2016年9月30日

幸福論

私達は未来が明るく思い通りになり
体よく成功者か偉人になり
普通より当然の如く恵まれており
いつまでも楽しく生きていけると思っていた
実際やってきた現在は成程そこから遠く
ろくでもない人間が跋扈し
不埒で野蛮な人達がふえて
悪人が我が物顔で無数の犯罪を仕掛けてきた
では私達は何者だったかといえば
夢想的な世間知らずか
ただの楽観主義者か空想家
過去をふり返らないという人は
無限に続くこの世に何を思うのだろう
私は夢を叶え幸福なのに

作り事

君ははじめから完璧で
私達は君の努力を知らない
私達は君が神に恵まれていると信じていたが
実際は君が奇跡なだけだった
私達は脱帽し又悲嘆する
私達の中にある全ての目的は君であり
私達の外にある全ての原因も君だから
君は神に嘉された新しい存在であり
私達は実に下らない現世のたわむれごとで
私達の望みは全て君だと知るだろう
まるで川が流れて海に着き
やがて雨となって山からおり湖に溜まるよう
私達は君の美しさが永遠であるよう望んだ
実際は君だけが芸術という作り事だったのに

かしこさについて

かしこさは知能の多岐性そのものであり、遺伝、学習と経験の差が生まれる限り、唯一のかしこさは幻想である。全知全徳全能は、人々の求める幻想、妄想、理想像への類似性にすぎないが、人々の思うかしこさがずれている限りそれらに唯一の姿はありえないか、少なくとも仮想である。共通のかしこさを求める信仰の形を宗教、宗派、学派、school、何々派、民族、集団、群れ等という。国家は共通のかしこさを最低限度基準として法化した宗教である。
 かしこさをある定型にし多少あれ計測可能にしたか、評価主体の元にまとまらせた体系が全ての学校、学位、学閥、学派、或いは受賞、勲章、褒賞、そして報酬である。

経営学

符号理論、signaling theoryは賢さへの一つか複数の評価主体性を意味し、経済学でのそれが効用価値的でない限り、つまり労働者がもたらす特定の産業分野内ならびに会社なり社会内での付加価値への貢献度ではかられていない限り、偽となる。それは状況の多岐性、多様性の前で、どの符号が最適かを事前に知りきることができないからだ。いわば符号理論は効用価値説に寄託し、しかも短期的で単純な労働基準のもとでの定型的な裁量の場合にのみ可能な、ごく限定的な経営学説にすぎなかった。負担理論、handicap theoryのもとで、人は効用に基づいても、そうでなくとも、より精密に人材を選り好める。ここで効用に基づいていない場合は、効用外の有益さ、組織の潤滑性だとか潜在性、創造性等を組織にとりこめる。

美について

君の美は紛い物だし、それに君が気づく時にはもう手遅れだろう。失われず、永遠に美しい様なものは君の手元にあったこともないし、未来永劫こないのだ。本来、美とはこの様なものである。人はあれが美しいとかこれは醜いといったり考えたりもしようが、情報量の違いを性的な隠喩としてうけとっているにすぎないし、痕跡にみいだした性愛なり慈悲のかけらが美自体であったりもしない。
 美しいものを求めている人達はその本質的な欠落に悩み、自らにないものとして美を手元に置きたがる。これは偶像崇拝であり、物質主義だ。丁度俗物達の悪趣味さを眺めているとき我々が感じる嫌な感情は、フェティシズムにおける悪徳の部分にすぎない。むしろ人々が学ぶべきだったのは、性愛それ自体もただの細胞の自己増殖への渇望にすぎないことだ。生命は空疎な反応で、人々が美を求める時、さらにこの反応は空転的となる。
 美を求めようとした人達のうち、私は直感的な好みを求めようとしているが、この好みそのものが空転した時、美はただの永遠への間となるだけだろう。尤も我々のなしうる美の限度もそれだが。性愛、恋、エロス、どのいい方でもいいが、美の蘊奥は今日も、過去にあっても、空転した性欲の昇華でしかなかったのだろう。
 美が極まる時、我々はその反応を善と呼ぶ。単に聖の部分であったり、よい趣味の一部であったりするこの集合では、美は比喩の仕方だ。美を追求する人は、上記の理を知るべきだ。要するに、美は善の形式だ。合目的性といういい方は指し示す内容を勘違いさせやすい。美は手段であるというべきだ。勿論、斯くして美が道徳、もしくは善意に付属した優れた手段だとなれば、あしき美といったものがもどき、或いは似せ物のにせものにしか感じられず、不愉快でもある理由が解説されるからだ。

