2016年12月29日

衆愚政

衆愚は国を滅ぼす。匿名衆愚は世界で最も邪悪な集団として全てを改悪する。衆愚に媚びた政権、及び独裁血族天皇家は滅亡する。

日本政治のがん摘出

天皇家は世襲独裁以外の目的がない、単なる悪意と偽善偽装の侵略血族である。邪教神道を用いて衆愚を洗脳、己の先祖を神格化し崇拝させつつ日本国民を奴隷化してきた。この中国江南地方からの野蛮な移民一族が日本のがん細胞である事は疑い様がない。天皇家を除去する事こそ、真の日本の始まりである。

いかに努力が報われずとも
いかに衆愚が醜くとも
君は一人輝く
もしその輝きが魔法で
ただの幻想だとしても
いかに弥生人が愚かでも
天皇家が俗悪でも
君の輝きは失われない
いかに東京が下俗でも
いかに西国が野蛮でも
君の国はひたすら正しく
君の心はどこまでも清かった
もしその輝きが偽装で
ただのつくりものだとしても

日本の独裁者

多院制度は独裁者の出現を防止する為の装置であり、民主主義や共和政治すなわち多数政治も世襲王族としての独裁者が生じるのを防止する装置である。これらの国民の命の安全装置を外そうと試みているのが極悪人安倍家・麻生家・皇族とその背後にいる極悪血族天皇家である。また宮内庁内の記者クラブを通じた東京マスコミは、これらの極悪種族の手先として衆愚を騙している巨悪である。

2016年12月28日

汚れ

商いは汚い。商売は苦しみを生み出す。商いをするな。商売せずに生きよ。
 汚い言動によって生きている者の子も汚い。下人の子は下人のままである。下賎な者に関わるな。関西人は汚い。汚い人間は悪行を為し恥じない。関西に関わるな。弥生人は卑しい。天皇は下卑ている。天皇を軽蔑し、汚い集団に関わるな。

脱俗

俗から離れて暮らす事は楽しい。俗人と会わない事は楽しい。俗界から離れて暮らすと不安がない。
 都会に住まうな。居中に居よ。
 俗人の喜びに触れるな。俗人を軽侮していよ。高雅な者を俗人は理解しない。よい趣味を俗人は味あわない。

資本主義と神道政治の悪

資本主義者は悪だ。資本主義は極左に過ぎない。神道政治及び神道原理主義も悪であり、単なる極右である。正しい中道は民社主義、社民主義にある。

アリストテレスの多数政治論について

少数派だから全て正しいわけではないが正しい少数派が常に存在する。そして多数派は程度として常に間違えている。
 アリストテレスが多数政治が間違いづらいといったのは少数派が寡頭政治をして堕落している状態のときの事だろう。つまり多数派の中に居る少数派が正しい意見を持っているかもしれないという意味だ。群れの数が多いことではなく、その中でも最も正しい少数意見をみいだす為に、意見をいえる人が多い方がいいという意味だ。数ではなくて、意見を言える人の数である。意見自体の数ではない。同一意見だから正しいわけではない。同一意見多数だから正しいわけではない。少数者の意見を尊重するのがアリストテレスのいう多数政であり、共和政治、リパブリック、デモクラシーとか民主主義などと呼ばれている形態の原型だ。多数意見が正しいという意味では全くない。

夢と幸福

他人が関係している幸福はうまくいかない。他人が関係する夢は叶わない可能性が高い。自分が叶える夢は叶う。叶わない夢は追求しなければよい。

評価

評価を求めるな。達成を求めよ。

2016年12月26日

商いの限界

仮言命法としての商い。

幸と不幸

商業は不幸を生み出し慈善は幸福を生み出す。人は前者を避け、後者のみに生きねばならない。前者の中で生まれ育った者は不幸に親しみ、生きる程に、又繁殖する程に悪い結果がやってくる。後者は僅かなものでも幸福を生み出し、高い程度に至るほど人間性を改善する。商業県、商業国は不幸の源泉であり、そこで暮らす人々は俗悪で、性質は世代を経てますます悪くなる。だから商人の子は卑しく、慈善の子は尊い。
 人は商いをするな。人は慈善のみに生きよ。商いなしにくらせない国、地域を去り、慈善によって生活できる場所に留まれ。もし地上にその様な所がないとしたら、自らが慈善の模範となれ。慈善の故に餓死する事は、商いの故に俗衆に親しまれるより幸福である。尊さ故に孤立しているなら、既に救われている。低俗さとはその時点で不幸の目安でしかない。不幸の中であきんどに生まれくる事はただの苦痛である。

尊卑の業

卑しい人々は繁殖によってより卑しい次世代に輪廻する。あしき者の子はあしき者同士でつがいより悪くなる。だから遺伝子という業は完全な真実であり、卑しい振る舞いをしていた親の子はもっと卑しい生まれからやり直す。突然変異や奇形。ある種の天才は例外にすぎない。
 人は卑しい人々を全く避けるべきであり、金銭欲や権勢欲、或いは名誉欲といった下賎な執心によってのさばっている、天皇を代表格としたあらゆる下衆を最大限に避けるに越した事はない。
 尊き人は卑しい人々と仲良くなる事はできないし、天皇は終生その俗悪性をまるで高貴と勘違いしているのである。だから俗悪な種族と断然関わるべきではない。天皇は生まれによって卑しいのである。身分制による差別に固執し、日本の民を奴隷化しようと試みた古代中国人の末裔は、今では唯の滑稽な下人に過ぎなくなった。この暴力で彩られた卑しい血筋とふれあうな。心底下賎な天皇の遺伝子に関わるな。
 尊き人は未来永劫、自称天皇の下人集団と同じ国には住み得ないだろう。

ブッダの輪廻について

ブッダはもう輪廻しないと考えたとして、彼の遺伝子は子のラーフラを除けばふえなかったかもしれないが、彼の肉体を構成していた物質は灰や土として輪廻した。
 有機物の輪廻がゴータマのいうdukkhaであり、自らの脳が無機物に戻る事が彼のいう安らぎ、即ち無余涅槃である。もし有機物が嘗ての地球の海で無機物から偶有的にうみだされたとしたら、自己増殖する細胞、有機物としてのentropy、或いはnegentropyがゴータマのいう苦の原型にある。一切皆苦とは細胞の有機的本性としての負エントロピーの欲に対して自然界或いは外界はエントロピーで動く、という情報量または熱の逆方向性による摩擦反応だったといえる。一切は我に反する、といいかえてもよい。そして諸法無我とは、我が巨視的にはエントロピー反応の部分系に過ぎない、と教えていたのだろう。
 無機物に還元された安らぎがゴータマの信じていた理想状態であり、他方で化学進化によってアミノ酸が無機物から自然的に生じたとしたら、彼の意識に近しいものが生物中の理性的又は大脳的存在として再び決して生まれこないとはいいがたい。かつて人類だった有機物が死体から火葬や土葬等によって分解・還元され、無機物になった状態がどれほどの間続くかは、長い時間としてみれば束の間だというほかないだろう。生存競争の輪廻、或いは業は、生物が自己延長・自己増殖へ方向づけられた反応装置であり、しかもネゲントロピーを摂取する中で自己の系、或いは恒常性を維持したがる点で、この細胞達の業で輪廻なのだろう。有機物は相互に増殖可能性を探り、反応を増加できる形に相互選択していった。そして殖える事にしか目的がない一切の細胞は、微視的には変化している各元素、各単子、各素粒子、各単位の組み代わりにすぎない。諸行無常とはこの現象をいいあてていた用語だった。有機体は自己延長を図る。だから子を産もうとしている本能でできた動物らは、memeの様なその無機物への写しを通してでなければ、単なる自己細胞の延長系による増加の装置だ。相互に競合し、弱肉強食や適者生存、或いは運によってこれらの細胞は自己の系の増加に役立たない他の細胞を自らの系のネゲントロピー増加に利用するか、無機化しようと図るのであり、結局有機物がふえる意味も理由も、物質反応という以外にはありえない。単純化すれば無意味、無意義という事だ。宇宙に意味をつけようという諸宗教の試みは、この点で御破算という事になる。
 少なくとも仏教上の慈悲観は、これら輪廻の諸相からはうまれてこない。それはゴータマ当人の主観的な妄念にすぎない。慈善をなすべしとか、慈悲を持つべきという立場は、競争を諦めたゴータマ個人が乞食や托鉢を正当化する為につくりあげた、貰いのよい乞食になる方法論でしかなかった。自己延長というミームを通した策謀によって、ゴータマはやはり細胞の指令に従っているだけである。
 カント、イエスといったアガペー論者らは中道を説いていたゴータマやアリストテレスより更に極端な慈善主義者だったといえようが、この慈善主義というものも、所詮は他の衆愚に比べて己の品位の高さを示す、という俗物根性の帰結である。だがこの慈善は少なくとも習慣によって善意という資質を作り、善人の遺伝子を偶然によってか残し、利他主義的な傾向を持つ個人からなる一群の社会を作り出す、という特殊な結果をもつ。要するにゴータマの慈悲観は彼の理想とした社会から逆算した結果論であって、宇宙の無意味さ、無意義さから直接導かれたものではなかった。世界の生物が苦のみで生きている訳でない事はいうまでもなく明らかであって、そこでいうdukkhaは単に無機・有機現象上の逆反応の暗喩である。
 ゴータマの理想とした社会は縁起律の理解からくる慈しみの連鎖によって乞食や慈善生活のできる状態であり、彼のやり方に習った人々はアガペーを説く事の実質的な報酬に、生産者から物資を分けてもらった。つまり慈悲詩人の生活をしたのである。『スッタニパータ』(第1 蛇の章、田を耕すバーラドブァージャ)にあるよう、ゴータマ自身は言行に対価を得る事を軽蔑していた様なので、乞食をしなければ生きている事もできなかった。カーストから離れ放浪生活を択んだ詩人は、利己集団の苛烈な競争を離れて死後を尊んだ。ゴータマの人生は社会からの逃避だった。
 自然死によって肉体を無機物に還元した上での永遠の死、又は再び有機物に生まれこないという希望がブッダの理想の境地、nirvana、nibbana、涅槃だった。

