2006年10月31日

性差文化論

淑やかさが既に、欧米文化の摂取で散逸されて久しい。一般論として男子諸兄自身の卑しき理想が堕落させた為、性差は作られている。そういう理想的な選択性が事実、性差を社会的に定義して行く。
 だから今日の神らしさが性的でないのは自然である。

芸術論

自分の拙なる過去の作品を破棄する方便、寡作であるほど希少なのだから、功利より未来の歴史的価値を重んじるならば君の制作物自体を積極的に捨象せねばならぬ。時代が君に追いつかないうちが機会なのだ。自身技巧の成長に伴い、過去に手を染めた己の下らぬ作品を可能なだけ破壊すべし。それらを滅多なことでは散逸させるな。既に行われた場合には諦めて然りといえど、強い意向がなければ安易に譲ることもあってはならぬ。業績中、最も優れた栄光と信じる一点についてのみ養護せよ。

智恵

哲学は道徳律の創造。我々は絶えず哲学することなしに、善悪を分別するいかなる規則も見い出せない。

2006年10月30日

写生

美しい時は過ぎて、旅先の店は静かに閉まる。奥に舞う女は夜を経て移る。月が僅かに照らす風景には様々な生活が反射する。自然は人間に格差を設けて、種類の遊びを調節する。
 鳥は、やがて明ける地平線のうえの雲を追い駆ける。事物は順序に応じて変転する。
 数知れず愛情を育み、溢れ落ちる魂の群れ。
 建設を続けていく地上の風景にはどんな確定もない。神様は誰のために世界を創りあげたのか。
 四季をうつろわせて大衆はかなしむ。空は七色を微妙に混ぜ合わせて笑う。何の為に。
 繁殖を繰り返す生き物たち。海辺では打ち寄せる波が絶え間ない音楽を奏でる。蟹や人手が生態系を営んでいる。
 雲は太陽からの放射に溶けて、緩やかに曲がる水平線を曖昧に均す。昼月がぼんやり、薄氷の残り香みたいに天気を象徴している。
 言葉は世界を再現する。理念界と現象界とを文によって通訳する。
 時代を経て遺された感慨は文化の記録となる。われわれはそれを民族風紀のなかに積み重ねる。雨音は久しく、秋の夜長は優しい。
 雷が静寂を破って暫くすると、寝室には沈黙が戻った。罪のない子供はいないのに、否応なく、再び虚を衝いて彼らは誕生するのだ。
 章は気がつくと顔を洗って外に出た。東雲は歪んだ円錐の貌を取って棚引いた。
 山奥から繋がる習性として彼は社会に参画した。秘密は次第に慣れて、運命は老廃を選ぶ。世代を代謝して文明は進む。
 雄飛する烏の一羽についた目玉は光線を機構に接して視た。
 世は退屈を諦めて、溜め息をついた。さらさらと笹が流れて夏空を浸した。

2006年10月29日

分業

「学術家は悲惨である。彼らは清貧に甘んじてすら屡々志を貫く。われわれ経済家の理解にも及ばない狂気の沙汰だ」と考える金満には、現世内の問答にしか考えが到らない哀れさがあるのだ。
 文化人は己の一生を介然虚無に奉献してでも、永世名誉の殿堂によって血統を守るのである。政治家はこのことを作品についてでなく身代により為す。だから業務に全霊を懸けねばならなかった幾多の商人は、彼らがどの程度の福利を成し遂げ得たかだけを慰めに死ぬのだ。それは彼らの威信を少しも揺るがすものではないが。

経済の理屈

ある文明民度を推し測るに、格差が、経済というしくみによってのみ共存しうるのは確かだ。それは世界貨幣という共有手段を用いて等価交換を定義づける。そして主客の非対称性を、彼らの利己心に可能なだけ公平に取り除く。地球主義も同じく、文化的相互浸透の仕方、つまり経済に違いない。それは結論、知力にこたえて財を分配する役割を意味する。
 調整の策が欠けている事をのぞいて、世界経済は福祉の利便だと活眼できる。

死と理想

死を想えば、理想への献身は必然。

夜明け

雨が降る。時は霧のように空中を舞って、夜を満たす。
 瞳は闇の奥に眠る誰かを観る。静かな波の音が部屋を浸して、彼の寝息を融かし出す。水は光と混ざって空間の密になる。
 魚の尾びれが鼻を微かに撫でて、彼はくしゃみをする。それで夢は醒めた。
 瞳は朝日を眺める。記憶は再生し、懐かしい風をかぐわせる。多くの自動車が走り出して道路を往く。曇り空はやんわりと世界を青味がかかった灰色に染める。
 草木は小雨に湿り、お辞儀を繰り返す。

2006年10月28日

理性という自然

例えば君が思想する事は、理性を創りあげる現象なのは疑えない。宇宙はなぜこのような性質を作り出したか。君達の文明は何の為の物象なのかを問え。理想する個人が知明の散種を以て種内秩序を安寧化する福祉のみが目的? 彼らは同列の人類群から如何にして脱出しうるか。彼らは無形的思索を通じて結局は何を得るのか。所詮は理性に過ぎない。それは神格化の路梯。
 彼らが脱出するのは獣的地獄からであり、神的天国へ向けて進む。我々が思考と呼ぶ作用はこの方途に過ぎない。而してあれ、我々以外に世界を理由づける主体は実在しないからには、理性は人類の自然だ。

爪痕

うち出れば爪痕創る秋の空

自分より知能の低い人物に教えを受けるくらいの人生の浪費はない。道徳度は知能に由来しているとすれば屡々しばしば、傑物が無学歴なのはこの理由による。
 だが、体制を利口に利用して共生する者も少なからず居る。彼らを卑しむに足る証拠に、その地位は死後剥奪されるらしかった。学習し得ないものは才能だったから。

2006年10月27日

徳度

徳(arete)の理性的自律は潮流であり変わらない基礎ではない。どんな文明における徳度も、種内秩序の個性間競戯を示す已故。理性は本能にとって枝葉の類であり、超越的実在ではない。もし地球環境に強烈な生存力を持つ異種が入り込めば、彼らの理性もまた組み換えられる。哲学は人間原理を批判する処迄進む。

闇夜を旅する一羽の烏が観る風景は黒い。宇宙空間の延長にある無際限の膨張が彼を、隅無く包む。飛び去っていく魂。行き先も知らず、やがて死が自らを殺すことだけを望んでいる。
 大気圏を抜けて、銀河団を臨み、物象と真空の間に引かれた動線を超える。海がある。一方にはとわの波頭を湛えた夜があり、他方には語られない沈黙がある。
 だが、彼ら生き物がいかに願ったところで、夢と現の裂目を塗り潰せはしない。戯れよ、と烏は云う。
「戯れよ」
そして見えなくなった。

2006年10月26日

人類

盛んに競い合う地上の欲望が文明という景観をもたらす。宇宙の型として、踊る魂。彼らは生活を組み揚げる機械であり、永遠を想起する理念である。

言葉

差延とは「言葉は意味が取れない」ことの発見だった。それはデカルト的自我認識を批判して。思考という現象形態の不可知性を論証する。われ思うことをわれわれは確かめられない。にも関わらず理想の定義はphilosophyにある。智恵にのみ思索の秘薬は眠る。善さの実践は文明的迷宮の探険にしかない。哲学とは道徳をつくる事。

