2016年12月10日

手記

 我々が解脱で終わりの生態なら、ブッダ以後の世界がこれほど未解決にみちている事は矛盾である。いわばブッダの哲学は仮の解決でり、彼個人に役立つもの、一部の人々に効果があるものだったが、多くの人々にとって本能、いわゆる煩悩を抑え込む事すら容易でなかったのだ。本来の仏教は、上座部的で小乗的だった。だから小乗と批判されて怒る、乃至気分をわずかなりとも害したスマナサーラはゴータマの考えをその点とりちがえている。『ウダーナヴァルガ』に記述されている結論からいうと、ブッダは愚者や悪人が地獄に堕ちると発言しており、実際に原始仏教は小乗的なのである。大乗的・大衆的な仏教は本来の仏教ではないし、それはゴータマの教えではない。解脱という救済法も少数派の知能にしか不可能で、大衆には無理なのだ。日本仏教の過去の哲人ら、例えば南無阿弥陀仏(無量の仏へ帰依する、の意)を唱えさせる易行によって解脱への意思を口癖にさせ仏法を大衆化しようとした法然は、ゴータマの考えを進化なり変化させ、仏教思想ミーム内で自己の解釈を差別化したという事になる。易行性は常に大衆芸術の中にみいだせる性質だ。Lowblowな技一切が易行を原因にしている。だからこの種の仏教が、或いはあらゆる宗教にあっても世俗派が卑俗な事は否応ない。解脱を悟る事が大衆に無理なのだとして、大衆をこの考え方に至らせようと努力した人々は、一体何の為にその様な無理な事をしていたのだろう。およそこの種の啓蒙主義は、全て自己の持つミームへの過信か、おしつけがましい自我への執着にすぎない。だからゴータマが(『般若心経』で)諸法無我を説いていたとして、大衆仏教の世俗派達はみな、我執の形態にすぎない。この種の囚われは全て勘違いである。事実、俗人達は卑俗な文物を好みその中で安沈しているのである。退廃した皇族の卑俗を極めているといえる『源氏物語』が弥生人らに俗受けし続けてきた事はこの証である。そしてこの俗衆の不道徳さ、不幸は人類の存続する未来まで等しいだろう。ゴータマの考えていた現実性、小乗的世界観は完全に真理でしかない。我々は大衆的である事を少したりとも正しいと思うべきではなく、却ってそこから離れようと工夫する限り、幸福に近づく。質的幸福は小乗的・上座部的だ。そしてスマナサーラが思ったのとは別に、小乗とか上座部といった用語の誹謗的起源はどうでもよい事に過ぎない。実際にゴータマは小乗的だったのだから。そしてそれが諦念の本体でもあった。彼がいいたかったのは、彼に可能な慈悲で十分であるという事だ。神の如くに一切衆生を救済しようという考えは、完全に大乗側の思い違いか、思い上がり。勿論、神道信者はただの下人。巨視的にみれば卑俗な階級である中国から侵略してきた皇族・王室の類が、自己の血統を神格化しようと現地の自然崇拝を取り込んで、自我としての偶像崇拝を流布したに過ぎない。この種の下人らは確かに愚昧であり、ゴータマにいわせればただの愚者である。そして愚者が輪廻するのも、必然だ。
 ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教、これらはイエスという自我に囚われている限り、また神、ゴッドやアッラーという妄想に囚われている限り、単なる我執の形態にすぎない。これらの諸法には常住不変の真理というものはないのだ。ゴッドやアッラーは実在するものではないし、信者の脳内に住み着いている単なる宗教観念ミームである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教は、仏教の観点からみれば単なる我執である。これらに含まれる神格概念は無我に悟っていない為に生じている妄念の類を合理化しているだけだ。儒教と道教は仏教にとって姉妹的
な人格修養の哲学に過ぎないが、特に道教が無為自然と説いた事と仏教の涅槃寂静は親和性がある。儒・道・仏の教えは神格について語っていない分だけ、妄想への耽溺を免れている。孔子は道を人徳的完成の比喩に使っていたとして、老子についても価値の相対性を超えた立場という意で同じだろう。道という観念と仏教の解脱や涅槃には類似性がある。少なくとも人類がかつて到達した事のある道徳的理念として、この道と涅槃の立場が最も超越的である。日本の中で道は名詞句を作る接尾辞となっているが、この一般化された道は、人徳を完成させる為の修行の道、という仏道とほぼ同一視される。生あるものが何らかの様式性を洗練させていく所で使われる道、という接尾辞は涅槃に対しての道のり、という意味を与えられているのだろう。だから神道という天皇家の広めた新興宗教も、この意味で仏教の部分系、尤も大いに邪道化したものという意味しか持つ事がないだろう。
