2010年4月30日

ソネット

この広い世界は小さな隙間しか残さない
だから隠れる場所はない
どこへ逃げてもきっと、そこは
仏様の手の平の上
簡単に言って、逃げ場はない
頼まれた通りに過ごしてきた日々を
偶然の日々だと思い過ごしてきたそれ丈が
こんなにも遠回りになるなんて
誰しもおもいよりもしなかった
もしも、あの水仙の花が落ちる頃
君が見た夢でさえ
ひらりと舞うひばりの鳴き声と共に
この先行きしれぬ真っ暗闇の向こう側へはらり
消えてしまうのだ

行革予算配分案

独立行政法人の刷新で得た予算は、国民への福祉政策風の見世物分とは別に、次の説明書へ記す分野へ相当額を要する。
 先ず防衛省という組織が現段階でも文民統制の旨へあまり有効に機能していないのは田母神もと幕僚長問題はじめ制服組や隊員が文官の命へ逆らうという悪習がみられる限りかなりの事実で、基本的にその行動原理を過信してはいけない。
いいかえれば制服組は命令に従順かどうかにしか存在価値がないと考えるべきだ。他の能力については、文民統制による実践例が他の悪例を圧倒する迄は不問にする必要がある。倭人の理性がその淘汰に適わない質なら、いっそ完全な傭兵のみを国政では主要防衛部隊にする必然性を負う(尤もこれは虚飾にしかならない案だが、無いよりはましだろう)。

 よって、現自衛隊の装備が韓国はじめ米英及び中国にすら劣ってるという危うい国防の基礎を深刻に鑑み、また恐怖政治を主導した薩長同盟を肯定的に捉えるなど民主主義下にあって風変わりで中央政治へ反抗的な市民度の現状では、その『高科学兵器開発』を政府が直轄の民営機関(いわゆる完全株主としての法人研究所)へ外注せざるをえない。
もし単なる政府組織(法的に非独立な行政機関)自身がそれを行えば必ず国民は理由なくヒステリックに非難するからだ。

但し、この場合幕末の経緯を先例にすれば地方の企業を参画させてはいけない。なぜなら国際的テロリズムに乗じて中央政権を征服しようとする悪意の実例が嘗て起きたし、それをこの奴隷化に慣らされた国民はどういう訳か好ましい過去と信じて美化している。
つまり今後とも王道観の歪んでしまっている地方民へは厳しい監視と締め上げがない限り、夷狄の甘言に靡いて必ず中央政権への裏切りを行うので行政面の決定的な場面では信用してはいけない。特に西日本以南ではこの確率がきわめて高く、東日本一円のよく秘匿された地域にこの法人を立地させる絶対な必然性がある。
 なお、もし防衛省内部へ予算を配分すれば彼らが精神論化している段階では、決してその最善の開発使途は彼ら自身の不条理を愛する姿勢のために摂られないから、必要な訓練費用以外は配分しなくていい。
具体的には余計に見積もるときわめて旧式の、装飾にしかならない様な権威誇示の為の兵器を好んで買い取ったりつくらせる危険性が高い。これは文官の判断を軽んじている普段の制服組の態度で十分予想できる。
(だから今後とも制服組への厳罰の為の特別な法律、例えば内容でいう「絶対服従法」の如きもので、終身刑以内で文官反抗者を順次おおやけに粛清する裁判慣習を確立できねばならない。この種の法案は国会審議の場で巧みに説得すれば擦り抜けさせ得るだろう。)

民声

訳なく上を謗る者は己が天に謗られるだろう。

報道体質の環境学

最近のテレビ番組、特にニュース解説で凝ったフリップへ使い捨てシールを貼り付けて剥がすのが流行っているが、その企業体質が旧態依然としているのはこの勿体なさや不合理さが象徴している。同じことを最低でもパワーポイント以上のデジタル画面上でやれば大量の廃棄物は減らせるだろうに。

 消費生態はその社会内での格式とほぼ等しいのだから、テレビ局が大衆媒体としても退陣していくのは仕方ない時代の展開に感じる。

2010年4月28日

米軍基地改組の方途

日本政府の判断力は大衆報道のあてずっぽうの推測などより遥かに高いと信じるが、猶一市民の確かな見解として断言できるのは徳之島分節案とやらは末路が悲惨になる。鹿児島出身者が戦前戦中及び幕末にどんな沙汰に出たかを理解しているなら。

もし本土への基地分設を米国の代表が嫌がる様ならおもいきって米軍一切排斥の手をちらつかせる位の気負いでいい。それが総合してみれば「民主主義の決定」なのであり、日本国土の自律した防衛と米軍の極東保安計画とのより巧みな調和点にも叶うのだから。
具体的には沖縄の民自身が重要な基地を自ずから追い立てたしっかりした証拠さえ中央政府がこの一連の計略で確保できれば、一時的にそこへの危急時での救助の手が一二歩遅れても『国政の責務』としては十分と考えられるだろう。それは身の備えを軽んじた地方民の業の程度に過ぎない。