2016年12月25日

徳に基づいて生きよ。徳高き人はその時点で救われている。

2016年12月21日

天地

天国も地獄も現世では相対的にある。そして我々の思う天国と地獄は現世代と次世代に渡ってのこの世だ。

法人税制改革

法人税収は本社所在地だけではなく、工場や事業所側で生じた生産の分は立地している地方自治体側に納める制度に法人税制を改革する事で、東京都庁の無駄遣いや外部不経済を抑制し、過度の法人税収一極集中の是正をはかるべきである。

2016年12月19日

生活費保障の政府側の義務

ベーシックインカムや生活保護で人が死なずに生存できる生活費の支給を日本政府は全国民に行うべきであり、それがなされておらず、政府の怠慢と企業の悪意によって貧しい国民が贅沢三昧の極悪人天皇や株主及び正社員達から虐待され放題という現状の日本は地獄以外の何物でもない。政府は早急に貧困世帯含む全世帯が月額15万円に満たない収入しかえられていない場合、それが能力や主義その他いかなる条件であれ、15万円以上の世帯収入がえられるまで政府が税収を調整して現金を支給し社会保障を行わねばならない。さもなくば現状、生活可能な資産をもちながら貧困で生活できない若者から年金まで搾取している高齢者に特別徴税を行い、資産が余っている高齢者への年金を貧困な若者に振り向けねばならない。

2016年12月18日

愚者の妄執

愚者は愛執が幸と思い、善友を裏切る。愚者の生涯はこのため苦役に満たされる。

嘘による冤罪人達

善業をなした小沢氏を罠にかけた自民党閥及び東京マスコミ、天皇家は破滅する。小沢氏を陥れた極悪人菅直人は破滅した。善人・小沢一郎を貶め悪人・安倍晋三に権力を与えた西国衆愚は破滅する。嘘をつき善人を陥れた極悪人共には不信という永久の罰から逃れられない。

2016年12月17日

嘘つきども

衆愚を操作するメディアは衆愚から裏切られて死ぬ。衆愚は必ず裏切る。衆愚に向けて嘘をついてきた東京や関西のマスメディアとテレビ、地域差別を煽る妄想、主観、虚偽情報を流し続けた田中章雄らは地獄に堕ちる。衆愚に味方された天皇一族は滅び去る。衆愚を手下にした安倍政権や自民党は跡形もなく叩き潰される。衆愚は悪魔以外何者でもない。衆愚に好かれるほど悪徳と苦役が増す。

業について

過去の悪業を省みず善業を為す事だけが次世代の業となる。
 利己的な人達は漸次、不幸になっていく。利己の程度に応じて人は不幸になる。利己的な人々は他人をふみつけ侵略侵害していじめながら幸いだと述べているが、彼らの子孫も不幸なのである。快楽は幸福ではない。良心が幸福なのである。苦痛が不幸なのではない。悪心が不幸なのだ。幸福は快楽の上位概念である。

不幸な人々

低俗な人々の生は苦痛である。清浄な暮らしの幸福は退廃した快楽の渦にまさる。清潔の快さは堕落した性に優る。退廃自慢の自称京都人達、天皇家、関西人は生まれた時点で呪われている。侵略自慢の薩長土肥、天皇家、西国人は生まれた時点で地獄に過ぎない。悪業自慢の東京人、天皇家、西国人、は生まれた時点で汚名を返上しきれない。これらはけがれた前世代、現世代の悪業が現世代と次世代に祟っているのだ。悪人の子孫は呪われて生まれ、生まれた時点で不幸である。死んだ方がましであるが故に、彼らは人類から絶滅を望まれ、良心に逆らうほど不幸の度合いを増す。

手記

 建築は器用な人を、詩は繊細な人を、絵や彫刻は内省的な人を作る。彫刻は凍らせた時間である。

2016年12月16日

善行

客や労働者を搾取する為に行っている商売は真の善行ではない。半利己的なだけであり、半有害な半悪業に過ぎない。無償の慈善行為が真の善行である。無償の慈善行為の中道が目的の善行為である。

あしき衆愚は敗れ去る。あしき天皇は滅び去る。義人は地を継ぎ語り継がれる。善は悪を駆逐する。悪は善を貶める。
 都会で驕り高ぶっていた愚者は恥をかいている事に気づかず、後ろ指を指され笑われながら田舎を闊歩する。己の搾取業を自慢していた労働者は金銭の役立たない状況で無能と嘲られる。いかなる悪例でさえその人の業が次世代の反面教育として役立つ。

極悪国家

極悪人安倍晋三が賭博罪誘導しつつ衆愚を煽る
極悪人安倍晋三が戦争を誘発しつつ衆愚を煽る
極悪の自称日本の弥生人衆愚になりつつ殺人したがる
極悪の自称京都の関西人文化庁盗み皇族操る
極悪で驕り高ぶる東京人日本を侮辱し金のみ貪る
侵略犯極悪薩長天皇家驕り高ぶり日本を侮辱す
侵略犯極悪天皇一族が金を持ち逃げ職務放棄す
極悪の日本国民拝金し経済弱者を虐げ驕れる
極悪人安倍と天皇逃げながら外国挑発国民奴隷化

手記

 現世は夢となんら変わりがない。そこで起きている業の全ては前世代からの継続である。善業を為せとは現世に於ける立ち位置が、次世代に於ける近縁者の初期条件になる。悪役か善玉かはその為に生じる。利己人、及び利己集団は怨まれて亡ぶ。

2016年12月15日

俗界

利己的な人達が増えるのは苦しい。商人が増えるのは苦しい。商業社会で生き残る事は苦しい。商業都市に生まれくる事は苦しい。利潤を得る為に努力して苦しむ人々は自ら苦役を増しつつ、慢心に驕る。投資屋、商売人、サラリーマン、OL、労働者らを現世の俗人と呼ぶ。俗人の生は苦しい。また益々苦役を増す様にしか生きられない。
 悟った人は俗人の生を見苦しいものと知り彼らから遠ざかれ。俗人の傲慢を見て虚しいと悟り彼らの住みかと暮らしから離れて居よ。俗衆の集まる商業大都市を虚仮と見て彼らの驕り高ぶりから身を退けよ。彼らの生は苦しい。彼らは虚栄心を満たす為、また苦しい生を合理化する為に、安らぎにある人々を無闇に謗る。俗衆は地獄に居る。俗人は地獄に生まれ直し苦しみ続ける。

