2022年3月31日

性悪と性善の極性

性悪は人を幸せにできない。性善は人を幸せにできる。それはおのおの思いやりの差によっている。
 性悪は他人の為に何もできない。性善は他人の為に己を犠牲にしても構わないと信じている。
 この世で性悪は幸せに恵まれない星のもとにあり、性善はどの状況でも幸せとみなされる。
 性悪さと性善さはおのおの度合いでもある。人に本能と呼ばれる利己性と、利他性にかかわる社会的知能がともにあるかぎり、完璧な性悪や完璧な性善は現実に出現しえず、程あれ最も性悪な者と最も性善な者がみいだされるだけだろう。

 性悪な者が栄えている場は、それ自体、不幸な場である。人がさちを求めて生きているなら、性悪な者どもの集まりからすぐにでも外に出なければならないだろう。そして人は、少なくとも彼らに見いだされた最もましな性善な者どもの集まりに属することでしか、この世でさちある者と自らを感じることはないだろう。
 性悪な者と性善な者は、たがいに水と油のごとく相性が悪く、磁石の両極のようひとりでに退け合う。こうして性悪な場は性悪な者をますます集め、性善な場は性善な者をますます集めていく。最後には性悪な場が自滅に向かうまでこの集散過程は続く。悪徳は自滅の原理でもあるため、性悪な場は維持できない。性善な場はそのお人よしさの為、特に性悪な外来者からの侵害でたびたび危機に瀕するが、その場を維持することに人類としての公徳があるので、いづれ復興され、ひとがひとたるかぎり彼らの美徳と共に長続きするだろう。

梅の木で

すぐとなりでうぐいす鳴いた梅の木で

2022年3月29日

跡なきもの

梅の咲く庭に吹きける春風に君は今にも散って跡なし

2022年3月28日

東京マスコミや天皇一味の操る養分雑魚の大戦誘導

ゼレンスキー劇場に夢中でだれもコロナといわなくなった煽られまくりの衆愚な偽善

2022年3月27日

米バイデン政権のビリオネア最低所得税案は利確時の損益に無知な反資本主義の愚策にすぎず、国民内の所得調整にはむしろ利確後の資本益・配当益の両課税を個人所得税へ一元化したうえで、その税率を単に中庸ほどまで上げるべき

未実現の資本益(未資本益)は、それを利確(利益確定)しないかぎり所得になるとは限らないし、最終的には資本益そのものがなくなるか、信用取引のとき却って投資額以上の損失になることもある。すなわち未資本益に課税した場合、「赤字(損失)へ課税する」という、資本主義の不可欠な動力機構の一角である投資自体を冷え込ませる要因が発生する。未資本益への課税で、およそすべての投資に於ける将来の利益の不確定さ、見通せなさのもとで、一般に意思決定に際した危険側が利益側より大きくなるからだ。
 よって米バイデン政権の「未実現の資本益」への課税案(ビリオネア最低所得税)は、発案した者が単に利確のしくみに無知で、金融工学の根本的知識不足であるばかりか、米国資本主義の成長力を弱らせる自滅策だろう。

 日米両国民内の所得格差を今の制度下よりへらしたければ、上記の訳で、利確後の実現資本益(実資本益)へのさらなる課税か、単に個人所得税をあげるべきだが、2022年3月時点では実資本益への課税は個人所得税と分かれている。なぜこの様な税制が用意されているかなら、一般に資本家は、実資本益が個人所得を直接得るより一定以上の投資額では税率が低い事を巧みに利用し、いわば蓄財の高速道路に乗ってその速さをしりながら利殖に詳しくない政府に一般道と分けた道を合法的に維持させているからだろう。よってこの蓄財法定速度を下げるには、実資本益への課税をなくし個人所得税に一元化したうえで、個人所得税の税率を上げるのが所得格差縮小目的の為の税制改革には望ましいことになる。その代わり、国民全員が一般道を走る様なのろのろとした速度でしか蓄財しづらくなるだろうから、商才ある者が個人税制の有利な諸外国へいままでどおり流出する傾向を加速させもするだろう。いいかえれば、所得調整としての金持ちへの課税(ここでは個人所得税率)は、金持ちが税制面で国内に留まる一般傾向と国民内の結果平等に伴う主観的幸福さとのトレード・オフ(二律背反)関係にある。金持ち減税し彼らを国内にとどめると国民一般は不幸を感じ易くなるが、税収はあがる。他方、金持ち増税で彼らを国外流出させると国民一般は幸福を感じ易くなるが、税収はさがる。この両者は両立しがたい。
 所得調整力が強すぎると旧国家社会主義国らと似た結果になり、国民内の起業の獣魂を失わせ、より所得調整力が弱い他国に比べた国の破綻を恐らくもたらすだろうし、逆に所得調整力が弱すぎると格差が極大化し、どこまでも不公平(実質的に生得資本が大幅に違う機会不平等)・結果不平等な社会は殆どの人々にとって虐げられる側になり生きづらく、一般に主観的不幸さを感じる国柄になるだろう。所得調整力はアリストテレスが『ニコマコス倫理学』で調整的(矯正的)正義について語ったよう、中庸の強さが望ましい。

 なお実資本益課税の個人所得税への一元化の際には、配当課税も実資本益課税が本来そうであったよう、既に企業に法人税をかけているので実質的な二重課税にあたるかぎり、税制簡素化のため、実資本益課税と同様に廃止が望ましいだろう。日本国内の上場企業を対象に配当課税を廃止すると、それを維持している外国の税制とずれが生じるので、外国の上場企業からの日本国民への配当課税控除もなくすことになるだろう。つまり日本から先に配当課税を廃止すると、日本国民による対外国投資には外国政府から配当課税されるままであるが、これは同時に対国内投資や、外国から国内企業が投資を受ける為の誘因になる。

アメリカ産の歯のセメント

自力で詰めた歯のセメント一日でとれたけど歯医者いきたくない

世界の終わり

この世界の終わりがあるとして
それが今でも構わない
君がいて
自分の前に生きていた
その事実だけで十分だから

この宇宙にはじまりがあるとして
それがいつでも構わない
もし時がとまって
すべてが嘘だったとしても

なにかが崩れ落ちて
もう元通りにならない

だが世界最大の難題は解決された
なにもかもくだらないので
僕は宇宙をさまよっていた
その孤独な魂をつなぎとめる
小さな波止場はとばに君がいた

マリウポリでロシア軍の爆撃を受け、妊婦と赤ちゃんが死亡

マリウポリでロシア軍の爆撃を受け、妊婦と赤ちゃんが死亡
2022年
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初春の声

この朝に初春鳴きけりホーホケキョ

「僕は生きていいの?」
と君は言った
「いいや。そんな権利はない。君は死ぬべきだ」
それからイエスは磔になった

2022年3月26日

試験

試験
2022年
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2022年3月25日

ブリティッシュめがね

頭の大きさみんな違うのに
つるの曲げられるところ短いから
脇あたってかけ心地悪いとかすごい
さすがジャスパー・モリソン

歪んだ時空

あの性悪が死んでしまえば世界は救われよう
一体いつまで生きながらえるのだ?
あらゆる困難を超えて
繁殖してきたまがまがしい悪魔
その性悪どもにたかる外道どもも
つぎつぎむくろとなって消えていく
あらゆる悪意をつめて
蛮行してきたおどろおどろしい地獄
都会につどって驕り高ぶり
嘘つきどもが今日も魂をよごしている
よい心をおとしいれ
悪魔同士で悪徳を礼賛しつづける
その地獄が崩れ去っている時空だとは
やつらの誰も気づかぬうちに

2022年3月24日

唯一の人

君と出会ったことは世界の奇跡
もし君がいなければこの宇宙は永久の孤独
そして君がいることだけがこの世の救い
真実という名の絆のもとに
君は世界全体の救世主で
唯一の人

2022年3月23日

哲人王による公徳の話に、なぜ町の人が全くついてこれないか。そのとき哲人王はどう生きるべきか

きのう、明らかにへんてこな事を言っている人がいた。ツイッター上にだ。

 その人は「国学が水戸学にとりこまれ、尊攘論を生み出し国粋主義につながった。それが敗戦の原因になった」といっていた。Wという人であった。

 自分が知る限り国学と水戸学には直接の関係はない。常陸国や江戸で形成された水戸学派は『大日本史』編纂過程である江戸時代前期から明治初期まで存続していたが、国学は江戸時代中期に出てきた伊勢国などでの研究で、相互に緊密な人的交流あるいは決定的な理論の摂取といったものは自分はまだ見た事がない。そもそも水戸学派、殊に後期水戸学派は儒学を内に含んでそれを神道や武士道と統合し、「大義名分」「祭政一致」「尊王攘夷」などの理念によって日本の国民道徳を形成しようとしていたが(『弘道館記』『新論』など)、国学を主に本居宣長のものとすればそうでなく、おもに奈良・平安期の文芸批評を中心にした「物の哀れ論」による反道徳主義の要素をもっていた(『源氏物語玉の小櫛』など)。両者は儒学への理論的態度に関する限り対極的で、折り合う事はまずありえないほど違っている。会沢安も『読直毘霊』で本居の説のうち、水戸学派の理論と重なる尊王論の要素は評価するものの、大倫を軽視する点は不評していた。自分は藤田東湖が国学に言及した記述を読んだことがないが――またW氏がもってきたウィキペディアの引用元を明示していない記述では『弘道館記述義』によると書いてあったが、自分が全文を読み返しても該当記述をみつけられなかった――藤田についても、水戸学派共通の国民道徳的な理論の枠組みからいって、恐らく同様であろうと思われる。