宇宙文明学

宇宙間の支配で裏より重い表鈴系の権力が長きに亘り最も持ち易い。これはその適所が鄙な許りか主な経済開発から離れた隠棲に向くので、観察と経験から或る権威を及ぼし勝ち故。特に表鈴系内で中心圏にかなり近い所に主要な文明場の定常さが観られれば或る時期を境にそこはほぼ永続しそうな覇権政治の次官や介の隠遁所となり、やがて過半の実権が移り動き難くなる。但しその適所では経済発展や学術の進展はそれほど顕著でない侭であり続ける。これは適所さが違う故。又普通この界隈では文化の滞留が起きつくから醗酵し、全く達の違う趣が積算される。寿命の面で生態内に環境収容力の傾向が大変高くなり、死亡率は極端に低くその構図はきわめてゆっくりとしか変わらない。

正名論

丁稚上げという身分制に由来しているだろう言葉が軽蔑の文脈で使われがちなことは望ましい世界観や趣味でもなさそう。素直な作り上げをfabricationの訳語にあてた方が商風紀上も好ましい。

青年期の見聞

学習課題と青年期の引き延ばしは比例関係下。但し前のは「理解の意欲」による。それは、よって彼らの懐く哲学さに計れる。疑問が少ない青年期はこの理由獲得の試し学習に必要も少ない。
 客観で性成熟は遥か以前の侭な時彼らは何らかの代償か向けかえを行うかも。之はなぜ対配偶が前提なのに青年期に彼らが恋愛という交情現象を抱えているかへ答う。その間、当社会段階の青年層は代謝への規制を失敗行動で自由に覚える。結果性成熟からの配偶選択迄と以後は多彩にされている。が青年期延長が完全になればこの基礎は壊れゆくだろう。より合理な行いは形式か無視で交情段階という過去の不確かな遺産を置き去りにしそれを気の所為以下に還す蓋然さか見込みが高い。いわゆる個体発生内の畳み込みで、来る人類後生態は確かに交情量を組織立てて処理するだろう。そしてそれは我々が現代へ観る無益な行いと違う上、煩わしいどの手順も省略してしまう。
 我々はお見合いや許婚いいなづけのしくみを再び択ぶかも。が改められた他の形式にせよ、恋愛はそれが社会的でないか極めて原始な配偶選択の仕方な事実から恐らく変形されて残らない。結局それは社会発生初期の名残で、労力の面から社会淘汰にあうべく浮動している習性のみ。

 青年期引き延ばしは現状より更なる傾き故、殆ど進んだ生態から先にこの性成熟からの期間でとられる合理な様式は洗われていく。そういう模範は経済合理性を含む最小の試しで発情なる心理慣習を通り過ぐに違いない。対配偶の社会課題は発情対称さも淘汰する。従って再生産率傾向の行いの業はその生態への労働必要さを益す事で主に生態内負荷をかけるだろう。そして地域柄にみれば、幼型化が正の働きをする僻地で先にこの進んだ文化素は実現していきがち。普通の学習能力はこの傾きと略同じ。

