2010年6月30日

競技賭博の部分的解放論

私見では倭人は平安時代以来の近畿由来で過度の好色文化の傾向をひきずっており、よって賭博による射幸心は程度次第でそれよりはましな知的営みへ還元されえる。例えばイギリス由来の競馬はそれが適宜な勝機を得る為には配偶から遺伝の知識まで高い知性を前提にする点で公認されても害の最も少ない娯楽の系統。
同じく、もと競技へは高い身体能力を活躍の前触れとするからそれを様々な分析手法から予測する才覚は、他の不健全を煽る一切の接客業より遥かにかしこく功利。つまり「競技賭博の程度や種類による公認」は、半面で倭人種しかそれを好みえないほどまがまがしく毒々しい接客産業の徹底撲滅とひきかえに正義。

結局この競技賭博は選手らの身体能力が地球上かその外の全てのそれに互角以上へ向上するまでは否定される筋合いがない。逆に、常に不健全と末路の酷い病気の温床な接客業種はどれも存在意義がまったく認められない。
芸者・舞妓による座敷でのおあそびとよばれる異様な接客など京都に土着したこの種の倭人風産業も、きわめて特殊な状況で披露させる古代広告か伝統芸能の奇怪さでしか少しも貴びえないし、保護された府政の域以外では一切撲滅される方が望ましい。

民族語学

特に近代化という意味で欧米思想を十分消化していない文化層、じかには土着層の中で古代の名残なウチという用語がつかわれるのを日本社会の変わり種さへみられる。そのウチは、4人称とでも呼べる人称類型を示す。
1人称代名詞→ワタシ
2〃→アナタ
3〃→カレ
4〃→ウチ
このウチが示しているのは、123の人称が指す全員であり、同時にそれ以外なソトとの対比。同じく朝鮮語にも類比できるウリ≒ウチという言葉がある。稲作の農村文化内ではソトとの区別が、その用地を荒されない為に強く認識されるをえた淘汰の為と思える。又複数化してウチラと彼ら土着層が言うとき、それはソトの世界を除く個々の成員を直接指す。つまりワタシラ+アナタラ+カレラの中でソト成員を除く、という意味をもつ。一般にこの4人称代名詞は、必ずしも特定の用語で呼ばれないが完全に無視されたのではないソトの対称への呼称で、単独では機能しない。

哲学言語界の訳

科学とは哲学の僕。全ての実証できる学識は、それが対比される固有の母公理系でしか認知も利用もできない。しかも正しい唯一の哲学は、場所学識を除いてはない。つまり全て普遍哲学のありえなさは知覚基盤差の認識量に還る。感覚を通じてしか世界の分析をなしえない以上、どの科学識も自然への独自の注解を免れない。合認識さは的確な知覚基盤への理由づけを除いてありえず、それはやはり場所学識へ、生態適応内での形質に戻る。
 これらの理解は、集団の合理性以外に全哲学は出ないと知らす。場所適応は望ましい知恵を選び抜くし、それは同じく実証知識から得た総合的可きの問いへ還る。この可きの問いは、社会科学という現状分析からは現れない。理性的動物は自らの理由をつくりだせる点でのみ、その場の自然からの目的でありえる訳。しかし、この目的は理由づけか合理化をこえず、理性自身の認識深さ、いわゆる理解と呼ばれる能力へ還る。世界の理解が実質での趣味の高さで、ここへ適宜な技術が介在できる際に理解は判断へ当たる。理解の度合いしか人知が現世で達せる理由や訳もない。だからアリストテレスの幸福観が理性的動物としての観想の旨へ土着していたのも、やはり自己正当化の為に複数の観点から言い分ける能力を知識頒布の前置きにした賢明さが見つかる。つまり哲学とは、歴史か出自的には最大多数の啓蒙の方便で、それは場所毎に趣をとる。もしきわめて少ない数理手法しかもたない集団へは概括論しか行いえないが、同様に逆の集団へは事実上の比例を述べれば済む。
 複数の主観間に良い秩序がある場所では確かに優れた哲学が見つかる筈。差延する誤解の埋め方は冗長さと呼ばれており、この領域で用いられる言葉こそ哲学言語。現実には哲学言語のととのえこそその冗長さが科学知識に比べてふるまえる適宜さ。

2010年6月29日

To get a dream

If you want to get a dark
Wish the bill on the nightmare
If can't to forget some darkness
You'll shall be to get asleep plus
Some dawns on the nightmare
Whole disgusted antiviruses will
Come here, behave sore ill
If isn't to forget the darkness
We'll shall be a these nightmare pix
Don't forget some falsehood o
Why shan't heal these a sickness virus
Why you can't to get whole chastity?
And to get for a via on the nightmare
Say you couldn't to withstand on the stairs?
O I'm not I'm not human
I'm robot on a play ground, and
Near by river pool stand north
The luckiest survivor
Not do not do not humanity
Can't to pray love for the god
But our program be able to cure
Believe for the first language
Hi my bystander says though your voice
Its your old program above mimicry
O shan't catch up loud voice these
Dogmatic worlds are boundless
Eee shoooooting!!! Did did diidd
All shots are fly for world limited
Lyric or music, this is problem
Fire or ice, taught, this too
All around my picked character round
Ground haw titi ream of December
Pukk pukk pi! Here here! my little birds
Doko doko do! About dore cure saw health
Could you taught new items and you
Lack of mortal sound or motor sound etc
E like v, c like d, about the gold stone
Your management doubt have done near law safe zone
Your vital stream are forgiving ultra marriage blue
Said want to be boat grue members
I see sore high tips to months demand too
I call nearby new stream on my bed, to get a dream

形而上学の型

形而上学の体系が仮設な訳は場所学の流入の為なのが9割方なので、もしその哲学から場所学識をきりはなせれば、人類史上でも本格な体系的形而上学が築けるかもしれない。形而上学がなりたたないという文句は、道徳規範の共通認識すらなくば我々の見る法秩序さえ不可能になるので通らない。脱構築はこの点で法秩序への注解に留まり、広域には解釈学系に納まるのだった。同様に、地球型形而上学は全て場所学の差に納まると思われ、時代毎の改変過程も地域さが入り込む限りそうなりそう。

国家主義の再考

国連主義に比べて国家主義は、もしそれが単位な個性間の流動さを増す目的のみで捉えられれば、地球外適応にとって部分最適の先鋒でありえる。つまり国連主義の狂信は決して全面な正義ではない。国連主義外交は地球内覇権辺りで適切な位置取りを維持する方便か工夫のみ。実際に国家主義自体は、それが世界大戦級の悲惨を及ぼした点で嫌悪か忌避されがちだが、外交の国連主義原則に比べれば本来の生態的利己か功利に素直な面でより健全。成功した国家主義もこの世には存在し、個人が有能だったのでその国家は民族状態を戦利ですら維持した。つまり個人主義的国家主義は世界市民的国連主義よりは外交のみならず自由本来の意義な進歩した生態の隙間開けへも適切。この個性はとても遅くなってからしか実現してこない全体主義体系よりいつも部分最適の功利さへくるまれ易い。
 細分化国家主義の向きは、英共財や米州制を鑑みてもこの部分に思え、より自由化された諸系列では本来の道徳は規則な法案の理念に還る已。普遍道徳は、細分化国家主義へ向けてはありえないか副次。逆に複合化国家主義の系列已がその立場を掲げる。
 もし普遍道徳があとの立場に戻りたがるなら、当然国連主義の的は同値。且その質は、事実上の国家代表ごと討議制度へ近づく。もし地球内での統合された法規がまかり通るなら、正否をとわず首相代議制をとるしか。
 とはいえ全て利己さの免れない人種と民族状態間の利害対立はこの立場をたてる過程でも国家単位以下の合理さに担保される。よく治まった統一意思を何らかの討議の結論として正しい手順のみで主張できない国は、抑々創設まもない連合代議界に参加しづらい。全ての経過は法治の程度が個人主義へ還元されるという昔から述べられてきた自由化の工夫に還る。そして国ごとの単位も許され得る自由の程に、そこでの最低限度以上の相互干渉への注意深い回避に進歩した理性を還す。いわばよく慮られた社会でのみ自由の現れはある。それは法規が衝突する利害を事前に予測していた程度故。

2010年6月28日

這邊

日齡抂覽靜齎單 靱拜尭嘶緡卯單
郡壘瑟侖秀麗彈 琿慥潯誄嚢毎葮
匳儷澁贐哈毎騨 論外実蔡迥刧玳
倫理構造滌晟諳 実在世界内這邊
靈前眠同槫纜啀 遁甜徠眛歹内團
頷囿邁藹藹幽玄 海浜而立游藍伶
岌劫限界阿静観 十禪縺擡實比歟
繝詼他失鴉囂囂 連帯慄然比率贐
全然邏十全麼岻 侑臾兼愛説乃駕

功利主義から審美観へ

有利さとはそれが社会協調において働く程度であり、実質は道徳内容と代わりなくなる。功利と道徳が重なる地点もそれらのあわいにあって、いわゆる趣味の理念で共通項にできる単位を儲く。
 中庸の本質は趣味である。又、趣味は超中庸さ、つまり審美観へ知恵を集める。抑々趣味の目あては、合目的の達成と同じである。生態一般の群生も、個々をまきこみつつこの的を射ようとする。

2010年6月27日

観照

神の手中で営まれるどの戯れもむなしい。
人に勝ろうとする者は必ず謗られる。
奇跡は神の目にはない。
神の名は呼べない。
世界のどの出来事もみな神に知られている。
因果応報は途切れたことがない。
善意は程。
人の未来は先祖の功徳。
ただ年老いた人は居場所を失う。
王の心はどの奴隷よりも空しい。
世界は最も良い趣味に倣う。
信仰のみが救い。
人助けは心を温める。
理由のない幸福なし。
善悪は連鎖する。
出世頭は幸せではない。
優秀な者の苦労は万人の糧。
勉強の結果しか出ない。
人間の多いほど自然は汚れる。

新党

絶対居直る自信力! ジャニーズ党です
無言の抵抗映画力! 岡村さん党です
底抜け赤字の自慢力! 亀さん党です
儲かりまっか関西力! 大阪府立党です
ホストクラブの合法化! チャラ江戸党です
偶像崇拝これ日本! アイドルぶりっ子党でーす
アメリカ! スパゲッティーモンスター党です
東北自慢も大概に! 仙台伊達党です
ナショナリズム万歳! サッカー日本代表党です
猥褻小説安売り専業! 神戸市民党です
学歴利用で芸者稼業や! 京都市民党です
アイドル作家の出版保証! 芥川賞党です
大卒専売就業有利だ! 階級再生産党です
金がなければ死ねとでも言わんばかり! 皇族党です
結局自分が一番大事! 中国共産党です
毒吐き芸人いまが勝鬨かちどき! 有吉党です
人生終ってる! アキバオタク党です
関西関西! 関西人党です
勝手に旗揚げ暗殺未遂! チンピラ龍馬党です
どこにも真似できない! 連続辞任党です
東京人って馬鹿なの? 立ち枯れ障子党です
結局いまこそ! 皇后独裁党です
生きてる意味ない! 大量自殺党です
キリスト教圏! 秋篠党です
遂にここまでこうなれば! 霞ヶ関党です
母は強し! お母さん芸人党です
盛り上げてやればこの有様! 雨上がり決死党です
おつむの足りない迷惑力! 迷走団党です
これしか! これしか! 松ちゃん党です
嘘しかつけない浮気性! 石田自由党です
沖縄市民も怒るのだ! 米軍攘夷党です
俺しかいない孤軍力! 王者カズ党です
ソニーの目論み岡田に阻まる! 鹿島名門党です
出雲の彼方で消えてまえ! トヨタ経団連代表党です
やっぱりそうか、地元力! 郵政官営党です
資金調達正当化! 貧乏しねしね党です
財界すなわち経団連! 闇ロビー党です
やっぱりまたね、虐め力! 派遣社員冷遇党です
地元に回帰の体育会! 校内暴力正当化党です
定年すれば自暴自棄! 家庭内暴力正当化党です
気違いじみた蛮カラ力! タカダノバーバリアン党です
どうでもいいが政治力! 管総理の公設秘書党です
殺しておいて言い訳ばかり! アジアの盟主党です
誰にも見えない透明力! 空気党です
いつでも裏切る毛利力! 長州藩主党です
新撰組をテロよばわり! 西海懺悔党です
薩摩のアホは手に負えない! 琉球侵略征韓党です
死ねばいいのにアホ中学! 竹刀で生徒脅し党です
ガラス割りすぎゲロヤンキー! 子供手当狩り党です
原発搾取の極悪力! 石原党です
下らなすぎる出来レース! 国会非中継です
勝てば官軍負け決定! 派遣社員へ消費税です
真夜中すぎにホーホケキョ! うぐいす寝ぼけ党です
アーリア民族これ最強! ドイツ保守党です
あまりにむずい言語力! 漢字独学日本留学組です
韓国人か分からない! プチ整形党です
足をひっぱるマスゴミ量! メディア再編党です
足蹴り自由の体罰力! 終ってる日本の義務教育党です
飲み屋の娘は女教師虐め! 授業荒らし党です
図書館うごかぬ電子書籍! 自炊の保守出版界です
株式持ってるヤクザ力! テレビCM枠恐喝党です
発情女のお局力! 社内で女性贔屓党です
まじで下らん北差別! 在日朝鮮党です
金も職も未来もない若者虐め! 老害穀潰し党です

