2010年6月29日

国家主義の再考

国連主義に比べて国家主義は、もしそれが単位な個性間の流動さを増す目的のみで捉えられれば、地球外適応にとって部分最適の先鋒でありえる。つまり国連主義の狂信は決して全面な正義ではない。国連主義外交は地球内覇権辺りで適切な位置取りを維持する方便か工夫のみ。実際に国家主義自体は、それが世界大戦級の悲惨を及ぼした点で嫌悪か忌避されがちだが、外交の国連主義原則に比べれば本来の生態的利己か功利に素直な面でより健全。成功した国家主義もこの世には存在し、個人が有能だったのでその国家は民族状態を戦利ですら維持した。つまり個人主義的国家主義は世界市民的国連主義よりは外交のみならず自由本来の意義な進歩した生態の隙間開けへも適切。この個性はとても遅くなってからしか実現してこない全体主義体系よりいつも部分最適の功利さへくるまれ易い。
 細分化国家主義の向きは、英共財や米州制を鑑みてもこの部分に思え、より自由化された諸系列では本来の道徳は規則な法案の理念に還る已。普遍道徳は、細分化国家主義へ向けてはありえないか副次。逆に複合化国家主義の系列已がその立場を掲げる。
 もし普遍道徳があとの立場に戻りたがるなら、当然国連主義の的は同値。且その質は、事実上の国家代表ごと討議制度へ近づく。もし地球内での統合された法規がまかり通るなら、正否をとわず首相代議制をとるしか。
 とはいえ全て利己さの免れない人種と民族状態間の利害対立はこの立場をたてる過程でも国家単位以下の合理さに担保される。よく治まった統一意思を何らかの討議の結論として正しい手順のみで主張できない国は、抑々創設まもない連合代議界に参加しづらい。全ての経過は法治の程度が個人主義へ還元されるという昔から述べられてきた自由化の工夫に還る。そして国ごとの単位も許され得る自由の程に、そこでの最低限度以上の相互干渉への注意深い回避に進歩した理性を還す。いわばよく慮られた社会でのみ自由の現れはある。それは法規が衝突する利害を事前に予測していた程度故。