2006年10月25日

建築論

可能な限り地上を開放することが現代都市のよいのり。内観にも同様。

土地

この土地にしとしと降りきて秋雨よ

竹林

「忙間に在りて自分を見失うは毎度のことだ」
と、長老は仰った。そうかも知れない。
「想い出すが良い。お前の字はわしがつけた。
行き詰まったらいつも、この言葉を記憶の納屋から引っ張り出して来い」
 記憶の中から流れ出したのはこういう逸話だった。そして君は約束の場所で独りきり、途方に暮れている。
 この駅は広い。どこに居ても居なくても等しい様に思えるくらい、土地感がない。同じ単位の反復で造られた無方向な建築構成のせいで、まるでバグったRPGの迷宮の中に閉じ込められたみたいな気分。人影もまばらだ。唯、忙しく動き廻るロボットたちが無表情で仕事先へ歩いている。それでも何とか君は、待ち人に落ち合うはずの所を見つけ出す。君の字は清と云う。村の長老が授けてくれた同一性である。
 迷ったときに、彼の言葉だけを頼りにひいこら辿り着いたのが此処、青い星の街だった。そこは月と呼ばれる衛星の潮汐力で絶え間なく水流を循環させ、この勢いに応じて酸素を送り出す緑葉素の発生から、無数の水棲生物を繁殖させた希有の土壌であった。中央の恒星は太陽と名づけられ、軌道の関係から暫し視界から隠れる。その間を地球の規則では夜と言うらしい。そして最近栄えた陸上を歩く二足の奇怪な生き物は、彼らの巣を暗闇のうちにぴかぴか光らせるのだ。
 なんとも大変に満ちた光景ではないか。私は訳も解らずに笑ってしまったものである。どうしてわざわざ、太陽が嫌々らしい熱度から遠ざかってくれたおのが住処をやたらめったら年中明るくしなければならぬ?
 だが未だ知れず果たして、長老は私にどんな使命を与えたのだろうか。ステーションを継いでニウヨオクという針山みたいな土地に来た。
 ここでは人々が高々と茂った人工竹林の内で彼方此方へたわけるのである。私も例に倣って一本の木に登る。頂上からふいと見下ろすと一望駄尽のもとに世界が悠々と観覧できる。

建築論

建築的眺望が人類文明の神大な審美的達成だとしてあれ、隠遁風奥が別の環境学的桃源であることは不可思議ではない。人間類は概ね体内から育まれ龍頭鷁首に登るのであり、建築空間も両方の極限を再現して戯れる舞台已。
 悟りと安心を生活に於て縦横探検する劇的体験回遊居愁に空間の豊富な質之由来は有るのだ、と認証せよ。

2006年10月24日

読書

印税の喜捨に介在しているのは読書による知的啓発といえる。

工学

半永久にinkの出るペン。入れ替えの容易さ。シャープpencilの替え芯を自動化最小化する工夫。紙の上に落とすものを改良せよ。意図的に消し易く、自然に消え辛く、永久性を持つ印をつける方法。重力や空気圧との関係を突き止める事。

旅行

人間社会に暮らす限り、永遠に桃源郷の余地はない。それでも芸術の士は不完全な世界を尚清らかに彩るが故に尊い。彼らは理想の作品中に尽き果てぬ夢を見る。そして可能ならぬ世界を願って死ぬ。
 地球人類の無神経を気に病み、できうるかぎりの審美的治療を施し、世に披益する工物形態に解して発布する。悲しいことだが、誰もが彼らを敬う訳ではない。何故かなら、美術は自然体に相対する技巧であり、程度の差を催して人民の品格を問うからだ。豚には至極不潔な虫溜りが最高の居場所かも知れない。未来人には近代建築が兎小屋に観えるだろう。千差万別の趣きを呈して人知当然の品性を糾すのは個々人々別々の美学如何に由る。
 こう考えて迄、ふと遠くに眺むる山岳の線を覚えた。斜めに切り込み端間に還り行く夕陽の温度が頬に仄か、暖かい。鈍行列車に揺られる独り旅。向かいの席に座る名も知らぬ老人はうつらうつら頚首を嚇して、残り大してもない時間をこうして不意に過ごし去る。青年は右手に軽く触れた飲み懸けの缶珈琲をかたん、かたんともてあそぶと風景がすっかり暮れた事に気づく。
 今夜の宿は未だ決めてもない。先程から二つ向こうの座席に占めて要に本を捲る暇つぶしのらしき女子のある。荷物の大分ある。私と同じく独り旅なのだろう。
 地方線に他ならず、乗客は殆ど在らぬ。目の前に爺さんが一任、遠くの方に高校の制服を纏う若造が一、後は私と女とだけ。そして時間は刻々と流れる。まるでゼノンの因律のままに。美意識は個別である。無粋たる老い先決して短くはないだろうが、目前の爺やには判らん。夜闇に更けた車内に逸そのこと暗黒が訪れはしないかと秘か案じながら近鉄線は走る。

月の整形

朝昼晩と繰り返し、生成しては命を飲む季節が滔々たる滝のように昔話を流し去った。いつしも、そうして地球は回り続けて来た。昨日も今日も、又明日も。あさっても、繰り返し、繰り返し。
 だがひとつだけ変わらないものがあった。それは太陽と地球との仲良しだった。
 ときどき、二人のあいだに割って入っては関係を乱す物象があった。月である。
 彼女は、陽光の反映を受けてかがやく衛星であり、決して自体でときめく存在ではなかった。だからこそ余計に、ふたりの心徹した信義が羨ましかったのである。
 やがて地球の上ではお祭り騒ぎが始まった。人類が繁殖して、文明を築き出したのだ。
 夜にも消えない光が宇宙の奥までゆっくり届く。段々と力をつけて行動を広げ、宇宙船に乗って近くの惑星に移り、彼らは幾つもの建設をした。
 太陽と地球はそれを見守っていた。別に気にするほどのことではない。そのうち、彼らは隕石かなにかの衝突による環境異変に適応しきれず絶滅するだろう。蟻のような戯れにわざわざ構うほどでもあるまい。
 しかし月だけは違った。白い人類はすぐにやってくる。そうなってから浸蝕を後悔しても遅い。とりあえず月はのんびりくつろぐかぐや姫たち御一行を姉妹星であるパラドックスへさっさと追い出して、ぴょんぴょんあちこちを跳ねまわる兎を一匹残らずひっ捕らえ、みんな化石に変えてしまった。そのうちに人類の一員がやって来た。彼らは拙い物体からそろそろと降りると、一本の旗を彼女の眉間あたりに突き刺した。激痛が走り、手術は終わった。
 すっかり包帯をとって癒えた彼女はもうかつての自分ではなく、どうやら多少なり時代に迎合した容姿へと改造された模造人間であった。莫大な後悔と共に、一抹の希望が胸をよぎる。これで地球は遂に、私のほうを振り向いてくれるだろうか。
 だが物語はしばし残酷だ。観賞の対象として神秘で彩られた過ぎ去りし平安はやがて遠く、ただの切り売りされる岩塊とみなされた商品は、立地という予件以外にどんな天賦の権威をも剥奪されてしまう。
 くるくると回転するだけの芸当を以て今後、厳しい銀河業界を生き抜いていく気遣いはない。かの女は欲望に支配され、やがてその美容をすっかり無くしてしまった。
 太陽と地球は彼女の気持ちを一向に知らない。そして楽しい昼間を演出するのだ。
 宵の更ける頃になると天空に、刻々と表情をうつろわすかなしい風貌が姿を現す。

2006年10月23日

求道主義

理想の中に生きて理想の中に死ぬ。肉体に対するこれ以外のどんな礼儀も見当たらない。
 求道主義が倫理的中庸の極に拓かれる自律の地平であるのは揺るがない。神格的なものへと精神性を向上させようとする思念の働きは、肉体の出来を超脱するが故に正義だった。
 知能が自体を運動する軌跡に根拠を求める幸運に浴して、人は理性に反するなべてのものどもを浄化しようとする。

