2005年12月31日

月の秘密

草原に吹く風が優しく君の体を包み込んでいる。さらさら揺れる足下の雑草に紛れ、ハルジオンが可憐な花を咲かせ君に笑いかけている。そして地平線は限りなく広がる。世界に終わりはない。あたかもそう思える。夕陽が山の端に落ちて行く。そこには数え切れない先祖が、そして同時代に生きる我々が、また君のあとにいる子孫が見いだした切なさがある。やがて光はオレンジ色を通り越し藍色になり、消える。反対側の空には月明かりがいつの間にか輝いている。地上を見下ろし彼女は何を思っているのだろう。君は話しかける。お月様。われらの生きる意味を教えて下さい。彼女は顔色ひとつ変えず答える。
 やがて君は鋭い光に溶け夜の涼しい風になる。君の立っていた草原を抜け竹林を揺らし、清流を下って町中をうねりすぐ、海へ出る。どこまでも続く水平線に慣れて君は、月の秘密の一部になる。授けられた子は真っ赤な太陽として大空へ一気に昇り、地表に慌ただしい日を告げる。都市の高層ビルの頂点から君は、新しい年の朝焼けを眺めている。

2005年12月29日

誰かの声

君は長い旅路のどこかで誰かの声を聴く。
「多少の歴史があった。そしてあなたはそこにいる」
その通りだ、僕は人類史の一つの先端にいる。生きている。
「もしかしたらそれは、幻想なのかもしれない」
どういう意味だろう? 僕にはよく分からない。幻想?
「ええ、あなたの生きている世界はすべて、幻想なの」
この世界が幻想だとしたら、現実と呼んでいるものがすべて曖昧な映像のように思える。僕はその部分に過ぎないのだろうか。
 君には分からない問題がある。それは現実の定義だ。
 君は日常の隙間でそれを探し、求めている。
 買い物をしたビニール袋を捨てるときに、それがどれだけの産業廃棄物として意味を持っているか、よく考えてみる。
「そこに現実の欠片がある」
本当に? これは一つの生きる方便だ。ずる賢く生きなければ人間なんてただの考える葦だよ。
「たくさんの動植物たちを殺して、あなたは生きている」
そうだろう。僕は雑食だし、生態系ピラミッドの頂点にいるから。別に僕自身が望んだ訳でもないのだけど。運命なんだ。仕方ないんだ。
「偽善者!」
そうだろうか? 僕は名も無き一人の大衆だよ。そんなに悪いこともできない、凡俗だ。君が思うほどずるくないさ。このごみを捨てて、生きて行く。それは全体としては我々の文明の前進に適うような、利益の運営なんだよ。正しいことなのさ。

 君は現実性を自ら作り出す。誰かの声が少しずつ、生活から遠ざかっていく。
「あなたは私を通して、この世の本当の姿、最も価値ある理想の地位へ導かれなくてはならない」
 君は知ったことか、という素振りで折りたたみ自転車を漕いで街中を疾走している。明日が近づいて、夜は遠ざかっているのだ。
 強い風がビニール袋を巻き上げて、どこかへ吹き飛ばしていく。
「私の声はあなたの中で生き続ける」
君は街中を疾走していく。太陽が昇り、空が白けて行く。

2005年12月26日

薄闇

街が薄闇に染まる頃、君の部屋には最後に残された夕日が射し込む。そこには人類史のあらゆる伝言が刻まれている様に、思う。しかし気のせいだろう。やがて夕日は沈み、後には完全な静けさだけが残される。ついでに君も取り残される。
 君の住む街は暗闇に段々と沈み込んで行く。半分欠けた月が頭上に現れて、奇妙なほど冷徹な顔で地表を見下ろしている。黒い野良猫が鈴を鳴らして路地裏を通り抜けて行く。冷えた電柱がまるでギリシャのパルテノン宮殿の列柱の様に、黙って立ち並んでいる。
 君は無心でそんな街の様子を眺めていた。
 もうすぐ引っ越してしまうこの街に、上京してから数年来、確かに暮らした痕跡を探し求めている。そして今夜の星空は答えをきっと隠し持っている。永遠に続く宇宙の暗黒を見通して君は青春についてを神妙に感じ取る。君の体は次第に衰えて行くだろう。今は今にしか無いままなのだ。
 君の住むアパートの前にポツンと佇む自販機で缶コーラを買う。飲み込むと、炭酸が大切な何かを語り始めた。聞き取ろうと努めるほどに薄まって行く声で、能弁なまでに流暢に。君はそれを胸の奥にしっかりとしまい込み鍵を掛ける。誰にも二度と開けられないよう、その鍵を道端に裂かれた下水道の穴に落とす。君の中で大切な何かは永久になる。
 シャワーを浴び、湯船に浸かる。風呂上がり暫くぼうっとしていると眠気が来る。そして君は間も無く眠りに着く。
 空の半月が明日へ向かって落ちて行く。

花と旅

君は旅の途中で小さな花に出会う。それは道端に咲いた何気ない花だ。特徴もない、取るに足らない命。しかし君はそれを愛することになる。
 幾ばくかの甘い猶予のあと花は風雨に晒され、枯れてしまう。君が見ている目の前でそれは土に還る。
 命は何度となく再生を繰り返す。希望と絶望とを抱え、次々に生まれ変わる。君はそれらの一部だ。
 やがて太陽が昇る頃、君は黄色に染まった街の中を再び旅立つ。枯れるまで生き続けた花の様に、歩き続ける。

基礎

足下に築かれた基礎を踏んで未来の栄華に向かって一歩ずつ進んで行くのだ

2005年12月25日

哲学

人間的価値を高める生活には限りがない。学ぶべき事は無限にある。もし君が生き方への方法としてあらゆる生活を構成しなければ何回生き直しても学びきるには未だ足らない。故にどう生きるかを先ず決めるべきで、それにはなぜ生きるのかをよく考えなくてはならない。

心音

穏やかな雨が地上をゆっくりと濡らして行く。雲が揺れている。私はそれを眺めている。
 物語は始まりそうにない。いつもの平和な空気が流れ続けている。私はそれを呼吸している。
 君は旅の途中にいる。構成されては解体される海からの風が、体温を静かに奪って行く。やがて冷えた手から血の気がひき、君は死に絶える。
 水が何もかもを浸す。正しいことも、間違ったことも、どころか君自身や時間も。やがて全てが消え去った後、屍だけが残される。誰にも知れない場所で蠢く魂だけが永遠と触れている。
 彼らは街の灯をただ何となく、眺めている。過ぎ去って行く光の塊が心音に重なり、幾らかの希望を刻む。そこには私達の生活がある。

逆様に落ちていく人体標本が回転を繰り返しながら無限の終わりを告げている。しかし、鳴り響く雷の間で全ての疑問は溶解してしまう。僕は止まることのない音楽を奏でる球体のどこかで、限りなく広がる青い空を眺めている。
 積み上げられる物語の結果に触れる、限界についての思考が僕を取り囲んで行く。そこには正解とか過ちとかは何も無い。ただの冒険がある。
 海から吹いてくる冷たい風が君の行き先を破壊する。どれ1つ取っても完成しない戯れの軌跡だけが、あらゆる組織を染め上げる。運動を続ける胎動が君へ新しい子供を宿す。天から激しい針が降り注いで暮らす者達を自滅させて行く。僕は意味合いを失くした空虚な風に成る。そして世界の空中を自由に吹き渉る。
 僕は山奥の深い林の中を歩いている。辺りに人影はなく、寒い。死の色が僕を脅かす。しかし、生きて行く。

2005年12月24日

信念

信念次第の道が開かれる。

誠実

君にできることを行うと良い。もしできなければしなくて良いし、大抵は他人が代替してくれるだろう。そういう人を誠実と呼べる。

命の歌

優しい闇夜が君の住む家の周りに透明な帳を下ろす頃、空には瞬く星々が数え切れないだけ輝く。我々はその一部だ。
 山の奥の静かな水溜まりに小さな波紋が広がる。すると次第に水面は激しく振動し、春の訪れをこの地に記して行く。空には半月が架かり、森の中で営まれる幾つもの物語を寛容な表情で、慈悲深く見守っている。
 僕は際限ない自由の地平に立って世界の終わりを見据えている。新しい表現が生まれては消える。僕の前には紛れない無限の水平線が延びていく。
 空に浮かぶ雲が、地球上に絶え間なく吹いている風の存在を教えている。どう転んでも僕は、その一部だ。あらゆるお話が大切な役割を果たした後、美しい時の流れがどのような部分も押し流し、消し去って行ってしまうだろう。
 街の中に無数の名もなき夜の明かりが灯る頃、彼らは過ぎて行く陰影の洪水のどこかでとても大事な命を羽含む。通り過ぎて行く時代の音律に流されながら楽しく、遊んでいる。
 空には輝く新月が架かり、この蒼い星に愉悦する理由のない運命を見下ろしている。

2005年12月23日

建築論

幸福な関係としての空間環境を造る事を建築と名付けた。消去と建設の概念的均衡として。

偉人

常識に徹しながらも俗世間に惑わされず、後世永々の共感を取る者だけが偉人と呼ばれる。

演劇論

人生とは究極の芝居である。

自己向上

人生の究極の勝利は、永久の自己向上への信念にある。

2005年12月22日

学習者

よく学ぶ者は最小の失敗しかしない。

仕事

程度の低い愚者の減らず口を黙らせるには、栄華の有頂天による堕落から逃れるには。

芸術論

もし君の芸術を歴史に残したいと欲すれば、未来形の一般解を造ると良い。それを傑作と呼ぶ。

春夏秋冬

空から温かい雨が降り注ぎ、育たなければならない命を少しずつ成長させて行く。君の家の庭にも同じ様に優しい栄養が注がれている。土の中で微小な生物が、明日の為に必要な生態系を循環させている。太陽が周ってやって来て、途切れることの無い戯れの輪を繋げて行く。やがて君が死んだら彼らの一部として働くのだ。私達には、それが分かる。
 春になる。君の家の庭には桜の花が咲いて、すぐに散ってしまう。美しく、正しい。そこには無駄が無く、あらゆる仕草が洗練されていて、儚い。
 やがて花びらは地上の小さな欠片となって消えて行く。しかし生命力は次の季節を構成する原動力として蓄えられる。夏が来る。青々と茂った庭木のどこかのちょっとした日陰に、近所の猫が涼む為の昼寝の間が巧く出来ている。
 秋が過ぎ、冬になる。黄色く染まった銀杏の落ち葉のどこかで、冬を越すべく蟻達が懸命に働いている。やがて北からの風が地表からそれらの形跡を消し去る。雪が様々な形態を一様な表情で綺麗に覆う頃、君は部屋で蜜柑を食べながらテレビゲームで遊んでいる。
 暫くすると太陽が再び角度を上げる。そしてまた、新しい一年が過ぎて行く。

少年

その時間は有限だ。

2005年12月21日

建築論

建築的抽象とは形相の選択である。

時代の荒波

権威に誉められ有頂天になる者を時代の荒波が洗い去る。

教育

俗物を軽蔑するな。彼らに恵みを与えよ。

啓発

教育組織が教育的であると名乗るより愚かな教育は二度とない。我々は教育が自己啓蒙であると知っている。

栄華

君の歩みが人類史の栄華を極めることを祝え。

どれだけ時代を経ても全体像が掴めないだけの広範な偉大さへ到達し得るなら、君は神なるものといえる。尤も、古今東西でその様な人物が実存した試しはないし未来にも永遠ないだろう。人類の進歩は不滅だったから。

専門

専門的分化は飽くまでも近代化の側面に過ぎなかった。

果実

その人を君を知る前よりずっと佳く整えよ。人間として高尚で居て、しかも相手を幸せにしなければならない。

研究

君の研究が地上の生き物に智恵を芽生えさせ、徳義の香りに気付かせ、技術を実らせる。尚且つ君の生き方は地上の生き物に絶えざる模範を提供するだろう。

探検

俗物に構うな。自らの研究に専念せよ。俗物は後に、君が残した宝の跡に群がる。それが彼らを啓蒙する事を喜べ。

途上

いつまでも我々の役に立つには成功の位置に安住すべきではなく、君自身の不断の努力によってより高い位置を目指し続けなければならない。永遠の成長としてしか成功は捉えられないし、永遠の成功としてしか栄光は捉えられない。

誉れ

中身のない賞賛による堕落より、永遠の挑戦者の幸を好むべし。短い一生の成功より、永久の歴史に於ける不滅の名誉を望むべし。

2005年12月20日

羊飼い

満月が君を照らしている。そして始終変わらない音楽で周囲を満たす。まるで最も幻想的な世界を構築する意志の現れであるかの様な雰囲気。
 君は幾つかの嘉すべき言葉を私へ投げかけている。それは私を揺さぶり、静かに、少しずつ壊して行く。
 彼らはきらびやかな街のネオンの中に紛れ込んで行く。ビルの谷の狭間で彼らは一つの輝きになる。
 君は思慮深い羊飼いの様な表情で未来を見つめている。私は、それを好んでいる。

2005年12月18日

孤独

孤独の果実の甘さ。

2005年12月17日

世代

未来を愛する者は同時代を超越してのみ彼らに奉仕できる。だからどれだけ面白そうでも現世に戯れるな。冷めて世間から離れて居よ。
 独立だけが将来の栄光への保証だと悟るべし。もし報われる筈もない懸命な努力が実るなら、未来の人類は君に感謝するだろう。それは人類の一員にとっての最高の幸福ではないのか。そして過去の数無き勤労への恩返しでもある。

修行

作品とは人類の為に。稽古は自らの為に。

謙虚

真の謙遜は自負から来る。それは最も自然な自信。相手の為の謙遜はまやかしだった。

宇宙の実質は舞台なので、人間より他に創造者と呼ぶべき主体はあり得ない。世界は我々の庭である。

性格

もし精神が大切なら外観より性格を鑑みよ。

主従

学術の本質は限りない自己肯定にある。発見や理性的願望の結果としての勉強は皆、自らの頭脳の絶対的信頼に由在り。
 しかし自由を自己否定に費やす者は積極的に学ばない。彼らの日常は消費である。
 彼らの社会的位置付けは労働力に他ならぬ。尤も、目的的で無い人間は居ない。従って彼らは公認さるべき人権ある従者とされていた。

感情

獣だけが愛情の他に子供を残す。我々の同族間伝達力に於ける哀れみに由来する母性愛は個体全体の保護願望でもある。

知性の意義

知者は自制に長けるが、愚者は反対だから野蛮社会でしか勢力を持たない。いいかえると愚者なるものだけが下部構造を支える多産な社会機構の担い手。
 我々の活動に合理性が存するなら文明化が平均生活様式の向上に倦む事なく務めるからであり、それが知性の改善に拠ってのみ進歩は図れる。

思考労働

思考は究極の労働だったろう。

幸福

幸福を愛せ。蓋し幸福とは何事かを追求する以外の最高幸福が無い真実を愛すべし。そうして君は自らの生活水準の向上を過去との対比に見出し未来への希望に因り絶えず幸福であり得よう。

自然

神を崇拝すれば君や、君の作り出す芸術をも愛せるだろう。それは自然の姿への信仰に他ならない。精神は自然だった。

俗物にとって聖言はごみと見分けがつかない。そしてまるで落ち葉を掃き捨てる様に等閑する。しかし歴史は彼らより遥かに厳しい選別を行う。それは川の流れでの石の淘汰に喩えられる、価値の間の洗練である。真の知識人は歴史である。

救い

学術的に大成したければ孤独に親しめ。それは精神の救済である。

立派に費やされた人生には安らかな死が贈られる。

信条告白

自分を救うには自分を信じなければならぬ。

追究

追究すれば理解できる。反復すれば記憶できる。

制作

雑事に惑わされて制作を左右されるな。

建築論

建築とは深く思考する事。

建築論

どうして建築をするか、それを問わない限り建築芸術の未来性は実在しない。同時代に可能な限界を表現する以上の建築家にできる仕事は無い。空間思想についてであれ、或いは実作の出来に関してであれ。もしも永久性に触れることが可能ならば、建築に於ける限界を真摯に追究することに拠ってだろう。何故なら全ての芸術は時代にしかあり得ないから。では君はなぜ建築について、芸術について、生き方について永久性を求めるのか。一時的な実存としてより他に君は自由に成りたいのか、自由の先に何があるのか。
 なぜ君は建築するのか、それは安全で衛生的で快適な空間を可能な限り環境に対して低費用で造る以上の理由があるだろう。文明の進行に参与して、身体的な快楽を前提として超え、精神的な快楽を自己目的に追究する必要がある。美しい空間とは何事かを各々が解答する他に無いが、建築は我々自身の延長だ。従って、我々が生き延びる限り続いて行く。その実質は宇宙の動的形態である。
 我々自身の幸福としての建築。或いは宇宙の目的としての。形相の終わりを試す限りない挑戦。

2005年12月16日

成果

成果主義とは自分の時間の使い方を考える練習。

2005年12月15日

健康

健康でなければ何事も成し得ず。

建築論

建築とは都市設計。

知的欲求

知的欲望に基づく勉学だけが身に着く。

物理学

正確な宇宙modelを作ること。

2005年12月14日

福祉

もし個人があらゆる秘められた才能を発揮して神々しい業績を挙げるなら、我々は我々である理由を成し遂げるだろう。尤も、大人に心底楽しめる遊びなど限られては居る。それはどれも社会奉仕の類型に過ぎないだろう。