おそまつさんは奴隷根性のアニメである

経済弱者を虐める最悪のアニメ、おそまつさん。なるほど作者らは破滅し地獄におちようし、登場人物らをあざ笑う人々は己もそれ以下の目にあうであろう。人はしたことをされるのであり、往々にして倍返しされる。人の社会では強さは善さより低い地位しかもたない。そして自由をみずから捨てる者は、隷属の立場に甘んじる。奴隷の苦役をしらない者、己の不幸を抜け出しようがない者、自由を恐れる者は、ないものねだりで、家計的に恵まれより余裕のある人達への反動形成で彼らを数多侮辱しているのだろうが、結局自分の首を占めている。また貞操をそしる者は、自滅を愛しているのだ。
 これら悪徳の奨励は観るものや子供を洗脳し、労働階級をさらに労働貧民化、総貧困化させることを意味する。おそまつさんファンが学ぶべきなのは経済弱者への悪意ある嘲笑でも、自由で裕福な人々への妬みでもなく、みずからの奴隷主義を問い直すことだったからだ。

2016年9月29日

脳科学

道徳知能あるいは道徳性知能は利他性に関する鋭敏性と、通時的行動(過去、現在、未来に渡る行動可能性)を多少あれ記憶可能な個体数の程度を意味している。この脳部位は前頭葉に由来していると思われ、他の知能を統率する。
 例えば互恵的でない利他行動や、自分と無関係な個体の利他行動及び害他行動(有害行動)を認知し或いは適切に対応する際に必要になる知能が道徳のそれで、一般的利他性における或る類型の強度を意味する。

2016年9月28日

道徳の試験

人生自体が道徳の試験である。

関西

関西の卑しい人達我をそしり東京スラムを目指して驕れり
礼儀なく悪徳まみれの九州人下賎に媚びつつ我をそしれり
卑賎なる四国の下人が我をそしり下品を述べて悪業誇れり

人罰と天罰

人罰をあたえきれないとき天罰に期待する。天罰は偶然あたるのかもしれないが、人はそれをさも人罰の一部であるかのように思いたがる。

2016年9月27日

海の眠り

私は永遠の眠りにつくであろう
死という名の
但しそれはわたくしがもたらすのではない
海がもたらすのだ
ゆめのないゆめ
それはうつつ
永遠に生きつづけよ
海の中に
母なるもののなかに
全てを生み出したものの中でねむれ

2016年9月26日

差別用語

障害は差別であり、会社員になれない人を不良品扱いし障害とよんで、不寛容でけちな社会側が差別している。障害は社会が差別カテゴリーとして作り出しており、障害者と呼ばれる人自身にあるのではない。障害という語義も言葉も、差別用語として消滅しなければならない。

2016年9月25日

政治道徳について

道徳的認知が弱い人々は暴力に従い、高い人々は説諭によって治まる。ある人々の道徳は民度そのもの。

偽りの時代はすぎた
誰かが囁いた
一人もいない千波湖
誰もが望んでいた未来
君は小さく小さく囁いた
偽りの時代はすぎた
誰かが気づいた
一面に広まるネモフィラの青
果てしない青空のどこかで
いずれ出会う
君は大きく大きく深呼吸する
大勢の遊んでいる偕楽園
誰かがつまづいているなら
この手につかまれ

悪魔政府日本

天皇という中国人ヤクザに独裁されるだけの国。成程この悪魔政府日本は亡びて然るべきだろう。毎日1億円近い大金を奴隷国民から搾取し、暴力で日本人を押さえつけ、ひたすらテレビやマスメディアで、ヤクザ達から洗脳させるだけの強欲な下人、自称天皇。正義は天皇を打倒し、元来の政府を永続させよう。

カネタタキ

カネタタキ我を囲んで鳴きにけり
虫達の大演奏
庭囲み夜想曲中目を閉じる
大雨のやんで雷すぎさりて演奏準備の虫達あらわる

2016年9月23日

正義と忠義

悪しき天皇あるいは為政者を打倒する事は正義であり、善き天皇あるいは為政者を擁護する事は忠義である。

政治哲学

善と強さが分離している時、権力者が哲学するか、最善人が権力を得るか、どちらかでなければならない。悪しき権力者と弱い最善人は、前者が独裁者あるいは僭主、後者がユートピア思想家か宗教家となって、いずれも善い権力者による善政の場合より実践的成果がでなくなるだろうから。権力の置かれる土地についても同様であり、善なる県民性の土地は強い権力を求め、強い権力を持つ土地は努めて哲学しなければならない。

