2008年9月29日

社会学

方言辞典を編集することを通じて少数民族語に託された古代の知恵や感覚を保存し維持して行く事は、将来に渡って風土適応の知識を渇らさない為にも単なる好奇心の命題ばかりではない。日本民族における沖縄文化、アイヌ文化、或いは隼人や蝦夷の文化を慎重に掘り下げて行けば、文化人類学を通じて我々自身の価値観の根っこを様々に探り得るだろう。
 国際化に当たっては自認を益々必要とするとあって、我々自身の由来を十分に知らない根なし草は却って閉鎖した人種差別、自民族中心思想に知らずしらず陥るものである。

身心の儀式的連関

肉体美の中庸性は精神美の完全さを期するのに不可欠な要件となる。この為に人類に於ていつにあっても、肉体が完成されることはあり得ない。その特性は常に未完成さの延長としてのみ、生態における可塑性の増大としてのみ見出せる。
 我々は少なくとも我々自身の審美性を学習行動に対する知能行動の割合いの高さとして集積しつつある如くであるらしい。これは結局のところ、物分かりの良さという特定の遺伝形質を最も望ましい審美性として絶えず配偶子へ要求することにつながるだろう。つまり最小の試行錯誤学習と最大の知能行動を目的の為に自律して行使できる様に導き出された種類を、望ましい形態として多少あれ認識する。その結果は社会の複雑さに対する適切な進路の選択を必然の判断に求める様な自律適性の選良に至れる、これは我々にとっては知性という概念をおおよそ従来の用法に関して保存して来た理由が単なる状況判断能力への僭称ではないと覚える所以である。
 いいかえれば精神美を最も原型に近しい質として輝き出だす特徴とは我々自身の知性である。少なからず感情は知性の過剰を倫理的折中と矛盾しない様に抑えて表す手法として、いわば礼儀としてのみの社交的特定形質を意味するのであって究極では、その源泉は時代側の標準に叶うものとしての適切。例えば極冷たい湧き清水もこの硬度が飲料に偶々合わねば感情の対象として客体的なままである。しかし知性自体は清水が既存の人間趣味と矛盾しないかを考慮せずに純粋な水質の良さをのみ問い続けて行く。ならば変わるべきは人間の肉体の特性の側であって精神にはない。知性は精神美を最も原型にまで留める特徴なのは明らかなことと言える、なぜならそれは社会活動という時代条件に依存するものではないからだ。単なる感情の敏捷にしか適性のない種類の大部分は、実社会では精神側の可塑性の低さから、或いはその過剰な情緒の不安定さによって、素早く若しくは単純な行動型にまつわり一定の獲得形質を殆どゆっくりと世代毎にくりかえすのが通常の有り様である。しかし郷原徳賊とか環境収容力戦略に対する内的増加率戦略、つまりKに対するr戦略とかは精神性能の高度化には不適当であり、この為に知性を育む余裕が環境側に求めにくい場所柄では、例しには複数の民族の抗争が絶えないとかそもそも土地が貧弱で十分な生産が確保できないとか凡そ如何なる観点からしてすら知的活動の追求可能性は高くならない。そこでは文化的感化という強制的手段に応じてしか余裕はあり得ないのであって、屡々見受けられる様に、豪遊を愛するという自浄的特性が育ちのあしきから習性化された族について決して継続した思索の連綿は不可能に見える。それは絵本の中のキリギリスがアリをあざ笑うのと同じ事だ。
 我々は持続的信用創造の最も端的な担保として、国産知識人の質量を挙げて良い。これは科学研究を嗜む人の最も直接に多彩な銘柄が如何なる方向に於ても進歩へ、状況改良へ有利である事情に照らせる。よって、肉体美を合目的として体系づける社会は進化の項目にとっては大概、過ちである。具体的には運動競技の様な少なくとも創造力を遊び、recreationにまで格下げされかつては主流であった規則で閉じた零落体系では永久に、精神美を革新へ至らせるわけにはいかない。フェンシングを遊ぶ人はもはや剣道が能率的殺害の手段であった時代を知らない。このゆえに我々の為すいかなる社会活動も将来に渡っては時代遅れになって、暇潰しの方法として以外には保存されないものだ。例えば大名行列や凱旋歌が儀式以外には内容を無くす如くに。
 即ち、人類一般を特徴づける最善の種類は知性を儀式という時代標準の行動型からできる限り遊離し続ける慣習が完成されたものの謂われとなるだろう。これは結局、文化の可塑化が、多分に知性以外の特性に対する多様さが保証された場所についての現実味であり、従って有名無実な芸能人が偶像として巾を効かせる限りの現代社会という肉体礼賛の地柄ではありえない。人間性は精神美を肉体の表象を通じて知性へ集中することで漸く栄えるものゆえ。