人倫のたち

イギリス経験論がヨーロッパ大陸の合理論での形而上学の試みを少なからず無視や出し抜こうとしたのは、人口比と島国の自律による所が多大だろう。功利主義自体にはこの種の利己性の肯定が暗黙の前提にある。快楽計算そのものが、現代の法律でいう幸福追求の権利を公に認める。しかし現実のイギリスからアメリカへ至る人々の過半を占めていた倫理規範はいわゆるキリスト教抗議派のそれが産業革命で天職思想と結びつけられた類の物だった。
 経験論系でなおざりにされがちな利他性の理由は、反面に宗教感情を抜きにしては成り立たない程危うい。国家の置かれた地政場はその運命もかなり決めゆくなら、島国の道理たる一国孤立を前提とした進退は東洋でも採用され易い共感点を伴っていたかもしれない。大陸国で使われる常套句は形而上学の完成が異民族への最大の防波堤になる、という事だ。障壁や隔離された地理の好ましい適宜さが利用できない場合、そこで覇権を築くに最も基礎となるのは強固な民心掌握である。この為に大陸の覇者には政権を少しでも長らえさせたくば民衆を無知にさせた侭、自らの腹心へだけ通じる高度な全体の把握が要る。そうして思い通りに民衆を動かす中で自ずと支配者の学が成立してくる。出自がどうあれ儒教や諸氏百家の内その当時の支配者に気に入られた形而上学は中華大陸でみな同じ役割を果たし、中央文明の波及という望ましい効果も伴った。結局、大陸国とよべる地域で求められるのは覇権の維持にかかる労力を最大に軽減する何らかの抽出された智恵。之に対し島嶼や半島、僻地で大量の人口流入が見込めない場合ではそれらの性質でかなり違う変化が起きる。道徳の体系とよべる形さえ国家の種類でとても趣を違え、主に小型な程それは利己性を肯定する。逆に極端に小さな国家では利己性とは何かにすら思い至らない事例も散見できるが、大凡で言って大雑把な類型はこの開放と利他の相互希求原則に叶う。道徳性は努めて獲られねば失われ易い人倫の弱点と定義されればこの観点にもある程度納得できる。中小位の僻地では特殊や単純な利己性はすぐ知れ渡るので、却って自由や自律への道徳が叫ばれる。それとは別に、ほぼ完全に利他のみを目的とした極端な学説や理学は、何れ宗派に格上げか集約されがちな程勢いを持ち易いしそこが中央政権の最も史的に重きを置かれる可き部分なのだ。
 まだ不思議な事例だったが、現実の国家事情はこれら道徳学説とはまるで相反している場合が多い。大陸国には浅ましい利己主義者がのさばり、島嶼国にはかなりの利他風の性向を望ましいと見なす一般な風紀が確立されているらしく見える。勿論ここにも歴史のどこかに反例が見つかるだろうし、又それぞれの地理や文化の条件では時勢の推移の内にその全体像からずれや変異の傾きが生まれてくるが、つまりは相手どる国家の根本の達がその侭そこで主眼を置かれる何らかの倫理規範へも厳然と染み込むとは云える。
 形而上学の変節として経験論の潮流を捉えるのは尚早で、なおその再大陸人倫化の中途にある実用主義の系列も同じ評定を下すのが冷静。これらは従来の大陸覇権の学問たる儒教やその徹底放棄の賜物な仏教なる、既に宗教化された智恵の数々と本質で意味や重要性が異なる体系ではなく、等価視か同等視されるをう。そのどちらかどれがより真理か、その場での善意に近いかは哲学の命題で、何らかの外部の権威から一律化されてしまっているのは危険だ。現今の国家主宰の教育体系が西洋科学とその倫理化の源たる経験論のみを主眼とする事には斯くの可謬性か誤り易さがある。哲学そのものは体系だった実証できる対象をもたないため直接教育できないが、経験論哲学のみの採用の危険性よりは一般教養や倫理道徳の名目でそれらを矛盾する学説同士も含む均しい観点から知らせるのは遥かに、どれかの倫理学説のみの狂信を避けさせるべく国家主義を装った洗脳への注意づけに以て増しだろう。

環境責任論

経済平衡のみでは危うい環境の恒常さ、なる考え方が真か増してや善である保証や根拠は明らかでない。簡単にいえばそれ丈で全然安泰かもしれず将来予測へ悲観論をなげかけたがるのは環境学商売の類かも。つまり経済平衡の限界効用が外部経済の面に及び難いとする論拠は、ただの利権争いな可能性もある。何を実証から引いても彼らは環境崩壊を致命的と述べつつ本質でどうでもいい商材を売り込んでもきそう。柄谷行人氏等が言う環境問題の政治思想化は、以上から流行の域を出ないかも。恰も自任知識人らのお遊戯みたく、環境という概念がもてなされるのは笑えるばかりか、不合理。抑この種の利権思想はみな資本主義の精神から功利節として生まれるのを隠蔽する詭弁術らしさがあまねし。
 それでも手放しの公害を放置するよりは囲い込みで人為な制裁を、その破壊主体へ与えるのは正義の旨にのせられ易いかも。結局これらが言うのは、環境の恒常さを普遍な権り也と声高に主張できる者の過半は、先進文明っぽさの国連間優位を延ばせるだけ延ばしたい意図からなのだ。来る大量絶滅も決して不条理でない。そして人類が天敵なき時節に相互競争内で異種殲滅も含む、高い國柄を維持していくことは、譲歩された利権商業での安住よりは余程高貴らしく見える。こういう商共生体とやらは和辻哲郎の云う仲良しこよしの世界史舞台論みたいな観点の引き写しなのだが、我々は一文明が他より内部の秩序度とその粘りに勝るのを否定しきれる訳でもない事を十分反省してみる必要もありそうだ。要は資本主義の精神はくらしに絶えざる進歩を与える点で今や唯の利権商売の理でもないから、商共生しか目指すともいえない。商覇権が他の文化を亡ぼすとしても、先ずそういう時代は訪れ難いとしてもなんら利権なき世界よりは尊い。結論は経済平衡の域値にしか今日での環境問題への解読方法はない。この領域は通常、国家のそれと等しい。国家権力が不当と公認された時代にない間は、人類が社会間を営ませる第一の原動力は国家の定まりをより手堅くする自家の築き上げに違いない。この点で、世界市民思想よりは国家経営思想が信ずるに足る共有認識と覚われる。前は空想で、既に実現している協調体よりは後手に回りがちなので身近な将来に消え去るかもしれない。国家間の当然の順位制はそうでない社交より望ましい秩序の基たり得る。でなくば、世界政府による業の連鎖をこえた征服の如きが全国家を暗雲で覆うだろうし、また地球外部の権威との折衝にも倫理観の各地点で多大なる支障を伴い、何れ優れた協業へは遠回りとなり必ず他の地域との競争的排他で滅ぶ。

2010年4月26日

呟き

学界で売名して死んでく商売を標榜してる似非スコラ学徒どもは山ほど免罪符がわりに学位と入試券を発行しながら王侯閣下に媚び入る。辷り過ぎて笑えるスケートみたく、夢心地で語る身の上を信奉しちゃってる学生は、肩書で身分差別を合理的と言う。何もしらない不良は発情期にコクる告ると言う。だから何なの?