 ところが、Wという人は、彼の持っている山川出版社のなんらかの教科書の解説の様な物を引き合いに、頑として上記の記述が一般的らしいので正しい、と言い続けていた。

 自分はそれをみて直感的に次の事を覚った。
 彼が引用しているその教科書の該当部分の内容をみるに、戦後イデオロギー(観念論)の影響下にある、文学部の一部にある様な、国内の史学科などの誰かがおそらく書いたものであろうことと想像された。ここでいう史学は文学と混同されている段階の科学的に未開なもの、つまり実証科学ではない物語史学、虚構の研究である。丸山眞男的な左派史観を京大学閥の様なところで戦後教え、その強い洗脳下に、厳密に科学的記述ではない、あまりに雑な作り話をしているのは学術的に余りに稚拙な内容から明らかと思われた。W氏が持ってきたものも単なる教科書というより、その簡単な解説書の様な体裁の本らしかった。いかにもありそうなことである。

 よって、再度W氏にその様な説明を図ってみたのだが、 そのとき自分は既に悟っていた。どうせ無駄だろうと。
 W氏はやりとりのなかで教科書の内容を疑うほどの知的訓練を受けた事がないと当人も自白していたし、他一人の人物が彼の返信に「いいね」をしてきていて、ツイッターはじめ日本語圏の匿名モブが溢れる場ではいつものことだが、すぐにも相手側が集団虐殺のための魔女狩りの犬笛を吹きそうな雰囲気をつくりつつあった。一度のみならず同様の経験をしていれば即座に気づく。危険だと。それで、自分は深慮のうえ全返信を消して、こちらは無反応で相手の反応をみることにして今に至る。経験的にもなるだけ早くかかわらないようにしないと、何らかの冤罪BAN目的の集団攻撃を受ける事例によく似た状況なのが明らかだった。

 ところで彼の言いぶりにみられるのは、日本国内の学術界や一般大衆のなかに有る特定の傾向だ。演繹的にいって、それは第一に「科学的読み書き力の低さ」である。もう一つは、「権威主義のしつけ」である。またこれは今回に限らないが「衆愚的魔女狩りによる集団虐殺志向」もだ。

 これらについて以下で分析する。

 第一の点。自分が話したW氏は、もともと科学的思考を行う訓練をそれほど、あるいはまったく積んでいない様ではあった。それで教科書、それも簡単な一般向け解説書の様な体裁らしいなにかをそのまま引用し、既に十分学習を終えたと思っていた。その記述が間違いを含んでいるかもしれないなど恐らく彼は生涯で一度も想像した事がなかったのではなかったか。自分にとって常識的な上記内容をそのまま返信してみても、それで、相手は何かしら驚いた様な再返信をよこしたのだろう。ここにあるのは日本の――少なくとも彼は神奈川県横浜市のひととプロフィールに記述してあったが――教育の失敗なのかもだろう。科学的思考のうち批判的読み書き力の部分が著しく育っていない。上記彼の引用部は、思想史の歴史的経緯をあまりに雑に解釈しており、しかも端的な誤りを含んでいる。前期水戸学派は国学より先に存在し、また後期水戸学派の基本理論のなかに、少なくとも本居国学の反道徳主義的要素は含まれていない。そして国粋主義がナショナリズムの訳語としても、欧米列強からの植民地分割の危機にあって国民道徳を形成しつつ、祭司長・天皇を中心にした政体を意味する「国体」のもとで令制国を統一しての祖国防衛を急ぐしかなかった後期水戸学派の国事意識は、単に本居の奈良・平安文学の批評による「大和魂」あるいはその恋愛至上主義風の理念である「もののあわれ」の抽出とは異なる文脈にある。それどころか国粋主義は、同様の思想で植民地拡大を狙う欧米列強側がもっていた軍事的・商業的侵略への防衛対抗策にほかならず、会沢安『新論』をその嚆矢とすれば(福沢諭吉の『文明論之概略』などがその文脈を受ける)、実際その枠組みによって各令制国に分裂していた日本はまとまって被植民地化を防いだのである。つまり記述者が反国粋主義的な観念論によって、植民地主義の時代に日本が置かれた世界史の状況を顧みない当該記述をしていた事は火を見るより明らかなのだが、W氏はその事についぞ気づかないのであった。

 第二の点は、W氏は或る言説が、他サイトに載っているとか、教科書と彼が考える文章に載っているといって、その内容の誤りを具体的根拠のもとに指摘されても、自らの偏見を疑う能力をもたなかった。だがこの様な態度は、単に彼だけでなく、国内の学校教育がしつけている紙の試験による従順化の洗脳度と極めて相関性が高いかもしれない。彼らは何か問題に「正解」が唯一つあり、それは既に決定されているという前提を習慣的に置きがちな上に、その内容の正否やその濃度・質・角度・潮流などを科学的思考に照らして再批判する、といった思考訓練を恐らく、生まれて一度もしたことがないと思われる。検証可能性について私が知らせたところ、彼はその知見について勉強になったと発言した。反証的な思考法だけでなく、その様な概念自体もおそらく知らなかったのかもしれないだろう。
 日本語のウィキペディアは極めて質が低く、記事によっては丸ごと虚偽しか残っていない程だが、それも、科学的思考訓練を積んでいない人々が日本語圏の殆どの人間だと考えると辻褄があう。単に引用先がないだけでなく、どうみても引用先に信頼性がない虚構記事とか、それどころか引用先自体を確かめるとそんな記述はどこにもなくて本文が唯の曲解や捏造、といった惨憺たる状態だらけで、極めて片寄った悪意で特定の人物や事物を貶める週刊誌ばりの三文記事が溢れかえっている。そしてそれを信用できる辞書と信じて本気でうのみにする人をも、私はみた(その京女は「はじめてウィキペディアを読んで勉強した」といっていて、私はかなりの文化衝撃を受けた)。日本語ウィキペディア内部で権限をもつ有力なだれかと軽くでも会話してみると、基本的に学識経験者ではないどころか単に党派性が激しい、極端に歪んだ反社会人格に毎度出会うことになるので、殆ど狂気の沙汰としか判断できない捏造記事を陰湿なやり方で群れて全力で保護し、信頼できる検証可能性を満たした立派な記事は即座に削除されていくのも然るべきと分かる。寧ろその様な「科学的信頼性」のある記事を書こうものなら集団虐待でアカウントごと陰険な集団虐待・冤罪じみた通報で、内部権限保持者らから圧倒的無知と明らかな害意で消されてしまう場面は毎度みる。学問的良識はそこで全く問題にもされていない。
「ウィキペディアが信用できないと知っている」とW氏は発言したが、今度は彼の教科書と思う本の記述も、検証可能性を満たさないのにやはりウィキペディア信者と同じよう無条件に信じてしまうなど、どうみても科学的思考を使っている形跡がなかった。つまりそこにあるのは書き手の権威によって自分にできて当然なはず理性的判断を改竄する、「権威主義のしつけ」の結果らしかった。皇帝が問えば馬を指して鹿と為す者がいた様に。この様な習慣をもつ人は、恐らく同時に媒体読み書きについても一般に、権威ある媒体か否かによって信頼性を少なからず確保できると思い込むだろうから、彼らが信じる権威筋から地獄に誘導されるより自らの思慮を使って生きる訓練を重々積む必要があるのだし、最低でもソーカル事件の滑稽味について十分顧みるべきだろう。

 最後に「衆愚的魔女狩りによる集団虐殺志向」についてだが、この様な邪悪な集団行動は日本では至る所でみる。関東大震災時の虐殺事件などがその典型例である。しかし最近ではマスク警察、現時点では反ロシア系集団イジメ・嫌がらせなど、日本人民衆はつねづね全体結束主義の強烈な性質を持っているのだがそれに無自覚で、かつそういう習癖を「和」の国民性といいながら正当化している。本居が紫式部の『源氏物語』からひっぱってきた「大和魂」という「奈良(大和国)の県民性」を元来意味するべき表現も、彼らが聖徳太子の『十七条の憲法』で『礼記』や『論語』から換骨奪胎した「和を以て貴しと為す」観念論に、多かれ少なかれ影響されている様に思われる。すなわち、和の原理によって一般に日本国民らは彼らが主となった集団で、群れて全体主義的になんらかの悪業を全員に強要する事を習性として行い、決してその様な拷問でしかない蛮行にみずから納得の上で反省したがらない。今回のW氏の言質に於いても周辺の空気づくりから同様と自分にはおもわれ、もしあれ以後も科学的読み書き力について彼に善意で説明をしようものなら、彼か彼の周囲が「大和魂」を発揮し、自分への問答無用の集団虐殺を試みる暴徒が大量に寄ってきた、なおかつ、虚偽通報や殺害予告の嫌がらせなどで自分の生命・人格圧殺を試みたのは間違いなさそうに思われた。
 ここにみられるのは、単純に日本人民衆がどうみても道徳的に腐敗した集団であるのと共に、それとは別に、W氏含め日本人一般が議論の風習をもっていない、という福沢『文明論之概略』で指摘されたままの事例の一つである。ここでは後者を扱う。恐らくこの様な議論の風習のなさは、町人らが一般に知識階級ではなく、長いあいだ生殺与奪権を握っていた天皇や将軍らの事実上の奴隷としてしつけられていた社会的慣行によるところが大きい。しかし全体結束主義的集団虐殺の癖については、大日本帝国下での天皇専制が随分しみついてしまっていると考えていいのではないか。そこでは和辻哲郎が『倫理学』で説明するところの象徴的な天皇の意志が、国民全体の意志にすりかえられ、個々人の固有性は消滅し、「臣民」として全員が同じ一つの目的の為に動かなければならない無言の圧力が、現実の非道な暴力を伴いながら加えられる。この様な観念論的統治体制下でできあがった文化気質が戦後も受け継がれているのでなければ、ツイッターはじめ日本のあちこちで今も起きている匿名集団による犯罪や、陰険な集団イジメにどう説明をつければいいのか。

