジライク。その歩みを誤つどんなお邪魔虫もあり得ない。天をゆっくりとながれる雲は、龍の尻尾をちゃっかり突き出している。なんて奇跡!
 象はやがて辿り着く地上のはてへ。そこから轟轟とアトランティックオーシャンの大水おおみずが滴り落ち、遠く真っ白のここは想像上の世界だ。果てはなにを想うか象? それでも地球はまわる。

2006年10月31日

性差文化論

淑やかさが既に、欧米文化の摂取で散逸されて久しい。一般論として男子諸兄自身の卑しき理想が堕落させた為、性差は作られている。そういう理想的な選択性が事実、性差を社会的に定義して行く。
 だから今日の神らしさが性的でないのは自然である。

芸術論

自分の拙なる過去の作品を破棄する方便、寡作であるほど希少なのだから、功利より未来の歴史的価値を重んじるならば君の制作物自体を積極的に捨象せねばならぬ。時代が君に追いつかないうちが機会なのだ。自身技巧の成長に伴い、過去に手を染めた己の下らぬ作品を可能なだけ破壊すべし。それらを滅多なことでは散逸させるな。既に行われた場合には諦めて然りといえど、強い意向がなければ安易に譲ることもあってはならぬ。業績中、最も優れた栄光と信じる一点についてのみ養護せよ。

智恵

哲学は道徳律の創造。我々は絶えず哲学することなしに、善悪を分別するいかなる規則も見い出せない。

2006年10月30日

写生

美しい時は過ぎて、旅先の店は静かに閉まる。奥に舞う女は夜を経て移る。月が僅かに照らす風景には様々な生活が反射する。自然は人間に格差を設けて、種類の遊びを調節する。
 鳥は、やがて明ける地平線のうえの雲を追い駆ける。事物は順序に応じて変転する。
 数知れず愛情を育み、溢れ落ちる魂の群れ。
 建設を続けていく地上の風景にはどんな確定もない。神様は誰のために世界を創りあげたのか。
 四季をうつろわせて大衆はかなしむ。空は七色を微妙に混ぜ合わせて笑う。何の為に。
 繁殖を繰り返す生き物たち。海辺では打ち寄せる波が絶え間ない音楽を奏でる。蟹や人手が生態系を営んでいる。
 雲は太陽からの放射に溶けて、緩やかに曲がる水平線を曖昧に均す。昼月がぼんやり、薄氷の残り香みたいに天気を象徴している。
 言葉は世界を再現する。理念界と現象界とを文によって通訳する。
 時代を経て遺された感慨は文化の記録となる。われわれはそれを民族風紀のなかに積み重ねる。雨音は久しく、秋の夜長は優しい。
 雷が静寂を破って暫くすると、寝室には沈黙が戻った。罪のない子供はいないのに、否応なく、再び虚を衝いて彼らは誕生するのだ。
 章は気がつくと顔を洗って外に出た。東雲は歪んだ円錐の貌を取って棚引いた。
 山奥から繋がる習性として彼は社会に参画した。秘密は次第に慣れて、運命は老廃を選ぶ。世代を代謝して文明は進む。
 雄飛する烏の一羽についた目玉は光線を機構に接して視た。
 世は退屈を諦めて、溜め息をついた。さらさらと笹が流れて夏空を浸した。

2006年10月29日

分業

「学術家は悲惨である。彼らは清貧に甘んじてすら屡々志を貫く。われわれ経済家の理解にも及ばない狂気の沙汰だ」と考える金満には、現世内の問答にしか考えが到らない哀れさがあるのだ。
 文化人は己の一生を介然虚無に奉献してでも、永世名誉の殿堂によって血統を守るのである。政治家はこのことを作品についてでなく身代により為す。だから業務に全霊を懸けねばならなかった幾多の商人は、彼らがどの程度の福利を成し遂げ得たかだけを慰めに死ぬのだ。それは彼らの威信を少しも揺るがすものではないが。

経済の理屈

ある文明民度を推し測るに、格差が、経済というしくみによってのみ共存しうるのは確かだ。それは世界貨幣という共有手段を用いて等価交換を定義づける。そして主客の非対称性を、彼らの利己心に可能なだけ公平に取り除く。地球主義も同じく、文化的相互浸透の仕方、つまり経済に違いない。それは結論、知力にこたえて財を分配する役割を意味する。
 調整の策が欠けている事をのぞいて、世界経済は福祉の利便だと活眼できる。

死と理想

死を想えば、理想への献身は必然。

夜明け

雨が降る。時は霧のように空中を舞って、夜を満たす。
 瞳は闇の奥に眠る誰かを観る。静かな波の音が部屋を浸して、彼の寝息を融かし出す。水は光と混ざって空間の密になる。
 魚の尾びれが鼻を微かに撫でて、彼はくしゃみをする。それで夢は醒めた。
 瞳は朝日を眺める。記憶は再生し、懐かしい風をかぐわせる。多くの自動車が走り出して道路を往く。曇り空はやんわりと世界を青味がかかった灰色に染める。
 草木は小雨に湿り、お辞儀を繰り返す。

2006年10月28日

理性という自然

例えば君が思想する事は、理性を創りあげる現象なのは疑えない。宇宙はなぜこのような性質を作り出したか。君達の文明は何の為の物象なのかを問え。理想する個人が知明の散種を以て種内秩序を安寧化する福祉のみが目的? 彼らは同列の人類群から如何にして脱出しうるか。彼らは無形的思索を通じて結局は何を得るのか。所詮は理性に過ぎない。それは神格化の路梯。
 彼らが脱出するのは獣的地獄からであり、神的天国へ向けて進む。我々が思考と呼ぶ作用はこの方途に過ぎない。而してあれ、我々以外に世界を理由づける主体は実在しないからには、理性は人類の自然だ。

爪痕

うち出れば爪痕創る秋の空

自分より知能の低い人物に教えを受けるくらいの人生の浪費はない。道徳度は知能に由来しているとすれば屡々しばしば、傑物が無学歴なのはこの理由による。
 だが、体制を利口に利用して共生する者も少なからず居る。彼らを卑しむに足る証拠に、その地位は死後剥奪されるらしかった。学習し得ないものは才能だったから。

2006年10月27日

徳度

徳(arete)の理性的自律は潮流であり変わらない基礎ではない。どんな文明における徳度も、種内秩序の個性間競戯を示す已故。理性は本能にとって枝葉の類であり、超越的実在ではない。もし地球環境に強烈な生存力を持つ異種が入り込めば、彼らの理性もまた組み換えられる。哲学は人間原理を批判する処迄進む。

闇夜を旅する一羽の烏が観る風景は黒い。宇宙空間の延長にある無際限の膨張が彼を、隅無く包む。飛び去っていく魂。行き先も知らず、やがて死が自らを殺すことだけを望んでいる。
 大気圏を抜けて、銀河団を臨み、物象と真空の間に引かれた動線を超える。海がある。一方にはとわの波頭を湛えた夜があり、他方には語られない沈黙がある。
 だが、彼ら生き物がいかに願ったところで、夢と現の裂目を塗り潰せはしない。戯れよ、と烏は云う。
「戯れよ」
そして見えなくなった。

2006年10月26日

人類

盛んに競い合う地上の欲望が文明という景観をもたらす。宇宙の型として、踊る魂。彼らは生活を組み揚げる機械であり、永遠を想起する理念である。

言葉

差延とは「言葉は意味が取れない」ことの発見だった。それはデカルト的自我認識を批判して。思考という現象形態の不可知性を論証する。われ思うことをわれわれは確かめられない。にも関わらず理想の定義はphilosophyにある。智恵にのみ思索の秘薬は眠る。善さの実践は文明的迷宮の探険にしかない。哲学とは道徳をつくる事。

2006年10月25日

建築論

可能な限り地上を開放することが現代都市のよいのり。内観にも同様。

土地

この土地にしとしと降りきて秋雨よ

竹林

「忙間に在りて自分を見失うは毎度のことだ」
と、長老は仰った。そうかも知れない。
「想い出すが良い。お前の字はわしがつけた。
行き詰まったらいつも、この言葉を記憶の納屋から引っ張り出して来い」
 記憶の中から流れ出したのはこういう逸話だった。そして君は約束の場所で独りきり、途方に暮れている。
 この駅は広い。どこに居ても居なくても等しい様に思えるくらい、土地感がない。同じ単位の反復で造られた無方向な建築構成のせいで、まるでバグったRPGの迷宮の中に閉じ込められたみたいな気分。人影もまばらだ。唯、忙しく動き廻るロボットたちが無表情で仕事先へ歩いている。それでも何とか君は、待ち人に落ち合うはずの所を見つけ出す。君の字は清と云う。村の長老が授けてくれた同一性である。
 迷ったときに、彼の言葉だけを頼りにひいこら辿り着いたのが此処、青い星の街だった。そこは月と呼ばれる衛星の潮汐力で絶え間なく水流を循環させ、この勢いに応じて酸素を送り出す緑葉素の発生から、無数の水棲生物を繁殖させた希有の土壌であった。中央の恒星は太陽と名づけられ、軌道の関係から暫し視界から隠れる。その間を地球の規則では夜と言うらしい。そして最近栄えた陸上を歩く二足の奇怪な生き物は、彼らの巣を暗闇のうちにぴかぴか光らせるのだ。
 なんとも大変に満ちた光景ではないか。私は訳も解らずに笑ってしまったものである。どうしてわざわざ、太陽が嫌々らしい熱度から遠ざかってくれたおのが住処をやたらめったら年中明るくしなければならぬ?
 だが未だ知れず果たして、長老は私にどんな使命を与えたのだろうか。ステーションを継いでニウヨオクという針山みたいな土地に来た。
 ここでは人々が高々と茂った人工竹林の内で彼方此方へたわけるのである。私も例に倣って一本の木に登る。頂上からふいと見下ろすと一望駄尽のもとに世界が悠々と観覧できる。

建築論

建築的眺望が人類文明の神大な審美的達成だとしてあれ、隠遁風奥が別の環境学的桃源であることは不可思議ではない。人間類は概ね体内から育まれ龍頭鷁首に登るのであり、建築空間も両方の極限を再現して戯れる舞台已。
 悟りと安心を生活に於て縦横探検する劇的体験回遊居愁に空間の豊富な質之由来は有るのだ、と認証せよ。

2006年10月24日

読書

印税の喜捨に介在しているのは読書による知的啓発といえる。

工学

半永久にinkの出るペン。入れ替えの容易さ。シャープpencilの替え芯を自動化最小化する工夫。紙の上に落とすものを改良せよ。意図的に消し易く、自然に消え辛く、永久性を持つ印をつける方法。重力や空気圧との関係を突き止める事。

旅行

人間社会に暮らす限り、永遠に桃源郷の余地はない。それでも芸術の士は不完全な世界を尚清らかに彩るが故に尊い。彼らは理想の作品中に尽き果てぬ夢を見る。そして可能ならぬ世界を願って死ぬ。
 地球人類の無神経を気に病み、できうるかぎりの審美的治療を施し、世に披益する工物形態に解して発布する。悲しいことだが、誰もが彼らを敬う訳ではない。何故かなら、美術は自然体に相対する技巧であり、程度の差を催して人民の品格を問うからだ。豚には至極不潔な虫溜りが最高の居場所かも知れない。未来人には近代建築が兎小屋に観えるだろう。千差万別の趣きを呈して人知当然の品性を糾すのは個々人々別々の美学如何に由る。
 こう考えて迄、ふと遠くに眺むる山岳の線を覚えた。斜めに切り込み端間に還り行く夕陽の温度が頬に仄か、暖かい。鈍行列車に揺られる独り旅。向かいの席に座る名も知らぬ老人はうつらうつら頚首を嚇して、残り大してもない時間をこうして不意に過ごし去る。青年は右手に軽く触れた飲み懸けの缶珈琲をかたん、かたんともてあそぶと風景がすっかり暮れた事に気づく。
 今夜の宿は未だ決めてもない。先程から二つ向こうの座席に占めて要に本を捲る暇つぶしのらしき女子のある。荷物の大分ある。私と同じく独り旅なのだろう。
 地方線に他ならず、乗客は殆ど在らぬ。目の前に爺さんが一任、遠くの方に高校の制服を纏う若造が一、後は私と女とだけ。そして時間は刻々と流れる。まるでゼノンの因律のままに。美意識は個別である。無粋たる老い先決して短くはないだろうが、目前の爺やには判らん。夜闇に更けた車内に逸そのこと暗黒が訪れはしないかと秘か案じながら近鉄線は走る。

月の整形

朝昼晩と繰り返し、生成しては命を飲む季節が滔々たる滝のように昔話を流し去った。いつしも、そうして地球は回り続けて来た。昨日も今日も、又明日も。あさっても、繰り返し、繰り返し。
 だがひとつだけ変わらないものがあった。それは太陽と地球との仲良しだった。
 ときどき、二人のあいだに割って入っては関係を乱す物象があった。月である。
 彼女は、陽光の反映を受けてかがやく衛星であり、決して自体でときめく存在ではなかった。だからこそ余計に、ふたりの心徹した信義が羨ましかったのである。
 やがて地球の上ではお祭り騒ぎが始まった。人類が繁殖して、文明を築き出したのだ。
 夜にも消えない光が宇宙の奥までゆっくり届く。段々と力をつけて行動を広げ、宇宙船に乗って近くの惑星に移り、彼らは幾つもの建設をした。
 太陽と地球はそれを見守っていた。別に気にするほどのことではない。そのうち、彼らは隕石かなにかの衝突による環境異変に適応しきれず絶滅するだろう。蟻のような戯れにわざわざ構うほどでもあるまい。
 しかし月だけは違った。白い人類はすぐにやってくる。そうなってから浸蝕を後悔しても遅い。とりあえず月はのんびりくつろぐかぐや姫たち御一行を姉妹星であるパラドックスへさっさと追い出して、ぴょんぴょんあちこちを跳ねまわる兎を一匹残らずひっ捕らえ、みんな化石に変えてしまった。そのうちに人類の一員がやって来た。彼らは拙い物体からそろそろと降りると、一本の旗を彼女の眉間あたりに突き刺した。激痛が走り、手術は終わった。
 すっかり包帯をとって癒えた彼女はもうかつての自分ではなく、どうやら多少なり時代に迎合した容姿へと改造された模造人間であった。莫大な後悔と共に、一抹の希望が胸をよぎる。これで地球は遂に、私のほうを振り向いてくれるだろうか。
 だが物語はしばし残酷だ。観賞の対象として神秘で彩られた過ぎ去りし平安はやがて遠く、ただの切り売りされる岩塊とみなされた商品は、立地という予件以外にどんな天賦の権威をも剥奪されてしまう。
 くるくると回転するだけの芸当を以て今後、厳しい銀河業界を生き抜いていく気遣いはない。かの女は欲望に支配され、やがてその美容をすっかり無くしてしまった。
 太陽と地球は彼女の気持ちを一向に知らない。そして楽しい昼間を演出するのだ。
 宵の更ける頃になると天空に、刻々と表情をうつろわすかなしい風貌が姿を現す。

2006年10月23日

求道主義

理想の中に生きて理想の中に死ぬ。肉体に対するこれ以外のどんな礼儀も見当たらない。
 求道主義が倫理的中庸の極に拓かれる自律の地平であるのは揺るがない。神格的なものへと精神性を向上させようとする思念の働きは、肉体の出来を超脱するが故に正義だった。
 知能が自体を運動する軌跡に根拠を求める幸運に浴して、人は理性に反するなべてのものどもを浄化しようとする。

仕事

君に同時代との心象的隔絶を要請する。

2006年10月21日

建築論

日本の伝統として槇文彦氏の論説により後生権威化された奥性の空間は、けれども、私はその一面を言い表しているに過ぎないと思う。
 男系的なもの、やまとたける的な志、眺望的空間への指向は、包容する秩序にも比して日本的な文化である。
 国見山、姫路城、六本木ヒルズ、伊達藩の国見が丘、いずれも天下睥睨の神格昇華を目指す雄々しい志向の故。奥性に対する眺望性は、空間構成における景観的両極としてわれわれの文化技法のうちに数え入れられねばならない。こも山門やまとのみに非ず、国見の大和にもそれはあるのである。

模範

哲学により知能を自己鍛錬する最終の目的は、理想人の姿を顕現する事により、万世衆生の模範的生物を養う事。

積極的なウィトゲンシュタイン理解

言葉で語りえぬものは言語の巧みが拙劣である一事に原因する。だからウィトゲンシュタインが沈黙を主張したのは言語固有の限界、指示の無形的差延を指し示す一方で、彼の文芸的な無才をも実証している。なべて言語表現しえない観念はそもそもわれわれの思索の範囲にはない。哲学の命題は概念の整理にある。

