2008年7月17日

調整的な人格

環境問題と呼ばれる思想潮流の殆どは、周回遅れの途上国のtop speedへ足枷を填める策略程度の合理性しか付与されていない。事実上、先進国は並べての暴利を恣にしている。そして恐怖政治以外の方法ではあらゆる抵抗を剥奪されている国民存在にとって、ecologyとは単なる嫌がらせに等しい。国際格差の悲惨は自由主義の暗部として益々増大している。その暗黒星団に呑み込まれたら最後、脱出する為にはentropyが最小化される無限遠点を時空の墓場で待つ他ない。光は嘗て、神々の物だった。処がマルクスが現れて以来、総ては只の神話に降格してしまった。我々の信仰は調整の為に十分な実力を奪われてしまった。
 人間性の回復、という号令は無残に打ち砕かれる。多数決の原理がどんなに偉大な理想も凡庸一分の犠牲にする。結末は夜郎自大が果てしなく蔓延する今日なのだが。ミルやデューイの目指した教育が画一化の為には最大限の圧制となって働く時代に在れば、型に嵌らないということは如何なる正義でも白眼視さるべき異常事態だ。然しその様な均質な国民秩序は最も免疫抵抗に戻るが故に悪疾を払い除ける事ができない。それは衆愚政の結論する国家滅亡である。世界史を看よ。幾多の民主主義者達が儚くも堕落への階段を下りて行っただろうか。既に世に無い彼らの子孫は地表に居る誰の記憶にも無いからと言って、彼らの遺跡すら忘れてしまえば大英博物館の彫刻群が文化的窃盗容疑に掛けられる事も無かったかもしれない。我々は民主主義を捨て去るに戸惑う理由を持たない。いずれの思想もかりそめの名であれば。
 Liberalismが無限成長の理念を根底に携えるなら、民主社会主義的持続可能社会のmodelを逸早く実現した北欧の知性を嘲笑う老人達が、末裔にすら座を譲りたくないと牛耳る少子化社会は謂わば魂の牢獄である。彼らは金に於てしか人倫の繋りを有せず、終いには金で量りに懸けられ振り分けられる。片方は老人ホームへ、もう片方は孤独な死へ。だが彼らは金を信仰しているが故に時代定型に他ならず、彼らの生活思想がそのまま実現されるのを見るに過ぎない。幸福は金次第であろう。それが自由主義民度の限界ならば。
 若者は彼らの介護にはどれだけ金銭を要求しても足るまい。何しろそこには賃金格差が厳然と存り、金持ちには一等席を、貧乏人には末席を必ず与える義務がある。そしてそれが彼らの築いた年功序列の学歴社会がもたらした最大限の業なのであるから。
 我々は国際格差についても同じ論理を保つだろう。金持ちには優等席を。だがterrorismは彼らに絶えざる深刻な不安と膨大な費用のsecurityを要請する。為らば賢明な国民が分限道徳の為に復讐targetにも成らず、喜捨の責任が為に如何なる貧乏人の門戸でも歓迎さえされるのは当然。我々は良き国民、良き国柄を目次として歴史のpageを繰る積もりだ。心のない寄付なら吐いて捨てるだけの気構えがある途上国とならば、進んで政府開発援助を、又人的貢献を義務化するのは優れた国民度の必然に導く善。如何なる国も始めは平野だった。為らば何時如何にしてそれが大繁栄を達さないとは誰にも言えない。後生を畏れるならばどれだけの大金も鶴の羽音の如く潔く捨て去らねばならないだろう。金は来世に持ち越せない、唯、出来るのは正義の供養のみだ。功徳なければ命は救われない。どの国も永続して来なかった。国が破れた後で人間に記憶されるのは正義の光に過ぎない。為らば永久の国には神の光が宿るであろう。我々は信仰の為に国を欲する。永久平和の国を実現しうるのはこれらの信仰篤い人々によって、である。神の光の為に如何なる財産目録も、命ですら投げ出す人間達の乗る船は、決して沈みはしまい。神の命令に従う者を王に抱く国民だけが、天命の為に全ての意志を結晶できる。故に、この世の政府は仮の使命でしかなく、それが絶対的な道徳義務の前に服従することを通じて全体意志は国民の総意となる。言い換えれば人間は神の前にのみ正義の使徒と成りうるだろう。我々は忠義という理念の元に、未だこれらの最高徳の原型を失ってはいないと自覚せねばならない。
 全人類の為にさえ国王は信仰篤い人倫を結び付ける紐帯であった。然らば国内政治に於いてどうして異なるだろう。民族と国家を纏めるのは命令への信仰だった。それが絶対服従をも自由と最も純粋な道徳義務の前に一致させる。故に、教育の根本に置かれて然るべきは忠義の精神。調整を図る唯一の勢力は政治的な道義心に篤い無私の人格達だけだろう。そしてこの種の性格を養うことがなければ、我執の的になった自由民主主義社会は報復の連鎖に及ぶ殲滅戦争によって滅びることが確実である。