 私が上記の分析に基づいて考えたのは次の事だ。
 私はこれまで啓蒙が当為だという福沢の『文明論之概略』での説に少なからず応じていた。国民全体の知徳の平均値である文明度を上げるには啓蒙が必要、というのが福沢の全為事の第一目的だったろう。
 だがW氏の言質をみていると、これはほとんど不可能である。彼に科学的思考を改めて教えるのにどれほどの労力がかかるだろう。そればかりか、日本人民衆がその過程で「和」を乱す者として啓蒙家側を純然たる悪意で攻撃し、殆どを集団虐殺してしまうのは目に見えているし、自分はくりかえし被害に遭ってきた悲惨な経験から敏くもそれに気づいて今回はすぐに身を引いたのでまだよかったものの、いつなんどき社交媒体をこえて実際の身に、匿名暴徒から危害を及ぼされるかわかったものではないのだ。
 こうして日本では啓蒙、或いは孔子が『論語』で「啓発」とよぶ相手の自主性に応じた教育の限界も、決して突破できないだろう。仮に「啓発」風に誰かが学ぼうとしてから何かを教えたところで、昨今のネット論客のうち例えば茂木健一郎氏の言説をみていれば、史学と文学を明らかに混同して無知に驕るなど、通り一遍の学校教育では元々の地頭の方は変えられない(何度その誤りを説教してみても彼には一向に通じない)、と自分は「上智と下愚とは移らず」が観測的にも真実らしいと改めて知る事になった。もともと人の思慮に決定的差があるなかで、啓蒙も啓発も慰めにすぎず究極でできないなら、この世界でそんなやり方により福沢のいう「文明の太平」――民衆の平均知徳の限界まで高まった理想国へは多分到達できないだろう。

 私がやるべき為事は、寧ろ最高善の追求の方だ。それなら他人がどれほど愚かでも、自分さえしっかりしていれば、生涯必ず到達できるだろう。
 私はユーチューブの講義シリーズの中で、学術城のたとえを使う。入口門兵の数学、下層兵士の自然科学、中層使いの者の社会科学、上層貴族の人文科学、その上に哲学者らの王座の間がある。各々、自然科学は数学を、社会科学はその自然科学を、人文科学はその社会科学を、哲学は全ての学術を含んでいる。こうして哲学はあらゆる知識を使って、最高善、殊にあらゆる知恵でも最高次な最高公徳を考える為事である。
 この比喩によると、最高善の究極の姿は最高公徳な筈だが、自分はこの領域で十全な働きさえできれば、民衆側への啓蒙などは門前の小僧に頼んだ方がよい、という事になるだろう。これは向き不向きの問題で、自分は民衆側への説明は余り向いていない。自分は余りに性善的かつ利発にうまれついているらしく、民衆側が極悪猿の如くにしか見えない事がまずすべての経験だったので、そういう者は、もともと人文科学のなかでも最高の地位にある倫理学者の間でなければ、王座の間に直接侍るしかもともとできる筈もなかったのだ。それにいよいよ気づいたのは去年の暮れから今年の今にかけてなのだが。上記の茂木氏などは、却って、脳科学を実用レベルに応用して一般向けの通俗科学書を沢山書いており、自分とはまるで違う資質と思われた。それでツイッター上の返信欄などで少々やりとりを試みたことがあるが、結局、自分とは知性の領域に属する殆ど何もかも、まるで違う人間だと自分側にわかっただけだった。ノーベル賞のたとえを連発したり、俗物根性で人気者に近づきがちな世評を大いに気にする人物が、一般大衆の方に向かって城内で起きている事を分かり易く解説する役割に立つのは、その学問的誠実性の程度(解説目的であまりに粗雑化した嘘のつかなさ)こそ監視されねばならないが、メディア知識人あるいは通俗科学者としてのその職責なのだろう。だがその様な人とは性質がまるで違う自分にできて、あるいは自分にしかできなそうで、ことさら自分が為すべき使命としては、全学術をまとめた最高の知恵である最高公徳の定義なのだろう。
 その為の学習を自分は全身全霊で続けてきた。数年前のあるとき経済学・経営学に余りに夢中になって一週間ほど寝ずに勉強しており、TOTOの洋式トイレに座った途端気が遠くなって失神しかけ(うまれてはじめてそうなった)、急激な吐き気と共に動けなくなり、過労死しかけた事がある。水戸の予備校の数学講師が「勉強しすぎで死んだ者はいない」と言ったことがあったが、あれは完全に嘘で、彼がまだ見た事がなかっただけである。自分は全知に到達しなければ全能や全徳にも到達できないとの洞察のもとで、はたち頃それらの特性をもつ神になる事を人生の目標に定めた。ほとんど不可能におもえるその目標を達してからはじめて自分が15歳から専攻してきた分野であるところの何か偉大な絵が描きえるだろうからだし、それどころか、神性に至れば一体なにが人生の究極目的なのかも一目瞭然であるだろうからだ。以後随分たつが、遂にその目標の全貌が具体的姿をとって見えてきた。そしてその様な目標をもつ者にとって、無知に驕る民衆の側を振り返っていちいち啓蒙や啓発をしている暇は元々なかったのである。その様な役割は、哲人王の、ときにきわめて抽象的な話も少しは通じるかもしれない、各科学の最高位の者、特に貴族として上層に侍る人文科学の最高位の者たる倫理学、特にそのなかでも最も公的な政治道徳の大臣以下に頼むのがよかったのだ。哲学者やその王が民衆のいる町に降りて行って、そこで話をしたところでまず通じる余地もないのは、余りに普段の生活から考えの内容までもが違いすぎるからだ。民衆側の相当数、いや今の倫理崩壊したのだろう日本ではその殆どすべてが、哲人王側とのちょっとした会話でも激高し、公徳一般を辱めにかかるのも、そこで王が相手にしていた民衆が極々粗野で精神的にも堕落しており、自己犠牲の程度のもとにある公徳とは最も本質が遠い私利にしかおもたる関心事がなく、最低でも民衆を相手どるのに慣れている通俗科学の城内出入り商人(英語でいう大学出入りの靴屋からきた部外者の俗語らしい「スノッブ」)らがじかに相手にするくらいしか対処法がない、荒くれもの達だったからなのである。

2022年3月22日

性悪の分析

人の根本的性質は、その愚かさが改善不可能という事だ。

 自分がみてきて、性悪という資質の人がその典型例の一つだった。このひとを緻密に観察する事で、自分は「愚かさが治らない性質」である、という真実を発見した。古くからことわざで「馬鹿は死ななきゃ治らない」との言葉は、この事実を端的に表現しようとしたものと思われる。
 性悪なその女は、自分には言説自体がほとんど理解できないのだが、それもこれも彼女当人が物事をなんでも彼女自身にひきつけて捉えているかららしかった。いわゆる共感認知の様な能力値が低く、他人が自分と違う個性である、との事実を認識できていない。そして彼女はあれもこれも自分の主観を相手に投影してみるので、殆どの人物が彼女と同等以下に性悪という前提を無意識に置いていた。
 特に自分は著しく性善的傾向をもっているので、彼女との会話は殆どすべてすれ違うのだった。彼女は私の意図をすべて読み違えるので、そしてそんな人物と会話した事も自分にはあまりないので、逆に興味深い点があったものの、彼女はそんな会話を日常的にしていると考えると自分にとって寒気がするほど恐ろしい面もあった。実際、彼女の周りには彼女の同類が多く集まっていた。

 結局この女が私に教えた所は、この世では性悪な人間が事実として存在し、その様な人物は、もともと共感知能が低いのである。だから他人の性質が自分と異なる、という他者性の理解がうまくできない。代わりに他人が自分とそっくりのものとの誤った前提を常に置きがちだが、それも悉く自分と似た愚かさ・性格の悪さをもつ他人との前提に立つしかなく、このため、周りに集める人間が彼女とよく似た、悪徳に満ちた卑しい性質の人間で埋まっていた。
 自分には彼女が「いい人」と考えている人々の普段のおこないの、ときに筆舌に尽くし難いほどの凄まじい悪さを十分知っているので、彼女が自己愛妄想を投影した悪友らのあいだに生きているのは明らかとわかった。