手記

 悪行は世の反面教師、悪例である。
 仏教は死を耐え易くする教えだ。

2016年12月14日

人格者

金儲けは徳へ至る道ではない。人徳のゆえに立派な従者がつく人は、真の人格者である。

手記

 人は見た目の美や装飾ではなく、清潔さや貞操等の徳目、或いは身体の性的特長に現れた健康さ、誘惑性といったエロス、愛欲を人やその似姿に見てとるとき、美と感じている。いわば機能とか模範性としての理想的観念を美とみている。つまり見た目自体を愛好している人はいないのだ。これらの見た目はある徳目あるいは愛欲の象徴である。
 仏教は乞食階級に反社会行動に走らせない為の抑制的宗教だ。乞食に利他行動をされると人はその人達を巧く見下せない。仮に見下したとしても、乞食より搾取罪を犯した事実があるので立場が卑しいままである。仏教は、或いはキリスト教もこの意味で経済的敗者が捨て身になって利他に走る事を勧めた、敗者復活の技だ。

2016年12月13日

悪の繁殖

悪人が繁殖してもより大きな不幸を生み出しているだけである。悪人自身が悪徳によって既に不幸なのに、その子も親の因果による悪徳条件から再出発させられる。故に悪徳の持ち主が利己のため繁殖し、慢心に驕っているとしても、その子孫は想像もつかない苦難にあう。善人が繁殖しても苦しみから逃れられないというのに、自らを蝕みながら繁殖した悪人の遺伝子がどうして幸福になりえよう。もし悪人やその子孫が幸福だと考えているとしても、彼らの生態は俗臭に満ち、苦痛に溢れ、醜悪である。この世で最も悪い存在である天皇家の生涯と末路を見よ。その生態は野蛮な暴力を極めたという罪悪と不幸のどん底にありながら、慢心にあって己のとるにたりない中国由来の遺伝子に我執し、おごり高ぶっている。天皇の不安を悪例と見よ。悪人の繁殖は苦難である。悪人のおごりは虚栄であり、悪人同士が与え合う偽りの名誉と財産は彼ら自身を悪業により蝕んでいる虚仮である。

蓄財と聖徳

蓄財した人々は不幸を蓄えたのである。財産への執着は妄信であり、遠からず破滅する。蓄財で不安を解消する事はできず、蓄財すればするほど不安が増大する。最も卑しい暴力で蓄財を続けた天皇一族の不安は最大であり、商人達や投資家達、金持ちはこの不安の為に一生を駄目にする。慢心は蓄財がうみだし、自らの徳を蝕む。蓄財はみな悪である。無一文に留まる人は満ち足りて寝る。清貧な人は慈善に全力を用い、尊き人や聖者らに敬われながら満足して眠る。
 蓄財の為にも生活の為にも仕事するな。生きようと思う心は執着に過ぎずみな打ち砕かれる。再び生まれきた子供は苦でしかありえない命に絶望し生涯苦しむ。仕事を下賎と見よ。なすべき事は元々ない。人はひたすら慈善の思いで生ある間、利他に生きよ。利己心一切を捨てよ。我は無いに等しい。相利の言行を癖づけた者は、利己にもなるという条件さえあれば利他し易い。しかし利他の言行を癖づけた者は意欲があってもなくとも貴い。利己の言行を癖づけた者は卑しいまま生きて苦しみ、憎まれつつ死んだうえ即座に忘れられる。利己の人は他者に有害であり、残された人々にとって一刻も早く忘れ去りたい人だからだ。人は利他の人格に到達するよう生きるべきであり、相利の人格は次善である。従って商人はどこまで行っても、あきんどと見なされる以上に貴くなれない。我執のない人々は政治家にならない。従って政治家は慈善的でなければ徳がないが、力と徳が矛盾するとき力を択ばざるを得ず、永遠に続く勝利はないため暴力への復讐で惨めに死ぬ。善良な政治家は力と徳が矛盾するとき徳を択ぶ為に敗北し、俗衆から貶められる。真の慈善家は卑俗な衆愚に嫌われる為、名声がない。だが彼らの聖徳は貴人に轟く。
 利他の人が相利に生きる事は難しい。聖者が俗人を真似る事は不可能である。罪人は聖者や俗人を真似がたい。俗人は右往左往しつつ相利の商売中に混乱して苦しむ。これらはみな癖がつくったものであり、生まれ育ちのよしあしによっている。商業都市で聖人は生まれ育ちえない。都会で聖人は暮らせない。都会は罪人のすみかであり、商業は俗人の好むものである。人は都会と商業を避けよ。聖人の住まう田舎に暮らし、自ら聖徳を全うせよ。

2016年12月12日

知恵

知恵は最大の財産である。
 悪しき人々は群れ集い悪業をほしいままにするがその心は枯れはて、次々に襲いくる苦しみに疼く。衆愚は汚猥を好み、それが価値高き幸いだと信じているが、悪徳の故に次々苦難に遭い破滅してゆく。愚者の想う幸は常に悪業である。賢明な人は愚者の望む幸を避けよ。愚者の好む理想やその者の愛する土地、風俗、人生観を避けよ。愚者は輪廻の中で虚栄に浸り苦しみ続ける悪例である。暴力、搾取、虐殺の悪業、独占欲、我執、名誉欲、卑俗を極めた天皇一族は地上に於ける最悪の事例であり、永遠の不幸に遭って苦しみ続ける。天皇の生は醜悪である。天皇を悪例としその逆へと確実に歩め。

繁殖と経済的繁栄の苦

悪い人々は殖えて行く。悪い人々は我先に繁殖する。だが悪い人々の一生は底知れぬ苦しみである。悪い人々と共に出産や配偶を喜ぶな。悪い人々とつがうな、つるむな。悪い人々が暮らす地域に近づくな。
 西国は悪人の巣窟であり、東京は悪業の鬱積による苦難の地獄である。解脱した人々は生殖を望まず、自足して平穏に暮らす。経済的繁栄を望む者は自ら不運をかこつ。

都会

都会は無。都会人が価値を見出しているものは、金銭を含め全て無価値である。天皇家は虚無であり、俗悪な権力亡者のやくざに過ぎない。
 都会を離れて暮らせ。都会には何もない。都会はごみである。都会人にすら中身はない。彼らは無意味なものに仕え過労のすえ土くれへ消えてゆく。彼らが価値とみなしているものは次の瞬間には無価値になる。虚無だけが都会に流転している。人は都会で幸福になれない。都会は地獄である。
 俗塵を避け、都会を離れて住まう人は世俗の煩いがない。

涅槃について

Nir=打ち消し語、vana=吹かれる、ニルヴァーナとは「吹かれない」事。非吹。欲に煽られない事。Nirvanaは欲が吹き消された無欲の状態。仏教はこの無欲の状態に長居する事を目的にしている。涅槃(ネハン)はニルヴァーナが訛った俗語からの音写語。中村元訳『ダンマパダ(ブッダの真理のことば)』10章ではnibbana。人体ある限り基礎欲求は消えないので、有余涅槃(仮の無欲)を長期化できるだけ。死が真の無余涅槃。仏教上の無欲は基礎欲求が必要なだけ満たされ、かつ、高次の欲求が生の否定によって最小化された状態を意味する。仏教で到達できるニルヴァーナの状態は、生きている間においては少欲であり、死後の永眠を理想視する。

制作

よい作品を作り、よい状態に留まれ。

聖俗の感染

俗人は美醜を取り違える。それ故に俗人は不幸と忙殺を得る。聖人は美醜を見分け、趣味の善さの為に幸と余裕を得る。俗人は卑猥な悪徳を美と勘違いし、ひたすら自滅と不潔に向かう。
 聖俗は交わらない。俗衆は聖者を謗る。俗衆は醜悪で不遇な生態をもっている。ゆえに聖人は俗衆の暮らす場所を避け、彼らの言動に触れるな。俗人は不幸の種であり、それは彼らの無知と理解力の低さ、愚かさによっている。俗人に説教するだけ無益有害であり、俗人の近隣に暮らしてはならない。
 聖者の暮らす地域に俗衆は適応できない。聖俗は必ず住み分ける。人は聖なる地域においてのみ、真の幸福と心の安らぎをえる。俗なる地域にあって人が安らぐ事はなく、世事と取るに足りない醜悪な仕事で忙殺される。
 俗衆は聖地を謗る。俗衆は地獄を愛する。故に俗衆の一生は汚い。また俗衆の末裔は地獄で生まれ、悪の下界に沈む。都会は悪のすみかである。人は聖地に聖人らと共にいる限り、俗衆の下賎な生態から守られる。
 聖人は聖者をよびよせ、俗人は俗衆をよびよせる。類は友を呼び似た者同士が集まってくる。ゆえ賢慮ある人は聖者に親しめ。俗人と馴れ合ってはならない。俗人は悪業の暮らしを無意識に広め、他人にうつしている。聖俗は感染する。

