2008年7月31日

生物学

優性と劣性という生物学用語は、例えば朱子学においての陰陽説がそうだった様に一見して素人に誤解を招き易いが、prepotenceやrecessiveの訳語に過ぎない語源をあわせみれば、いわば明治からの負の遺産であるだろう。だから、我々は寧ろこの用語を徐々に顕在や潜在という、より事実に即したものへと置き換えて行くが良い。初学者へのかみくだいた表記では例えば表と奥の遺伝と書き表しても、優った、劣ったという表現よりはまだ正確である。

2008年7月30日

厩焚

今朝の朝日新聞の最終欄に、埼玉秩父のコンビニ店主が燕の巣一つが見つかって既存スーパーマーケットの解体を遅らせるという記述あり。
 これは人間の利便の前では宋襄の仁であり、株式公開を含む国内市場へ外国資本を政府主導で果敢に投入し、競合力を更に強化し淘汰するべき現象かもしれない。

地理学

人類が獲得する習性のどれも、自然界と人間界との、民族と交易との相互作用から導き出されてくる。単に人為が、でも風土がでもなくて、人間社会として現れる両方の混淆が、文化と呼ばれる行動機能を集積して行く。だから、我々は環境決定や環境可能という概念より、寧ろ環境文化と謂いうる不易流行の積算交通の網の目を体系的に観察してみるべきなのだ。
 人為は自然を変える。しかしそれは究極に於いて、民族性として周密されていく様な適応習性の伝承体としてである。だから人為は自然の部分なのだ。それは環境の中に、文化という二足歩行型哺乳類の独特な住みかを建築する本能形態の有り様なのである。我々は理性を不自然を意味させる、単なる対立概念として捉えていた。だが、本当は人間的本能という以外に説明づけられる能力ではない。如何なる人類にも理性が見つかる。そしてそれを導き出したものこそ文化なのだ。
 すべての文章を文化という観点から読み直してみなければならない。そうすれば、理性があらゆる場所と時代によって実に驚嘆すべき多種多彩な趣きへと変容しながら、地域文化の立脚となり伝わってきたのが理解できる。そして人類の史学は文明と野蛮という二分法を揚棄した、あらたな等価の観察を通じて紡ぎ直されねばならない。民俗学と民族学とは根本に於いて相異なる学野とは言えない。我々は文化学として人文地理学の整理を図るべきである。それは歴史と地理との地政学的混同の広場に、安心して汲み揚げられる共有の井戸を掘り抜く作業になるだろう。

油蝉

油蝉一心不乱に鳴きにけり

2008年7月28日

環境問題の上滑り

省energieは産業全般に望ましい事ではない。改革に必要なのは熱効率の向上に過ぎない。変わるのはentropyだけだ。目的不明の省略煽動によって投入する原料すら節約する様では産業の衰退、飢餓混乱へ至る。熱機関の効率を更に工夫することだけが人類史の命題である。
 二酸化炭素自体があしき媒体なのではない。植生との反比例関係だけが温暖化の原因である。もし二酸化炭素がなければ生産者は死滅し、あらゆる食物連鎖は絶ち切れるだろう。
 従って、産業を最大に展開させると同時に植生増資を創意するなら人間の寿命にとっても普段の低酸素状況は却って望ましいだろう。肥料流通と国土計画が寧ろ喫緊の温暖化対策である。隣国由来の大気汚染を禦ぐ最大限の予防対策も又同じ。
 声高に喧伝されている脱炭素のプロパガンダには全く意味がない。炭素循環のない有機体すら存在しないから。

電球の確保について

頻繁に点灯・消灯を繰り返す場所では却って蛍光灯の総費用は高くなる。

政府の市場干渉は「推奨」としての蛍光灯全般への助成に留めるべきで、市場から一切の旧来フィラメント電球を排除するのは歴史的愚挙である。


例えば雰囲気照明の様な光度の微量調整が大切な需要を単なる一時の気のせいで壊滅させる理由は無い。否応なく文化色にも昼光系統の冷たさが蔓延し勝ちになるに違いない。
曰くこの商材は公共管轄の街路灯などを除けば、民間の自然選択に委せるべきなのである。