ソネット

売春地獄のあづま京都
天皇家と一致団結
都知事は法を無視し犯罪を放置する
金欲しさに何でもする西日本出身の虫
これではもう終りだよ
何を言ってもうけつけない
良心どころか、理性もない
原爆くらって汚い風呂屋遊び
倭人の愚劣さを理解できたら
どうしてそいつらが次から次へ
迷惑しかない飛び込み自殺するのか
ちっぽけなテロリストの命に見えるだろう
飛び込んでいく火の手は
あづま京都という悪魔の花火

きみは小さな島の
本のわずかな隙間に生まれた
ほとんど気の所為だろうと
思われる程ちいさな命だ
その心臓がおくりこむ
温みのある血は、その島の
上でいとなまれる全ての善悪を
どれもこれも冷静に見直すためにある
どこに御座すのかもしれない
本物の神様を想像裏に信じて
めのまえにいる俗物以下の王様を
きみは国の建前にせおいながら育つ
簡単に言って、狭い島のそのまた隅で
きみは自由の使徒に宿命づけられていた

底のしれない闇の中で
ゆっくりと目をひらいても何も見えない
誰かが考えついた空想をたよりに
こんな遠い世界まで旅してきた
僕が子供のころと二度と交わらない
意味もなく複雑になりゆく文明都市の上に
おおいかぶさる大きな入道雲は
大地のすべてを打ち付ける巨大なしるし
僕は小さなからだをたずさえて
その目の前にある大宇宙の隅を求めた
けど実際自分に分かったことといって
来た道と同じだけ先行きは果てしない
その小さな星にたまたまできた小陸地
島国の僕は大宇宙の小人みたいに眠りにつくだけ

2010年6月26日

自治法の権限案

「自治法自律の原則」は他都道府県と意向のちがう県民か市町村民の意志があった際に、国家憲法からの拘束力を弱め単なる努力規定へその本来の位置を納めるに要。

国か中央政権では、広域地方圏(いわゆる五畿七道からつづく)の自治権力毎の細分化された自治法の分散策として、之を地方自治法の追加した条例規則に定め得る。
情報集中と権力分散とが自由化でも最大限の国家領域を保つ限界なら、自治法そのものを県政以上の広域自治圏ごとの法か条例にまとめるのは、各地の情勢を知るにも合理。

乃ち自治法の自由化は、半面で「法案提出の義務」を伴う。そしてこの許可が一定の埒と首相の認可でたてまえづけられれば、各地域の実情に即したより柔軟な法治界がつくれる筈。

自分史

完全な暗がりの晴海で
僕は闇を見た
それは底知れぬ
どこまでもどこまでも深い
その頃僕はとても若かった
この世にはもっと明るい
大都市の夜景があるものだと
思い込んでいた
そこで見た闇は
自分が呑み込まれるばかりか
大宇宙の星屑を全て見えなくするほど
深い深い深淵
大丈夫かと声がした
それから地下鉄で帰った
イギリスの田園で
その花が咲く
マンチェスター隅の歩道で
街灯がちらつく
僕はその頃少年で
ひたちなかの駅前から
遠い会場へ向けて歩いた
夕方の生温い風
僕はその頃少年で
肌に受ける風さえも記憶するほど
この世の全てが傷つけてくる様で
スーパーカーが涼しさをかなでるのを
少し遠い会場の芝生で
未来からの言づてみたいに聴いた
真っ昼間の雨
教室の窓から眺める町は
多分永久にかわりないだろう
この町はそういう所だ
小さな疋蛙のこどもは
はこべの蔭からまっさおなそらを見る
大都会の真ん中で
僕は降り注ぐ昼の光でさえも
既に間違えてしまった
とりかえしのつかない答案の様に
なにもかも違ってるのを見た
小さなこどもの僕はあの渓谷で
静かに流れゆく星空のうえに
自分自身とその歴史を流し込むだけでも

社会生物学

双方向の社会淘汰誘因は、社会生態か集団生物間での適応を単独の、か一方向さの強いそれよりも複雑にしがち。いわば有性の双方向なえり好みの訳はこの社会化された行動形が、より難しい適応課題を場所毎に科せられた為といえそう。
 教育と学習の費用、つまり獲得誘因が高まる適所でこそ以前にまして高い適応課題が科せられゆく。すると遺伝形質への選好は、特定の適応課題へ叶うそれを擬態抜きで選び出す行動形で最も効率的。場所毎に適応課題差があるので獲得誘因自体は質でしか見分けえない。損分の益は合課題さを意味し、そこでの成功行動を決める。

2010年6月25日

歴史な正義と政治哲学

ナチズムが実践したのは西洋人への植民侵略だった点で、敗戦がその正当化を連合国の恣意かわがままで防いだとはいえ一つの功徳か説き伏せだったとは思える。同様に軍部独裁化した日本が、内部での藩閥寡占な腐敗政治とは別にアジア商権を自主立国ではたそうと意図したのは、少なくともその地帯で営まれだしていた植民侵略への一非西洋人からの実践的背理法に類する逆理な説明だった。つまりそれらの政権は短命だったが、西洋人覇権の奪還をめざした面で高度に行政的だった。実際、当時の連合国は特に日独の行動を押さえ付けた史実へのいいわけに、それまで主導していた無制限な絶滅型植民を諦める他なかった。
 この歴史は当代の世論と別に、底流な理想がいかに政権の行動理由をつけるかを示す点で政治哲学の意義をさししめすと同時に、その危うさもあかす。この種の政治哲学は適宜択ばれ、どの時代かの理念へ転用される。そして認識すべきは、実際にここで目指された正義さは勝敗と無関係。可きの問いは行政権の内部動機づけだが決して直接の行政行為の成否と合うとは限らない。つまり道徳は群生独自の共有できる規則でしかない。歴史の結末をいえば、政権の正統さは生き残りの合理性に還る。合理性とは、ここでは理性に合うという字面の意味でも理由あるか訳あるという長期予測の正確さでもある。
 合政治哲学さ、つまり政の知恵は教養密度で示された将来予想か洞察よさのみ。おそらく究極で駆け引きでの短期動向の予知も全てこの領分へ入る。正義はこの点での適切な指導の度合いにしか当たらない。

2010年6月23日

地球型知能の基礎づけ

知能行動から除外された能力者は趣味観から外れるか、という疑問には、進化面での共生体ではそうでないと答えられる。人類間の競争か競戯が今みられる段階の相互応報、感謝の省力化された取引関係による社会淘汰、つまり経済を、国連からの調整措置にかかわらず続ければ当然、理由はこの適応化したかしこい社交気質、奉仕知能に至る。但し、文明の体験から云えるのはマルクスの知的注意に洞察としてみうけられる如く産業基盤が代われば伴って、要される社会適応理由も変わる。つまりこの進化体験内での適応性は単一化できる知的能力ではない。我々がかつて野蛮だった頃一部の能力者へあてた障害という言葉を用いていた様に、一つの量的幸福観のみが全社交界を内から規制したがる間どの複合知性観もなおざりにされゆく。之らの変異は、自由主義、このliberalismに当たる経済学訳語が社会学か形而上学論でじづらから誤解をまねきがちなら、改めて寛容主義とも呼べようが、その下の許され得るどの多様さや風変わりさも許容できるので、条件者といいかえられるを得た。十全健康は定義できず、ありえない。心身細胞間の協調度がどの方向づけで機能しているかは個性とよばれ、その変異の多岐と許容範囲な相互不干渉こそ社会系で趣味的かつ功利的にのぞましい進歩や完成された審美性をいざないこむ理由。結局、愛想しか社交気質の追求では得られまい。この道理は経済文化の本質が、その時点で平均な心身の協調さへの商売の場面での感じの良さとして程度の強い選択に過ぎないと知らせる。即ち奉仕知能自体は特殊能力に該当できる試しがなく、そこから人類社会は特段に遺伝的進展をみないだろう。
 以上の論旨が理解できれば、かねてから人類が国家をつくってのち社交界で商業気質を程度こそあれ忌避しようと試みた主要な意図も明るみに出る。社会主義や共産主義、及び原理主義や国粋主義の定式化という特定場所での意図も同じ起源をもつだろう。それは嫉妬や侮蔑の感情を含む、生態的にはもたざる者からの表徴層への足の引っ張りでもあり、同時に全体的かかなり定まった群れの一般に国と呼ばれているかいた域にのみ適合できる様な囲い込みによる権勢奪取の方法。
 人類が定まった群れを伴う限り程度あれこの政治行動は残る他ない。さもなくば草刈り効果による種内多様さは十分に実現されず、他の群れとの競争では分業制の遅れから不利を被りゆく確率が高くなりゆく。
 条件者が権利という武器を用い得るのもみなこの政府が実現していればこそだが、権利の確保には持続した政治参画がどうしても要求されるなら、どの道 人類がそれ以上の生態を生み出すに当たっても架空の経済圏とみたてた市場規模な政治圏の国視か国見は、少なくとも趣味面では残されそうさが高い。どうにせよこの圏域なくして社会生態内での高度な形質分化は進まず、よってアジアで中華思想が本質で持っていた国家主義は、ドイツかプロイセンがローマ帝国へみせた敵意と似てその母系の広さと規模に於いてしか正当化できない。もし狭い適所での覇権が実現してもそこで獲られそうな変異幅の少なさは、生態と形質を奇形化させる丈。要は世界国家の実現は神のみ許されるとすれば、神の次官か第一の僕と名乗る正当さのある国の領域は、幾つにせよどこも許される経済圏で羽含む条件の多岐可塑さに至る。いわば共生か協調以内にある個性の増加が国の定義であり意義。この旨に反する全ての全体主義は滅ぶか淘がれるのも当然。知能の定義さえ同等の理由から多元化されえ、ここへ当てられる能力は純粋理性、自然知識かその比例の数理的に詳細な認識による理論知性のみに限らないだろう。惑星間知覚基盤差が之を実証できる。

ソネット

ゴミ高生は煙草しか吸わない
親のカードを盗んで自販機で買った
新品のそれを毎朝毎朝校舎裏手の土手で
学校のベランダで、子供手当てで吸う
なぜこんなクズどもに俺の税がつぎこまれる?
九州女が薩摩クズみたいな
低知能すぎる餓鬼じみた我が儘で
こんな事態を全国一律で進めたっていうのか?
そいつらはまったく世の役に立たない
帰宅部を速攻でえらび、朝から晩までひっつくだけ
死ねばはるかに世の中がよくなるただの害虫類
国税つぎこまれてなにをしてるんだ、この虫野郎は
できるだけ湿っぽい場所にすみつく煙草虫の若人は
今すぐ睾丸ごと切り取られねばならないのだ

ほら、あの女の高校生みろよ
だれもの目の前で抱き着いて、
口うつしで食べ物くってる豚
単純にいえばノライヌ級
まったく羞恥心などありえない
ゴミ漫画で育てられた人類以下の理性
ほらあ、手術しないからまた発情してる
金さえあたえられればどんな汚泥にも染まる
どぶねずみよりきたない不浄の生き物
そいつらは意味不明なミニスカ制服で
朝から晩まで人前で発情し
ゴミ虫漫画をよみあさりながら金だけを喰らう
生きているだけ悪い、ゴミあさり虫が。
「女子校生」と呼ばれるそいつは今日も残飯を漁る