草枕の抽象

すべて願いは流される。祈りは水に溶けて消えてしまう。どんな不変律もない。そう信じていた。
 突然に光が射して夜闇は明けた。美しいものが行路を満たした。誰かは知らない。恐らくは女が、道案内に立った。それから世界は趣きを変えた。
 恐るべきことは恋愛である。両性を伴って生けとし生きるものどもをなべて浸し、一切を包み込む力。いかなる天才といえども逆らえない暴挙。香りを散らして己の自然を紅葉させる季節に、君もまた情けなく揺られなければならない。
 孤独は醒めた。定められた道筋に沿って一日が始まり、終わる。だがひとつだけ常に、満天の夜空に輝いて自分の全営為を照らす星があった。どれだけ言葉を尽くしても、適当な仮名は選べない。存在を超えた抱擁があり、個人を失くした救いがあった。
「胡蝶の夢、とはよく言ったものだ」
と、仰有おっしゃられますと?
「今昔の腰間をおかして省みるところなき悠久は、あたかも夢とうつつ最中さなかをさまよう行人の如し」
たとえば鶴は浮世に舞って、その白き姿を永遠に留めません。彼らは旅路のあいだで憂い、悦び、鳴くのでしょう。
「貴君もそのうちである。そしてかなしみの大歌を奏でる遊興のなかで死ぬ」
しこうして神様のお話は尊い。だが、彼方あなたは知らない。儚さにしか人間のいかなる審美もないのだ。
 恋人はやがて去る。しかし、それを怨むひとはどこにもいないだろう。

2006年10月20日

文芸論

客観写生をある程度追求すれば、情景文芸が充分に成立することを知るだろう。此は風景画の如何に対応する様な組織であり、専ら印象派以前の進歩的段階に属する文芸手法である。都市の表情を如実に記録する歴史資料の制作方途として利用さるべき技法に違いない。

現実

どれほど懸命に献身した所で、理想は現実を改良するに留まる。

友情

沢山の不要な友達を持つより、少なくない優れた親友を貴重にせよ。

融解

数知れない物語が交錯する夜に浮かんで、己の身をやつす氷は何をみる。

2006年10月19日

遊び化

闘争本能の援用という他に、人類同士が互いに競合しあう理由はない。互恵的協沢はいつも人間関係の条理ゆえ。にもかかわらず、我々は自由な競い合いを遊戯的な本性の発露として必要している。よって、最良の倫理は遊戯的な関係にある、と云えるだろう。
 我々の倫理的実践のすべては、戦闘的衝突を安全に法則化して見物にするような、生活の遊び化にある。より精神的に、より神格的に高められる倫理の矛先は文明度の実現という形を持つものとなる。

真の名誉は孤独のうちにあったろう。

生活

都市を縫うように網の目状に張り巡らされた高速道路が、人体を新陳代謝する血脈の隠喩を構築している風景だ。
 私は、とある超高層ビルの屋上から幾多の血球が全身を潤す所を観る。きらびやかな夜景。無限に続く建設の地平。運ばれるのは情報だ。例えば運命がそれであり、自由がそれである。商品として切り売りされた無形概念群はあたかも、活性剤を撃ち込んだ反則競技者の一見禁欲的な食料のように、市場に巧妙な新しさの仮面を被って流通する。人々はこぞってそれを買い求める。コンビニで、ネットショップで。広告媒体を介して摂取消化されてやがては新たな報道になる。すべては神の模倣なのに。
 都心にあってはもはや季節感を失くした秋風の影響下で私は、ほてった躰を涼しく包む外気に一抹の快さを覚えている。先づてまで繰り広げられた乱痴気騒ぎは心底から沸き上がる熱情を伴って未だ、この胸に留まってある。複数男女が入り乱れて特殊な今を探索するゲーム、まるで未開人の音頭の様に。孤立して眺めればそれは丁度、夢のように曖昧だ。誰かが誰かに当てもなく寄り掛り、語るべくもない戯れ言を並べ替えて笑い狂う。浮世の衆会とはそういうものだよと、望月が君に話しかけた。虚しく、目的がなく、儚い。無意味だ。けれど、なぜそれを楽しまない。
 頭上の星々を眺めよ。舞踏会に興じて今のうつろを慰めているのは寧ろ君達、人間社会だけではないのだ。
 私は片方の頬杖を突いて手摺に持たれ係る。世界はまるで興行だ。昨日も明日も知れず、日々を踊り晴らす踊り子の因果に過ぎない。さあ、戻るんだ。我らの世界へ。現在の空気へ。女が前髪を軽く掻き散らして会場への帰りを辿るとき、視点が消失した闇の先には既に、別の小説が待ち構えている。

都市計画

都市計画とは凡そ法規制の学術であり、実際に都市計画者が計画実行を果たす唯一の確実な法途は、市民啓発則ち教育の領域に見出されよう。公論の勃興にしか都市方向の指導という目印は探れまい。都市を形成するのは文明自体である。然らば、都市計画術的な達成とは啓蒙芸能の度合いに依拠する。君の理想を実現するのは建築法規の改正を導く世情の優勢だから。

2006年10月18日

思索

理論、実践、技術の哲学的古典的構図に照らしまた独自に考察すれば、学術、政治、経済において、経済こそが最も高度の社会的技術を要請する、と云える。

建築論

都市以上の人工造形物はない。総合芸術は都市と成る。文明に審美の余地があるなら、それは都市批判である。

地球学

地球と太陽の関係より我々にとって死活の問題はなかったろう。気づくか否かに因らず地球生命は太陽の子ども。そして我々が自立する時は、太陽に代わる何かを自ら創設するを得る。

生涯学習者

思想をくらって生きる魔物。終点は知れず、知るべきでもない。知らずに過ごすが故に彼らは天使の顔をする。

世界

だいだい色の夕陽が、地表を占める多くの建設物に一様な影を投げ掛けている。今日という日が終わる。地球で生活する昼行型生物はねぐらに帰り、今度は夜勤の番が来る。慌ただしくして昨日を経る無数の命は一体、何を目標にしているのだろう。
 地を這う小さな蟻達は次々に餌を運ぶ。長期間トラックは都市に張り廻らされた脈道を通って又、同じように物資をあちこちへ移動させる。絶え間ない運動の証拠は、深夜の高速道路を満たす光束の投射になって姿を顕す。
 文明は力の暗喩だ。様々に弾け飛ぶエネルギーは目的のない音楽祭みたいに形態と想像とを空間自在に展開する。夜は耽る。そして場面は回転する。
 七色に散らばった幾つもの朝焼けは、星のどこそこで今だけの風景を作り出す。二度と繰り返されない一定秩序の化学物質の合成と分解とがこうして君の前に、素晴らしい暁を昇らせてくれる。海浜にぽつん、と点景を刻む一粒の人物は、宇宙事業にアクセントを与えるための作業員。彼の目に映る輝ける太陽が明日も、地球という偶然を維持してくれることを世界は願っている。たとえ、とわに叶わぬ祈りだとしても。

2006年10月17日

黒星

電話は切れる。だが僕は知っている。もう誰にもこの、絶望の淵には到達できない。誰ひとり助けに来る筈ない。僕の心底を覗き込むどんな窓も部屋には、とりついていないのだから。
「どうして、なぜ僕なんかに構うのだ。僕はもう、現世に未練はない。これから生きていく為にはあまりに疲れ果てたよ。誰のせいでもない。僕はその様な、絶望の星の元に産まれついたのだ。そして自らがその、黒星からの庇護を選んだんだ。なぜ邪魔する」
「人間はみな離ればなれになる。どんな命も老廃して死ぬ。そうすればなんの安心もない」
 巨大な天の川を吹き渡る宇宙の風は、ふたりの闇夜を介した情念の対話を流し去った。そして後には、延々とひろがる引力場だけが残された。

2006年10月16日

旅日誌

フィルムが巻き戻る。地球と太陽とは関係をこじらせる直前に還る。幾つかの繁栄を見送り、未だ命が芽生えない世界をひらく。混沌として目指す所のない戯れが、事象の合間に絶えざる輪廻を刻む。昼夜が別れる凝瞬ギョウシュンに、有る活力を眺む。
 流れゆく夢中の今よ去り気なく、繰り返し寄せる波のねよ。かねてより約束された宇宙船は来ない。既に予定時刻は疾うに過ぎた。私達は、神に裏切られたのだろうか。
 やがて巨大な恒星は遥かなる時空の渦に紛れて跡形を失くした。何処にも実存の因果は見当たらない。凡ては茫漠たる秩序の撹覧にすぎないのだ。

2006年10月15日

情け

文士は世の情けを救済する為に生きるもの。

信心

人類知性にとっての最大の福祉は、学究による啓蒙であると余は信じる。

南画

不確定な要素間に繋がって度に、くる/\と巧迂の斬枝をつんざく金伐り声。森間の半透雲は山中に走る一匹の兎を捉える。追い駆けるのは名も無き狩人。深い陽が天上の大空を葺いて射して来る。深淵の奥は水墨に霞んで視えない。
 やがてしんとなる。誰も何物をも動かせない。ゆっくり涼風が、蕨の萌え出ずる隙をふいに抜く。滝川の香りが伝わり、低層草木の足本で転がるだんご虫の髭を散らした、おかしさ。
 時に獣路を冒して歩む一介の行人あり。かたわらに携えた二刀を揺らしてにじり、薄氷霜雪に混じる光隠をまばらとす。やがて盗賊のたれかの放つ矢が到りてかの胸を貫く。どさり、と鳴り倒れてから動かぬ。清流の泰滔たる斉唱だけが風景に舞う。
 夕闇が暮れて梟の方々鳴く音程が一帯の覇権を指揮する。錆びた大気が麒麟をなつかせる半月を点灯した途端、杉林は一斉に風前燭になびく。群雲が神に雷を留める。水上から挿し込む厳かな丑蜜時の照明はやわらかい。なまあたゝかい足首が長細き指先に、複雑なまでに絡みあって泣いた。ぬるい快楽に泳ぐ夜半過ぎよ。巻物の内で。
 ピイ/\゜とわなゝいて早くも旦見を知らせる雀のひよどりが柱間に躍る。依りどり緑に微妙の差分を制作しては撒き、連ねては塗る。まるで行動画の見本市だ。πパイの幽幻な円弧を幾重引いた線を投げて林林と交錯して派手にやる。それは数多の蝶々鳥類の物理事象率的軌跡である。だが故に面明おもあかし。超然としてそびえる山岳の一縷に飛ぶ龍の目の当たりには、かようの再現が忽ちふれる。ともあれ二度と世は知れない、伝え無きこと。

2006年10月14日

埠頭

深夜の海浜公園で語らう連れ合いが、東の空に大きな満月を眺める。穏やかな海面へ幾重にも反射して棚引く図画は、二人を本のわずかな間接光で照らし出している。
 初秋の夜風は潮の香りに混ざって新しい。埠頭に人影はなく、遠くで旅客船の鳴らす汽笛がちいさく響く。ふるびた街灯の、白銀の放射だけがぼんやりと辺りを染めている。その周りだけで死を急ぐ虫たちが騒ぐ。
 宇宙最小の音量で男の低い声が呟く。誰も答える者はない。世界を包む静かな波の音だけがちょっと今だけ、明晰な解答を提出する。女はやがて泣き出す。もうここへは戻って来れない。女は海を超えて旅に出る。だからこの夜は黙って、時間がゆっくり行き過ぎるのを待っている。
 しばらくの後。朝日が地表を浸す頃、昨夜約束が交わされた海岸のベンチには誰もいない。干潮の浜辺には数え切れない思い出の破片が辿り着いた。一羽の烏が虚しく遠吠えして、遥か向こうに青白くそびえ建つ幾棟もの高層ビルの方へ去る。街は何の説明もなく本日を始めるつもりなのだ。明日も、そのまた明日も。
 しかしやがて男は壮年になり、過去の落としていったその場所に再び立つ。隣には違う誰かの影がある。薄い藍色に暮れた夕闇の大空では天の川。すぅ、と息を吸い込むと、あの日とおなじ香りがする。
 満天の星屑がああ今でも囁きあう、多くの都心の部分に飲まれて、どこへともなく消えてしまったから。

2006年10月13日

理性の構造

自律理性の普遍的関係は地球外知的生命との倫理間で語られ直さねばならない。虚栄は自尊ではない。謙遜こそは自重である。本能の種別はこのときに再び課題となる。
 基礎の異なる建物が層間変移を違えるように、彼らの構造同士を比較対照できねば実践的な倫理法則は確かに律せない。

損得

君に、終生の俗間不幸に甘んじる虚勢がなければ、有用性を軽閑して顧みる事を要せぬ。その代わり君が集衆に変人の名を冠されるのを許可するべし。
 だが若し地上の実為を大切な基礎として思い込むほど苦労にまみれた体験を経たのなら、迷わず道具的職能を人生の第一義に掲げよ。君は社会的信頼と共に安定した財産生活に恵まれるだろう。

思索

「哲学を学ぶ」ことは考える切っ掛けにしかならない。哲学は思索する事。

手本

君が教祖的模範対象になることを防げ。そうではなく、しばしばよく多くの手本と反面教師とを鑑みながら彼ら自身がよく自らのみちを行くことができるように指導せよ。空海は否応なく筆を誤るのだから。

愛する人を少しでも試すようなことがあっては決してならない。

点滴

夜闇が街を薄紫色に染める頃、人間に一個の女が歩いて行く。所は渋谷の駅前だ。誰彼ともなく押し寄せる人波に混じってミュールの響きは拡散する。横断歩道の白線がまじわる中心に丁度、差し掛かった頃だった。ある男が話しかけてくる。
「君、どこ行くの? ひまじゃない?」
 女は興味のなさそうな素振りをする。
「ああ、だめ。いま忙しい、忙しい」
長く伸ばして、ばらばらな宇宙の星屑の様輝かせた爪の先をきらきらと夕闇に散らせながら片手が、重力に逆らう。
「ありえない。ちょっと付き合って」
デニムのミニスカートを肌にすってでもちょっと駆け出す。女の耳元で揺れる白銀のピアスが心の図像を描く。
「何の為に男女は混じり合うのだ?」と、僕は言う。辺りには軽い沈黙が束の間の静止画をもたらす。すべての風景は止まる。
「昼夜を問わず発情し、虚ろな存在を求め合う。愚かなけだものども。恥も、罪も、生まれてきた理由すら知らない」
 渋谷の雑踏はまるで舞台袖にてストップが掛った瞬間みたいに真っ白だ。誰も彼もが脱け殻の魂になって空を截る。そして舞台はどんな活動もやめる。
「何を望んでいるの?」と、君は言う。
「いいじゃないか。放っておきなよ。これは大した例ではないにせよ、彼らには楽しみがある。いや万が一にでも、どんなに不義でもいいじゃない。許してあげなよ。貴方は人間ではないのに。彼らの気持ちがわかるの?」
「解らない」
 女の顔をまじまじと観る。固まった表情は、信号機の点滅を目標にしているみたいだ。マスカラの塗られた豊かな偽の睫が風に触れて溢れそうだ。
 話しかけてくる男のひとりは、あちこち穴の空いたぶかぶかのブラックデニムに、うわ半分は血のりの染料が滲んだ真っ白いTシャツを被っている。二の腕には奇妙な蛇柄の刺繍。足下には灰色にくすんだショート・ブーツ。眉毛に斜めの刈込み。体格は貧相でもなく、かと言って大層でもない。無国籍で無品性な無記名の人体、何の為にか生まれ育ち、こうして軟派で閑をもてあます東京の一員。
「かわいそうだよ」
「そうかもしれない」
「猿みたい」
この太陽系の第三惑星を浸す、水の滴りでよろこばしくも染み渡った生活様式群が奏でる曲はやるせなくものがなしい。
「時間は進んでく」
やがて熱ったアスファルトに鈍色の点滴が突然に為される。お天気雨は、裸のままで立ち尽くす幾多もの社会人達の全身をしっとりと濡らしていく。じめっとした空気が、無音のスクランブル交差点をあたかも撒き水をした後の如く支配する。スーツ姿の会社員のめがねは曇り、初老のおじいさんの禿頭は陽光に尚一層に照り返し、若い女のキャミソールからは透けた薄い桃色の乳首が覘く。
 まだ残暑の続く秋雨が上がったあとに彼らは、自分たちの姿を知るだろう。そして又、人なるものの下らなく、とるにたらないさがをも。

理性の位置

もし世界に博愛がなければ、あらゆる子は孤独でなければならない。そして弱きものどもへどんな救いも訪れない。理性崇拝は浅薄だ。それは本能に縁起してのみ自律する。

地位の倫理

知能格差は社会階層を造る。社会階層は個別には厳密ではない、常に例外を含むが、総体として真実。これは我々の集団生活の工夫だった。たとえば猿がmount positionで地位を示すが如く、彼らは時代に応じて同様の肩書きを設く。この便利に従って体制は造られる。Marxistが唯物史と名づけた社会運動はこの範囲にある。
 だが地位を即揚棄することがどうして条理だろう。賢愚を同列に並べて同等に働かせる行為より粗野な暴威があるか。実存主義者が体制構造による少数の犠牲者に同情を寄せるあまり大多数の組織的秩序を一度に破壊して良いものだろうか。これは共産主義革命の不能を物語る。地位肩書きは文明の方便。それを否定するのは狭量な怨恨に過ぎない。我々の為すべき社会改良への福祉は只に、地位自体の権利平等推進にある。
 地位肩書き間の等価性が労使間格差を是正する働きを持つ。知能は協力分業の道具。同類を奴隷化する武器ではない。

2006年10月12日

個性

人が猿になりたいとは余程信じない如く、彼らの遺伝子がよく生存主義を全うする方向は神格的実践にしかない。
 仮にこの意味を理解できぬ頭脳の持ち主にでさえ自由という檻は次第に唯一の出口へ、乃ち自己神格化への道をそれぞれ別々に辿らせざるを得ないだろう。個性と呼ばれる獣道に従って。