 ブッダは涅槃という生殖を否定し死を甘受する立場を理想としたのだが、なぜ現世の人々はこの業を行いえないのか。本能を中程度に抑え込む、という理性、大脳の厚さが、現世の人々には明らかに備わっていない事による。そしてこの種の脳の未発達な者のみが繁殖し易い為に輪廻がおわらない。ダーウィンは進化論の下敷きにキリスト教をもっていたから、旧約聖書のゴッドがいったことになっている創造主の似姿としてのヒトの繁殖が自然界の是であるという前提に立っていた。だがゴータマはこの是を前提として否定している。ダーウィンとゴータマは矛盾なり反対している。西洋人らが文化素の面でダーウィニズム、その根底にあったユダヤ教・キリスト教の繁殖の是に基づいて植民地主義や侵略を行ったのは明らかである。ゴータマの考えはこの業をも虚無とか悪業と見る。実際に、ある時代に西洋人の蛮行は責め立てられ、或いは西洋由来人自身の罪悪感として自滅に至るだろう。日本において薩長土肥、関西人、弥生人、西国人や天皇家が行った、戊辰戦争以来の侵略の悪業も同様の意味をもつ。ゴータマの考えていた涅槃は、これらの蛮族を完全に無視している。争いによって不幸を拡大し、輪廻を幸と思う人々は単に野蛮なのである。輪廻から抜け出せない限りにおいて、これらの蛮族は自滅しかしえないだろう。
 来世代という意味で、前世代の業を継いでいるという輪廻の考えは、単に人類の種別という先祖の系統において真であるばかりか、進化論上の生物の種の系統樹についても同様である。低俗な生態をもつ人々は将来もより低俗になって生まれる事はあっても、高貴な生態になる事はない。だから皇族が低俗であるとみてとれば、それ以下の生態になって生まれてくる事は一般の人々にはない。神道に洗脳され皇族という悪業を背負った暴力団長をまねた人々は、皇族以下に近づく事はあっても、殺人鬼の末裔である極悪の天皇を反面
教師にしていさえすれば、我々はその種の蛮族の地獄的条件に生まれつく事はありえない。生まれつき卑しい中国移民の天皇は地位を交換する事も、先住日本人や外国人らに委譲する事も永久にしえないだろう。その不幸は彼らの悪徳によっている。この点を観察すれば、功徳を積めとすすめた人達は正しかった。それは予期しない次世代の条件であるばかりか、一生の範囲にあっても徳による幸福を原因化しているのだから。
 仏教における中道とは、持続的な快を、知覚的なものが長期的に可能な快であるから、質的にも占めようとしている、功利主義の是認に等しい。寧ろ相利主義、趣味主義の見解にみられるよう、質的功利主義の奥にあるのが仏教なのだ。
 仏教の奥にあるのが趣味主義である、といえる。質的功利主義が自他に及ぶ様に、しかも相利的に行われるように、中道を図る事が趣味主義の見解だが、この生き方は仏道と一致している。涅槃は子育ての費用が大きすぎる場面での適応形だといえる。もし子育て費が低すぎる場面なら、ヒトは繁殖したがってしまうだろうが、この場面でも中道を超えない事によって趣味を穿つ事ができる。
 天国とか地獄はその人のおかれた条件だ。そしてこれらは相対的なものでしかない。人は他の生物に簡単に地獄を作り出す。天国を作り出す事も比較的容易である。政治権力を用いてヒトを統制しようとした人々も、人類の生存環境を、彼らの人々へ与える行政行為の限りで変化させる。技も商もこの環境抵抗を変化させる生業でしかない。業が生まれ変わりとして、輪廻として信じられているとすれば、それは功徳が生存環境へ与えた変化によっている。技術、制度、取引、これらは人生の本質的な虚空、dukkhaを満たしはしない。仏教は道徳であり、技術、取引、制度(これらは制度にまとまる)によらない。

 性愛、恋愛、erosは個体への生殖欲、性的欲求を美化していったものにすぎず、この欲はどこまでいってもdukkhaをのりこえる事はできない。Dukkhaの故に生まれ来る。美は本来、erosという意味ではdukkhaに過ぎない。もし快適さとしてのsukhaがあるなら、性愛の不可能さに過ぎない。エロスに基づいて子をなした人々が苦役に襲われている事からも、快適さ自体とエロスは一致していない。それは本能の意でしかない。
 哲学は単純に理解できる道徳であるほど望ましいとすれば、易行性が哲学の時代的進歩に他ならない。もし解脱への誘導が成功すれば、勿論、人口は減っていく。だから俗悪な支配者、権力者、皇族達が貢納による贅沢や名誉欲、性欲を満たす為に奴隷をふやそうとしていても、易行性が高くなるほどこの悪業は失敗するだろう。現代日本は成功した国家なのだ。逆に多子化している地域、例えば九州や沖縄では更に苦が襲ってくる。そして皇族はここに寄生して蛮行を試み、不幸をふやし失敗する。皇族とは不幸への寄生虫である。そして彼らの生まれついての偽善を覆い隠す芸能で糊塗した心底からの悪魔である。