2008年9月27日

秋晴れ

秋晴れの青空ならば

2008年9月26日

現代文明の鼎

学術の発明、政治の貢献、経済の福祉、とは少なくとも現代文明が到達なしえた社会活動の鼎。これらの程度を極める事が究極では、安定して幸福を洗練させる場所を幾つも形成する方法となる。宜しくこれらは各々独立していなくてはならない上、どの一足が欠けても文明は十分にバランスできないのだろう。

2008年9月24日

生態系の方角

経済体系の高度の複合性が、社会型哺乳類の辿りうる専ら有効な合目的性に思える。民族という単位も、この世界的複合を益々増強する為に必要な細胞と見立てられるだろう。如何なる科学知識であれ社会生活の合理化という自然法則への順応をもたらす。工学は尚更、人倫の範囲へ限りなく最適化しながら自然法則を人間へ応用せしむ。
 人工性を不自然と考えることはできない。それらの自然界における形態地位は系統的進化の法則、散乱と淘汰に寄り添うのだから。我々人類に為し能う最高の営みは経済体系の緻密と拡張という慎ましやかな理念にありそうに思える。現実に、その普遍さこそ往古を総べて生物一般の合法則性を理由づけるに十分な宇宙の展開である。より単純な生態を共生進化の経過で自らの消化器官へ積極的に取り込むのが、生命体の有機的行動パターンを緩やかな燃費として多機能化し尚も延長する原理。
 能率、主に生態を改良する方法は唯一、能率へ見出せる。進化を誘発するのは消化能率の向上と考えられる。複雑な消化組織を体系的に運営できる能率が、生態の必然に目的とする性選択の方角となる。

移民の将来

日本政府の無軌道な移民受け入れは必ずや大変な混乱を引き起こすだろう。

心底熱心に学ぶ精鋭達は日本人の地位を国内で駆逐し、独自の共同体を町中に形成して完全な同化を拒否し続ける。
結果として第一に〈外人差別〉が、第二には彼らの影響で失業と浮浪に追い込まれた恵まれない若者達が団体になって〈極右化〉を極度に推進するであろう。
治安の悪化、テロの頻発、古きよきしきたりの破滅、大相撲で既に現実になったウィンブルドン化が社会の全面を暗い雲で覆うのだ。自民党はその責任を取るつもりはない。彼らは外国の圧力に屈した、先行の読めぬ無能な腰抜けだっただけである。

 我々はロンドン同時多発テロの首謀が国内で生まれ育ったムスリム過激派だった事実に照らしても、朝鮮人学校を作る様に「移民学校」を国際学校という名目で必然に建設しなければならないだろう。
そして悲惨なことだが、国内では同化しない彼らの住み分けを図る「移民居住地区」を定めるしかあるまい。さもなくば習慣の違う彼らの影響での治安悪化と犯罪率急増は必ずや免れない行く先である。
 自民党は地方行政への出産助成制度より先取りして、短期の安価さに引かれ長期の損害を買い国の舵執りを大きく誤ったのだ。
人身売買の輸入すら十分裁けない段階でなんの考えもなく移民を受け入れるのは一言、愚かな悪党であった。

我々は事前の策として移民への限りなく厳しい試験を科すのがいまさら取りうる最大限度の舵の切り返しと知るべきである。即ち日本語及び日本文化への『移民試験』での極めて高い成績を、単なる労働力の品質保証の範囲ですら絶対に欠かせないと悟ることになる。彼らは豚肉や牛肉を平気で食べる日本人へ憤慨し、肌を見せて歩く野卑な風俗を放任する政府を攻撃し、法律や命令に従わず、挙げ句には多妻の信念に則り日本人の売春を煽るであろう。