自然に対する適応

知能格差は一方で搾取と使役を、他方で先導と分業を果たす。自由主義という輝かしい名で隠蔽された体制の内実は、要するに社会繁栄の合理化で、いいわけ。もし君が人間における最上級の理性人と最低級のケダモノとをあからさまに比較した場合、必ずや異種の生物の観を催さざるをえまい。それ程だけ人類は生後学習に依存する生物として成った。いいかえれば彼らの生活とは、自然に対する適応として、その混沌度への抑制。学習は人間格差を設ける便宜。
 そして彼らの行く先は片手では風紀として謂われる時代にとり適切な種内間関係であり、もう片手では天才の至上限の拡大による創造的適応能力の生存主義的目的開発。我々はこの作用・反作用の経過を文明度として理解する。

思索の意義

彼らの思想が唯一、仮設としての内容しか持たないとするならばどうして彼らは学ぶ。宇宙を理解することはかくも儚い。物理法則は永久的ではない。それらはすべて激しい歴史的検証に晒されることで、当の時代知性にとっての最上的思考作業であるに過ぎない。
 にも関わらず、彼らは人間精神を信仰するしかない。彼らは彼ら自身の為にしか学べない。哲学者は人間精神の花。彼らにおいて理性が理想という目的を達する。

人間原理論

無としての純真空状態へ数学的経過を通って揺らぎが起きる。それから我々の実存する宇宙は膨張を続けている、という事。だが人間はどうか。哲学の命題。多様化する形態の一種として生態系を構築する。
 そこでは生存という命の法則性、形態発生の有機性が固有であり、人類という方式において道徳律をも定義づけた。それは種内競合を最良に合理化しようとする命からの令。同時に、人間は周辺環境をも改良・人間化することで文明を築く。自然の侭の有り様を破壊して人工物の秩序を推進する、芸術とはこの極地の謂いに異ならない。
 我々はこうして宇宙の普遍的秩序の中に含まれた有機物の一現象。デカルトは特異な想像力によって精神を第一実在に置いた。だがこの命題には現象的なものへの考察が足りない。精神は物質から離れて存在するものではない。なぜなら人類の肉体が無いところには懐疑的精神もまた実存しない。肉体、更には頭脳の現象としてしか精神作用は説明できない。
 世界に存在するのは物体運動だけである。物質と現象の等価性(E=mc2)。精神や法則ですらこの範囲内で説明できる。例えば実践理性的な自律精神が人間の種内秩序を理想的に整える為の精神作用であることは哲学的であり、この精神作用は特有の脳内化学反応の組成にまで還元しうる。背理=とある精神病患者における倫理の崩壊。ところで法則は物体運動の規則。人は言うかもしれない。神にしか創れない圧倒的な理念の由をどう論ずる。だがideaは思念。つまり、科学的観想に類した精神作用による物体運動形式。それ自体は精神外部に存するものではない。ここに現代哲学における大きな転換がある。乃ち、科学法則は我々の思念がまさに数学を研究する時の様自ら秩序づけるものだ。私はここにあらゆる西洋哲学を揚棄する思想がある、と信じる。カントがコペルニクス的転回と云った、宇宙における主体性の転換と同等の悟りがある。
 宇宙は自体が無目的。なぜなら一度崩れ出した無の領域は、有形界へ向けて無秩序を徐々に拡大させるだけ。あたかも科学法則によって例えば水が100℃で沸騰するといった世界が、我々より絶対な何者かに秩序づけられている、という幻想は旧約聖書的構造に過ぎない。僅かながら我々の人間精神能力に限られた範囲で観察の及ぶ世界に理論法則が見いだせる理由は、ただ単に人間が他の可能性を理学考察的に排除して、あたかもその様に見ているからだ。月の水は100℃で沸騰しまい。なぜなら空気がなければ状態を変化させる媒介もない。宇宙はただ自己を展開させる世界。人間は人間的にしか宇宙の種類たりえない。

浪人

君はまだとても若くて、きれいな砂浜が続く海岸線を何キロ行っても、体は疲れることを知らない。涙は波の様に肌を伝って、向こうから聞こえる街の新しい一日の響きの奥へ消えてしまった。

記録者

文学する者は青春を生きる者ではない。

普遍愛

仏陀が執着するなと言ったのは正確。すべては流れ去る。そして永遠を留めるいかなる法もこの世にはない。ならば、執着するものを現世の中に持つことは不合理。
 普遍愛が地球を救うといった考えは常に、人類史の聖者達の心を支配してきた思想だった。

民族主義の終わり

我々の一族は元来、人類の中で最も遠く本土の焦燥から逃れ、やがて極東の離れ小島にまで流れ着いた。島内の人々はその共通文化の為に民族という思い込みを得た。そしてこの一群は、交通によって世界史の紛糾雑駁の内に消えてなくなるだろう。

信仰

生きることの困難さに比べて死ぬることは余りにも容易(たやす)い。

自殺するのは臆病者である。

 君がもし一介の士(サムライ)ならば、誰かを助くる為に生き延びよ。

2006年10月11日

信仰

私は弱い者を救う為に生きよう。

その為に強くならなくては。

信仰

神様は一人の人間が真剣に生きようとしているのをおかしく思うだろう。

私自身が自分について全く、そう思うように。

 人はそれでも生きる限り迷うものだ。

神様は人生という営為を何よりも慈しんで下さる。

秩序

君が肉体としてこの世界内に存在する苦痛、絶え間ない混沌を完璧に解消するすべは死しかないだろう。だが同時に、その抑圧を緩和しながら生き延びること、理想に生きるのは、地上で最も尊い行為。

福祉

啓蒙の救済は最高の福祉。

福祉

名誉欲は人間が持ちうる中でも最高に近い欲望ではある。誰よりそれを欲しながら、潔く宝物を棄て去る者だけが完全な偉人の道を歩む。
 公正無私に生きることは自体が根本的に不可能であるが故に神格の謂いに違いない。

2006年10月10日

理想美

完全な理想美とか、理想善・理想真とか、いわゆる理想は現世に実現できない。形相という仮の容貌を借りて似せうるだけ。だから例えば、芸術家でもある美学者、芸術史学者が、己の表現を嫌ったとしても否応ない。理想は実現された途端、現実になって堕ちるから。

口伝

無口は至善、高尚な議論は次善。無駄話は問題外。話さずとも即理解し、行動を通じ合う関係は理想の伝達方式、以心伝心。

本能

色狂いは愚者に任せておけ。
 誰かと結婚する積もりなら、飽くまでも理性のみによって確定せよ。

男女

異性は二足歩行の哺乳類の形態を仮に取る。男は冒険心の故に成長し、女は恋愛心の為に成熟する。相克故に多様性を生じる計画の通り。

自律

理想へ伸びゆく精神は独立完結した志向。自律の一歩から真の人生は開始される。

文芸論

私は文芸の暗さを脱回したい。それは漱石論によって作り上げられた潮流であり必ずや普遍ではない。明るい深さ、万人をよろこばしく情動する方向はある筈だ。喜劇でなくて明るい近代小説の道が。

中庸

孤独になればなるほど普遍に通じるのは人間の皮肉ではないのか。理性は、本能を叩きのめす。そして本能に活きる俗物連中を心底軽蔑させる神格をも開発する。人間の体を以て産まれた限り、この構造的な矛盾を避けられない。精神的懐疑を生み出すのはこの緊張感である。
 かつて人類に救済がありうるならば、理性と本能の程よい調和にしかなかったのではないか。アリストテレスや孔子は中庸という言葉でこの人閑を生き抜く為の真理を謂い表している。

競合

必ずや人間の競合から逃れられはしない。仙人風隠遁生活も君を人類でなくする訳ではない。生活するならば少しでもより過ごし易く、この競い合いの仕方を工夫していくべきだった。

自分以上には決して苦しませない事。

牛歩

敢えてゆっくり歩む者だけが大成できる。だが、人生の時間が有限であることを忘れるな。

緊張

個人が専門化を目指せば目指す程、逆に教養の必要が生活を絶えず圧迫する。また万能を果たすべく懸命に分野を跨いで行くと必然に理想的専門化の要請を日々憶う。
 私個有の苦悩、苦渋、精神痛覚の中枢を絶え間無く満たして人生を役立たせようとするのは、この今にも魂を引き裂こうとする両端からの緊張。

隠士

文士はよく隠遁する事。片手では社会への献身を果たし乍らも彼らは飽くまで独作の徒なのであるから。漱石が維新志士の気負いと俳句的観想の態度を両立したい、と指導したのは重要である。唯、離反と献身の生産的批判者にそれを見出せる。

政経と学術

政経活動は一時的で、学術活動は長期のもの。政経は今を、学術は未来を改良する。

信仰

できる限り現世と関わるな。

欲望――富、地位、名声。
それらは現世(うつしよ)のものでしかない。

 君が予(かね)てより見据えるべきものは『文明の先覚』だ。
知的生命の揺動に先駆けて彼らの方向を最良へ導くべきだ。

 君は地上の者をなべて侮蔑している。君自身でさえも。
永久の真理のみを伴って歩け。
この世のものに執着するな。

佳き日

夜明け前、君はうすらぼけた満月の浮かぶベランダに出て、なんとなく夜の海を観ている。そこにはまるでかつて失われた全ての思い出が浮かんでいる様に感じられる。もう二度と手に入らないもの、既に消えてしまったもの、大切に胸の扉の奥に閉まっていたもの、色んなものがごちゃごちゃに頭を廻る。だけど君は知っている。君自身ですら既に、時の向こうに失われてしまったのだ。
 ゆらゆらとさざめく波形に響いて水面は、神聖な光をかぐわせる小さな庭の様だ。君はその風景の中に融け込んで、もうみえなくなってしまう。海辺に建つ一軒のマンションから遠く、一台の車が夜闇を斬って駆けていく。
 僕はその中から何処までも続いていく水平線を眺めていた。朝焼けがやがて地表を端っこから染めあげていく。地球は今日も回る。太陽はまだ、生きている。人類は世界に沢山暮らしていて、ここの裏側ではきっと夕闇が落ちて来た頃だ。
 魚は海の底を游ぎ流れて暮らす。鳥は遥かに上空を巡り、大きなわななき声で良き朝を告げる。
 街中ではもう始発電車が働き出した。まだ眠そうな車掌さんが駅舎の小さな窓から顔を出して、太陽の顔を見た。郊外の、調度いい一軒家が一杯並んでいる土地から、幾多もの自動車が出発する。お父さんが仕事に行くのだ。お母さんはそれを見送りついでにごみ出しに行き、近所の奥さん方とまたなんやらぺちゃくちゃ話をしてる。鮮やかに黄色い学童帽を一様に被った子どもたちがぱらぱら、まるで振り散らされた万華鏡として校門の方へ集まってくる。
 先生は教壇に立って、言う。
「みなさん、お早うございます」
おはよーございます! と皆は言う。時計はそれを笑顔で聞いている。

自分

僕は世の中が嫌いだ。幾ら分解しても知れない複雑さを伴って反射し、幾重にも積み重なって拡散する。生存するべく競争しあう魂の列。僕はそこにさいなまれている。理由もなく、事由もなく。狂った地上にわざとらしく配置され、沢山のわるものをやっつける役割劇まさに、一介の勇者として現世に立つ。そんなものは予定調和だ。
 文明の光に導かれて、宇宙を冒険する一粒の精神。僕は一人の男子であり、こうして地球に生きている。そこにはどんな冗談もない。

2006年10月9日

信仰

地上の問題に心を煩わせぬよう努めよ。

どれも些細なことである。

生死苦楽、すべては儚い。

道理だけが一瞥(glance)に価する。

少年は突然に、世界内に存在した。特別な中身があった訳では無い。平凡な両親が居て、普通の学校に通う、何のことはない小学生である。この少年は常世の間に揉まれて、育っていく。どこにも不思議は見当たらなかった。沢山の出来事が経過し、やがて彼は大人に成る。
 青年は街を吹く風の中に空を斬った。美しく、逞しく膨れた二の腕には鞄を携え、夜闇の隙に一塵の灯りをみた。隆々と蜂起した魂は自在に知性を駆け、時代に役者として立つ。一介の君子は労働の為に、学術の為に生きた。そこには虚しさと充実とがあり、自由と絶望とがあった。
 あかりはやがて展がり、周囲を隅なく浸した。女は妻として寝室の奥に一畳の余裕を許した。そして再び別の少年が現れた。
「何もおかしなところは無い」
大人となった青年はそれを何度となく旨とした。
 毎日は単調で、いつか感覚を失わせる。朝が幾度来たかも知れないある夕べに彼は高い塔に登る。超高層ビルの頂点。街を見下ろすと、そこには数えきれない生活があった。色々に瞬く無数の光。彼の営んできた精一杯は、この巨大な構造物の欠片なのだ、と思う。そして自然に涙がこぼれる。彼は老人と呼ぶためにはもう充分に老衰していたから。
 やがて少年は大人になり、老いていく。だがそこには美しいあらゆるもの、忌むべきなにもかもが入っている。まるでおもちゃ箱をひっくり返して戯れる子どものように、男は孤独な道の上を歩いていく。どんな理由もなく、何の目的もない。長く、多くの争いに満ちた一筋の競走を追う命。

2006年10月8日

再創造

生命文明はentropyを縮小させるような働きとして、宇宙の秩序を再創造する。

芸術論

芸術は環境の改良であり、音楽は音環境を、建築は場環境を、詩歌は社会風紀を改良する。それらは趣味という観念に依拠しながら次第に文明を形成し、宇宙に生命力に満ちた表情を与える仕組みだった。

美術論

合理美は新造形主義を含む理想である。しかし、それを定格に足るものとして疑えねばならない。型は敢えて外された時、その本来の潜在能を解き放つ。だがこのような芸術は芸能であり、美学ではない。
 よって、君にとって唯一の美術的な理想は合理性でなければならない。それはより秩序立った体系を目指す整理の意志である。

絵画論

どうして写真が現れたのちに、幻想の自然物象を平面上の色彩調整に再現しなければならないか。どれだけ緻密な絵画でも、写真の美術には再現芸術という面で到達し得ない。だが合理美の究極に我は理想郷の姿を観たのだ。それは決して完璧には実現しないが故に当為として人類の芸術を導く様な理想である。

理想

生涯に懸けて才能を追求すれば殆ど神々しい崇高さに近づける。

佳かれあしかれ彼らと供に住まう他に地表にいる訳はない。

文章

闇を截って空の肌が露出する。突然に高潮した典の展望は、地表を並べ替えて締める夢中の扉よりも現実的ではない。謂わば現実味は言語幽幻の間に浮上する自重の念である。想像を捉えて充填する語感の様である。人は恰もその為に、右従左住に傾く有閑の音程に異なることはないのだ。

 ゆるゆると念頭を置いておいたが、何の訳にこうしたか判断に苦しむやもしれない。あたかも自然の遊興がそれを導くように、文字列は忽ちに世界全景を開陳する。
 金銀銅に瞬く間に都市を飛び去っていく一羽の鳥は、数の無い光を眺めた。そこに日月はあった。闇はあらゆる命の輝きを生かす背景だった。もし有志が文章に構想の好する形相を省みるなら、地球の回転は須らく情報となる。どうして文がその様な戯れではないものか。

整えられたもの

いくつもの時間が過ぎゆく窓辺に立って、朝焼けが通り抜けるのを待っていた。君は七色の雲が舞い散るのを見た。空から約束の船が降りてくるのを観た。
 やがて地上を遠く離れて、小さな青い星が看えた。あたかもそれはかつて自分が住んでいた場所の様であった。
 飛び去っていく舟の一帆に紛れ、遙かな海を游ぎ渡る。時計が壊れ、現在と将来の関係はなくなる。すべては同一平面で繰り返される貫入のパターンに過ぎなくなる。
 隙間なく吹き抜ける波の形がいつしか、旅の目的すら受け流してしまった。星屑の瞬きが大空の秩序を照らし、美しい記憶をおしなべて壊してしまう。
 やがて君の今は自由の呼ぶ声の為に語り始める。世界はこの様に創られた。そして物語りは地上のものとなった。

建築論

反合理主義者が如何に芸術史学的業績を非難しようと自体は無視されねばならない。建築の目的は合理である。

建築論

建築を美へ導く唯一の法則は合理性である。

建築史学

表層的な華々しさを競うだけの物ではなく、建築史的に刷新をもたらす達成を同時に実現する物だけが充分な考察に値する。そういう作品を見抜くまなこを以て最新の情報を選り分けねばならない。

2006年10月7日

労役

大人はなぜ働かないと暮らしていけないのか。環境的要因、食糧生産能率。土地柄とそこへ適応した人々の性格の比。
 文明創発の土壌如何。地球人類の必然性。何が彼らを生み出した? 数学的確率、天文学的解析、生物学的原因。労働と遊戯、奴隷と主人、大人と子供。知能啓発が呼び出す影響、種内競合の合目的性。

物理学

宇宙秩序はなぜ存在しているか。物理・倫理・合理法則はなぜ見いだせるのか。精神はnatureとして如何なる自律なのか。宇宙膨張自体の訳。世界が始まったのはどうしてか。理想的真空状態に何があったのか。