宇宙外生態学

光海付近の各宇宙系周縁部では光波浪ひかりハロウがみられる。その運動は、周縁部の方が光海自体の深度(つまり虚空間としての引力場潜在量。いわば情報と化し各現象に潜んだ内部運動可塑性か意欲量)に準じて浅い為に波動が盛り上がるから。
 光短波は周縁部に波打際の現象な表層での騒ぎをつくる。これは光騒コウサイ光潮騒コウチョウサイ、ひかりしおさいとよべる。そして短波は深さの2分の1より浅い時の現象なので、この波の騒ぎは独自の生態としての光波乗りを為せる。もし沈んでも短波なので深部は穏やかで安全な上、母宇宙系からの引力の方が高い付近では流されづらい。但し一部には、別の宇宙系からの引っ張り込みがつよいので沖へ流れる危険性が高くこの危険地帯で波乗り生態はみられない。光波乗りは時間面できわめて早まった景色をみせるので、その生態は少なくとも視覚でいう各宇宙系内での彩りを急速に感知し易い。この体験は彼らの身震い好みの仕業の為、万一落下してのちの浮上が時間面ではとても不覚さが高い(つまり浮き上がれる期間が外部の時間流率では決め難い。遠い未来か過去に浮上する事は、とても深い虚空間に沈み込めばありうる)にもかかわらず、好奇と光速付近での移動の楽しさの一定の理由をつける。彼らは時間焼けを避けるに、できるだけ反射率の高い素材で身を覆うしかなく、そこへ定住した品種の肌は再生速度が極端に高いので性特徴の逆選好のため生まれながらごく暗い色だろう。
 彼らとの予期せぬ接触での事故をさけるには、波乗り場か防波のテトラポッドを主要なみなと辺りには設けるを得る。
 長波のある、宇宙棚よりさらに遠まった先々ではそれらのぶつかり合う潮場に光魚が多数あふれ、漁場を築く多数の光植物界が実存しそう。それらは光速度でのくらしに馴れているので一般には視覚表象しかもたないか、他の機能は極度に退化させている。これらの漁場は、光創造が一定の生態を育み又彼らの勢いを反作用に含む点で闇という概念は宇宙系生態にしか通じないとしらせる。つまり光生態界ではその宇宙系生態にとっては僅差な現象内でごく多様な可塑性と複合や重複遺伝を保つ。もし光文明があれば、そこで闇はしられていないか、知る必要もない。当然引力概念は身近でないので浮力とその光波長間摩擦内で生態を組み立てている筈。

建築部品

電灯、風で揺れるそれ。笠を軽く、本体は最小でLEDは分解した扱い。風を受けてさざめく。接合部はピン。物に当たっても割れない様ウレタンで覆う。

現代政治学

社会主義と資本主義の間にある考え差は、前が「最大多数」の幸福を前置きにするのに後は最高幸福しか特に問題にしていない所。私個人は後しか信じないし、前は経済思想でなく、政治思想でしかもそれは消極的に貧者を恵む効き目のみ。

社会主義は政治思想で経済思想でない、と考え直すのは功利主義哲学が量的それを抜け出す途端に可。歴史でJ.Sミルの登場が決定づけた。社会主義は功利限界を、量的にしか批判できない。

 多数者を救う事は決して経済目的でない。経済活動は団りの人数へ財を分けうるがそれをこえた場面で万能でない。だが、経済活動が圏域での相利共生化の形ならこの姿は最大多数を唯一の目当てとはしえない。
 動物功利主義はいずれ細胞功利主義や有機功利主義に還されるが、それらの過ちは使用単位を主観原則にとり適切に設けなかった前提な公理系ですでに兆している。
競争か消費秩序の体験がとりこみ強さに刻まれて生態系を築いた型ですべてそれら細分化功利説は立証不可能。この考えに基づき直せば、縁起説からきた慈悲の旨もある限度を伴ってこそ善意と目されるだろう。

社会主義批判の主要な的は、最大多数の救済か保護という論旨がすでにして偽善と示せるかにかかっている。
動物な利己さは合慈悲さか慈しみの程が経済圏域の確保にすぎないと消費行動の範囲から教えている。(でないと、宇宙の塵への慈悲と福祉は隣の八百屋へ向かうより功利で、又相対的普遍性に近いことになり矛盾。)つまり動物な利己さは集団行動の限度に群れを目指したが、この行動範囲にかなう時だけ慈悲を合理とした。
だから無目的か無制限の愛や慈しみ、即ちagapeとよばれる神性は決して個々の生態に必須や必然、必定とされない。害虫への慈悲は犯罪者の子孫への注意深さと同じ起りをもつ。それらの現れは嫌悪感か不快であり生態的には忌避行動に至るし、我々は個別と大量の絶滅を通じてすら同様の功利規則を採用するを得る。

 政治屋まで資本経済の万能風を信奉するつよい利己道徳の危うさが社会主義を報ずる者に普き非難の的だが、問題は経済圏に依存せず生計できる理由なき限り、資本主義そのものがなせる奉仕の領分を決して排除しきれない事。乃ち「調整の程」以外に何の議題も、経済政策にはありえない。
この程が高いとき資本主義経済は混合的となり、低いとき放任的となる。くみこみ振り子機能が財政内でたしかな場面で、これらの選びは僅差のみ。故社会主義そのものは経済政策面ではなりたたない。つまり公共議題とすべき案件は単に調整財の投機先で、その将来への複利耐久さ。

この考えは『財投議会政』となづけられ、全て現今の地表で営まれる資本経済下での政治体制の理由はそこ丈。財投議決の監視と参画が民主主義政治とよばれる考えの原点で終点。

奴隷

暴力を肯定した結末は
より強大な暴力で叩き潰されるだけ
野蛮な人間は
天の世界では奴隷だった

2010年6月22日

論証領域の説明

語り得ない事、つまり実証不可の命題か何とでも言える領域の言辞と言い草は、科学命題にとって理解可能性かその地平線を示す役割をもつ。いわば理解不能の比喩は、逆理か背景色として理解されている命題をてらしだす。所謂日常語が数理内で占める働きも同じ。そして科学系統にとって語り得る領域の従順さか柔軟は背景色の豊富さに由来する。結局哲学的か形而上命題の真偽についての公理系は、何れ善悪の標準となる常識界をつくるとしても必ず特定命題にとっての母集合の働きをするししている。善悪が場所の教養体系から導かれた倫理的中庸の謂いな訳もここにある。故一場面での善さは他のとき必ずしもそうでない。
 知識の交換は、それが理念としての普遍語以外を介されれば否応なく冗長さを含む。この上でみつかる独自の規律の他にどんな道徳もありえない。場所毎の倫理命題は大きく質で違う。教養体系の異なりは、求まるべき冗長さを地柄、自然から社会までのある期間定常な環境で殆ど違和させる。道理という用語は日常語にも浸透しているが、この意味は上述の場所観で異なった倫理規律をいいあらわすのに適当。

2010年6月21日

現代経済学の前衛論陣

インターネットで論陣を張っている経済学の池田信夫氏は、国家資本主義の原理なき批判という過ちを看過ごしている。
つまり、国家資本が「私有された土地支配」の権利として国際で前置きされる文明場環境、いいかえれば各世界貨幣の銘柄を自らの保有した地代分の生産性で信用創造内で誇示する世界間取引の間にあっては、国家資本そのものの利点を無視できない。
もしこの意味が形而上学的に理解不能なら、池田氏はまず¥を用いる合理性を失えねばならない(どの国にあれ)。国家資本への依存史はその国際取引のレートを通じた商世界と少しでも関わる間は残像していく。
だから国家資本の銘柄を価格面で上昇させる試み、乃ち「信用取引の元締」志向はまったく功利で、国際的にも財貨の競争遷移にのぞましいといわれる。

 国家資本主義の批判に根拠どころか、理由がない。おそらくその用語を、氏は単なる全体主義か社会主義の末節学理と取り違えているのだ。が多少なりとも分析哲学の造詣を用いれば、『用語の定義』が各科学を含む現代哲学の基礎なのは公理系の可逆律(最小最大則、つまり演繹体系)から理解できる。
国家資本主義をもし字面で通る単純な「国有財産の公的運営の理念」だとすれば、民主政が営まれるどの政府でもこの理念なくして財投政策を舵取ることは寸分できない。もしそうでなくば計画的投機ができないかする必要性を失い、目先の利潤、乃ち私企業と同じ再構築にしか経営の合理性を求めえない。そこでは福祉は成り立てないし、福利厚生もありえない。

より常識級の言葉に訴えれば、「国営銀行なくして如何なる信用取引もなし」。この意味をとれれば、国家資本主義批判は錯誤か用語の取り違えのみならず、今日の市場原理下では偽善也と覚れる;さとれる。
過剰流動性はこの種の超個人資本主義から生じ、景気や共通貨幣を通じた財産の還流にとっては害ですらある、と金利生活費による浮利の銀行負担のいいかえで説明可。
それらの数字だけで蓄えられ弄ばれる財産は、資本主義の本質(余分な資本の使用効率か限界効用。つまり株式市場の出発点であり最終目的)からいえばない方がよい。これが修正派の決定的批判だったことを思い起こせば済む。

サッカー学

勝てる確率を上げるには、頭脳プレーしか目指さなくていい。その為には協会が費用を出し代表監督に専用の研究家を雇わせ、守秘したうえで徹底して対戦国の過去戦歴をあらいだすべき。カメルーンなどアフリカタイプの相手、韓国などアジアタイプのそれ、力で押す北米とそれとはちがう個人技の南米タイプ、千差万別なヨーロッパタイプでも冷静な北部、変わり種に特徴ある南部、保守的中部、攻撃的西部、均質な東部ではプレースタイルも弱点もちがう。例えば日本を倒そうと分析すればまず空中戦で崩せる。攻撃力がとても弱いし、背が低くボールキープも有能でない。全体として引き気味に試合支配率を高めつつ確実な無得点に抑え、カウンター狙いでフォワードはワントップの最前線に高身長選手を据え置きつねにボールを浮かせる布陣をしけばいい。
 常に相手の弱点だけを突き崩し、相手の長所を巧妙に削ぐ戦略を練ってのみ体格も歴史もない弱小チームが勝つ可能性を高められる。狡猾な戦略なくして弱者の勝利なし。

蜩の声

運びゆく霞のうえにさねさして幾とせの鴎戯れ旅立つ
海からの咲く花の香はさねかづらよる年月の間に間に漂う
唐紅しずくのさらにおちるなむ留まることなき波間の馨し
蜩の声きこゆまに月落ちて夕暮れのまちいずくに縮むる
あづま戸は事ごとに透く高きあみ藤棚にかくゆめの間際に
起きぬけに聞くまちの轟き響きけるいとおとどしむいそのさわぎに

ソネット

「尽忠報国」と言わせながら
アダルトビデオを売らせまくる天皇
これだから比弱いジャップは
世界中で馬鹿にされて当然
どうでもいいが
東京って終ってるな
君は皇族が愚鈍すぎて
政治の頂点で姦淫奨励しまくるのを見下す
終ってる国、日本
「妖艶な女性に会いたいと思ってる」と
神戸人爺がほざくのを
僕らは心の底から嫌悪していた
神がこの有様を見て
彼らを残り滓なく抹消するのを待ち望みながら

曇った空がはてしなく広がる
そのどこをとっても、終り
神戸人爺が「ババアは死ねばいい」と言う
それを見た若者は「ジジイは死ねばいい」と言う
実際、ジャップは共食いしかできず
新宿東口の駅前でキャバクラのティッシュを配る
完全に劣っている生命体なのは疑えない
その汚れた文化は、奈良出の親分が
似た様なアジア風味を混ぜつつ
自分らの独自性を出そうとした結果らしく
益々わるくなったに過ぎないのに
そいつを「天皇陛下万歳」と暗に洗脳させていた
神が全てをご覧になり
冷静な者だけをお救いになるのは当然

ただの独裁者にすぎないのだが
その一族は、あちこちで金を搾り取る
「尽忠報国」と書いた黒塗りのワゴン車は
耳を割る音量で島中をがなりちらす
日本刀をふりまわす役座界
原爆で消されても、また生えてきた雑草
土地が悪いのか、それは知らない
島の各地に、姦淫風俗をまきちらす暴力団
神の眼はごまかせない
何一つ隠し事はできないお方
この世の隅から隅まで悟り尽くす
その万物の支配者のみこころをなおざりに
お前たちのみにくすぎる先祖の血筋にすぎぬ
あの悪人どもを崇拝するとは

2010年6月20日

すみわけと経済圏の相似さ

質的幸福はすみわけの必要性を市民國家間まで広げる。侵略とその正当化が、植民という形で幸福観への啓蒙か目覚ましになったのはすみわけを功利主義内での趣味観にまでおしひろげえなかったから。もし侵略がのぞましいなら、経済圏での功利に戻る。つまり合幸福さはすみわけの範囲間を使用観でつなぐ。使用観の適宜な応えは相互契約に準ずる別の秩序をなせる。優れた質的幸福、つまり趣味の程が見つけられればそこにはこの秩序、協調の界隈が実っている。

極悪地域

姦淫犯罪を生業とする倭人は、倭人の興味の一類型を示すとはいえ、「地域のすみわけ」を絶対必須とする証。これらを常識化したがる人種と共存すべきでないし、仮にするとしても違う國でしか理性人にはありえない。

 関西と東京という商圏二者は極悪地域として隔離し、他の地域の日本人とはちがう文脈で処理するほかない。あまりに文化が下劣すぎて救う方法はない。すみわけるしかないのだ。
 当然、東京都と大阪府はこれらの一まとめと隔離が必要、そこで流通される情報と知識は、他の地域と遮断するか、最低でも法的に規制するしかない。腐敗しきった情報汚染の一帯は必ず人間性の終末まで堕落していく。

野球賭博批評

他の下らない娯楽よりは心身の健全に益するだろう野球賭博の公認は合理。この非難は、より広い目でみれば馬鹿げており報道陣の偏見の愚かしさしか示さない。

2010年6月19日

資本経営の限度

資本思想の蔓延は確かに、既存の人間性を壊す。それは問答無用の侵略で既にたてられてきた地域らしさを程あれ失わす。地域色に対する資本主義は殆ど類似さをもたない。
最も安価に最高品質の商材を最大限の時間あらゆる場所でひかえた者が資本型経営をひきいれる。そしてこの経過は、一般に団性の正の側面を貴ぶので経営体の大きさへ比例する。