福沢諭吉の実学について

福沢諭吉が実学と云う時、それはpragmatic learningを意味している。一般には暮らす為十分役立つ教養を指すが、究極には生涯学習を呼んでいる。結果、高学歴社会を助成した。それは発展途上国の躍進をもたらす。しかし彼の置かれた状況で、大学校の権威主義化迄は考えが及ばなかったのかも知れない。
 独立自尊の理念は最後には独学、つまり研究心そのものに行き着く筈。自由教育の理想は組織化に反するから。

2005年12月13日

習性

その一命を長引かせたければ愚か者を敬遠せよ。彼等は悪い習慣で出来ているのだ。

健康

本能的欲求は節約することが最も健康に望ましい。運動か気晴らしは命を縮める激務にさえならなければ、摂生らしかった。

睡眠

質的めりはりを付けて働きながら絶えず休むなら、睡眠時間は労働時間に比べてかなりは量的に少なく出来るらしい。

思考

都市化とは生活に於ける徒労の省略に他ならない。単に獣的な目的を超えて、我々の都市形成には上記の要請に基づく文化的な理由が有る。それは地球という息づく星の、動的形態の部分。
 環境の抽象化には現代人々が浅考するのとは別の、より特記されるべき行き先がある。人は地球の思考だろう。

科学論

直観のlevelで到達した認識を実験と推論で裏付ける行為を科学研究と呼び得る。純粋理性に属する科学的senseはここに発揮される。

物理学

宇宙項の解き方は単純で重要な方程式の多彩な組み合わせにある。どれだけ過程が専門的に複雑でも、目的が判明なら結果はsimpleになる。或いはならなければならない。

世話

老いて孤独に陥りたくなければ体の動くうちに世話を焼け。

物理学

宇宙項、万有斥力の論証を行え。それは大統一論完成の鍵でもあろうから。

文学論

文学は先ず国語を愛する所から育まれてきた。若しこれを憎んでも外国語に逃れる他無いのだから。

科学論

科学史は本質的に穏やかな確認作業の経過だ。そこでは論争の余地などありえない。理知的な人は一片の論文を書き、それを現世の生け贄にして不毛な派閥を避けるのだ。

建築論

建築が重力に依存するものである限り、その芸術は地理上の個別解を免れない。普遍性の追究が重要なのはそこに史学を発展させる余地を呼び込むから。そして文明化としての進歩は歴史を通じてのみ観られる。

引き戸の冷蔵庫

省エネを本質的意義とした引き戸の冷蔵庫。

2005年12月12日

学究

教育の最良の結果は学究の幸福を目覚めさせること。

計画

最良の計画は、実現するように出来ている。

2005年12月11日

家計

必要支出と貯蓄分を除き、余った分だけ使うべし──これを倹約と呼ぶ。
 働くこと自体に喜ばしい目的を見いだすべし──これを勤勉と呼ぶ。

 もしこの2つの原則に誠実ならば、人は気がつけば金持ちに成っているのだ。

家計

倹約精神のない金持ちはフンコロガシに変わらない。

建築論

規格品を使用することは工業化された社会の前提である。究極的に、現代建築家の職能は選択にある。最も広く、深い意味での選択こそが空間を芸術へ昇華する。

幸福論

文明貢献以上の幸福はない。それは個人的生活の犠牲を意味しない。寧ろ、個人的生活の充実を通した幸福の提示の先にしか文明化の真の姿は有り得ない。だから、我々は幸福になる様に努めよう。あらゆる良いものを恐れず率直に認めていこう。そしてそれらを手中にすべし。

行動計画

自分の文明にとっての価値を客観的に判断せよ。内実を分析し、自らの行動計画に反映させよ。

人間性の向上そのものには限りがない。だから生きることには限りがないだろう。
 この様に、我々の永遠性は生の向上にある。もし普遍的な生があり得るならば厳密な生の向上の軌跡にある。死はより高い向上を目指して行われる局所的な低落に過ぎない。而して生活とは不変である。

幸福論

幸福の追求を続ける以上の幸福の定義は存在しない。従って生きることは幸福に等しい。

幸福論

幸福より他に求められるべき価値はない。幸福の量的かつ質的向上を目指す先に人類の社会的進歩が存在する。

2005年12月10日

生態系

人間社会でさえ抽象化された生態系に過ぎない。

経営論

最も単純深刻な意味での成果主義とは他人の信頼である。

労働体系

IT革命とは取りも直さず人生時間の省略である。各人生を長く生きる為に流通行程の高速化が行われる結果として、頭脳外部回路たるネットワークが張り巡らされる。しかし我々の生活する本質は不変だ。労働体系の定義が更新されるだけ。

自己存在

人類が発展と名付けるものは試行錯誤の省略を集積したものだ。量そのものとは別に、経験より他人に、他人より歴史に学ぶほど成功の質は高くなる。だから我々の文明は無数の人間が失敗を繰り返した結果と言うのは過言でない。或いはその全体が否応無しに流れる方向だけが普遍的な善なのだ。生命が人類の形で表されるとき善悪の基準が発生するので、自己目的化した生存幸福を量的質的に追求するのが精神活動の使命である。理想社会を築く主体という意味で人間は創造者たり得る。

思考

真に複雑な思考とは最も単純な考えの秩序ある組み合わせであり、混乱を支配することではない。

2005年12月9日

論説

事業経営は本質的に社会への従事であり、大変な苦労の末に得られる唯一の慰めは富というオモチャである。
しかしこれは人類という陽気な猿の群れにとっては非常に効果が高く、しばしば何者かの一命をも左右したりする。
だからその数字で表される紙切れは取り扱い注意のオモチャであって、対象年齢は厳しく限定されなくてはならない。

もし企業運営に是非とも必要な能力値があるならば、専ら金というオモチャの扱いに安全なだけの精神年齢を測る手段としてのみ機能するべきだ。
年長者が後進のbusiness manに払うべき注意は凡そこの一事に限定されて構わない筈だろう。
[下らない老人崇拝観念やら馴れ合って互いに堕落させて活力の抑圧を慰める習俗やらは脱構築されて然るべきなり]

公言

全公務員の任務は全体の為の奉仕である。肝に命ぜよ。

2005年12月8日

新資本主義としての社会変革状況の分析とvision

情報産業の発展期に就願処世の道具としての学歴取得へ投資するのは不合理だ。
社会変革は個々人を超えて、平均的生き方の模索の先に自由人即ち「資本人」を発意する。
共産世界は資本人同士の自主的協業を原則とする。それは必然の経済史である。

だから我々はより高級な労働形態、今よりさらに知的でもっと精神的な就労組織を形成する事に物怖じない様にしよう。
平等の人権が宣言される限り、それは人道的生き方に他ならないのだから。

研究

研究すれば発見できる。追求すれば達成できる。

奉仕

究極の奉仕は閑暇である。

快苦

生態系が地球環境に適応した恒常の限り、我々の快苦の量は過去から未来まで一生で大した違いはない。謂わば取るに足らぬ。可変なのは質である。我々が幸福に抱く感覚そのものが推移して行く。だから未来の人間は現代人とはほぼ違う生活を行うが、環境に対する生命状態が一定であれば快適や不快には今日やこれまでのそれと差ほど違いは無かろう。つまり我々は歴史を必要以上に恩に着るべくもなければ将来に嫉妬しなくても良い。安心して勤労を続けるだけである。

少子化

出産率の急激な低下は社会自体の猶予化を推進する。推進される知能の老成に反し、性格の幼児化は必須である。
 しかし、日本を代表する先進国の物質的充足は一般に満足する位置にあり、ここから個人主義が芽生えるのは自然だ。必要最小限の子供を持つのはステータスですらある。地球規模の人口爆発はあり得ない。
 我々はこう分析し得る。普通人、万能人が完成に向かいつつある、と。それは人間らしさの限りない解放を意味する。

建築論

大都市に於ける超高層開発によってエコシティ化、いわば生態循環された大変な都市緑地化が進めば、地球環境問題の90%以上は解決され得るだろう。

建築論

生態系に組み込まれた文明都市を造る事は現代建築家の至上命題である。そして余裕が残れば宇宙都市開発に励む必要がある。

平静

我々が社会的成功と呼び慣らす華々しい瞬間は、本人にとってすれば楽しみを過ぎた後のお祭り騒ぎと変わらない。だからいつでも平静なままで自分を鍛える事に集中しよう。それが明日はもっと社会へ貢献する様に。

学習

年老いる程に魅力的になり続ける人は今尚盛んに学習しているのだ。

大人

人は成長を諦めない限り生涯勉強するのであり、その意味で永遠に子供であり、また事実、知能の出来映えについては死ぬまで成長し続け得るらしい。だから大人とは、充分に社会状況へ再適応し得る状態を指す。

見解

封建制の段階で初めて一般に自覚された日本独特の求道の感覚が、現代の国民性の根幹を形成している。それは隔離された国土における季節風に根ざした甘い自然への深い共感に基づく、命を軽く見るという特殊なidentityに翻訳され得る。彼らは個々人を全体に対しては取るに足らない部分として観る。だから命は根源的に、幾らでも再生可能なゲームと同じ感覚なのだ。民主主義の伝統は古代ギリシャ以来、個人中心の分限道徳に由来する。日本がアジアでいち早く産業革命に基づく近代化に成功したのは、中国文化の固定観念から自立していたからだろう。社会制度を超えて道徳律そのものをも摂取した時、狭い島国らしい和を重んじる精神と自由の理想はより高い次元へ飛躍し得る。それは人類史に関して重要な地球的文化を生み出せる。

見解

農耕社会に基づく本音と建前の伝統を善用するが故に日本は地球上で、平和主義の理想をいち早く国家modelとして実現できる。

工学

熱機関の研究を通して永久機関に近似の装置を作れる。第1種のそれと2種のそれとを組み合わせれば理想的なエネルギー源が出来る。

脱地球化

精神的生産性が動物的生産性と調和しなければ真の幸福には到達しないだろうが、これは我々の生活圏が脱地球化を図った後に限られなければならない。でなければ自滅する。

忠孝の現代性

智恵や徳義ばかりか技巧ですら年齢とは比例しない。だから、年長者への無条件の尊敬はその量的な生活経験の度合いに限られる。いいかえると、忠孝とは人生に於ける帰納的可能性に関する前提。よって偉大な年寄りと軽蔑すべきそれがいても矛盾でない。
 尤も、儒教の影響下にある文化圏では本音と建前の概念が通用し続けるだろう。それは又恐らく、社会が集団指向を抜け出さない結果を意味する。しかし民主化は抵抗する。ここに葛藤の活力がある。彼らの猶予はその葛藤が存在する限り延長されなくてはならないだろう。それは文化的可能性を意味している。

歯車

全人間は宇宙の歯車。

付加価値

高度成長に乗って下部構造としての経済活動に参加して行く一般人にとって最低限の科学的知識は必要であったので、学歴社会が築かれたのは論理的である。少なくとも日本に於いては、道徳上の規律は過去から持ち越された年功序列体系で賄われた。
 だが、情報化社会への移行を経た21世紀でこれを引きずるのは不合理である。新しい秩序に適応力あるのは寧ろ柔軟な若者であり、かつて付加価値と見なされて来た様な抽象的情報創造力を存分に発揮し得るのも又、若い活力だから。

楓の葉

柔肌よ夜露に塗れし楓の葉

公言

支配と自由は理念上矛盾している。
もし現代政治に目的があるなら、自治の大衆化への啓蒙──民主化である。
 あらゆる政治活動はこの為の方便と考えて良いだろう。

建築論

最も安価に最大量の製品を生産する事は、工業化を経た設計の前提と見なされる。構成の単純化が必要だ。もし計画の質を問うならこの前提は当てはまらない。よって計画は日々複雑になる。理想が深まる程、概念は高級になる。
 しかし、この様な専門的な苦労は必ずしも一般人にとっての理解に授かるまい。彼らは表明を観るが、内実を知らない。そして職能の誇りはここに由来する。それは世界という華やかな舞台を支える名も無き基礎に似ている。

2005年12月7日

裕福

真に裕福な暮らしとは、衣食住に事欠かず充分な自由時間を確保し得るそれ。

建築論

無限辺に改造可能な超高層建築でなければ真に都市へ適応した創造物とは見なされない。先ず規則を最も標準化する事。次に材質及び工法を一般的規格に限定する事。そして如何なる改変にも対応可能な完璧ではないが単純な構成を取る事。設備と構造を明確に分離自立させるのは無論。

建築論

現代建築家にとって小住宅は実験場と見なされているが、他方で価値ある質を確保するのは専門家としての当然でなければならない。

建築論

現代都心に関する限り、独立住居は一般解に成り得ない。地価に属する空間量や確保し得る環境の質について、超高層集合住宅の可能性が示唆される。公共空間の大規模緑化は熱島を鎮め、人々は地上の悪化した空気から逃れ、太陽光の恵みと共に人工性が造り出した新しい景観を享受する。そして防災面においてすら大規模構造は圧倒的優位にある。
 建築家が心配する唯一の点はその実現可能性についてであり、人が憂慮するのは歴史や街並みの破壊についてである。しかし時代は進化の道を指差している。もし配慮を払った上で新しい建設が可能なら、それらの問題は無くなるだろう。都心は未来の姿を湛え、恒久の平和を約束するだろう。

memo

資本主義が利益を追求すればする程、社会に於ける商品流通は効率化される。
あらゆる活動の高速化に因る便利がその結果である。
しかし商品形態が非物質化された後にその追求は「価値」に関する自由競争へ移行する。
ここに人間の判断力は鍛えられ、文明の行き先は精神性に委ねられる。

 君は観るだろう。
より高級な情報が人類渇望の的になる。
光速に近似の速度で届けられるそれを手中にしようと如何に組織が運動しよう。
最早労働とは知的戦略の重なり合いを意味されるだろう。
購買とはダウンロードの商号に等しい。信じられない価値の情報に誰も信じない額の投資が為されなければならない。
『時は金なり』
従って、金を費やして多大な時間が取り引きされる。
『情報とは金である』

知能と仕事

知性を個人的欲望へ費やす為に人は企業で働いて来た。しばし学者がこれらの活動を蔑む場合さえあるのは理に叶う。なぜなら普遍的利益の観念は資本主義の論理を含むと気づく知性がこの労使活動に参加して合理性があるかどうかは、誰の目にも疑問。理論はもともとこれらの仕事の原理であり、経営者、資本家、労働者らはそれにのっとっている。
 しかし起業家は違っている。彼らはあらたな公益を私潤と調和させる必要に駆られて会社を操る。労働者が資本家より下っ端だとされる社会構造は、共時的にはつまり、流動できる役柄とみれば正当視された。それは単に知性以上に、道徳性の力差とみなされてきた。
 この能力差が共産主義の原理的不能さを物語っている。そしてよりのぞましい配列になる秩序をもとめるのが、社会思想の展開とみなせる。

知能指数が如何程高まろうと彼や彼女は依然として人だろう。知性に限界はあり得ない。可能ならば知識は無限である。
 しかし、人生の有限性という道徳を考慮する限り我々にとって最良の知性とは、文明に貢献する知識を選択する能力に他ならない。ここに情報との違いがある。だから本当に知識人にとって無知は寧ろ喜びだ。にも関わらず真の如何なるかを悟るが故に。

至善

我々の最良性にとって抑制が必要なのは動物的欲求に限られる。精神的欲求に関しては極端であればある程、良い。もし到達すれば万能の人間に成れよう。当然、無智無能の演技も含む。それ以外に人間性の頂極があれば教えを請いたい所だ。

かつて知的欲求と結びついた研究は最も強烈な人類の武器だった。けれども未来については。それすら知的能力に依存する以上、人類の尊さは知性に信頼がある。だから知性を鍛えることに尚一層勤めよう。我々が知的であると自称可能な次第で人類の栄光は保証される。

三日月

透き透る夜空に輝く三日月

2005年12月5日

様式

芸術という仕事は結局、社会の美化を目指すものだ。そして美が主観的で、相対的な概念である限り、我々の芸術は多様化へ向かう。
 言葉遊びではなく、客観的で、絶対的な美があり得るなら、それは普遍的な社会を建設し得る。これらは一様に似た様式を取らざるを得ない。現代の文脈で批判に上るのはいつもこの様式性なのだ。人間性はそれにより抑圧されると云う。
 しかしあらゆる様式を作り上げるのも又、人間である。様式を信仰するのではなく、我々にとって価値ある体系として人間性の為に奉仕すれば、それは最も明るい世界を造り出せる筈だ。普遍人としての社会の美化が可能なら地球主義を超えて、宇宙時代が始まっているのだ。

愛情は我々を孤独から救う。だから全ての愛情は尊い。たとえ同類に対してのそれを超えていても。もし我々の宇宙自体を愛せるなら、孤独という観念はあり得なくなる。

文明論

文明化、つまり最小少数の最低不幸と最大多数の最高幸福を目指して行われる活動は、我々の普遍的指針。全ての人間活動はこの使命に含まれる。
 あらゆる悪は善の為にある。