化学

アルミニウムの利用には一般に未だ認知されていない注意点があって、この經口摂取がトランスフェリンを鉄輸送蛋白の同形体として脳内へ送り込むとされ、恐らくこの結果、アルツハイマー型痴呆症が実験的に生じることである。確証とまで至らないにも関わらず、水道水アルミニウム濃度との相関がこの病症にかなり高い発症率を示すのは事実らしい。
 従って我々は少なくとも高齢化社会に至る中途では着実に、アルミ鍋やアルマイト加工を施した調理製品の原則禁止、及び一般のアルミ缶を漸次薄膜スチールへ置き換えるのが賢明な選択であると思われる。ドイツではビール缶をスチールで作っている。つまりアルミニウム精錬の過剰な電力消費を考えても技術的費用を下げることは可能なのである。且つ、メッキを施すなら炭酸飲料用に酸化皮膜をつけることもできる。徳川慶喜に倣うと銀の皮膜は最も安全と言える。

天文学

ダークマターの正体は同位体の塊、ということになると思われる。我々は自重力が極まってブラックホールと化した暗黒星団が広く宇宙に分布する事、それから花火効果とでも名づけるべき自己崩壊とエネルギー排出の過程を、単なる核融合の範囲で天体が日々行っているのを粗確実な事実と認識してもよさそうだ。m=Acより、我々は質量mの物体が同時に引力場Aと光速cに比例した火薬性を秘めていると確実視できる。
 およそ原子核崩壊を切っ掛けづけるのがそれらの不安定で重すぎる光を通せなくなった星への着火、つまりは暗黒星同士での量子論規模の中性子衝突なら、超新星爆発を新たな恒星の誕生として最も巨大な質量因にまで遡ると、宇宙背景放射の理由は最も大きな暗黒星の花火効果という事になる。つまり我々の認識する宇宙系は今や爆発し出した巨大な光源の狭間にあるということだ。花火は儚く終わるが、宇宙系はその中心質量因にとっての燃料源に限りがあるならやがては冷え込むと予想しうる。とすると、ある宇宙系はその普遍性を信じる限りで別の宇宙系との関連の中で、つまり周縁での非常に早まった時間の範囲で他の体系と接触して回っている筈だ。さもなくばこの宇宙という銀河団の渦は全くが孤立しており、着火した主体がどこにも見当たらないのだから。

2008年9月23日

運命の延長

LHCで2008/9/19に地下トンネルに大量のヘリウム漏れがあり、少なくとも2ヶ月の稼働停止。いずれにせよ西洋に寿命が伸びた格好と言える。

2008年9月22日

文化政策一般

現況国内への財政赤字を政府が解消するには、二つの原則がある。

1.無駄を省く事
2.税収を確保する事

 1.の為には天下り排除や省庁統合、可能な限りの民営化といった体制の絞り上げが必然である。
これには日本史上で常々独裁を敷きがちな軍部を完全に統制仕切る為に防衛省をまず廃棄すべきは疑いを持たぬ。内国のヤクザすら鎮圧し切れていない前近代的な危険さから言っても、軍隊の発言力は単なる内外自衛の警察権力の枠内へ絶対に治めるべきなのである。