 国際分業はもしそれを続ければ団的交易の社会を最も強い資本化で襲う。と同時に、団性の強さへなだらかに寄った資本経営中心の段階的圏域を形成する。
多くの、或いは全ての資本経営はこの為に、そうでない権益に比べて急速に(逆二乗的に)不平か偏った体制を築き上げ易い。
それらの関係は決して平衡した調整を望まない。社会主義・共産主義・原理主義・国粋主義などの保守思想からの調整が群的最大級で図られねば永久に。

資本主義の風景へのやっかみや羨望はなぜ人々が盛んに競争したがるかの起源と等しい。そういう感情の普くない地域、主に人類の生存にとって厳しい気候の寒冷圏では繁栄は決して資本主義化されたものではありえない。
よしや国家が、その印象操作の為彼らが元来持てる能力以上の繁栄可塑さを成長率として誇示するのは、巨視すれば眩惑か目眩まし。つまりは商業の活発さは彼らの属した地域が地政上で調度人口間の交易が激しい中間地帯にある証拠のみ。

関東

クソみたいな女形野郎が水戸に入り込んで踊る
これが江戸っ子のクソさ加減かと思うと絶望する
何もできず、女の尻しか追い掛けられず、群れる
そいつらはアイドル界をつくっていて、山ほどあぶく銭がある
大体昔はそいつらの下衆さ加減を知らんで済んだ
そいつらはげすなだけに、最底辺みたいな奈落の底で
もぞもぞ蠢いてたわけで、俺とは無関係な生物だった
ところが、そいつらはテレビを利用しはじめた
それでクソ野郎の着飾った踊りで水戸っぽが騙され
誰もかも騙され、キムタクと韓国人観光客がほざき
俺らは最低最悪のクソ江戸っ子チャラ野郎が山手線で
目の前でちゃらちゃらチャラチャラ不倫してる馬鹿さ加減を
いつぶちのめせんのかなといつでも待ち受けてるワケ
神戸育ちみたいな雑魚が、江戸っ子の真似してるワケ

あーあ、腐れすぎてつまらない
練馬のオッサンも山形にげちゃったし
ここいらには、猿みたいな脳の女しかいないので
俺はいつでも背後から斬り崩せる
くだらない犯罪者をあちこち捜し回ってるのよ
おっと、勘違いしちゃいけないんだなあ。当然
これは例え話でしょうに。いうまでもないが
サムライジャップなんか雑魚スポーツしかできないし
何の価値もないボンボンでしょ? 素で
いやはや、オッサンどもそろそろ飽きてきた?
この世に何にもない。クソみたいな天皇が
働けば働くほど大金持ちになり、居直りまくる
笑えるほど得体の知れない巨大な石造都市の足元で
俺らはその頂点にいる外道を叩き潰すだけ

実際問題、お話にならない
奇兵隊内閣とほざくどっかの単細胞生物
おっぽっぽ、おぽぽぽー。おっぽ
あららら何した、勝手にずっこけてる長州人さんよ
なに? 関東なめてんの、そのキタナイつら
単純に言って、お話になりえないのよ。
法人税軽減とほざくお山の大将どん! やっぱ
その脳容積も、西海うまれの功徳なんですねえ!
ん! どうした、ほらイジメじゃないよ
ほらほら歩きな、その足元におちてるものって
俺らのつくった罠なんかじゃなくってさ、マジで
単なるきみの前世が蒔いた種じゃないか! ほーら
これが自業自得って話。お前ら
随分前にここで、俺らの先祖を撃ち殺したんだったね

みんな

たったったぬきのタヌ夫さん
どこぞへゆくのか森のした
小川のほとりで腹鼓
たぬきはゆっくり夕涼み
きっきっきつねのキツ子さん
どこぞへゆくのか林ぐち
化かそうおばばを簾でさ
さらさらちりゆく藤の華
こっこっこどものドングリちゃん
どこぞへゆくのか丘のもと
ころころころりん夢ごこち
起きたらあらあら道のうえ
ちっちっちいさなハマギクさん
どこぞへゆくのか砂浜で
なにみてさいてる月の空
真夜中さむいぞ傘あげる

功利主義と趣味

質的幸福の定義は、知能原理を精神性の快さへあてている点で地球型偏見をせおう。この偏見は、幸福感が類的にきめられた質へ還元される面で絶対化できない一つの空想か仮説。幸福の質は、その功利哲学内では趣味とよばれているが、類的普遍さが定義されない間どの趣味も基盤から違う。量的幸福そのものは有名なベンサムの計測法でかなり細かくいわれる。所が質は異なる。かのミルの命題「満足した豚より不満なソクラテスがよい」は象徴のいいかたな丈で具体的な行為規準をいくらも示していない。たとえだが、ソクラテスという言葉で示された対象が不満ながら豚以下の罪深い行いをしても当人の錯乱でしかない。こういう詳細にわたってミルの定義しようとした質的功利の原則には不足や不十分が大いにある。中庸的功利性の謂いな趣味の定義にしても、属した大多数の社会集団が豚のごとくなら、啓蒙への向き自体が随分ちがっている。
 私の現時点での考えでは、より良い趣味は、アリストテレスによって理性がそう定義された如く人類としての特徴をさらに進化させゆく方面への啓蒙について言える。そして知能行動とみられる全ての高度な建築的誇示は理性的動物に至って複雑なので(カント判断力批判で索巣性か索居性といわれた非社交的本質はこの総合の為に邪険な故、人間性の本性とは思えないか、定義しづらい)、我々が祖先種から引いた目的も、文明内で実現すべき高度な心理戦がより壮麗な建築界を形作る所にみつかる筈。理性を宇宙と数学的秩序の共有した建築規律とみたてた古代ギリシアの賢者は、神という用語に煩雑な意味しかあてえなかったとはいえ、現代以降の精神が世界適応を図ろうとする上で必須の創造者の模擬を仕立てていた。最高の知能、但し使用者思想面でみれば全能ともなり得るそれはいうまでもなく、最高度の建築家に違いない。我々が想像できる宇宙の平原も、この創作家の見立ての内では適応可能な地域となる。理性が各種の知識の総合の謂いなら、趣味の定義も理性の良さをさらに高めようとする人間性の定義に還る。
 具体的建設にあってその際に示される演劇の趣向も含む理性の良さは、実際には縁起体としての全生態および無機環境の各個性を本質で捉え、それらの十全以上の調和度を達させようとする指導力に至る。この指導へは計画の高度化に入る程益々難しい複雑な能力を要求される訳だが、人類が文明社会を用いて行おうとしている正にそれこそ高度な社交界の円滑な組織なのだ。
 複合性についての選り好みは、経済圏に於ける理性を人類内での競争的遷移へ現に宛てている。故功利主義の理想がめざす的も又、地球型生態の法則知な個性を活かした合目的な建築。そして国家はこの為の最小単位で、一般に文明圏は国家相互の関係に云える。地域文明圏のみならず、競争力を含めた如何なる自由にあっても、個々の理性は主観原則に叶う宇宙間での建築業態を見る。且つ我々地球型理性の本質が当然、消費順位制を含む様々な個性間の協調にかけてこれらの指導を図ろうとするのは自然か必然で、というのも日々彼らは種々雑多な趣味のよしあしに囲まれているからだが、質的幸福も又、彼らをとりまく時空間での感覚基盤を選び抜く精神性に関する限り彼らの知能行動のよさとその伝承にあたる。

2010年6月18日

近代国家

肩書ふらつかせてやってくる
ヤンキー
まったく勉強しない爺さん
若いとき東京で遊んでたってさ
偏差値教育の奨励
わははは終ってる
学歴みせびらかしつつ
威張りながら仕事もできず居直る
職場の重荷だって誰もが知ってる
なんだってこれがあの
早慶戦かい芥川賞で猥褻小話ごっこの
はいはい現世の勝ち組を誇っても
子供の目には見える
生まれつき悪い
別にどうでもよかとばい
あららまぁた勘違いで殺人傷害だ
テロリストだって誰もが知ってる
ところが公家の下心によりそう悪徳で
業は溜まる
神の眼に見透かせる
この宇宙の有様には何もかも
当たり前の理由がある
ほらご覧なあの壇上で
居直ってる山口からきた人のつら
どっかで見たことあるかと思ったら
やっぱりか
まぁた暴力で政権を揺らがせる
悪意の中核が西から来るのか
清らかな河川に
流れくる濁った洗剤の泡
経済発展を目指させた代償
僕が小学生んとき遊んでた川だ
泥々のそこはもう
誰もよりつけない汚臭のどぶで
こうして少しでも眺めていれば
まるで不審者扱いで疑われる
何の人と小学生が言う
僕は昔その小学生だった
まだビルが建ちはじめて間もないそこは
透き通る水のずっと流れてる川岸だった
西日本出の人がテレビで馬鹿騒ぎばかりする
それを見ている皆は同じことをする
悲しみの声さえどこかへ行ってしまった
どんどん田ん圃がつぶれ大型小売店が建つ
南の皆さんがあの汚い大都市で
懸命に働いてつくってきた品々
有り難く頂戴しますと言わせたいところだが
僕は昔その畦道を手を引かれて通い
蛙のこどもが跳ねるのを楽しんでいた
誰からも忘れさられた側溝のふちに
咲いているたんぽぽの花が星の様な
球になった綿毛をとばすのを見て
蛍があたりを飛び交うのを喜んでいた
テレビCMのスーツで着飾る芸能人が言う
私たちは地球と環境のために尽くします
自動車が排気ガスをまき目前を走ってく

2010年6月17日

鳥獣虫類

京都からでてきたゲイシャさん
大都市をめざす南蛮虫さん
つぎつぎ発情しながら
犯罪で金を貢がせるのが商売

早稲田をでてきたチャラ男さん
あちこちで交尾するノライヌさん
つぎつぎ発情しながら
品性下劣な不倫罪するのが商売

あーあつまんないの
西日本の害鳥がどんどんこっちくる
ほーらみてご覧
あれが馬鹿過ぎる芸能界だよ

テクテクてくてく
ボクらが歩いてく
その道のそこかしこで虫の鳴き声
あ、あれがうわさの源氏物語皇族か

国民

まったく知能のない節足動物
みたいな高校生が、どんどん現れる
そいつらは15才で発情し、喫煙し
何の意見も聴けず、日曜に国道を暴走する。
ところが驚く勿れ
そいつらの父親も母親も
それが普通だとおもっていて
何の罪悪感もなしにそいつらを再生産しまくる
そいつらの両親は
15才のとき、やっぱりそいつらだったのだ
何の学業もできないのに
繁殖行為の肩書を得るため高校を出た
そいつらの両親は節足動物みたいに
理由のない繁殖行動を続ける虫だから
なぜそいつらと同じ島の同じ国で
自分が暮らさねばならないか
そいつらが絶滅し
山奥でこそこそ暮らすならまだ分かるが、
そいつらは神経というものをもたず
15才で発情しては発狂しつづける
そいつらにはこの世の意味が問えない。
ムカデの様にざわざわと戯れつつ死ぬ。
僕は15のときそんな奴らが
最低の動物だと思っていて、
実際、殆ど遭わないで済んだので
二度とそいつらと同じ世界には至らないと信じていた
事態が最悪なのは
両親がそいつらの一味だったということ
もしこの両親が死んでさえくれれば
僕は邪悪な前世からさらに遠ざかれるだろう
そいつらが次々おくりこんでくる
最悪の虫類とくらさねばならない世界など
何もかも不幸すぎる。
何一つ希望のない地獄だから
僕は大都会のまんなかで
同じ様な現象を見た
こいつら全員死ねばいいのにと思う少年は
この世のどこにもあふれかえっていた
救い様がないムカデゲジゲジ連中につめこまれ
彼は合法的にそいつらを処分していこうとした
ところが驚くべきか、悲しむべきか、法をつかさどる
そいつらの親分が日の丸を背負う独裁者の血族だ

製品改良案

扇風機やエアコンのリズム運転改良のプログラム。
1から10までの持続コンマ秒を指定後、各選択から消去法で別の数字へ移動。結果的にランダムな気流にみえる。

2010年6月16日

道の溝

意図のない言葉の上にちる花火
さりげなくさるものいわずばらの花
どこへでも駆ける足音する梅雨よ
眺めせるうちへも建つは蕗の薹
云雀ひばり鳴くカミナリ雲のもとに水
くぐもれるふきわたる風ある日かな
威張りける者は伐られり竹垣だ
かわりゆく天気と鳴ける野良猫よ
いつのまにすぎし日々あり雨傘よ
午後なれば幾重にもなりし雨雲は
月照らす夜半のうみへ散る松葉
降りしけり時は儚し岩虫と
断崖にめざす日ノ本鳴る潮騒
蟻の餌生業終えし蟻の餌
ひとけなき朝の田圃へ響く鐘
我先に急げ商いこがね虫
不良にも不良は見える毛虫界
テンテケと毎度たのしき豆腐屋さん
産み落とし後は知るかと鬼の島
ぐみの木の亡き後に居る物置だ
大磯の海岸線に逸る浜菊
佐倉の湖畔に座る幼稚園バス
ねこのこの泣き声ひびく夕暮れにゃ
クラリオン意味のわからぬアパート群
すがしき風に舞う山萩の雫の庭
気づかれぬ僅かな絶景あり小橋
自動車道息のつかれぬ遠出組
子供の頃から走れる道の溝知りし