仕事

君に同時代との心象的隔絶を要請する。

2006年10月21日

建築論

日本の伝統として槇文彦氏の論説により後生権威化された奥性の空間は、けれども、私はその一面を言い表しているに過ぎないと思う。
 男系的なもの、やまとたける的な志、眺望的空間への指向は、包容する秩序にも比して日本的な文化である。
 国見山、姫路城、六本木ヒルズ、伊達藩の国見が丘、いずれも天下睥睨の神格昇華を目指す雄々しい志向の故。奥性に対する眺望性は、空間構成における景観的両極としてわれわれの文化技法のうちに数え入れられねばならない。こも山門やまとのみに非ず、国見の大和にもそれはあるのである。

模範

哲学により知能を自己鍛錬する最終の目的は、理想人の姿を顕現する事により、万世衆生の模範的生物を養う事。

積極的なウィトゲンシュタイン理解

言葉で語りえぬものは言語の巧みが拙劣である一事に原因する。だからウィトゲンシュタインが沈黙を主張したのは言語固有の限界、指示の無形的差延を指し示す一方で、彼の文芸的な無才をも実証している。なべて言語表現しえない観念はそもそもわれわれの思索の範囲にはない。哲学の命題は概念の整理にある。

草枕の抽象

すべて願いは流される。祈りは水に溶けて消えてしまう。どんな不変律もない。そう信じていた。
 突然に光が射して夜闇は明けた。美しいものが行路を満たした。誰かは知らない。恐らくは女が、道案内に立った。それから世界は趣きを変えた。
 恐るべきことは恋愛である。両性を伴って生けとし生きるものどもをなべて浸し、一切を包み込む力。いかなる天才といえども逆らえない暴挙。香りを散らして己の自然を紅葉させる季節に、君もまた情けなく揺られなければならない。
 孤独は醒めた。定められた道筋に沿って一日が始まり、終わる。だがひとつだけ常に、満天の夜空に輝いて自分の全営為を照らす星があった。どれだけ言葉を尽くしても、適当な仮名は選べない。存在を超えた抱擁があり、個人を失くした救いがあった。
「胡蝶の夢、とはよく言ったものだ」
と、仰有おっしゃられますと?
「今昔の腰間をおかして省みるところなき悠久は、あたかも夢とうつつ最中さなかをさまよう行人の如し」
たとえば鶴は浮世に舞って、その白き姿を永遠に留めません。彼らは旅路のあいだで憂い、悦び、鳴くのでしょう。
「貴君もそのうちである。そしてかなしみの大歌を奏でる遊興のなかで死ぬ」
しこうして神様のお話は尊い。だが、彼方あなたは知らない。儚さにしか人間のいかなる審美もないのだ。
 恋人はやがて去る。しかし、それを怨むひとはどこにもいないだろう。

2006年10月20日

文芸論

客観写生をある程度追求すれば、情景文芸が充分に成立することを知るだろう。此は風景画の如何に対応する様な組織であり、専ら印象派以前の進歩的段階に属する文芸手法である。都市の表情を如実に記録する歴史資料の制作方途として利用さるべき技法に違いない。

現実

どれほど懸命に献身した所で、理想は現実を改良するに留まる。

友情

沢山の不要な友達を持つより、少なくない優れた親友を貴重にせよ。

融解

数知れない物語が交錯する夜に浮かんで、己の身をやつす氷は何をみる。

2006年10月19日

遊び化

闘争本能の援用という他に、人類同士が互いに競合しあう理由はない。互恵的協沢はいつも人間関係の条理ゆえ。にもかかわらず、我々は自由な競い合いを遊戯的な本性の発露として必要している。よって、最良の倫理は遊戯的な関係にある、と云えるだろう。
 我々の倫理的実践のすべては、戦闘的衝突を安全に法則化して見物にするような、生活の遊び化にある。より精神的に、より神格的に高められる倫理の矛先は文明度の実現という形を持つものとなる。

真の名誉は孤独のうちにあったろう。

生活

都市を縫うように網の目状に張り巡らされた高速道路が、人体を新陳代謝する血脈の隠喩を構築している風景だ。
 私は、とある超高層ビルの屋上から幾多の血球が全身を潤す所を観る。きらびやかな夜景。無限に続く建設の地平。運ばれるのは情報だ。例えば運命がそれであり、自由がそれである。商品として切り売りされた無形概念群はあたかも、活性剤を撃ち込んだ反則競技者の一見禁欲的な食料のように、市場に巧妙な新しさの仮面を被って流通する。人々はこぞってそれを買い求める。コンビニで、ネットショップで。広告媒体を介して摂取消化されてやがては新たな報道になる。すべては神の模倣なのに。
 都心にあってはもはや季節感を失くした秋風の影響下で私は、ほてった躰を涼しく包む外気に一抹の快さを覚えている。先づてまで繰り広げられた乱痴気騒ぎは心底から沸き上がる熱情を伴って未だ、この胸に留まってある。複数男女が入り乱れて特殊な今を探索するゲーム、まるで未開人の音頭の様に。孤立して眺めればそれは丁度、夢のように曖昧だ。誰かが誰かに当てもなく寄り掛り、語るべくもない戯れ言を並べ替えて笑い狂う。浮世の衆会とはそういうものだよと、望月が君に話しかけた。虚しく、目的がなく、儚い。無意味だ。けれど、なぜそれを楽しまない。
 頭上の星々を眺めよ。舞踏会に興じて今のうつろを慰めているのは寧ろ君達、人間社会だけではないのだ。
 私は片方の頬杖を突いて手摺に持たれ係る。世界はまるで興行だ。昨日も明日も知れず、日々を踊り晴らす踊り子の因果に過ぎない。さあ、戻るんだ。我らの世界へ。現在の空気へ。女が前髪を軽く掻き散らして会場への帰りを辿るとき、視点が消失した闇の先には既に、別の小説が待ち構えている。

都市計画

都市計画とは凡そ法規制の学術であり、実際に都市計画者が計画実行を果たす唯一の確実な法途は、市民啓発則ち教育の領域に見出されよう。公論の勃興にしか都市方向の指導という目印は探れまい。都市を形成するのは文明自体である。然らば、都市計画術的な達成とは啓蒙芸能の度合いに依拠する。君の理想を実現するのは建築法規の改正を導く世情の優勢だから。

2006年10月18日

思索

理論、実践、技術の哲学的古典的構図に照らしまた独自に考察すれば、学術、政治、経済において、経済こそが最も高度の社会的技術を要請する、と云える。

建築論

都市以上の人工造形物はない。総合芸術は都市と成る。文明に審美の余地があるなら、それは都市批判である。

地球学

地球と太陽の関係より我々にとって死活の問題はなかったろう。気づくか否かに因らず地球生命は太陽の子ども。そして我々が自立する時は、太陽に代わる何かを自ら創設するを得る。