 2.の為には消費税の底上げが物価高騰を抑えながら税収を確保するには必要だと経団連が主張しているが、現実には「格差」という努力に由らざる配分への不満が民間を流布している現実から見れば、その対象を工夫する可なのである。
即ち、必要悪や高級品目への重税に対し、日用品や公益に類する奉仕への免税を図るのが賢い。
例えば酒煙草、或いは法的に容認されている猥褻物[その種の漫画アニメ等サブカルチャー品含む]、もしくは芸術作品の流通等には大変に重い税金を科し、代わりに先進国中でいかにも脆弱な土地住宅関連の税金は軽減するのがいい。
 特に芸術作品の流通へ高い関税を懸ける事は先進国での不安定なゲーム的投機バブルから脱出する為に、よって国内での安定した芸術創造力を競争原理から中長期的に抽き出す為にも有効な方策と言える。
別の言葉でいえば、国内で創作された作品の流出を防ぎ止め、代わりにできる限り高い関税を通過してくる高級品目に応じてのみ国内での美術市場を活気づけるのが、大衆文化一般への迎合のちの低俗化を塞き止めるのにも有効なのだ。思うに貴族の高い趣味から生み出された稀な芸術こそ、民衆にとっても本当は「有り難い」のである。
イタリア・ルネサンスがあっという間に散ってしまったところから見ても、芸術市場を政策的に単に放置しておくなら結果としてはバブル景気に乗じるものと言わねばならない。保護や監察は却って自律した文化創造を摩耗させるが、少なくとも日本庭園を見守る様にその理想的かつ持続的な成長と調和の為には屡々、剪定師を雇わねばなるまい。それが「趣味裕かで良識ある有閑貴族の階級」、少なくとも政治・経済的には無意味な彼らの生態の養護なのである。
英国ではかれらを紳士と呼んで来た、そして来るべき大衆民主主義の堕落からの脱却を計りうる唯一の勢力がどこから芽生えうるかも同じく。

倭人の害悪

日本人の悪業の根である児童買春は徹底的に裁かねばならない。

特にこれを海外で行う者がいるのは驚異的な事実だ。

国内であれ国外であれ、未成年への魔の手を伸ばす悪人は発見次第で如何に重い刑罰を科しても足らぬのである。


日本人のアダルトビデオメーカーの中にはインディーズと呼ばれる公認されていない分野があり、この内には会社ぐるみで国内外とわず児童買春をしてその悪業映像を売り捌く犯罪者が現実に存在している。

然るにこれらのメーカーはほぼ全て東京に会社を置く東京文化のあしき産物である。

独裁都政の形骸化はこの様な、明らかな国際犯罪を手前勝手な言い訳で塗り固めるところまで来ていると知らねばならない。

女流の猥褻小説家をはべらせて批判の自由を阻害したご満悦のお方らしい最終結果は、来るべき落ちぶれに見通しが効く。悪因悪果。

2008年9月21日

学歴差別の撤廃

似通った発明しか産み出せないということは、その群の教養環境が似通っていた証拠である。受験勉強が出世の最終関門となっている社会からは永久にエジソンは育まれない。この為に、地方教育の自由化そして特に複線的な進路を可能とする様な入学資格の多岐化はいかなる私立教養機関にとっても必要不可欠なことである。また学歴とやらを出世の道具にするのは教養の本来の意味である心の余裕に対しては悪用である事実に照らして、寧ろ政府や省庁が指導して各種企業へ学歴差別を是正する様に勧告しなければならない。なぜならこの勧告により受験戦争の火の手が消化されたあかつきにこそ、我々の社会からは既存の体制を超えた多種多様な才能が栄えうるのだから。そして平均的学力を維持したくば飽くまで人口の集中しがちな中央の国立教育機関での高いハードルを欠かさない様にしておくがいい。

2008年9月20日

信仰

苦欲滅諦正中道

静かな午後

雨の降る静かな午後も秋に近づく

2008年9月18日

内容業界の近い将来

電子端末の普及により書籍業界はインターネット上での内容配信を余儀なくされるだろう。
書籍ははじめのうちあたかもレコードとCDの様に住み分けされるが、いずれ過半は多様化した電子端末上での閲覧へとってかわられるだろう。
これらを鑑ると、日本のwebが例えばふりがなを容易にすることや、web上での作家の囲い込みをすることに乗り遅れるほど不利な立場に追い込まれ絶命する。
Amazon等が書籍流通を殆ど後手にしていく先には単なるショッピングセンターになるだろう。そして代わりに、多彩な内容を電子配信するシステムを巧みに構築した会社が支配的となるのだ。
即ち「配信業界」が書籍業界の敗退に代わり時代の主要産業にまで成り上がるだろう。例えばblog等の書籍化ではなくて、より優秀な内容を配信できるbloggerの作家視の方が先進的な商売となるのだ。
彼らの持っている内容創作能力を効率よく商いに結べた者が時代の支配者となる。