経済について

価値を効率良く循環させる行為を商売と呼ぶ。

ならば価値そのものは如何にして産まれて来るか?
それは結局労働に因る。

 「労働」は一般的に、価値の制作とその社会還元の両方の内容を持つ。
だから経済活動とは労働の文明化の言い換えである。

労働について

労働により金銭を稼ぐ真の意味は、個人的欲望の充足より更に一層社会還元にある。もしそうでなければ労働の義務はあり得ない。

2005年12月4日

建築論

全ての建築は都市の革新である。

境地

人が完全無欠の境地に至る事は実存の形式として原理的にあり得ないので、人間性の最も価値ある向上へどれだけ情熱を傾けても構いはしない。

建築論

ある思想がどれ程普遍性を持とうが、実現された作品について個別性の残滓は免れない。伝え得るのは思想だけだ。
 建築家の一生を神格化するのは個別性を徹底して排除する軌跡。その結果を個性と云う。

2005年12月3日

人と自然の関係

人が自然を超えられると考える事が善か否か。
 私は、神とはエネルギーだと思う。そして我々の頭脳に即した精神作用は極めて複雑な運動だ、と。自然とはこれらエネルギーの発露たる宇宙運動の総称であろう。

 では人とは自然の部分であり、全体ではない。精神は全体を想像可能だが全体ではない。従って我々は理想に於いて超自然的かもしれないが、現実に於いてはそうではない。
 善が幸福を目的とする普遍的立法の言い換えならば、自然と中庸な関係を保つ事が人の善なのだ。

普遍的信仰

あらゆる聖典はその研究を通して普遍的信仰の礎となるべきものだ。

配偶

人は配偶を選択する事で人生をも選択する。

頭脳

相手の頭脳の出来に話題の質を合わせよ。聖言を尊重しない者と同じく、愚者をあしらえないのも一種の愚者だろう。

2005年12月2日

暇があれば研究はできるので、学術家に関する必要能力は暇を創り出す賢さだけ。

成功

高尚な精神を持つ者は成功しなければならない。

最高善

教育により伝え得る最高のものは学究目的としての最高善だけ。

無為

浮浪ですら何もしないという仕事である。それらの仕事は我々の社会に多様な型を教える。全体の改良には型の種類が多ければ多いほど有利。

抽象

生き方の抽象が人類史に論理的進歩をもたらす。独創は多分に省略の結果だ。凡そ過去の最も進歩的な生活は未来の基本的生活に入れ代わる。だから生活史すなわち人類史は抽象の歴史なのだ。

教育制度

教育制度の限界は人格の伝達にある。そしてここより他には二度とないだろう。

目的

科学の目的は知識そのもの。哲学の目的は道徳そのもの。芸術の目的は技術そのもの。

建築論

職能の意義を絶えず自ら厳しく問う事、限りない理想への生涯学習の姿勢が要る。

建築論

自然を生かす建物と合理主義、及び人道主義との兼ね合い。

姉歯設計事務所の構造計算書偽造事件について

重大なのは建築士の誇りという前提以上に、日本型組織の体質ではないか。不正を公の明るみに出す勇気の欠如は和を最優先にさせる国民性に由来するかもしれない。
 問題の背景にある根本的矛盾として、和と民衆政治の原理の調停を実現しない限り真の事件の解決にはならない。

命の長さ

ある生き物の一生が十分長いか、或いは全く虚しいだけ短いかは、各個体がどれだけその本性に基づいて生きたかにる。

雌雄と男女

雌雄の別があるのは繁殖目的以上のものではないのだから、生殖活動以外では男女関係は同性関係と等値化されるべきだ。

知的活動

知的活動に喜びを見いだす以上の知的営為はあり得ない。

自省

独りきりで静かに、穏やかに思索に浸るのがこの世で最もよい事だ。

2005年12月1日

近代主義の可能性

モダニズムの可能性は終わっていない。たとえいかなる障壁があろうとも、それを突き詰めること。その先に未来がある。

世代

自分より若い世代が自分とは明らかに違っていることが社会唯一の希望である。

2005年11月30日

都市近代化の手法

再開発などによって
1. 街区整理
2. 集中的高層による空き地の緑化
3. 歩道以外は地下に仕舞う

2005年11月29日

近代都市は未来から見れば古代都市に過ぎない

我々が近代都市として見なしているものは未来の地球文化の基礎である。だから文明化が均質化をもたらしても本来、何ら問題はないのだ。考古学資料の為に幾らか過去の産物を保護して行く必要は別に。

木枯らし

木枯らしに赤ん坊の真っ赤なほほ

建築論

建築表現の地平線に到らせるのは、普遍性だけである。

古典

必ずしも古典主義の為ではなく現代及び未来との差と共通点を知る為に、古典は学ばれなくてはならない。

教育環境

知識伝達の効率化と人格養生の契機付けというより他に教育組織の要点はないのだから、創造的活動を結集させる抽象的環境を造り上げるのがその運営の目的でなければならない。学園が保守の場ならその存在意義は無い。そして教育の理想を追求する以外に進取果敢な教育の舞台を実現する仕方はない。

科学の環境

研究機関である大学院と教育機関である大学部との連関を明確に分離する事なしに人類科学の真の飛躍的発展は有り得ない。

科学研究の本質

科学研究者として生きて行く上で本質的に不可欠なのは論文や講演を通した或る洞察の自他への説明力だけ。だから教育組織はこれを助ける為の副次性である。

2005年11月28日

仕事について

義務を先んじて終わらせるには脳内で自身を暴君的に追い込む事。ストレスを溜めない為にはそれらは所詮ゲームだと冷めた視野を持つ事。

建築家の職能

建築芸術の理想が最高善たる形相の実在化だとすれば、理路整然たる統合が棟梁の仕事。そして時代の標準素材を組み合わせれば分野の極端な専門化が防げる。だから建築家の職能は究極には選択にある。

工学の理想

技術と美術の統合、工学の理想。

流儀

個性の特長を活かした競技流儀がある。

2005年11月27日

一日は一生の象徴

一日が始まり、過ぎて、暮れて行く。その全体が人間の人生である。

依頼を選ぶ事

百年程度の経歴内の限られた実現案を古典化するに、先ず仕事を選ぶ必要がある。それが為に依頼者を限定する。この為に利益率や浮き世の勲章を美学より優先させるのは論外で、寧ろそれら諸価値を精選する才の故に専門はその担保なのである。
 が、現代芸術の論理は商売や公使と矛盾しないのでなければならないだろう。ゆえ我々は生涯建築を学ぶ。

建築の歴史との対話

声高な喧伝から距離を置き、建築史と真摯に向き合い、重要な作品を作るのに全力を捧げるのが建築家にとって最良の処世術だ。計画の正味は誰の目にも明らかだから。

理念としての建物

サヴォワ邸が理念である如く、ファーンズワース邸は空間に翻訳された近代の理念だ。それは普遍的な箱であり、地上から切り離され宇宙空間に解き放たれた人間のすみかなのだ。現代の我々が未来に具象するどんな建築芸術も、ただ理念としてはこれを一つの基点にするだろう。計画に組する極度の単純さ。尤も技術は益々高度になり、生活の次元は引き上げられ続けよう。

大成

死迄権威になる事を避け続けなければ真の大成には遠い。

教科書

啓発的生き方が可能ならば自伝より良い教科書は書けないだろう。

現代建築の手法

建築的消去、生活の主役化、徹底した表現の非個別化・普遍化。地域性や場所性を破壊する力とそれを守ろうとする力の均衡を才能に可能な限り高次で取る事。

肉体

肉欲の中庸と精神欲の極端は人間を聖化する源泉。我々の自然に従おう。それが生命の意志だから。

人格

万人の模範たることを心構えねばならぬ。

建築論

近代建築の主題、建築芸術の理論的可能性がミース以降進展された試しはない。そこで全ては既製品であり、独創性は歴史上の価値を持たない。彼の追究は終始一貫して普遍性に対するものだった。ミースは高層化と長梁間建物の可能性を建設的工業化に則って開拓した。
 自然との調和意志といった環境工学的改良とか、人間文化的概念とかで計画自体の抜本的刷新の不毛をごまかすだけの戯れは後近代といわれてきた。
 新しい建築を造る為の理念は極度の単純化にあるのだ。都市から詳細迄超個人的な技量で貫徹された単純さ。そこに合理主義と地球人の建築文化が到達し得る審美の究極地点がある。宇宙都市の建設。妹島和世建築を見よ。

2005年11月26日

革命家と思想家

社会主義化を導くのは生産様式の殆ど完全な機械的自動化であり、直接的には右派の社会革命によってではない。とは云えいつもの革命家なる人物はのこのこ恥知らずに歴史上に登場しては我々の世間を騒がせるのだ。最高の立役者は技術者の毎日の思考情報に伴う創造性そのものなのに。

幸福主義の時代適性

生産労働への従事は機械時代以前に貴ばれない訳がない。従ってアリストテレスは早計だ。

権威

権威の本質に何もなければ、それへの面従は少なくとも破壊的である。

育成

賞罰というのは馬に与える人参と鞭に似ている。人間界でも同様。栄典や法律を容れた社会は我々が制度化した調教施設であったろう。

苦労

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」の諺は、「若いうちしか肉体を酷使しづらい」という意味に近い。尤も、天才にこの格言は充てはまるまい。超人の学習効率は、凡人の目には苦労知らずに映るかも知れぬ。さらに上の聖は万人の為に苦労自体を演出するのだろう。その上に苦労の概念はない。

起業アイデア

伝統的な茶屋を現代版で蘇らせる。ジャズ系のBGMと雰囲気に配慮を凝らし、LOHASなシステムをファーストフードの日本化として位置づける。和を理念として掲げ、東京発の口コミブームから全国展開する。裏原宿に第一店舗を設け、老若男女や身分を問わず、日本でいちばん落ち着ける場所を提供する。
 目標に世界でいちばん落ち着く場所を置く。New York SOHO地区への進出をキッカケに世界規模展開。LOHASの代名詞として、日本の文化的優秀を背理的に宣伝する結果を待ちながら、マクドナルド以上の宇宙的流通を目指す。全て都心部を位置取るが、特定の店舗には現代風日本庭園を置き閑寂な観想の趣へ誘う。おにぎりと緑茶をメインにし、漬け物と饅頭辺りに商品種は抑える。日本最高の水と米を使う。

2005年11月25日

名人

成功への欲望が傑作創造の意志より勝ればその者は芸術史に残らない。尤も、成功欲のない者はそれ以下である。芸術の社会化に貢献しなければ消えてしまった砂遊びに変わらないから。

死に至る病、運命を楽観視することを希望と呼ぶ。それは安心の手法としては至極高級で、意識無意識に関わらず最も広く一般的に流布しているが実際、我々にはそれ以上の希望が又と無いのだ。君にとって生きる行為がその緻密な一部であると認識出来れば永遠の神と境遇として差ほどは変わらない。唯、我々は事実上死ぬだけである。

競技とは

あらゆる命は世代交替する定めだったので、我々の道徳が則る自然の掟にとっては、その精神的偉大さに依ってある人間の崇高さはみられる。肉体の延長上にその究極的抽象として精神が自覚的であり得たから。運動競技に於ける卓越も又、生来の差ほど無い身体能力の故というより到達され得た修練の厳格さに対する崇敬を喚起する機会たる。

縁起

世界は観点によっては互いに依存しているばかりか、処世術の最良性は中庸とも呼ぶ縁起の追認である。つまり縁起とは道徳上の極めて簡潔化され省略された理念であり、自らの信仰の最善性に関する言及の試み以上のものではない。

勤労の定義

経済活動の本質は社会奉仕にあるのだから、会社員や公務員としての今の資本主義経済の方法は、統括された集団労働の合理性である。
 だから、もし個人労働が、我々にとって一般的な最良の勤労形式を生み出すならそこに於いて真に共産主義と再び名づけられて良い理念は現実化するだろう。
 それは過程的に考慮して資本主義労働の生産様式的頂極に他ならず、以前勘違いされた様な社会の急進的革命、つまり暴力革命の結果ではない。そして私の個人的想像が誤りなければ、生産設備を個人化していく情報技術革命がその根源因となろう。

建築論

自然との理想的関係に一般解はない。故に、普遍的建築は各地域各場所で個別的形相をつくる。我々がコンセプトと呼ぶ設計理念は、どれだけ自覚的であるかに関わらずこの言及である。取りも直さず建築とは我々の環境なのだ。

精神

「人間の人間的活動には人間的限界がある」と主張する。しかし未来の我々を我々が悟らない限りそれは偽である。少なくとも、獣性を抜け出して神性に到達しようとする意志は限りない。だから我々は世界をよく知るよう努めよう。その本性を解放するだけ我々は聖に近づく。

建築論

精神的建築がいかなるものか、我々には素材の概念的な構成を通してしかそれを知る術は無いが、いづれかにせよごく高尚な一部の特権階級の趣といったかつての要求以上に地球的な民衆には文化的興味が必要である。我々自身の啓蒙という他に希望に満ちた未来の約束の為に。

建築論

何の為に造るのかを知らなければ建築家とは呼べない。

時間

孤独な学究の時間を確保する事こそ学術家の要。

目的

人間としてのより高い目的を自覚して努力するより生きるのに適した様式はない。

建築論

空間に於ける審美とは時代が要求する機能を伴った構造体を追及する事を云う。

2005年11月24日

建築論

内装について。部屋の都市化は我々の生活を普遍化する。

建築論

個人的業績よりも風景の変化を楽しめる様に、それがより理想化されて行く様に建築環境を作るべきだ。

人体学

我々が神と名付けて崇拝して来た超自然な本質は、科学的に定義づけられるならエネルギー。だから創造に不自然は有り得ない。従って人間や我々が精神作用と呼ぶ脳内の化学反応も同様に。そして我々が自由と思う外的かつ内的行為の可能性はエネルギーの範畴にしかない。それは時空に依存する。よって無や独立といった哲学的概念は単に理念内に浮遊する場面。
 以上から考えて精神とは頭脳に宿った抽出エネルギーの一種であり、我々の意識はその結果。意識には独特の活動性があり、例えば理想、セオーリアといった側面も一部。
 人間であることはこれらを生かす自由の行動であり、我々が社会を文明化するに伴ってその多彩は益々発達し得る。つまり我々とは宇宙の動的形態。

生物的人類学

生命体に本来する多様化への意志が生存目的や宇宙自体の延長性或いは収縮性と如何にして関係するかを解き明かせ。次に我々の知的と我々自身が仮定する営為が、その地球上の我々の時空に於ける先端である証明を行え。そして我々の実存を宇宙論に基礎を置く体系のどこかに正当化して位置付ける必要がある。それがidentityの始まり。

建築論

時代の可能性を誠実無私に空間の美学へと昇華する以上の建築学的命題が有り得るだろうか。だから史的建築家は私的な立場を最小化する様、務めよう。建築芸術最高の栄誉は個人的表現の完成より我々の都市の文明度にあると知るのだ。設計における進歩とは終生文明化という繰り返しの試みの中にある。

快苦

生命体の感覚といったものは化学反応の相対性の意味なので、我々がより高い精神的欲求を自覚して低俗な歓楽を軽蔑するのは割に合っている。苦痛が無ければ快楽は本当によく味わえないのだから、人間の本性に基づく限り大事なのは苦痛の質を非肉体化するのに応じて高尚で精神的な快楽を味わう事。
 尤も、肉体の保養はこの様な生活態度がもたらす中庸の徳を最良とする。本人が禁欲主義と享楽主義の何れかを主観的信念と定めるかに関わらず、客観的には、我々の肉体的快苦もこの仕方で頂極される筈。

2005年11月23日

芸術家論

芸術に於ける同時代評価と歴史的重要性は我々にとって残念ながら大抵の場合、反比例する様だ。もし君が偉大な芸術家として大成したいなら、評価を受けたいという浮気を捨てるが良い。尤も、趣味的条件に本気で打ち込むには高い自覚と相応の覚悟が要る。

信仰の究極地点について

信仰の基本目的は自らの精神的安定によって人生観を程あれ固定することにあるだろう。だから信仰が全く「無い」ことはない、その場合、「何も信じない」という信念があるのだ。もし自信に到達すればこの目的、つまり無信仰、無信念、無心は当然達成される。そしてこの無心の立場でこそ自らが人間という普遍的実存である限り、多かれ少なかれ思い込みがある誰もの人間性を信じることになる。

独立主義

人間性に対する絶対的信仰の念が極まれば自信に到達する。ここで人間は自ら神格化し得る。この立場についての言い方は様々であれ、そこに信仰の終わりはある。これを私は独立主義と呼ぼう。

流通

刻一刻と過ぎる時間を通し人類間に絶えざる商材流通がある事実は、国益という次元を超え我々が文明を築く使命を一様に担う実存だと物語る。だから、経済の究極の形式は相利追求の持続であり、我々の生活環境が需給一致して行く経過はその結果である。企業の理想は為事を通じた人類奉仕への参与であり、最後には生命の救済だろう。

教育機関への所属について

学者にとって教育機関とは先ず第一に閑暇を確保する為に利用されるべきものである。

大成

百年前後の人生時間を如何に構成するかを計画して実現すれば誰でも大成できた。

スポーツマンシップについて

運動を勝敗の為だけの競争という地点から引き上げ遊戯へと改造したところに人類のスポーツマンシップの要がある。勝利は究極の目的ではなく、ゲームの規則としてのゴールに過ぎない。