手記

 今ある人のこの世には五感しかない。人が受け取っている世界は五感の中にしかない。五蘊(色受想行識、物質・感覚・概念・情動・知識)は、視聴味嗅触の五感より曖昧で幻覚的分類でしかなかった。知覚といったものはない。人は五感を協働させて何かを知った様な気になっているだけだから、五感が滅した状態では脳が外部と接触できなくなる。脳は言語を視聴覚を通じてしか理解しない。文字か音声による入出力が言語であり、そのため五感の一部でしかない。
 五蘊盛苦(pancupadanakkhandhadukkha、5つの・執着する・要素の・不快)が五感について同じ考え方としていえる。ゴータマ説では五感に執着する事が苦界、となる。他方、人類は五感へ巡る適度な刺激、又は健康を促す適度な運動を快楽と感じる。五感を抜苦与楽の感応へ向けて適度に運動させる事が芸術、技のしている事だ。それらの各感覚が中庸な楽しみを覚える様に繕われるという事は、執着でない限り、仏道と一致する。芸術家が五蘊盛苦を生み出しているわけではない。単に極端な刺激についてのみ、苦界の原因なのだ。もし欲として感覚刺激が悪というなら、視聴覚を使った脳内での言語作用としての有余涅槃も不可能となる。現世で涅槃に、安らぎに近づく為には感覚刺激を中庸に保つ様な環境条件が必要という事になる。『草枕』冒頭の芸術家が楽土を作るという了見は、俗界を捨象し浄土あるいは天国の様に表す、という主観的美化を、理想、又は涅槃イデアの擬似視聴覚的な表現として正当化している。感覚刺激がありながらそこに涅槃を連想させる何らかの装飾を施す事が、ここでいわれている芸術。そもそも生が快を生殖、繁殖、増殖の誘導因として使っているとすれば、有余涅槃への導引は快を中程度に整える事、一部を絶えず変転させておきながら飽きない様に全体を作り変える事といえる。
 自分に害がない悪行はしてもいいのだ、と考える西国人は、自分に害が来る時期や他者からの返報を予期していない。自分に害があるかどうかを長期的に予言しているのが、他者が害に陥る事を避けさせようという道徳だ。徳は利他性の変形。
 仏法僧は単なる詩人である。僧侶の一切は詩人でしかない。彼らは芸術家の一種という事になる。彼らは言語や演技、所作によって人々にある感情、特に慰めの感情、主に視聴覚を通じた涅槃感、仮の安らぎ感をもたらす職業でしかないからだ。彼らはゴータマ以来、大道芸人が諸芸によって投げ銭を得るのと同然に事実上の対価、その意味では商い又は乞食を正当化した。ゴータマは『スッタニパータ』(一章の四)で、自らの詩にある程度の自信をもっていたので、農民であるバラモンから嗟来の食を受ける事に反発し、反論もした。托鉢はインドにおける生活保護に該当したのだろう。
 人類は自らの才能が人類に最も貢献する分野に留まるよう工夫する事で、単にその人の意識において自己実現を果たすのみならず、その人にとって最良の経済的な恵まれ方をもする筈だった。清貧な職業は確かにある。商業的に成功した画家達の趣味の卑俗さは、必ずしも彼らが質的に幸福という意味ではない。前衛的な貧乏画家達は、ある種の伝統芸能や陶芸職人の様に清貧を宿命づけられているが、これらの人々は主観的な表現物によって慰められている。
 経済的価値を主要な人生観としてもっている人々は、より富裕な人々や地域をねたむ。この意味で永久に不満で、その分、不幸なままである。極めて低い確率を除いて人類で最も富裕な人になる能力を持つこの種の不運な人々はほぼ皆無なので、彼らは永遠に不幸である。

2016年12月11日

情報価値

低俗なものを見聞きしない事は幸福の原因である。高貴なもの、高尚なものに触れる事も幸福の起源である。

歌手

生きている事も
幻覚に酔っている事も
全てを知りながらなお
君はこの世の美を謳おうとする
まるでそれだけが希望かの様に
死んでいく事も
現象が変わっていく事も
全てを悟りながらなお
君はこの世の空を謳おうとする
君はあの世からこの世へと舞い戻り
天女の様に変転し続ける
生まれてきた事も意味がなく
生きていく事にも望みはない
君は全てを知りながら不可能を謳う

商業悪

経済活動は悪の起源である。商業は格差を作り出す原型であり、搾取や金儲け、労働の一切は罪悪の起源である。この悪業の程に応じて人々は不幸を得る。人は悪業を避けよ。商業を行う人々は呪われて生まれてくる。商業なしにくらせない社会は地獄であり、生まれてきてはならない。一旦生まれてきてしまった商業社会からは脱出するか、さもなければ限られた少数の人々の慈善の中で商業なしにくらせ。
 人が求めの程度の生産活動を行う事は正しい。求められないものを作る事もその人の徳に応じて正しい。だがこれらを交換する中で搾取しているとき不正であり、自他に悪しき結果をもたらす。人は全く非商業的に生きねばならず、しかも生産的でなければならない。人が生産物を交易する時、互いの取り分が平衡していなければ正しい行いにならない。もし寄付や喜捨によって生産的な人生を送っているとして、その善行にただ乗りする人々は彼らの盗難に等しい無返報という非礼の悪業に応じて不幸になり、貧しくなっていく。一般にこの現象を不況、或いはdeflationという。人々のただ乗りという悪行、即ちけちが不況の原因なのだ。この悪行を断ち切る人々は、商業欲という悪徳を捨て去っている。

西国人の自滅

西国人はアジアのがんである。天皇家はアジアのがん細胞である。弥生人はアジアの寄生虫であり侵略犯である。これらの人々は悪業を背負い、日々破産していく。これらの人々の悪業の有様をよく観察し、蛮族の無反省に悟ったなら近づいたり関わったりするな。悪人共は自滅していく。

少子化救済論

少子化は望ましい結果であり、解脱する人が多ければ多いほど、名誉欲や生存欲に憑かれた悪魔の天皇家に奴隷化される地獄日本から救われる。競争や格差社会の中で子供を産む者は無知か悪意で愚かなのであり、更なる地獄的環境で共食いの絶滅戦争を行うだけの結果に至る。利己的な人間ほど利益をあげる自由民主党の暗黒統治下でふえる日本人は、天皇家の奴隷として地獄の現世を耐え忍び、解脱する事が生きる目的である。
 己が贅沢三昧の為に奴隷制を象徴天皇制と美化してきた悪の権化・天皇家という無知な独裁者一族が除去され、その悪の手先である自民党という愚かなやくざ集団が敗北し消去された後でも、別の愚者が、民衆の虚しい期待にこたえる形で再び地獄を作り出すだろう。そしてこれは時間の問題にすぎないが、結果は少しましになった、と思い込む間しか持続せず同じである。かといってこの進歩が早ければ早いほど、現世の地獄における苦しみも減少するであろう。

手記

 芸術は哲学の手段にすぎない。仏道であれ修道であれ、宗教的な認識は哲学上のある理念への知覚的導きでしかありえない。
 芸術は哲学を表現できるだけだ。
 我々は学問、学習によって何かを得るが先ず過去の人の言語・記号・技術的認識を再獲得しているにすぎない。

2016年12月10日

解脱と生殖

子育て費用が大きいと解脱、子育て費用が小さいと生殖を選びがちになる。これらは中道の本質ではない。生殖していようがしていまいが、相利的な中道は一つ。

蛮族の自滅

薩長土肥、西国人、弥生人、天皇家、これらは侵略の悪業によって米英仏ポルトガルやスペインらの西欧由来人同様に人類の大罪人であるから、然るべき時に然るべき自滅を伴うであろう。これらの蛮族は脳のできが悪く、単に他人の立場になって思いやれないほど無知で愚かであり、悪質かつ野蛮なのである。野蛮人が反省する事は考えられないので、これらの蛮族は彼らの共食いの悪業によって死滅していく。

俗価値

世俗と触れ合うな。俗人達の幸福は聖人からみれば不幸のどん底である。
 生きようと思う心を捨てよ。生きながらえる事は不幸の原因である。子供を産む事は罪悪の始まりである。
 金銭に換えられる価値は低い。金銭に換えられる価値に基づいて物事を判断してきた人は脆い。この世で聖なる価値は金銭に換えられることがない。尊いものは金銭から遠ざかってある。それゆえ卑賎な人々が金銭を追う。生涯を金銭のやりとりに過ごした人々は卑しいまま死ぬ。
 金銭は低い価値にしか適用されない。それは現世の人々の求めるものが低俗だからである。