男は何より世界の構造が嫌いであった。とるに足らない何かを奪い合って競争を余儀なくされる法。その輪廻に巻き込まれた理由を独り、問わない訳にはいかなかった。どうしてわざわざこの世に産み落とされたのか。
 男の親は平凡な現代の中流階級にあって、何らそんな哲学的な問題を拠り所とはしていなかった。だからこそ彼は特別に知的な由なく育まれたのであった。
 男は俗物を徹底して嫌悪していた。倫理学は彼らを尊重していたが、彼には猿にしか思われなかった。それだから男が自分の身の置き所をこの世のどこにも見いだせなかったとしても不思議ではない。
 朝日が昇り、また沈む。男は年中の繰り返しにくくりつけ貶められ、辱められていた。屡々彼には死という、遥かにぼんやりした運命だけが身近であった。
 世間の駒達は、己の権益を全うすることに必死で、目を持っていなかった。ややもすると男は肉だけこの世に住まいながら、地上の何物でもなかった。なぜ彼は生まれた。
 空模様は移り変わり、うつくしいものをなべて押し流してしまう。陰影は深まり、輝かしい世界をますます遠ざける。場所の知れないどこかへ墜ちた一個の命は、やがて再び宇宙の姿見のうちに融け出していく。しかしそこにはどんな理由もないのだ。

2006年10月6日

都市論

都市環境を改善する方法的実践、文明見本の為。
 暫定法規と個別建物の複合的啓発。技術という証拠。それを通じた実証的な公論の啓蒙。専門家向けの学術研究を大学研究室で、その伝播普及としてのわかりやすい作文を雑誌に寄稿、公演で完成する事、論証。
 福祉民主世論にしか再開発の方途はない。独創的芸術家として都市へ可能なのは抜群の傑作による啓蒙の影響だけである。

秋雨の匂い

アスファルト降り頻る秋雨の匂い

2006年10月5日

建築論

何もない空間を至上とせよ。整理の美学。

2006年10月4日

芸術論

人工物は抽象的操作。つまり、自然の現れを調整して彼ら固有の構想力を遊ばせる様な形態変形。そこでは自律理性に由来した多様さと、幾何的普遍性とが協業する。あらゆる人工造形はこの範囲にのみある、と仮定していい。それ以外の芸術は科学技術の部類に入る、としよう。それなら多様と法則の関係性を、ある趣味の発現の元に総合する様な遊びを美術と呼ぶ。そして美術におけるうつくしさとは、この芸を遊ぶ才能のものであり、それは理論と実践を媒介する技術的処残。形相として象徴化された芸術は作家本人の思想に他ならない。だから天才とはその思想であり、技巧は優れた思想のもとに存在する。

建築論

芸術美に目的があるとすれば、自然の最も内在的な目的と等しい。建築の技法は一つだから。しかしその表象・外在性は凡そ最大限懸隔激しいものに違いない。抽象と我々が呼ぶ姿見は自体、自然精神の指揮下にある。精神が建築の現象であるのは疑えない。理性は自己生成したのではなく、制作されたのだ。問い、しかしこの様な先覚を純粋理性のイデアと調停するには如何にすべきか。
 実用的な仮説としてすら理性の建築は反自然であることで歴史上の同一性を確保して来たのだ。とはいえ具体的建築物象を取るに足らない形相の戯れとして軽閑するのは正しくない。寧ろその真実に理論はある。よって、自然と人工との間に明確な対称線を引くことはできない。両者は形こそ違えど共に建築故。

2006年10月3日

建築論

現代都市を一目標ある全体像へと設計しうると考えた主民の一員は悉く欺かれる。では都市計画学は何の為の学問なのか。
 建築は都市という形によってのち総合的。
1. 多元な発生であることでしか街ができる余地はない。
2. 法規は単に、生成する自由形態に常識を付与するのみ。
3. 断片の繋ぎ遇わせとしての建築計画すら当世論に依存している。
 つまり、近代都市を形成するには如何なる主体も相対化されざるを得ない。
 建築家という輝かしくも古めかしい称号が20世紀に担った人道観、人工主導権は、現代において大道芸の一種にまで落ち込んでいる。しかしこの状況は音楽や文芸といった分野においても同様。ポストモダンは疫病であり、その観念に毒された以上、使命感という生命力は根こそぎ駄目にされる。丁度、帝国主義に触れた植民地の様に。

2006年10月2日

建築家論

強用美を越境しての計画、アカデミズムに偏った建築家にはこれができない。彼らは途中から工学を伝達する側の都合によって分割学習を余儀なくされるから。
 時代の最も偉大な匠は常に、その様な錯誤から自由な場所より生まれる。

芸術家論

人間の芸術家が神の造物即ち宇宙以上の何を創作しうるものか。彼らは只、造化法則の掌に乗って趣味にあそぶ子どもたるのみ。
 彼ら固有の理性が到達できる限界としての純粋抽象芸術ですら、単なる創造の象徴的真似事、謂わば積み木に似た形態遊びでしかない。
 それでも芸術家は己が作風の審美的洗練を続けるべきである。なぜなら宇宙は末端の一枝に独特な掃除人を置いたのだから。
 芸術とは造形の整理である。

技術論

私は理論が目的だとは信じない。だからプラトンやアリストテレスら古代ギリシャの哲人とは違う思考法則のもとに生きていると言える。
 理論は実践と縁起して初めて存在する概念。そして両者を媒介する力が技術。最も生産性の高く、しかも理論実践双方にわたる最高度の教養を要領とする技術こそ、人間が目指すべき最高の理想であると私は信じる。
 理論は実践への手段であり、実践は理論へのfeedback。その間で繰り返し鍛錬を積んだ者だけが創造の秘密を身につけるだろう。

工学

空中を飛行する自動車をつくる法。その為に要請される法律。及びその敷衍仕方。実施時期について。
 建築形態の事前調整、遺産に限る。空中交通網。
 重力解除装置による、或いは軽薄空気封入のtube構造による空中都市。
 地下へ自然光を導く模範法。

2006年10月1日

芸術論

現世俗衆に迎合するより浅ましい芸術家はいない。自然を無闇に破壊して為した醜くも罪深い作品の群はそれほどなく捨て去られる。当然だ。愚か者の記憶を地上に留める必要は一切無い。
 美学文脈への記帳をなせる少数の傑物がもつ輝かしい聖跡だけが貴重なのだ。

デリダ批判

Metaphysicsのresetを合理化する思考様式としてのみdeconstructionはあり、哲学的組積はその範囲に限らない。喩えれば、pyramidを建設する坑人が誤って不条理な石を積み上げた際、それを仕方ない誤解として取り上げる行為が脱構築に値する。そして自体は巨大なconstructionの一部の出来事にすぎない。哲学における形而上学は言語を道具として弄ぶことにしか基礎を持たない、と今更ながら確認して何になる?
 善悪の彼岸は実存と構造の倫理学として課題を突きつけている。哲学の主題は実践善の構築にある。それは理性による時代環境の改良に他ならない。

宇宙学

神、Energieが宇宙を創作した原理を知らねばならない。全知を追究することが悟性の命令だから。

ある日

飛び交う船が貿易の空線を示す。近未来都市を歩く一個の影が地球の秩序を描いていく。秋の空は変わりやすく、乙女心はそこに落とされた画龍乃睛の様。月に棲む兎が跳ねるのに合わせて、地表の文化は次第次第に転回する。諸命は恰かも夢現の隙を惑う非常のはためきに有る。
 大地の抗争は社会を築く詳解を示さんが為、図像群を試行しては嘗玩す。あたかも地上絵をもてあそぶ子ども、快闊しては瓦解す。昼夜は男女の游に似て、色々の日常非日常をくるくると入れ替える。世界史は総てを一矢の跳躍に返還する。それは個々人の生涯を単なる点へと集約し、いつかは形而上に向かって省略してしまう。
 青年は語る。僕は時を駆けて来た。日月は止まず、活動は絶えなかった。星晨は震えて明日を煩った。秘密は知れた。
 いまや夜闇は僕を怖がらせない。だが、もう東雲に心を響かせられる事も無いのだ。宇宙の夕立は果てなく明るい世界を暫く蔓延らせた、尽きせぬ文明の遊興によって。
 一台の空中自動車の助手席に座った女性は、唯、それに頷いた。まるで私たちの今日がいま、終わったみたく。

2006年9月30日

いろどり

重なり合って延びて行く沢山の層が、地球のあらゆる物語を相対化してしまう。人類がどの様に暮らそうと、そんなのは大世界の展開にとってどうでもよいことだ。小説は人間ジンカンを描くのに四苦八苦した。だがそれは、作家の人生観を読者とを対話させるような文字列の遊びだったに過ぎない。
 近代人は自由の権利を社会的に拡大するに応じ、生活において多様な選択肢を余儀なくされる。小説、幻想を排した物語はこの様にして需要に当たり、複数の主体がその生産消費へかかづらって来た。
 歴史は時代という層を透かして数知れない劇を観せてくれる。彼等はそこに登場人物の一員として置かれている。
 僅かに数十億年の合間、一個の恒星が誕生して死滅する。近くの惑星では偶然に奇妙な有機体が明滅するかもしれない。だが、それが何だというのか。
 地球が太陽の周りを地動するのと同じく、太陽は天の川銀河の中央にある重力点を中心に天動している。
 両者に詩的隠喩を適当させるのは、いうもおろか文士にはさほど困難ではない。宇宙は両者が戯れる歯車という、非常に単純な構図で理解できる。そして人は明らかな文を彩為す。色とりどりに紙面を濡らし、心象を冒す風景を画く。まるで一夜の夢らしく。
 何れにせよ、文学がもしここにあるならば、の話だが。

建築論

窓のある乗り物に入るとは、移動の主体を交換したという事。相対性原理。
 建築にガラス窓を設けるという行為も又、その様な等価交代を可能にした点で風景の相対化。

2006年9月29日

素養

芸術品位を高める土壌は文化的教養のみ。

約束の船

天空は自由の音楽に開かれた形態を以て、地に這う様にして暮らす人類達を馴らして行く。彼らは幸福と悲惨とを食べ物にして日を暮らす。何の為に現れたか知らず、いずこへ朽ち果てるか判らぬ。日々が廻るのに合わせて社会という舞踏に戯れる。
 花は咲き、萎れ、入れ換わる。波は打ち、退いては返す。林はなびき、清流はせせらぎ、森はわななく。湖が満月を映し込み、沼地が遥かに霧を呑む。滝が轟々と大地を揺らす。
 砂漠は嵐を含んで静寂を湛える。それでも答えは見えない。自然はあるがままで、全てを一因ののりのもとに開陳している。虚ろな精は幽幻の縁に漂って、確からしきもの、建築を探求している。
 それはだが、今世の物象のうちに在りはしない。永久を慧眼し得る神格の名残りとしてのみ、理想の宵のまじわりに游んでいる。

2006年9月28日

聖者の他に朋を待つなかれ。

処世学

あらゆる既得権益層は死亡する。

草子

地上を幾重にも仕切る境界線、国境を乗り越えて、人心の襞を織り為す文章が在る。或いは誰が望まぬ共に、この一文がそうかも知れない。文学と時代が与える名称はこれを云った。
 人間の如何を問い、世界の秩序を触り、言の葉が華やかに散る様を丁寧に拾いあげる希有な順列。併しそうして構築された世界も、現象界の出来事と実際何ら相変わる事は無い。無形の本質は常に我々の内にのみ孕まれている。実存にではない。思念を絶えず再生成しては消費する情報処理機関としての自然知能に由来した反省的特性にだけ、理性は見つかる。
 文芸も又然り。混沌と膨張し続ける大迂の漸進が、事物の間に一定普遍のさだめを流し尽す際に、あわれを憶えて彩の組み合わせに心象を記録する仕事が構想される。嘗て沢山の学士がその召命を果たして来た。止まれ今日の僕も彼等の一因であり、根拠の存さぬ仮面を截って人類の儚きを滔々語り、待たれぬ時の畳みに情状の様を折り込む。先代風に文法を踏み、型を僅かながら破格した厳かな新種の一行を遺して後代の参照に付す。虚心は夢中に舞って遊びの瞬を浸す。
 喚起される理想の凪が高尚の風景を塗り替えていく。

明日香

やがて夜明けがやって来る。写し世の暗い喩えが熱を帯びた土地に降り注ぎ、草の子を次第に捲る。所へ旅の中途に在る役人が行き先を尋ねる。何処へ行く、太陽は答えない。只、雨中に魔法を照らすのみだ。
 命は理由を持たず漂う、儚き御霊に過ぎず、世界は彼等を遊覧する揺り篭の如し。空模様は暗湛自然、東京の姿を降り注ぐ陽光のもとに順々曝き出して行く。待つ人は知れない。いつ解放が訪れるのかを。
 月日は往く。気づく間にか二人は離ればなれ、美しい旋律はあわれ萎れて大空の隙に溶け込んだ。今はもう、誰も居ない。静かに回る球体の運動だけが虚構の淵を覆っている。

2006年9月26日

夢見

朝焼けが眩い。世界を浸す静かな音は、夢中の内に溶けて幾多もの念願を揺らす。地球は廻り続ける。
 空は太陽の照りつけを写してまほろばの合間を繰り返しふらつく。海沿いのテラスに遊ぶ一対の影が体現する法は、宇宙の塵舞を尽くして流転に続く。踊り、狂う。秩序は崩れ、反り、退屈を浸す。去りし時は覆す事能わない。地表の戯れを見送る雲往は展開と縮集を反復して後果てる。
 行人は砂浜の隅々に住まう生き物の様子を眺めて、旅程の成就を祈る。過ぎゆく世相を鑑みるにあたって、やるせなき発現の潮汐を反省するに如ず。夜が過ぎ、朝が来る。
 だが対象の因果は不変の体で時空を充たす。遂に仕舞うのは季節の要を縫う光だけだ。
 魂が闇雲を進む宵に、都市の姿が彩やかに見える。天は赤紫に瞬き、妖しくも際どい世紀全容の気色を為す。私はその何処かに在って、会えない誰かの心を探し求めている。何の為に。日々を繰る両手には血しぶきが笑う。己の血である。生きる度に必須とされ、新陳代謝を余儀なく搾取廃棄され、次第に大宇のエーテルと馴れていくもの。すべては夢でしかないのに。

建築論

建築が芸術と呼ばれうる為に要請されるものは何か。それは全体構成がひとつの美学的理念の暗喩として貫かれ、対伝統批判性を保っている場合に限る。建築芸術の高邁さはすなわち、多主体の協働作業力が一個の理想的目標へ向けられた時に発生する。
 建築家の美学理念、建設原理はこの為に必須なので、すべて彼の天分が由する職能は、建設原理に対する習熟知の度合いに依る。そしてこの原理こそは、時代の工学が有する空間構想の極致に因む。
 もし建築家に偉大の名、巨匠の名誉が冠されるとすればその作風に対伝統批判の模範が示されている高らかな証の連綿さによるだろう。

秋風

涼しげな秋風に香る夕暮れ

カントの人間中心さ

私は、カントの猛烈な人間中心主義が道徳的だとは信じられない。もし人間より遥かに理性的で、ずっと善い生き物が宇宙のどこかに居たらどうするのだろう。
 我々は新たな道徳標準を彼らから見習うべきであり、それがあたかも我々自身の本性に基づいたものであるかの様に振る舞わねばならぬ筈だ。

2006年9月25日

秋葉原

秋葉原昔の姿今はなし

長袖

長袖を着ている人が増えてきた

2006年9月24日

史学

文明へ向かう伝統批判の精確さが文化的建設の基となる。文明と文化とは矛盾せず、両立駆動する。丁度、handleが文明であり、実地を走るtireが文化だと暗喩してもよい。基底を崩しつつカタチを変えながら進行するのが文化であり、文明は不変な目的=操作指標である。従って、文化は常に脱構築される土台に過ぎず、目的ではない。人類は世界史的抗争に準じて社会秩序を展開させて来たが、その際にひとつの典型構造として、湿潤の文化が乾燥の文明に侵略されたことを多分に経験してきた。この被抑圧側の不条理の記憶が文化的郷愁としてしばしば、独風化の反動昇華として現れる。これが地域文化独特の大観だった。
 だがいずれ、そうして築かれた新たな社相も違う文明からの事情としての干渉によって揺らがぬ事はない。無常の民族感覚はここにある。それは地理的な不利を被った少数民族が体感として遺伝づけられた無意識本能に近い。従って、地球人類において無常観は民情の中心に常にある。人類世界の展望とは、文明の世論や幸福主義に対して文化の民情が脱構築されていく様な歴史体系である。

政治学

民主政で哲人政治は不可能に等しい。なぜなら大衆の総意は中庸策に集まるし、寧ろ抜群の為政者を危険人物として排除する傾向にある。
 現代の政治哲学は世論の量質を問うものでなければならない。

審美論

高級な芸術を志向する試みだけが工人を美学者へと誘なうもの。美学は学問としてない。単なる人文教養の批判的総合としてのみあり、工人に不可欠の素質として芸術の入口となる。
 そして考えうるかぎり最高峰の美学的基礎を伴った工人の手になる作品だけが、少なくともその時代を画する芸術となる。而して審美は智徳へ対する構想の天分に由来する。
 それが美術史として体系化される背景には、厳とした文明がある。完璧なお祭りではないにせよ、全く気まぐれとも言えない運命の連綿として審美論はある。