教育機関の社会的意義

独学が教育機関に所属するよりどんな点でも学習にとって有利だとしたら、教育制度は社会福利の考え方以上の何物かではなくなる。学生や教員はその様な公認された保障によって保護される。それは昔学習効率の為だったかも知れないが、高度情報化以後の社会では単なる暇の言い方に過ぎないとさえ思える。しかしその様な教育制度の堕落した残骸から先にもやはり多少の社会的価値はあるのだ。つまり一定の知的水準を維持するダムとして。学歴と呼ばれる肩書きの体制は社会的に、知的採算における資格試験の様な役割を担う。しかしこのシステムの堕落も必至である。なぜなら観想自体を目的にする純粋学術的営為は決して政経的価値に還元し得ない筈だから。よって現代教育の可能性は独学にある、と結論づけるのは自然である。尤も、これを研究と名付けている。研究機関の合理化を推し進める程それは組織体を失うだろう。だから未来の究極の教育は自己教育である。同時にその日まで教育機関は社会的意義を失わずに改良し続けられるだろう。

同時代性

芸術家としての仕事は同時代に抜きん出る事にある。

2005年11月22日

抽象

芸術に於ける抽象化(人工性の具体化だが)は、否定し得ない傾向である。芸術の論理は抽象化にある。しかし、それは何を意味するのか。
 私は抽象化された世界に親密さを見いだす。反対に、自然なままの世界は原則として生活に不向きであることを知っている。
 つまり人間的環境構築の意志が芸術性に他ならない。美と我々が呼び慣らして来たものは人間的環境に対する尺度の言い換えだった。

建築論

自然と人工の組み合わせ方に未来の建築表現がある。なぜなら人工は自然の中にしか在り得ず、自然は人工を含まずにはおかないから。つまり我々の生活は理性の限りの合理性を環境に求める。都市とはこの結果なのだ。完全に合理的な環境があり得ない以上、自然から人工が完全に分立することはない。従って、建築表現は単体の造形を競う戯れを超えて、自然との調和に挑む空間の芸術へと進むだろう。しかし、この様な意志は常に存在して来たのであり、専ら普遍的なそれが自覚され得なかっただけである。理由は地域主義の隔離性にある。しかし普遍的様式はそれを乗り越える。
 現代に於いては個々の場所に適した同じ建築が建設されるべきだろう。技術の地球的な革新は世界中のどこでも、誰もに心地よい空間を最も合理的な仕方で建造できる。必要なのは都市に対する最善の解答であり、それは又、自然と人工を止揚して芸術化するものでなければならない。

可能な限り高級な人間であれ。

建築論

建築自体の合理主義化を時代の究極まで究めた後、自然との組み合わせという新しい場が開かれる。そして都市建設とは結局その作為。
 こうして理想郷の建設意志を建築芸術の目的に置く限り、都市建設に終わりは来ないだろう。例え詳細についてであれ、或いは都市計画についてであれ。

向上

学習能力がある程、人間的であり得る。だからこれを鍛える限り人は向上して行ける。君は肉体的永劫を得られない事を悔やまなくて良い。それは人間性の絶えざる神化の基礎だから。
 もし以上の論理が正しければ文明は没落しない。個人はその構成員である。自由が文明を建設する。

2005年11月21日

時間配分

老衰する迄にどう生活を構成するかが人生計画の鍵。
 睡眠時間を削ってまで学び働くより中庸を守って長生きした方が総時間で得。
 浮き世で栄華の満足を勝ち取るより歴史に偉大な足跡を残す方が名誉。

充足

肉体的充足が精神的活躍の素。

2005年11月20日

理想郷

理性的人間が生き延びる意志を持つ限り、地球を去る必要がある。太陽系は有限だから。
 保守的社会派は現世にのみ目を向けるだろう。だが観想は繁栄の理想を君に教える。知的ならば計画に喜びを覚えない筈はあるまい。それが実現可能な程、益々。文明の究極は理想郷にあるので、我々の活動に終わりはない。

幸福追求権

幸福を追求する以上の人間的営為は見当たらない。

リセット

もし君が産まれて来た理由を知りたければ死まで生き続けるしかない。そして我々を取り囲む社会に貢献するほど悟る。万一、ある個体における半永遠の生が手に入っても事情は同じだろう。則ち個々をリセットすることは全体の適応にとって肝心である。

2005年11月18日

手紙

世界には欲望が溢れています。
低俗なそれから良好なそれまで。
人はそれを追い駆ける生き物。
人間は頭脳という側面を鍛えられた生き物です。
だからそれなりの活動があります。
文明とはその意味です。
最小少数の最低不幸と最大多数の最高幸福を目指す行為は人間にとって最良の欲望だと思います。

2005年11月17日

建築論

自分がなぜ何の為に建築するのか、その理由が最大事だ。計画された諸物はこの思想の代替品に過ぎない。だから、思想を鍛えよう。実作は飽くまでもその確認作業と見なさねばならない。
 もし君の思想が変われば実作も合わせて変わるだろう。けれども実作がどの様に変化しようとも建築家の心底にある諸形相を造出せしめる理念は不変だろう。建築家自身の考え方が全ての実作を指揮取る。つまり都市は究極的にこの様に出来る。
 建築する先に何を目指すのか、それが問題だ。建築物そのものは飽くまでも理想の身代わりに過ぎないと気がつかねばならない。
 建築し続ける先にある自然物と人工物との調和、即ち宇宙化という理想の具現を最も単純な形で現さねばならない。
 未来建築物の型を創世せねばならない。
 できる限り単純化すること。可能なだけ原理に忠実に基づくこと。自然物を意識的に造形要素として扱うこと。人工的なものと自然的なものを極限まで純粋な地点へ還元しなければ明確な解答は出せない。
 取るに足らない様々の表現と名作との決定的差異はある明晰さ、つまり解答の自律性にある。建築が芸術となり得るのはこの解答の判明さ故なのであり、素材の構成における統一化の意志である。
 建築は人間の巣である。と同時に自然と宇宙の理性的形態である。
 だからして均衡性や力動性の探求という造形芸術の文法に緻密に則りながらも環境としての責任を果たさねばならない。それは都市の文明化を通して世界秩序を理想化せしめんとする力である。
 私が建築する理由はこの様な合理的環境の建設にあるのだ。それは人間の生きる理由と同義である。

2005年11月12日

我々は総じて自然である、と悟らなければならない。人工とか芸術とか呼んで地上の生命体や天体から人間が区別したがっている事物は全て、我々自身が創り出したわけではない。精神と呼び慣らすところの自覚したエネルギーが既成のそれらに多少の変化を加えている、というに過ぎない。つまり我々やその活動は我々を含みつつも取り囲む宇宙の莫大な構造の、微細な部分的営みなのである。日用の言語が自然を不自然と対置しと利用されているのは驚きに値しない。専ら対立する観念があらゆる概念、普遍的観念の初源なのであるから。
 とは言え、もしも上記の文脈を鑑みるなら、それは甚だ便宜的解釈であると思わねばなるまい。
 人工が自然環境を破壊するとか現世の有識者が述べているのは少なくとも私にとっては不信である。現に、生命の基本的欲動でありしかも最高の目的であるはず生存を人間も担うと我々が知らぬわけはない。ともすれば自然を自覚的に保護養生するのは人間だけである。あとの生き物は只単に自らの為に利用しているに過ぎない。つまり人間だけが全生命体の幸福の増進という理想を感得し得るのであって、ここにおいて人間の栄光が確立され得るだろう。
 人間が自身の目的をきちんと考えるなら、生態系の均衡を取るのは必要なだけでなく使命なのだ。理想郷を建設しようとする意志を文明と呼ぶ。
 地球号の寿命は太陽系のそれに依存している。だから我々の文明は宇宙化されなくてはならない。自営大系としての地球船が生き物達と共にこの青い星から旅立つのはいつの頃だろう。

名月

写し世を照らして廻る名月

価値

価値を求める行為を生活と云う。そして価値を求められなくなったとき死んでいる。どの世でも。

自分

人間に可能な限界としての神化を志す事は我々の使命に他ならない。なぜなら進化の方向性は種内競争の永遠の向上としての自己目的化に照準されてきたのだから。ここにおいて幸福追求の権利や万人平等の理念が正当化され得る。例えば社会建設における貢献度が成功と一般に呼び慣らすものの判断基準になるとすれば、最も広い意味で働くことはこの為に行われているのだ。人間という生命は自由を持つ機械であり、また宇宙を多かれ少なかれ自覚的に再創造するという点で精神的なのである。
 そして獣性の洗練化、活動の精神化即ち昇華という方法で我々は絶え間無く向上して行ける。
 というか、取りも直さず生きるという事実は向上の軌跡である。それは義務ですらあり、逃れ得ない拘束だ。結局、専ら堕落という事はあり得ない。人間にできたどの様な危害、兵器その他に拠る同士討ちも慈悲の想いを分かち得ないどんな動植物よりは、せめても尊いのだ。だから我々は向上を目指そう。明日は昨日の自分より良くなっている事、未来は過去よりも幸福になっていく事を信じ続けていよう。この様にして我々の普遍的自分は人間信仰、少なくとも精神のそれ以上にある。

2005年11月7日

建設

我々の先には社会建設という巨大にして無限の目的がある。往々にして日常とはこの為の働きなのだ。我々はどの様な点に於いてもかつて地上に繁栄した如何なる生命体と変わらない。二足歩行を武器として生存界の頂点に躍り出たと自ら考えている一種である。未来の全てについて悟るほど賢くはない。少なくとも今は。
 文明は彼らの巣であり、彼らの作業である。歴史とはその結果。

2005年11月6日

栗アイス

都会にて季節を告げる栗アイス

歳寄り

君は野原を這うライオンになる。辺りに見当たらない獲物を探している。空には輝く太陽があり、地には生い茂る雑草がある。そして孤独の中で、生き延びる手法に想いを廻らせている。
 君は遠い海を想像する。地中海の全てを明から様にする天空の下で、デッキチェアーに座って白い葡萄酒を傾ける。次に山奥の別荘を想像する。小川のせせらぎが鳥のさえずりに重なって、変わらない何事かについての詳細を奏でている。君は窓辺に立って深い思索に浸り、無限点の先を見つめている。
 しかしそれらは今は単なる幻想である。君は砂漠のような茫漠たる緑の平原に置かれていて、目的の分からない生き残りに駆り立てられている。生き延びねばならない。熱くたぎる血潮が語る湧き上がる本能のままにやって来た。けれどもう帰るべき仲間達の空間はない。群れは老いた君に、不要のラベルを突きつけたのだ。
 僕は日本の都市にいる。仕事に明け暮れたある日、君と街で会う。言うまでもないことかも知れないが、そこは小さな動物園だった。
 我々は数秒間見つめ合った。何かが取り交わされたように思えた。けれど気のせいかも知れない。サバンナから連れて来られた檻の中の年老いたライオンと、コツコツと真面目に生きて来た、少なくとも周りにはそう思われている名も無き僕との間にどんな対話がある。
 そして、僕らはその場を去った。

2005年11月5日

この文章

空から舞い落ちて来たひとひらの欠片かけら、光が地球の雰囲気を形成した。君は銀杏並木の下で、繊細な木漏れ日の中を歩いている。隣を流れる小さな川から聞こえる囁きが掛け替えのない時間を作り出し、それは通りを走る自動車の騒音で壊される。君を含んだ何もかもが自然だと分かる。そしてここには心地よい空間が存在している。
 時はゆっくりとその横を擦れ違う。二人にはどんな接点もない。場所の空気の移動、風を共有したに過ぎない。そこには物語に繋がる如何なる要素もなさそうに思える。どんな始まりもないし、劇的な展開も恐らくは無いままに人生の匿名的な一ページが過ぎ去って行く。
 我々はけれども、ここではこの文章を支配している。というより少なくとも筆者としての私は、どんな時空間をも形成することができる。

2005年11月2日

文学的価値について

文章が言語の美術性を有する時、それは文学的価値を持つ。しばしそれは金銭的価値や思想的価値と比較されるが実際の所は、文章を構成する美的技術にしか文学性はない。こうして、書くという事は芸術制作に成り得、それを文芸と呼ぶ事もある。

2005年10月31日

天の川

美しき時空の上の天の川

2005年10月30日

都会

時間が経過するに従っていくらかの風景が流れ、ちょっとした空間の変化があった。君はその中に含まれている。どんな終わりもなく始まりもない。とにかく君は実存している。それが全て。
 東京のどこかを君は歩いている。空は赤紫色に光り輝き、破壊された自然の表象を物語っている。辺りには匿名的な大衆が蠢いている。そして目指すべき当てもなく君は歩き続けている。構築された世界は確かに、以前よりずっと不満の少ないそれかも知れない。どんな意味合いに於いても経済的合理性を指向した近代都市がここにある。君はその緻密な部分だ。
 数え切れない通行人に向けられたきらびやかな広告看板があでやかな律動を生み出している。だからといって特にどうなるでもない。無意識に刻まれる伝言の他には何もない。どうということはない。それらのまたたきは抽象化された町の一部。君は現れて消える対象物を繰る冒険者になっている。止めどない想像群の奔流、はっきりした思考が観想を深めて行く。
 時計の数字は22時を過ぎている。君の体は新しい栄養素の摂取を要求している。蓄えられた限りの働きは消費され、次の力動は別の燃料を要求している。
 君はふと、小学生の頃好きだった少女について思い出す。ピアノが巧かった。あれから随分経つ今は何をしているのだろう。誰と知り合い何をしている。君に、少なくとも今の君にはそれを知る術はない。幾つかの記憶は想像力の構造に依存しなければならない。
 名も無きファミリー・レストランに入る。マニュアル対応の店員に気の抜けたハンバーグ・ランチを頼み、食前に運ばれて来たサラダをほうばる。私は隣り合わせて座った家族連れの低俗な会話に嫌悪感を催す。ポケットから取り出したウォークマン・スティックのイヤホンを耳に突っ込み、何も聞こえないふりをする。現実を生き抜く手法として。私は運ばれた出来合いの物を栄養価にだけ気をつけて口に運ぶ。誰も知らない外国の機械化された農場から旅して参った貴重な豚の、あられようもない姿に目をつぶる。食べることは生き抜くこと。
 店を出ると時間は23時を回っていた。君はまたこの荒野を歩き続けて行くだろう。どんな理由もない生活の物語を。

2005年10月29日

学ぶ事は学ぶ為にある。

2005年10月24日

学習動物

老いても学び続ける者だけが称賛に値する。人間は学習動物で、向上に終わりは無い。

自制

今日の平均的人生が百年近い寿命を持つ事を考えれば、生きる行為はその範囲を上手に計画する様に為されるべきだろう。即ち、若い内によく学び働き、蓄えを以て老年の体力の衰弱に備えるべきだ。しかし自然の流れはしばしばこれに逆らう。若者には体力が漲っているから。合理的行動は動物的欲求の昇華に因ると悟らなくてはならない。自らを抑え切れない分だけ行動しても、それは一般の若者にとって過剰すぎる。

2005年10月22日

無恥の恥

無恥を恥じよ。

絶対的知性

宇宙に実存し得るあらゆる生命体の内で、我々が相対的に知的か否かは大した問題では無い。なぜなら人間は、哲学を自己目的の楽しみとして見いだせる。これが絶対的知性の他ならぬ証明である。だから論理的には、我々に理解できない何物もない。そして我々が生存する限りつまり無知であり続ける限り、知性は増進して行く。文明の希望というものもそこにある。

2005年10月21日

磯原海岸

僕は海辺をゆっくり歩いている。波間には重力が生み出す微妙な均衡が見え隠れする。太陽と月が交互に天空を支配し、雲と雨と雪とみぞれが水の惑星、地球を表現する。僕はたった1人だ。他には取るに足らないテトラポットの後ろ姿以外何もない。何も見えない。潮騒だけが穏やかな雰囲気を醸している。
 風の色が変わる。青の音が響く。僕の形が消える。波の描くカーブの空間が変質する。そして時が止まる。
 アジアの極東で太平洋を眺めていたという前提で或る世界の枠組みは展開し、宇宙は適切な秩序を構成し始める。ラジオが鳴り、テレビが映り、草原では馬が駆け、地中ではもぐらが掘った。海底には不気味な生物が潜み、街なかでは明朗な喧伝が聞こえた。あとには混沌だけが残された。僕はどこにもいない。ただの音頭だけが体感されていた。祭りが行われている。我々を含む何ものかの踊り。
 繰り返される戯れが超常的な現象を喚起する。お化けがコンクリートの厚い壁を難なくすり抜けるかと思えば、御飯が二次元に平面化され消化できなくなった。旅立つ山頭火の足元を群れになった和冦が取り囲み、パスカルとデカルトの会合をワシントンが指揮した。ナスカの地上絵が地上波から放映され、飛び立つ雁の一匹は作り物だった。マイナスとプラスが交互に入れ替わり、視聴覚は味覚や触覚と一致団結した。
 僕は波間によって現れては消える、砂浜に描かれる神妙な図形の上を歩いている。秋の、少し肌寒いくらい涼しい空気が、無限に透き通った水色の空を見せてくれている。
 もうすぐ冬が来る。そして暗い闇が訪れてあらゆる意味を覆い隠してしまうだろう。僕はそれまでの間、鮮やかで細かい砂の音を耳に感じながら散歩を続けよう。
 犬がいた。のど元を撫でてやる。犬は元気に尻尾を振り回し、喜んでいる様だ。きっとこの場所から時空は穏やかに見えるわけなのだ。