手記

 我々が解脱で終わりの生態なら、ブッダ以後の世界がこれほど未解決にみちている事は矛盾である。いわばブッダの哲学は仮の解決でり、彼個人に役立つもの、一部の人々に効果があるものだったが、多くの人々にとって本能、いわゆる煩悩を抑え込む事すら容易でなかったのだ。本来の仏教は、上座部的で小乗的だった。だから小乗と批判されて怒る、乃至気分をわずかなりとも害したスマナサーラはゴータマの考えをその点とりちがえている。『ウダーナヴァルガ』に記述されている結論からいうと、ブッダは愚者や悪人が地獄に堕ちると発言しており、実際に原始仏教は小乗的なのである。大乗的・大衆的な仏教は本来の仏教ではないし、それはゴータマの教えではない。解脱という救済法も少数派の知能にしか不可能で、大衆には無理なのだ。日本仏教の過去の哲人ら、例えば南無阿弥陀仏(無量の仏へ帰依する、の意)を唱えさせる易行によって解脱への意思を口癖にさせ仏法を大衆化しようとした法然は、ゴータマの考えを進化なり変化させ、仏教思想ミーム内で自己の解釈を差別化したという事になる。易行性は常に大衆芸術の中にみいだせる性質だ。Lowblowな技一切が易行を原因にしている。だからこの種の仏教が、或いはあらゆる宗教にあっても世俗派が卑俗な事は否応ない。解脱を悟る事が大衆に無理なのだとして、大衆をこの考え方に至らせようと努力した人々は、一体何の為にその様な無理な事をしていたのだろう。およそこの種の啓蒙主義は、全て自己の持つミームへの過信か、おしつけがましい自我への執着にすぎない。だからゴータマが(『般若心経』で)諸法無我を説いていたとして、大衆仏教の世俗派達はみな、我執の形態にすぎない。この種の囚われは全て勘違いである。事実、俗人達は卑俗な文物を好みその中で安沈しているのである。退廃した皇族の卑俗を極めているといえる『源氏物語』が弥生人らに俗受けし続けてきた事はこの証である。そしてこの俗衆の不道徳さ、不幸は人類の存続する未来まで等しいだろう。ゴータマの考えていた現実性、小乗的世界観は完全に真理でしかない。我々は大衆的である事を少したりとも正しいと思うべきではなく、却ってそこから離れようと工夫する限り、幸福に近づく。質的幸福は小乗的・上座部的だ。そしてスマナサーラが思ったのとは別に、小乗とか上座部といった用語の誹謗的起源はどうでもよい事に過ぎない。実際にゴータマは小乗的だったのだから。そしてそれが諦念の本体でもあった。彼がいいたかったのは、彼に可能な慈悲で十分であるという事だ。神の如くに一切衆生を救済しようという考えは、完全に大乗側の思い違いか、思い上がり。勿論、神道信者はただの下人。巨視的にみれば卑俗な階級である中国から侵略してきた皇族・王室の類が、自己の血統を神格化しようと現地の自然崇拝を取り込んで、自我としての偶像崇拝を流布したに過ぎない。この種の下人らは確かに愚昧であり、ゴータマにいわせればただの愚者である。そして愚者が輪廻するのも、必然だ。
 ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教、これらはイエスという自我に囚われている限り、また神、ゴッドやアッラーという妄想に囚われている限り、単なる我執の形態にすぎない。これらの諸法には常住不変の真理というものはないのだ。ゴッドやアッラーは実在するものではないし、信者の脳内に住み着いている単なる宗教観念ミームである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教は、仏教の観点からみれば単なる我執である。これらに含まれる神格概念は無我に悟っていない為に生じている妄念の類を合理化しているだけだ。儒教と道教は仏教にとって姉妹的
な人格修養の哲学に過ぎないが、特に道教が無為自然と説いた事と仏教の涅槃寂静は親和性がある。儒・道・仏の教えは神格について語っていない分だけ、妄想への耽溺を免れている。孔子は道を人徳的完成の比喩に使っていたとして、老子についても価値の相対性を超えた立場という意で同じだろう。道という観念と仏教の解脱や涅槃には類似性がある。少なくとも人類がかつて到達した事のある道徳的理念として、この道と涅槃の立場が最も超越的である。日本の中で道は名詞句を作る接尾辞となっているが、この一般化された道は、人徳を完成させる為の修行の道、という仏道とほぼ同一視される。生あるものが何らかの様式性を洗練させていく所で使われる道、という接尾辞は涅槃に対しての道のり、という意味を与えられているのだろう。だから神道という天皇家の広めた新興宗教も、この意味で仏教の部分系、尤も大いに邪道化したものという意味しか持つ事がないだろう。
 ブッダは涅槃という生殖を否定し死を甘受する立場を理想としたのだが、なぜ現世の人々はこの業を行いえないのか。本能を中程度に抑え込む、という理性、大脳の厚さが、現世の人々には明らかに備わっていない事による。そしてこの種の脳の未発達な者のみが繁殖し易い為に輪廻がおわらない。ダーウィンは進化論の下敷きにキリスト教をもっていたから、旧約聖書のゴッドがいったことになっている創造主の似姿としてのヒトの繁殖が自然界の是であるという前提に立っていた。だがゴータマはこの是を前提として否定している。ダーウィンとゴータマは矛盾なり反対している。西洋人らが文化素の面でダーウィニズム、その根底にあったユダヤ教・キリスト教の繁殖の是に基づいて植民地主義や侵略を行ったのは明らかである。ゴータマの考えはこの業をも虚無とか悪業と見る。実際に、ある時代に西洋人の蛮行は責め立てられ、或いは西洋由来人自身の罪悪感として自滅に至るだろう。日本において薩長土肥、関西人、弥生人、西国人や天皇家が行った、戊辰戦争以来の侵略の悪業も同様の意味をもつ。ゴータマの考えていた涅槃は、これらの蛮族を完全に無視している。争いによって不幸を拡大し、輪廻を幸と思う人々は単に野蛮なのである。輪廻から抜け出せない限りにおいて、これらの蛮族は自滅しかしえないだろう。
 来世代という意味で、前世代の業を継いでいるという輪廻の考えは、単に人類の種別という先祖の系統において真であるばかりか、進化論上の生物の種の系統樹についても同様である。低俗な生態をもつ人々は将来もより低俗になって生まれる事はあっても、高貴な生態になる事はない。だから皇族が低俗であるとみてとれば、それ以下の生態になって生まれてくる事は一般の人々にはない。神道に洗脳され皇族という悪業を背負った暴力団長をまねた人々は、皇族以下に近づく事はあっても、殺人鬼の末裔である極悪の天皇を反面
教師にしていさえすれば、我々はその種の蛮族の地獄的条件に生まれつく事はありえない。生まれつき卑しい中国移民の天皇は地位を交換する事も、先住日本人や外国人らに委譲する事も永久にしえないだろう。その不幸は彼らの悪徳によっている。この点を観察すれば、功徳を積めとすすめた人達は正しかった。それは予期しない次世代の条件であるばかりか、一生の範囲にあっても徳による幸福を原因化しているのだから。
 仏教における中道とは、持続的な快を、知覚的なものが長期的に可能な快であるから、質的にも占めようとしている、功利主義の是認に等しい。寧ろ相利主義、趣味主義の見解にみられるよう、質的功利主義の奥にあるのが仏教なのだ。
 仏教の奥にあるのが趣味主義である、といえる。質的功利主義が自他に及ぶ様に、しかも相利的に行われるように、中道を図る事が趣味主義の見解だが、この生き方は仏道と一致している。涅槃は子育ての費用が大きすぎる場面での適応形だといえる。もし子育て費が低すぎる場面なら、ヒトは繁殖したがってしまうだろうが、この場面でも中道を超えない事によって趣味を穿つ事ができる。
 天国とか地獄はその人のおかれた条件だ。そしてこれらは相対的なものでしかない。人は他の生物に簡単に地獄を作り出す。天国を作り出す事も比較的容易である。政治権力を用いてヒトを統制しようとした人々も、人類の生存環境を、彼らの人々へ与える行政行為の限りで変化させる。技も商もこの環境抵抗を変化させる生業でしかない。業が生まれ変わりとして、輪廻として信じられているとすれば、それは功徳が生存環境へ与えた変化によっている。技術、制度、取引、これらは人生の本質的な虚空、dukkhaを満たしはしない。仏教は道徳であり、技術、取引、制度(これらは制度にまとまる)によらない。