2008年7月26日

専門学校の必要

無用の用がなければあらゆる有意の応用はない。実用的な教育は専門学校に於けるものであるべきだ。純粋理論と応用技術とは骨の種類に関して凡そ異質な所がある。数学的には捉え切れない細かな経験則が並べての工学文化には蓄積される。
 真理の探究は学問の目的である。時を経ても廃れない大道を悟るには、無為の学問に殉じる以外にない。専ら有用なものこそ最も実践的な道具である。然るに工学技術は純粋理論と飽くまで相負的な営為である。よって、学問を純粋理論のみに囲い込み、社会の最先端に直結すべき専門学校の意義をなおざりにする文化では、いずれ技術力の確保は困難になるだろう。大学院と専門学校とは理論と技術との目的について正反対の傾向を伴いながらもどちらも必要不可欠な近代教育文化の条件である。

2008年7月24日

学位

全ての学位は学問の奨励賞に過ぎず、どんな特権も社会的に付加されるべきではない。全ての知識が大学にしまわれた場では民間に学問慣習が広まる事はありえず、永久に科学民度は低い継である。そして愚民の国は対外的には最弱で、文化的には蔑視の対象であるしかない。
 何より学位は既存潮流上にしか与えられる余地をもたない。よって、革新的業績に賞を与える事のできる実存は同時にはありえないのである。こういう成果は常に学問の進歩がそうだった様に、充分な時間が経ち、周囲がやっと意義に感づいてから評価され始めるだろう。学位はだから学問的意義そのものとさえ必ずしも相関しない所を含む。それは飽くまで「奨励」の意味以外を持たせてはならないものだ。

昼下がり冷やした李のあかみかな

喜捨の気象

一国の栄華、これが究極目的ではない。

国は他国の模範と成ることを通じてのみ、国統を全うするのだ。
故に、国内がつとめて清貧に甘んじる時にニュースで黒人の産業が繁栄して行く有り様を眺められれば、それより幸せな気象があり得るものだろうか。
 なぜヨーロッパで有色人種が蔑視されて来たのか、それが普遍に問われねばなるまい。
学識によって? だが不器用でも精一杯努力する生徒は常に、何でもこなす優等生をいつの間にか追い抜いている。
産業によって? 政治体制によって? どれも一時の偶然に由らない理がないなら、勘違いしていた古代の民を哀しむ人種偏見の認識が行われる限り人倫は、改革される余地を残している。

誰が平和を望まぬであろう?
産業の成長そのものが自己目的なのでは決してない。それは人間福祉の方便である。
ODA拠出を通じてのブーメラン効果を恐る位の国内産業体制はもとから甚だしく腐敗していたのだ。

もしお歳暮に見返りを期待する者が居れば、人は偽善の誹りを免れまい。
ODAは少なくとも、現代の喜捨である。よってその縮小、という事は先ずあってはならない。正しい優先順位である国内調整の前に、喜捨を投げ出す者を国際社会は見放すであろう。