2008年9月17日

数学と自然の関係

ある人へ数学的な着想を与えられるのは自然である。若しこの人を閉じられた光の入らない部屋へどれだけ置いても、感覚に訴えてくる無数の自然現象という規則立った世界がなければ如何にしても、新しいideaを閃くことはない。ゆえに、この数学的認識の拡張としての天文学も、よき自然に遊んだ経験がなければ自発的に伸びていけないだろう。ある程度の平和がなければ学問は発達しないが、同時にこの唯一の源泉は自然界の豊富な形相にある。
 そして人間は単なる人工化された環境下ではそれより他に新たな世界を発見できないのである。神の最も明らかに現れた姿は自然現象であり、我々はここから真摯に学ぶより以外に有効な自由を持たない。自然は世界を支配する秩序であり法則である。我々には思考を通じてこの無際限な英知の宝庫からの習い事をするのが精一杯だろう。
 自然が美しいということ自体、そこには何らかの神の意図が働いているのであり、従って対象は何らかの合目的な秩序を保っていると言える。こうして特定の自然現象からの抽出として、例えばニュートンが林檎の落下に見つけた様に、宇宙の根本にある神の計画を知ることが我々自身が正しく道を処して行くのには絶対に必要なつとめだと思える。ソクラテスの考えた様に、我々はあまりに何も知らない。我々は自らが何処から来て何処へ去るべきか知らない。しかしその解き方は自然という問いとして目の前に広がっている。自然から学ぶべき。
 ある山奥にひっそりとした神社で静かに流れる清水のどの瞬間にも働いている宇宙の法則は明らかに、何らかの原理を秘めている。しかし我々にそれが知り得ないのではない。静かに物思いに耽ること、先人の思考法を道具として真理を探ることで少なくとも絶えず部分的には源流を辿りうるのだから。
 宇宙の部分としての自然界にはその特有の調和状態があり、我々は数学という秩序を方便として混沌に隠されている神秘を徐々に解読して行ける。そして我々は神の計画から学ぶほど、我々自身がその内にあって如何に処するべきかを悟ることになるだろう。物ありて後に倫あり、と福澤が云った如く、道徳とは少なくとも人間的な法則。人の倫は物理を裏切らない。

2008年9月16日

新型媒体の発明

英国Plastic logicsのレター型電子端末は優れて現代的な媒体となるだろう。それは本という形態への革命である。
 日本市場に特徴的な僻地化いわゆるガラパゴス化は、その開発技術の弱さによる。発明の威力が低いのは工学の低さに由来する。これらを一息に改良するのには工学系の大学への大量の企業および政府からの助成と協力を行うしかない。
 ベンチャーが韓国より日本ではやらないのは政府の助成が、大企業の管理価格是正とあらたな若々しい起業への調整を図らない問題にある。この体制を根本から破壊しなければ日本の市場が国際的に孤立して大筋から乗り遅れる可能性を否定しきれない。
 我々はあらたな市場から乗り遅れない為にかの基本形へ入力装置としてキーボードを、別の接続機器として加え改良するべきと考える。なぜなら御社製品は画面上への直接入力を既に可能にしているが、それが最善の方法とは言えないのが例えばタッチパネルが汚れ易い現実を考えると当たり前となる幸先があるから。
 恐らくかの電子端末は読書専用の機器として世界中を席巻するだろう。
 ソニーが誤ったのは、インターネットが基本媒体になる未来を見通せず、既存の書籍出版業界そのものを組み換える大胆な発想に欠けたところにあった。

情報調整の必要

「情報の調整」を考えると、国内に取り残した陥没地帯を作らない為には、総務省の利権活動を大部分含む地上アナログ放送の一斉停止は愚策と言ってよい。

成程、このいつもの極東人式中央集権偏重型改善により電波の配分は統制し易いかも知れない。
しかし代わりに情報弱者への淘汰は益々厳しくなる。隔絶地域の高齢者や低所得者にとっては税金にもなる消費誘導を伴ったチューナー自主導入は極めて困難だから、彼らの不満はやがて直接、一揆などの暴力革命に繋がる可能性があるだろう。

この為に災害時を考慮しても既存ラジオの電波を一律にデジタル化しないこと。なおかつ既存テレビ受信機でも受信可能な簡易チューナーを各市町村がみずから購入して役所において只で配ることだ。