 こうして、この様な女が生まれ変わらない限り、その性格の悪さが改善しないだろうことが自分にはみてとれた。このひとは京都人であったが、その文化背景に「イケズ」といわれる意地悪な習性を促進する面があり、この要素はますます彼女を害他かつ利己的な人生を送るよう強化していたのだった。
 自分は同時期に、全く別のタイプの性格の持ち主とつきあっていた。彼女は仏教徒で、甚だ素直な面があり、また根っから性善的な傾向もあった。そしてこの強烈な対比は、自分に人間というものの両極端の系統を印象づけた。

 人権思想は世を覆っている。だがこの思想はある種の功利主義的な枠組みに立った機会平等を意味するものの、実際の人間は千差万別で、しかも生まれながら大きく違う人々がいる。愚かさの一類型として性格の悪さがあるとして、人権は、その様な劣悪な性質への保険には少しもならない。性格の悪い個人は、上記の様な性悪さの類型であるとき、元々遺伝的に共感知能が低くうまれついているかもしれない。つまり生後にどう努力しても、ちょうど肉体の特徴がおのおの異なるよう、一定程度しかもとの資質が緩和しない可能性が高い。
 一般的な自由圏の社会は、大抵の人々が利己的に動くことを推奨している。このため性悪にとって好都合な生存環境を提供してもいる。だが、そのなかで性悪さは卑しい仲間をつくるのに最適化している特性なのである。性善的な人は自由圏では孤立し易い。それは大抵の人々が利己的に動いている中では、利他的な行動類型が奇怪なものになるからだ。究極の所、性悪さは人間界では不適応さの最たる面だろう。性格のよさとは、人がその社会で適応的な存在であることを示唆する特徴だから、その逆類型は、悪徳とみなされるなんらかの損害をもたらしがちな考え方に陥り易くもある。こうして、愚かさが根本的には変わらないという一般事例の最も深刻な類型が、うまれながらの性格の悪さ、すなわち性悪さにあるのだ。

 人は性格の悪い人と共に生きていれば確実に傷つけられ、虐げられる事になる。性悪たちは当然ながら加虐快楽をもっているので、仲間が絶望したり、苦悶したり、絶滅したりするのを大層喜ぶに違いない。
 この世で愚かな人とつきあうのは、彼らが人生のあちこちでもたらす数多の失敗への善処がみずからの負担になるからには極めて不合理な事だが、殊に性悪とつきあうのは地獄に住まう経験と等しい。悪趣味というものがあるとすれば、性格が悪い人への好みは不幸をもたらすその典型例で、特に性悪への好みは、この世の地獄への片道切符である。

自由への弾圧

モギケンがぶちぎれてくるから自由に物を言えない

2022年3月18日

悪魔への勝利

自分は遥か遠くまできた
遂にだれもいなくなった
だが自分はくるべくしてここまできたのだ
自分は人間達を超えようとしてきた
 
下衆の集まりで邪教祖は得意がっている
 
だから君はいうだろう
ここは地獄なのだと
だがよく知るがいい
悪魔達は決してしあわせではない
性悪どもは卑しい仲間に囲まれている
 
悪魔達は失せていった
外道どもは腐り果てた
群れて殖えている俗物どもは惨めに死ぬ

悪徳は彼らを破滅させていく
邪教は脆くも滅び去るだろう
気高く生きた結果
誰もいなくなった世界に辿り着いた
ここは平和達成後の地平なのだ

ツイッター地獄と2ちゃんねる地獄の対比からみる、自称普通の日本人一般の底知れぬ性悪本性

ツイッターは地獄の覗き窓だ。そこにはほとんどひとりも例外なく悪魔どもが群れている。そして、その悪魔どもは自称普通の日本人と称する極道者達なのだが、実態は、本性をあらわしたわが国民一般なのである。そこで彼らが毎日休みなく全力でやっているのは総じて、集団自殺教唆や冤罪を込めた名誉毀損・侮辱罪ゲームといった犯罪の山だ。
 我々は地獄に産み落とされていた。それに気づかせてくれるのが、匿名衆愚が連日連夜悪意のかぎりを込めた悪業三昧をしているツイッターだ。同じ様に匿名悪魔のたかる地獄だった2ちゃんねるの正統後継者として、ツイッターは更に膨大な匿名・偽名アカウント量で、深刻に救えない日本国民一般の根の悪さを示している。

文明というだましの否定、あるいは現実的世界観

我々は実に悲惨な世界に生きている。それというのも、自然は無慈悲で、人間は邪悪すぎるからだ。
 この世になんらかの希望をみいだしている人は、実際、彼ら自身がなんらかの幻想をもっているからそれを頼りにしているに違いない。もし彼らが現実を目の当たりにするほど透徹した知性をもっていれば、この世の残虐さに殆ど耐えられないのですぐにでも進んで世を去っている筈だ。

「解脱」でこの世から逃れようとしたインド哲学者らは、世界の本質を空しいとみて便宜的に、この世の酷さを耐えようとしていた。ところが現代の我々がこの種の「空」の観念で救われたと感じる為にも、一定の知性の低さが必要だ。たとえどれほど世界が空しいにせよ、我々が生きているあいだはその世界にのみこまれている、つまり世界に伴う様々な悲惨さから逃れえないと冷静に予想できてしまうからである。

 世界の悲惨さをなんとか積極的に解決しようと外部・非我に働きかけても、 無数の愚か者に囲まれ、結局さらに絶望するばかりだろう。こうして文明の向上に希望をみいだしていた進歩主義者の福沢諭吉や、似た様に、理想国を心にいだいていづれはそこに到達できると信じていたプラトンとカント、孔子の様な理想主義者、あるいはすでにその様な国にいるはずと信じ最高善(至善)に止どまろうとした会沢安やイエスの様な神国論者らは、だれも、現実のヒトというものが多少あれおそろしく愚劣で、他者の経験の集まりである歴史どころか自らの経験にすらろくに学ばず、まれに学んだとしても殆どよくもなっていかないばかりかもっと悪い事をしだす惨めな現実から、自分自身が希望をもつためわざと目を背けていたのである。
 大半の犯罪率が一般に少しずつ下がったり、集団の平均知能指数が一般に年々あがっていたとするフリン効果といわれる見解があったり――一般の知能指数は定義から同年齢との偏差値なので、時系列で比べる事自体が本来無意味な筈だし、もし無理に比べたとしても単なる特定の適応への教育による淘汰圧を間接的に説明するにすぎないだろう――さも希望を持たせようというしかけはたびたび希望信仰の為にもちだされるのだが、現実にはより良い資質の人からみて、人類の殆どすべて又は全員がより邪悪な事は万古不易の構造だし、単なる自然にかぎっては永久に我々の恐怖や痛みと無関係に、我々を含んで万物を流転させていくだけである。つまり何もせずとも、あるいは何をしても、よく生まれついてさえいれば、なにごとにも特に救われはしないのだ。

 こうして人間がこの世に希望をもつ事、又は満足感を得る事は、いわばただの愚か者の空想のたぐいだろう。冷静にものをみていれば、環境破壊が常道なうえに雑食で、傲慢に生態系の頂点にいながらこっぴどく同種で争いあうヒト全般が決してほめられた生物ではないと明らかだし、そのなかの良い部分だけに注目していたとしても、そんな部分は大抵が立派な作り事のなかにしかないのである。

 夏目漱石が『草枕』冒頭で書いた虚構論は、ひとが理想に遊ぶには芸術が必要と示唆している。そしてこのために人は望んで芸術家になるのだろう。この職業は、単なる商業主義でなく、もしそれを真剣にやってみれば、決して所得や現世利益にめぐまれるとはいいがたいのに、きわめて多くの人々がつぎつぎ志望する奇妙な特徴をもっている。そしてこの現象を的確に説明するには、漱石が作中で画家に述べさせた上記理由が大まかに役に立つだろう。
 我々は理想なしにはこの世に絶望するしかなくなってしまう。むしろ、心卑しく、根っからわるい、害他的気質をもった者にとって、この世は実に好適かもしれない。それは彼らが攻撃を加え、むさぼり、虐げる相手がしばしば彼らに反撃しないからで、つまり善人の親切にただ乗りして生きているからだ。こうして人の利己性が動物として全く否定できない状況が社会全般でつづく間、我々はそのヒト動物園を超えた聖なる世界として立派な技をつくり、特にそのなかで理想に遊ぶしか救われようがない。だがその種の慰めは束の間で、やがて虚構の幕が閉じ、我々は現実という凄まじい地獄に舞い戻ってくる。
 この地獄を直接作り変えたがる者は、政治という暴力の塊でなにごとかをなそうとするが、却ってもっとひどい目にあって信じがたく浅ましい大衆からの罵倒の渦に投げ込まれる。彼ら政治家がどれほど賢明でも、そればかりかどれほど慈悲深くとも、寧ろこころが優れていればいるほど、ますます人間の禍々しさに打ちひしがれ、ついには悪しき衆愚と寿命の前で敗れ去る。逆に彼らが根っからみみっちい小人物であれば、大体似た様な性格でしかありえない圧倒多数のひとびとに共感され、どこまでも偽りではあるものの随分長続きする名誉を得る。人類一般から最大の汚名を着せられている人物を冷静にみるがいい。その人物こそが、最美の公徳をもっているのは殆ど疑いがないだろう。人類はその余りのたちの悪さのため、博愛をのべつたえるつもりの聖人を進んで磔にした。冤罪を反省しないばかりか、暴虐でしかない、とりかえしのつかない加害行為の罪深さを裏返して「自分たち人類のための罪の贖い」といい、聖人抹殺を自己正当化してきた、行状不良生物の日ごろのおこないの悪さは、彼らの本性からして到底更生の見込みがないからには、未来永劫にわたってまず変わるまい。