幸福論

幸福は道徳から得られる。善行と幸福は、良心の満足としておなじものである。

2016年9月22日

天皇論

天皇は強かったのであって、必ずしも善いのではない。

2016年9月21日

人生の目的

最も美しい人生は、最も趣味のよいものだろう。最も美しい人生は、人生自体の目的の姿である。悪趣味な人々は、人生自体の幸福の質が低い。
 哲学は根拠自体である。唯物論における産業構造の変化が新しい道徳を作る。
 諦念は、中庸が最善。上位者は勧善によって自ら行いを改め、下位者は懲悪によって制裁される。勧善は哲学を最上とし、懲悪は刑罰を最下とする。説教、評判、訴訟などはそれぞれ最上から最下への中間形。全知全徳全能は知能の分岐である以上、現実において集束的ではありえず、多くの場合は部分的に叶いうるだけであって、究極のところ万知万徳万能として有限的に聖性に最も似ている状態を見出せるだけである。

2016年9月20日

最高善

人は各々の最高善に達するように生きながらえる。人は己の理想としての最高善を超えないだろう。最高善は各々の偶像であり、時に神格として望む特徴であり、到達しえない当為である。

2016年9月17日

最高幸福について

ある道徳的個人が自由の元で最も幸福であり、その最善人の質が、ある国家の最高幸福の水準である。国家にとって名誉ある地位と、その国家における最善人の最高幸福の限度は、「道徳」として一致するだろう。
 道徳は洗脳に反するものだから植えられず、自らがわかるよう考え、己の言行によって得られるだけだろう。

2016年9月16日

目的

物理は物理の目的自体であり、倫理は限定的な目的である。

2016年9月14日

自由と資本

子どもは大人の似姿なり。いじめをなくしたければ経済弱者を救え。虐げられた善人を助けよ。
 力なき正義は有効範囲が限られる。
 最善人が一番の金持ちなのが資本主義の理想。但し、現状の金持ちが最善人とは限らない。最悪人が一番の金持ちである社会は、地獄である。いいかえれば、最悪人が一番の金持ちな社会は地獄であり、最善人が一番の金持ちな社会は資本主義の理想である。
 人は自由によって、おのおのの中にある最良の生き方を模倣する。

2016年9月12日

良い社会

良い社会では、企業がよい需要にこたえて売り、消費者がよい供給に応じて買う。善人がひまをえる。

2016年9月10日

科学の道具性について

科学狂信ではなく、倫理道徳に基づく科学の道具化が目的である。科学は哲学の部分集合である。

良心と偶像

自覚のない悪事は、良心からは制裁されない。
 資本主義は金という偶像を崇拝している。
 「神様のような人」を、神と言っている人格神論者がおり、神仏習合は人格神崇拝。無宗教は人格神を想定しない。資本主義も新興宗教であり、資本主義は金という偶像を崇拝している。天皇は拝金主義を利用し、神道が拝金主義をとりこんでいる。無宗教は科学合理的思考を促進する。資本主義も新興宗教。天皇・政府は金(信用貨幣)を利用している。
 人徳の程度は、清貧>富貴>貧賎>富賎(成金)。

2016年9月9日

死骸

カメムシの死骸の上に時積もる

強弱と善悪

弱い善人は助けられ、強い善人は味方され、弱い悪人は責められ、強い悪人は打倒されるべきである。

道徳と天譴

天譴論は、道徳的な因果応報に適用された自然現象。偶然おきた天災を、道徳に照らして解釈する傾向を言う。

2016年9月6日

清貧

経済活動における清貧は最高徳である。

子供

子供がいるから貴いのではない。卑しい親の子も卑しく育つ。貴い親の子のみが貴い。子のいない貴人は、子のいる卑しい人よりまさっている。卑しい親が産む子は、社会に有害である。親が卑しい事は一つの罪である。卑しい人間は無意味に群れ、悪口をする。貴い人間は孤立していても、貴い事を語る。卑しい親子になるなかれ。卑しい親子は不幸である。子供を生む親の貴賎によって、子は幸不幸を分ける。独身の貴人が清貧なら、その人は聖人である。この世では聖人以上の人間をみいだせない。聖人を卑しめる者は、人間を愚弄している。下賎の底にある極悪人は、その子供も人類にもっとも有害である。尊卑によってひとの価値があるのだ。貴い人は人徳に勝る。金銭の多寡は幸福とも尊卑とも関係がない。子供の有無も尊卑と関係がない。この世で幸福や、人類からの称賛に関係があるのは、人徳である。
 安易に衆愚に群れるな。下賎の振る舞いを群れてなしたものは不快のうちに寝る。清貧がもっとも幸福である。清貧以上の存在はない。愚かな妻は不幸の原因。
 善意がない子供は大人になってもそうだ。それが育ちというものだ。金よりも学力を重んじなさい。卑しい人に金を与えてはならない。尊い人のみ、金を人の為につかう。学問は貴人をつくる。富裕だから学問をするのではない。向学心があるから学問をするのだ。学問は習慣である。貧しい勉強家と、富んだ遊び人を見比べるがいい。生まれつき尊い人に、学んで尊くなろうとした人はおいつこうとする。生まれが卑しい人は、尊い人になろうとして学問をしなければならない。
 己のために人をそしるな。不健康にあって幸福であることはできない。