財政源のありか

日銀の債権を完全国有化し、郵政改革をこの領域へひきこむ中で政府の実質的に利用できる財政所得を便宜上増大させるべき。
この説明が回りくどいなら、単純に言って『国立銀行系の金融預金を政策用に援用する』知恵が、現時点での有効需要の促しの財源としては最も合理。もっと有り体にいえば、政府が世話してきた銀行の残高は公有物であるとみたててしまうのがいい。

こういう政策態度は、おそらくアジア圏での経済的没落の危機感のない「欧米偏重」型の自由思想家には理解不能だろう。しかし、日本が戦後とも特殊条件下にあったのは、はじめから日本の高度成長には(近代化が実質的恐怖政治による官から起きた運動だったことで)公共投資の前提があったことによる。
それはアメリカでは後発した知恵なので金融の自由化(金利操作を含む財産私有化の放任)こそ流動性の為に最良だと思われているのだが、儒教的・農耕民的風土にあっては、大多数の市民は貯蓄性向がつよすぎるので、端から公共事業を前置きにしないと殆どの貯金は固定資産化するに終わり、富裕層の節税対策に猶予をあたえてしまう結果になる。
 日本の場合は、金融体制の大幅自由化はかなり遅れてしか実現できなそうだ。もしこれを慌てて行うと、格差社会を言い分にして社民主義系の躍進があっという間に起き大多数の勤労者は、少数のただ乗り層(主に女権論の狐の皮をかぶった社会主義者ら)のために将来世代が負担する国家内税収前借りというたちのよくない損害を被る。

なお海外へ預金先が流出するという危惧を持ち出す者は、税収という形の身のある残高ではなく、預金の実用的還流という意味が銀行業の収支勘定で理解できていない。
つまり、経済学的には「虚数の収支」を金融業の国有視で導入するを得る考えなので、既存のケインズ級の文脈を米英現代の財政知識だけで説明しようとする所に誤りがある。

生態多様さの批判

多様性が即生存確率の保証という理由は必ずしも真でない。進化一般に対して競争の果たす役割は、消費順位でより複合された生態が他のそれより適応形質面で可塑性が高いという細胞間協調の程度にある。延長された表現形といわれる文化素で、更に自らの形質は自然状態でなせる恒常さの限度を広げる。確率と競争の間で取引される生存益は恐らく等値化されえる。
 多様さは、繁雑だが全ての万能な指標となるべき生存価値でもない。その繁りは遺伝子資源量と目され、対してより消費の階梯を高く登りつめた生態に纏われた建築面での多様さか複雑さは、文化素の質を築く。いわば文化素質は生態系のある段階で発明された生存益の可逆化理念。これらの関連は、遺伝子流路の多岐が文化面での脇道を通ってさえ何れ理由になるともしらせる。つまり文化素質の合目的さか選良さは顕性化された遺伝子資源にとって、可逆率の割合で自らの功利さを主張する面では、法則生態内での特有の適応気質。名誉感情が我々の文化素質の原型なら、この理由は縁起則一般の根本命題と同じ因果へ還る。法則生態がのぞましい功利さを原型質に求める傾向あるかぎり地球型の生命諸子は同様の原型をえり好む他ない。そして同位生態の発見に準じてすらこの気質を生態初期か生計面という発生系統により近い感情領域で維持する筈。

2010年6月15日

関東圏の報復心

現閣僚内には前政権時に功績のあった生方氏の名がない。之は関東武人への侮りに思える。政権を奪って直ぐに西海への凱旋を果たし悠々としているのも間接的な関東圏への軽視にしか見えないし実際にそうだろう。

閣僚内に実績の高い人物を容れず、卑怯きわまる薩長藩閥もどきの前政権からの同乗者ばかりを宛てているのは恰も関東人の伝統政治への当てつけである。こういう下賎な手前に少しも共感などできる訳がないではないか。

 奇兵隊と名乗るかつても今もテロリスト集団の内閣など全く尊重も尊敬も得ない。口先ばかりの女流閣僚でのマスコミ対策など見るも無残な堕落である。
閣僚の情実人事を行える西海人らへの卑劣な贔屓を早期修正せねば、無論その下賎な天引き集団諸々を即座解体せねば今内閣は少しも立ち行かない。卑劣な者へ付き従えば付き従うほど日本は悪くなるのだ。

2010年6月14日

財政処方

人員削減によってすら政府の累積した赤字財政がぬぐいきれず国債に頼ってしまうという状態は、結論をてみじかにいえば「公務員の浪費体質」が景気の底抜けになっていると示す。
儒教の風習が上と自らをみたて、人民からの無制限の搾取を正当化させたがってきたのは、絶対主義が中央集権への経過で要求された時点での合理性にすぎない。
より端的にいえば、行政員を含む公務員が省庁内や社会で給与所得を特に注意せずに使用しつづけると、赤字国債の累積が将来世代の国民の適切な債務感を壊し、結果としてはふみたおしを前提とした侵略戦争遂行目的へと責任を転嫁する独裁者型の労働者代表が政権を奪いやすくなる。

 もし現時点で深刻化をさけたくば、次の施策が最も有効。
 まず公務員の削減のみならず、有効需要の拡大の為には「金の溜まり」となって全体の景気促進をそこなっている大企業群から想像できるかぎり最大限の法人税をうばいとらねばならない。
もしこの法人税収がないままで有効需要の促進政策をいくら行おうと、消費者そのものが使える金銭をもっていない時点では奉仕労働の過度に陥るほかまったく景気回復効果はない。つまり労働者群を奴隷化するに終わる。
 つぎに得た法人税収の過半を、社会不安の軽減となるできるかぎり公的耐久財となる投資へあてねばならない。より簡明にいえば『大企業法人の箪笥預金を民生分野へ投入』するを得る。この結果によってしか、偏りきった金銭が消費性向のある生産者へ還元されることはない。
具体的には成長産業なのは疑えない宇宙開発や科学技術の創造的資金を、冒険企業の誘因として需要開発するのが賢明。さらに詳細には将来の民営化をみこした前衛な研究所の設置、省庁ならびに公的部門へ設ける最新機器の競争発注、発明助成の為に懸賞制度を予算ごと透明性を最大化しつつ民間委託する等。

もしも以上の施策が不可能か理解不能のため現政府が意味のない法人税の軽減などの愚策をつづけていけば、まちがいなく超少数の大企業上役以外には貧困・労働貧民化・再構築の被災がうたがいない近い将来となる。
そして政府自身は、感情的となった有権者、特に女性の目先の損得計算にけおされて、赤字財政を先行きなく延長させる擬似福祉国家化、いいかえれば公的費用で教育・民生・介護を全面的に特段の計画性なくまかなわされることになり、国際的には財務と文化学術への預金の両面から無限な将来世代への負担増をなんともおもわない知恵の足りなかった足手まといのために勢いをなくし、後進ならびに中進国へ転落するだろう。
より直截にいえば社民主義国としての面目を中途半端な迷い人の姿としてますます露呈するに終わり、先進諸国の企業活動から陣地ごと侵略されゆくだろう。
 経済学の感覚があまりすぐれない反論者は、法人所得の増大が相対的縮小市場下(つまり急速に工業化されすぎてしまった開発速度のおそまった国)では必ずしも消費主体の単位な家計へもどらないことを見落としている。再構築を本来と異なった意味で用いている習慣をみよ。
修正派の洞察は、「管理価格下での寡占法人の独裁化」をみおとさなかった点では先見的だった。もし法人税の考えがなければ、企業の構図は流動資本の絶対量を限りなく減らす。学的に極端には法人の国家支配とやらに至るだろうし、それが公共の定義となりそうにない。

ソネット

性欲しかないゴミ虫女が
子供手当てとかいう九州馬鹿の
口からでまかせを利用して
繁殖しまくる
「死ねばいいのに」が口癖の
中学生はいつも殺気立って、
抑圧しかしてこない
頭のとんでもなく悪い暴力教師を、
心から怨んでいる。
それはそうだ。誰にも言えない様
揚げ足取りつつ密室で幼い生徒を殴り蹴り
気が狂ったみたいな飲み屋の娘が
どんどん繁殖するのを奨励する
この最悪の国柄ではな

君は生まれついて絶望してた訳
そりゃそうだ
馬鹿しかいない国だもの
救い様がないよ。消す方法がなけりゃ!
はじめからそう教えられてれば
地元にかえってきてどんどん給料搾取する
あの自称教師の俗物どもから
散々だまされっぱなしにはならなかった。
僕は必死でこいつらの
追随をふりきってきた
どこまでもずるずる着いて来る
ヘドロみたいな政治虫
そいつらは威張りちらしつつ
君を産んですぐに働け働けと奴隷扱いだ

なんとしてでも
こいつらの息のねをとめるがいい
こいつらの害毒でしぬほど苦しめられてきた
君になら分かるだろう
こいつらの習性といえば
暴力、発情、性交、賭博
ほかにはまったく何もない
猿以下の劣った生き物、ゴキブリジャップ
こいつらのあたりまえな非行で
散々迷惑をかけられながら
だれひとり味方もいない中
必死でいきのびた君なら分かる
なんとしてでもこいつら邪悪な生命体を
地上の善の為に消してしまわねば

倭人警察の至上命題

猥褻物陳列罪と公然猥褻罪、売春罪は理性という物に致命傷のある東京都民に任せているかぎり、そこで発祥したろくでもない企業活動もろとも永久にとりしまれない。
よって地方県議で先んじてこれらの罪悪を盛んに撲滅するのが合理的となる。

 たとえば漫画雑誌などをこの条例違反で陳列したコンビニや書店は、報償ありの通報が行われ次第、(2010年段階で金百万円単位の、経営に致命的となる損害が出る単位以上での)賠償、及び経営者含む従業員の逮捕抑留を行うべき。さもないと永久に東京発の愚劣な企業で各地の風紀が乱され続けるのは目に見えている。
 次に店舗型の組織の場合、暴力団とのつながりで周辺市民に非難できがたい体制をつくりあげている最悪の商売柄が殆どなので、県警本部に撲滅対策本部を設け化学兵器による襲撃を含めて突然に襲撃する必然性がある。
摘発時に従業員の女性も塵一つのこさず徹底処分せねばならない。これらの女性は出自及び現行法内での最低級の振る舞いから犯罪人格を警官への懐柔でごまかす確実さがある。(なお従業員の男性も当然例外でない。)
生活保護より犯罪を選ぶ人格へ少しも妥協はいらないし、実際に肉体労働者は働き場がなければ生き残るためには少しなりとも理性を用いざるをえない。
 未成年への犯罪行為は、ツイッターなどで通報された途端に現行犯逮捕を行える体制を、各地に分散した交番を利用して即座に情報配信できる様ととのえるべきだ。学校へ連絡すると倭人の村八分習癖では隠蔽するばかりで何もよい結果がでない。
よって最大限その悪徳を公にし、警察署での詰問のみならず性病や人身売買その他の悲惨な末路を啓蒙させる特殊設備へ親へ連絡の上、数日間以上抑留する更正組織が教育委員会と協同か、もしそれが手間取りそうなら最低限のアドバイス程度の協賛で急いで営まれねばならない。若者には先があるので、全てに優先してこの設備が最優先されるを得る。

宇宙物理学

光河に対してそれらの大幅に広まった適所か隙間では光の海か光海が、宇宙系間をつなぐ河川同士をさらにつなげる役割をしている。光海の中身はきわめて速められた時間のもつ仕事量により、その一定の流れにある潮汐はおもち型周縁の増減では波の動きを伴う。無限に対して、光海は時間的にはほぼ極限近くでの挙動をし、要は運動に於いてごく短期間に限りなく広がる。認知できる宇宙系間の隔たりは、光海間の旅費か観察精度で分かる。限りなく広いという概念か考えは、人知が光量の概念によっている点で偽。光海自体は宇宙か世界での一つの自然物理なだけで、そこへ感覚基盤を限界づけられた生命にしか分からない世界だけが実在とはいいきれない。いいかえると光海同士は必ず他の世界か認知できる陸と接点をもつしかないので、仮に光子(真空効果で反引力子と見立てた隙間についての定義として)が伝わりえない世界にあってさえも、実在しないと論証するに十分でない。
 ところで時間は空間を走る光子への引力からの抵抗に依存するので、光海での潮汐は隣接した宇宙系の影響で説明できる。そして引力は各宇宙系の中心圏からの距離に依存して指数的に増減する(万有引力の法則、F=GmM/r2から)ので、光海の海岸近くでの光量か運動の激しさ又は荒れ方はこの隔たりが大きい程にそこでの文明圏からの移動か働きかけを差し引いてすら穏やかになる。
光海の荒れ方=引力場の大きさ\中心からの距離-文明圏の荒仕事量
これは大きな引力場では必然に、花火効果の密度は時代的か時系列の単位や規模でくらべて少なくなるので光の溜まりが外延部へ掃き出される割合も少ないから。