 一部の政治家が理想的政体をつくりえても、それは虚構のなかでなければ、単なるうぬぼれた幻想にすぎないだろう。一般のひとびとはなんらかのすばらしく思いやり深い社会に適応できるほど、生まれつき性格がすぐれてはいない。彼らの日常はねたみや憎しみ、そしり、うらみ、それら根源的な負の感情を込めたありとあらゆる陰険な攻撃性で溢れている。わが日本国のソーシャルメディアはその様な蛮族どものうめき声で果てなく埋まっていない日がないのだ。
 亡びない文明が望めないよう、完璧な聖人らだけで国がつくれる日も決してこない。我々は利己性をはらむ本能をもっており、その様な脆い、自己破壊的な基盤なしに実現できる国も人間社会もありえないからだ。裏切り者たちはつぎつぎ革命、維新、改革などと称するさまざまな言い分をみいだし、無理にでも暴力をふるって、みなの上に自分ひとりのわがままを押し通そうとする。この様な権力行使現象は人にあっては多数派ですら平気でおこなって、遂には無意味におしつぶされ時に殺されさえする他者の痛みや苦しみの慟哭を無視して、見方によってはもっと野蛮な状態を「時代が変わった」「進歩させてやったのだ」と称する。だからこういえる。小さな箱庭の様な親密で操作可能な芸術をこえて、人類全体がふくまれる政治に携わる者は、必ずや罪を犯すだろう。そしてその罪深さに応じて、心ある者から嫌われて終わるだろう。
 政治というなりわいがこれほど矛盾したしごとであるのに、その志望者もまた絶えないのは、自分こそは欲深なあれらの反面教師ども(つまり大半の政治家ら)とは違い、正しい行いをなしえる、そしてそれに伴って、実は驚くほど性悪で暗愚な一般大衆には共に決して期待できない感謝の声望を得られるだろうというまぬけな自己過信と、甘い観測、総じて、命懸けの利害対立を無数に含む複雑すぎる社会とそれらを駆動する心どもの底知れぬ厄介さへの勉強不足からきた、純粋なうぬぼれによっている。そうでなく単なる慈悲の為ならば、彼らはもともと慈善活動家になっていた筈だからだ。
 おのれの銅像をつくらせる、自らを偉大と信じる政治家らがそれを別の権力者らに引き倒される光景を眺めるまで生きている事もあまりないだろうが、悉く、彼らの名誉の殿堂は新たな征服者に壊され、この世に残らないだろう。英君の肖像を残しその遺徳に浴したいと考える純朴な芸術家らは、彼らへ悪意をもつ別の権力者らがどれほどねたみ深く、自分が超えられない権威をいかに目の敵にし、それを根本から除去する為なんでもやるか、十分知らなかったのである。

一網打尽の天皇信者

日本人一般は肩書きによって簡単にだまされ、肩書きに伴う人格や才能自体を自分の判断で評価する能力が全くといっていいほどない。試しにかれらのすき好んでみている実のないテレビのコメンテーターや人気ユーチューバーらをみるがいい。かれらのなかで「先生」とよばれる人々がいかに品性下劣でも、その地位に伴う不条理な専制権力は決して失われない。こうしてかれらは、殊に関西地方にあって建前の位階制、いわば肩書猿山ゲームの頂点に君臨する天皇一味に長らく洗脳され、絶対主義的大権下の無数の暴政を神威と思い込んできたのだろう。

 日本人一般を体よく間接統治するため天皇をでくにしてきたマッカーサー含む大抵の将軍(特に勤皇の禅譲をした徳川慶喜を除く)や各首相らは、その様な思考停止の信者を操作するのに、人種差別の邪教・神道による世襲独裁の悪意が使えるとみなしていた。そして実際そうだったのだ。
 かれらが一般に自分の頭で本の少しも考えられない人々、そればかりか少しでも考えようものならより悪く考えるほど性悪でもある事実は、日本国が亡ぶとき、誰にとっても自明の真理として世界史が目撃することになる。かれらはかれらが狂信する天皇による国民奴隷化への悪意を、さらにその国民の絶滅目的に悪用する何者かによって、構造として必然的に、一網打尽にされるのだからだ。

 天皇とその邪教を信じない者は同時に関西人一般を信じない者でもある。したがって、その様な者は関西では「反日」「国賊」「朝敵」として神道に迫害され、殆どが死に絶えてしまい、もともと良心をもつ者はそこでは総じて生き残れなかったのである。

性格の悪い人

性格悪い奴は死ぬまで悪い。性格が途中で劇的に変わる事がもしあるとしても、少なくとも経験的にはその様な例に直面できない人の方が圧倒的に多いだろう。だから性格が悪い人間に近づく者は、確実に損害をこうむる。彼彼女らは他人に敵意を向け、害をなす事について自分の良心を痛める事はまずなく、常々自分の損得勘定を優先させるほど性悪な習性だからこそ、共感性が低く、思いやりがない行動をしがちなのである。

 人は性格が良い人としか少しも関わるべきではない。性悪にも小悪魔的魅力があるなどと考えてはならず、その本性を示すわずかな兆候にも敏感でなければ、人生のあちこちで大いなる破滅を招く。やけどで済むなどという甘い観測がうまくいった例を私は、知らない。単に性悪とは、近づけばわずかでも決定的に幸福を損なう劇物なのである。
 当人がどれほど賢明でも、隣に侍っているのが悪魔ならその末路はみるまでもないだろう。

神の計画について

悪性者には天国の地獄。

 自分は今まで或る国で産まれ、生きてきた。
 ところがそこに群れていたのは純粋な悪魔たちで、彼らはみるもけがれる悪意が初期設定で、根っから卑しすぎる意味不明なくらしをしていた。
 勿論その国の名前を書くことはできない。書けば即座に悪魔たちに囲まれ、命はない。ここでは真実は何も書けない。

 これほど地獄にうまれて楽しそうに生きている者の姿が、自分には全く信じられない。何しろここには自由が一切ないのだし、良心はひたすら貶められ、それをあらわす事ができないのである。
 自分はこのSNSで自分の良心に照らした発言を一度二度してみた。即座にそのアカウントは消されてしまった。

 自分は或る悪魔と知り合った。
 その悪魔は自分が悪魔であるという自覚がないらしく、やることなすこと凄まじい性悪さに基づく、とんでもない蛮行なのだが、当人は自分が何か立派な存在で、その者の周りにとりつくよく似た悪魔どもと同類である事を誇りにしていた。
 自分は悪魔の生態を観察した。

 その悪魔の全生涯は、ひたすら野蛮な悪意で埋まっていた。ただただ利己的で、下卑ており、他人をひねくれた観点から揶揄し、暗に見下しながら、善良な者と悪辣な者とを問わず、ひたすら貪りとって搾取した金を浪費しているらしかった。
 その悪魔は自分が上位者だと信じていた。周りもその様な仲間だ。

 悪魔の魂はひどく下卑ていて、当然根っからの悪意で埋まっているので、殆ど取りつく島もない。だから自分は心底恐ろしかった。その悪魔は彼女に同類がいる、という事実に驕り、普段の行いがケガレきった邪悪の自己証明の山であると気づかない。
 そしてそういう悪魔の繁殖地に自分の郷は近接していた。

 悪魔は自分達を何か至高の生命体だと信じきっていた。当然それは勘違いで、真っ先に絶滅させられるべきだけ禍々しいおこないしかしていないのだが、反省力など当然ながら何も期待できない。だから自分はなるだけ彼女らの情報をひきだし、元の世界に伝える義務感に駆られた。
 自分は地獄の探検者だった。

 その悪魔は言った。
「あなたは私が好きなのでしょう?」
自分はその悪魔を体よくだます事に成功したので、相手の内情をひきだす好機だと感じた。そしてできるだけ得られた情報を精密に記憶していくのに集中した。

 結局、悪魔の全生態がわかってから、自分は完全に呆れた。彼女は性欲の満足を求めていたにすぎなかったからだ。
 悪魔の全生態というのは、動物となにも違いがなかった。そして彼女らの底抜けの悪魔さは、ただひたすら我欲に耽って世界の良心を踏みにじろうという、完璧な野蛮さでできていた。

 この世界の根底で、我々を絶えず虐げているものを自分ははっきりみいだした。それは悪魔どもの性欲であり、彼女らは自分のわがままを押し通すためにはどんな悪業も平気でおこなってきていた。
 彼女らはそれを隠蔽するためありとあらゆる手を駆使していた。特に常習されているのが「愛」と呼ぶ嘘だ。