 芸術は作家の精神、即ち作者の頭脳への学びという効果しかない。だからある山城生まれの俗作家がいう類の、「人格的に問題のある」芸術家の「立派な作品」といったものは無い。それが俗作家の俗物たる限界でもある。俗作家の作品を好んで買う、もしくはそれすら買わない人々の生活をみてとれば、すぐに理解できる。卑俗な人間が卑俗を、俗物が俗物を求めている。だから商業的に大衆向け作品で成功している作家は、当然ながら、その時代の程度に卑俗な存在にすぎない。清貧であるが故に自殺を択んだ作家は、悲劇であるとしても、少なくとも極端を択んでいたという事になる。なぜならその時代の多数派は繁殖性がある限り俗だからだ。この俗に対する折衷が生まれながら自然体でできている、もしくはそれ以外ができないか、それ以上が分からない人々が商業作家であり、大衆の人気作家なのだ。非商業作家達は商業的に価値の無い行いをしているかもしれない。だがそれは彼らの精神が、頭脳が、同時代の大衆の購買欲に叶っていないせいである。そして彼らの思いから学ぶ為の技という装置は、彼らが俗受けする製作物を作り出す為だけにあるのではない。博士論文と取るに足らない学士論文、それらと俗受けした大衆小説を引き比べてみるがいい。同じ文字の羅列でも、これらは求める層が違う。そして商業価値についても大幅に違う。だから俗人達が商業作品しか評価しないとしても、それは彼らが金銭的な価値についてしか理解力が無い証拠でしかない。どの時代どの国にあっても俗衆はこの通りなので、ある時ある地域の作家達はこの貴賎の法則を理解していなければならない。自分自身が同時代の俗衆に比べてどの位置にあるのか、そして自らに可能な妥協はどの程度なのか。妥協できないとすれば、当然、その生業で生活費を捻出できない。だから別の糊口をしのぐ生業を見つけるなり、パトロンに寄生するなり、知恵をつけねばならないだろう。貴品もしくは特殊な品が高く販売できるなら、それに越したことはない。だがこの様な幸運に恵まれるとは限らない。他方、金銭による価値づけが明らかに、芸術の中身としての思想のそれとずれている事も理解すべきである。江戸時代の通俗読み物が昭和・平成の大衆小説であり、そこで人気を博した商業作家達はどれほど虚栄に逸っていても、とるにたりない存在だという事になる。そこで伝えられた思想は、勿論、俗衆に分かり共感し、容易に共有できるほど卑俗だったからだ。こうしてみれば、道徳的によい暮らしは金銭の多さ、儲けの多さから徐々に離れていくのが明らかである。清貧こそが道徳の目的とする位置づけであり、この態度は最も優れた芸術をその時代において生み出す素になるだろう。
 日本人と名乗っている人々に立派な人は少ない。特に弥生系渡来人達の末裔は卑俗の極みというほどに野蛮で、この類の人々に期待したり、寧ろ善良であると勘違いしたり、賢明であると思い込んでいる外国人らは単に愚かなのだ。愚か者の末路は一つであって、我々にそれを変えるすべはないし、かえずともよい。中韓人がこれら弥生系の西国人を縄文系日本人ととりちがえているか、一体のものとして誤解しているのは、彼らが愚かだからにすぎない。弥生人らは彼らが侵略してきた前800年ころから今に至るまで日本にとっても常々最も有害であり続けたのだから、外国にとってもそうでないわけがない。そして彼らに絶滅を期待しても、彼らの自滅に待つしかない有様であるが、彼らは勿論利己的で邪悪であるから、増殖したがるばかりで一向に減ろうとしない。その様な日本国に憧れたり、妄想のままに弥生人を善と勘違いしたりしている人達も、悪に騙されている限り同様に愚かなのである。
 美は幻想だ。もし美の様にみえるものがあってもそれは生存にとって快適にみえる、性的価値づけの上位にある何かであって、実際にその様なものがあったとしてもこの美は輪廻の原因になるに過ぎない。したがって芸術一切に感じている美も、この快適さの引き延ばしに過ぎず、単なる勘違いでなければ妄念の類である。もし漸近的な快適さがみいだされたとしてもそれは苦、dukkhaの原因になるだけである。緩和された苦が美、といいかえる事もできる。美を求める本能や直感は生物に固有で、性的な働きだが、実際には性の合目的性自体がこの美への幻惑に留まる苦悩の原型になる。いかなる美人といえども人間に固有の苦なしに成長しないし育てる事もできない。同様に、いかなる美的環境といえども生存の苦を緩和できると想定できる為に、見目麗しく映るだけだ。したがって芸術家、技術者、職人らの作り出す美は、他生物が巣を巧くつくり上げる技芸と根源的に違う所がない。
 芸術は痕跡である。すばらしい痕跡だと思っている人は主観の投影によって伝わった情報のまとめ方についてそうなのだ。