2008年7月23日

ハイビスカス

庭先のハイビスカスか咲きにけり

学歴社会の欠陥

学歴と学力の間に違いを見い出せない国民度、これが日本人の弱点となる。科学の発祥を創始者に遡るなら、それは紛れなく一人の学者だった。彼は学ぶ者であり、教えられた者ではなかった。開拓者に手本はない。
 科挙の弊害が著しく、日本人の在野研究の欠落度に迄なってしまっている古代に在れば、民間に科学の慣習が弱いということは遅かれ早かれ民族の維持発展には致命傷となるであろう。それは一般民衆が学力を学歴と混同すればするほど、瑣末な年頭月尾の雑学に加わった虚飾の傾向を以て大学の退廃に繋るだけだろう。特に学生集め及び振り落とし競争試験の難を免れない私立大学では、この危険はもう現実になっている。大学教授は学位授与を同学閥出身者に敢えて限る恣意により、やがては己れが首を絞めることになるのだ。権威の根本が高い学識にあるという大原則を見誤り、虚名のために学位を悪用したとなればこの大学名は長らく、民族の汚点に数え挙げられるばかりである。よって、単なる業績以外の、旧態狭い学閥住み分け的情実を潔く棄てきれなかった学校法人から先に、市場敗退して行くのも又、来るべき自由化の結末である。実力派の絶えざる産業改革、高等教育の普及で国民教養が高まったあかつき、国立大学にも然らば学位の信用が疑念に揚がるほど同じ寒波は避け様がない。入試でしか学力は問われない自称大学の遊戯場が、世界各国を見渡せば遥かに見劣りする評価しか与えられないのは当然だ。学力の足りない学者先生はつねに、世間で変人と呼ばれるに過ぎないのだった。
 例えば夏目漱石が文学博士を拒絶した理由も、こういう低く卑しい民度にあったと悟らねばならない。博士号とさえ訊けば業績如何、本質的な意義如何を問わず恐縮低頭する肩書き崇拝民族には、学位論文さえ書き方を習えばそれは天下の大学者先生という訳らしい。この論文が若し、米屋の日記より全く無価値であっても。そういう日本人とやらは、隣国民がみな少なくとも修士以上を持っていることで何やら分からず圧倒され下らない空論に時を費やし、人間生活で丸損を買い占める運命がお似合いだ。

後生国

世界各国と共生していくこと。これが現代政治の基本命題。何処かの国を蹴落として這上がるという暴威はやがて周りの白眼をいざなうだけだった。それには互いの国情をなお深く汲み、互いに個性を絶対化しないこと、謂わば国境を浅く構える姿勢が良い。
 たとえ今日は途上でも明日にはずっと先進しているかも知れない。だから途上国から勉めて学ぶ、という意義がなおさら自覚されなくてはいけない。後進こそが崇められるべきだ。努力は才能をいつか上回るかもしれなかった。

2008年7月22日

猥褻物頒布罪について

悪貨には罪業あり。

2008年7月21日

芸能批評

テレビで暇潰しをする程優れた大衆喧伝法はなかった。これが上辺だけ目覚ましい装飾に逸る偶像群を量産したからだ。現代の邪教、芸能界。電車の全体壁面に広告を貼りたがる企業は、下品しか伝達していない。