民族主義の自己破壊性

国際外政は常に多少干渉の関係にある。それはunited statesの内部構造がやはり国家同様なのに等しく、苟も地球に建国する限り永久に逃れられない村原則である。孤立した社会主義国群が遅かれ早かれ、干渉の道理に従って民主化されざるを得ないのは自然だ。それは直接的奴隷使役が国際法治によって禁止されるのと同様の文民化・civilizationに応じる定め。しかし、大多数の人民がそれ故、総意としての世論が心配するのは維新摩擦を加速させるような政治悪意なのだ。
 先進連合国際高級官僚諸群は彼らの多分を信念づける現代的な価値観に基づく功利体系・pragmatismに依って、程度はあれ破壊をお祭り騒ぎ化しなければならなくなるだろう。なぜなら必ず勝つ戦争は唯の八百長試合であって、弱い者虐めの大袈裟化にすぎない。彼らの最悪意は国際関係の道具的援用にある。これが現代政治悪意の病根である。とは言え大衆民主世論に可能な批判が、殆ど絶望的に無力なのは疑えない。それは世間一般の常識を反映するに過ぎず、自由主義を標傍する近代国家では必ず自我と自他の区別の前提を要するのだから。だが、実践的に社会改良を施しうるのは常に政治活動である。現代の文民は民族主義・nationalismの極度徹底的排撃によって背理的に国家=nation=言語を文化的に存立させ続けると共に、その実際政治的な転回を促す公衆世論の大導を面前と働くだろう。それは多民族共栄関係へ人間を整え、かつ国籍・nationalityを交換可能なfashionにまで還元できる指向だろう。

維新の悪

人々は生の限り地球社会環境を優化しようとたとえ無知による悪を積極的に為す反作用によってすら務める。それは彼らの目的化した種内競争の定式であり、文明と呼ばれる。
 人知最高の性質である理性は、文明建設の為にのみ働く。しかしこの様な建設的な認識がいずれ批判に価するのは免れない。それは世界の多元的かつ多彩な形態を抑圧するような神的統視を前提としているからだ。乃ち、人間の力の均質志向を含む。もし文化と呼ばれる、飽くまで差異を主張する土着的試みに、巨視規模ではちっぽけな差分にすぎないとしても一種の経世済民の事情を見つけるならば、それは脱構築を多種共存のうちに位置づけるような義に根差す。
 西洋史文脈の構造が存在しない周縁圏で倫理を用いる仕方は、構築を文明の為に、脱構築を文化保守の批判の為に用いる事である。模範ではない。創発としての働きかけが地上には必要である。本来すべての国家において決して西洋化ではなく、自発的な成熟を催させるような維新がなければならなかった。

2006年9月21日

都市論

物語は想像において築かれた都市である。そしてこの中についてのみ、都市芸術は可能。
 建築は彼様な形式を擬似的に仮設する現実態である。だがこれは批判ではあるが、建築芸術の価値を幾分なりとも貶める認識ではないだろう。建設再編体系の仮代表制は文字通り民主的ではあるから。

2006年9月20日

都市論

建築の具体的側面、乃ち都市は、言語芸術によってこそ補完されうるだろう。都市は生命体。或いは、可変する土壌。それは全体としては最も偉大な芸術仮設作品ではあるが、他方では活動のせいで決して完結し得ないことによって決して完成作品たり得ない。
 作品とは、ある理念のもとに自立した形相であるからだ。自立していること、つまり流体でなく結晶体な事が芸術作品の歴史を組積しうる理由。でなければ、無際限な差異を伴った天分創造を系統づけることは不可能となる。そしてこの様な態度は原始的であり文化的ではない。
 審美論が目指すべき方向は文明だから、審美史すなわち芸術史は、飽くまで作品の組積であるべき。都市は作品ではない。よって、都市は芸術史に属さない様な総体。それは無常観を撮す言語による写生以外の手法で、審美論に定着することはありえないと云っていい。
 建築の都市空間との等価性は文脈のなかにある。建設に、ではない。

建築論

建築原理は不変的な建設である。
 あらゆる具体的建築物は所詮この様な美学的達成を保証するための仮設でしかないのだ。それが故に、具体的作品はすべてもののあわれ、即ち文学の範囲に属するような仮構の成型物にすぎない。なんとなればそれは必ず滅ぶから。
 私は原理の適合を確かめる為に以外、建築の美術を信じない。またその反映としてしか建築美を観照しない。
 もし人間の為に生活の為に建築技法があるならば、それは時間への止揚、つまり経年性への文化的適応にこそ見い出される。だがこの様な個物は建築美学史そのものにとってはなんの意味も持たない。なぜなら技術の最高の度合いは空間的にのみ達せられるから。
 建築芸術の究極の目的は空間美学の完遂による理想郷の発現ではないのか。生活の為に建築する、三流の物共には時代の社会的用途のみが設計の手掛かりとなる。しかし、この様な野蛮が許されたのは遥かな古代においてこそ、あるいは天変地異による緊急事態についてのみであり、われわれ建築家の模範となるためにはあまりに稚拙な態度だと責められねばならない。
 建築が環境への再編の原理、則ち再創造的適応を解するとき、われわれは人工的な合理性をたんに建設の基礎としてのみ受け入れることができる。たとえ造園という生物配置の作為ですら建築家らの建設義なのである。
 本質的に抽象から具象への媒介としてある建築という空間の造形的遊戯は、しかし、原理的な指図を通じて品を作る様な文明の為の自らへ原理を選ばせるところのものの自由な自律活動であり、而して謂わば、永久の規則再編による発明なのである。そして発明であること、つまり、原理の産物としての実体建築物が、置かれた文化に対して批判文脈的に働く限りにおいて、芸術であり続ける。なぜならその様な建築の有り様は審美的先導だから。そして未来へ文明を高める。

建築論

建築が根本的にグローバリズムに反するものであることは明白になった。世界資本経済の爆発的膨張に対して建設としての建築とは批判。建築に可能なことは常に伝統文脈への批判であり、仮に地球文明の東西南北で隔時間推移にあたり対比的・文化的様相を呈するとしても謂わば破壊しながら構築すること、世界を再編する事。都市生成という甚大な活動の根本には、形而上、理想的な目的形相、文明があることが明らか。そうでないとすれば、おしなべて建築とは自然の戯れにすぎない。
 なんの脈絡もない建築形態の多様化とはすべて構築主義の堕落。脱構築は建築があからさまに伝統文脈に対する知的批判である時にのみ、つまり創造的皮肉であるとき反証や二律背反向上の轍となる。
 審美の対象としての作品がもし超越論的仮象の上だけだとしても史実として組積されていく限り、空間理念の絶えざる再編は、各天分の想像力を造形環境の適応合目的性において趣味判断する価値観の連関として需要される。もし競合的な要素が建築運動のうちに多少あれ有りうるなら、それは他ならぬ再編の発明を切磋琢磨せしめんとする文明の功利生命に因る。だから実際のとある建築家つまり時代計画展開の仮設的代表が、彼の自律をまずなにより理屈の上でのみ実現できるのは職人や用件の指揮に不能だからではなく、功利を兼ねるという極めて不自由な実存の立場に依る。この面でアリストテレスは誤りを侵している。それは、指導役の実態は哲学の暗喩として不適切なのだから。いいかえれば実務に際して形而上的であることに応じてのみ建築家は職能を全うする。一方哲学は対科学的に実践的でなければならず、形而上の問題を具体的現実の為に総合しなければならない。然らば、書斎内脱構築の無限ループは偽善とは言い切れないにせよ非建築的。
 結局、建築の発明とはいつも、乃ち造形技術指導原理の確立。それは素材に固有する執着でもないし、ましてや規則じみた形態操作を伴うような堅苦しい合理性ではない。
 建築原理によって半ば創作的に、半ば社会生成的に再編された具体的形相は、地球の各地にありながらも、その自然に対する宇宙性を抽象によって目指す事で、われわれの想像力を楽しませるような興味深い空間を形成する。

2006年9月18日

慰謝

幸福感への慰謝は高い志、理念として合理化される。

2006年9月17日

全能

ある人類が万能に近似した才に到達できたとしてあれ、実態として、全能は永久に不可能だろう。彼に身体ある限り。機械は能を補完する。それでも能力そのものは磨かれる。成長進化の本能によって。

残暑試し

残暑試しに一葉舞いし

2006年9月16日

建築論

美学様式可能性は工学の互酬ゆえ、分け隔てなき有宇の事物に及ぶ哲学的な思念が知性を真理へ導く限り建築の進展は永久のものである。

死の悟りについて

人生は限られているが故に尊い。貴賤の差別は唯、死への態度によって決まる。人様に猿連中と異なる徳度があるなら、己れが死ぬのを悟っていることに尽きる。理性はすべて自身を含む死の自覚から発達する。

万能

どんな人間にさえ、人生が限られなければならないからには完全な万能には到達できない。しかし、その茨の道を辿ることで君は次第に自ずから救われる。なぜなら命のかぎり目指すべき目的によって人生に光が射し込むのだから。

運動と知能労働の関係

知能労働は本来肉体本能に対する抑圧だった。一動物として人類は、運動を日々の糧としてきた。休息と滋養を怠らずにいなければ、人は何事をも為し得ないだろう。

永遠

人生に時間切れがあることを想えば、君にはどんな猶予も許されていない。すべてゆとりとは幻影である。
 どう能力の啓発に励むにせよ、種の多岐に携わる無限の主体として君の個別生は存立している。為らば浮世を省みるな。ただ、永遠の理想にのみ眼を開け。

信仰

すべて宗教的な偶像の神聖さを汚す者はおしなべて地獄に堕ちるであろう。

民衆の救済を担うのは常に信仰心である。
それは世俗のあらゆる道徳的な水準を提供する不可欠の機構である。

 こうして、背徳者は世間因果によりて裁かれる。

美都

ふるさとよ秋月踊れ美都の端

2006年9月15日

風邪

おもしろし風邪ひきさんの衣替え

2006年9月14日

みわざ

人類の為に芸術がある。芸術の為に人類があるのではない。

2006年9月11日

構造

歴史構造の体現となる事によって人は現世での超越的孤立から救済される。

神道の分析

血筋の偶像としての動く神様への低頭だけが、彼らにえらさを感じさせる唯一の方便とは、国家そのものが一つの人種差別でまとまっている誠酷い状態でしかない。

2006年9月5日

建築論

脱用途的な構造の不変的合理性を追求することのみが、時代の限界に応じて彼の作品を永久の美へ漸く近づけうる。
 しかし、建設は文明の力であり、知的生命共通の仕事である。模範的職務としての建築芸術は、普遍性をこそ敢えて探求せしむ。個別趣味ならぬもの、宇宙生命に普通のもの、万世の貢献に価するもの。もし君がそういう芸術に魅せられるほど濃き血潮に逸る工人なら、最も先駆ける素材とその構造が手答える原理に献身忠実たらんと欲せよ。君は終生に渉る格闘の末にだけ、偉大なる法則と、それがもたらす空間の清新たる安らぎによって救われるであろう。

建築論

建築芸術が絵画と彫刻という純粋造形に異するのは、社会的合理化という一点にあるのだ。つまり作品の理由づけが建築家の職能に他ならない。それは文明の空間が、機能即ち用途のもとに公共建設される自由主義社会的な定めの故に、である。逆説すれば、私設の空間はどこまでも純粋芸術であり得る。仮設の作品が叫ばれる所以だ。従ってそこに設計主旨の説明は不要。
 君が建築家として働き金銭的報酬を得るとするならば、職能を発揮せねばなるまい。則ち、社会的合理化によって再創造的な造形物を公益のもと建設へ位置づけねばならない。建築芸術、建設に救済という内容を見い出すのはここに於いてなのだ。それは普遍性への献身であり、自由なる純粋造形群を、ある時代的地位の元へ整備結晶し、文化財として永久化に捧げる総合美術の仕事である。

2006年9月4日

宇宙史

地球史を超えて、宇宙文明史に模範を刻めなければ優れて一流の人物とは呼べない。究極には、宇宙史の中に精神、思考の軌跡を位置づける事。

仕事

文士の仕事は、語を体系的な価値のもとに再構成する献身である。それは背景たる共通感覚の影響によって時代を翻訳し、永く世相を指導する手本となる。

2006年9月2日

物理学

現代宇宙物理学の根本命題は寧ろ化学的なものではないか。それは物質の起源に関わる。
 法則が先か、物質が先か。あるいはそのどちらもなのかどちらでもないのか。それともそれらのどこか中間に答えはあるのか。
 ところで「物」と「事」がはじまったのは同時だろう。なぜならそれらは同じ対象をちがう観点から見ているにすぎないから。物質と現象の等価性、E=mc2。従って、法則とは両者として仮定されるものがとある秩序関係にある場合の一般呼称である。もし宇宙の起源、揺らぎの主因が知れるなら、それは法則を介してであるだろう。事物は同時に創造されたのだから。

利他

救済と利他性は比例している。

文芸論

もし文芸の意味が真に果たされるならば、それは無用で無価値になる。乃ち日常のあらゆる文章が言語美を顕現するだろう。読み書きはあらゆる意味の共有によって普遍化される筈。

実力

作家の実力とは、伝統批判の確実性である。

2006年8月31日

脱近現代小説

文学の社会的使命は個々の実存を救済しうるような展望を魅せることにある、と思われる。それが想像の利用法なのだ。そして大衆向け商品としての小説が担って来た虚構現実の価値も、そこにあった。大衆作家は面白味を目指して江戸戯作の類を映画風に書き連ねていくだろう。しかし、君は尚、それが批判に値すると悟る。則ち文学が単なる文章として流通するマルチメディア的な契機によって、より神格的な展望を提出する可能性を追求したい。それは文学におけるカテゴリーの分解を意味する。売れる為の作品ではなく、読まれる為の作品を書かなければならない。そうすることが小説より更に進歩した救済の方便だから。

資本の未来

資本の運命を指導する文明は、我々を恐らくは『福祉天国(welfare heaven)』へ導く。

それは個々人の最大の搾取が、逆説的に、最大の恵与
すなわち「共感の支配権」によって成り立つ、
という命題が抽き出す必然の世風である。

 たとえば第三世界や「南側」への資本からの喜捨こそ最高の投機だ
と資本金融市場に自覚される時が巡り来るならば、
世界の最高の金持ちは国際関係のなかに最適化したままで
――要は、世界市民的な福利の恩恵に浴しつつ――安住できる筈である。

文明の狡智

国際分業なる理念が知的労働の流通特化順に並ぶ「国際階級の順列」理論ではない、
という証拠を提出せよ。

「経済界の利権における」[大衆世間においてではなく]国際競争の目標物は
今日、既に最先端の成長産業へ如何に適応するか、という「創発関係」でしかない。

つまり知的多数権をどうやって獲得するか、が経済界における分業の内情なのである。


 金融市場が大衆化された先においてすら、この課題は不変である。
謂わば資本投機の国威こそ「国際覇権(hegemonie)」に他ならない。


 国家外交の力関係は只単に
『投資家国民の知的水準』に依存すると知るべきだ。

以上に誤りがなければ、従ってこう推論できる。
現代、政治の指揮を実態で握っているのは誰でもない、資本の運命なのである。

 我々は実質上、民主政治をcontrolできない。
それは結局、資本(capital)の歴史的運動なのである。


 我々はそれを『文明の狡智』と呼ぶ。

都市の近未来

高密度集住は人類にとってすら自然であり、高度情報化や高速交通利便の向上も実はこの為に構築される機構でしかない。その訳は思想の最速での交換は情報流通の合理化に由るのだ。
 牧歌的生活への懐古が老衰した痴人どもの脳裏を如何に霞めようと超高層ビルや高架・地下交通網を含めて現代都市を総合的に再開発して行く事は避けられず、又避けなくてよい。なぜならそれらは全て都市優化による愚老の為の快適環境をも創造するからである。君もし、エレベーターがあらゆる普遍設計の内部に平らな空間の実施に適うものとみなすのなら、殆ど超高層ビルの全ての層間は一続きの巨大な普遍空間と等価視し得る。
 積層性は集密にとって基本手法であるから、それらが構造的に安定であれば在る程、即ち脱地上的である程殆どあらゆる外的自然からの抑圧を一旦排除し、確保された現代都市は万人にとっての個性的生活を保証する普遍空間なのだ。自然空間建立の格闘は、この様な現代都市の建築の中でのみ可能性を持つ。それは空間の風土的な貫入であり、地域における風流な工夫の導入。
 風情は上記の文化的な経過を通してのみ、都市の最適性のなかに実現するだろう。それは集密の否定ではなく、文明と文化の必然的止揚としてあらわれてくるような人間の風習である。

同時代芸術について

かつての前衛的建築家や文学者が、社会批判の役割を果たす為に担っていた貴族性は大衆芸の成立と共に形骸化したと云える。その代わりに我々が得たのは迎合や宣伝を手段とした俗物趣味の模倣主義だった。
 袋された銘柄を売り出す為に競合するしか彼ら、作家の能はない。それでも世界あるいは市場は彼らの職能に何らかの期待をしているのだ。
 ゲルハルト・リヒターが嘆く様に芸術家という称号には未だ、何らかの栄光の残滓がある。それは付加価値の無際限な差分を演技的に表象してくれること、という殆どピエロじみた諧謔でしかないが。
 我々は独創性という思念を軽蔑すべきだ。
 現代芸術は匿名的で、無個性で、普遍的で、まるきり普通で当たり前でどこにでもあり、どこででも簡単に手に入り、また何のおかしみも有しない、まるで記号的で、いつ幾らでも交換可能な人工物自体でなければならない。