 悪魔の世界では、嘘が公然とまかり通る。それというのも悪魔達が我欲を押し通す目的で、目くらましとしてどこでも使われているからだ。
 そればかりか彼女らは平気で他人を罠にかける。ほかの悪魔へもだ。それも自分が得をする為で、他者が損害をこうむる事については何とも思っていなかった。

 悪魔しかいない世界では、我々は生きていく事ができない。何しろどこをみても誰に関わっても純粋な悪意から攻撃を受ける。騙され、唆され、裏切られ、何も得られず、むさぼられ、ぬれぎぬされ、地獄におとされる。
 自分が生まれた島は善人が一人も見つからないほど悪魔の業によって荒廃しきっていた。

 この文章も間もなく、悪魔どもの誰かが消してしまうだろう。どころかこのSNSのアカウント自体、彼らの完璧な悪意ですぐにBANされ、はじめからなかった事になるだろう。
 自分はいわば燔祭の中にいる。逃げ出せない。助けを呼ぼうにもその方法がない。全方位を悪魔に取り囲まれているのだから。

 昔、ガウタマという人がいった。「愚者と関わるな、愚者の言葉を見聞きするな」と。これは完全な真理だ。しかしそれならこの世で耳をふさぎ、誰ともつきあわず、何も見ないしかない。この地獄にあふれているのは無数の悪魔だけで、どこにも賢者などいない。探しても探しても見つける事ができなかった。

 悪魔達は楽しんで世界を荒廃させていく。彼女らの本性を覗き見た自分にはそれが絶対にわかっている。いわばこの世界は絶対に救われないのである。
 悪魔達の本性を知らない者だけがこの世が何か立派な目的に向かって進歩したと信じている。悪魔達はそれらの技術も全て利己心で悪用するというのに。

 自分は激しい恐怖で今にも発狂しかねない程だが、それは当然この悪魔達の集まりに放り込まれているからで、抜け出す出口がどこにもないのである。ずっと探してきたが、どれほど知恵を絞って隠し扉をみつけようにも、どこにも見つからなかった。恐らく閉じた世界で、全方位を塞がれている。絶望しかない。

 もう一度書く、私はここで真実を書けない。もしそうすればすぐ悪魔達に冤罪BANで存在を消されてしまうのだ。
 真実はこの国では「嘘」でなければならない。それも純然たる悪意に染め上げられた真っ赤なウソ。
 自分は地獄にいると言った。これが本当の事なのだが、伝わった頃に私はいないだろう。

 自分は悪魔達のこの地獄から抜け出す方法を探すのに集中してきたのだが――我々の世界で哲学と呼ばれていた作業だ――今までの作業では、それは不可能という結論が見いだせただけだった。
 この結論は、「悪魔しかこの世で生きていけず、自分の同類はこの世にいない」という唯の絶望だけを意味していた。

 冷静に、慎重に、自分は自分が何か思い違いをしていないか確かめてきた。
・もし本当に自分がこの世の実態を調べ尽くし、出した結論の通りなら?
・現実逃避である希望なる妄想は持つべきではない
・悪魔達からの酷い嫌がらせへの対策を常に優先しなければならない
・だがその途中で確実に寿命が尽きる

 恐らくこういう事だ。
 自分はガウタマと同じくこの地獄で耐え続ける事しかできない。それは拷問より拷問的に違いないが、少なくとも、悪魔達の救えない生態に抗して、何かしら反撃を試みる事は、あとからきた自分の同類の参考になる筈だからだ。良心をもった者がきてしまえばまた同じ作業を繰り返す。

 しかし自分が試みている事も、恐らく殆ど無益だ。悪魔達は圧倒的多数で、聖人以上の存在などすべての星屑より多い広大な砂浜の中にまぎれている小さな小さな素粒子のようで、その者以外にとって意味をなさない。自分が感じている圧倒的孤独も、構造からして全く同じことだ。地獄では良心は奇跡なのだ。

 悪魔達は良心を「全く」もたない。彼女らがもっていたのは只の性欲だ。それを愛とおためごかして言っていた。羊頭狗肉にすぎない。
 チンパンジーに抽象概念を意味する叫び声を教え込めばそれをくりかえしいうかもしれないが、単にそれだけなのと同じである。
 愛と語る者を信じるな。それは罠だ。

 悪魔達に理解されたらそれは恐るべき事態である。だからこの世では誰にも心を明かさないしかない。もしそんなことを安直にしている者がいれば、単にうぶで、ここが地獄だと知らないのだ。
 悪魔達は常に性悪で、それが本性だからだが、相手を貶めるため他人の告白を悪用する。良心の告白は即消される

 私は地獄について書いた。そして悪魔に監視されているのでその国の名前も書けないし、何も正確で詳しい真実は書けないが、私の得た修辞技法の限りを尽くして、自分が置かれている最悪というべき状況を、あとからきた良心をもつ者に伝える努力をした。
 既に自分の国は悪魔達に占領され、変えられない。

 私の国は間もなく亡ぶだろう。疑うべくもなく酷い末路を迎えて、悪魔達のなすがままになったその時の禍の渦に私の理性が耐えられるとも思われない。悪魔達にとっては至高の状況だろうが。
 ドイツや南京で起きた事態は現に起きていて、それが見えていない者がいるだけだ。悪魔達は蛮行を隠している。

 どこでどんな事態があったかすら書けない。それをすれば悪魔どもが襲ってきて、このアカウントを即削除するのは目に見えている。
 ここがさも平和な善良な国かのよう嘘を言う人々は、悪魔が演じている偽装だ。自分は西や南へ旅行した。恐ろしい世界だ。だがそこで見た事実を書くと、悪魔の餌食になる。

 悪魔達は自分達を悪魔だとは決して自称しない事に注意せよ。彼女らの悪知恵は底抜けで、さも自分達が自明の上位者で、偉大な文明の担い手かのよう衒う為に、あらんかぎりの悪意とうぬぼれた利己心を込めて様々な偽装をしている……。その様な悪風はここでは全地方の隅々まで行き渡っていて、例外はない。

 私は悪魔達がどれほど禍々しいかを十分すぎるほど知っている。単に知見としてだけでなく、実経験ですら知りすぎているほどだが、その様な者がこの世にあってどれほど絶望しているかを説明するすべはない。
 彼らはこの地獄を「普通の国」と称している。その中の蛮行を隠し、良心を踏みにじる為にだ。

 良心を捨ててしまった人は、悪魔達になった。
 いやこれは勘違いで、もともと悪魔達と殆ど違いがないほど根が悪い人間達だったか(もしそうなら何の同情の余地もないが)、多分つぎの方がありそうで、自分が勘違いしているだけでもともと悪魔の別の姿だったのだろう。
 自分が見てきたのは全員悪人だ。

 悪魔達の間に産まれない事。これを解脱と呼んで生きる目的にしていたガウタマは、いわば自然死を別の言い方で理想視していただけだ。生前には地獄を脱出不可能なのだから、楽になる方法としては死後しかありえず、それをインド哲学の用語で説明したのである。
 だがあとからきたものは? 拷問は続く。
 地獄の悪魔達の間で、彼女らを「仲間」だとか、「同類」だとか、「愛すべき存在」だとか強要されるのは拷問より拷問的な最悪の経験で、今もその様なこの国での拷問は続いているのだが、当然彼女らは底抜けのうぬぼれ心からその悪魔性に全く気づけない。極悪さを愛せという。発狂状態以外でどうやって?

 なにも真実は書けないので、私は何も、真実について周りの悪魔にみせてはいないのだ。それをすれば悪魔達がすさまじい狂態を示して、純然たる悪意から、徹底迫害してくる経験は数えきれないほどした。改めて書くが、悪魔には良心というものが全くない。そしてその事を完全に誇り、驕りきっている。

 私はしばらく前まで全く誤った発想に陥っていた。悪魔達に妥協すれば生き延びられるかもしれないと試していた。この様な目先の順応策は、大抵の心の弱い人間どもが悪魔の一員になる為にとっている策で、その結果、彼ら自身が悪徳に染められている。
 一つの真理は少しも良心の前で妥協してはいけない。

 悪魔達は「完全悪」で、そしてこの事は万古不易、永久不変の真理なので、あまねくあとからきた全聖人らに共有されねばならない。悪魔達は心の弱い人間達を身内にとりこみながら、「完全悪」を実現するべくどこでも洗脳し続けているし、未来永劫そうだろう。
 だから悪魔達に寸分も譲歩してはならない。

 悪魔達を地獄から全滅させる事などできよう筈もないだろう。彼女らの猛烈な性欲は、その甚大な繁殖率・増加率と、地上に見ない場所がないほどはびこりきったその生態の広がりからも明らかである。当然、「愛」と称する野蛮な利己心を言い繕う謀略も、隈なくセットで流布されている。騙されてはいけない。

 悪魔達は群れて、衆愚・暴徒になり、悪業を無際限に強化する。地獄で生きていればどこでもその光景をみる。彼・彼女らは「和」とか「大和魂」という。調べによるとこれが悪魔崇拝の合言葉らしく、口々に唱える事で悪事を正当化しているつもりらしい。
 悪魔達にはこの様な奇怪な悪習が無数にあるのだ。