2008年7月17日

調整的な人格

環境問題と呼ばれる思想潮流の殆どは、周回遅れの途上国のtop speedへ足枷を填める策略程度の合理性しか付与されていない。事実上、先進国は並べての暴利を恣にしている。そして恐怖政治以外の方法ではあらゆる抵抗を剥奪されている国民存在にとって、ecologyとは単なる嫌がらせに等しい。国際格差の悲惨は自由主義の暗部として益々増大している。その暗黒星団に呑み込まれたら最後、脱出する為にはentropyが最小化される無限遠点を時空の墓場で待つ他ない。光は嘗て、神々の物だった。処がマルクスが現れて以来、総ては只の神話に降格してしまった。我々の信仰は調整の為に十分な実力を奪われてしまった。
 人間性の回復、という号令は無残に打ち砕かれる。多数決の原理がどんなに偉大な理想も凡庸一分の犠牲にする。結末は夜郎自大が果てしなく蔓延する今日なのだが。ミルやデューイの目指した教育が画一化の為には最大限の圧制となって働く時代に在れば、型に嵌らないということは如何なる正義でも白眼視さるべき異常事態だ。然しその様な均質な国民秩序は最も免疫抵抗に戻るが故に悪疾を払い除ける事ができない。それは衆愚政の結論する国家滅亡である。世界史を看よ。幾多の民主主義者達が儚くも堕落への階段を下りて行っただろうか。既に世に無い彼らの子孫は地表に居る誰の記憶にも無いからと言って、彼らの遺跡すら忘れてしまえば大英博物館の彫刻群が文化的窃盗容疑に掛けられる事も無かったかもしれない。我々は民主主義を捨て去るに戸惑う理由を持たない。いずれの思想もかりそめの名であれば。
 Liberalismが無限成長の理念を根底に携えるなら、民主社会主義的持続可能社会のmodelを逸早く実現した北欧の知性を嘲笑う老人達が、末裔にすら座を譲りたくないと牛耳る少子化社会は謂わば魂の牢獄である。彼らは金に於てしか人倫の繋りを有せず、終いには金で量りに懸けられ振り分けられる。片方は老人ホームへ、もう片方は孤独な死へ。だが彼らは金を信仰しているが故に時代定型に他ならず、彼らの生活思想がそのまま実現されるのを見るに過ぎない。幸福は金次第であろう。それが自由主義民度の限界ならば。
 若者は彼らの介護にはどれだけ金銭を要求しても足るまい。何しろそこには賃金格差が厳然と存り、金持ちには一等席を、貧乏人には末席を必ず与える義務がある。そしてそれが彼らの築いた年功序列の学歴社会がもたらした最大限の業なのであるから。
 我々は国際格差についても同じ論理を保つだろう。金持ちには優等席を。だがterrorismは彼らに絶えざる深刻な不安と膨大な費用のsecurityを要請する。為らば賢明な国民が分限道徳の為に復讐targetにも成らず、喜捨の責任が為に如何なる貧乏人の門戸でも歓迎さえされるのは当然。我々は良き国民、良き国柄を目次として歴史のpageを繰る積もりだ。心のない寄付なら吐いて捨てるだけの気構えがある途上国とならば、進んで政府開発援助を、又人的貢献を義務化するのは優れた国民度の必然に導く善。如何なる国も始めは平野だった。為らば何時如何にしてそれが大繁栄を達さないとは誰にも言えない。後生を畏れるならばどれだけの大金も鶴の羽音の如く潔く捨て去らねばならないだろう。金は来世に持ち越せない、唯、出来るのは正義の供養のみだ。功徳なければ命は救われない。どの国も永続して来なかった。国が破れた後で人間に記憶されるのは正義の光に過ぎない。為らば永久の国には神の光が宿るであろう。我々は信仰の為に国を欲する。永久平和の国を実現しうるのはこれらの信仰篤い人々によって、である。神の光の為に如何なる財産目録も、命ですら投げ出す人間達の乗る船は、決して沈みはしまい。神の命令に従う者を王に抱く国民だけが、天命の為に全ての意志を結晶できる。故に、この世の政府は仮の使命でしかなく、それが絶対的な道徳義務の前に服従することを通じて全体意志は国民の総意となる。言い換えれば人間は神の前にのみ正義の使徒と成りうるだろう。我々は忠義という理念の元に、未だこれらの最高徳の原型を失ってはいないと自覚せねばならない。
 全人類の為にさえ国王は信仰篤い人倫を結び付ける紐帯であった。然らば国内政治に於いてどうして異なるだろう。民族と国家を纏めるのは命令への信仰だった。それが絶対服従をも自由と最も純粋な道徳義務の前に一致させる。故に、教育の根本に置かれて然るべきは忠義の精神。調整を図る唯一の勢力は政治的な道義心に篤い無私の人格達だけだろう。そしてこの種の性格を養うことがなければ、我執の的になった自由民主主義社会は報復の連鎖に及ぶ殲滅戦争によって滅びることが確実である。

2008年7月16日

移民条件

フィリピン人の妻らしき中年女が自転車で走りながら平気で電話をしている。我々はそれでも門戸を展げるべきだろうか? イギリスの空港では、偶像歌手を連れた日本人が収容所へ連れて行かれてから強制送還されたと云う。未成年に見える少女達を連れ、外国で無許可のパフォーマンスをする積もりだったらしいが。愚か者には反省が必要なのだ。

 どちらの姿勢が賢明か、それは国際化の果てに明らかに成る。各国は自らの国民性を発展させる為に「移民条件」を厳しく科さねばならなかったろう。国民秩序を破壊されたくなければ。