尤も、情報隔離の地方をある程度のこすことは第一に種の保存の為に、第二に野生さの維持の為に合理的である。従ってこのチューナーは報道して市町村へ置いておくだけで無理に配る理由はない。「テレビのない暮らし」を懐古して維持できる者はこれから先の激しい情報文明にとっては寧ろ貴重である。

田んぼ

山奥の静かな田んぼに降る雨よ

2008年9月15日

暴走

秋近く暴走している虫のこゑ

食料自給率論の考え方

地球経済が「縁起」による共生体なら、日本人が他国で生産の容易な食料品を輸入することは国際社会にとっては有益な行いとなる。

食料自給量ではなくて、寧ろ『食料自給質』が日本人の当然辿るべき国際適所と考えられる。単に量をはかる自給率を用いるのは誤りと言える。
つまるところ、少なくとも高い質の、バランスよい栄養価を保てる範囲へ輸入規制は限るべきなのだ。

2008年9月12日

科学実験の教訓

スイスのジュネーブで10日に始動された大型実験器LHC(ラージ・ハドロン・コライダー)は、恐らくビッグバンと近似した状態を作り出す事では引力場の三乗に比例した光エネルギーが解放される結果を示すだろう。

 この為に、少なくともこの単位爆発力は原子核崩壊による原子爆弾に対して更に光速を掛けた分だけ多大である。これは単位時間当たり約308倍、いいかえると3億倍の威力であり、場合によっては近隣したフランスやイタリア、ドイツ及びオーストリアを巻き込む自己大破が避けられないだろう。
 広島への投下された原爆リトルボーイの実質爆破量が1kgであったと云われる事から、円周27kmのトンネル内へ発生した引力場をこれに置き換えたとしてもその脅威は知れる。
 又、この実験で陽子衝突までかかる時間の可能性は数ヶ月以内とされている。

 我々は歴史の教訓として止むを得ない場合を除けば「理論的な確証」を十分に計れない実験へは最大限の慎重を期するべき、と来る悲劇から学ぶだろう。

2008年9月11日

生物学

Neoteny化・幼型化は必ずしも進化の正道ではない。人類が類人猿の幼型化に近似した特徴を示すのは恐らく偶然によるところ多大である。直立二足歩行は新たな適所としての平原への見晴らしに関する適応から、従って直接の脳容量の増大は開放された両手の道具の使用から導かれたと考える方が理にかなう。
 特定の獲得形質が長期に渡り有利となる隔離場の広さが多種との競合をもたらさないだけ小さいなら、この場合に特定の順応型への最適化として幼型化という進化の袋小路が引き出されてくる。しかしこれが新種の形成に一契機となる可能性は否定しない。
 広大な土地で絶えず多数の異種に脅かされる生物にとっては、新たな獲得形質を促す成熟度の方に力点が置かれるだろう。この為に属する土地へ最大優位な勢力を有する種は、他のどの種類にも増して特徴の著しい偏差を伴う筈だ。そして少なくとも幼型化した個体群は、限定された適所を除いては新たな環境での成長速度に劣る為にそれより他への適応が困難となるだろう。
 これらが故に、neotenyとは新種形成の可塑的な条件というより以外では、順次に大きな土地からは姿を消していく特徴固定化の過渡形態であると言える。