で? だから何なの。

 全く救い様のないえせ薩長人が暴力沙汰を国家権力仕立てに威張る。お前ら…、裏切り者な上自業自得に悟れない知能なら必ず天誅下され給う。猿には類人猿界隈が相応しい。
 殆ど自明の理な業が襲う悲惨すぎる末路を観よ。日本人を裏切り、王道を利己心で欺き、乗っとった政権をおもちゃがわりにしてアジアで極悪非道の限りを尽くしつつ生き延びている薩長人の血種に粛清の闇を! 幾世の善意よ、奴ら邪なる変種へ絶滅の末路を悉く報い賜え。

倭臭方程式

関西人=好色俗物

宇宙物理学

宇宙系同士に不動の定点を見つける試みは実現さに鑑みない。そもそも、引力場の偏りはこういう特異点を許さない。宇宙無境界仮説が真なら全現象の傾きは時空のでなく、主観からの力線の範囲の身その観測できる想像権威上の限界と置く。無限概念は有限の極限値で数理下に定義でき、物理効果も同様に定義できるが、数理内ではそれ以外の意味がない。
 関係さか相対性かあいださはこの時空内での全ふるまいを含む。つまり宇宙系を何らかの主観が想像に容れる事は間さという物理概念外に出ない、と考えられる。無限概念がそうなので同じく宇宙定数もこの均衡条件から適宜調整されるを得る。宇宙斥力は想像できる隣接圏の最大の総計引力値と釣り合う定義が為されるので、この値は適宜増減してしまう。
r: 事象の地平線
Λ: 宇宙定数
ρ: 空間密度
c: 真空中の光速
π: 慣習な円周率
G: 万有引力定数
r=1/√Λ ∧ ρ=c^2×Λ/4πG
⇔ Λ=√Λ/r ∧ Λ=4πGρ/c^2
∴ √Λ/r=1/r^2 ⇒ √Λ=1/r
← Λ=1/r^2
 お餅宇宙な間型で考えれば半径rの事象にとってその逆数の累乗根に傾いて万物の総活動量は増減する。なぜなら万有斥力の総体はその場で定常観から動こうとする訳だから。

ねこのせりふ

ねこのせりふ きいたの
こねこの 肉球 きいたの
かしらね こねこ同士 なかよいのか
ところが一回もさわったことない ねこなんて
こわいし きたないし 虫いそう
キャラもので えばってんな
ねこの彦とか かわいこぶってんな
どうでもよかれ いまは
ねこのねむりだ きたないし ねてるし
さりとて さわるき毛頭ない こわごわ
不潔なひとの ね かうやつ ねこ

民族現象論

現象学系列が予言してる様、言語論の表音と表意の二分法は粗い。差延界と解釈界を見比べれば配分の理は主観に戻る。いわば用法と慣れが語学の達を偏らす已。
 もし音形意味の文面に返れば夫々の文字や記号はみな筆跡。かつ筆あとは慣れ以外の定例さを伴いえない。つまり文字面は撥ね返る主観の跡で、それは読み書きの相対さに普し。全て文書は言葉へこの反射能を伴い、事例にみて民族空間で使い分けの理由さと相伴う。そして脱構築自体はどこでもできるし程あれされている。結局文芸の巧みは配分の適宜が具合よい偶有さと重なる丈の物かも。図形と象形文字は図式概念でまとめられるので、定形文字種もこの複合化とみなせる。故文物の概念は一切の平面記述と等しくなる。絵も色彩によるあやものなら、記号から意味らしさを除いた音符での楽譜も。もし現象論に限度があればそれは之等の表現の力による。学識と呼べる達にとってすら精神内容や想像の記述で果たされるを得るので、民族学の領域へ還される。ので一切の普遍現象学は不可能。全ての現象表現は原則、囲われた限定語の範畴を援用して営まれるを得るから一回さを可逆形態の程度を問わず、何れ伴う。わざを除いて形而上学域では理想論がこの民族領と均しい。これはもっと俗には俚諺と呼ばれていい境界へ納まる。恐らく大儀な民俗では理想論は理想学とおぼわれる。しかし語尾か漢字選択の問題だけでなく、例えば福沢諭吉『文明論之概略』緒言での文明の全体論への希望の如き、体系立った理想への志は普通、哲学といわれる、社会な生態を含め或る個人や集団で獲られた全形而下学識の総合分量へ求むより他にない。理念が最小最大則で喩えた最高の抽出か抽象の言辞や言い方なら、俚諺はその民族での智恵の当界隈での極限を言い示す諭しの為にある。要するに哲学と訳されている智恵を求めた学問の成果はその理想を論じる活動のみへ結晶する。これは民族現象論としての伝えられる独特さ、乃ち言い回しの固有な差延量にしか規定のみならず究極されそうもない。だから研究度がそのまま、民族内の表現と現象へ趣を付与する。
 理解に程度があるなら、判断力と訳されたカントの定義も同様な指導に返る。どの志も理想論の内に伝わりつく。ましてや、民族間では語学と文芸研究が遅れて考証に入るのが普通であり、この文を学ぶ作業は口語の中へも広がった何らかの諺を既存知識を頼りに過ぎ去る現のなりわいを追い駆けているのだ。しかし象徴の当為を熟知していれば、彼は世界精神が徐々に自覚されていく順繰りの学び合いしかそれら、どの文化参照にも見つけないが猶、まるでそうしないより優れた翻訳や解読は遥か善良な仕業である。こうして聖書も入れたどの文物へも、その神聖化と唯一回らしさは不純な用法で用義であるとされるし、我々が協力への快さを保つつもりなら訳業と、少なくとも改変の意図を伴わない解説の仕事は民族毎の選れた自律によるべきである。さもなくば聖書とされる風変わりなあや若しくは神秘らしき語句は死んだも同然の古物村へ引き篭ってしまい、我々が古人から何かを託される文化の重畳さも失われ温故知新の旨へは背くが如くになり兼ねない。