精神性の発見

人間達の中では人間性しか問われない。併し精神性は暫し彼等にも必要とされる。人間性と呼ばれるものは精神性を目的とした動物的徳目の昇華。単なる動物ではない者を活かす国だけが精神性の王国を見つけ出すだろう。自由民主主義は人間性の終わりでは有り得ない。何故なら精神性の発見は常に人間性の更なる昇華として現れるだろうから。自由人は又、揚棄さるべき段階。近代化を超えて文明を推進させるには人間性を精神性へ向け改造しなければならない。価値観の相対的多様性、無際限な個性、それらの対立に超越的優位を得る迄、どの議論もideaが為に留める事ならない。究極の精神は人間性にとどめを差すだろう。我々は究極の精神が全世界を解体して行く事を望み得る。自由を乗り越えて大義を打ち建てる者を望み得る。凡庸の精神を憎み、あらゆる均質化への圧力を絶対的優位から打ち飛ばす偉大な精神を求めうる。その様な民族が現れた時に、自由民主主義は修正されるだろう。人間達は調整的正義を国際的に回復するだろう。究極の精神が現れる国が在るなら、彼等は次第に自由民主主義の中で力を蓄え、機会に及んで維新を図るだろう。そこにあっては商業至上の世風は消滅するだろう。究極の精神が支配層を席巻した国が現れれば、忽ちに国際社会も一変するだろう。この種の国民律だけが如何なる困難にも屈せず国際平衡を回復する為に全力を尽す事ができる。

2008年7月15日

テレビ局について

一度も観ていないNHKの集金女が真夜中だというのに大声で、借金取り立てかと思われるほど何度もドアを叩き、名前を呼び、インターホンを鳴らす。
 そういう人間達の組織に払う金は浮かばれない。俗物というのは確かに無神経である。

2008年7月14日

偶像業の末路

悪徳の栄え、これは落ちぶれるのが早いだけにもっと悪い。
 偶像業の末路を看よ。芸能人とは元来、単に生活者の事である。その生活者達の演技術を眺めて審美鑑賞に足る者を風流人と呼び得る。偶像業界はあってはならない。

2008年7月12日

性差の起源

性差は性別によって作られた可変な条件づけだったが、性別自体は淘汰の主要条件として実力制の下にある。戦国で女々しさに来世は有り得なかった。その専業階級で男女平等社会は破滅への道だった。

2008年7月11日

適格の相違

模倣適格と独創適格とは、カントの考え方に関わらず別個の才能。さもなければ進化論、ということも不可能になる。破格とは既存の思考方式とは異なる概念からうまれる。従って模倣適格は永久に既存潮流の内部でのみ栄えるだろう。

 独創適格が軽視される場所では、発明または発見ということはありえない。故にこの類の場所では繰り返しだけが行き着く場所。学問と芸術とは根本的に異なる分野ではなく、前者は真と善の、後者は美の文芸である、というにすぎない。だから科学ないし哲学についての独創適格という事はやはりありえる。
 そして模倣適格が目的とされる社会、例えば大学にあってはその場から独創性が育まれることはないだろう。だから、学問の天才を呼び覚ます場所は常に教育の外側にある。Railを敷きかえるには徒歩であゆまねばならない。

2008年7月10日

時代変画

水素電車は好適ではない。これが事故を起こしたら乗客は大爆発で消し飛ぶであろう。
 蓄電池の充電地点を各停車駅に簡単に設らえる方が余程合理的なので、こちらの方向性を目指したLight Rail Trangitの会社が栄え前者は市場敗退するであろう。

燃料電池は発電所に任せるべき道具だ。メタン精製から一貫した商業工程に照準を絞り切った会社が勝つのだから。

日ノ常

電鉄会社がICカードで同一改札の通り抜けをできなくした事は、例えば緊急事故の際に外に出れないという根本的欠点があるので出来る限り早く改良すべきだ。予防は改善より策に優る。

ペットボトルの口だけプラスチックで作る事がもたらす「分別の手間」による経済損失は節約を上回るであろう。

2008年7月8日

肩書き

肩書きで身を守っている甲殻類の様な卑しい人間は淘汰されるべき。人間性を尊重できず、人間性を名分でしか判断できない目の曇った人間達に未来はない。機械未満の劣等生物が構成した社会が絶滅するのは単に時間の問題である。よって滅びを待つその間に脱構築をためらう理由とてない。道の為には年功をも後天差別をも先駆けて抜け出せ。