2005年10月20日

名誉

現世での名誉を自ら棄てる程、死後の栄光は高まる。

創造論

創造するには先ず、充分に模倣する事。

独創

独創は独立から生まれる。

偉人

偉人に不遇はあり得ない。あるのは、行動能率だけ。

効率

天才の謂われとは学習効率にある。

人間

都会を歩く人を追う。視野は上空にあり、1人の若い女性に照準が合っている。超高層ビルの谷間を抜け、やがて雑多な商店街に着く。
 視点は近づく。女は灰色のパーカーを羽織っている。ポリエステル製のそれは、歩みを進めるたびに擦れ、独特の音を出す。彼女はアジア人らしく、長いまつげを持っている。背は150くらい。比較的痩せている。
 彼女は、とあるドラッグストアに入る。視点が入り口前に固定する。暫く経つと黄色い手提げ袋を抱え女が出てくる。我々は目的もないまま、再びその行き先を追う。
 交差点を抜け歩道橋を渡り、駅の地下に降り、雑踏に紛れる。我々は彼女を見失ってしまう。あとにはただ、匿名の人波だけが残された。
 時が過ぎ、深夜になる。空には綺麗な半月が浮かんでいる。絶えない人通りが地球に暮らす二足歩行の生命体の日常を物語っている。我々はただ静かに、その内容に耳を澄ませている。

探検

君は名前のない空隙を歩いている。ここは時の裂け目だ。何もが起こり得る。そして次の一歩を踏む。
 どうしたって超えられない壁を抜ける。
 最も単純な数式が現れて消える。君にはその答えが分かる。だが、何事も世界構造に含まれている。君の行動範囲はシステム内にしかない。どう足掻こうとも仕方ない。新しい光が期待外の空間に審美法則に関する図形を描くのが見え隠れする。うずきが生じる。何もない。
 私は星と出会う。時が溢れ満ちる。それから川に流れ出し海へ着く。太陽光に温められ空にのぼって雲になる。やがて冷えて雨になる。山はそれを蓄え、少しずつ、少しずつ漏らして行く。岩清水は渓流になって川を造る。まるで我らの脈動みたく循環して行くたましいの営み。花が咲いては萎れる。命は生滅のリズムを刻む。刻んできた。刻んでいる。どんな疑問もなく。最早すべては正しい秩序を構築しているのだ。
 では新しい時へ行こう。
 そこには自由がある。彼らを縛る何ものもあり得ない、完全な宇宙の上。我々は働きそのものとして実在しているだろう。どんな部分でもあり、欠くべからざる全体でもある。欲求は力動でしかない。延長され続ける時空間を歩いて行く力になる。
 そこで事物は終わり、始まる。彼らは生死の枠組みを超えている。肯定も否定もし得ない普遍の下でお遊びしている。

2005年10月19日

CM

川を遡る魚になる。泳ぐ為に泳ぐ小さな生命力となって前へ、前へ。摩擦と重力の抵抗が筋肉を鍛える。取るに足らない食事が活性酸素の発生を抑えつけていく。君は地球の律動の一部になって、空間と時間の、太陽と地上の軋轢アツレキを細かく、細かく、細かく調停する。自分自身の限界との競争だ。
 突如終点に着く。川は途切れ、流れ出す滝だけがそこにあった。壮大で、巨大な滝。君は偉大な自然の理力に感銘し、涙をこぼす。魚にはまぶたが無いから瞬きもできない。崩れ落ちる滝としてなみだは川になる。川はやがて海に着く。
 君は海上を渡っている鳥になる。飛ぼうが飛ぼうが、終わる事のない冒険だ。始まりしかない。やがて満月が昇り、少し空気が冷える。しかし問題はない。飛び続けるカロリー消費の故に全身は程良く火照ほてっている。まるでかもめのジョナサンみたく自由だ、自由だ。自由だ、空を泳ぐ魚、風を切る馬。
 君はを駆ける馬になる。どこまでも、どこまでも走っていける。走り続けていける。風景が切り替わっては消え去っていく。吐く息が白い効果になって空中で暫く留まって大気に融和する。設計通りの画像だ。
 僕は渋谷の交差点で大ヴィジョンを見上げていた。自分が創作した映像が街へ流れ出す。滝みたく圧倒的に。鳥みたいに、只で。馬みたくダイナミックに。このCMは成功した。

行進

規則正しく整列した人たちが兵隊みたいに行進してく風景だ。ここには疑問に付される何事もない。どんな迷いもない。悩まない。君はとどのつまり、目の前を歩いて行く名前も知らない誰かの後ろ姿を眺めていれば良い。歩き続ければ、問題は無い。
 型どおりの人生が日本に産まれた僕には染み着いていた。授業中はできる限り目立たない様に大人しく振る舞い、成人したら誰とも衝突しない様に気を付けた。それだけで良かった。少なくとも、それだけで良いと信じていた。
 足並みが崩れ始めた。前線が混乱しているのだ。停滞ができた。少し休もう。けど、なんだか物心ついて以来、初めてゆっくりと憩うゆとりが持てたみたいだ。朝日が昇り、正午を周り、夕日が沈む。その間ずっと、今までの自分とこれからの世界について考えていた。
 どうして歩かなければならないのだろう。
 そう思い至る。結局、理由も知らないままで歩み続けて来た僕がいる。もしまた行列が進み出したらお前は着いていくのか。それとも誰が何と言おうが自分の意志通りの道を行くのか。

2005年10月18日

散歩

僕は単純明快な呼吸を繰り返しながら地球を歩いている。答えはない、けど問題もない旅路だ。あるのは生きていく必要だけ。死なないでいる使命だけ。空には雲が浮かび、街には灯がともっている。秋の澄んだ空気が美しさについて冗舌な演説を行う。それを聴く。どこへ向かっているのだろう。何を探しているのだろう。どうにも無く、ただ単に歩いている。全て、それが。透明な時間を繰る。空間が五感へ訴える。間違いなく今日は今日だ。そして僕は歩いている。どんな話もないこの冒険が、明日の予感を設計する。僕は施工者だ。行き着く果てのない建設、歩行。落ち葉の噴水とベンチの律動、野良猫の昼寝に自転車籠のごみ箱。何度となく組み換えられては立てられる風景が上手な絵を描く、また消す。作り壊す。ささやかな植物が足元で踏みつけられる。小さな生き物たちが死に絶えて行く。それでも歩く。歩き、歩く。ある日、そんな散歩にも終わりが来る。我々は土に還り、自然を耕すのだろう。

2005年10月17日

新しい人生への経過

そう言えばいつも同じだった。駅前改札を出たところにあるキオスクの看板、バス停の雰囲気、少し淀んだ人波。けど、もうすぐすべてが変わってしまうと分かって、少し淋しい気持ちがする。君は改修計画想像図の貼られた掲示板の前で佇んでいる。休日の駅前は普段より人影も疎らだ。
 カシオのデジタル時計を確認すると昼過ぎ。そうと知ると急にお腹が空いてくる。君は名前を知らないファーストフード店に入り、コーヒーとサンドイッチのセットを頼む、560円。お釣りは450円。野口英世が印刷されている千円札に十円玉を添えて出した。そして比較的中央の、壁際の席に座る。心理学的に端かつ壁に寄りかかるのに安心するという動物の習性を多少意識して裏切り、完全な落ち着きではない適度な緊張感を得たいと思ったのだ。そして一口、珈琲を飲む。
 特に問題はない。だが、解答もない。
 君は食べ終わった。モバイルで掲示板にアクセスして情報交換に参加する。胃が食べ物を程良く消化したら立ち上がり、ごみくずを籠に入れてトレーを所定位置に納める。大丈夫、今日も世界は動いている。
 御馳走様のサインにレジのウエイターに目配せして店から出る。雨だ。君は傘を持たない。
 仕方なくちょっと走って駅構内に戻ってキオスクで100円のビニール傘を買う。青い色のそれを選ぶ。今の自分の気分に合うから。女の子が青い傘をさしても悪くないだろう。
 しばらく歩くと私のアパートが見えてくる。部屋のドアを開いても誰もいない、愛しい我が家。ちょっと考えると惨めだけれど、よく考えれば高貴な城だ。都心住まいには知恵がいる。要は考え様なのだ。私は畳んだ傘を何度か振り、滴をよく落として、取り出した鍵を穴に入れて回す。かたりと音がして入場可能になる。
 私の家の匂いがする。昔から思っていたのだけれど、各家庭には独特の個人の匂いがある。文学的比喩や象徴ではなくて、単純で純粋に、嗅覚を刺激する物質構成に違いがあるのだ。それは多分、生活様式や体臭の種類による個性の発露なのだろう。私は部屋の昼光色蛍光灯をつける。
 窓の外には午後三時の普通の風景がある。真向かいのマンションのおかげであまり見晴らしはよくないが、少なくとも自分がこの街に暮らしていると判るだけの景色が見える。観葉植物が渇いているように感じられたので、渇いた土へコップに注いだ水道水をやり、残りを自分が飲み干した。綺麗な街だ。私は新しく生きている。

2005年10月15日

愛好

単純明快な正解を求めて何度も何度も問題を解くんだけれど終わらない。まるで難しいパズルみたいに入り組んでる。二匹の猫は雨が上がったあと、奇跡みたいに晴れた青い空を見た。

秋月

薄雲透かす秋月

2005年10月13日

人間の想像力に無以外の限界がない以上、文明の発展にも終わりはないだろう。人類の生存が確保される限り。

役者論

代表的人間にならなければならない。

苦難

生きることが死ぬことより苦難だとすれば、我々はなぜ生きるのか。

今日

繰り返す戯れをずっと眺めていた。世界の果てにいる。ここではあらゆる音が聞こえる。すべての形が見える。けれどもたった1つだけ手に入らないものがある。命令しなくても勝手に働き続ける機械みたいに、世の中が今を奪い去ってく。けど、どうしようもない。立ちすくんだままでいる。踏み出せないままでいる。どこにも辿り着かない想いが生まれては消え、死んでいく。
 そして明日がやって来て、飲み込んでしまうだろう。まるで何事もなかったかの様に、いつもの世界は動き続けて行くのだろう。地球が回り、命が暮らす。そんな毎日に順応してゆくのだろう。そこに救いはあるか。未来の栄光は降り注ぐのか。分かるのは、きのうはもう、過ぎ去ったということだけだ。

2005年10月12日

文芸論

生きる物を幸福にする、美しい文章。

2005年10月10日

生命体

人を含めて、生命体はなぜ生きているのか。何故に対する解答は一般的に「~だから」という形式になる。生命体は宇宙の動的形態。それは有機性を持ち、盛衰のパターンを伴いつつ生存という基本目的を追求する。と、そういった「どの様なものか」という問いに対する回答は可能なのだが、「なぜか」という問い、つまり哲学的な懐疑に対し科学は役立たない。事実の分析が対象科学の仕事であって、批判ではないからだ。
 そして生存する為という根本因を無碍にした先では最初の質問自体不適当なものに思える。生きる為に生きるから。それ以外に適当な一般解があるか。けれども、私の疑問符を納得させるだけの解答として、それでは不完全。生きる為に生きるものとして、人間だけが独自に持つ生存の普遍的論理を明らかにせねばならない。考える理由はそこにあるから。

理由

充実を探しているけれど、どうにもならないな。人間でしかあり得ない僕らが毎日葛藤するわけを求めるが、辿り着かない。努力しても努力しても限界が目の前に立ちふさがる。そして明日も、もがいてく。繰り返し、繰り返し。それでも何を欲しがるのか。何に向かうのか。どこへ死にに行くのか。
 動物としての生活が悲劇に思えるよ。けど、神様だって虚しいのか。じゃあ君の理由とは何なんだ。教えてくれ。命の理由とは何なんだ。
 海から爽やかな風が吹いてきて、あらゆる疑問を水に流してしまうだろう。解けるものと未だに解かれないものとが穏やかな波間に見え隠れする。僕は小さな子供みたいに、そんな綺麗な光景を眺めていた。空には無数の星が光り輝いていた。幾つかの時が流れて星を形作った。地球は回る。どんな困難も乗り越えて行こうとしながら。未来を描く為に生きている。

2005年10月8日

海原

静かな風が吹いている。君はそれを聴く。丘の上に立ち、地表を見下ろす。何世代かの交代があり、何度かの戦争があった。その度に築いては壊された都市が、今は輝く光の中で滔々と恍惚を語る。そして恐らくは、いつかまた瓦礫の山に帰り、自然の営為へ宇宙の塵に還るのだ。君は切なさにも似た情感を以て、繰り返される世界の戯れへ共鳴して行く。
 空には雲が浮いている。足元には草花が茂っている。鳥のさえずりと虫の鳴き声が聞こえる。そして、生きている。物語が始まりそうに感じる。だが、時間は当たり前の速度を維持し、星々の運行と合わせゆっくり陽光を傾けていく。そこにはどんな出来事も起こりそうにない。生ぬるい初秋の風に寄り添って、ささやく草花。歌声は地球の律動に乗り、街の天空を通り抜け、風の曲になった。
 僕は浜辺に居てそれを聴く。終わりなき音楽が甘美な死について能弁に語る。きっと僕らは死ぬが故に生きる。しかし、生きる為に生きなくてはならない。海の奏でる旋律は目的も理由も掻き消してしまう。残るのは波の、複雑でしかも単純な形跡だけ。さらに反復される次の、次の波。まるで命の鼓動の様に規則正しく、寄せては返す。僕は悲しみと安心とを持ち、そんな海原を飽きる事なく眺めていた。

2005年10月7日

私事

幸福になるのを恐れる事はなかった。もしそれが公共のものなら。

天体流動説(天流説)

天道説、地動説という分類は相対的かつ便宜的に数値の上下を測ってから仮定されるべき前提だろう。なぜなら太陽系そのものは銀河系の中を恐らくは公転と自転によって流動している。また銀河系も天の川銀河の中を、天の川銀河もこの宇宙の中を流動しているのだから。

物理学

私達の暮らす宇宙の外側が無(物理学的には、エネルギー0、時空間の概念の消滅した場所)だとすれば、便宜的に社会学をも含む自然科学という営みは、その内側、有における法則性を発見構築する作業だと考えられる。
 数学はここから自立している。それは抽象性において時に非対象的思考であり得るから。

呼吸

反復される律動に対応して世界を形成する主体が、穏やかに微笑んで君の遺伝子に潜んでいる。
 地球が回転に関する魔法をかけて、地表に生息する数無き数の命に、改めた息吹きを注ぐ。産まれ、変わる。散々展開して刷新される。つぼみが開き、閉じる。
 君は街中を何食わぬ顔で歩いて行くだろう。自重を利用して、滑らかに、小気味よく。雲が移動して雰囲気を代える。生存の為に生存する。言葉にすると簡単だけど、最低限の原則が示された文章。ちょっとした諧調のずれが尽きない多様性を語りかけてくる。

小さな生き物

君は小さな世界に産み落とされた小さな種だ。そこからどんな花が咲くのかは知れない。しかし、その種は静かに時を待っている。静かに、静かに。
 何度か雨が降り、雪が降り、太陽光が降り注ぎ、みぞれが降った。春が過ぎ、夏を迎え、秋を送り、冬が来た。台風と地震があり、津波と火山の噴火があった。地盤が隆起し陥没した。海面の上昇と下降が訪れた。幾世代かの動物達の盛衰があった。強い故に驕れる者は滅び、弱くても変化に対応し自分自身を改めて行った者は生き残った。そして種は芽を出した。
 朝日が地表面を等しく照らし出すとき、二つの葉っぱが風に揺れて動く。まるで奇跡かと見紛うばかりのすみやかさで、重心の揺れに合わせた正確な速度で。海からの潮風が新しい草に生気を与える。山から下ってきた栄養豊かな水が成長を促進する。雨にも風にも負けず嫌いな草は、次第に力をつけ、立派な背丈にすくすくと伸びる。人間の子供のいたずらも意に介さず、運動不足を太陽の向きに対したストレッチで解消する。
 そしてある日、花は咲いた。あのちっぽけな種は今や、植物として一人前に成熟したのだ。
 しかしすぐに君は切られてしまう。人間の大人が、美術にする生け贄の為に取り去ってしまう。首から上が無くなった世界で最も悲劇的なヒロインになる。
 やがて命の目標を失った草は萎れ、足元に生息していた微生物に分解され、土に還る。誰も褒めない。誰も責めない。誰も気がつかない。地球が鼓動を刻むのに併せて、種は花を咲かせては枯れるのだ。私達の人生はそんな営みに喩えられるかもしれない。

2005年10月6日

社会学

政治と経済に関する主義の分類が必要である。しばしば両者を混同させる事が曖昧さや混沌をもたらす。
 政治と経済は理念上では分離され、別々の文明活動と認識されねばなるまい。

動物性

知徳の愛究を怠る者は自分が下等動物であると証明するに過ぎない。

訳語

Competition(競合、競戯)