 性愛、恋愛、erosは個体への生殖欲、性的欲求を美化していったものにすぎず、この欲はどこまでいってもdukkhaをのりこえる事はできない。Dukkhaの故に生まれ来る。美は本来、erosという意味ではdukkhaに過ぎない。もし快適さとしてのsukhaがあるなら、性愛の不可能さに過ぎない。エロスに基づいて子をなした人々が苦役に襲われている事からも、快適さ自体とエロスは一致していない。それは本能の意でしかない。
 哲学は単純に理解できる道徳であるほど望ましいとすれば、易行性が哲学の時代的進歩に他ならない。もし解脱への誘導が成功すれば、勿論、人口は減っていく。だから俗悪な支配者、権力者、皇族達が貢納による贅沢や名誉欲、性欲を満たす為に奴隷をふやそうとしていても、易行性が高くなるほどこの悪業は失敗するだろう。現代日本は成功した国家なのだ。逆に多子化している地域、例えば九州や沖縄では更に苦が襲ってくる。そして皇族はここに寄生して蛮行を試み、不幸をふやし失敗する。皇族とは不幸への寄生虫である。そして彼らの生まれついての偽善を覆い隠す芸能で糊塗した心底からの悪魔である。

 芸術は作家の精神、即ち作者の頭脳への学びという効果しかない。だからある山城生まれの俗作家がいう類の、「人格的に問題のある」芸術家の「立派な作品」といったものは無い。それが俗作家の俗物たる限界でもある。俗作家の作品を好んで買う、もしくはそれすら買わない人々の生活をみてとれば、すぐに理解できる。卑俗な人間が卑俗を、俗物が俗物を求めている。だから商業的に大衆向け作品で成功している作家は、当然ながら、その時代の程度に卑俗な存在にすぎない。清貧であるが故に自殺を択んだ作家は、悲劇であるとしても、少なくとも極端を択んでいたという事になる。なぜならその時代の多数派は繁殖性がある限り俗だからだ。この俗に対する折衷が生まれながら自然体でできている、もしくはそれ以外ができないか、それ以上が分からない人々が商業作家であり、大衆の人気作家なのだ。非商業作家達は商業的に価値の無い行いをしているかもしれない。だがそれは彼らの精神が、頭脳が、同時代の大衆の購買欲に叶っていないせいである。そして彼らの思いから学ぶ為の技という装置は、彼らが俗受けする製作物を作り出す為だけにあるのではない。博士論文と取るに足らない学士論文、それらと俗受けした大衆小説を引き比べてみるがいい。同じ文字の羅列でも、これらは求める層が違う。そして商業価値についても大幅に違う。だから俗人達が商業作品しか評価しないとしても、それは彼らが金銭的な価値についてしか理解力が無い証拠でしかない。どの時代どの国にあっても俗衆はこの通りなので、ある時ある地域の作家達はこの貴賎の法則を理解していなければならない。自分自身が同時代の俗衆に比べてどの位置にあるのか、そして自らに可能な妥協はどの程度なのか。妥協できないとすれば、当然、その生業で生活費を捻出できない。だから別の糊口をしのぐ生業を見つけるなり、パトロンに寄生するなり、知恵をつけねばならないだろう。貴品もしくは特殊な品が高く販売できるなら、それに越したことはない。だがこの様な幸運に恵まれるとは限らない。他方、金銭による価値づけが明らかに、芸術の中身としての思想のそれとずれている事も理解すべきである。江戸時代の通俗読み物が昭和・平成の大衆小説であり、そこで人気を博した商業作家達はどれほど虚栄に逸っていても、とるにたりない存在だという事になる。そこで伝えられた思想は、勿論、俗衆に分かり共感し、容易に共有できるほど卑俗だったからだ。こうしてみれば、道徳的によい暮らしは金銭の多さ、儲けの多さから徐々に離れていくのが明らかである。清貧こそが道徳の目的とする位置づけであり、この態度は最も優れた芸術をその時代において生み出す素になるだろう。
 日本人と名乗っている人々に立派な人は少ない。特に弥生系渡来人達の末裔は卑俗の極みというほどに野蛮で、この類の人々に期待したり、寧ろ善良であると勘違いしたり、賢明であると思い込んでいる外国人らは単に愚かなのだ。愚か者の末路は一つであって、我々にそれを変えるすべはないし、かえずともよい。中韓人がこれら弥生系の西国人を縄文系日本人ととりちがえているか、一体のものとして誤解しているのは、彼らが愚かだからにすぎない。弥生人らは彼らが侵略してきた前800年ころから今に至るまで日本にとっても常々最も有害であり続けたのだから、外国にとってもそうでないわけがない。そして彼らに絶滅を期待しても、彼らの自滅に待つしかない有様であるが、彼らは勿論利己的で邪悪であるから、増殖したがるばかりで一向に減ろうとしない。その様な日本国に憧れたり、妄想のままに弥生人を善と勘違いしたりしている人達も、悪に騙されている限り同様に愚かなのである。
 美は幻想だ。もし美の様にみえるものがあってもそれは生存にとって快適にみえる、性的価値づけの上位にある何かであって、実際にその様なものがあったとしてもこの美は輪廻の原因になるに過ぎない。したがって芸術一切に感じている美も、この快適さの引き延ばしに過ぎず、単なる勘違いでなければ妄念の類である。もし漸近的な快適さがみいだされたとしてもそれは苦、dukkhaの原因になるだけである。緩和された苦が美、といいかえる事もできる。美を求める本能や直感は生物に固有で、性的な働きだが、実際には性の合目的性自体がこの美への幻惑に留まる苦悩の原型になる。いかなる美人といえども人間に固有の苦なしに成長しないし育てる事もできない。同様に、いかなる美的環境といえども生存の苦を緩和できると想定できる為に、見目麗しく映るだけだ。したがって芸術家、技術者、職人らの作り出す美は、他生物が巣を巧くつくり上げる技芸と根源的に違う所がない。
 芸術は痕跡である。すばらしい痕跡だと思っている人は主観の投影によって伝わった情報のまとめ方についてそうなのだ。

2016年12月9日

求め

求めなければ与えられる。
 快苦は貴賎。趣味がその人。
 金儲けを是とする人は貧乏に苦しめられ、寄付で事足れりとする人は富裕に暮らす。この世の快楽を虚仮と見よ。
 金持ちになった下人は卑賎に暮らす。成金は下賎のまま。皇室はただの成り上がり。

死の悲しみ

我々が誰かの死に悲しむとしても、それはその人から得られていた、又これからも得られるであろう利益が失われた事への利己的な期待喪失の残念さに過ぎない。つまり死を悲しむ人は残された自分達の、人生の苦の増大を悲しんでいるのである。既に死んだ人には苦痛すらないので、悲しみ等存在しない。勿論この意味で、既に亡くなった人にとって死は救いに他ならない。だから死を悼んでいるとすればその人は俗界の下種であるか、さもなければ四苦八苦に悟っていない俗人である。

極悪国家日本

米中を裏切りカジノで金儲け自民暴走天皇逃亡
極悪の金儲け自民逃げ腰で賭博罪すすめ反日TPP
極悪の2chねらーども群れながら衆愚に驕り売国犯罪

2016年12月8日

愚者の忠告

愚者の忠告は悪への誘惑にすぎない。

苦しみ

聖人の苦しみは俗人の苦しみより遥かに軽い。罪人の苦しみは功徳を積んだ者の苦しみより遥かに重い。貴賎は苦しみの差である。現世の俗人は自体、搾取で暮らす罪人である。商売人はみな搾取罪のつみとがを背負っている。あきんど達、会社員達は彼らそれぞれの搾取罪状に応じて不幸になり、罰としての現実的制裁を受ける。
 聖人の苦しみが最も軽い物であると悟り、聖徳に留まれ。俗人の忠告は毒物である。聖人の忠告は良薬である。自らより劣った者の忠告を聴くな。卑賎な者は堕落への誘惑を忠告だと考える。俗人の善意は、彼らの生態に含まれる悪徳の故に、聖人にとって有害な悪意である。調度麻薬中毒者や仕事中毒者、或いは酒色に溺れた者の勧める快楽が有害な様に、品性下劣で愚かな者は上人を地獄へ誘導しながら善行したと考える。だから人は下賎の者と寸分たりとも親しむな。下俗と分かる者の生態を知るな。世々の知恵に上限もない。下限を知ろうとも輪廻の渦はきりがないのだ。ひたすら自ら以上に優れた人物のみを知り、彼らに学べ。
 卑屈な者と分かれば猶予なく即座に判断し、会話せず、触れ合うな。それは時間の無駄でしかない。たとえ俗人と話すだけでも卑賎はうつる。商人達や下種な都会人に関わるな。