公道の警邏

騒音の誇示をふくめ迷惑走行をするバイクや自動車(珍走団と呼ばれる異常人格者ら)のとりしまりには、市民へそれらの走行をみかけた途端にツイッター等で直接県警その他の地域警察の特殊部隊へ連絡可能にしておき、即時に偵察衛星等の情報から囲い込みをはかり走行行為関係者全員を逮捕軟禁してしまわねばならない。
公道の事故は流通面でも美観面でも国土交通の障害で、これらの甘えさせは何一つ社会の公益に類さないばかりが害毒しかない。

2010年6月13日

芸者民

地球中にあしき頽廃をまきちらす芸者京都民。

2010年6月12日

農学

一般に、食糧製品の生産性が向上しなければ他の分野との通貨価格で衰えつづける筈。いわば、優に田の面積に対する単位生産量がふえる余地をもたねば広大な面積をもつ他國の農業生産に比べ、輸送費用をさしいひいて不利となりがち。
(単位生産量:(面積当たりの農業生産高-輸送費))=食糧自給比率
この公式で得られる対比がその場へ出入りする食糧の中身。そして数理面で言えるのは、面積当たりの生産高自体は巧みな付加価値計略によってすら、國土面積当たりの適切降雨量に勝る場面は希だろう。輸送費は略簡単に詰めれるが、面積比はそうはいかないし、建設した高層の人口農地の様な展望も、農作物が土によっている間は経済面でかないえない。結論は、特定か平均農作物の適切降雨量地帯で耕される面積比が、単位生産量で他地域より遥かに高いとき以外は、ある時期をへて寛容貿易の旨に法り確からしく他の産業への転換を余儀なくする。尤もこの中途にはそれなりの収穫高が残りゆくだろうが。全ての商業気質はこの利潤を、起こるか見えない将来の市場の縮小された立場より貴びたがるので、具体的な農作物市場では一見するとこの見解と矛盾する状況が程度あれ続くが、それは一時的にすぎない。
 これが語る所では、広い耕作面積の保ちえない全ての適所では、ある地政世代をへて自然に農耕は趣味化する。いわば観光以外の目的で営むを得る農業体制は、少数か特定世帯の専有事業となり、他の業務は非農耕の旨へとかわる他ない。銘柄化などで付加価値化を進めるのは次善の策で、そこでの生産量が一定なら極めて特殊な作物、たとえば特産品と言えそうな固有の気候でしか作り出すのが難しい天然か品種改良済みの農産物についてより他は、みな加工食品系以上へ進むを得る。猶この経済力学的性質は漁業にも当たる。漁猟面積、つまり他の業者との好ましい関係内で漕ぎ出せる漁の可能面積を同じく捉えればよい。

道徳定義の改訂

道徳体系はみな不可逆かつ特殊。普遍道徳は、カント哲学の批判となるが、ありえないだろう。実践理性はいうまでもなく、純粋理性も知覚基盤が属した法則条件に大幅による。反復か廻りの理念をもつ必要ない生態が想定できれば当然、十進法も無用か煩雑で或いは幾何学も解析的には成り立たなくなる。いわば純粋理性的経験が属する知覚基盤の下での法則を有するか持たせたがるのは、民族の教養度にすらその感覚への規制に違いとして示されている通り。宗教の原典が読まれえない地域にないのに、人々は場所からの規定の方を、普遍法の理念より優先して目の前の生活を営む。結論をいえば、カント哲学の理想はのちにシェリングを通しヘーゲルへ引き継がれた当為に於いて誤りだった。理性の種類は質的に異なり、各生態間で必ずしも共有して行けない。この認識は、普遍国家が不能で抑々そもそも自律国家同士は経済圏の要求に応じてしか協調しきれない、という場所毎の自治了見の意義を照らす。地霊がその場でふさわしい形質への見守りなら、場所らしさが呼び出す姿はどの時点にあっても特有のらしさをまとう。
 之らを鑑み、人類での実践理性と純粋理性の違いとして定式化された理知の区別は猶特殊経験的。それらの差は、特に功利系が道徳性と区別された際に生じたらしい。カントがギリシア思想の名残を引いていたのは、学んだ対象がアリストテレス等、もとから幸福主義を理性の形而上学へ求めた学派からだった故。いわばアリストテレス学派自体、ギリシア市政で疎外されつつあった自由市民らに好まれた思想家が自らの道徳を一般科学以上の体系へ仕立てようとした痕跡としてのみ見つけられる。
 この道徳という用語の対象物は明らかでない。およそ教養からの必然な認識の確率、程にしか道徳定義は見つけ辛い。道徳は群生規則の方法論なので、この母公理系は殆ど対象集団が社会内で得た世界認知の形によりがち。道徳法則の個別さは群生の風紀。この風紀に必ずしも同じ命題を宛てえないのは、群生相互が適応すべき環境かそこへの移住を事とする迄拭えないし、かくあればこそ多様さが生態系内での調和度の増大には見つかる。
 一般に、社会的ダーウィニズムが弱肉強食をうけがってきた訳はそれが思想家の適所にとって望ましい適応行動の規律だったから。より具体的には産業革命以後の近代イギリスでより迅速にほぼ同位な他の西欧諸国を出し抜く必要がここで求まるべき共有化された群生規則を、プロテスタンティズムか清教徒のもつ職業召命感かcallingで説明できる。宗教的選民思想が大量の工員を要する特有の産業体制と結び付いてこそ、植民侵略の正当化が起きた。
 この理解は凡そ近代の倫理意識そのものが一義的か一意なもので、普遍さや永久の真理と必ずしも一致しないと教える。とすれば、アメリカ合衆国の自由もこの社会的ダーウィニズムの延長上に建てられた思想の仮設建設物なのが分かる。
 単なる倫理否定な相対道徳観でなく、場所道徳観が建てられるを得る。この道徳観は相対道徳観も含みつつ、隣接以上で関わらざるをえない領域同士を経済圏の調和できる範囲で協調させる。

けむしの兵隊

けむしの兵隊さん
うらにわのみちでかくれんぼ
あっちへゆきゆきこっちへゆきゆき
あそんでる
けむしの兵隊さん
こどものけむしはかわいいぞ
ぐらぐらゆらゆらがらがらむしむし
みちのうえ
けむしの兵隊さん
うまれたらすぐにあるきだす
ちいさなむしむしあっちへふらふら
おちそうだ
けむしの兵隊さん
おとなのけむしはおおきいぞ
ころころげらげらけむしのおはなし
あそんでる

現代経済学

資本主義の問題は、誰の為に営まれる社会か、という点で一つの完成をみる。最も中産的な者が恵まれる社会は内的増加か再生産率に己を特徴づけたい、外交上の訳をもつ。資本経営の最適さは中産層との量的適合にあるので、之は増産できる品物が消費されたがる市場の趣味か嗜好とかなっている時のみ当たる。
中産資本主義は人口増の謀な丈。つまりそこで増大したがる層は、確かな生存率の低さを世帯量で補いたい。我々が彼らに同情する限りで自治体は中産資本の優遇を旨とする方策へ阿るだろう。
 私見では、「知識資本主義」は他の体系よりも資本原理主義の中核を占めるに最もふさわしい。もしこの他に構想されるいくつもの体系を採用しても、いずれは知識資本の故に放擲される。勝利を収めるということが生き残りの為の目安なら、前衛か先駆けを心掛ける進歩的思想家は必ずこの領分付近を用いるしかない筈。

例えば宗教資本を国建ての基にした集団は、常に改めて作り直す体系に弱い。比べて、知識資本での新興の試みはたやすい。この違いは資本原理の核を、いいかえれば他より優先すべき財産をどこに求めるか、少なくとも進歩人らの内で重視するかによる。

 知識資本の欠陥は、おそらくその偏差からきた後発の不平等化にありそう。例えばIT読書の知識が遅れた集団を、時期に応じて事実上不遇にする有様は想定可。
要は学習の民度が偏りを設ける限り必ず後天的不平は広がりゆく。だから怠惰を自由化したい世界観や場所では、決してこの種類の資本思想は浸透できないか、うまくゆかない。
もし知識資本の功利が現実的なら、その場は勤労の意欲が偏差を前提として示され易い環境条件にある筈。だが、この体系が行う実践は、おそらく他の全社会体系でのものより文明の旨を推進させる力では偉大。

正論

アダルトビデオ生産國の元凶、東京都の知事である石原慎太郎は威張る前にその低俗すぎる都政のとりしまりのぬるさを罪業に思って国会へ送り込んだ子息こもごも出家すべきだ。
全国へ悪影響しか与えられない劣等首都の知事とその下劣な遺伝子が入った子息など二度聞くのも悍ましいではないか。

なぜ誰の目にも害毒な産業をちっともとりしまらない? 理性というものがない人物がどうして知事の職に就ける? 完全に終っているジャパニーズ、罪深さを自殺で処理するしかない憐れむべき猿まがいの劣等人種。この首都の次元では!

2010年6月11日

夕凪

過去から未来までを貫く
一筋の閃きを辿る光
どこ迄も底抜けに明るい
この世の上を走る光
誰の為でもない
一人ならばそれは
おそろしい形相の
鬼火けどいまでは
誰からも忘れられた荒涼たる
仙台の崖のうえに築かれた墓場に
その残り香があるだけ
疾うに過ぎ去った道の上
人からはきらわれた杉林が
語る海風の物語
誰の眼にも明らかだろう
この世をこえて
どこへでも延び行く
あの宇宙船のそらは
水色のあかねさす町の上
だれもに信じられてた真は
きっと気のせいって
あっという間に忘れてしまった嘘
小さな貝殻にこめられた大海原の唸り
走り去る大地に息された酸素は
そこから生まれ来るいのちの源
昔はそうだったってこと
海の上に浮くぼんやりな望月
だからって日が昇らないではないのに
限りなく澄み渉る冗談じみた自由と
自転車がすべりゆく道を見よ
誰のためにも正しい答えが一つだけ
あるとしたらそれが落ちてる
深海の底のみにくい光景を
まるで自分らを見返す様に
おもいかえしてみよ
だれも京都への修学旅行なんて
そんなどす黒いいやな気分だ
何度行っても拭えない浮ついた空気と
国家の独裁者の血族が住み着いてた
その腐った臭いが拭いきれないから
天王洲に架かった橋の上で
ぼんやりと昔を思い出す
私は以前からここで
綺麗な物を集めてる子供
とても小さな物から
大宇宙の席取りまで
いつでも勘違いばかり
あなたは忘れてしまった
私は綺麗な物なら
決して見落としたりしないのに
宝石から貝殻まで
小川のせせらぎから七夕飾りまで
私の眼にかなわない
珍しさはない
でも忘れてしまったあなたは
私が大切にしていた夕凪を

2010年6月10日

商品開発

蚊取り線香を細いタイプと太いタイプに分け、標準タイプとは違う用途(窓辺などの小置きと大型店舗や旅館のロビー用など)に。

宇宙物理学

七夕宇宙系はおもち式の増減を伴うかぎり必ずや他の隣接以上の宇宙系との連環かやりとりを起源とも現状とも終末ともする。つまりその存在か実在は縁起的。逆に孤立系ではありえない(計算科学下での仮設定理でを除く)。ゆえ七夕宇宙系はそれがもつ質量の程が他の宇宙系とのやりとりか経営で増減する限りの存続可能性を持つ。この命は主に周縁圏で光の仕事量となった割合によって重力値(単なる万有引力値ではない。銀河団間の遠心力を低減した値)の消化が起こる分に応じて減る。ところで宇宙系の総引力値はそこにある全物質の量で測れるので、一般に花火効果による仕事量の光化はその寿命にとっては負。しかし、かた一方の宇宙での光はもうかた一方の宇宙にとって周縁部での斥力を伴う摩擦力ゆえ、その仕事量は遠心力への影響か刺激となり、銀河団の運動か運命へ少なからず作用する。結局この光の流れか光河そのものは極めて速まった時間で各宇宙系間の粘着力か折衝に働く。完全孤立系としての宇宙は、その宇宙系間物質が想定不可なら偽。