2016年9月5日

長短

人は長所によってではなく欠点によって魅力的となる。欠点のない人がいない以上、欠点を認めなければ成長できない。普段の行いで人は知れるのだ。家族もその人なりの人だ。善良な人の家庭は善良なり。悪辣な人の家庭は悪辣なり。家族は人なり。
 真理は賛意の多寡によらない。
 性は、客観的なときは同一化の為に、主観的なときは愛のゆえに美になりえる。

死生論

自然な衰弱死を望むなら、暴飲暴食を慎め。摂生につとめよ。
 子を産めば死ぬにしねない、子供は責任なり。娯楽もほどほど。安楽な生活は死を恐怖にさせるのだ。
 子供の為には金より知恵を残すべき。知恵は失われない財産なり。金は程ほどに残していたら十分で、あまりに大量の資産は子供を堕落させる。
 生と親しむのと同じくらい死と親しめ。
 普段の善行、普段の功徳が芸術においても未来の価値を担保する。
 最善人が最も幸福である。最善人を傷つけるものは己を卑しめる。功徳を積む事は難しいが、なすべきである。

2016年9月4日

道徳論、宗教論

権力は宗教の改変。
 道徳的であることが、幸福であるための必要十分条件。その道徳を知る試みが哲学。

2016年9月2日

生命

生命の為に哲学する。

2016年9月1日

3つの愛について

性愛が利己、仁愛が中庸、博愛が利他の愛。

経済学、経営学

清貧な人は富貴な人より幸福である。清貧は軽い負担で大きな福徳をえるが、富貴は重い負担で小さな福徳しかえられないから。金持ちや高位の人が行う善行は、当然の義務とみなされるか偽善と思われるのが落ちだが、貧者の一灯は感謝されるか賞賛に値する有り難いふるまいとみなす他ない。
 なるほどこの使い古された言い回しで資本主義下の商人らは少しも反省しないだろう。だが脱資本主義に多少なりとも理解のある人々は、当然の事と思うべきである。大分県から出てきた福沢諭吉の様な成金主義者は清貧を非難し、下賎な侵略による蛮行を自己正当化した。配分的正義の観点から、雑な商人は清貧の人を当然の分け前をとらない奇異とみなすかもしれないが、実際は、清貧の人が行う奉仕的利他行動のみが最もよく配分された社会をつくる。搾取度の低い経済行動こそが最も功利的、使用者思想的、つまり他者にとって合理的で、最大多数の最高幸福、公益と合致するのだから。いいかえれば清貧主義者でありながら現に利他を頂極し、金利に還元されない実際のくらしについて最も余裕のある人こそが真実、経済合理的な人だ。
 仮に清貧の人による寄進を額面の見かけの少なさではかろうとする者は、最も功利的な人を失うのだから、当然ながら経済不合理である。また富貴の人による寄付のみかけの多さによって額の少ない場合より何らかの優遇をした場合、この受益者は、貢献者の社会的福利の度合いをみあやまっている限り、経済不合理である。これら成金主義者にありがちなどちらの場合も、つまり非功利的か額面迎合的な場合のどちらについても、清貧主義者らの社会福利に劣っている。貢献度は搾取度に反するもので、配分に際しても同様だから、最も寄付的な商が最も経済合理的だ。いわゆるフリーミアム、無償の手数料、無償料は搾取度の高い生業が付加価値生産に有害といっていたのにほかならなかった。そしてこの理論は清貧の経済合理性の理論、清貧合理論、清貧論の部分集合にすぎない。
 利益率の低い生業をきりすてる事が競争優位をもたらすとした観点は、清貧の功利をわかっておらず、寧ろ受益者の側からみてこの分野こそが最も好適なのだから、逆に利益率の高い部分についての再考が経営者側、貢献者側に要ることになる。いわば隙間で、需要が低く、利益をあげない様な負け犬分野が最も、清貧論の観点では経済合理的である。最も青い海は負け犬分野にあり、最も赤い海は花形分野にある。しかも常に青い海に泳いでいる、負け犬分野に適応している貢献者ならびに無償料受益者こそが、真実、幸福であり目的の企業である。
 誤解をうけやすいかもしれないが、上述の点は配分的正義についてあてはまることで、決して調整的正義に関する議論ではない。なぜなら調整は政治によって行われ、そもそも経済合理性を目的にしていない点で、単なる商いとは真逆の公益をめざすものだからだ。経済学や経営学におけるコペルニクス的転回としての清貧の商い、つまり寄付経済の基本原理は顧客第一主義からみた無償料の経済を含み、利益率の低い分野に貢献度としての経済合理性をみいだすような、経営主にとっての新たな経済学、経営学上の観点で、いわゆる軍事や警察、徴税による巨視的調整、利益再配分の論旨を含まない。