2016年12月7日

商業の絶滅

卑しい人を尊くする事はできない。商売人達は絶滅する。商業で金銭を得て繁殖している人々は絶滅していく。商業を避けよ。商業生活を去れ。俗人の言葉を見聞きするな。俗衆を遠く去れ。
 俗人と共にいないだけで苦しみの大半は去る。生きる為だからといって商業活動をし繁殖までしている搾取罪人は苦役を自ら背負っている。その様な俗人らに道徳的反省はできない。
 俗人に触れ合うな、俗衆に説教するな。俗衆の中に行って啓蒙できると思うな。啓蒙は中人以上にしか効かない。よき忠告は上人にしか届かない。下人は反面教師として為すがままに自滅の共食いをさせておくか、ごく有害なら強制力で彼らを刑罰せよ。
 清貧だからお金がないというなら、その人は最高の境地にいる。金満だから自慢に足るとか、世俗的快楽が多いというなら、その人は最低の境遇にいる。幸の目安は道徳的模範性である。成金は蔑まれ、慈善家は敬われる。
 俗人の為に奉仕するな。俗衆の好む物を作るな。聖なる人の為に奉仕し、聖者の列に並べ。通俗的な商売で成功したと述べる者は人生の失敗者だと見よ。低俗な商業で金を貯めている人はその時点で悪の権化と見よ。聖者以上の者は地球に居ない。聖者の為の生業が最上である。聖者より尊い者が星外に見つかれば、その者の為に奉仕し満足せよ。神という理想的人格を妄想し、その神格に仕える事は、神格に限りなく近い聖者の為の奉仕にすぎない。聖者はより尊い聖者に仕えている。
 俗人は悪趣味であり、不幸の源泉である。俗人とつきあったり、関わったりするな。俗人に会うな、触れるな、近寄るな。俗衆の多い地域を避け、彼らの好むものを避けよ。俗人を学ぶ程悪くなると悟れ。俗人の愛し、好むものはけがれであり、俗人とは悪例に他ならない。

極悪政治と山口県の破滅

後世に禍根を残す悪政に悪政を重ねきった極悪長州人安倍晋三とその手先の皇族親戚麻生太郎、並びにその手先の極悪ヤクザ組織自民党集団は悪魔の税金搾取罪人天皇家ともども地獄に堕ちる。これらの極悪人に投票し或いは信じている衆愚は破滅する。これらの衆愚に関わるな。
 カジノ法、TPP、格差社会化、そして原発推進、これらの悪業は全て安倍晋三という極悪人1人から生じている限り、極悪安倍家の破滅はその極悪人を選出した悪しき山口県民一切の滅亡につながる。

人格と脳

世の聖者はその時代において最も利他的な行動を物とした人だ。大脳新皮質は小脳を抑制し、本能を理性で抑え込む。だから大脳の発達が優れているほどその人は利他的に行動する。本能は利己でできており、理性と呼ばれる大脳の働きはこの利己を卑しいとみて否定する。だから利己主義者は蔑まれ賎しまれているし、もし利己的な人、例えば金儲けを成就したとか天皇の后になったとか夢を叶えたとかいう人を尊敬する者がいても、それは愚かなのである。この世では利他的な特性を最大に伸ばした人、いわゆる人格者が最上の尊敬に値するのだろう。但し、中庸は人徳を実践的に成就する方法だから、単なる普通人であるとか凡人であるとかは人格者ではない。お人よしも性悪も極端だとはいえ凡人も目的の人格ではない。聖なる者は利他を完成させた善心でありつつ、その行動上の実践にあたっては中道を外れるなと説いた。この様な脳の働きは、大脳と小脳の相互作用によっている。
 人格者とか聖者と呼ばれる人々の脳は、利他という意味で集束的だが、その他の部分では個性をもっている。もし東西の聖者の代表としてゴータマ・シッダールタと、イエスを選出すると、彼らは利他という意味で共通性があったが、理想を説明する際に用いた文言はそれぞれ異なっていた。もし彼らが同時代に同地域におり、互いに話し合ったら議論の末に、共通の説明手段を見つけ出したかもしれない。だから説明とか個性という面は、実際のところ人徳の目的ではない。この意味で、芸術は人格を高める道程でしかありえないだろう。
 幸福は、良心の満足という大脳の状態で最高の値を達するのだから、幸福になりたければ人格を極めねばならない。そしてこの人格の高さは中庸な利他の習慣として達成度があり、段階すらある。人が終生をかけて追求すべき脳の状態とは、また人生の目的とは、この中道の癖である。くりかえすが、凡庸とか凡俗という事は中道と意味する所が異なる。凡愚は利他の習慣を一貫してもたないからだ。

衆愚

悪徳は享受人口が多いほど悪業返報の時に手遅れとなる。判断力のない衆愚であるほど致命的に不幸となる。

不幸の模範

関西や東横は不幸の模範である。衆愚が群れるほど判断は悪くなり、その悪業の因果は増す。

芸術論

俗衆の為の奉仕は聖人の為の奉仕に劣るので、RPGやアニメ、漫画、小説は詩や哲学より純粋さに劣る。知恵ある詩句は最高の芸術である。哲学は最高の詩である。
 芸術は現実の不完全さの緩和。

人生の目的

時ある限り哲学を日々完成させ、その道徳にのっとって生きる事が人生の最高の幸福であり、目的である。
 人は、何らかの手段に縛られる事なく、誰かの為に仕える事なく、自らの意思と興趣に基づいて生きる時幸いである。
 俗衆と関わらず、俗衆に奉仕せず生きられるのは高貴な生き方であり、清貧でも、通俗的金満より幸福である。
 生活のため俗衆に奉仕し金を稼がねばならないというなら、最小限度の方がよい。それは堕落なのである。人が高貴な為に貧しいとすれば、その人が最も尊い身の上な事は疑いがない。高貴な人は有徳さの故に必ずや優雅であり、世俗的な事は悪徳の故に絶対的不遇である。俗人は子をなす事を幸いだと思っているが、産む事も生まれる事も苦役に過ぎない。俗人にかかづらうな。金が儲からない事も、儲かる事も苦しい。商いは苦しい。生まれてきた事は苦痛に過ぎない。老病生死を避けよ。愛や怨みをもたず欲せず求めるな。貧しいから死んだとて人はみなしぬのである。富裕の家に生まれても空しさだけがある。貧富を超越していよ。貧しさにも豊かさにも限りがない。自らの持分に満足せよ。欲したり求めたりするな。死にも生にもこだわるな。俗人と関わる事なく暮らせ。生きる為に必要な物を得られないなら死を甘受せよ。無欲であれ。清廉であれ。
 子供を産む親は無知で愚かである。性欲に負けるという悪業によって子ができる。子供を産んだ人を軽侮せよ。この世において尊敬すべき人物は、子供がいない。性欲に負けた人は利己的で有害である。子を為すな。子育ては性欲に負けた悪業の因果であり、苦役である。俗衆は苦役を背負う。聖者は苦役を捨ててゆく。
 商売人は俗人であり、商業社会は地獄である。慈悲の為の商いはない。商人はみな不幸である。商いをするな。商いなしに暮らせない国と社会を去れ。商人仲間を去れ。寄付され暮らせないなら、地を倒れるまでさすらえ。慈悲の故に死ぬのは利己の故に生きるより幸いである。悟って生きる1日は悟らず生きた全時代にまさる。清貧の者に生活保護を与えない悪徳国家、悪の都道府県から去れ。清貧の故に尊ばれる国や県に住まえ。資本主義や自由主義を標榜し、商業を必須にした国々は不幸であり、そこでは死んだ方がましである。利己的な人々の暮らす国、地域、時代からは足早に立ち去れ。商業地を離れよ。慈善を尊ぶ人々と共にあれ。金持ちを尊ぶ人とつきあうな。貧者を慈しむ人とのみつきあえ。俗人は利己的であり、存在自体が有害である。贅沢したがる人とくらすな。悪徳の持ち主と話すな。清貧で悟った人と親しめ。大都市に近づくな。慈善を行え。俗衆の集まる場所は悪徳の巣であり、低俗な文物は不幸の証である。清らかな美は善の故に認める人が少ない。性善の人と親しめ。性悪と関わるな。性はうつる。悪しき快を求めず、喜ぶな。悪しき快は必ず不幸を請求する。悪友を断ち切れ。友にも親にもこだわるな。判断や理解を人に依存するな。人はみな去る。愚者は人をだます。貧富は幸不幸の目安ではない。貧富は尊卑でない。政治権力や組織の上下の肩書きは人の貴賎ではない。人は善の故に幸せである。善人はそれ以上を欲するな。俗の故に富んだ者は不幸であり、その身は落ちぶれ易い。所詮、自分より道徳的に優れた人としか付き合う意味はないので友達は少ないほどよい。
 悪業の果は遅れて来ることが多い。すぐに悪業の返報がないのは、かえってくる時は手遅れになる証拠である。