地球生態学

消費生態が彼らを抱える生態系へ与える影響は常にその消費生態の順応性へかえってくる。これはめぐりと呼べ、又循環しない生態がありえないと示す。高次消費かそれに伴う雑食は草刈り効果のもりあげな丈。乃ち生態内縁起とみた消費関係は生産一般への反作用を伴う適応。廻りくる再順応は消費生態がその母体制へ与えた影響に準じた果を結ぶ。消費生態自身の生産さは基本として混沌度への反作用とみたてれば、外部化できる秩序への可逆化反応の増大にみなせる。廻りの結果は可逆化の程度が、どれ丈の経済を伴うかによりそう。もし不経済な生態があれば同種間競争のため消え行くか僻地へ追い立てられゆく。
 もし廻りに必然さがあるならそれは好ましい消費生態が築く法則性の増大の為。廻りよい消費こそ、そうでない乱雑な粒子か規則に対して地球場での転回への順応かあみいれにはするどい。縁起体としての地球生態で適応化したどの個体群も同様の好ましさある。それはみのりと名付けられる。稔りの好ましさは最も廻りよい生態を精選させる、地球が置かれた環境条件を抵抗値に設定した。再生産されくる各種の果実は太陽放射や月との位置関係に影響される潮汐からの廻りゆきへ適った秩序を結晶させ、それらを摂取したがる動的生態は、又季節に伴った発情と繁殖の連環をきっかけにした好ましいみのりとの適合を図ろうとした。が規則正しさが即みのりよさなのではない。季節や気候がそうある如く、曖昧な変動を含む一定巾でのくりかえし変転する環境条件こそ稔りくる生態の理由。

飲酒の程度問題

理知の発達に欠陥のある倭人の社会で、飲酒による泥酔の習性は特に、退行した惑溺に陥りたがる達の優れない風俗産業と結合し易い。この習慣化を唾棄させる条件づけは、自治体の方針として公共福祉の旨にとって有益。

「泥酔禁忌法」は以上の為に合理化できる。その採用と同時に、一般的な抑圧への解消の策として各種競技施設や宗教設備の充実(或いは宗教法人税の軽減)が図られれば十分。
 公または家族へ迷惑を与えるほど泥酔した場合、通報によって現行犯逮捕か抑留、与えた公共側か被害者への情状に於いて罰金をとるといい。

製品改良

遠隔で扇風機へ首ふり調整機能をつけるには、ひきぬき式になっている首の裏にある取ってへ電動の上下動できるマイコンを設ける他、上下の首の調整へは首の根の部分へピストン状の圧力で運動する機構をつけくわえコントローラーのボタンをふやす。
但し、ボタン数の混乱をなくすべく一回押しで左右の長押しで上下の調整をさせるか、十字キーでかえる。ことなる挙動音と類比させること。
 事故防止へは、上述のピストンは最大でも弱い力での挙動に抑える。

2010年6月9日

客観原理の徳

誰も自らをこえては世界を理解しない。社会で営まれるどの生業も同じのりの元で世界への理解の程を示す丈。主観原則は宇宙内で置かれた生態地位の見渡しを、この全霊か官能の域で修める。
 人類の言葉は、全ての感覚か気づきや物事をあてられないし、語彙分の秩序度がその表せる程。世界がこの理解された自由の程度問題なら、主観間のやりとりはその気づきへの何らかの形や形式による。分析哲学の理由はこの共有できる形をのぞむ姿で捉え直す為。いわば客観原理を確かめるに有効な議論のみ。共有の定義が主観間に共にもたれるに足る規則やのりなら、客観さはこの巧みに依存する。人類自身のもちえる全ての主観は、何れ客観原則を自らの何らかの感覚と類比してしか見つけださない。
 もし客観原理のありかを探れば、ほぼ芸術での完成された形式が他者との間で同じ主観な能力をもちつける、という名づけの才覚に。言葉はこの一つで、全て命名はこの世へ言葉での気づきを与えるがゆえ他の感覚にとっては認知か知覚の領域を示す。分析哲学が知覚客観を全理由とすることはない。もしそうなら、言語学で十分。知覚に対して他の感覚が、異なる競争場で優勢とならないとはいえない。言語学の巧みは知覚が重要な能力だと示せるが、分析の対象を現象の総体へ広げ得る分析哲学の内容と異なる営みな已。主観同士が現象から得た感覚を等価にやりとりできる証はない。この意味で地球型芸術の形式は決して普遍かその中央でもないだろうし、いわゆる中央さも相対的か比べてしかみえない。理由づけか合理化の才があたえる世界認知の内容とは感覚基盤にそう何らかの現での体験や体感。趣味主義に対する機械生命と異生物の権利も同じ起源で処理できる。
 主観相互が知能と目される能力のみにこの認知体験を有するのではない、とは法則知以外の知識や知能も又同様の権利で担える証。人類の世界に対する関係は、機械生命の権力の内にある。故生態地位から見た不可逆さの高い命は自体に自己法益を宛て得る域で丈、理由づけられる。機械生命の権利は、人類風知能と似た以外の生態へも当然。客観原理の実用さは、人類風のそれ以外の主観を感覚基盤間の共有できるのりに於いて認められる仮定にある。

生物学

おませ(早熟化、progenesis)はそれが内的増加率か再生産率への適応として示される限りで真。だから、ませた能力は全てこの適所以外では用いられないか不適合となる。一般な性成熟が全て適所で用いられる能力、乃ち遺伝と獲得に及ぶ目指されるべき形質と比例した延長をもつなら、中産的な限りでこの適所に余力がある。この中産形質は自らの中継さの誇示の為だけにさえ、早熟な適応を功利とする。

目覚め

誰も昔のことは知らない
すでにたくわえられた山盛りの
星屑はここで待ちぼうけ
してしまったいつかの
雷の鳴るちいさな隙間を
さがし求めたに違いない
きつつきは夜中突然に
木々から落ちそうになる
だからでもないがすでに
きのうは終って今日がきた
第一よのなかはめぐる
運命の侭に
駆けめぐる万物の中で
目が覚めた

2010年6月8日

野蛮ジン

野蛮ジンはわさわさ踊る
そんで威張りまくる
野蛮ジンはときどき泣く
すると目茶苦茶に虐めてくる
ボクらは野蛮ジンに囲まれて育つ
誰の所為だか
都会でわんさか踊る
野蛮ジンはつまり居直る
この宇宙のはての島国で
いつか居着いた奴らの
楽しそうな踊りはゲロゲロ
ボクらは野蛮ジンから育てられる
単純な話だった
ボクらはどこでも野蛮ジンの一員
笑っちゃうくらい下らない
あきんどゲームであすもゲロゲロ
何をしても威張りちらす
野蛮ジンの中で泣き叫ぶ
救い難い野蛮な民族の中で叫ぶ

異科学公理系の証

自然法則の着地はそれが特に人間原理の地球型側面を含む点で多大。自然法則自体は、一定の圏域と体制化された自由でしかえられない。法則知は地球型理性の一形式のみ。自然法則に対する現代知は常に一定量の認識理由を伴い、それは常識界をつくる。常識界は他との連環で教養量感をもつ。教養量感は何れ単独でえられないし、計測できもしない。自然法則に対する社会行動内での独自適応は、場所で習性になったこの量感が複数個性間に及ぶ時真。もし万理にとっての知識気勢が同様の規律、いわば固有の社交さを定式づける為の手順なら科学の知覚基盤依存さも明らかになる。故異科学な公理系は当然。それは法則型以外の知覚もできる場所適応の策で、常識界毎の転回を得る必然を負う。

2010年6月7日

まつりごと

正論原理主義とかいいながら
関西系の猥褻物を撒く昆虫ヤロウ
若者が間違えなくなったとほざいて
東京都の頂上から皇居を見下す虫が
ぶち殺すには十分でない
まだ十分に奴らは馬鹿をやった訳じゃない
僕らは十二分に力を蓄え
奴らが後ろを向いた隙に叩き潰す
遠い時代ここで同じことが起きた
奴らは愚かすぎてそれも知らない
当然ながら悪は滅びゆくもの
遠い昔奴らは威張りながら
僕らの先祖を足蹴にした
その同じ場所で
大宇宙がどれほど広く
あらゆる現象を包み込んでいても
君は見逃さなかった
世界で行われている偽善者の踊り
マツリゴトと言いながら
金をまきちらすそれから威張る
糞女がdisる終ってる人生
どこまでもつづく下らなすぎる
経験された人間業なんて
遠い昔自分が国立あたりの
多摩川に架かった大橋でおぼえた
独特のにおいの嘘
君がてのひらに置いたその花は
火花になって消えて行く今
だれも死ぬまでは肉体をもつ
にも関わらずそれは知られていない
川崎の駅前にあふれかえる人の波
どっかになくした鍵なんて
どうしてさぐろう? すでに
万物はかわりゆくさなか
とっくになくした鍵なんて
いまさらとりもどせるものか
だれも生きていて息を吸う
吐き出すその中に魂をこめて
どこへさまよう? すでに
今日という日は暮れなずむ
僕は大宇宙の隅で言葉一つなく
この街が暮れなずむのを見た
どうせ万人が共通した
血を引く一種なら
いやになるくらいうさけらしい
世間にあふれる同類は何だ
彼らときたところで理由もなく
ふえまくる朝顔の種なだけ
まかれては咲いてくる
校舎のベランダを這う陽よけ
だからといってもうなくなった
長沼画廊みたいにすべては
ウインナー珈琲の匂いに紛れた
小さな法則の塊
あの三階の窓からみえた
わずかな町の景色が僕を救うのに

地域分権政論

現東京都知事の原発移転計画に対して地方の県民が彼らよりも安い価格で同県民へ電力を売ろうとそれはやはり合理化できるだろう。
(現実には、立地している東京電力が私企業の状態なので県政上で地域関税を強化し、たとえば「東京都への電力融通税」を立てておく等の対策が実践的。)

 地方の利害を中央集権の悪弊から最大限独立させるのは重要な案件で、無駄遣いや悪意ある用い方で夜通し電力を浪費する下らない都民は少しも尊重されるをえない。そこにもし億万の金銭があろうとそうだろう。
できるだけ素早く地方権を確立する為、東京一極集中の各種の弊害をとりのぞくべく盛んに中央政権へ意見し啓蒙運動をせねばならない。
但し、道州制度は南北・東西の経済格差への上乗せにすぎない(中京や近畿をおもとした経済覇権をねらう官民癒着派、或いは格差社会推進の権化であるいわゆる経団連どもの暗躍による)危惧が以前から誰の目にも明らかなので矛盾がみえるかぎり徹底批判されるを得。

経済生態学

学問での認知は、その発展の速度分の密度で自らの圏域を逆二乗則に基づいて縮めていく。
距離log(発展速度\学問密度)=経済引力
但し、地政的隔離はここへかなりの変形を及ぼす。この例外は所謂特産さの定義。

2010年6月6日

ソネット

禿げ老人が朝っぱらから町をうろつく
そいつらは若者とくれば攻撃してくる
犯罪人格で、金儲けを煽るかギャンブルしかしない
要するに、ゴキブリ老害だ
僕らは禿げの代表が
米英から帰ってきた途端
調子にのってそいつらを武士道で煽ったのを見た
そいつらはつけあがって、暴力をふるいまくる
どうしてこいつらを粛清できない?
死んだ方がずっと良いのはまちがいない
金と権力をにぎった、終ってる油ぎった害虫を
君は心の底から憤るかわりに
そいつらが足しげく通う歌舞伎町の
腐りきった風景画を描くだろう

刑法案

万引きの勘違いはそれを受けた人物へ「不当嫌疑罪」を犯すのに等しい。よって、店頭でこれを行った店側の人物は全く正当でない疑いを与え、客側の自由意思を阻害した程度に於いて賠償または禁固を得る。

2010年6月5日

経営学

同じ費用をかけて人々の需要への期待をしめる差額分の行いに先駆けることは、元は内訳に準ずる利潤の謂いだった付加価値といいあらわされるのが通用。
主にこの費用は人件費と製造販売の間にかかる各種摩擦で平衡する。そして費用としての人件費は、被雇用者の所得へつながる点で経済効果の本質。株主含む経営陣からみて、経済効果は人件費あたりの利得(経営合理性ともいえる)で最適化され易いのでそれが所得分配の為に別の経営体との共生か共鳴の効き目を伴うとは知らない。
経済活動を経営陣の利己性から丈 観察すれば、その「所得分配」への節制、乃ち俗でいう下知さの程度問題。しかし支配率にみた財貨との交換に至る何らかの商材が彼らの目当てな限り、そして富への理由が財産にとっての見せびらかし欲求にあると仮定すれば、この下知さは経済活動そのものの本質に反する。

専ら経営の目的が(経世済民という古語から引かれる)最大多数への最高度の快さの敷衍にあるものなら、趣味主義哲学の理念と経営の本質は矛盾する訳ではない。そこでえられるのは財産が共同体の資料として、仮の私有域に留めおかれている、という感謝の返礼なこと。
奉仕への還元が当然さしおかれる礼金の謂いなら、付加価値に対する人件費の割合は、常に経営陣にとって最大化を要する儲けか社会貢献の理由。この値次第で所得分配は進み経済規模が自らの経営の為 広がる余地がある。
結局、費用にみた経費内での工夫がその企業の達として、投資の誘引剤。次世代への途上で企業の与える印象は発展潜在さ分の所得分配の割合による。
id/dp=ci
id:income distribution
dp:development potentiality
ci:corporate image