生涯学習者

思想をくらって生きる魔物。終点は知れず、知るべきでもない。知らずに過ごすが故に彼らは天使の顔をする。

世界

だいだい色の夕陽が、地表を占める多くの建設物に一様な影を投げ掛けている。今日という日が終わる。地球で生活する昼行型生物はねぐらに帰り、今度は夜勤の番が来る。慌ただしくして昨日を経る無数の命は一体、何を目標にしているのだろう。
 地を這う小さな蟻達は次々に餌を運ぶ。長期間トラックは都市に張り廻らされた脈道を通って又、同じように物資をあちこちへ移動させる。絶え間ない運動の証拠は、深夜の高速道路を満たす光束の投射になって姿を顕す。
 文明は力の暗喩だ。様々に弾け飛ぶエネルギーは目的のない音楽祭みたいに形態と想像とを空間自在に展開する。夜は耽る。そして場面は回転する。
 七色に散らばった幾つもの朝焼けは、星のどこそこで今だけの風景を作り出す。二度と繰り返されない一定秩序の化学物質の合成と分解とがこうして君の前に、素晴らしい暁を昇らせてくれる。海浜にぽつん、と点景を刻む一粒の人物は、宇宙事業にアクセントを与えるための作業員。彼の目に映る輝ける太陽が明日も、地球という偶然を維持してくれることを世界は願っている。たとえ、とわに叶わぬ祈りだとしても。

2006年10月17日

黒星

電話は切れる。だが僕は知っている。もう誰にもこの、絶望の淵には到達できない。誰ひとり助けに来る筈ない。僕の心底を覗き込むどんな窓も部屋には、とりついていないのだから。
「どうして、なぜ僕なんかに構うのだ。僕はもう、現世に未練はない。これから生きていく為にはあまりに疲れ果てたよ。誰のせいでもない。僕はその様な、絶望の星の元に産まれついたのだ。そして自らがその、黒星からの庇護を選んだんだ。なぜ邪魔する」
「人間はみな離ればなれになる。どんな命も老廃して死ぬ。そうすればなんの安心もない」
 巨大な天の川を吹き渡る宇宙の風は、ふたりの闇夜を介した情念の対話を流し去った。そして後には、延々とひろがる引力場だけが残された。

2006年10月16日

旅日誌

フィルムが巻き戻る。地球と太陽とは関係をこじらせる直前に還る。幾つかの繁栄を見送り、未だ命が芽生えない世界をひらく。混沌として目指す所のない戯れが、事象の合間に絶えざる輪廻を刻む。昼夜が別れる凝瞬ギョウシュンに、有る活力を眺む。
 流れゆく夢中の今よ去り気なく、繰り返し寄せる波のねよ。かねてより約束された宇宙船は来ない。既に予定時刻は疾うに過ぎた。私達は、神に裏切られたのだろうか。
 やがて巨大な恒星は遥かなる時空の渦に紛れて跡形を失くした。何処にも実存の因果は見当たらない。凡ては茫漠たる秩序の撹覧にすぎないのだ。

2006年10月15日

情け

文士は世の情けを救済する為に生きるもの。

信心

人類知性にとっての最大の福祉は、学究による啓蒙であると余は信じる。

南画

不確定な要素間に繋がって度に、くる/\と巧迂の斬枝をつんざく金伐り声。森間の半透雲は山中に走る一匹の兎を捉える。追い駆けるのは名も無き狩人。深い陽が天上の大空を葺いて射して来る。深淵の奥は水墨に霞んで視えない。
 やがてしんとなる。誰も何物をも動かせない。ゆっくり涼風が、蕨の萌え出ずる隙をふいに抜く。滝川の香りが伝わり、低層草木の足本で転がるだんご虫の髭を散らした、おかしさ。
 時に獣路を冒して歩む一介の行人あり。かたわらに携えた二刀を揺らしてにじり、薄氷霜雪に混じる光隠をまばらとす。やがて盗賊のたれかの放つ矢が到りてかの胸を貫く。どさり、と鳴り倒れてから動かぬ。清流の泰滔たる斉唱だけが風景に舞う。
 夕闇が暮れて梟の方々鳴く音程が一帯の覇権を指揮する。錆びた大気が麒麟をなつかせる半月を点灯した途端、杉林は一斉に風前燭になびく。群雲が神に雷を留める。水上から挿し込む厳かな丑蜜時の照明はやわらかい。なまあたゝかい足首が長細き指先に、複雑なまでに絡みあって泣いた。ぬるい快楽に泳ぐ夜半過ぎよ。巻物の内で。
 ピイ/\゜とわなゝいて早くも旦見を知らせる雀のひよどりが柱間に躍る。依りどり緑に微妙の差分を制作しては撒き、連ねては塗る。まるで行動画の見本市だ。πパイの幽幻な円弧を幾重引いた線を投げて林林と交錯して派手にやる。それは数多の蝶々鳥類の物理事象率的軌跡である。だが故に面明おもあかし。超然としてそびえる山岳の一縷に飛ぶ龍の目の当たりには、かようの再現が忽ちふれる。ともあれ二度と世は知れない、伝え無きこと。

2006年10月14日

埠頭

深夜の海浜公園で語らう連れ合いが、東の空に大きな満月を眺める。穏やかな海面へ幾重にも反射して棚引く図画は、二人を本のわずかな間接光で照らし出している。
 初秋の夜風は潮の香りに混ざって新しい。埠頭に人影はなく、遠くで旅客船の鳴らす汽笛がちいさく響く。ふるびた街灯の、白銀の放射だけがぼんやりと辺りを染めている。その周りだけで死を急ぐ虫たちが騒ぐ。
 宇宙最小の音量で男の低い声が呟く。誰も答える者はない。世界を包む静かな波の音だけがちょっと今だけ、明晰な解答を提出する。女はやがて泣き出す。もうここへは戻って来れない。女は海を超えて旅に出る。だからこの夜は黙って、時間がゆっくり行き過ぎるのを待っている。
 しばらくの後。朝日が地表を浸す頃、昨夜約束が交わされた海岸のベンチには誰もいない。干潮の浜辺には数え切れない思い出の破片が辿り着いた。一羽の烏が虚しく遠吠えして、遥か向こうに青白くそびえ建つ幾棟もの高層ビルの方へ去る。街は何の説明もなく本日を始めるつもりなのだ。明日も、そのまた明日も。
 しかしやがて男は壮年になり、過去の落としていったその場所に再び立つ。隣には違う誰かの影がある。薄い藍色に暮れた夕闇の大空では天の川。すぅ、と息を吸い込むと、あの日とおなじ香りがする。
 満天の星屑がああ今でも囁きあう、多くの都心の部分に飲まれて、どこへともなく消えてしまったから。

2006年10月13日

理性の構造

自律理性の普遍的関係は地球外知的生命との倫理間で語られ直さねばならない。虚栄は自尊ではない。謙遜こそは自重である。本能の種別はこのときに再び課題となる。
 基礎の異なる建物が層間変移を違えるように、彼らの構造同士を比較対照できねば実践的な倫理法則は確かに律せない。

損得

君に、終生の俗間不幸に甘んじる虚勢がなければ、有用性を軽閑して顧みる事を要せぬ。その代わり君が集衆に変人の名を冠されるのを許可するべし。
 だが若し地上の実為を大切な基礎として思い込むほど苦労にまみれた体験を経たのなら、迷わず道具的職能を人生の第一義に掲げよ。君は社会的信頼と共に安定した財産生活に恵まれるだろう。

思索

「哲学を学ぶ」ことは考える切っ掛けにしかならない。哲学は思索する事。

手本

君が教祖的模範対象になることを防げ。そうではなく、しばしばよく多くの手本と反面教師とを鑑みながら彼ら自身がよく自らのみちを行くことができるように指導せよ。空海は否応なく筆を誤るのだから。