2010年4月25日

人類学

社会的な動物の人は決して知的設計でしくまれたとはいえない。利己性は遺伝勘定へ実に精確な秤で、生物本能にはどこ迄も染みついてくる。この特徴と、文化素で伝わる利他の教えとは協調特性を解く鍵。人類外に目を向けると社会性動物は多い。生得形質の変形は場の勘定がどれ程互いを手段として用いる必要の高いかによる。
 社会性は変形した習性の折り畳みが固有の場で陶がれた物。社会淘汰は、この協調性に関する形質へは真。人類が集団行動を道具の使用と複合した時、その習性は祖先の単純な樹上生活体験とは大きく食い違った。

姦淫倭奴への厳罰論

京都倭奴は奴らの東日本拠点である東京でいつもの伝統芸能な猥褻小説をかきなぐり、舞妓となって悪徳天皇に媚びを売り、公然売春罪人として衆愚の人気をとりつつ卑猥な言葉を語って億万長者になった。

 京都倭奴を殲滅するには法律が人権という形でその合法的駆逐を防いでいる、更に悪い事には多数決の原理では東京都という奴らの第二の溜まり場が権力を振るう傾向がある。つまり外道であるジャップは外国人から殺され尽くさねば少しも理解力と救済の道がないということだ。
 同じ島で暮らす我々には奴らの異様にはやい繁殖速度をふせぎとめる方法が余りに少ない。何より歪んだ性癖の倭人は、奴らの公然身売りの舞妓を何より好み、茶屋遊びとほざき日々大金を貢ぐ。これが真実、東アジアの一見華々しい経済成長とやらの中身なのだ。何とも浅ましい限りの。せめてもの性犯罪者連中への策は、東京都、西京都にたかるその類の生物一切をなにか強烈な生化学兵器で駆除する将来に待たれる。それでも倭人は列島のあちこちへあたふた逃げ回るだろうが、捕らえ次第遺伝子チェックで陽性が出れば国際人権裁判所の様な所で、祖先からの醜い犯罪血種として安楽死させればいい。
 神は彼らにふさわしい末路を用意することだろう。

至善論

人類が相互競争し易い時代は、自然にみれば覇種への貢献のみ。そして天敵なさは覇種のみを多数派と化す。特に驚くべき問答でもなく人類の覇権は永遠には幻。地球生態系の永遠さが保証できない限りで。ある時節をへて人類は人種のるつぼに比べた商業の共有空間のみへ競争を限定していくだろう。これは彼らが共生したい限りは止むをえない。故商業のみの覇権では、一般の社会原則で商業の勝者は政権のそれとの一致が好まれないので、凡そ覇種は実現しない。商業界自体は多民族と共生が求められる間中止まないが、この遺伝な浮動帯は程度あれ原則の忌みや経過される中継地点での浮世の賑わいとなる。つまり人類内淘汰がある期間、外来種からの敵意なさの為続けばその中では決定的な覇種が永続を前提とした政権下で確立され易い。もし覇種が他の人類の祖先と違うなら、以上の推論から、恐らく理性の程度だろう。これは具体で実践に基づく政治力でしか覇権は現実でないから。但し、この場では系外接触による異類間の活路の可能性を除いているので地球が高度な孤立をある期間全うするならだが。これらで分るのは結局全てに勝って道徳に従うのが最善らしい事。乃ち「至善に止どまる」のが人類内境遇での不動の一手で、しかもそれは蓄え得る。かくの理想は至善の蓄え或いは功徳と云える。道徳は最高度の理性からの抽出だから、それを何らかの上位概念から批判できない限り、総合理念は最低限度規範として順次実現されねばならない。もし人類外との折衝で地球の文明を破滅や奪還後洗浄する粛清組が生まれても、我々はこれらの生態を地球風土に属する限りは否定できる。なぜなら地球風の生態系では縁起則による生まれ変わりが当然視されるので、全く跡形もない地球の破壊によってすら何らかの文化素な、その理念のかけら以上は残る。土くれですら生存規律にとっては何も残されないか、何の意味も残されないよりは増しであり大概では、理念そのものがもつ生態内の意義だけは持ち越される。消化後の肉体で如何に食物が血肉となるかと似て思想や理念も、同じく覇種にとっての位置づけとかわりなくより高次な生態へと吸収される。