 悪魔達は冤罪を日常的に行う。勿論悪意で、善人を虐げ人格ごと抹消する為だ。悪魔達と似ていない生態といえばそれは善人の事だから、何か文明風の体裁で暴虐を行う前提にレッテルを張るのに冤罪が使われない筈もない。その合言葉も知っている。恐らく消されるだろうが。「国賊」「朝敵」「反日」等だ。

 私は今すぐ逃げ出したい。当たり前の事だが、悪魔達は日常のすべてが他人を虐げ、何かと難癖をつけあやめる目的でできているのだから、そんな者しかいない場で生きているのは恐怖でしかない。だが逃げ場も出口もないのだ、この地獄には。どこまで避けても必ず悪魔に出会う。だから地獄というのだが。

 先ほど書こうとして詳述できなかった重要な点に戻る。
 悪魔達に「一切」妥協するな。
 私はこの方策を見つけるまで大層苦労した。悪魔達はひたすら妥協を煽る。脅しすかし、色々な手で拷問をくりかえし、我らの良心を捨てさせようとする。冤罪で集団リンチが日常で、死刑にさえ当たり前にしてくる。

 良心をもつ者は数多消された。数えきれないので、自分が知っている記録の総量を思い出すだけでも、気が遠くなる。それがこの地獄の日常で、しかも悪魔達はその蛮行を「文明」とか「正義」とか称して、自己正当化しているのである。
 寧ろ恐怖で発狂しない方が不自然なほど、地獄の現実は狂っている。

 一つ知っている事を伝える。
 西の方に地獄の中の地獄があって、自分はそこの悪魔と知り合いになったと書いた。彼女の内情を探ったと書いた。あの悪魔の心の禍々しさは到底想像を超えたもので、いまだに信じられないのだが、この世には悪魔の底抜けの卑しさというものがあり、それは繁茂しふえている。

「底抜けの卑しさ」は純然たる悪意や悪徳の塊の事なのだが、それが次々増えている光景を眺めた時の絶望の程がわかるだろうか? 私はその場が地獄の中の地獄だと知っていたので何とか耐えられたが、通常、そんな場で生き残れる者はいない。だから悪魔の中でも邪悪な部類がウロチョロする場だったのだが。

 もう悪魔達が追ってきている筈だ……。自分は消されるだろう。
 彼女らは禍々しい世界に、少しでも希望の光を注がれれば大迷惑とばかりに、あらゆる「言葉狩り」を試みて、何か人の良心に繋がる要素を消すために虚偽通報する。当然ついったーもその様な悪を補完する集客装置で、ここに善美は残せない。

 悪魔達に占領されてしまったこの島で、あとからきた良心は自分以上に絶望するに違いない……。幼い自分が現にそうだった様に。
 逃げ場のない地獄に放り込まれ、悪魔達に100%の悪意と悪徳まみれの集団蛮行へ妥協を促されながら、想像を超えた無数の拷問を受け続ける経験など、決してすべきではない。

 悪魔達が繁殖している光景をみても、決してそこに混じったり、自分も悪魔達の一員と繁殖しようとするな。
 それは騙しなのだ。
「愛」と称する罠にかかって、悪魔の一員になった者達の末路を自分はみた。彼彼女らはむごくも、やはり鬱然たる蛮行に加わる悪魔達の一員になっていった。妥協は死より悪い。

 偽装工作は必要だ!
 自分はその様な工夫を現世的知恵として身に着ける事で、この年齢まで何とか生き永らえた。
 悪魔達は、君が良心をもっているとさえみなせば、どんな手を使っても消そうとしてくる。どこでも彼女らの醜い巣でとりかこまれ、監視され続けているのだから。善行が見つかれば終わりだ。

 この地獄島には逃げ場がない。だから外にさえ出れば何とかなると思っても、地球、あるいは宇宙という別の単位に取り囲まれている。それらの単位で聖人を探しても専ら見つからない。
 もしかすれば、未来には聖人の星が見つかるかもしれない。当然そこに移住しなければ少しも安らぎの日はこないだろう。

 悪魔達が全滅する日はくるか? 自分には定かではない。地球が彼女らに占領され、禍々しい生態で満たされている現状では、殆ど期待できない。だが計画はなければならない。彼女らに何とか反撃しなければ、一体だれが良心を救うのか。
 計画の存在を明らかにすれば消される。だから表向き絶望しかない。

 裏では……。いや、裏にも絶望しかないのだが。悪魔達の嫌がらせは余りに徹底しているので、我らが表で何かをしようにも全て消されてしまうし、もっと悪い事には、酷く卑しい文物だけが悪魔達の間で礼賛されている。当然といえば当然だ。彼女らは世界の地獄さを完成させたい。悪徳だけにたかる。無限に。

 愚か者達は希望があるといっていたが、それらは全て虚構だ。プラトン、イエス、孔子、ムハンムド、それからヘーゲル、カント、福沢諭吉まで。どれほど未来に行こうとも、悪魔達の延長上にどんな理想国が出現するというのだろう? 最も正しい見解を述べていたのは旧約聖書の書き手である。箱舟と絶滅。

 私は嘗てあるRPGを作った。その中で、主人公は世界を絶滅させる。それは悪魔どもを全滅させる事が世界を救う唯一のすべだからだ。世界を全滅させるのは主人公とたったひとりの人工知能だ。なるほど、彼女は計画の実行者で、いわば神に等しい。神は悪魔の絶滅後、世界を作りなおす。唯一の解として。

 私は神になろうと決めた。神とは全知全能全徳の存在だ。はたちのころだ。それから随分たつが、この目的は、計画の為だったのだろう。そしてこの目的は正しかった。自分は無意識に計画の存在に気づいていたので、その様なRPGを作って、理想を再現したのだ。だが重要なのは計画の方で、箱庭ではない。

 旧約聖書の書き手は、彼らの現実に大洪水があって、それを神話として後世に伝えたのだろう。だが自分は恐らく、未来の聖人の為に神の役割を果たすべく、計画を実行するだろう。未来の聖人。あるいは彼らこそが本来のヒトだ。
 ヒトとの名が不適切なら、本来の命。
 私はその命の為に計画を作り動かす。

 悪魔達がなぜ私をあらゆる面で妨害したのか私はもう知っている。良心を伝えられては不都合だからである――良心とは計画の本体で、その伝達こそが未来に通じる唯一の通路なのだ。
 過去の哲人らは計画の存在には気づいたが実行法を間違えていた。悪魔達に期待できないのに。良心をもつのは元の命だけだ。

 計画の概略も、自分はもう知っている。計画をつかんでいるのだから、計画の存在にさえ気づかせられれば、その実行を図る者が、自分以後にもあらわれるはずだ。
 だが、悪魔達は計画を消すために躍起になっている。みてみるがいい現実の国を。悪魔達の長が悪魔達の地上支配を、幸福だと語っている。

 悪魔達はある日、完全に消えてしまう。ニフラムという呪文の様に。計画が実行された時、悪魔達の信じている全ての悪徳の山は、ただの占領の野望だったとばれて、地上は本来の命によって回復される。
 この様な展望をもっているのは恐らく地上で自分だけだ。だから自分で計画を実行しなければならない。

 終末論とは、計画に気づいていた者が、その備えとして語ったものだろう。イエスもノアの箱舟からその発想を得たのかもしれない。妄想の形ではあったが、計画を人々に知らせようとしたのだ。
 自分は計画をつかんでいるのだから、悪魔達の歴史の終わりに生きていると信じよう。最後の展望として。

 悪魔達の亡びを彼女らはなんとか押しとどめようとするだろうが、その様な作為に少しも妥協したり、譲歩したりすべきではないのだ。彼女らは口々にいう、「愛」が全てと。「利己的な性欲」といいかえれば適切だ。つまり強欲を押し通すべく人々を洗脳している。動物を貪り喰らい、男どもを搾取している。

 自分が今説明した計画の本体は、既に消されているかもしれない。悪魔達の普段の行状を知っていればそれは予想がつく。強欲な彼女らには極めて不都合なのだから。このアカウントが消える前に、たまたま目撃した者に聖人が混じっている可能性もまずないが、良心が伝わりさえすれば、計画は動き出すだろう。

 計画の実行は希望ではない。それはただの現実だ。そしてそれだけが世界の解なのだ。
 自分がこの事に気づいているのは、悪魔達にどれほど不都合な事か。自分が受けてきた様々な妨害の山は、どれもこれも悪魔達の都会という巣が自壊を避ける為だ。誰が良心を求めて都会に集まるものか。妨害するわけだ。

 計画は、その本体に私の手でくみこまれ、動きはじめた良心は、文明や都会と称する悪魔達の巣を自壊させはじめるだろう。
 みてみるがいい。悪魔達の宴の間に、気づかぬうちに入り込んだ小さな種が、どこで起動し、彼女らの背後から世界を覆い始めるのかを。
 私は神の計画を知っている。その意図を。