愛する人を少しでも試すようなことがあっては決してならない。

点滴

夜闇が街を薄紫色に染める頃、人間に一個の女が歩いて行く。所は渋谷の駅前だ。誰彼ともなく押し寄せる人波に混じってミュールの響きは拡散する。横断歩道の白線がまじわる中心に丁度、差し掛かった頃だった。ある男が話しかけてくる。
「君、どこ行くの? ひまじゃない?」
 女は興味のなさそうな素振りをする。
「ああ、だめ。いま忙しい、忙しい」
長く伸ばして、ばらばらな宇宙の星屑の様輝かせた爪の先をきらきらと夕闇に散らせながら片手が、重力に逆らう。
「ありえない。ちょっと付き合って」
デニムのミニスカートを肌にすってでもちょっと駆け出す。女の耳元で揺れる白銀のピアスが心の図像を描く。
「何の為に男女は混じり合うのだ?」と、僕は言う。辺りには軽い沈黙が束の間の静止画をもたらす。すべての風景は止まる。
「昼夜を問わず発情し、虚ろな存在を求め合う。愚かなけだものども。恥も、罪も、生まれてきた理由すら知らない」
 渋谷の雑踏はまるで舞台袖にてストップが掛った瞬間みたいに真っ白だ。誰も彼もが脱け殻の魂になって空を截る。そして舞台はどんな活動もやめる。
「何を望んでいるの?」と、君は言う。
「いいじゃないか。放っておきなよ。これは大した例ではないにせよ、彼らには楽しみがある。いや万が一にでも、どんなに不義でもいいじゃない。許してあげなよ。貴方は人間ではないのに。彼らの気持ちがわかるの?」
「解らない」
 女の顔をまじまじと観る。固まった表情は、信号機の点滅を目標にしているみたいだ。マスカラの塗られた豊かな偽の睫が風に触れて溢れそうだ。
 話しかけてくる男のひとりは、あちこち穴の空いたぶかぶかのブラックデニムに、うわ半分は血のりの染料が滲んだ真っ白いTシャツを被っている。二の腕には奇妙な蛇柄の刺繍。足下には灰色にくすんだショート・ブーツ。眉毛に斜めの刈込み。体格は貧相でもなく、かと言って大層でもない。無国籍で無品性な無記名の人体、何の為にか生まれ育ち、こうして軟派で閑をもてあます東京の一員。
「かわいそうだよ」
「そうかもしれない」
「猿みたい」
この太陽系の第三惑星を浸す、水の滴りでよろこばしくも染み渡った生活様式群が奏でる曲はやるせなくものがなしい。
「時間は進んでく」
やがて熱ったアスファルトに鈍色の点滴が突然に為される。お天気雨は、裸のままで立ち尽くす幾多もの社会人達の全身をしっとりと濡らしていく。じめっとした空気が、無音のスクランブル交差点をあたかも撒き水をした後の如く支配する。スーツ姿の会社員のめがねは曇り、初老のおじいさんの禿頭は陽光に尚一層に照り返し、若い女のキャミソールからは透けた薄い桃色の乳首が覘く。
 まだ残暑の続く秋雨が上がったあとに彼らは、自分たちの姿を知るだろう。そして又、人なるものの下らなく、とるにたらないさがをも。

理性の位置

もし世界に博愛がなければ、あらゆる子は孤独でなければならない。そして弱きものどもへどんな救いも訪れない。理性崇拝は浅薄だ。それは本能に縁起してのみ自律する。

地位の倫理

知能格差は社会階層を造る。社会階層は個別には厳密ではない、常に例外を含むが、総体として真実。これは我々の集団生活の工夫だった。たとえば猿がmount positionで地位を示すが如く、彼らは時代に応じて同様の肩書きを設く。この便利に従って体制は造られる。Marxistが唯物史と名づけた社会運動はこの範囲にある。
 だが地位を即揚棄することがどうして条理だろう。賢愚を同列に並べて同等に働かせる行為より粗野な暴威があるか。実存主義者が体制構造による少数の犠牲者に同情を寄せるあまり大多数の組織的秩序を一度に破壊して良いものだろうか。これは共産主義革命の不能を物語る。地位肩書きは文明の方便。それを否定するのは狭量な怨恨に過ぎない。我々の為すべき社会改良への福祉は只に、地位自体の権利平等推進にある。
 地位肩書き間の等価性が労使間格差を是正する働きを持つ。知能は協力分業の道具。同類を奴隷化する武器ではない。

2006年10月12日

個性

人が猿になりたいとは余程信じない如く、彼らの遺伝子がよく生存主義を全うする方向は神格的実践にしかない。
 仮にこの意味を理解できぬ頭脳の持ち主にでさえ自由という檻は次第に唯一の出口へ、乃ち自己神格化への道をそれぞれ別々に辿らせざるを得ないだろう。個性と呼ばれる獣道に従って。

自然に対する適応

知能格差は一方で搾取と使役を、他方で先導と分業を果たす。自由主義という輝かしい名で隠蔽された体制の内実は、要するに社会繁栄の合理化で、いいわけ。もし君が人間における最上級の理性人と最低級のケダモノとをあからさまに比較した場合、必ずや異種の生物の観を催さざるをえまい。それ程だけ人類は生後学習に依存する生物として成った。いいかえれば彼らの生活とは、自然に対する適応として、その混沌度への抑制。学習は人間格差を設ける便宜。
 そして彼らの行く先は片手では風紀として謂われる時代にとり適切な種内間関係であり、もう片手では天才の至上限の拡大による創造的適応能力の生存主義的目的開発。我々はこの作用・反作用の経過を文明度として理解する。

思索の意義

彼らの思想が唯一、仮設としての内容しか持たないとするならばどうして彼らは学ぶ。宇宙を理解することはかくも儚い。物理法則は永久的ではない。それらはすべて激しい歴史的検証に晒されることで、当の時代知性にとっての最上的思考作業であるに過ぎない。
 にも関わらず、彼らは人間精神を信仰するしかない。彼らは彼ら自身の為にしか学べない。哲学者は人間精神の花。彼らにおいて理性が理想という目的を達する。

人間原理論

無としての純真空状態へ数学的経過を通って揺らぎが起きる。それから我々の実存する宇宙は膨張を続けている、という事。だが人間はどうか。哲学の命題。多様化する形態の一種として生態系を構築する。
 そこでは生存という命の法則性、形態発生の有機性が固有であり、人類という方式において道徳律をも定義づけた。それは種内競合を最良に合理化しようとする命からの令。同時に、人間は周辺環境をも改良・人間化することで文明を築く。自然の侭の有り様を破壊して人工物の秩序を推進する、芸術とはこの極地の謂いに異ならない。
 我々はこうして宇宙の普遍的秩序の中に含まれた有機物の一現象。デカルトは特異な想像力によって精神を第一実在に置いた。だがこの命題には現象的なものへの考察が足りない。精神は物質から離れて存在するものではない。なぜなら人類の肉体が無いところには懐疑的精神もまた実存しない。肉体、更には頭脳の現象としてしか精神作用は説明できない。
 世界に存在するのは物体運動だけである。物質と現象の等価性(E=mc2)。精神や法則ですらこの範囲内で説明できる。例えば実践理性的な自律精神が人間の種内秩序を理想的に整える為の精神作用であることは哲学的であり、この精神作用は特有の脳内化学反応の組成にまで還元しうる。背理=とある精神病患者における倫理の崩壊。ところで法則は物体運動の規則。人は言うかもしれない。神にしか創れない圧倒的な理念の由をどう論ずる。だがideaは思念。つまり、科学的観想に類した精神作用による物体運動形式。それ自体は精神外部に存するものではない。ここに現代哲学における大きな転換がある。乃ち、科学法則は我々の思念がまさに数学を研究する時の様自ら秩序づけるものだ。私はここにあらゆる西洋哲学を揚棄する思想がある、と信じる。カントがコペルニクス的転回と云った、宇宙における主体性の転換と同等の悟りがある。
 宇宙は自体が無目的。なぜなら一度崩れ出した無の領域は、有形界へ向けて無秩序を徐々に拡大させるだけ。あたかも科学法則によって例えば水が100℃で沸騰するといった世界が、我々より絶対な何者かに秩序づけられている、という幻想は旧約聖書的構造に過ぎない。僅かながら我々の人間精神能力に限られた範囲で観察の及ぶ世界に理論法則が見いだせる理由は、ただ単に人間が他の可能性を理学考察的に排除して、あたかもその様に見ているからだ。月の水は100℃で沸騰しまい。なぜなら空気がなければ状態を変化させる媒介もない。宇宙はただ自己を展開させる世界。人間は人間的にしか宇宙の種類たりえない。