製品開発

音楽プレイヤーの底にICチップを入れ、ブート側と接触だけする間で充電と曲のいれかえを同時に可能なシステム「ミュージック・タブレット」。ネットウォークマン性能を考慮に入れて数分間で数時間の充電可能が次善で、エネループとキャンペーンを組めばよりいい。
USB接続のみの簡易なbooterと、CD+MD+SDのシステム付属の二種の販売方向。
 音楽プレイヤー自体は次の性能が次善。
1. 単四電池入れ替えをごく容易に
2. USBメモリ風の最小サイズで液晶はなし
3. フォルダ送り≫≫と曲送り≫をクリック数で分ける

2010年4月24日

世の流れ

静かに暮れゆく
夕暮れ空は街の上を浸してしまう
探してみてもそこには
なんの理想も見つからないなら
この世という下らない場所に
ただ置き込まれた魂は
まるで大地がゆりうごかす
空想のたてものと同じく
決して崩れゆきもしない
盤石の位を占めるあの神が
すべての畏れを打ち壊す
誰ひとり知る者のない土地で
必死に耕した大土はさわぎ
あの空からふりそそぐ持ち主のない
大雨をみな我々へ恵んで行った
誰が知ることもないこの世の流れを
我々の眼に焼き付けていった

猫達の夜

氷 夜 深くに 融ける 後で
町 返す 切る 空気の底で
止まない雨 空 遅れて消える 誰が
誰が停めた自動車 空 遅れて
やじりの外で走る雲が
猫を止める 誰が 真夜中 昼間 外
ロボット の外 で外 走る 雲が
きこえた 外が 車 走る外 が寝た
解決 君ら 堂々と走る猫達の夜
外寝た しまった 外が 弾け 外と
組みかえ られた外 かも した外な
人らの らが 切れた
第一に 決めたので 不意と 人は
外が出た 後で きいた 夜 星屑が

2010年4月23日

石畳と灯籠

世界で最も単純な理想はそれが零れる渕にあって、人々が感心したもの。誰の為でもなく、理想は溢れ返る。誰の為でもなく。私達の昔の姿はまざまざとした過去を映し込む。誰の為でもなく、今は。けど、理想はそう見ないのだろう。結局の所は、だが。世界では理想が溢れ返るのを見なす個性毎に、今がある。夢だとして。
 社会秩序が崩れ落ちても、人は又似た世の中で巡りゆくのか。我々の過去も、今も。ゆっくりと流れくる河川が、とおい時代から言伝てつたうのを覚えるが。さりぬもの。つまらない世界のどこもかしこも、だった。ごく昔の話だから憶えてすらいないのなら、この去りゆく川はいずこへの旅を。誰も、憶えてすらいないのなら。私達の昔も、今も。
 スパリゾート・ハワイアンズでの思い出なら同じく、この世は流れ去るのみの思い出。誰も、なにも憶えてさえいないのなら。誰に向けてでもなく、おおつちは底無しの分解を続けるのではなかったか。石畳と灯籠。

2010年4月22日

警句

アダルトビデオで生計をたてているゴキブリ東京人の長、自称天皇を極刑にしろ! 畜生以下の生命体め。また国中で繁殖するつもりか

宇宙生態学

宇宙の底にある反応はそう呼んでいいのなら、秩序でしかない。この秩序は全ての現象内の最低限度規制に働く。秩序自体は現象への知覚にしか捉え得ないから、感覚基盤原理しかその基準にならない。故宇宙はその全ての熱反応系における、指数法則上の底としての感覚秩序を始点に働かねばならない。逆に、秩序は感覚なしでは皆無。
 神という空想物は感覚秩序内での序列。故最高神は常にその感覚秩序内での理想状態による。そして各生態は場の条件で感覚基盤を異ならすので、この理想状態は物質論的に最上の感覚密度での永続した興奮に過ぎない。知覚へのそれは全知を感覚秩序で説明しきる。

客観

僕が見た東京人は悪だった。ホームレスへ差し入れする夕方のニュース番組をつくっている局もあった。しかし、実際に僕が近くで観察してみれば、すべて虚偽でなんの後光もなかった。東京人はまわりに併せているだけだった。他になんの行動規則もない。

 わるものを意図してつくりあげ、各社総出で総攻撃する。堀江モンはいい例だ。東京人の習性は、江戸時代からすでにつくりこまれている風だった。ええじゃないかええじゃないか、とその愚民の集まりは口々に言っている。まるで日常がファシズムであるみたいに。