人気と成功について

芸術が商品として市場へ流通してからその特権性は失われた。人気主義がここにある。ジャーナリズムとアカデミズムが対流する様になった原因もやはり、印象派以降でサロンが市場化されたからだ。
 実際、それは写真や映画の誕生、鉄・RC・ガラスという近代素材の発明、活版印刷術の勃興、蓄音機の発明といった工学に対応して出てきた美学の手段であったにすぎない。即ち、人気芸術の潮流は大衆社会の成立に対応している。現代においても、現実的批評は殆ど人気に依るのである。しかし、それはかつての特権的・貴族的な批評の精確さより遥かに能率的である。報道陣は新鮮な奇抜さを煽り、学界の権威は作品の古典的実体を見抜く。両方の結果は人気に集まる筈である。そしてそれこそが、文明内での作品制作の合理化に寄与するところ最大だ。優れた人気作家に儲けが集中すればするほど、それだけ人工環境も効率よく優化するのだから。
 作家個人がそれを目的とするか否かに関わらず、優れた作品の制作者には人気が集まるだろう。それを長きにわたれば成功と呼び、短ければ成り上がりといえる。

母語の目的

文化は語学ではない。よって、文化としての文学は語学ではない。君にとって語彙が足りないということはあり得ない。なぜなら耕作は道具を用いることに拠るのであり、道具自体に因るのではない。
 語学とは、文化の固有価値を観念的な差異観のうちに見出す社会学であって、我々にとって日用本来な文化的な仕事即ち制作とは必ずしも交わらない。だから文学は母語を推進する為に働く。世界言語への志向は文学にとっての目標ではない。
 文学は文化的な目標であって、元々語学の便宜ではない。

理想主義は偽善か

福祉と求道は一見して矛盾する。しかし、それらは共感という管で繋がっている。福利循環は利己的求道によって搾取された利潤を、無償で恵与する利他幸福感の、社会的共有の雰囲気のうちにある。文明社会の活力は競戯の肯定を指揮する。各個人の人生における自由は、その様な制度を建設する経過に従って拡充するもの。やはり理想の究極を至高の活躍と認めよう。それは知能啓発の目的性に倣って最も合理的な福利循環をもたらす。教育はこうして得られる知能格差の利潤を身分でなく、能力に応じて配分するから尊い。それは効率への働きだから。

勉強の社会性

知能犯的に搾取した閑暇を理想に向け代えるうちに文明の分業効率の最適化を観る知識人連中にとって、普遍者ぶったliberalismの理念は都合のよいことこの上ない。
 最もあしき意味でAristocraticな政治的realismを、現代社会の身分差別は全面的に黙認している。それは実質上、文化的奴隷制の暗裏な肯定に過ぎない。だからと言って我々に社会主義政治や共産主義経済を声高に叫ぶくらいの錯誤は無かった。それらは一時的な国家の強化に応じて官僚主義的支配体制をますます増長させるしか結果を取らない。産消成長能力の激減は国土を破滅に導く。良識を信奉する少数の哲士達だけが、密かに社会体系の改良を求めていとまに思考を廻らせている。文明的な貴族の高等な遊戯が社相先導にあると自覚されざるをえないだろう。そして歴史からの使者たらんとすれば、研究と啓蒙に一刻の猶予も許されてはならない。理性は己をはぐくんだ自然を信用せよ。

2006年8月30日

理想

孤独の中に安住する事を至上の幸福と心得よ。理想の中にのみ、君を救済し得る力は眠る。

2006年8月26日

趣味を含めた人工環境について

混沌増大としての自然に対する人間の処仕方を文化と云う。理性の原理が抽象による秩序づけにあるならば、合理性の美学が人類の普遍的目的であることは疑い得ない。しかし、地球世界にとって最も合理的な環境を実現しようとすれば、人々は文化を建築の方法に採用しなければならないだろう。なぜならそれは長い期間を通じて積み重ねられて来た創造的成果であって、風土へ適応する為の最適解を常に、提出しようとしているからだ。
 地球における建築の基本的な方法論は、風土最適解を合理性の中に追究することである。

2006年8月25日

知能の責任

我々には知能しか頼りうるものはないのだ。以外にある人間性とは、どの様な観点からにおいてすら他の動物と変わらない。
 仮にそれが人権の排除を意味するにせよ、精神の精錬を目的にするしか人生の自由はありえない。

神格の当為

人はどんなに先進したにせよ、絶対に神格へ到達しないだろう。それは彼らが肉体に属する限り。よって、神格は当為であり、実現に値しない。生物が生存計画の元にある以上、定言命法的福祉性を実行するべく倫理知能を開発していく経過にしか道徳的人格はない。

2006年8月22日

文化論

語源学を突き詰めれば、とある語体系内の語彙語法はほぼ無限と云える。なぜなら順列・組み合わせによる工夫余地が常にある。よって語間に優劣はあり得ない。全地球言語は等価だろう。もし差異があるとすれば、それこそ言語の文化的価値。
 文学にとって学術的に、文化的な価値があるとするならば、それは語体系間に潜む差異を詳細綿密に浮かび上がらせる中にこそあるだろう。よって文学にとって語学、特に、そのうちの語源学は座右の方便と見なされる。文学者にとって語学の肝要は、文化相対観を養うことにこそある。それは彼らにとり、文明美導に用いる手法を細やかに調整する為の道具。

遊戯化

先進国涯少子化の理由は、産業におけるautomationの普及に対応している、というに過ぎない。単純奉仕を嫌い、複雑勤労へと自主性が育つのは解放の必然。健全知能の促進、乃ち人類文明の筋道は地球的。それは種内秩序を高質に導く自然と理性の狡智であり、応じて競争を次第に遊戯へ向けかえていくだろう。結果、人類社会の発展は幸福の互恵制、福利効率の最適化へ漸進する筈。

超高層の要請

超高層による集密は人類文明にとって通過すべき普遍的な命題である。なぜなら彼らもまた一生物であり、集積の利益を求めて集まって暮らすものだから。強硬保守派からの景観論争がどれだけ執拗姑息にふっかけられるにせよ、文明の理論は都市部における建築的立体化を指向させずにはおかない。
 高齢社会においてさえ、エレベーター、エスカレーターその他機械昇降設備によって普遍設計の原則群は克服しうる。
 もし文化人諸氏が真摯に望むのならば、伝統を積層性のなかに復活させることもできる。つまり階としての普遍空間概念を楼閣化したに過ぎない以上、その自然空間的応用は自在である筈だ。とはいえ、地にへばり付いたならぬ空中生活ゆえに必然、様式はより抽象化されざるを得ないだろう。だがそれは文化美意識を充分に満足させうるだけ、芸術家の手腕によって解決されるに違いない。なぜなら自然空間は常に、確保された普遍空間の範囲でのみ計画可能だから。

少子化と人工・自然比の相関

もし少子化ですら都市への人口集積は加速する一方だろう。地方放置と都心集中による産業力の合理化は、地球環境問題に対する解決策をも指し示す。即ち人類の生息範囲を平野部の都心部に可能な限り集積させる事・都市化とは、とりもなおさず地方における最小人為的自然の快復でもある。農林水産業は文明に応じて、自然に対する最小の介入を目指して生産力を効率化していくだろう。機械投入型大量生産が結局は自然物産の質の向上をすら目指したものでもある。合理的ではない商品は市場原理により淘汰駆逐されるのだから。その究極は自然環境をすら再生産するだろう。例。国有林の養生とか、景観保護とか、狩漁範囲の自主規制とか、食用動植物への最大最高の快適環境・amenityづくり等。

memo

私金恵与+公人貢献=国際福祉

2006年8月21日

達成

最も偉大な学術的達成は、最も深く博く耕された教養から生じる。

2006年8月18日

建築論

快適環境を最も合理的に築くという風土的内容での自然空間とは別に、建築における普遍性の追究の意義次元は存在するのだ。我々は名匠達の跡を辿らねばならない。
 普遍空間はかねてから建築の地球的目的であったし、これからも文明が人間による限り、当為たる理念であり続けるだろう。
 同時代における最高の普遍空間を追求することこそ、巨匠の役目か。そしてあらゆる棟梁にとっての模範たる現物を築きあげるべし。それは単なる肉体的快適性を超えた、精神の創作物としての建設を意味している。

芸術論

芸術における人間原理が如何なる法則のもとに成立しているか。

2006年8月17日

学習動物

凡そ人生にとって最大の問題は、才能を如何に活かして消費するかという事だ。
 人間は学習動物であるから、何にでも成りうる。他方では置かれた時代環境へ最適化する努力を通じてのみ、自己は大成するだろう。

献身

歴史的次元で福祉に献身して生きる事、神格に叶う様に。

2006年8月16日

人生の命題

自身の命題を終生辛抱強く、追求する事。取り巻く社会環境は少なからず可変だろうが、それへ創造的に適応していく事が人生。

未来日本憲法原案

日本人は風土に由来した文化生活を享受し、これを推進するにあたり互恵の原則に従って今日まで来た。また同様の原則は未来に対しても適用されなければならない。すなわち、我々は文明の福祉的共生のなかに生き延びる理由をみつける。
 この憲法で保証するものは、上記の目的の為に努力するあらゆる人々にとって普通の、道徳的権利である。
1.日本人の定義
 日本風土に立地する諸生にとって、アジア連邦制度および国際連合の民主的秩序を遵守することは必要であり、その目的のもと我が列島に所属したいと欲するすべての者は日本人である。また彼らは互いの人間価値を認めあい、地球の社会福祉に努める義務を有する。
2.天皇の地位
 一族の長を仮に、ここでは日本天皇と称する。天皇は公選される。その国事的行為は国際法の範囲に限られ、主権者の原則に基づく。日本天皇の血統は日本人全員にとってのidentityでもあるから、確実に守られねばならない。
3.日本人の使命
 我々は安易に寝起きするだけではなく、常々勤倹に励み、世界文明の発展へ貢献できるよう勉強する責務を有する。
4.平和主義
 戦争の悲惨への真剣な反省のもと、我々は抑止力を含めたあらゆる武力を威嚇の方便に用いることを拒否する。全て和平への交渉は暴力的手段によってではなく、穏健な話し合いを通じて解決する勇気を誓う。また、国土防衛は抵抗によってではなく、国際均衡による知的操作で冷圧しうるものであることを飽くまで信じる。そして和平の為には日本人の滅亡を辞さぬ覚悟で平和主義をここに宣言する。
5.人権
 あらゆる人権はこれを保証する。
6.自由主義
 政治および経済、まして学術における自由主義を社会原理に指定する。則ち、公務は人々に対する最大限の寛容を以て、主権者の民間日務は最高の尊厳を以て必ずや扱われねばならない。それら人事活動の究極の目的は文明上の福祉的向上にある。
7.憲法の暫定制
 ここに定められた諸法は日本人の行動に共通と認められる普遍的命題をのみ簡便に説明したものであるから、時代情況に応じて明らかにそぐわない場合、同時代人の慎重な建議のもと、改良する責任が本来ある。
 更に具体的命題は各個法律により定めるものとする。
 また、我々の憲法は最も基本的な道徳的権利のみ定律するものであり、世間の倫理を束縛しない。

2006年8月10日

新説

新説を説く肝要は、語圏の文化に古来する観念によって明らかにする事。

施策…競争如何

社会的工夫による「種内競争の中庸化」はあらゆる時代の命題である。

競争が激化すれば人々は利益に依りて冷淡になり、
それが無憂になれば腑抜けになる。

他方で、
競争の激穏は生産手段の発展力を伴わせるものであるから、
共産主義的軽視に従って無競争の非階級社会を指向すれば発展そのものが停止する。

[国際surviveの現状を思えば20世紀後半から21世紀初頭にかけての自由主義は必要なのだと知れ]


 先ず社会にとって自由競争は、生産力発展の方法なのである。目的ではない。

然らば、情勢を観て、その国における利益に拠りて発展を志向する際には自由主義を、
多分に安楽に居し、生活の高尚向上を思念せねばならぬ際には全体主義を、
一時の理念として「稼動的に」採用す可きはずである。

 則ち、社会組織の善導に必要なのは競争中庸の方便であり、究極の目的は文明にある。

遊園地化

地球各地域風土にとって特異な文化都市を造ると同時に、また宇宙文明にとって普遍的な建築を実現しなければならない。なぜならそれが世界を遊園地化するに当たっての手法だから。

2006年8月6日

a経営idea

Convinience storeのautomation

社会学

符号性には文化背景が直接の動因になっている。例、一定文化圏を外れれば学歴の価値はない事。美の基準の違い。

建設性

地球の近代文明の各都市におけるglobalismは、その地域の独自性を却って顕在化する。なぜなら文明は文化からのみ勃興する。
 近代文明は同じ基礎、自由主義にもとづく以上同様の方式を建設の為に採用するが、他方で実現された環境はかなりの程度で個別化するだろう。その結果、均質性は具体的生活の場面では異なる様式にあらわされる。地域文化の個別性は各中小国連合の形成に伴い、地球世界各地に風流の違いを建置していく。ならば、文明環境の理想は、遊園地的天国における文化的魅力を多彩に細分づけていく事。未来文明の建設者は高質なる名所を追求せよ。
 宇宙船的普遍性は、太陽の衛星においては充分に実現できないだろう。そうだとすれば環境価値の専らは風土の共栄にある。

夢と現

たとえ究極の理想へは永久に手が届かないべく宿命づけられているのが精神のさがだとしても、君自身の夢の大半は、その努力に応じて実現せざるを得ない。なぜなら社会とは、各人にとってのその様な思想の集積だから。

文明と文化

文明が相対的である証明が可能か否かを問え。我々は文化史観に基づいて文明を評してはならない。なぜなら文明は文化的蓄積からのみ発生する制度ではあるが、他方ではより遠大なる秩序を達成するものだから。

文明論

文明は単に、種内競争の合理化ではないのか。仮にそうだとすれば、君の生きる理由は競争を合理に則って改良する経過にある。つまり、それは生存競争を繁栄効率の為に改善する体系。
 何れにせよ、地球で天敵を失くする迄に繁殖した人類が、環境の再創造に従って人生の次元を理想化するのは免れえない。その結果が文明化に他ならない。
 もし人生の側面が時代に応じて温厚化・安寧化・精神化していくものだとすれば、それが文明の方角だから。しかしかつて勃興滅亡して行った幾多の文明での実存群がそうであったように、近代科学に基づいた近代文明は相対的で、そこに生きる自らをもそう見なす他ないだろう。
 近代文明は自然資源を加工利用する生産手段の技術的進歩に依存して来たものであり、根本にまで解釈すれば発電用熱機関の資源転換効率に言及しえる。個々の実存群はそれを受ける社相の変容に従って動く。もし自由なる概念が歴史上に存在するなら当時の社相を泳ぐ仕方にのみ原理づけ得る。

2006年8月4日

自由

人間の競争社会の暗闇に紛れて、君はなにを観る。世の儚さを観るだろう。しかし、世界は続く。君の自由はそこにしかない。

2006年8月3日

神格

神格へ妥協すべきではない。神格は人格とは別の型に住まねばならない。

虚栄

人類の虚しさ。奴等と来れば社会の中であれこれつまらぬ一事に専心し、生態系多様の為に奔放する。どうして猿に神的価値を認められるのか。奴らをこそ単なる権利のもとでの生活機械と定義せよ。
 君自身の知能が如何に先進発展しようとも、己自身が一個の無知たる愚物であるのは疑えない。何故なら宇宙は精神を含んでいる。猿の群れに順応して生活するのは全く神的ではない。従って、奴らを二足歩行の猿として他に認識してはならない。それらは産物しては絶えていく時空明滅の一様に過ぎない。

建築論

建築は福祉的基礎の上に建設されねばならず、それは常に、公私利益の均衡を目指して計画されるべきである。

2006年8月2日

日本建築

重力その他自然的な力に対して、皮膜によって内空間を保護する事は、建築計画の地球的基礎であった。欧米型の近代建築がかような反自然の理性の元に推進されて来たのは事実であり、ガウディのような自然体を目指す特異な例外はあるとしてもそれは多少あれ地域主義的な考え方であった。西洋建築は組積造による構造的制約からの計画自体の漸近的な解放によって、近代建築の軸組み構造という考えに到達した。従って、現代における壁の表現をも西洋建築史実上、取り敢えずは肌と見なす。
 現代棟梁は近代建築を相対化する視座に立たねばならない。たとえば計画の中に適度な環境を呼び込む事が、日本文化圏では最大の命題であった。それは温帯モンスーン気候に対する適応的な態度であり、木造による柱梁構造は生活空間中の通風の最優先に従って確立された。
 木造の方法は凡そ、朝鮮半島を経由して中国大陸から輸入された。それを国風的応用に迄純化していく経過がある。
 結果、獲得された様式は通風を中心に、自然への親和の為に最適化された別の軸組み構造の体系ではあった。日本建築における近代化は、西洋化に等しかった。だから突如現れた壁の使用法に対する混乱によって、日本の柱梁構造に対する壁は二種類の企図を辿る。
 一つは組積を模した構造的な自立壁であり、もう1つは紙の壁の概念を引き継ぐ計画用の皮膜のバリエーションである。日本建築、日本における近代建築の型は、三者すなわち自立壁と柱梁と皮膜の間でとりかわされる社会的創造および環境適応の為の試行錯誤の過程なのだ。
 一方で、重力への合理的反立は常に、地上に建設される空間にとっての第一命令である。その力学的応法の基本は鉛直力と水平力への抵抗にある。純ラーメンは水平力に対する常なる不安にある。従って、鉛直力を受ける柱と、水平力を受ける壁との適度な組み合わせによる第三の様式柱壁構造が現代建築の様式にとっては最も合理的型であると知れる。コンクリートの圧縮強度とスチールの引っ張り強度との特性を最良に生かすのが正しい。また、西洋から輸入した壁という要素を伴う近代建築を国風化するには、通風に対する配慮を再び最優先に用いた使用法が適当である。
 もし以上を省みるならば、棟梁は日本建築が行き着くべき現代の方向性の概略を悟るだろう。