浪人

君はまだとても若くて、きれいな砂浜が続く海岸線を何キロ行っても、体は疲れることを知らない。涙は波の様に肌を伝って、向こうから聞こえる街の新しい一日の響きの奥へ消えてしまった。

記録者

文学する者は青春を生きる者ではない。

普遍愛

仏陀が執着するなと言ったのは正確。すべては流れ去る。そして永遠を留めるいかなる法もこの世にはない。ならば、執着するものを現世の中に持つことは不合理。
 普遍愛が地球を救うといった考えは常に、人類史の聖者達の心を支配してきた思想だった。

民族主義の終わり

我々の一族は元来、人類の中で最も遠く本土の焦燥から逃れ、やがて極東の離れ小島にまで流れ着いた。島内の人々はその共通文化の為に民族という思い込みを得た。そしてこの一群は、交通によって世界史の紛糾雑駁の内に消えてなくなるだろう。

信仰

生きることの困難さに比べて死ぬることは余りにも容易(たやす)い。

自殺するのは臆病者である。

 君がもし一介の士(サムライ)ならば、誰かを助くる為に生き延びよ。

2006年10月11日

信仰

私は弱い者を救う為に生きよう。

その為に強くならなくては。

信仰

神様は一人の人間が真剣に生きようとしているのをおかしく思うだろう。

私自身が自分について全く、そう思うように。

 人はそれでも生きる限り迷うものだ。

神様は人生という営為を何よりも慈しんで下さる。

秩序

君が肉体としてこの世界内に存在する苦痛、絶え間ない混沌を完璧に解消するすべは死しかないだろう。だが同時に、その抑圧を緩和しながら生き延びること、理想に生きるのは、地上で最も尊い行為。

福祉

啓蒙の救済は最高の福祉。

福祉

名誉欲は人間が持ちうる中でも最高に近い欲望ではある。誰よりそれを欲しながら、潔く宝物を棄て去る者だけが完全な偉人の道を歩む。
 公正無私に生きることは自体が根本的に不可能であるが故に神格の謂いに違いない。

2006年10月10日

理想美

完全な理想美とか、理想善・理想真とか、いわゆる理想は現世に実現できない。形相という仮の容貌を借りて似せうるだけ。だから例えば、芸術家でもある美学者、芸術史学者が、己の表現を嫌ったとしても否応ない。理想は実現された途端、現実になって堕ちるから。

口伝

無口は至善、高尚な議論は次善。無駄話は問題外。話さずとも即理解し、行動を通じ合う関係は理想の伝達方式、以心伝心。

本能

色狂いは愚者に任せておけ。
 誰かと結婚する積もりなら、飽くまでも理性のみによって確定せよ。

男女

異性は二足歩行の哺乳類の形態を仮に取る。男は冒険心の故に成長し、女は恋愛心の為に成熟する。相克故に多様性を生じる計画の通り。

自律

理想へ伸びゆく精神は独立完結した志向。自律の一歩から真の人生は開始される。

文芸論

私は文芸の暗さを脱回したい。それは漱石論によって作り上げられた潮流であり必ずや普遍ではない。明るい深さ、万人をよろこばしく情動する方向はある筈だ。喜劇でなくて明るい近代小説の道が。

中庸

孤独になればなるほど普遍に通じるのは人間の皮肉ではないのか。理性は、本能を叩きのめす。そして本能に活きる俗物連中を心底軽蔑させる神格をも開発する。人間の体を以て産まれた限り、この構造的な矛盾を避けられない。精神的懐疑を生み出すのはこの緊張感である。
 かつて人類に救済がありうるならば、理性と本能の程よい調和にしかなかったのではないか。アリストテレスや孔子は中庸という言葉でこの人閑を生き抜く為の真理を謂い表している。

競合

必ずや人間の競合から逃れられはしない。仙人風隠遁生活も君を人類でなくする訳ではない。生活するならば少しでもより過ごし易く、この競い合いの仕方を工夫していくべきだった。

自分以上には決して苦しませない事。

牛歩

敢えてゆっくり歩む者だけが大成できる。だが、人生の時間が有限であることを忘れるな。

緊張

個人が専門化を目指せば目指す程、逆に教養の必要が生活を絶えず圧迫する。また万能を果たすべく懸命に分野を跨いで行くと必然に理想的専門化の要請を日々憶う。
 私個有の苦悩、苦渋、精神痛覚の中枢を絶え間無く満たして人生を役立たせようとするのは、この今にも魂を引き裂こうとする両端からの緊張。

隠士

文士はよく隠遁する事。片手では社会への献身を果たし乍らも彼らは飽くまで独作の徒なのであるから。漱石が維新志士の気負いと俳句的観想の態度を両立したい、と指導したのは重要である。唯、離反と献身の生産的批判者にそれを見出せる。

政経と学術

政経活動は一時的で、学術活動は長期のもの。政経は今を、学術は未来を改良する。

信仰

できる限り現世と関わるな。

欲望――富、地位、名声。
それらは現世(うつしよ)のものでしかない。

 君が予(かね)てより見据えるべきものは『文明の先覚』だ。
知的生命の揺動に先駆けて彼らの方向を最良へ導くべきだ。

 君は地上の者をなべて侮蔑している。君自身でさえも。
永久の真理のみを伴って歩け。
この世のものに執着するな。

佳き日

夜明け前、君はうすらぼけた満月の浮かぶベランダに出て、なんとなく夜の海を観ている。そこにはまるでかつて失われた全ての思い出が浮かんでいる様に感じられる。もう二度と手に入らないもの、既に消えてしまったもの、大切に胸の扉の奥に閉まっていたもの、色んなものがごちゃごちゃに頭を廻る。だけど君は知っている。君自身ですら既に、時の向こうに失われてしまったのだ。
 ゆらゆらとさざめく波形に響いて水面は、神聖な光をかぐわせる小さな庭の様だ。君はその風景の中に融け込んで、もうみえなくなってしまう。海辺に建つ一軒のマンションから遠く、一台の車が夜闇を斬って駆けていく。
 僕はその中から何処までも続いていく水平線を眺めていた。朝焼けがやがて地表を端っこから染めあげていく。地球は今日も回る。太陽はまだ、生きている。人類は世界に沢山暮らしていて、ここの裏側ではきっと夕闇が落ちて来た頃だ。
 魚は海の底を游ぎ流れて暮らす。鳥は遥かに上空を巡り、大きなわななき声で良き朝を告げる。
 街中ではもう始発電車が働き出した。まだ眠そうな車掌さんが駅舎の小さな窓から顔を出して、太陽の顔を見た。郊外の、調度いい一軒家が一杯並んでいる土地から、幾多もの自動車が出発する。お父さんが仕事に行くのだ。お母さんはそれを見送りついでにごみ出しに行き、近所の奥さん方とまたなんやらぺちゃくちゃ話をしてる。鮮やかに黄色い学童帽を一様に被った子どもたちがぱらぱら、まるで振り散らされた万華鏡として校門の方へ集まってくる。
 先生は教壇に立って、言う。
「みなさん、お早うございます」
おはよーございます! と皆は言う。時計はそれを笑顔で聞いている。