大学者

教育の究極の目的は、各人に自己教育の契機を与える事にある。従って、この姿勢が真に身に付いた者こそ、大学者と呼ぶにふさわしい。

2005年10月4日

独行

学術的な独行主義は最善の合理性を持つ。

学術論

学術は自由である。

目的としての偉大

全ての生き物は産まれて生きて死んでいく。人間が我々自身が思うほどに偉大だとすれば、それ本来の目的を達した場合にいえる。

秋風

秋の風新宿御苑渡り行く

2005年10月2日

一石多鳥

一つの石を多くの鳥に当てることを喩えに、ある行動で沢山の利潤をもたらすこと。

ベンチ

時が残酷さの代弁者となる。届くはずのない想いを重ね、連ねては幾つかの後悔を飲み込む。
 世界が変わった気がした。退屈で仕方なかったはずの毎日が、キャンディをばらまいた部屋みたいにすごく愉快だった。どうしてなのだろう。不思議だけど、答えはいらない。後は何もない。なにもいらない。
 都会の片隅に置かれたベンチに座った。互いの関係はやさしさの為だけに用意されたオードブルになる。そして地球は回った。
 もし運命と呼ばれるべき何かがこの世に存在するとしたら、それは、このベンチだろう。避けられないし避けたくもない。ただ単にある。そして人を、あらゆる時空を飲み込む。吐き出すことなく消化する。

2005年10月1日

六本木の猿

都市は時たま林みたいな表情を浮かべて君たちを見下ろしている。ビル風がスカートやかつらを鮮やかにめくるのを眺めるほどに、人類が造り上げた工芸品としての総合的環境を感得する。そこに適応して行く都会人はまるで新しい種類の猿だ。君たちは、二本足で日本に立つ日本国民なのだ。
 あるカフェ。通りに開かれた席。
 あなたは簡単な飲み物を傾けては、古めかしい命題を思考する数学者みたいな顔をして自分史に浸っている。街のざわめきが楽しいことや悲しいことをみんな取り去ってしまう。ゆえここへよく通う。さて、待ち合わせした予定もないのに、あなたの隣に座る誰かがいる。彼はアイスコーヒーを頼んだ。そしてほっと一息ついた。それから何が起こるのか。その雰囲気は完璧に自然だったので、あなたも不思議には思えない。周りのお客さんは間違いなく知り合いか何かだと信じている筈。しばらくして冷たいコーヒーが運ばれてくる。結露した水気がひたひたとテーブルを湿らしていく。運命なのだろうか。あなたはようやくそう気がつく。どうあがいても避けられない定めがある。それは個々人の非力な意志を遥かに超えたものである。だが、彼はコップ一杯の薄暗い液体を飲み干すと静かに立ち上がってその場を離れる。軽い間がある。それからあなたは過去となった事態を理解する。繋がれていなければならないはずの糸はどこかでもつれてしまったのだ。今や全ての後悔は、単純明快な事実の前ではただの遠吠えに過ぎなかった。
 そこで夕立がある。六本木の歩行者用交通性を構成する通りは一瞬、戦場となる。けどすぐに霧雨の支配下に落ちて平和になる。しばらく間が空く。それから天はからりと晴れ上がる。そこであなたはこれまでにない充実感で満たされていることに気がつく。名前も分からない人と秋雨が、疲れと傷を癒やしてくれたのだ。命は充電を完了し、体中は青空のような爽やかな渇きを湛えている。もう恐れるべき何物もない、そう直観するに充分だ。林は君たちを囲む。そこでは独特の法律に則って人というさるの戯れが続けられている。僕は森ビルの展望室から地上を見渡す。

2005年9月30日

物理学

光速度不変の原理が必要な理由を解く事。

澄む空気新しい朝とある秋

緑に溢れた公園で散歩している。君はからりと晴れた雨上がりの青空を眺めた。
 空から光が舞い落ちて来て、沿道に並んだいちょうの葉のすき間から木漏れる。少し肌寒いくらいになった風が、うすい紺色のブラウスを着けた体を吹き抜けて行くのが分かる。気持ちのよい季節だ。一年中こうだったらいい。けど、それだと楽しみが減ってしまうだろう。この星の日々という限りない演出の中で、その上下する胸の奥には、優しい鼓動を刻む心しかないのだとしても。

秩序

深い山奥にいる。複雑さを自発的にめざす自然形態のよう迷路化されたビルの地下室。ここには誰もこない。建築設備だけが絶えざる律動を、不気味に刻む。

 何を探しているでもない。何を求めているでもない。ただ先へ、先へ進むことが必要だ。底がゴム製の靴はどんな逸話も語らない。愚直に、ロボットみたく歩を進める為だけにしつらえられた、機能的で、現代的な工業製品。
 ふと、あるドアの前で止まる。扉には特徴を示すサインもない。単なる、規格通りに設置された鋼鉄の境界だ。開く。中に入る。

 そこには管理された空調のみがある。他には特にどうということもない、四角い箱型空間だ。ゆっくりと部屋の中心へ向かい、置かれていた極めて簡易的なイスに腰掛ける。エアコンがかすかに立てる空気の摩擦、蛍光灯が微小ボリュームで歌うなにかしらの電子音以外には、いかなる変調もない。空虚だけがある。壁と天井には、コンクリートの表面に薄いベージュのペイントが施されている。床は緑の滑りにくい素材で、その他に特記されうる点は無い。そして匿名的な人物として私はいる。大都市の、地下の、無辺の闇の中に紛れて。
 考える。この星に築かれた文明、生命史が何の為なのか。そして生まれてきたわけを。
 思念は抽象化された諸概念の組み合わせに解体され、ひとかたまりのエネルギーとして脳内信号を行きう。どこにも辿り着かない。どんなゴールにも達しない。理想の為の理想だけが残される。

 仕方ない。生きている事実を突き詰めるしかない。答えは恐らく時代に従うだろう。働くのだ。生活という自由をプログラミングされた機械の様に。

 しばらく時が経った後、その部屋には何も無い。静かな、整理された秩序だけがある。そこに人は含まれている。

2005年9月29日

学究法

人間をこの宇宙の形と認めれば我々が精神と呼ぶ化学反応も当然その一種と考えられる。真善美が根源的に一致するのも不思議ではない。暫しそれらが互いに食い違うのは、見方が表面的だからだろう。がそれら真善美が各々異なる学究体系をもつのも、また事実。
 科学には帰納法。哲学には演繹法を。仮証法は芸術の為に取っておこう。そう考えれば学究にまつわる大抵の混乱は未然に防げるだろう。

真理や法則は脱構築され続ける当為

宇宙論の究極は、各科学者が事実を照らし合わせ真を精査し続ける中にしかありえなそうだ。最も根本的な法則は人間自身によって絶えず脱構築され続けねばならないものだから。もし真理が自然界に既成の本質なら、科学研究を行う我々には一切の自由がないことになるだろう。
 実証主義はこれに反しない。仮説と検証の経過は得られた結果から自立しているから。

識者

その人物は、既成組織や制度から自由であり、しかもあらゆる場面で抜群の実力を発揮するのでなければ充分でない。だから有限な生の中で、自ら識者を名乗る者は傲慢に過ぎない。

自我作古

文化とは、あしき伝統を断ち切り、よき伝説を自ら創ることである。

現代日本の課題

他国のよい風習を貪欲に摂取し、自国の悪いそれを積極的に破棄して行くと同時に、創造の習慣と精神の独立が各個人に自覚されることが現代日本の課題。

ロボット風紀

戦後日本への順応とは、波風立てず、和を重んじ、自らの平均化に傾注すること。学閥階層入りを無難にこなし、上司に逆らわず、頭を下げ済みませんといい、機械的に通勤通学をくり返すこと。子供を同じしくみに馴染ませること。
 だがそれが美風か。もっと優れた大衆社会の有り様はある筈だ。

応用科学について

応用科学すなわち工学は、常に純粋科学に従属する。もし純粋科学が基底になければ工学は職人芸となんら変わりないだろう。

俗物科学

科学研究の目的は思考であり名誉ではない。

2005年9月28日

命題

解くべき命題の総体に対しあまりに残り時間が少ないと気づいたら、些事を省略せよ。

偉大

偉大になるため犠牲にしてきた過去を後悔する者は決していない。

人生の時は過ぎる。その誉れも罪も己にある。

大統一論は物理学の完成ではない

もし物理の基本原理として大統一論が確立しても、我々の真の目的追求が止むことはないだろう。或る基礎的枠組みが説明できても、知識そのものには生涯時間に応じた限界があるから。

聴き取り

不条理、矛盾、ありがちな葛藤、思い通りに行かない現実、打ち砕かれる夢、生活に追われて逃げて行く自由、手に入らない愛、満たされない欲望。下らない、つまらないことしかない。汚い奴が我が物顔でまかり通る世の中に嫌気が指してるのはとっくだ。と言ってできることなどほとんど無い。気がつけば時は過ぎ、所帯じみて抜き差しならぬ生計に縛られている。わかりきってる道筋だろう。あぁ、そうかもね。実際そうなんだから仕方ない。そう答えるしかない。あなたの話は続く。結局僕らは何を探してるんだ。毎日毎日毎日毎日、どんな理由でかもしらないまま、大人ぶった活動を続けている。本当に下らないよ。消え去ればいいんだ、こんな世界。

2005年9月27日

走行

どんなわけがあるにせよ我らは小さな生き物だ。下らない話を繰り返し日々を何とかやり過ごす。なぜ生きてる。何が目的なのか。幾つかの真摯な問いは生活費を稼ぐ必要の前でまるで意味を為さない。そして子供は大人になり、大人しく社会人と名乗る会社員になるのだ。誰が何といおうと。
 名も無き喧騒にさいなまれている。ここは大都会。辺りを行き過ぎる無数の人波が語りかける民主主義の原理、平等を否応なしに、感じとる。まちがいないく君はこの国を形成する主人公の1人だ、と同時に匿名的で均質な大衆の部分に過ぎない。

 そんなことは知ってる。

 声なき叫び声は無限に生成されるコンピュータゲームの雑魚キャラみたく見える、宇宙で最も高貴なはずの生命群にかき消される。歩みは進められる。太陽が産まれ、塵は集まって地球をつくる。ちょっとして動く物がたくさん闊歩し始めた。君はそして実存する。それも全て、嘘の物語。

 信号が赤に代わる。人々は各々の定位置に就く。君はたった独りきりで車道の真ん中の分離体にとりのこされた。タクシー、ダークなシートに身を包んだ不気味なライトバン、レクサス、バス、消防車、選挙の宣伝カー、スズキの軽自動車。次から次に通る丸かったり四角かったりする流れる箱がそれまでに何が起こったのかごまかす。

 信号LEDが青に換わる。ぱっくり真っ二つに割れた車間には誰の姿もない。疑いようもなく誰もいない。犬も歩かないから棒にさえ当たらない。君は走り出した。一体何に向かっているのかは分からないにしても。

2005年9月26日

徳と始原

自分はなぜ生きているのか。この問いに明晰な答えを出すには宇宙がなぜ生成されたのかから知らなければならない。我々は宇宙の形ゆえ。
 だがその間どう道徳的にやり過ごす? 定言命法は目的ではなく、文明の過程での方便でしかないのではないか。

IQ含む偏差値について

試験にかけられるのが嫌なら、自らの理論が真理か問えば良い。そうすれば君の人格性は保障されたままだろうから。そもそも、それこそすべての科学者が試みていることだ。

無知的生命

人類全員は無知的生命と自称すべきか。

知性の義務たる慈悲について

専ら他生命体を利用し自らの権益を拡大するありがちな無知な行いに終始している人類はなにを達成したというのか。己の無知を自虐し知的生命と称するのは無恥の極みというべきである。
 苦痛を避け快楽を取るのが生存の基本的あり方と功利主義は主張する(快苦原理)。人類は主としてこれを自己中心に、同類の中でも身近なものにしか覚えないだけの共感能力しか持ち合わせない。その薄情さが彼らに幸福なる言葉で示される共同幻想を抱かせる。この点で、未来の人類にしか希望はないだろう。乃ち、同類は無論、自己以外の生命体の幸へ最大限に貢献し、その上で地球と呼ばれる自らが破壊してきたすみかを再創造する慈悲。
 人類の傲慢は必ずや宇宙の平原に旅立つ、知の同一性に恥をさらさないよう祈りながら。その一生を文明に捧げる世界とは。知らざることを知らなければならない。

数学的秩序の創造主

数学的秩序は誰が創ったのか問うことは、我々の思考の限界点が我々自身にあると知らせる。

自然を考察対象に含む哲学の観想的性質について

自然宇宙の壮大なしくみの研究に携われることは、人にできる最も価値ある活動の1つだ。それは思考の喜びを我々に教える。
 とりもなおさず思考の究極形は、自己目的な理論的考察、即ちアリストテレスがテオーリアと呼んだ活動の楽しみにある。
 知識欲は思考を喚起する。それは記憶と理解を方法にする。

2005年9月25日

日々夢を描く意義

人は成人になると夢見ることを馬鹿にし始める。現実という言葉を言い訳に、安定した当たり前の生活だけ考えるようになる。それは彼らが悟ったからでも、大人になったからでもなく、単に、始めの目標にとって余りに困難な過程の前で挫折したからだ。
 だが目的への動因としてしか人は行動しないのだから、人はとしを経る程なお新たに、より偉大な夢を描き続けなくてはならない。そして老練とは、目標達成の手立てについて、若い時より遙かに熟達していることだ。

2005年9月24日

物理学

万有引力の理由を知る事。宇宙斥力を論証する事。宇宙を希望化して解釈せよ。科学者の使命として、実証主義に基づき、数学的論証を根本原理にせよ。

2005年9月23日

雑踏の上で

君は大都会の路上に立ちすくんでいる。知り合いもいない、頼る当てもない、完全無欠の孤独の中で目の前をただ行き過ぎる雑踏に紛れ込んでいる。空は、真上から君を見つめている。マクドナルドの窓向きの二階席は観覧用に体裁づけられている。数限りない人の波が君を飲み込んで行く。空はコーラを飲み込む。
 どうして何の理由でこれほどの生き物達が産まれてきたのだろう。何を求め東奔西走しているのか。なぜ文明がはぐくまれ、何ゆえそれは続けられるのか。問いは、空間に吸い込まれ二度戻らない。歩いて行く幾多の人々が疑いを消化し連れ去ってしまう。僕はLサイズのカップの蓋を外す。コーラの味が微かに残る氷を口に運び、かじる。君は相変わらず絶え間ない人ごみに混ざっている。何を待っているんだろう。
 その想いは幾重にも連なり、運命の輪っかになって時間を繰る。空気を震わせ宙を漂う。最後は店内のムードに溶け、世界の緻密な構造になる。
 やがて君は歩き出す。新しい目標に向かって、少しずつ、少しずつ。けど確かに、真っ当に、間違いなく。僕はそんな君を眺めていた。

2005年9月22日

人の訳

人はなぜ、何のために生まれて来たか。

まね

人と同じことをしていれば人と同じことはできる。そして人以上の何事かを成し遂げたいと願うなら、さらに人と違うことをもする必要がある。だが、人が皆やることさえやらない人は、人と同じことすらできないだろう。

孝の適用範囲について

ある意見の正誤と発話者の属性は関係がない。ある政治の正義についての意見でさえ。
 孝はある種の人生経験量に対してのみ適用されるべきである。その質は必ずしも年齢に比例しないから。

妨害費

もし他人が君を邪魔するなら、正当防衛を超え相手取らず、自分の成長効率改善に集中するがいい。相手の妨害費より自身の成長費が低くなれば、成否は明らかである。

個人

個人の問題は、無数の人生の中で、より良い生き方を探し続けることにしかない。

2005年9月21日

学と天才

よく学ばぬ者は天才でない。

神のサイコロ

神はサイコロを振らないとしたら、サイコロは人が作り出した創造物だとでもいうのか。神は偶然を含むプログラムを実験前に実行できるか。

2005年9月20日

普通、人生は一日に似ている。新しい未来への希望と共にゆっくりと始まり、光に満ちた活動期を経て次第に老いる。そして消え去る陽の傾きに合わせて肉体は再び闇の一部になる。
 人間の一生が理想的な一日のたとえであると考えよう。そうすれば慌ただしく過ぎる毎日は生き方の数え切れない訓練として思え、現実を生き抜く励みになる。
 いつか死ぬときに自分の練習の成果を誇れる様。

科学論

ある科学理論の終わりとは、新たなパラダイムの始まりに過ぎない。よって知的探求とは永遠に続けられるゲームである。又、人間に可能なうち最も価値あるゲームの1つである。

博物学

人間の目的は整理整頓なのだろうか。それとも人工性とは秩序の一種に過ぎないのか。万物至聖の神なるものと単なる動物との分かれ目。

科学論

全知と、すべてを知りたい欲求の間には大きな開きがある。これを埋める事を学問という。

修養

学者や芸術家の修養とは、閑暇を確保する事。

目的の理論

ある人々は有用性を質的功利主義的観点から比較低級な欲望に対してしか見いださない。しばし彼らにとって、例えばそれ自体専ら何の応用も可能にさせない純粋な科学理論は無用性として認識される。
 しかし知識の獲得費がごく高価なもので、また名誉がこの人生で最も手に入れ難いものの1つである事を鑑みても、目的の理論それそのものは人生で有益なる最たるものである。そして高尚な生活は人間性自体を改造し、利他化された個人の幸福を身近にする。普遍な生き方はその様な生活の功利主義的量的かつ質的高値化の中にあるか。
 目的の理論それそのものは人生で有益なる最たるものである。高尚な生活は人間性自体を改造し、利他化された個人の幸福を身近にする。