2008年9月9日

夏の終わり

よく晴れた透き通る空の夏の終わりよ

勘の定義

我々は記号が意味しようとする所を文化的勘を通してしか捉えていない。記号は物理現象としてなら画像でしかないのだから。数学にできるのは直観へ記号順列または幾何図形それらの組み合わせについて合理化を図ることだけだ。十進法や論理学を経由しない文明にとって、人類数学の命ずるいかなる直観の範疇も仮説を免れないだろう。
 我々は我々に可能な合理性を建設することしかできない。もしそれ以上に合理的な枠組みが欲しくば、我々より偉大な知能を持つ生命体に待つべきだ。しかし文化的勘を分かち合う精度については、言い換えれば文学趣味の解釈議論については少なからず、理解にまつわる一定の仲間を築ける。彼らは学派ともされている。仮説ではなく解釈を、真理というより趣きを哲学の片側として受け入れるなら、どの文面も小説や詩歌の如く自由な娯楽の便宜に興するであろう。感覚や情緒の議論には論理ではなくて直感が、知識というより感情が主要な役割を果たす。ならばその正誤でなく調度が良さの対象になる。記号が意味しようとする所を単に話すには科学があれば十分だが、その内容を成るだけ巧く伝える為には必ずや文学が要ると云える。是非と別に口下手より雄弁な論客の煽動はたしかに衆愚を動かし易い、この故に古人は詭弁を戒めた。科学にとってすれば文学は不可分の手段であり、文学にとって科学は不可欠な手本となる。文学を為さねば形式を欠き、科学を習わねば内容が不備となる。
 とすると文化的な勘とは理解の海という一般の哲学度なのである。そしてこれらの書式や或いは口舌が意味しようとしている何事かを、解釈議論できるのに充実した場所を造り出すのはその母語集合に於ける、悟りの深さだと言える。勘の定義は悟り方。我々はよってどの様な文章についても、又如何なる演説についても批判的な立場へ遵うことが唯一の賢明な態度、という他により素晴らしい理性の職分を現実に持ち得まい。理解の海の難破に際して不変な立場を以て啓蒙主義を自らへ任じるべき。こういう人格の信頼性についての哲学こそ、学問を殆ど迷いなく進めるには誰しも必要な姿勢なのである。この為に、自ら信じない情報を憶え込むこと、即ち暗記とは真意の面目に対しては冒涜に値する行いである。そしてこれらの不勉強の烙印は寧ろ天性の学者にとってすればいずれ名誉の称号だろう。知らないを知らないと言う事は更なる理解の為には確定根拠となる。この無知の証明はただ暗記された知識よりも価値が高いと言える。
 理性の探究は理解の海を見渡す為に一定不動の視座を確立する所に在る。この灯台からはどの船の教養と呼ばれる積み荷の量も、勘という悟りの光を照らせば一目瞭然。

