2005年12月7日

知能と仕事

知性を個人的欲望へ費やす為に人は企業で働いて来た。しばし学者がこれらの活動を蔑む場合さえあるのは理に叶う。なぜなら普遍的利益の観念は資本主義の論理を含むと気づく知性がこの労使活動に参加して合理性があるかどうかは、誰の目にも疑問。理論はもともとこれらの仕事の原理であり、経営者、資本家、労働者らはそれにのっとっている。
 しかし起業家は違っている。彼らはあらたな公益を私潤と調和させる必要に駆られて会社を操る。労働者が資本家より下っ端だとされる社会構造は、共時的にはつまり、流動できる役柄とみれば正当視された。それは単に知性以上に、道徳性の力差とみなされてきた。
 この能力差が共産主義の原理的不能さを物語っている。そしてよりのぞましい配列になる秩序をもとめるのが、社会思想の展開とみなせる。