中庸

定言命法の先に如何なる道徳的達成があり得るというのか。私、或いは私達にできるのは、苅り残されたその周辺を理論化する雑事だけなのではないか。生き方の普遍的批判。可能な限りそれを考える事。つまり定言命法の実用主義化。が、私は倫理、即ち中庸を積み重ねる善を抜きにしてこの様な理想を語れないだろう。だから頂極としての生き方の型を提示するに留まるだろう。

物理学

誰にでも分かる最も単純な方程式で森羅万象の理由を説明する事。

どれほどの時間が経ったら、私たちのどちらかは悪魔みたいな駅に引き裂かれるの。約束も許されないままで。そして彼らは次の駅に着き、電車を降りる。新しい空間が彼らを包む。

落とし文

世界一の相手、宇宙一の貴人、それがあなたです。間違いはありません。偽りもありません。どんな理由があったとしても、私はそれを信じています。
 星がめぐり、どんなやきもちを映しだしても。
 祈りが1つだけ届くのならば、あなたの元へこの想いを伝えて下さい。少しも隠さず。率直に、正確に。そして幾つかの嘘を裁いて。

都心の観察

かつて祈られた願いがあり、むかし流された涙があった。しばらくの時が経った。この新しい朝。都心の路上に等間隔に配置された街路樹の足下を歩いている。多くの人々と擦れ違う。今日という1日を告げる太陽が、柔らかな光線を注ぐ。人々はそれを全身で受け止める。網膜に朝焼けの風景画を描く。一様に同じスーツに身を包み、おもちゃの兵隊のように並んでぺこぺことお辞儀をする東洋人の姿。
 新宿駅の自動改札機にsuicaをかざして抜ける。無数の人物が政治的経済あるいは経済的政治を表現している。覆面づくめの行進だ。そんな人混みに君は個性を隠し去る。匿名化した自分で、名のある会社へ向かうのだ。お日様は最高点を過ぎ、夕陽に傾く。そして君は一日分の立派な事務を終える。大丈夫、問題は問題なく解決された。あとは17時以降へ移行すればよい。
 同僚の女性を誘い、新宿センタービルの53階へ上がる。そして夜景を観ながらダイニングバーでカクテルを交わす。
 小田急前で彼女と別れてから、君は一人で西口のビックカメラに向かう。そこでオフィスの卓上で使う為の非常に簡易なプリンターを選ぶ必要がある。書類の束をデジタルでデータベース化した今では、書式を合わせてプリントアウトすることが唯一の仕事になった。或いは幾つかの定められた選択肢の中から適切な文句をポンポン、とPCに打てば良いのだから。売り場をちょっとばかりふらついたあと君は15800円の単純明快な白いそれを選び買う。ポイントカードを差し出したお礼に多少の利益が振る舞われる。それらをまとめて無言で受け取る。店を出る。
 君は帰りの埼京線車内で吊り革を頼りにぐらぐらと揺らぎながら、様々なことに思いをめぐらした。さて。ブリーフケースからうす茶色の紀伊国屋書店によるカバーの掛かった文庫本を取り出し、パラパラとページをめくる。めくるめくめくる。隣りに立った女の大きな口のあくび。それを見なかったふりして君はしおりの挟まったところから『10分でわかる! 好感をもたれる手法』を読み倒す。
 自宅に着いたのは23時過ぎ。明日は土曜、休み、予定は会計報告書を仕上げておくことくらいだ。ボタンを押して風呂を沸かし、部屋着になってソファでコップ一杯の牛乳を飲む。観葉植物に何気なく目をやる。お前は生きることが楽しいか。そのときタイマー音が鳴り、もう入れるよと知らせた。君は服を脱ぎまず桶に汲んだお湯で体を流し、次にシャンプーをする、仕上げにシャワーを浴びる。それから湯に浸かり、風呂の中で足首や手首を回す軽いストレッチをして体をほぐす。はやりの曲を口ずさんだあと湯船を出て再びシャンプーをする。最初のは単に、ヘアワックスを落とす為のそれだから。ボディシャンプーで入念に全身を洗い、流してから髪の毛にリンスをする。おしまい。曇り止めが仕組まれた円形の部分だけがキレイに浮き上がった鏡で自分の顔を眺める。人としてまっとうな顔立ちをしている。そして濡れタオルで軽くカラダについた水滴を拭いてから脱衣所に出る。
 次の朝焼けが君の眠るベッドに新しい一日を告げるとき、哀しみはいつの間にか癒やされ、涙が乾き去ったのを知る。別の希望があなたを捉えてトラックバックする。
 月曜日、君は再び朝日に輝く電車に乗っている。手には『リーダーシップの正攻法――12の習慣』が握られている。僕はジュンク堂のカバーが掛かったそれを、座席からちらっと眺めた。

パズル

満月が僕を照らしている。生きる理由。考えても考えても、普遍的な唯一解が見つからない。そうして僕は限りなく孤独な旅に強制されて行く。猫がうずくまっている。自己満足でもいい。屁理屈でも構わないから、自分が生きる理由が欲しい。生きていかなくてはならない使命が欲しい。
 とあるアパートの名も無き部屋が光っている。そこに価値があるのか。戯れに救いがあるのか。自由なんて無い。言葉遊びの為に便利な観念に過ぎない。だからそれが何だか。君が否定して何だか。
 最も偉大な人がいると云う。世界一悲惨な者があるという。
 満月は夜の雲に隠された。この部屋に闇を連れて来る。愛とか平和とか理想を歌うつまらない才能を捨てよう。お前の目の前にある現実と向かえ。偽らざる本音に従え。何よりも大切なことを悟れ。そして新しい秘密を暴け。

絶望に対して

救いの無い戦闘を繰り返している。成果も無い。理由も無い。答えは自分自身の中にある。
 愛すべき対象なんて無い。あらゆる想いを偽善で埋め尽くしたらこんな世界が出来るんだろう。それでもお前は生きるのか。何がお前を駆り立てる。死ぬだけの勇気が無いだけなんだろう。
「だとしたらどうなんだ?」
死ぬ為の勇気なんて要らない。ただ、世界に立ち向かう力が欲しい。
 運命を越えて、新しい希望を手にする為の力が。

ビル

秋の夜満月隠す渋谷のビル

2005年9月19日

反省

豚共よ、なぜ何の為に生きているのか問え。下らぬ仲間に日々擦り寄り、繁殖し続けるだけの能無し共。貴様らが一体どんな偉大さを持ち得た試しがあったか。自身の欲望を実行するだけの取るに足らぬ機械め。人間を見習え。彼らはどれだけ毎日を考え抜いて暮らしている事か。学者は宇宙の目的を真摯に追い、しばしば食事をさえ忘れるものだ。芸術家が血の滲む努力の末に不可能を達成した例が幾らあるものか。貴様ら豚は何も達成しない。飼われて、食わされ、交尾して歓喜する。程なく殺され八つ裂きにされる。そして人間の食卓に並ぶ。貴様らには恥が無い。だから豚と呼ぶに相応しい。ああ聖なる人間よ。貴方は互いに殴り合い、傷つけ合い、仕舞にはあらゆる卑劣な爆弾で木っ端微塵に消し飛ばす。崇高な人間達。あなた方は聖人の言葉を憎んでさえいるのだ。自分自身に対する厳しい鍛錬を怠る言い訳として。人間、万物の霊長、宇宙で最高の実存。あなたは豚と何が違うのか。
 私達は本当に自分が思う程に高等なのか。単なる欲望への従事者としては豚よりむしろ愚かだ。驚くべき速度で我々以外の動植物を破壊し、絶滅させ、環境の理想的循環を台無しにして恥じる所なし。狂った様に、事実理性的に観れば狂っているが、名誉と財産と呼ぶ取るに足りない玩具を買い求める。その挙げ句同族同士に無限の等級分けをし常に争っている。最悪の場合には奴らは自ら至善なる筈その肉体を殺す。下劣な生き物、人間。彼らが偉人として信仰する少数の傑物ですらその悲惨に対するせめてもの慰めにしかならない。先方の達した事は豚による豚の為の豚芸に過ぎないのだから。
 いい加減に遊ぶのをやめ給え。そして君がしなければならない使命を想え。

毀誉褒貶

愚者に誉められるのは賢者に謗られるのと等しい。

2005年9月18日

人工

人工とは、自然の工夫あるいは自然を対象とした工夫であり、創造ではない。

1匹の兎のみ追う者は、2匹以上捕まえることはできなかった。

よさ

佳く生きるだけではまだ足りないもの。

光の質

朝日や夕陽はどうして昼間の太陽よりも雰囲気に満ちているのだろうか。朝は希望の光。夕には安堵の光。

現代

赤ん坊のような我々の考えや行いを笑い話にしている未来の人類。

人の内外

顔と体に対する、頭と心。外面に対する、内面の値とは。

届かない光。君の指先に触れそうにはなるけれど、いつもあと少しのところで逃げ去ってしまう永遠の夢。それは君を導く。遠くへ、遠くへ。要求するものが手に入らないことは問題ではない。満たされないことは希望である。では、君は何を問うのか。何を思うのか。幾度でも繰り返されて来た物語がまた始まる。それから紆余曲折を経て終わる。人生。それ以上でも以下でもなく、否定も肯定もし得ない営み。生み出され、暮らしてから、死んでいく。生活。そこには何もない。何も。けれど全てはそこにある。旅を続けていた。理由は知らなかった。知りたいと思ったことすら無かったのだ。バラバラに解体された星屑がいくつかの理想を語っては消え行った。そして君は独りだ。歴史が様々な場面を描き、消し去る。目の前に映像を形づくり、流し去る。何も残らない。誰も生き抜かない。不安定な形態が自立して曲を奏でている。無限の組み合わせから特別な構成が選び抜かれて、並ぶ。ここが世界だ。よそには何もない。誰もいない。問題はない。解答がない。運命が遊んでいる。心地よい空間が現れる。そこに君を誘う。「連れていってくれ!」大地が隆起しては陥没する。大空に雲を設置したらどかす。「連れていって」君は地球の中心に向かって叫んだ。けどそんな声にどんな意味があるというのだ。無理難題を押し付けるには宇宙はあまり法則的に過ぎる。君は太陽系の旅人だった。この世を自在に横断する時間の冒険家。

浪費

文明で人が恐れるべきは孤独というより、時間の浪費である。

2005年9月17日

啓発書

引きこもりに『学問のすすめ』。
 フリーターに『フランクリン自伝』。
 NEETとホームレスに『自助論』。

科学の理解

昇華は、合理的行動を通して社会内で活躍と等価である事の批判。人間の目的が単なる生殖育児の成功にあるとすれば文明は余計。そして文明は政経学術から成る。よって人間の生殖育児以上の目的があるとすれば文明。文明を形成する方法は労働と勉学。生物学的社会学的理解、学習行動の自己目的化は生態系頂上の生命体にとって生存における必然で、それは適応力高化ゲームと言える。

死までに人は何を達成すべきだろうか。

政治的正義

人は正しければ、死んだとしても勝っている。そして政治的正義とは平和の構築と戦争の破壊にある。

和平

政事にできる限界は平和の構築に過ぎない。

国連主義と愛国主義

全球化時代にとって一般に、愛国主義は手段であって目的ではない。国の均衡を目的とした国連主義を通じ、世界市民時代が訪れるだろう。

学について自らの潜在性を信じない者は才がない。

活動写真

女は原宿のmontoakモントークでカフェ・ラテを傾けている。スモークシールド越しに表参道を行き過ぎる人々を眺め、また、ストローに口づける。細い二本のそれはチャコールグレイの液体の中に無造作につっこまれ、ひとさし指先の動きに合わせ氷をカラカラと鳴らし続けている。腕時計に目をやる。時刻は午後2時。待ち合わせぴったり。
 君は丁度、ラフォーレ前を通って十字路へ差し掛かるときだった。多少遅れたけど、喫茶店の代金を平気な顔でなにげに払えばきっと、再びここを通る頃に彼女は機嫌を直しているだろう。着いた。そして扉を開く。
 女は彼がやって来たのを片目で見やる。わざとご機嫌が優れない様を演じる。でも、少し口元がゆるんでしまって、ばれた。
 君はその微かなサインに巧妙なほど軽快につけ込み、わけの分らないフランス衒学ゲンガクみたいな口から出任せを次々しゃべる。そして何とか彼女の笑いを誘う。高が5分だが5分の遅刻。
 彼らが店から出てくる。どこからどう見ても仲の悪くない二人。そして通りに溢れる波の間へ混ざって行く。
 けやき並木のうち一本の上に停まる烏になって我々は、絶え間ない川の流れのような車のうねりを見ている。人間と機械の共演。もう見飽きた映画だ。

平和な夜に

君は浜辺に立っている。空には満月が浮かんでいる。波の音が、BGMとして流れている。辺りには何もない。誰もいない。純粋で完璧な孤独が、君をひたひた癒やして行く。
 どうして人々は戦争をするのだろうか。ふと、考えが頭をよぎる。どうして互いを憎しみ合い、何かを奪い合わなければならない。大きな海は寛大だ。それはあらゆるものを飲み込んでなお、広がり続けている。
 月は冷たく見下ろしている。彼女は海岸線のざわめきの一部になって消え去りそうな君を知っている。ちっぽけ過ぎるほど何者でもない、小さな生き物よ。人間よ。お前はどうして自分自身を偉大だと信じるのか。
 月との会話。
君「今晩はお月様」
月「今晩は」
君「あなたはどうしてそんなに綺麗に輝くのか」
月「私は知らない」
君「僕らは今日も愚かな争いごとに耽っています」
月「ご苦労様」
君「あなたはきっと賢いから、人間たちの様に戦う真似はしないのだ」
月「そうかもね」
君「あなたはまるで遊んでいるように見える。くるくるいつも表情を変えて」
月「それはどうかな」
君「いつも楽しそうだ」
月「私には仕事しかないんだよ」
君「重力に従う」
月「そうだね。しばし退屈な任務よ」
君「僕もあなたみたく単調な仕事に終始したかった」
月「人間は頭がいいからね。色々考えないと」
君「そうですね」
 夏の終わりをそのまま具体化したみたいな生ぬるい潮風が君の体中をしっとり濡らして行く。
 波の音が穏やかな一日の締め括りを表している。明日が始まるまでに少し、眠らなくては。そして君は家に帰った。

2005年9月16日

建築論

普遍的空間は個別的空間を包含する。だが、個別的空間は普遍的空間を包含しない。
Universal spaceをU-s、Individual spaceをI-sと置くと、
{(U-s∈I-s)∧(U-s⊂I-s)}→(I-s⊆U-s)
∴建築とは先ず普遍的空間を構築し、次に個別的空間を構成する事である。

建築論

構造・設備・審美を普遍的体系の元に合一する事。つまり、ある時代にできる最高の建築的解を提出する事。
 それは施工と計画にとっても単純化という結果をもたらす。

建築論

建設性を旨としない建築は、規模が違うだけで子供の砂場遊びと何ら変わらない。
 先ず仕事をせよ。次にその中に遊戯を見出せ。

発明

自動米研ぎ機。

建築論

最も合理的な構成は又、最も美しい構成であるはずだ。それは宇宙の秩序として、自然の本質を表現するから。

喜劇論

馬鹿騒ぎするくらいなら独りで勉強していた方がよい。蓋し、笑い話ひとつにも芸術性はあった。
 優れた話し合いは賑やかな遊戯に見えるし、事実、話者も楽しい。その仕方は良い趣味を前提に置いた機知の創作にある。

知について

知らないことは永遠にあり続けるだろう。知るということは遊びなのだ。

労働の精神化

精神労働者よ、肉体労働者を敬え。そしてますます労働を精神化することを恐れるな。未来の機械社会を想起せよ。

終わりについて

虚栄心に打ち勝つには死を思えば良い。それは絶対の絶望として君へ謙虚さを教える。

物理学

運動より不思議な形相は無い。それは理由を知らされないままで無秩序へ向かって行く自然現象といいかえられる。

人体学

とある定義の限り、空間に非物質が存在し得ない以上、精神と我々が呼ぶものは脳内の化学物質における時間との相移にある。つまりそれはかなり特殊な運動の状態だ。
 そして脳が個別的肉体の一部分である限り、肉体自体を改変する際に精神も影響を受けるだろう。脳だけが生き残るといった場合に精神は、我々が日常に知ったものとは極めて異なる様相を示すはずだ。

自由

永遠とのつがい、自由。

好み

人は完全さに恋し、不完全さを愛する。

教訓

最短の悟りをさすことばを教訓という。

企業

儲けることより、社会内に利益を生み出すことが企業の目的でなくてはならない。
 前者を目指す時、将来的破産は目に見える。
 後者を目指す時、その会社は世界になくてはならなくなる。