 関西人は、驚くことにそれより劣っていた。彼らは、僕の目には虫みたいに見えた。生まれつき知能に落ち度がある場合、まるでもうなにもかも遅いみたいだった。彼らは状況判断ができず、いつも慌てながらかねをとるため東京人を笑わせるか、無駄なライバル意識で悪気をみせ、しかもどちらも結果は予想できやしなかった。最悪の場合、京都人のように東京で阿婆擦れになった。それしか生まれつき才能がない。なにより見た目を気にし、朝鮮人と一番よく似ている。神戸人は大阪と京都の特徴をあわせもっており、とてもたちがよくなかった。彼ら関西人の王様は金を浪費しながら威張り、侵略や人殺しや偽善や責任転嫁、そして世襲と搾取の悪さばかりするのが特徴で、僕の目にはとんでもない最悪の俗物にしか見えない。しかし東京人は一応関東にはあるがこれまたどういうわけか祖先の大阪出の所為なのか、大阪級に馬鹿らしいので、まわりがほめればほめねばならない気になり貢いでいた。且つそれを衆愚一丸になって全国放映し、威張る。
 下らない日本。漫画の国。

滅び

人間のいない世界に行きたい
人間は悪さしかできず悪さを誇る
単純に頭がよくないので迷惑に悟れない
人間は全然綺麗じゃない
人間は不良であり知能は低く
猿よりも悪い良いところが一つもない
人間は発情しながら暴力を奮うしかできない
どうか人間が亡びます様に
人間の殲滅方法さえ分かれば
それを捜し続けている
この邪悪なる世界のどこかに
それが残されていれば
一匹のこらずこの地上から
人間という生命体が滅び去るのを確認できるだろう

教育組織の法治化

「校内犯罪法」をつくり、内部で隠蔽されてきたあらゆる悪意を、生徒同士のみならず教諭と生徒間のいざこざ含めて一般法の範囲で裁ける様にすべきだ。いわゆる嫌がらせのたぐいも罰金、禁固、刑罰で処理していく方がいい。生徒間での精神的嫌がらせや暴力は、ごく簡単に家庭裁判所以上へ訴えられるべきであり、その範囲は幼稚園や託児所までも含む。たちの悪い子供は常にその親の扶養および教育責任下にいるので親が賠償責任を負う。

2010年4月21日

生態学仮説

量産に惹かれる本能は飢餓を経過した祖先からの習性の折り畳みがそうするらしい。この種の界隈は、故に感情の特徴が強調されがち。不安定な適所では内的再生産率の欲求が最も感情の強調を及ぼし得る。
 誰でも、本能が失われれば生存を保てない。結局これは量産化される形質が生存率上で多数派である生態資源への反作用の系たる社会な抑制の在り方をいう。いわば量産を得る形質の比較希少さはそれが場にとって当面の目覚ましい増長を伴う予測(又それは双方向の選好によるが)に基づく生態資料として、如何に当該形質の中継がその社交で行われているか知らせる。根本でこの甚だしさだけ我々の分かる集団性に戻る。この集団性は常に複数個体間での、一見群淘汰に見える様な秩序を築いているが、実際には個体間での協調性も含めた個体秩序への社会選択が当本質。

宙返りのロゼ

なかったので スムースな君は
飛んだ事が 去ったアトデハ
仲人の仲介 ガ かかった か
之礼奈い の天゛ なかっ太
ストア Ga 安 った としたアトデ
ボールの のびた タカガ KARE
今日日の のちの よの的DEカ
旧式のルームガなった 棚か朋
寸ぎた シ加なかった 轟く轟く
キュウにnaitし なかった 之ナカッタ
のにな の 次に すべ られたガ
Showbiz 次第 にゃにゃーお
とっても 手もてな チノチワカン 無
無だ よこしなかった にゃにゃーおん
ダイナマイトの切っ先でぶっ殺すと
言われているな 誰だかだ
どうなんだ今とか
どうせ知られないんじゃない
どうせ知られてもないんだし
ダイナマイトの切っ先で潰されつつある
権力闘争の切っ先で人は真っ青だ
笑うわらう 誰の國かって知らねぇな
今さらなんだし 普通ってか今日
まちがいなく間違え
きみらどっからきたの 全然
イミフな國とかいうな すでにさ
この小さな足場から見下ろせるドコも
地上もどきだ 泣きわめけ
ガガンポもどきのレール沿って
あるけ歩けのレースseasonなり
ひゃうわぅぎゃぎゃんずかんぽ ずむんた
しかしなかった盥回せるクアランプール図
なことない んなこた アジアんナイ
が、あるってこと どうせとか言ってないし
うるうると潤む 沈んだ真珠の貝がらのね
ちょおっと外を歩けば当たるヒュー
たたたたが タがたん カンなし
つべったジョータイで しべらったんが
チョーわちょっと超えてた パッドでぶっ壊れ
農道はしる頃な マウンテンバイクのク
凍える白熊にきいてみてよ あらあらほしき
凍える知らない宙返りのロゼ