自分

僕は世の中が嫌いだ。幾ら分解しても知れない複雑さを伴って反射し、幾重にも積み重なって拡散する。生存するべく競争しあう魂の列。僕はそこにさいなまれている。理由もなく、事由もなく。狂った地上にわざとらしく配置され、沢山のわるものをやっつける役割劇まさに、一介の勇者として現世に立つ。そんなものは予定調和だ。
 文明の光に導かれて、宇宙を冒険する一粒の精神。僕は一人の男子であり、こうして地球に生きている。そこにはどんな冗談もない。

2006年10月9日

信仰

地上の問題に心を煩わせぬよう努めよ。

どれも些細なことである。

生死苦楽、すべては儚い。

道理だけが一瞥(glance)に価する。

少年は突然に、世界内に存在した。特別な中身があった訳では無い。平凡な両親が居て、普通の学校に通う、何のことはない小学生である。この少年は常世の間に揉まれて、育っていく。どこにも不思議は見当たらなかった。沢山の出来事が経過し、やがて彼は大人に成る。
 青年は街を吹く風の中に空を斬った。美しく、逞しく膨れた二の腕には鞄を携え、夜闇の隙に一塵の灯りをみた。隆々と蜂起した魂は自在に知性を駆け、時代に役者として立つ。一介の君子は労働の為に、学術の為に生きた。そこには虚しさと充実とがあり、自由と絶望とがあった。
 あかりはやがて展がり、周囲を隅なく浸した。女は妻として寝室の奥に一畳の余裕を許した。そして再び別の少年が現れた。
「何もおかしなところは無い」
大人となった青年はそれを何度となく旨とした。
 毎日は単調で、いつか感覚を失わせる。朝が幾度来たかも知れないある夕べに彼は高い塔に登る。超高層ビルの頂点。街を見下ろすと、そこには数えきれない生活があった。色々に瞬く無数の光。彼の営んできた精一杯は、この巨大な構造物の欠片なのだ、と思う。そして自然に涙がこぼれる。彼は老人と呼ぶためにはもう充分に老衰していたから。
 やがて少年は大人になり、老いていく。だがそこには美しいあらゆるもの、忌むべきなにもかもが入っている。まるでおもちゃ箱をひっくり返して戯れる子どものように、男は孤独な道の上を歩いていく。どんな理由もなく、何の目的もない。長く、多くの争いに満ちた一筋の競走を追う命。

2006年10月8日

再創造

生命文明はentropyを縮小させるような働きとして、宇宙の秩序を再創造する。

芸術論

芸術は環境の改良であり、音楽は音環境を、建築は場環境を、詩歌は社会風紀を改良する。それらは趣味という観念に依拠しながら次第に文明を形成し、宇宙に生命力に満ちた表情を与える仕組みだった。

美術論

合理美は新造形主義を含む理想である。しかし、それを定格に足るものとして疑えねばならない。型は敢えて外された時、その本来の潜在能を解き放つ。だがこのような芸術は芸能であり、美学ではない。
 よって、君にとって唯一の美術的な理想は合理性でなければならない。それはより秩序立った体系を目指す整理の意志である。

絵画論

どうして写真が現れたのちに、幻想の自然物象を平面上の色彩調整に再現しなければならないか。どれだけ緻密な絵画でも、写真の美術には再現芸術という面で到達し得ない。だが合理美の究極に我は理想郷の姿を観たのだ。それは決して完璧には実現しないが故に当為として人類の芸術を導く様な理想である。

理想

生涯に懸けて才能を追求すれば殆ど神々しい崇高さに近づける。

佳かれあしかれ彼らと供に住まう他に地表にいる訳はない。

文章

闇を截って空の肌が露出する。突然に高潮した典の展望は、地表を並べ替えて締める夢中の扉よりも現実的ではない。謂わば現実味は言語幽幻の間に浮上する自重の念である。想像を捉えて充填する語感の様である。人は恰もその為に、右従左住に傾く有閑の音程に異なることはないのだ。

 ゆるゆると念頭を置いておいたが、何の訳にこうしたか判断に苦しむやもしれない。あたかも自然の遊興がそれを導くように、文字列は忽ちに世界全景を開陳する。
 金銀銅に瞬く間に都市を飛び去っていく一羽の鳥は、数の無い光を眺めた。そこに日月はあった。闇はあらゆる命の輝きを生かす背景だった。もし有志が文章に構想の好する形相を省みるなら、地球の回転は須らく情報となる。どうして文がその様な戯れではないものか。

整えられたもの

いくつもの時間が過ぎゆく窓辺に立って、朝焼けが通り抜けるのを待っていた。君は七色の雲が舞い散るのを見た。空から約束の船が降りてくるのを観た。
 やがて地上を遠く離れて、小さな青い星が看えた。あたかもそれはかつて自分が住んでいた場所の様であった。
 飛び去っていく舟の一帆に紛れ、遙かな海を游ぎ渡る。時計が壊れ、現在と将来の関係はなくなる。すべては同一平面で繰り返される貫入のパターンに過ぎなくなる。
 隙間なく吹き抜ける波の形がいつしか、旅の目的すら受け流してしまった。星屑の瞬きが大空の秩序を照らし、美しい記憶をおしなべて壊してしまう。
 やがて君の今は自由の呼ぶ声の為に語り始める。世界はこの様に創られた。そして物語りは地上のものとなった。

建築論

反合理主義者が如何に芸術史学的業績を非難しようと自体は無視されねばならない。建築の目的は合理である。

建築論

建築を美へ導く唯一の法則は合理性である。

建築史学

表層的な華々しさを競うだけの物ではなく、建築史的に刷新をもたらす達成を同時に実現する物だけが充分な考察に値する。そういう作品を見抜くまなこを以て最新の情報を選り分けねばならない。

2006年10月7日

労役

大人はなぜ働かないと暮らしていけないのか。環境的要因、食糧生産能率。土地柄とそこへ適応した人々の性格の比。
 文明創発の土壌如何。地球人類の必然性。何が彼らを生み出した? 数学的確率、天文学的解析、生物学的原因。労働と遊戯、奴隷と主人、大人と子供。知能啓発が呼び出す影響、種内競合の合目的性。

物理学

宇宙秩序はなぜ存在しているか。物理・倫理・合理法則はなぜ見いだせるのか。精神はnatureとして如何なる自律なのか。宇宙膨張自体の訳。世界が始まったのはどうしてか。理想的真空状態に何があったのか。

男は何より世界の構造が嫌いであった。とるに足らない何かを奪い合って競争を余儀なくされる法。その輪廻に巻き込まれた理由を独り、問わない訳にはいかなかった。どうしてわざわざこの世に産み落とされたのか。
 男の親は平凡な現代の中流階級にあって、何らそんな哲学的な問題を拠り所とはしていなかった。だからこそ彼は特別に知的な由なく育まれたのであった。
 男は俗物を徹底して嫌悪していた。倫理学は彼らを尊重していたが、彼には猿にしか思われなかった。それだから男が自分の身の置き所をこの世のどこにも見いだせなかったとしても不思議ではない。
 朝日が昇り、また沈む。男は年中の繰り返しにくくりつけ貶められ、辱められていた。屡々彼には死という、遥かにぼんやりした運命だけが身近であった。
 世間の駒達は、己の権益を全うすることに必死で、目を持っていなかった。ややもすると男は肉だけこの世に住まいながら、地上の何物でもなかった。なぜ彼は生まれた。
 空模様は移り変わり、うつくしいものをなべて押し流してしまう。陰影は深まり、輝かしい世界をますます遠ざける。場所の知れないどこかへ墜ちた一個の命は、やがて再び宇宙の姿見のうちに融け出していく。しかしそこにはどんな理由もないのだ。