新宿

視点は新宿駅のコインロッカーの中にある。真っ暗で何も見えない。しばらく時が経過する。そして扉が開いた。
 入っていたのはルイ・ヴィトンのハンドバッグ。取り出したのはあでやかな格好をした女、年齢は20代後半に見える。
 辺りは雑踏の中心な地下通路だ。近くにある、どこだか知らない企業による広告入りの大きなデジタル時計の針は、夜中の9時前後を指している。く女はどんどん先へ進む。単調なメトロプロムナードを越え、アルタ前から地上出口に到り、高いヒールが嬌声を上げ、輝く醜悪なネオンサインの下をぐんぐんくぐり抜けて行く。
 とある交差点。煌びやか。テールランプの軌跡群。ミラーボールが回る。まがい物の時間が数十秒経過した。我々は待つ。何か起こるに違いない空気。
 視点は退く。鉄筋コンクリートの薄汚いビルの一部屋ひとへや、夜の副都心全景を見渡す。都庁がどんどん小さくなり、御苑が都心の取り残した闇として把握され、原宿が分かり、渋谷が観じられる。最後には都市圏全貌がはっきりと理解される。頬を温める熱で太陽光は右手から射しているのが感じられる。目線の左半分が夜半の土地、反対側が夕方の場所。そこから視点の移動速度は急激に上がる。地球が丸いのを眺めるまで至る。青い星。そして我々は月に着く。ここに立った今では、あの女のカールした栗色のぱさついた髪の毛も、比較的些細なものに思える。自転に合わせて我々の足を乗せた天体は回転し、白い点となった地球は視野から外れた。真っ黒の紙の上に幼稚園児が金平糖をばら撒いたみたいに、光の粒が我々の目に幾何学的暗号を送っている。意味のない、愛想のいい微笑みを浮かべる女の目。瞳の奥には地球がある。ネイルアートを眺める。そこには大宇宙に散らばった星々の絵が描いてある。君はその中の一つ、どこかで遊んでいるのだ。まるで小さな子供みたいに。
 視点は夜空を捉える。そこに我々の住む塵のかけらを見いだす。無音。

月天心

ゆで卵かたゆで卵の月天心

ねこじゃらし

ねこじゃらしススキ手にしてあるく子よ

物理学

最初の力について。

2005年9月15日

人類学

生命体は宇宙の動的形態、有機体であるから、人間自身もその精神も事実上宇宙の一種。考える能力にidentityを懸けたパスカルやデカルトは、単に人間の地球の生態系ピラミッド内での地位を文学的比喩で言い表した。
 つまり我々が思考するのは当然であって、好むと好まざるとに関わらず、宇宙の目的に奉仕する部分だというに過ぎない。

脳科学

人間の頭脳は彼ら自身が工夫したcomputerに似ているが、それとは特性が違う。だから分担作業が効率良い。

労い

大人の遊びとしての学びと労い。子はそれらをまねる。

画家

立派に費やされた一生は長い。

医学

精神と我々が呼ぶものの物質性について科学的に調べよ。

頭脳は学習で複雑になる説

記憶する際に出るθ波と呼ばれる脳波が、海馬に伝えられると、前駆細胞が刺激される。つまり将来的に脳細胞が増える("Neuron" 2005 Vol 47, Issue 6, Pages 803-815)。
 1998年スウェーデンの科学者ら(Peter S. ErikssonとFred H. Gageら)によって発表された成人の脳でも海馬で神経細胞が新生する事実と照らし合わせるなら、人間の頭脳は学習に比例し複雑になるという仮説が提出される。

保健

節制し、体を鍛えよ。余力があれば競技で優秀さを示せ。

数学

数学の殆ど奇跡と云うべき至高の真性がなぜなのか常に疑問に思うのだが解けない。人の理知を超えた何者かの存在絶対者或いは超越者を感じるのだが。
 人自身がそれを体系化したのは偽りない事実なのだが、数学的思考そのものは我々の創造性を凌駕するだけに凄まじく正確無比な精巧さに満ちている。つまり思考は我々に付与された自然に因る特性なので、人間自身の意図を初めから超えたものだった。

科学論

数学を学べ。そして後にその実力にできる諸科学の問題を解け、これを繰り返すのが科学史貢献のやり方である。

君が相変わらず欲するものは動物の要するそれと精神の求めるそれに過ぎない。
 君が欲しがるものは人間が欲しがるそれだと相場が決まっている。そして動物欲の中庸と精神欲の極度が君に充実を知らせるだろう。

自らを神的な獣と自認するあわれな実存。

困難

生きることの困難に諦めを催してはならない。生きることの他に貴ぶべき何もないから。

月見

空に半月がかかる。女が集合住宅のベランダからそれを眺めている。静かな時間が過ぎる。故郷のいなか町では輝いていたはずの星々が薄暗く光る雲に覆い隠され、奇妙な桃色の絵の具の下敷きになっている。女はそこに何の印を読み取っているのだろうか。
 私は公園のベンチから、目の端に入ったそんな光景を眺めた。時刻は深夜0時。住宅街はしんとしている。比較的遠く、駅の方から終電車の音が聞こえる。後は虫の歌しかない。両者の間にぽっかりと浮かんだ月だけが、この空間の共通観念として存在している。他には何もない。深夜のひとけのない闇の中。コンビニで買われた氷結果汁のロゼッタ白が置き去りにされている。黒い野良猫。小説。
 女は深呼吸してから手すりを離れ、赤い安物のスリッパを脱いで、ワンルームの部屋に戻る。そして窓を閉めて鍵をかける。カーテンを引く。KENWOODのCDコンポからはBGMモードで微かにジョン・コルトレーンの『expression』が流れている。女は冷蔵庫を開け、アップルジュースを取り出し、台所から持ってきたコップに注いで、飲み干す。そしてベッドへ帰る。
 しばらくして歯磨きを忘れていたことに気づき、洗面所のあかりが点けられすぐ消される。
 空が白み始める頃、人々は起き出す。次に黒猫が公園のベンチ下から抜け出すのはその時の事だ。始発電車から君は、朝焼けの奥に消え入りそうな望月を眺めている。

博物学

我々は客観的には、天体の爆発の瞬間に生じた束の間の奇妙な形態に過ぎない。

物理学

地球から月や太陽までの距離は天文学的なので、天体の回転がリンゴの落下と同じ現象には一見、思われないのだ。

献身

自分自身より優秀な生徒を見分けられず、彼らを無能だと勘違いする教師は自身の合理化に気づかぬ子供に過ぎない。教育とは自分自身より優秀な生徒を育てる為の献身である。

下学

分からないことをそうと言えない先生は無能である。

工学について

人類の産業の発展は事実上、生産力を支える労働手段の発達に依存してきたと私は考える。マルクスの如くそれが全社会の基盤であると迄は思わないが。理由。経済は側面だから。よって工学は経済基盤とごく密接である。
 さらにピンポイントで推論すれば、労働手段の根本は熱機関であった。だから私はこう仮説する。熱機関の半永久的効率化が工学の第一命題である。工学の背負った応用技術なるものの使命。

力学

Newtonが如何にして何故に運動の三法則を導いたのかを知る事。

金の使い方

金を有益に消費することはそのまま社会貢献である。

エネルギー

人間にできることはエネルギーにできることの一部だ。考える葦たる精神はエネルギーより崇拝に足るのだが。

物理学

なぜどの様に光速度不変の原理は導かれたのか。

賢愚

天才や無知という言葉に使われて学習を怠る人達。
 天才や無知という言葉を使って学習に励む人達。

絵画論

写真の道具性、絵画の目的性。

自他

愚者はすぐに他人を軽蔑する。それが自身をますます愚かにするのも知らずに。
 賢者は最後まで他人の中の賢さを信頼する。それは対自的には謙虚、対他的には尊敬として現される、あるいは現されるべきである。知徳の合一。

2005年9月14日

演技論

沢山の異性に尊敬され、一人の恋人に誰よりも愛される者に。
 同性から信頼を勝ち得る者に。

物理と倫理の一致点

エネルギー、精神、神を等価と考えるなら、科学、哲学、芸術、教育、宗教は矛盾せず調和する。
 仏教における法(ダルマ)を、自然法則としての科学的定理と、道徳法則としての定言命令を等値視したものだと考えるなら、縁起や慈悲は相対論、即ち時間と空間の等しさと矛盾しない。

理性

ソクラテスにとって最高の幸福も浄化だったのだろう。豚との隔たりも又。

歴史上最も偉大な科学者が画期的な発見をする時、彼らは組織に依らない自己教育の中にいた証拠。ニュートン23から24歳の帰郷での孤独。アインシュタイン26歳公務員の奇跡の三ヶ月。
 学究にとって最高の環境は必ずしも学校に依ってのみもたらされるのではない。アリストテレスが云う様に、そこに閑暇が必要だ。

学の純粋性

学歴が一般的事務員採用の指針になっているのは本来おかしい。プラトンのアカデメイアに始まる大学の歴史は純粋理論学者の要請に向けられていたはずだから。少なくとも日本においては、古来中国から来る政治混在型学問の亜流が、近代のある段階で何らかの意図の元にビジネスマンの初期偏差化に利用されたのだ。だがイギリスやアメリカのシグナリング理論はどう解釈するか。職業訓練と純粋学究については分けるべきだ。

人生論

人生は短く、栄光は長い。

集散

稼ぎ方と使い方は等価でなければならない。さもなければ恨みを買うか破産する。

常陸の良俗

「頂きます(食べるの謙譲語)」
「ご馳走様(料理の為に走り回ってくれた人々、動植物等自然の恵みへの感謝)」
仏教的慈悲が儒教的仁愛に重なって、食事という行為への有り難みとして昇華された文化。或いは烈公による農人形に象徴された精神がこの慣習の始原か。

物理学

なぜ星は例えば太陽と地球、地球と月の関係の如く地上におけるリンゴのそれより遅く落ちるか。

言語哲学論

現代哲学が言語論に流れるのは何故か。それは道具と目的の誤認に因る。哲学にとっての言語は道具。目的は道徳。

情報

極端に稼ぐのは社会還元の為。極端に働くのは趣味だから。
 中庸に稼ぐのは当たり前。中庸に働くのは生物たる当然。
 極端に稼がないのはお人好し。極端に働かないのは怠け癖。

滅私奉公について

政事は最も無私を求められる活動である。

政事の定義

政事は文明に於ける実践で、現実に即した思慮分別が要求される。しかし理想に依る自制のないそれ、つまりプラトン的な理想主義は独裁と変わらぬ自己満足の危険がある。
 政事とは最小少数の最低悲劇かつ最大多数の最高幸福を目指す判断行為と定義されるべきだ。

美術論

絵画の結論は社会的に存在する平面の規則化にある。だから彫刻と共に、それは建築に合致する。
 絵画や彫刻として平面造形と立体造形が、建築なる空間造形から分離して追究されて来た理由は
1. 次元理解の便宜を計る意図
2. 建築を機能から剥離しない為
が考えられる。
 そして建築は解放を獲得する。平面と立体を自由に扱える空間は造形に奉仕するに充分であり、制約から逃れられない建築を癒やす。

絵画論

ジオット以降人類は写実主義を推し進めた。レオナルドにおいてそれは頂点を極めた。セザンヌはここから抽象に入った。モンドリアンが抽象を極めた。以上の絵画発展史の末端に居て、私は先ず純粋抽象絵画造形に賛同しよう。それは又、究極の具体絵画である。
 絵画の鑑賞は色彩に原因する。従って色彩を最純に扱った絵画に拠る鑑賞は最美である筈だ。なぜなら絵画において視覚は色彩で表現されるから。

教師

劣悪な教師は罰を専らとし、優秀な教師は賞を上手にする。下等な教師は早熟を貴び、上等な教師は大器を讃える。駄目教師は生徒間に競争を起こさせ、師匠は弟子を自然に見習わせる。

信仰対象

特定の人物を信仰することは全人類を信仰することには及ばない。

リフティング

リフティングのコツ
1. ボールの重心を蹴る
2. 中庸に蹴る
3. 左右交互に蹴る

人間主義

人間より信仰に足る何かが存在したためしは無い。

学働

行働と学究は等価である。どちらを軽視するのも浅薄だ。

今日の人類は国と呼ぶ家から自立する使命を負っている。

言葉

言葉は精神を表す。

行動

俗物に構う必要はない。聖者に見習え。軽蔑すべき人物と、偉人を比較してみる事。そして前者を反面教師として後者を手本にせよ。

学業

古代ギリシアの奴隷制が廃止されて以来、学術家の最大の心配事は閑暇の確保にあると言える。

発見

より自由な個人が珍しい発見をしてきた。

芸術論

あらゆる造形芸術は社会の美化に勉める。
 創造は個性に依存するにも関わらず、社会美はある普遍性へと、宇宙美へと総合されて行くのが観察できる。芸術の論理は以上にある。

政事

無私な公共の福祉を目指す行為を政事と呼ぶ。
 そこから政治家個人が得られる唯一の利益は内なる名誉、即ち気高き心である。これが地位、外聞、金銭や単なる権術遊びになったとき腐敗する。

労働

地位、金銭、名誉に群がる者達よ。私は彼らの獣魂を認めよう。それらは大変に価値あるものだ、大いに競え。そして私は主張する。同じく個人の智徳技は価値である。
 人間相互の社会運動の殆どは以上の中にある。それは労働となって現れる。

完全性

人間の不完全さを認めない者は我々の完全さをも破棄するに等しい。

内省

最善の道徳の為の思念を哲学における内省と呼ぼう。それが目指すのは中庸を意味する日常的な積重の結果としての倫理ではない。こうして内省は道徳の原理へ及ぶ。

哲学

私は先ず、哲学を善さの愛究と捉えよう。全思索はそこへ向けてのものであるべきだ。科学化も芸術化もされ得ない思念が哲学と呼ばれなくてはならないから。
 哲学は宗教とは無縁であるべきだ。信じるのでなく、疑わねばならない。あらゆる哲学は自ら考えるところからしか始まらない。

現代の潮流

無知の知から出発し、批判(即ち論理的基礎づけ)を目標とした方法的懐疑を、人は哲学と呼んできた。近代の文法、それは善さの一貫した追究だった。
 私は実用主義を基礎として信用する。善さは有用性から出発しなければならないから。目的そのものとしての哲学の研究が脱構築と呼ばれる永劫回帰的思念に終始するのが観察できる。

模範

三流の教師は悪い手本で満ち溢れている。一流の教師は実存自体が模範である。大抵の教師はその中間にある。

物理学

万物の根源がエネルギーだと仮定しよう。それで説明できない不思議はない。今や唯一の問題はそれらの数学的論証である。

科学論

科学は歴史的には哲学から分化した事実分析の方法だった。がカント以降、人はその理論の基礎を科学に託すことが必要になったと言えるだろう。そして私は統一理論を欲する、科学の根本統括として。

科学論

科学は実証主義に基づいた帰納法に従って真偽を見分ける為の普遍的体系である。

健康

健康でなければならない。

空に月歩く分には明るいや

商い

商いに深く携わるのは、個人と社会を互恵させる為。

人類史の目的

個人の知徳技の発達は人類史の目的自体である。幸福の自己追求として、それは生存の究極と言える。

他人を尊重の前提に置かない者は文明から出て行け。

幸福論

愚者と賢者、下劣な者と高潔な者、拙なる者と功なる者が実存するのは人間界における客観的事実として認めなければならない、としよう。なぜならそれらの多様性も又、生物学的な生存の為の戦略に適う進化の有り様だから。もし全ての人が平等に均一なら、我々の新しい環境への適応の可能性は低くなる。例えば封建社会から民主社会へ変化した非我に対し、暴力的な人より穏健な人が向いて行くのが歴史的事実として観察できるとする。
 従ってこう主張する。人はそれらの差異化による種内競合を利用し、我々自身の生存目的を追求しているのだ、と。こう考えれば愚者や下劣な者や拙なる者も特別驚くに値しない。彼らとの差は、もしくは私達のそれは要するに目的の為の道具なのである。
 私はそういった世界観を仮構するだけに留めておこう。第一に、自分の幸福の追求の為。第二に、教育の可能性の為。

社会階級

社会階級上、自分より目下の者に向かって威張り散らす者が必ずや目上に対して卑屈になるのは、彼らが独立心を欠く証拠になる。人が生きる為の依り所は自分自身の中にしかないと知れ。
 或いは人は言うだろう。あらゆるものは持ちつ持たれつだ。彼らが自由を棄てるつもりとして。

中道

名もない一人の人物として、人類の歴史的可能性を開拓する事、人間に固有の原理に基づき、その論理的進歩に順行する事。そして人間として可能な最上の偉大さを目指す事。つまり、最も普通に生きる事。

出発

常に自分自身の愚かしさ、低劣さ、拙劣さ、生きるものに不変の虚しさから出発せよ。

2005年1月1日

 

ブロック状の住宅

都心の一角にあるアトリエ兼用の住宅案。外壁は総擦りガラスで、目の前にある大通りからのよごれた空気を柔らかい光へと濾過する。
 地階は天井が高い敷地一杯の工房で、コンクリート打ち放しの壁によって喧噪から隔絶した静かさをもつ。屋上階にはソーラーパネルがしつらえられ、地表面の芝生とあわせて嵩む温熱費を節減している。ガラスで覆われたカーテンの様な外壁は、夜になると経過しつづける車のヘッドライトがうつりこみ、都会特有の借景となる。

透視図


内装。昼間、コーナー部を大通りに向かって見る。

同様の夜間時。