2006年8月1日

現代哲学の命題

人間原理を疑うことは人類哲学上の現代的命題ではある。なぜなら、彼等の理由がなければ、彼等の福祉的目的思考としての哲学は単なる永久loopの中にのみある。
 つまり、仮に人間原理が偽ならば、既に哲学自体の問題は解決されていると言える。それは理想と名づけられた概念組み換えとしての言語ゲームでしかない。
 一方で、もし人間原理が真ならば、人類が存在して思考するのは理由に根ざす。よって、思考そのものの他にある異なる原因が課せられていると言える。又、もし真偽二分に非ずば、人間原理の程度を選択する事が哲学的追究の中心になければならない。

目的と自由

宇宙に君が発生した理由は偶発的多様以外ないのではないか。人間原理への根本的批判。無数の人物が、ヘーゲル的自己に則って、歴史のうちで自由を少なからず実現してきた。所で君が問うのは、自由の理由だ。それは宇宙膨張の訳を問う事に等しい。とりあえず生命が只の宇宙運動にとってのおもちゃではない理由を知らない限り、君が思考する原因も分からない。思考が理想としての最高幸福である事実は、類の生命上の限界を現している。それは運動体による時空の膨張係数への最適化ではないか。
 精神は思考における自由を種内競戯の合理化の地球的人類型環境としての言語記号類の選択の可能性に依拠し解放することで、entropy増大則への適応。競争を遊戯化する志向がそこにはある。理想は、思想に関する遊戯でしかない。しかし、それは進化の一末端たる人類集団への貢献度にとって合理性において最良であるが故に、最高善。
 精神運動の必然性を問うことは人類にとっては死活だった。なぜならまったくなんの理由もなく、何のためでもなく、何を目的にするでもなく、ただ存在するというのは多くの古代人達にとって最大の脅威だった。その大義は今日でも変わらない。
 哲学は精神を合理化する営みでしかないだろう。デカルトに疑えないものとして正当化された思考はけれども、理由の無さに対する解答を捻り出す為にはあまりに自然模倣的ではないのか。それは無秩序を縮小しえない、言い換えれば、思考の多岐複雑化を推進すべく無再現に概念を細分化するしか方便がない。
 精神に唯一絶対の解答を与えることは神的であって、殆ど人間的ではない。それは宇宙に実存することを絶対化しようと欲する意志だから。

建築論

獲得さるべき建築的普遍性は、同時代の科学技術を応用する構造上の力量に依存する。普遍空間の理念が、その時点で可能な限りの不変性の表現になるのは疑えない。大空間を合理性に基づいて創造する営みは、文化に左右されない。従って、それは文明度の空間的実現なのである。
 一方で、何故地球の重力と環境に根付いた作品のみが建築空間であり得るだろう。重力に逆らい建立する空気に満たされた空間だけが建築である、という固定観念から逃れなければならない。
 芸術における人間原理を疑え。

2006年7月30日

遊園地化

単なる繁殖以外を文明の目的地とする限り、その究極の姿は安寧な繁栄にある。理想の幸福は繁栄の果。環境の適度な合理的調整によって生活のなかに多くの遊びをもたらすものこそ文明。自然の促進ですら彼らのrecreativeなあそび。
 人類は自然をつくりかえる。そうすることで宇宙を遊園地化する。

2006年7月29日

詩学

教育の理由は生活の文明的な優等化にだけ見いだされる。野蛮を脱し、暮らしの仕方は洗練・安寧・清潔化されずにはおかない。
 Liberalismは最大の寛容が目的ではない。それは最大の寛容による自発的な競戯飽和作用に従う、啓蒙の合理化が目的。つまり、自由は文明の繁栄への仮に名づけられた近代環境で生きるべき理屈だった。
 自由は文明への道具でしかない。同じく、政治や経済ですら、福祉行為の自発的な模索を誘導する事で試行錯誤を省力化する生態秩序内で考案されなければならなかった体系のみ。それらは目的とはならない、なぜなら、繁栄の為には類内秩序での市民的整列による種の数的中庸が理想になる可だったから。学問が対外的に芸術制作となる事でのみ、人は人自身が形成する精神に発育した偉大な善法に則り、あらゆる不条理から超越し得るだろう。ある不合理の群れは解決する為に現れる課題でしかない。人はある世界演劇で問題解決を行う役者ともいえる。

立派さ

例えばサルどもの巣を創る事を建築と人は呼んでいる。そもそも全て、芸術は二足歩行のサルの為に企てられたお遊びだ。繁殖活動、究極では文明としてのに程あれ協調以外に、どんな生活もできない。政経と学術。あらゆる人類の偉業ですら、繁殖の合理化へ寄与するべく設らえられた機能に過ぎなかった。
 人類の大部分はお愛想程度の理性を担わされたサルに他ならない。理想、我々にとって最高幸福としてのそれですら、思想的伝播、教育により類内競戯を効率化する方便に数えうるだけだ。君が偉大なる理知に突き動かされ宇宙の原理を科学的真理の認識というカタチで獲得したと確信できて尚、理性は君自身をサルの一部から精神の究極へ向かって高める。政治による実践福祉の善の幸福も名誉も、経済活動による趣味的それでも、全て、我々はrecreationに興じる動的個体でしかない。もしも唯一、偉大なる精神の至高性に駆られた君が哲学で得られる結論に応じてサルどもを社会参加的に啓蒙教育し、それらが地球型の生命体群に宇宙への創造的適応に一定の有利を与えられるものなら、それ以外にどんな立派もない。そして只の偶発的寄せ集めたる者が立派たりうる可能性はそこにしかない。君が人間原理をどれ程採用するかに求問の範囲はよるが。

2006年7月28日

建築論

文明環境を経年優化するにあたって必要なのは風情である。それは建築的自然空間の追究による。

神聖さ

人間が、神聖たりえる為に必要なのは、精神価値である。

2006年7月25日

Hellenism

Hellenismの根本には哲学精神がある。

建築論

計画の基本的定義は、構造と設備とを美学的合理のもとにまとめることである。その究極では、人工と自然とを調和のもとに置かなければならない。

建築論

普遍空間と自然空間の建築的差異を問え。普遍空間の基準は構造によって開放された可能な限りの等質時空にある。その究極の姿は、自然空間として解しうる環境適応的な文化組成である。もし人間原理に基づくなら、普遍空間は地球文化の枠組みに属する。

2006年7月24日

環境技術の市場

環境負荷軽減の為に、途上国の経済発展を抑圧するのは先進国民の恣意だろうか。エネルギー問題を解決しながら、彼らの自由な開発を許すような方策は見つけられないのだろうか。
 最も先進的な科学技術は、環境コストを最低化しながら最大限の合理性を指導する。ならばその応用は、先ず途上国の為にこそ適用されるべきだろう。環境技術は商業戦略に乗せられる事で、途上国における最大の利益をもたらすものだ。

建築論

建築家の根源は棟梁の気質にある。それは様々な職人の先頭に立って、全権に渡る責任を取る為の決意である。棟梁は文明の全ての技術を、最も優れた判断による指揮の元にまとめるのでなければならない。

2006年7月23日

建築論

人類の生活は次第に地球化されていく。というより、地球化された生活が我々の中に発生する。普遍文明の理想は地域風土個別性の脱出を志向する。にも関わらず自然空間は個別性を要求する。ここに現代建築計画にとっての、大きな矛盾がある。
 近代合理主義は究極的に、完全な均質空間を創造するよう導く。一方で、合理主義の更なる現代的展開の果ては自然空間の異質性を適度な範囲に利用する所に行き着くのではないか。為らば、建築の未来の方向性は何処にあるのだろうか。地球生態系の持続を促進する必要から、ある程度の期間、地球の各文明では自然主義的な個別空間を形成するよう要請され、またその潮流が支配的になるだろう。しかし、最も広遠にして偉大なる理想の建築が為には、あらゆる個別的性格を限界に至るまで抹消した普遍空間の必然が自覚さるべきである。それは宇宙船としての実現を要求している未来建築の基本理念である、と理解されるべきだ。地球の土地に根ざした創作物に関してのみは、自然空間の性格こそが地球的生活の証明になる。

建築論

地球生態系が太陽との適当な関係のもとにのみ、暫時的に成立しているものであるのは疑えない。それは永久不変の絶対なる核でもない。環境学が持続可能性と云う理念ですら、仮設の一時的関係に過ぎない。即ち、生態系は目的ではなく方法であり、地球の生存を永久的なものへ高めるために用意された土台でしかないのだ。これは生態系への調和指向を翻すことを意味しない。寧ろ、我々はそこから理想的な循環、理想的な生活環境の関係を学ばねばならない。
 生命が生存を目標とするのは宇宙の膨張に由来した多様さを維持・促進する為の仕組みである。人類における文明創造による永久繁栄の理想は、このような文脈から導かれた生物の本性に根付いている。
 地球の体系ですら、上記の宇宙的事象の普遍性に基づいている。従って、生態系は地球形態を可能なかぎり維持しようと努める運動量的な意志に合致する。そして究極的なその意味は、地球形態の維持という以上には無い。地球生態系が理想性を持っているとすればそれが多様な生命体の生存を養護するような循環の関係を仮設的にであれ、実現しているからである。我々は太陽と地球との関係性から学ばねばならない。

教育と伝達

自己教育の限界はあり得ない。それが他律的で、受動的な義務付けの範囲に置かれたならば、はじめて過剰の問題が生ずる。個人の自由権を侵すから。基本教育が国家によって現代なお義務付けられている理由は、知能格差の極端化を防ぐ為に全体統制による福祉が、私民により世論として容認されているからだ。
 以上を鑑みるならば、理想の応用は常に、学習を適切に伝承することに還せる。それは生存競戯を合理化する為に個人生活の自由選択の範囲へ帰せられるべきである。すなわち、教育の受容も授与も、自由競戯の原理のもとで成熟させられなければならない。

教育の用途

人類個体の学習の伝承を教育と云う。研究が彼等に益をもたらすとすれば、それが人類の知的水準を向上させ得るからだ。則ち、理想の結果は疑問あたわず、教育に用いられるべきである。教育によって民度は上昇していく。

2006年7月22日

猿の戯れに混ざるべからず。神のそれをこそ求めよ。

建築論

地球が奇跡的な現象なのは驚くに値しない。それは人生の現実に驚くのと同じ程度の奇妙でしかない。驚異なるのは時空間に関する法則的関係であって、それは自然の最奥で支配的に振る舞う意志である。かつて人々はそれを神と呼び崇めた。今は、我々によってエネルギーと名づけられている。生態系の循環性が道具たるべきを憶えるならば、有限の地球星に対して人工的に再現された自然循環が必要なことは考慮されなければならない。それは新しい星という船を創るだろう。
 或いは我々を含めて、地球の生命体はいつか人工的なそれか、既に地球に似た環境に移住する必然のもとにある。太陽系は構造ではなく、現象だから。これをかんがみれば、我々を取り巻く自然環境が絶対不変なる対象たり得ないと分かる。則ち、自然は目的でなく、方法であって、少なくとも理想のなかで、人工的な環境統制を経られるべき平野である。

2006年7月21日

哲学の構造

単に生物の多様性を促進する為に生き延びるべく使命づけられた個体が君の実存だ、と言わなければならない。その自由の限界は精神と呼ばれる脳の働き方に依存する。サルトルやハイデガーの論考はすべて、その様な生物構造に依存するものにとどまる。
 では、人々が文明生活を指向し、種内多岐性と生物の地球種を富ませるべく働くのも又、同様の原理に導かれたものにちがいない。もし人間という条件において高等な生と下等な生とが善における質的差として見い出されるとすれば、その基本的定義は活動の福祉性に求められなければならない。乃ち、理想の自己目的幸福を最上とした福祉的生は多少なりとも高等な知的活動であり、それ以下、快楽、さらに有用さの順に下等な利己的成果に留まる。
 だがもし理想に生きる個体を最上の善の結晶だと見なすならば、我々は一様な生へ向けて生物構造の本義に反することにはならないだろうか。知的多様性はそれ自体が人類における生存の別性とも謂われる。人類の猿類との最大な差異は知能の顕著な発達の事だ。ならば、順当な発展の順序はやはり、理知性の開発にあると言わなければならないだろう。それは善なる個体と以外とを選り分けるほどにもなり兼ねない仕業ではあるが、かつて、知恵の実として旧約聖書に考慮された如くもっとも、悪なる個体、獣的・非理性的な人物を徐々に除去するような仕組みに文明はある。哲学は知能における福祉性を養成することで種内秩序を最大多岐と寛容な突然変異可能性のもとに置こうとする体系。

2006年7月20日

言語論

文学における目的美としての言葉と、哲学における思索の道具としてのそれとは、違う様相のもとにみいだされる同じ体系の組み換えなのだ、と知るべきだろう。
 もし異言語間の差異が強調されるべきならばそれは文学による。何故なら、文化的観念のちがいは表現の多彩を誘い、個性のために重要な演出装置となるから。ある言語の慣用の微妙を他の言語で充分にあらわせるだろうか。それが不可能なら不可能なだけ、文学同士には競戯と発展の余地がある。差異を無際限なまで微細に分接化していくなら、文章の意義は自体が固有価値を帯びる。
 だが哲学において概念の為に、異言語間の文化的ずれがあることは決定的な不都合ではないのだろうか。どうしてかと言えば、ここで言葉は道具であって、観念の到達と伝播を巧むために使用される様な合理的な体系であるべきだから。ならば人は、哲学用の言語を創案し、それを全人類に共通の規則で回転させればよいだけではないだろうか。そうすれば翻訳とか通訳とかにまつわる誤解の不条理は消滅するし、或いは、あらゆる言語構成の責任は、ただ個人の知的実践力だけに帰着しうるかもしれない。
 しかし、これは現実味がない。思索が文化を抜きにして不可能である由。我々はとりもなおさず、文化的理念に基づいて考える。
 言葉は文化を本質に持つ。それは文法・語順・用法・語彙などの語学的な違いである以上に、言葉のなかに有する思索の仕方にまで言語を取り巻く生活様式からの影響が多大であるからだ。しかし、哲学こそは言語における文化を手段に用いる。普遍性は異言語間のずれを許容するような次元にのみ、確定される。

言語論

哲学が言語の使用という手段に基づくものであることは現実で、又そこで試される観念の組み合わせからのみ、理想は図りうる。人類が今より遥かに知的に進化した未来、言語は今と元通りの構造を保っているだろうか。恐らくそうではない。言語は不変でなかったし、可変であるべく意志伝達の媒介として用いられる基礎にあるから。
 それにも関わらず幾人かの哲学者たちは言語の構造に哲学の問題解決の鍵をみつけようとする。もしかすれば言語使用のうちに確かならぬ事情が見受けられるに違いない。思索は曖昧のうえで踊らされた、不毛な観念の遊戯かもしれない。だが、それにもかかわらず、我々は考える本能、乃ち理性に宿命づけられているし、それは言語の用法を暫近的に改造し、communcationを改良せずにはおかない。いわば、哲学にとってことばは絶えざる変容のなかにある様な道具であるしかないだろう。たとえ口語であれ文語であれ、思索のために用いられることばたちは普遍的な観念を要求して改変されていく。
 我々が対立概念に見出すのはその試行ではある。男と女、白と黒、天と地、生と死、善と悪、真と偽、美と醜などの語彙は、普遍的な定義の為に利用されるべき根源に近い概念故。

生について

様々の個体が独自の生活を経る。彼らは一様に種内多様性の媒介。理想人も死の事情を免れ得ず、また免れないべき所以は、彼らが有性生殖を生業とする哺乳類である所に還元しうる。或いは今日に最適化した個体よりもずっと、明日は今日の落ちこぼれが最適な環境が生ずるかもしれない。
 ならば、生きることは自体が善。そして生きることの普通の善は、文明の創作、生産に合理的な環境のrecreationへ貢献する事。
 もし君が人類という種の進化の先において最良の模範たる個体ならば、理想を最高善とみなさないわけにいかないだろう。それは知能の啓発を目的化するなかで善の実現を図る生活の仕方に他ならない。

知能と善

知能を向上させることが人類の総合的目的ならば、低知能者には存在価値がないのだろうか、と人は、理想主義者に問うだろう。人が懸命に思考する作業でさえも、とりもなおさず地球諸民にとっての目的の部分。知能向上の方向性は千差万別。それは枝葉多岐化を通じて成長する。
 あらゆる人類の個体群は、利己主義に根づいて生活を全うする。我々は文明のなかにその現れを観る。だが、人類は生物だ。文明の基本的理由は、環境の改良による種的生存の延長。
 もし哲学が事物の批判を通じて善を追究すべきものなら、その思考の目的性、乃ち理想性とは、知能を更なる神格へ向けて啓発していく様な体系ではないのか。
 哲学の成果たる文章体は様々に落ち着くとしても、その目的は一つ。つまり、普遍善の神格。すべて哲学者は必然の道を辿って善を欲する。ならば知能自体は善へ至る方便でしかない。

目的

建築が人間の巣をつくる試みであるのは疑う余地がない。だが生態系の循環性を想えば、その概念は自然そのものを再生産するところまで拡張されるべきである。こうして、建築は自然の回復であると共に促進であり、地球の計画的な創作ですらある。
 建築計画は宇宙の形態を合理化するなかで整理された秩序を造り上げる。それは自然そのものの法則に根本的に合致し、造形物間に独自の変化をつける。そして建築の究極の目的は、宇宙の合理的秩序に寄与することである。