2006年10月6日

都市論

都市環境を改善する方法的実践、文明見本の為。
 暫定法規と個別建物の複合的啓発。技術という証拠。それを通じた実証的な公論の啓蒙。専門家向けの学術研究を大学研究室で、その伝播普及としてのわかりやすい作文を雑誌に寄稿、公演で完成する事、論証。
 福祉民主世論にしか再開発の方途はない。独創的芸術家として都市へ可能なのは抜群の傑作による啓蒙の影響だけである。

秋雨の匂い

アスファルト降り頻る秋雨の匂い

2006年10月5日

建築論

何もない空間を至上とせよ。整理の美学。

2006年10月4日

芸術論

人工物は抽象的操作。つまり、自然の現れを調整して彼ら固有の構想力を遊ばせる様な形態変形。そこでは自律理性に由来した多様さと、幾何的普遍性とが協業する。あらゆる人工造形はこの範囲にのみある、と仮定していい。それ以外の芸術は科学技術の部類に入る、としよう。それなら多様と法則の関係性を、ある趣味の発現の元に総合する様な遊びを美術と呼ぶ。そして美術におけるうつくしさとは、この芸を遊ぶ才能のものであり、それは理論と実践を媒介する技術的処残。形相として象徴化された芸術は作家本人の思想に他ならない。だから天才とはその思想であり、技巧は優れた思想のもとに存在する。

建築論

芸術美に目的があるとすれば、自然の最も内在的な目的と等しい。建築の技法は一つだから。しかしその表象・外在性は凡そ最大限懸隔激しいものに違いない。抽象と我々が呼ぶ姿見は自体、自然精神の指揮下にある。精神が建築の現象であるのは疑えない。理性は自己生成したのではなく、制作されたのだ。問い、しかしこの様な先覚を純粋理性のイデアと調停するには如何にすべきか。
 実用的な仮説としてすら理性の建築は反自然であることで歴史上の同一性を確保して来たのだ。とはいえ具体的建築物象を取るに足らない形相の戯れとして軽閑するのは正しくない。寧ろその真実に理論はある。よって、自然と人工との間に明確な対称線を引くことはできない。両者は形こそ違えど共に建築故。

2006年10月3日

建築論

現代都市を一目標ある全体像へと設計しうると考えた主民の一員は悉く欺かれる。では都市計画学は何の為の学問なのか。
 建築は都市という形によってのち総合的。
1. 多元な発生であることでしか街ができる余地はない。
2. 法規は単に、生成する自由形態に常識を付与するのみ。
3. 断片の繋ぎ遇わせとしての建築計画すら当世論に依存している。
 つまり、近代都市を形成するには如何なる主体も相対化されざるを得ない。
 建築家という輝かしくも古めかしい称号が20世紀に担った人道観、人工主導権は、現代において大道芸の一種にまで落ち込んでいる。しかしこの状況は音楽や文芸といった分野においても同様。ポストモダンは疫病であり、その観念に毒された以上、使命感という生命力は根こそぎ駄目にされる。丁度、帝国主義に触れた植民地の様に。

2006年10月2日

建築家論

強用美を越境しての計画、アカデミズムに偏った建築家にはこれができない。彼らは途中から工学を伝達する側の都合によって分割学習を余儀なくされるから。
 時代の最も偉大な匠は常に、その様な錯誤から自由な場所より生まれる。

芸術家論

人間の芸術家が神の造物即ち宇宙以上の何を創作しうるものか。彼らは只、造化法則の掌に乗って趣味にあそぶ子どもたるのみ。
 彼ら固有の理性が到達できる限界としての純粋抽象芸術ですら、単なる創造の象徴的真似事、謂わば積み木に似た形態遊びでしかない。
 それでも芸術家は己が作風の審美的洗練を続けるべきである。なぜなら宇宙は末端の一枝に独特な掃除人を置いたのだから。
 芸術とは造形の整理である。

技術論

私は理論が目的だとは信じない。だからプラトンやアリストテレスら古代ギリシャの哲人とは違う思考法則のもとに生きていると言える。
 理論は実践と縁起して初めて存在する概念。そして両者を媒介する力が技術。最も生産性の高く、しかも理論実践双方にわたる最高度の教養を要領とする技術こそ、人間が目指すべき最高の理想であると私は信じる。
 理論は実践への手段であり、実践は理論へのfeedback。その間で繰り返し鍛錬を積んだ者だけが創造の秘密を身につけるだろう。

工学

空中を飛行する自動車をつくる法。その為に要請される法律。及びその敷衍仕方。実施時期について。
 建築形態の事前調整、遺産に限る。空中交通網。
 重力解除装置による、或いは軽薄空気封入のtube構造による空中都市。
 地下へ自然光を導く模範法。

2006年10月1日

芸術論

現世俗衆に迎合するより浅ましい芸術家はいない。自然を無闇に破壊して為した醜くも罪深い作品の群はそれほどなく捨て去られる。当然だ。愚か者の記憶を地上に留める必要は一切無い。
 美学文脈への記帳をなせる少数の傑物がもつ輝かしい聖跡だけが貴重なのだ。

デリダ批判

Metaphysicsのresetを合理化する思考様式としてのみdeconstructionはあり、哲学的組積はその範囲に限らない。喩えれば、pyramidを建設する坑人が誤って不条理な石を積み上げた際、それを仕方ない誤解として取り上げる行為が脱構築に値する。そして自体は巨大なconstructionの一部の出来事にすぎない。哲学における形而上学は言語を道具として弄ぶことにしか基礎を持たない、と今更ながら確認して何になる?
 善悪の彼岸は実存と構造の倫理学として課題を突きつけている。哲学の主題は実践善の構築にある。それは理性による時代環境の改良に他ならない。

宇宙学

神、Energieが宇宙を創作した原理を知らねばならない。全知を追究することが悟性の命令だから。

ある日

飛び交う船が貿易の空線を示す。近未来都市を歩く一個の影が地球の秩序を描いていく。秋の空は変わりやすく、乙女心はそこに落とされた画龍乃睛の様。月に棲む兎が跳ねるのに合わせて、地表の文化は次第次第に転回する。諸命は恰かも夢現の隙を惑う非常のはためきに有る。
 大地の抗争は社会を築く詳解を示さんが為、図像群を試行しては嘗玩す。あたかも地上絵をもてあそぶ子ども、快闊しては瓦解す。昼夜は男女の游に似て、色々の日常非日常をくるくると入れ替える。世界史は総てを一矢の跳躍に返還する。それは個々人の生涯を単なる点へと集約し、いつかは形而上に向かって省略してしまう。
 青年は語る。僕は時を駆けて来た。日月は止まず、活動は絶えなかった。星晨は震えて明日を煩った。秘密は知れた。
 いまや夜闇は僕を怖がらせない。だが、もう東雲に心を響かせられる事も無いのだ。宇宙の夕立は果てなく明るい世界を暫く蔓延らせた、尽きせぬ文明の遊興によって。
 一台の空中自動車の助手席に座った女性は、唯、それに頷いた。まるで私たちの今日がいま、終わったみたく。