2008年9月8日

情報文明論

情報文明になしあたうのは知覚速度の増大。結果、その範囲は人間にとって速さの為に好適な場所となるだろう。情報文明が用いる大きな成果とは文化通路の迅速な行き来に応じて、旧来より素早く作業を行いうる様になることにある。原始時代には百年以上必要な荒々しい夜空の滲みの確認が情報時代では超新星の知識により数秒でできる。科学の普及はいかなる個人へも無数の発見をもたらす。それは人間にも別の適応課題を与える。乃ち、以前にもまさって器用な活動の余地を造り出すだろう。拒否反応より先に、それは道具を使う本能をもつ者にとっては来たるべきことか。
 ある人には殆ど神業に思える作業が別の人には朝飯前と云えるだけ、人間の作業能率には様々な偏差が現れる。情報技術がその後押しをする為の道具な限り、用不用の法則が人間性について改革を申し立てても不思議はない。古今の地上でヒトしか複合した道具を使わない。情報をそう使うのは人類自身のみだろう。勿論、それらの獲得形質は単に世代にとっての精々、性特徴を示す役に立つに過ぎまい。遺伝されるのは従来の性差における遺伝形質、いいかえれば天性に他ならない。
 ともあれば情報文明場が人間に対して行うのは、知覚速さに適う天性への生存可能性の増大なのである。知覚速度は一般に知能指数の主な意味とも考えられる。直感で理解しうることを我々は悟りと呼び、大変な試行錯誤を以て学習しなければならない場合を考えと呼ぶ。なら情報化とは結局、人間へ知能適格の有利さを淘汰する様な新しい場所の制作なのだろう。それは直感の優位を思考に対して確立するだろう。
 かつて世界が暴力、後に法による野望の場所であった様に、恐らく未来の文化は情報人の知恵と工夫の場所となるだろう。この推移を文明化と呼ぶのは凡そ正当。今日ではいままで主要な仕事であった部族間の抗争や獲物の狩猟、或いは絶えざる不可解たる自然現象の利用や集団で協力した目的の達成など殆どの産業から抽き出される典型的な行動型が単に、象徴の役割を果たす為にだけ遊ばれる運動競技となる。となれば我々の全体とは社会活動の遊戯化を通じて知能適性を益々増強させるべく営む、特定の進化の流れなのだろう。人類が遊戯人と云われるのもあながち彼らの幼型的特徴にのみ帰せる理由ではなかったろう、それは既存回路の合理化に伴う回避行動の客観視に関する必然と云える。さもなくば人間は永久に同じ人生を繰り返すから進歩を実感できない。
 そして明日の時点では我々の子孫が今日よりはるかな速さを以て情報交易する日常を現実とするに違いない。その中には生態にとって確実に審美的な、つまり以前のどれよりよい人間関係も含まれることになる。なぜなら情報化された能率よい生活にとっても文化的に獲得して来たどの場面ですら容易に再現できるだろうから。すると豊かさに関する限り、情報文明はこの知的天性に恵まれた個人への、最適な場所を造り出す潮流として人類史の新しい局面を開くのだろう。その恩恵に人類自身は彼らのいずれよりも知能に優れた個性を多数養えるだろう。
 更にもし彼らの手が工学に十分なだけ器用ならば、機械は洗練され、産業は統治され、我々の生活空間の多くの場面は昔から比べればずっと快適になる。だがそれとて最も知的場を世界中に敷延迄はしないし、実際の集積回路が高度な人為の注力により初めて可能な如く世界史にとっては、珍しい新種を揺りかごへ導く方便と思える。その様な情報人にとっても、世界は依然として解決すべき無数の不可解な自然現象に満ちているから。やがて万能の科学者にあっても電子の抵抗が光子に対するより強いなら彼らのいかなる知覚も宇宙自体の混沌より速く働くことがない。よって、精神は希有な事象ではあるが必ずしも宇宙の目的ではなくてその特徴的な条件調整の度合いなのである。人類の目に映る全ても精神についての真実ではあり、例に採れば色弱や絶対音感における様なそれを支える肉体条件が代われば不変とはならない。この為に遺伝形質を配偶子の様々に任意な組み合わせから大幅に合目的化された改良型人類にとってするなら、我々が感覚基盤とする地球環境も一つの過渡に他なるまい。無論、情報文明はこの為には段階であれ当為そのものではあるまい。
 以上からしても精神の多岐を実現する為にも情報交換の合理化は極めて理に叶うことであると思える。その抑制する意味は進歩にとっては殆どなく、旧態を守る一部分の取りこぼしを除いては文化史上の小規模な反乱として以外には、まるで起こり得ない場合となるだろう。

2008年9月5日

物理学

引力の働く原因が光子の移動による隙間の真空にあると仮定すると、我々が引力子を発見できない理由になる。引力は光となった質量が絶え間なく生じる真空に対する時空の流入である。引力場Aに対する光cと質量mの関係は次の数式で説明できる。
m=Ac
よって、
c=m/A
これよりブラックホールとは引力場の大なるものと定義できる。それは光子が生じる真空への質量流入の割合であり、エネルギーとして流出し切れなかった時空の歪みと考えられる。
 また光子は量子条件に従うが、それはエネルギー凖位に応じて波束を生じるからだと言える。つまり光量子はエネルギーの波として振る舞う。不確定性原理が成り立つ訳は、光量子が波としてボーア半径の軌道へ各々編入され広がるからで、その運動量と円周の積がプランク定数の整数倍となるのは電子波の場合と同じである。
 則ち、それぞれ量子の運動量mυ、量子軌道の円周2πr、プランク定数h、ボーア半径の量子数nと置くと
量子条件より
2πmυr=hn
これを変形して
h/2π=mυr/n[波束量]…①
また光のエネルギーをE、振動数νと置くと
光電効果から
E=hν
ここで不確定性原理における位置誤差Δxと運動量誤差Δpの積Δx・Δpを単位量として扱って、
Δx・Δp≧h/2πおよび①より
E=hν=mυr/n[光束条件]
 我々には量子論と相対論とが、引力場の生じる理由として光電効果による質量欠損を挙げることでは矛盾しないと分かる。いいかえればエネルギー凖位ごとの波として飛び出した分の光子は、その流出したもとの真空へと周りの場を引きずり込む。こうして我々の知る質量が時空の歪みとして現れるのである。

2008年9月3日

綿菓子

綿菓子の様な雲も秋