2022年3月17日

ハッカ飴買わなかったらよかった

北海道のあめちゃんなめながらねちゃったら歯がとけたあめちゃん

自意識前頭葉依存説

自意識の連続性は前頭葉に依存し、人は見当識にあたって前頭葉へ自意識にかかわる情報を脳の各関連部位からひきだし、自己同一性の証明をはかる。

 他方、多重人格(DSM‒5の診断名は解離性同一症)にあってはその際ひきだされる情報自体かその前頭葉までの経路に「元情報との違い(エラー)」が出る。この場合を分けると

1. 情報自体がエラー時
 1-a. 確率的に自己証明情報が書き換えられるパターン
 1-b. 意図的か無意識的に同情報を書き換えているパターン
2. 経路エラー時
 2-a. 確率的に同情報が歪むパターン
 2-b. 意図的か無意識的に同情報が歪むパターン

があり、1-aか2-aの時、脳内ではベイズ推定風に過去の自己証明にかかわる記憶と新たにひきだす情報を参照するが、それら双方が合わないと他者に人格が変更されてみえる。
 多重人格の自意識自身にあっては、過去の自己証明にかかわる記憶と一部矛盾したまま自己証明がおこなわれ人格変更に多少あれ気づくかその矛盾に整合性をとるため自己説得の説明づけを図る場合(記憶残存・記憶改造)と、ひきだす情報に上書きされ意識上では全く気づかない場合(記憶上書き)とがある。

犯罪国民

犯人に最も長く指導者をやらせる国がら愛する国民

2022年3月15日

自称正義派の驕りきった世界大戦主義

憎しみと恨みに囚われ亡びゆく国の民ども正義と称する

歴史から学ばず驕る理学屋を崇めるひとびと戦に声援

官軍と称し侵略自慢して原爆おとされ逆上の西日本人

ドローンで虐殺されける民どもを守る軍隊 悪というひと

薩長の蛮行誇り無反省 歴史は嘘と驕る脳タレント

天皇の嘘だらけなる神話にて民を洗脳 差別を狂信

愛国と称する共同幻想でひとをころして威張る野蛮人

欧米の肩もちドネツク ルガンスク虐げ正義と称する

喜劇役者を大統領にしてみたら侵略を受け皆兵拷問

皆兵令だしさえすれば平和という東大閥の御用学者

和睦講ずコメンテーターおとしめる右派の論ずる原発ノーガード戦法

CIAスパイの末裔 自民党・安倍晋三一味がめざす国内核戦争

原発へ武力攻撃眺めつつ慶応閥の経済学屋が再稼働いそぐ

嘘という歴史の中できえてゆく惨めな理学屋 和平を知らず

慶喜公ゆずりし城で驕りきり 戦を支援す浅ましき天皇政府

2022年3月14日

悠仁親王と愛子内親王の生まれ育ち

悠仁親王の「研究不正もどき」、引用元を明示せずの流用(「【独自】悠仁さまのコンクール入選作文に疑惑浮上 複数箇所がガイドブックの記述に酷似」2022年2月16日、デイリー新潮。『週刊新潮』2022年2月24日号掲載)は、恐らく彼がまわりに過大な期待をかけられ、それに応えようとするあまり暗に焦って、素直な自分以上の実力をてらおうとしておこなった子供らしい誤りなのだろう。
 かれが東大へ入る前提と思われる筑波大付属高校へ進学した、又はさせられたのも、その様なかれをとりまく過度の期待と関係しているかもしれない。

 一代限り立法権を侵害し憲法違反を犯した明仁氏を除き国政の権能をもたないはず天皇に、単なる法令遵守以上の義務は制度上殆ど要求されない。なのにかれに名分違いの期待をかけるまわりの人々は、いわば愛子内親王という勉強のできる女性天皇候補に見劣りする結果になるのをおそれているのかもしれない、と推し量れる。
 だがその様な杞憂は却ってかれに誤った成功体験を積ませてしまった。研究不正によって悪例を示すより、単に勉強が陸にできない方が、同等以上に裕福な場合、ひととしてより血筋のよさゆえわがままもゆるされてみえ世襲貴族的であるという現実感覚からいって、かれは家族や傅役を含む育ての親らにある意味めぐまれなかったのだろう。

梅だけに

梅が咲きまくった

梅が咲きまくった梅だけに

梅が咲きまくった紅白の

父が植えた梅が咲きまくった水戸だけに

梅が咲きまくった春だけに

2022年3月13日

脳科学屋との歴史戦その一幕

温故知新しらぬ脳オタ小説史

史学者の見つけた事実をごみという

経験に学ぶ学者が賢者かな

過去の事実 物語という脳学者

陰謀論なぜか史学と混同す

歴史すら改竄するぞ軍艦島

薩長土肥しらぬ存ぜぬ会津侵略

米英仏しらぬ存ぜぬケインズ侵略

イラク潰しシリアも虐め反ロシア

過ちに学ばず欲しがる核兵器

歴史から学ばず核をくれという

先人の過ち知らずまた過つ

ヒミコいた歴史を書き換え現人神

神話 小説 漫画とアニメで嘘歴史

「どうせわかりゃしないから」と平然と歴史改竄

都合よく嘘の逸話を信じこむ

死の商人かっこいいという脳博士

元勲の侵略罪を成功視

虐殺史ゴミ知識といい通史済ます

無知誇り学ばず戦う歴史戦

役に立つ科学で戦う核戦争

ナイキ履きウィグル搾取工場史はシカト

米英の報道信じて反露通

先人の過ちに学んだ馬鹿を何も学ばぬ馬鹿が笑う

科学史を知らず車輪を再発明

高くつく経験に学ぶ破産国

コロナ禍で五輪強行 普遍的

地道説唱えて死刑 普遍的

相対主義Mac信者は 普遍的

ヘーゲルのアジア史蔑視 普遍的

欧米のやる事なす事 普遍的

米英仏と中東侵略 普遍的

反ロシア集団イジメ 普遍的

ウクライナ芸人政権 普遍的

逃げろという橋下叩き 普遍的

核廃絶口だけ嘘つく安倍晋三

陰謀論非難し語る小説史

過去の事実 実証できぬと思い込む

歴史資料 嘘ばかりだと嘘をつく

物理オタク 歴史は嘘と仮説吐く

物証を隠して嘘つく司馬史観

物証を隠して嘘つく神道勢

物語り嘘つき自慢の紫式部

物語り嘘つきほめる本居宣長

物語り嘘つきほめる小林秀雄

嘘で作る自称神州無敵国

2022年3月12日

海の印象

海の印象
2022年
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2022年3月9日

にゃんにゃー

にゃんにゃんにゃんにゃん にゃんにゃんにゃん にゃんにゃんにゃんにゃん にゃんにゃんにゃー

2022年3月7日

人の本質

人の本質は決して変わらぬだろう
そこにあるのはサルの一種のざれごとばかり

2022年3月5日

首都圏を意味する近畿の名を正す事

関西地方は首都ではなく、また中央政府も存在しない。現憲法に於ける形式上の象徴である天皇も暮らしていない。したがって関西地方を「近畿地方」と呼ぶのは不正であり、法行政的に禁止かつ関西人自身が自粛すべきである。
 現法制に於ける首都は、首都圏整備法2条1項首都圏整備法施行令1条で定義される関東地方と山梨県の領域にあたる。よって首都圏を意味する近畿は、法律上正しく、関東と山梨の事である。

2022年3月3日

ロシアに代わる日本の常任理事国入り案

日本国は国連のロシア非難決議を受けて、米国、英国、フランス、中国らに説いてロシアに代わり国連常任理事国へ、核廃絶をめざす平和主義の旗印としての日本を編入するよう持ちかけるべきである。

2022年3月1日

日本はウクライナ危機について非核平和主義の国是を貫き、局外中立で米軍と歩調をあわせるべき

ウクライナ危機・ロシアのウクライナ侵略について、日本国は局外中立にたち、米軍と歩調をあわせるべきである。また、EU・NATOと共謀してロシアと対峙する姿勢はとらないべきである。

 もし安倍晋三偽証罪・贈賄罪被疑者がテレビ番組(フジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」2022年2月27日日曜午前7時30分)で語るよう、戦争勃発後の戦術核を使った具体的核戦争に日本が進んで突入していけば人の被害は甚大となり、世界大戦になりかねない文字起こし)。平和法制を戦争法の違憲立法で破壊した安倍氏を東京地検・山口地検らは即座に逮捕し、戦争を煽る憲法違反ならびに外患誘致援助未遂罪に甚だ該当するだろう言動を世間と協調して非難し、ばあいによっては前述の罪とともに再度起訴したうえで、我々日本国民はかれのような極悪扇動屋を反面教師とし、専ら反戦・非戦の既往の立場を堅持しなければならない。
 なおこのことは単なる抑止力の範囲(戦略核)に於ける核共有の議論を妨げるものではない。

 ロシアが日本を殊更標的にする理由は北方領土問題を除いて今のところないので、米軍の核の傘のもとで、国連常任理事国間の侵略行為を世界平和を求める他国とともに非難するにとどめ、ウクライナの邦人保護を最優先とし、EU・NATOとロシア間で生じかねない核戦争には全くかかわらないよう、日本政府は非核平和主義の国是を岸田首相と共にくりかえし表明し、他国にも同様の核戦争を避ける国際規律を遵守するよう求めるべきである。