2006年10月25日

竹林

「忙間に在りて自分を見失うは毎度のことだ」
と、長老は仰った。そうかも知れない。
「想い出すが良い。お前の字はわしがつけた。
行き詰まったらいつも、この言葉を記憶の納屋から引っ張り出して来い」
 記憶の中から流れ出したのはこういう逸話だった。そして君は約束の場所で独りきり、途方に暮れている。
 この駅は広い。どこに居ても居なくても等しい様に思えるくらい、土地感がない。同じ単位の反復で造られた無方向な建築構成のせいで、まるでバグったRPGの迷宮の中に閉じ込められたみたいな気分。人影もまばらだ。唯、忙しく動き廻るロボットたちが無表情で仕事先へ歩いている。それでも何とか君は、待ち人に落ち合うはずの所を見つけ出す。君の字は清と云う。村の長老が授けてくれた同一性である。
 迷ったときに、彼の言葉だけを頼りにひいこら辿り着いたのが此処、青い星の街だった。そこは月と呼ばれる衛星の潮汐力で絶え間なく水流を循環させ、この勢いに応じて酸素を送り出す緑葉素の発生から、無数の水棲生物を繁殖させた希有の土壌であった。中央の恒星は太陽と名づけられ、軌道の関係から暫し視界から隠れる。その間を地球の規則では夜と言うらしい。そして最近栄えた陸上を歩く二足の奇怪な生き物は、彼らの巣を暗闇のうちにぴかぴか光らせるのだ。
 なんとも大変に満ちた光景ではないか。私は訳も解らずに笑ってしまったものである。どうしてわざわざ、太陽が嫌々らしい熱度から遠ざかってくれたおのが住処をやたらめったら年中明るくしなければならぬ?
 だが未だ知れず果たして、長老は私にどんな使命を与えたのだろうか。ステーションを継いでニウヨオクという針山みたいな土地に来た。
 ここでは人々が高々と茂った人工竹林の内で彼方此方へたわけるのである。私も例に倣って一本の木に登る。頂上からふいと見下ろすと一望駄尽のもとに世界が悠々と観覧できる。