2010年6月4日

生態理論

人類が自らの生存を保障してくれる共同体との協調をのぞむのは、孤立した生態ではえがたい分業の功利をえるため。趣味観は彼らの属した共同体規則や条件に映る。もし違う生態規則が複数林立できれば、それらの生態経済が十分故。趣味主義的最高幸福観は、この点で客観原理に補足を要するだろう。各主観は自由権を彼らの理でもつ。が主観やあるじの在りかでそれらの異なる様に応えた幾つもの理同士は、結晶できる協調や互譲の段階を趣味観に於ける相互関係として保つだろう。いわば最高段階は弁証法の内部組成としてそれらの主らへ一定の秩序を生態界でのやりとりに含ませている。そして一つの最高段階という理想は、結局どの生態も個性を全体な宇宙内で伸ばす他ないから必ず協調か捕食であれ、相互関係を伴うものとなる。人類が天敵なき時代に思い描いた神から与えられた支配な地位という考え方は、最高幸福への宇宙との関係をより客観視すれば欺瞞を幾らか含むか少なくとも思い込みが入っている。神からの言葉、という知覚基盤にとっての想定は、神概念か神という思想の伝わらない世界で有効とならない。機械生命へ神のない世界を構想するのは容易な様に、全知全能は主観と趣味との当為理念に対する開きなだけ。人類はこれらの変容可塑さが、ある時代に到来しても驚くべきでない。国連が銀河系の枠組みをこえても、猶同じく互譲の習性が生態地位内での必然な位置づけとして残されるか、残されざるをえないのを我々は予想できる。法則型知性は比例関係の詳細な分析を通しても、社会をこえてその応用範囲をみいだせないのが証。つまりデカルトの二元論での仮定を退けて神の孤立を想定しても、それは理念にすぎない。この神概念を我々は古代宗教と共通の抽象神か黙想神となづけられる。対して、顕れうる域での神らしさは、具体神かより日用できる語彙で精神とよべる。精神は具体化した神性の部分形と定義でき、その人類が理想する全能さとの隔たりは時間内で担える創造能力に依存している。現実に、機械生命の緻密化の先々では、再創造の程度で我々と略類比できる生態は可逆化できる。つまり理念な抽象神は人類が知覚基盤をその能力の想像できる最大級へあてる限りで出現か空想される一つの言語概念か語彙。だから、我々の先祖や異文明が想う程度の神性は宇宙のどこかでは実現していて、接触やその直知は生態秩序の延長可能さか末永さと望みによっている。最高知能と宇宙創造以上の能力をになう抽象神は、それらの具体的能力に関する限り具体神に過ぎないし、我々のどこかの子孫がこの段階の精神性を経過しないとは到底断言できない。後生畏るべし。
 よって、共同体相互に似た唯一神を立てていても、それらの抽象神らしさが異なる可能性ある限り我々の趣味一般もやはり互譲以上の理由をその弁証法以降の展開へ要するだろう。唯一という概念は、共同体間の背景な知識か教養の程や質量を担わせそれらを比べさせるに十分でない。乃ち抽象神性は全て主観原理の枠内で納まる。客観原理的抽象神性は、これに対して知覚基盤の経済をこえてやりとりされえない。現代、人は経済利潤への動機をこえて協調したがらないのでこの協調度はその侭 共有したがる経済圏と合う。つまり教養背景の折衝が同じ芸術形式の元で可能な域しか、抽象神性が語彙に於ける超越概念の交遊として起こり得る訳はない。

汚れたゴミ人虫の国倭奴

ゴミ人虫の国倭奴
倭奴は産み得だ! と言う
産み得だ産み得だと言い
公然猥褻犯罪で億万長者になる
そして汚れが次々交尾する
ゴミ人虫の国倭奴
倭奴では老人が威張りちらす
金も権力も持ち、頭は底無しに悪い
家庭でも学校でも職場でも若者イジメ
死んだ後で墓に泥を塗られる老いぼれ倭奴
ゴミ人虫の国は今日も平和だ
そりゃそうだ極悪淫行犯罪の倭奴だもん
死ねばいい人虫倭奴は今日も世界中であぶく銭を落とす

2010年6月3日

地域経済学

資本経済と比較生産費説に乗る国際分業の推進は、少しは地域圏の旧来の生態秩序を壊していく。合理性だけを基にした経済は商誘因の為のみでも最安で製造と販売できる、つまり統べれば発展できる地域をえり好んで行く。他方で自由主義思想か寛容と個人主義の、或いはまた功利主義の浸透し易かった競争力への民族性の強化がはかられてきたところ以外では、無論そこは発展できる圏域とは考えられないとして、何らかの共同体からの所得調整が益々必要となる。
 一般にこの経過は消費者の欲望と地域への魅了による人口の増大に依る。それらの吸い込みか誘引がつよいだけ消費生態の増す地域は少しより経済秩序の芽生えが強調される。
 もし発展できる地域、乃ち繁りの地がそうでもない所に比べて定義されるなら人口の流入分の魅了が高いといえる。
人口の流入\魅了=発展潜在さ‥dp
dp: development potentiality
 同じ費用で同等以上に魅了できる商いの末、繁りの地あるいは繁地での消費生態のくみかえが絶えず起こる。もし社会主義系の調整趣味の思想の為上述の共同体からの要請が強まる所では、このdpは意欲で低まり、乃ち世代間か成員間の抑制因のゆえ経済活動へ消極化する。
 きわめて魅了が高いが何かの原因で人口比が低まりつづける土地では経済性が特殊な型へと変えられる。特産品の可能性は主にここへ依る。逆に魅了に比べ人口密度の極端に高まりがちな所では、上述のdpが減るので衰退する。衰えの地での人々の消費生態は経済活動が縮小すること、つまり生産流通できる品物が余りに汎用化して人々の購買や交易に類さなくなったので必然に規模と商いさの訳あって減少してしまう。

2010年6月2日

地域権限の原則

県外干渉の禁止か県政独立を新たな条項に盛り込んだ各地方のすみわけが要る。もしそうしない侭なら租税率をふくむ様々な法的自立がさまたげられ、地域同士の個性の発展をいわゆる東京偏見で歪ませる結果につながるから。

2010年6月1日

人類生態学

女性が目先の損得に従い易いという指摘は、もしそれが真だと実証される余地があれば、過去の人類の生殖行動時にこの発情へのつよい淘汰が係ってきた事によりそう。情緒か感情への女らしさとの文化素面での連環も、同じ起源をもつ様に見える。女性がもし他の文化圏より理知的な場所があれば通常の再生産誘因への逆淘汰、つまり環境要素の為の社会淘汰が起こったと見立てえる。
 全て人類界へも一般の生物界と似た起源が十分あたると仮定して、性染色体 含むどの人類も雌をその主体とする。雄性はこの変異巾に対する場所で効き目ある何らかの競争力についての特徴を強調させた個体な丈。よって人類が女性からの受け入れか選択を、社会場からの習性の変形が文化面で起きていなくば通常か自然としていたのは略疑いない。幾つかの宗教がこの自然体験への規制を理性からはかったのは、自体で社会適応の策だった。人類の強壮さ一般は女性に顕れる、と考えるのが合理。もしここに弱体化や、適応力の減退という意味での奇形(但し、特定の環境下の支配的習性下という仮説か主観な条件つきで)への前兆が示されていれば、それは特徴からの魅了の不足や種内競争の必然により自ずとへっていく余り有効でない変異への淘汰率が高く見積もれる男性間のそれより致命的だろう。
 乃ち女性が感情からの、或いは損得からの自身の性選択の種内傾向を免れないこと自体は自然で、過去の人類が増産か多産を至上命題とし繁栄をはかった証らしい。集団防衛と大規模な耕作圏の確保には国を要する段階へ我々の祖先の文化が進んだ時、幾つかの宗教で民衆へ伝えられてきた様に逆性選択の誘因、つまり男性からの計画された婚姻がより有利な事情が現れた。特に私有財産がこの決定的条件づけだった筈。結果、文化面でみて男性は、主に多妻か一妻の間で別系統の生殖秩序をはかり、そしてそれは私有財産の分量にかつては略依存してきたのだが、以前の社交段階でよりも国の中で様々な遺伝種を生存させられる様にした。階級や名誉の制度(栄典や授賞)がこの特殊な専門種への褒章として、自然な生殖体系では生存しづらい多くの遺伝子を社会淘汰的に保存したがるのは例。仮に自然状態として無限に同じ条件のつづく再生産適所な大陸を目の前へ置こう。人類をかつて数万年の間でえられた遺伝構成の侭この場へ数百人放置してみれば、必ずや内的増加率の生存戦略として、女性からの損得を目印にした生殖体制が主眼に築かれ、同じ適所が無限につづく限りこの再生産体験は彼女ら自身の感ずる幸福としての生産欲求の為だけに際限なく連なるだろう。我々はこれを通常の社会状態でも微視的に、各女性の成長の初期にいわゆる過去の世代がへてきた系統発生の由来らしさとして普く観察できる。野生環境で望ましい能力がそこでは盛んに賞美され、発情の有様は獣類とかわることなく同類内で騒がれる。羞恥心が存在する様になってその自然状態へ規制をかけるのは彼女らの成人が近づいてのち。
 これらの論証は、人類が社会環境を自然の用意した適所への文化適応の様として形作り、その場での再生産率指向への何らかの規制をおもに男性の才能の為にはかることで、我々の知る文明圏を創造してきたと理解させる。私は宗教の為にこの理解が不自由ではない、と考えるし、実際 人類の思想の範囲内での自己尊厳は逆性選択の為にさえ侵されえないだろう。
 結局、社会環境が逆性選択の条件。そして雄間競争の人類版は文化的競技をその主要舞台とし、技術・勤労・公益・栄誉等のそこでの獲得要素はみな形質の誇示一般と類比できる。富へしばしみつかる侮蔑といった文化内での面白い考え(なぜならそれは生殖の為の自己利益の自然ではありえない)はこの為に、即ち同類への中長期に渉る関係として、その貢献や自制心の競争的淘汰が起こりえるのを雄間または男性間協調性の故に、特定の文明社会場でのみ証明している。希少価値な共通貨幣かそれに類した欲望の的は、富の誇示の決定力だから、多くの文明界でさえそれは他に特徴のない中産層から熱望されるだろう。そして自然状態で想定される通りに彼らの一握りはそれを手に入れ、通常の古代生態と同様に順性選択な強壮でまさる女性を惹きつける。しかし全ての条件は永久の固まった生態地位を約束してこなかったので、彼らがその場へ最適化したがる限りで我々は古代人種やそれに類した孤立した末裔が、既存の主要な文明圏とは隔絶した地域で場合によってこういう野生状態、即ち自由恋愛と現行でよばれる順性選択の経験を保つのを見るかもしれない。
 婚姻制度への儀式化の程度は、彼らの逆性選択の完成された習性を順繰りに女性そのものの成長過程へ編入させていくので、地球の主要で広い文明圏からのちの世代では発情というかつてみられた本能をごく短い期間、おそらく最も身近な男性か家族の一員への愛顧か思慕として維持するだけだろう。

倭人の服装にみる適応類型

倭人の高校生の内女子のスカートの丈が極端に短くなる時、そして共学の高等学校だとこの割合は比較的高い様だが、その社会か社交場では肉体の魅了で何らかの適応を図ろうとする傾向がある。逆に流行のため長いスカート丈を好む時代かその教育的社会では、精神性の強調による適応が目立つ。前者は教員や共学の時はその場で社交を図らざるをえない同期の男子の高校生へ、主に視覚からの肉体の女性らしさをできるだけあらわにする行いによって、攻撃や暴力への抑制を無意識にあれ意図している。そういう女子学生は自らの服装のだらし無さで早熟化させた性行動への誘惑や犠牲とひきかえに、日頃顔をあわせざるをえない同期の男性陣から優先保護される権利を重視している。逆に、後者のロングスカートが流行した社交場では、その生殖能力のあるかめばえた未成年男女がまぜいれられる余り類のない環境での性行動への抑制が、そこで多数か優勢を占める男性集団からの優しい扱いを図るに適応的か望ましい抵抗であり、いいかえれば精神の魅了で彼らからの保護をかちとろうとする。
 これらの傾向は、早熟型社交と晩熟型社交にとってわかりやすい二つの類型を示す点で、幾らかの興味深い社会現象。過去でも、或いは渡来前ゆえスカート丈に限らず別の方式で同等の流行による社交適応があったかもしれない。又その生態は、倭人が男性陣の興味の程度に応じた自らの服装をきりかえる点でいわゆる生物学でいう誇示を人類がその文化素へも適合させている証。しかも我々にとって重要なのは、この適応は逆選好が人類社交にあって日常の証拠な事。