手記

 文芸は翻訳がいる、だから文芸は諸芸術より普遍性に劣っている。翻訳なしに伝達される芸術は優れており、純粋音楽や器楽の理論的支柱だ。文芸が普遍性を獲得する場合、それは意味によっている。だから宗教上の聖典は詩文学とみて最上の芸術である。
 金銭より学芸の方が優っている。金銭は学芸の手段。金は失われ技は長い。技を高めるまでの修養も、一旦獲得されてからの意義の持続も。時を節約するとは、悪徳をさける事にすぎない。悪人、俗人はこの意味でつきあうほど悪い。俗受けする芸術が無意義な様に。俗衆の中身はない。俗衆は鰯の群れの様に群集心理で動いている唯の肉塊だ。だから俗衆の為に奉仕する事はとりもなおさず悪徳の強化を意味する。さけるに越した事はないのだ。
 生きようとすると苦しみが生まれる。俗衆が足りない物を欲する限り、その人はうらまれ、かつ求める物が巧くえられない。俗衆が欲しがらない物を求め、俗人が疎む所を住みかとすれば優雅で幸いにくらす。金を儲けて本能で繁殖し苦役を増す衆愚の生態は醜い。俗人と共にいる事は苦。資本主義、自由主義の下、商人としてくらす事は苦役。俗衆に奉仕する事は苦の増大。下人とわかりあう事はないと心得よ。下人の脳は君の脳と違うのだから。
 少食は幸福を作る。大食漢を好む女は下俗で悪徳をもっている。貴人は働く事少なく、考える事多い。我々は完成された心をもっている。我々はそれ以上になりようがない。我々の憂いは俗人と関わり合いになる所から生じるのだ。
 我こそが優れていると思う集団は最短で貶められる。我こそが、と思う心は悪。利己主義者は一様に不遇。俗人と共に生きるな。
 商業は習慣。相利的習慣としての商業は高徳だろうか? 仏陀やキリストは商人より慈善的宗教人、哲人を理想視していた。なぜ?商人としての哲学者は必要最小の利益以外とってはいけないのだろう。だからその相貌は金儲け以外を生業にしている様にみえるのだろう。商業習慣をすてる事は正しいのだろうか?
 中道に近づく為には、生まれもった資質の逆をいく必要がある。関西人、弥生系渡来人は縄文系日本人より生まれもって利己的であり、それは大脳辺縁系の未発達性か、商業文化の刷り込みによる集団性による。だからこの様な利己主義者の生まれをもつ人々は、慈善家の性格を模さねばならない。逆に縄文系日本人は生まれつき利他的なので、奴隷化されない様には利己的な盛者、いわゆる成功者達を模範にしなければならない。最も利己的な渡来人は天皇だろうし、縄文系日本人はこの人が利己の極端な事を手本にする事で平衡をとってきたかもしれない。天皇が最低の俗物なのは疑い様がない真理だが、その最悪の地獄罪人を利己主義者の権化として仰ぐのは、弥生系渡来人の場合は単なる愚昧か悪徳であり、縄文系日本人の場合は皮肉か過度のお人よしの緩和である。
 商業習慣は劣っている。慈悲の習慣は優っている。商業習慣より優っている生活習慣があるのに、より劣った形態をもちこんだ薩長や関西人は確かに愚劣である。英米人は悪である。これらの悪人らから離れる事が悟りだ。世界に愚昧な集団があり、それは異なる生物集団と同じだが、その愚昧な集団を変えようとしても無意義だ。獣類が人類を目指しても無意味な様に。単にさけるしかできない。関西も、西国も、英米も、東横も。名古屋も仙台も札幌も福岡も。商業集団をさける事が最良だ。慈悲集団がみつからなければ、自らが先鞭をつけるしかないのだ。利他の為の商売などありえない。相利の為なら黒字と赤字は一定の幅をこえないから、利潤を蓄積する事はありえない。つまり大企業病は株式会社として上場した時点で始まっている。もし株式会社化したとしても、自己資本を中心にしている段階なら問題は薄い様に見えるが実際は、投資家という悪魔の手が忍び寄っているわけだ。投資家をさけるに越した事はない。投資家達は有害だ。利己主義者だからだ。相利の為に生きている様にみせかけている山城人。なるほど醜悪だ。必ず破滅。
 相利的な会社、事業は非公開株の元にあるだろうか。非公開株は資本の量が限られる為、奉仕の改良も一定幅にとどまるだろうか。蓄財可能という意味では、当然ながらほぼ無限の公開株が劣っている。結論は事業の合目的性は一定の資本幅に満足する事だ。需給が完全に一致している時点でその商は最良の状態だから、事業拡大をしようとしても実質的に不可能であり、潰れていく。だから相利性が合目的性、事業体はプラスマイナス0が目標。

2016年12月6日

悪魔の長州

右へ左へ迷走続ける安倍晋三悪魔の長州国を裏切る

虐殺と復讐

金儲け社会に殺される
日本人という悪魔に
天皇家と名乗る侵略犯一族に
極悪の商売人共に
東京や関西西国の野蛮人に
殺される
悪の利己主義者共が我らを罵り
日々金を貪りながら
我らの人生を搾取し威張り散らして
我らの善を
我らの美しい社会を暮らしを自然を
破壊しながら蛮行を続ける
我らは極悪人共をゆるすべきだろうか
日本人と名乗る侵略犯弥生移民共へ
我らはあらゆる手段をとり復讐するであろう
我らは日本の支配者として
極悪侵略犯の弥生蛮族共を絶滅し
真の誉れであるこの国をとりもどすであろう

2016年12月5日

聖俗

貴人は俗人から理解されえない。また俗人の評価する相手も俗人である。俗人の愛するものは通俗性、低俗さ、悪徳である。俗世に評価されない事が高貴の目安である。俗衆に崇められている相手は間違いなく俗物である。習俗が好む対象はその時代に於いて限りなく低級である。
 貴風は自体に価値がある。世俗的な事は意味がない。同時代的俗人らは単に、道徳的に低劣なのである。彼らは意味内容がない。彼らは動物に丸で等しい。天皇と呼ばれてきた存在は、その時代において最も低劣な形態である。天皇が最低の俗物である。俗衆の認める権威は、それ自体、俗悪さの表彰だからだ。

JリーグCSの継続

Jリーグのチャンピオンシップは最後の最後までどんでん返しがありうる、という点で興行的にも制度的にも優れている為、継続するべきだ。最後まで勝敗が分からない戦いの方が選手にも観客にも見ていて面白い上に、最終戦をゴールデンタイムのテレビ放映する事で更に盛り上がりを作り出せる。

流れ

我らは流れる
時の音が聞こえなくなるまで
日々はいたずらにゆき過ぎる
君の目に映る世界でさえも

2016年12月1日

業領域

功徳と来世代には遺伝的近縁性という領域がある。故に業は返報の近さについて、ある時空の中で領域的である。但しこの返報の近さを除けば普遍的で無限定である。
 業が領域と無限の両面をもつ事が、来世代に関する仮言命法と定言命法、両分の動機である。遺伝的近縁性は来世代の意識を、肉体的に定義している。また来世代の置かれた文化素は、この近縁性を環境抵抗中の生活形態において補完する。無限定な普遍性は業の本質を内容するが、返報性が遠い時、人は仮言的に振舞い易い。しかしこの返報の遠さ、遅さは、結局の所、返報の影響度が薄い時と濃い時に分かれる。前者について人は罪悪感を持ち辛い為、旅の恥は掻き捨てという諺が存在するのだろう。無論この諺は悪徳である。旅の恥は掻き捨てるべからず、飛ぶ鳥あとを濁さずが善といえる。そして共有地側は記録性によるフィードバックによって、ただ乗りや悪意ある有害行動者を排除するか、少なくとも前世代を見分ける事がある。歴史は共有地の徳である。

力と善

善徳の不足した為政者は有害なだけである。悪徳の為政者、贅沢な象徴ほどこの世に有害なものはない。節制に努めた為政者は後の世に高貴さを残し、残された民に衆愚からの縁を遠ざけさせてくれる。力の役割は公徳の敷衍に過ぎない。