建築論

自然空間に固定的な正解はないし、一定不変の型もない。それは環境適応を目的とした最適化に向かい、漸近的に進化する概念である。しかし、この基本では重力に満たされた均質空気のある普遍空間の理念がみいだされなければならない。何故なら合理的空間を形成することは建築の基礎であるから。
 地球外の宇宙において自然空間はありうるだろうか。圧倒的に非人間的な外部環境を適応の為に利用するのは当然ではある。人類のあらゆる建設も、この基盤のもとに創造されることを要する。

2006年7月19日

建築論

建築空間が先ず何より人間の巣をつくる使命にあるのは確かだ。それは近代建築の原理に則れば諸々の物質を利用して空調や光量など、環境的諸要素を人工的に操作した均質空間を確保することである。これは普遍空間を意味しない。何故なら無柱の大空間である必然はないから。たとえばファーンズ・ワース邸における外部環境との密接な関係は意図されていないとしても未来の理念なのではある。ミースが外壁を可能な限りガラスにしたのは必ずしも環境建築における自然空間を指向したのではなかったとしても恐らくはかなりの程度、西洋構造主義の文脈からの新しい鉄骨・軸組み構造に対する興味からもたらされた副産物ではあろうが、同様の結果をもたらすに必要なものを提案している。それは閉じられたコンクリートの箱ではなく、開かれた場所なのだ。
 先ず我々にとって空間の心地よさが何から生じるかを考えなければならない。即ちそれは必ずや普遍性と、個別性とを伴っているだろう。場所の特異性を産むものが何より、それの属する環境であるのは疑えない。もし空間が空中を移動するような可変的なものであったとしても、同様に。地球の建築においては、普遍的空間の個別的質が問われるべきである以上、自然空間は人道的概念でありうる。

造物主と精神

生物は凡そ生存を目的に創造された自然の産物ではある。しかし、自然の底で世界を支配する法則は誰の手になるのか。「法則の定義は彼らの知能にのみある」という独我論では説明不可能な驚異だ。精神作用ですら、その様な物理化学的法則として理解できうる現象に過ぎないのだから。
 ユダヤ教をはじめとする各地の民族信仰でかつて自然的なものはあまりに異常で不可解に違いなかったので、超自然的な権威を思想において創出して、あらゆる説明不可能な事象をそこに帰して知能の慰みと供するしかなかった。だが近代社会では科学的な認識がすべてを明らかにして行こうとする。勿論ながら、造物主なしに法則づけられた宇宙に関する認識もまた、批判される時を待たない。
 法則はなぜ見つけられるのか。それを知らなければならない。

建築論

自然空間は普遍空間の理念を環境適応のために応用したもの。即ち、地球あるいは外部上での環境の質的差異を芸術に迄還元して快適性および費用として考えること。
 建築はここにおいて人間的な自然と同化する。その目標は生態系との調和を図り、文明の永続性に寄与すること。

2006年7月16日

建築論

理想的普遍空間には環境に最適化した質の付与が必要とされる。人間にとって適度な調整均質空気で満たされた空間量の定義としてのみ用いられてきた普遍空間の理念は、その環境最適化という方法論によって自然空間の理念に翻訳されうる。そして近未来建築の定義はそこにある。

建築論

素材の洗練はそのまま建築表現にとっての可能性を意味するところ大なので、建築史とは、究極まで還元すれば素材史に過ぎないと言える。
 設備・構造は同様の時代性に、常に制限されている。従ってある巨匠の最良の構築物ですら、多少あれ過途的なもの・可変空間にならざるを得ない。
 普遍空間の理念はここから計画の意義だけを抜き出して、永遠的なもの・不変な空間に漸近しようとする。それが文明の建築的力学を代表する現代だったのは確かだし、おそらく永久にそうだろう。ベルリンのナショナルギャラリーは現代建築の古典的記念碑として、地球規模の文化財である。
 普遍空間のヒューマニズムを、より生物主義的なものにまで還元しなければならない。人間相対観のもとに思考を突き詰めれば、空間の質的差異が問われなければならない。均質空間の、脱構築が謀られる可だろう。
 環境合理に従って、心地よい空間の定義を更新する可だ。それは人間様式のなかで、自然環境に対する最適化を図る漸近的進展に因る。デ・ステイルが真に普遍的である為には、人間相対観が是非とも必要だ。体感要素ですら我々の知能程度に依拠するから。

建築論

合理主義は環境建築に直結する。たとえば、君が日本で建築するならば、日本風土に最適化した環境をつくることに集中する可だろう。建築は普遍的形相へ向けた環境の再創造であり、それは人類にとってすれば、地球という地域に固有の表現に、常に制約されている。重力、空気、人間の形態ほか。普遍空間の概念ですら、人間原理に導かれたものでしかない。それは可能なかぎり現代的理念ではあったとしても、宇宙に対する客観的に正確な空間概念を言い当てていない。

建築論

必要最小の自然破壊によって、充分最大の都市構築を図るのは
建築計画の基本である。それは生態系の繁栄を志向するような再生でなければならない。人類自身が生存を確保し、文明生産の合理化を謀るのみでなく、更に自然を理想的なものにまで昇華しうるのでなければならない。
 建築は自然調和の最適化を模索するが、他方では自然自体の中庸な制御によって別坤の自然をつくりあげる。ここに景観建築の概念が発明される。

2006年7月15日

宇宙物理学

宇宙は何故に、どの様に膨張するのか。わずかな膨張が我々の属する宇宙の帰納的事象なのはentropy増大則によって証明できる。
 多様な宇宙modelのうちから我々の属するそれに最も近いそれを選択する術を考えよ。
 なぜそのモデルがエネルギーによって選択されなければならなかったか。確率の意義。
 君が生存する理由は量子論的確率なのだ、と考えることは妥当ではないのか。しかし、それでは法則として理解しえる宇宙的秩序の理由が如何にして説明できるのか。

理由

お前は何のために産まれてきたのだ。導かれて子孫を残し、精神の命ずるままに繁栄の道たる文明を築く。お前は何のために産まれてきたのだ。猿の一種としての拙なる生存を自重し、僅かな生涯を必死の形相で過ごす。お前は何のために産まれてきたのだ。どこまで進もうと、お前が人類である限り、政経・学術の活動にしか至高の生活意義は発見できない。そしてお前はそこに不完全なる慰めを見出すしかないのだ。卑しき獣め。お前の脳髄が下等下劣であることを恥じよ。生存した理由を知らず、ある種の者に至ってはそれを信仰に合理化する。哀れな奴らめ。
 お前には宇宙の膨張の一部という側面しかないのだ。それ以外にどんな必然性もなく、宇宙自体の生成ですら、確率論に帰すべき偶然の産物に過ぎない。
 お前が生きるにはそれ以上の理由はない。お前の原理は生存目的に開発された自然の機械なのだ。利己主義にしかお前の根本的規律はあり得ない。たとえ最高善たる理想による文明福祉を含めてすら、結局はお前の属する生命体種類を生存させ、繁栄させるなかで個体間種内競争の結果、新たな宇宙の動的形態を生じさせようとする膨張運動の一部としてのみ、生活の具体的事情は定義できる。お前の拙い知能ですらも、その為に設らえられた機能に過ぎない。

最高

「哲学そのものが理想の目的である」とする理想主義の立場は、人類の生活における最高の次元を引き上げていく。

2006年7月14日

神事以後

知能格差は階級闘争の合理化を指南する。それは教育の原理にも関わらず、神類を創出せざるを得ないだろう。人工知能の延長線に機械人類が予想できるとしても、尚。
 神類は人類の必然的種内競争から生まれ、人類以下に対する搾取の型を定着させるだろう。突然変異と人類進化の時期について迄は予測されていなかった。それはいつ起こるのだろうか。人類の生態的地位はそこ迄の確実性しか持たないだろう。

2006年7月13日

善為の教育

人類個体間に知能差が観察されるのは種内競合のしくみ。より類人猿に近い個体、より神類に近い個体が発生するのは自然。なぜなら彼らは同じ環境適応の漸近的変化行程を経て進化してきた。近代社会のrule、自由主義においては、現代、民主制の必要から事実上、権利平等が唱えられている。これに有力な根拠はない。形而上学的な飛躍を含むかもしれない。定言命令を普遍的に根拠づけるのは何か。それは個人的内省に基づいた、少なからず直観的な信念ではないのか。
 知能格差は必然に階級闘争へ直結する。我々が身分を利用したのはこれが故。身分制度は平等社会と矛盾する。これが社会主義の不可能さ。それは神格の顕現である以上、理想の善は身分格差を拡大する作用を持つ。
 教育はこうして、進化の文明経過における調整的正義として必要。それは知能格差の中庸化の為の機構。

人類の知能

本能的知能に対する理性的知能、つまり大脳新皮質は抑圧の昇華によって成長した。それは精神という形に還元されて尚、自然。もし人類に今日的地球生態系における存在意義があるとすれば、行動規則に対する多少の自己改良の余地乃ち意識を有することにのみ、ある。なぜならその他に哺乳類における種的差異の特筆事項はないから。故に精神は自然の創作物でしかなく、又それに思考可能なものが超自然であることはありえない。
 知能の向上という人類の使命事は、彼らの生来が反自然だからではなく、脱獣的、いいかえれば神的だからだ。よって、人類という種の進化の方向性は知能の目的向上として立ち現れざるを得ないだろう。ここで知能と云う時、それは一元化されうるようなIQではなく、非本能的・理知的な働き全てを云う。

2006年7月12日

建築論

近現代都市の為のもっとも基本的なモデルは、ル・コルビュジエのヴォワザン計画に観られる。それは超高層集住と立体的な交通整備・地上緑化を指向するような地上の首都。
 人類の社会形態が如何なる経過を辿るにせよ、また風土の影響でそれが仕方ない地域個別性なのだが、多少の差異が残存するとしても、生物学的集中の利益に導かれて地球における人間生活環境の中枢はそのモデルの近似形に向かうだろう。

建築論

建築の目的は合理主義でなければならない。それは地球生態系を促進する様な人類の快適な生活を保障し、自然を再構築する中で宇宙秩序の美を形づくるような体系的建設。絵画・彫刻すなわち遅速的な物質的環境を含む空間造形としての建築は、それを為す彼らを取り巻く物体を利用して、一定の秩序立った方策のもとに再構成するような整理の方向。それは混沌度に対するある範囲の制限を加えることで宇宙空間に抑揚をつけて文明を美術的に昇華する。

2006年7月10日

神格の善

肉体は哺乳類のままにとどまるとしても、精神は神格へ向けて限りなく成熟していける。
 人工知能(AI)の適当な生育段階での移植による知性改良や、DNA操作による新種の生命体に対する人類の態度は飽くまでも神的でなければならない。我々の知性に幾分の理由があるとすれば、その考える自由だから。したがって、神格の追究は同時代な哲学の命題でありうる。

言語哲学の周辺性

言語の問題は哲学にとって本質ではない。言語は目的ではない。それは哲学において、形而上的概念を造出する為に用いられる道具。
 文芸における言葉は目的。それは美術としてのことばの戯れ、又その他にどんな目指されるべきものもないのだから。

知能相対観

人類の理想趣味が普遍的か否かを問え。知能の概括は大脳の性能に依存する。ならば、脳髄が人類におけるより発達した生命体が宇宙の周縁に実存した場合、我々の自己同一性は相対視されなければならないだろう。いいかえれば、地球における現在的な地位についてのみ理想主義は善。
 もし我々より適応力に優れた種が人工的に、ですら発生した場合、人類の生存価値は保険としての単なる多様可能性の範囲にまで還元されてしまうだろう。よって、理想主義は飽くまで仮説にとどまる。だが、尚それは善を求める人々にとっての地球的規範であり続けるだろう。

人類の生態目的論

快楽は君をどこにも連れて行かないだろう。アリストテレスが云う様に、快楽は生活をより幸福にする為の方法であって、目的ではない。なぜなら、それは脳内化学反応の結果であり、しかも生態balanceをとる為に仕組まれた相対的な反応に過ぎない以上、肉体的な中庸を要請されるから。君にとって目的なのは、理想でなければならない。それはそれらの具体的実現よりも質の高い快楽であり、その分、有益ですらある。
 理想は知能発達の促進という進化の過程を辿る、目的視さるべき活動。それは人類の地球内生態的identityを実現する。

人生

生活の限りない知性化に由る。

2006年7月7日

自然と人為について

人間の善は自然の支配にある。調和の理念は人為性を自然性より優位に持ち出してはじめて意義をもつ。なぜなら生存闘争の種内競戯化だけが突然変異との共存として自由主義社会を可能にする方向。それは競争をgameとして定式化し、後天的な学習者にできるだけ有利な条件を与えることで、繁殖対称性balanceを調整する結果にある。

 もし自然の語義に、より広範な内容を与えるならば、人類が生態的地位の飽和を利用し文明を目的化することですら自然の善ではある。だから、哲学という形式で正義を問う行為は地球人類の善導に等しい。

文明論

なぜ生きていくのか。人類の理由は文明建設の合理を悟る段階に有る。もし君が神格に達すれば、宇宙秩序の為に世界建設へ参画する意義を感じながら生きていける。それを自在と云える。普遍文明は自然に対する正義を主張することで、都市を理想と見なす。全て善はその世界の人為関係を養するための心理でしかない。究極的に達成された世界は理想郷を体現するだろう。
 この故に君は生きていかねばならなかったろう。善導はあらゆる建設の基礎たりうる。

権威論

君が如何に考慮するとも、地上の権威はすべて戯れに過ぎない。それは無常に属する非・形而上学的な執着であり、顧みられる可ものではない。にも関わらず、制度は権威を手段として抱く。権力の分配に効率を導入する為に。地位・名誉・栄典は現世にとっての下らない潤滑油の役割を果たす。

空色のせせらぎが地上を隈なく満たす光になって消えていく。無数の鳥が飛んでいく風景のどこかで、君は月の涙を受け取る。海の底を覗く。キラキラ輝く海底の景色のなかで、世界で最も大切なものが話しかけてくる。
「何のためにあなたは生きているの」
少なくとも産まれたからだよ。それ以外に何が。
 私はいつでもここにいて、旅立っていくたくさんの命の息吹きを育んできたわ。そうだろうね、海の字のなかには母なるものが存在する。太陽よ。ならば、我々は星屑の子供なのだ。
「どうしてあなたは産まれたの」
太陽系の秩序がそれを満たしたから。あなたは本当に、産まれてこなければならなかったの。必ずしもそうではないかも知れない、何れにせよ貴女はわれわれを羽ふくみ、育てた。
 けれど、生きていくことはいつも困難だ。
「私に責任はないわ。すべては偶然なのだから」
 やがてイルカの群れが一場の光景をすっかり塗り変えてしまう。
 水中に奇跡の虹が架かり、ふわふわクラゲの間に夜の帳を下ろす。竜巻が地上を制覇して沢山の人々を殺し尽くしてしまうだろう。それでも、海の底は依然として平和なのだ。
 夏休みが来て、小学生の列がどんどん海岸を浸してしまう。渚を騒がせる潮のかおりがやがて、色んな風味を満たす。

2006年7月6日

建築論

計画された自然公園をつくることは、都市建設の基本的演繹。煩多な市民的合意の過程が必要の民主制の国家では、これは資本家の知性にある種の幸運が神がからない限り実現しない計画にすぎない。よって、現代都市は殆ど自然発生に近似した帰納的構成によってしか普通の表現を持ち得ない。
 他方ですべて、建築家という職能には実現可能な計画規模と、それを導き出す運に限界がある。すなわち、彼らの大部分はは矮小な土地に対する点景としてしか文明生産に参画できないし、またそれですら、自由主義の制約、大衆福祉的説明の義務によって抜群を実行し得ない。そのとき創建者の任務は、最も明快な都市展望、単純化を計画のあらゆる部分で思想と手法の両側面から提案しつづけることで、知的生命全体の方向性を美導することだけだ。ここに現代の建築家の定義はある。

建築論

すべての都市は文化からのみ成長する。従って、環境から完全に自立した生物主義的巣は半永久に存在できないだろう。しかし、それでも生物の活動は、文明化の自由を理由に、神造の自然とは別の改良された秩序を計画しようと欲する。ならばあらゆる都市は文化に根ざすことを余儀なくされながらも一方で、必ずや普遍都市の次元を目指して量的・質的に成長し続ける。それは同時に、漸近的な天国の創出でもある。だからあらゆる時に住まう幾多の棟梁達よ、君の属する時代に依りて試みざるを得ない工夫の種々をやむを得ない方便としてこそ卑しみたまえ。それを技術と云う。
 真の建立さるべき合理秩序こそは、理想のうちにのみ存する。それはあらゆる実際の形相を導くための永遠の美の泉。

建築論

都市における自然が緻密に整理されたものでなければならない理由は、人工環境の基本的秩序はその自然に対するエントロピーの法則ある整頓である、という現実的事実に観察しうる。それは無秩序な非我を人間味の為に改良する試みであるから。再生の都市環境的意義を否定したところからいわゆる文明都市の片鱗は発生し得ないだろう。

建築論

私は建築造形物における単純化を普遍的合理として信じる。それが詳細の化学的性質から自然環境を含む都市計画まで、広義に適用できる規範だと考える。何故ならそれがかつて考案されてきた、また将来予期されるはずあらゆる複雑な設計のための基礎となるのを疑えないから。