2008年7月6日

判断論

知性、これは感情とも矛盾しないものだ。両岸には判断という橋が架っている。もし優れた知性を啓発なしえた感受性に秀でた主がいれば、その感情は豊かで洗練された機知にまで至るだろう。

2008年7月5日

順位制

人間は機械ではない。いかなる順位制もいずれ破られる。時代とは変化。

2008年7月4日

別学の徳

男子大学、というものは、少なくとも硬派な性格、雄々しい社会性の養成には絶対必要である。共学ということは必ずしも有用ではない。結婚まで間がある場合、多くの場面では品格の形成へ悲惨な結果を与えている実例がある。恋愛ということは少なからず、勉学のためには無益である。昇華適性を育むことが多かれ少なかれ、長い目で人生を見なした時には最も有用な獲得形質となっている史実がある。
 品性の軟派化には、共学教育がもたらす影響は計り知れない。均質化した集団が免疫抵抗には最低である様に、これらの風紀に馴れきった民度にあっては性差を伸長させるという事は不可能である。中性化した雌雄はあらゆる面で最弱の様である。
 別学教育の確保、という事は少なくとも、その長期的性格形成に及ぼす意義を悟る民度にあっては必要不可欠なもの。友情、という事が真実の誠を以てはぐくまれ得るのはおおよそ人格形成期においてのみだ。
 恋愛性格ということは優生訓のためにも万能ではない。これらの習性にあっては昇華不適性という欠点により淘汰の愚を世代間であからさまに示す役に立つに過ぎないものだ。

2008年7月3日

著作権法の理解

あらゆる独創は模倣の積分であって、両者に境はどこにもない。著作権の合法性は合理化しきれない。それはプログラム規定として以外には、なんびとにも判定不可能な権利であった。著作権法は原理的に成立不可能である。当事者達の知識に関して、神は大同小異としか見なしえまい。そこで行われる司法判決も、観点を変えれば無知の証明なのだから。
 故に芸術表現は模倣不可能性においてしかoriginalityを主張できない。この為に、模倣される作品質量へは誰もが非難する権利がない。

2008年7月2日

商業批判

商売が合法でなければならない理由はない。だから使用者思想というのは工場生産の方便でしかなかったろう。未来の人は商売をしていた先祖の品性を哀れむだろう。

2008年7月1日

設備適応の策

石油からメタンハイドレートへの原材料の転換による燃料電池発電への移行、即ち『水素革命』に当たってはどれだけ国策を注いでも足りはしない。
石油依存は時代遅れであって取るに足らない、専制して考えるべきはどれだけスムースに国内発電所へ設備投資できるかだ。

制海圏、特に竹島および共同開発の名目で領水権を干犯し兼ねない中国との200海里水域での自衛軍攻防戦、これらが近未来アジア史には必然の憂患となろう。

 既に国家産業になっている自動車においては、水素ステーションの建設が割高であることから寧ろ発電所自体の質的な技術革新の方が喫緊の命題なればこそ。これはどの国でも事情として差して変わりないのだから、ハイブリッドカーから次第に電気自動車への製品バリエーション展開が、輸出に関しても主流を占めるに違いない。

我々は科学に悖る連中が脱炭素とかほざくのをしらふであわれんで良い。そもそも無機物に戻ればいかなる炭素循環もないが、奴らと来たら植生の為には温室がどんなに恵まれているかご存知にないからだ。
 冷静な人がこの島に残されていたら、元首相の間抜け発言もいつもの如くうまくあやして、黄砂の到来に備えさせれば済む。
二酸化炭素がなければ生きていけない生物の心配はいいから、自分自身が電気脱硫の国際法義務とか空中から石灰を散布する準備とかに欠けるばかりにお隣から飛んで来た大気スモッグでの肺病の心配をせよ。どんなに温室化したところで一部分の海辺の町だか珊瑚礁だかが水没した暫く後で、再びこの星は寒冷化し酸素が増えるだけの話だが。