春寒し

春寒し我が日本にも曇り
吐き捨てて進む我が道水戸の梅
持ち主の代われば消える柿の木ぞ
江戸っ子の生まれ損ない死ねば雪
皇室のひざ元にありて凍る武蔵野
倭の並ぶラーメン屋の角に掃くつばき
汚なけりこの世のどこも春の風
芥川御前の俗塵情けない
関西人喋るが葉桜見ゆる窓
不満しかない國潰れろ桜が散る
東京人馬鹿は分かった葉桜
酔いしれる東京タワーはいつの夢
うざすぎる溢れる倭人どぶの花
真冬日を過ごす日々あり死ね倭人
アスファルトに散る桜花を通り越す
老人が搾取メイド倭春に死ね
南蛮虫か倭奴どちらも死ね春と
白人女がでしゃばる春雨の宵地下鉄
ふえまくる関西奴が銭儲けの嫌な春休み
居直る天皇が呼ぶ俗物と園遊会の桜
漣のつらなる夜と響く雨足に鶯
中国人と子供の仙台に春の足音
猿ありし庭先に磐城の真夜中
坂龍がかっこつけてるのを茶漬け食べながらみた
京都のゴミ虫が踊る春って全然面白くない
さやさやと響ける耳に七夕飾り
安物買いの銭失いユニクロなワンピース
武蔵野に響く石のおと乱暴な少年投ぐ工事看板へ
夏物の街の装い横浜駅前
誰もなき駅の潮風大磯よ
鎌倉へ向かう道のりに眠る子
つまらぬサラリーマンジャップが新学期
まだやってんの受験生の一喜一憂東大前
京大生うざい頭だ揚げ足取る貸借文字面
さやかなり浜辺の雲の波となるテトラポット
ダイドー自販機の関西弁ムカつく春先か
ラグビー場いまでは静かに艸の香の
侮れぬそらにちらつく雷様

文明生態学

各宇宙系内で振るまう個性間には幾つもの異次元がある。之は夫々が時間速度乃ち近くの引力場の条件差から。よって文明場には感覚基盤原理の偏りが普通。感覚差は生態間の交配可能さと別に、その秩序へも違いを及ぼす。超音波を感知する支配種がいる所ではその社会も暗闇を造る。我々に感知できない感覚は、引力以外の化学成分の組成差によって宇宙系毎に趣を違える。
 一般に、各生態系はそれらの文明度次第で秩序差を交易したがる。感覚基盤原理は之へ正反両面から影響を与える。つまり秩序交易について色彩を加える。もし製造品の造りにこういう差があるなら、技の滞留は文明度分の審美感覚量の伝わりによる。
文明度\審美感覚量‥製造交易量
こうして、生態系当たりの生物量に占めた秩序度は、そこで営まれる社会活動量を製造品へ抽出したもの。同時に、同等以外の文明系については奴隷か燃料か食べ物たる用法が見つかる。

公的風紀の内憂

ユニクロ、たかの友梨ビューティクリニック、幻冬社の三者で公然猥褻罪および頒布罪の裸体広告を流布させた事実あり。

 今のところ公なのはこの三者だけだが、付和雷同のおそれがあるので順次拡大傾向の序幕をつくった以上、この法人の社長および広告責任者を刑すべきなのは疑えない。

2010年4月20日

権利論

なぜ人類が地上権を主義できたかは偶有の適所がその空想を逞しくした訳合い已。とすれば地上権の破格には訳ある。キリスト教義は信仰を除けば、神からの貸与が贖罪で持続した観点をとれるがこの本質は、全然進化論の破格合理性とは合っていない。故もし科学教との妥協を見つけだしたくば別の要点に目を転じるを得る。つまり地上権は人類の自由に任された間は信仰の土壌と同じ風紀に叶う。もしこの地位がなくなれば、どう考えても人間性は神への本来の償いに足るほど立派でなくなっている事になる。結局空中権ふくむ空間権と地上権とは同じ根拠で処理されていい。それは暫定の規則と呼べる。この地位は、生態な安定によった仮のはかりであり、全生命への全時代での統帥の権利ではなく、事実は現にある能力に依存する。斯く思えば創造説は、神の名のもとに我々が正しい道を歩んでいる証拠として留保できる。だが永遠な保証に対してこの説はいわゆる清教徒精神の天職倫理と同じ結論を持つ丈であり、しかもその合理づけ自体は国連運営の努力と尽力にも当然及ぶ筈。こうして、権利暫定則は生態学の応用内での広域な行政規範と今の所いえるので或る程度の必要で、個々の信教を超えた協調性も構わないと倫理上で考えていい。

解釈論と批評論

大衆文芸の文脈と近代の教養風土の一致は危うい。そこに結束主義、fascismの芽が羽含まれる限り絶対な個人の自由は守られていい。こういう文芸は、特に虚構と詭弁を活かした物語小説を使って大衆の思想をどこかへ一くくりにしたがるだろう。そしてその観点が、ある個性の想像力を通した世界観への帰依に類似している間、我々は原理主義とこの文脈の一点集中とが時間の中では同じ働きであるのを注意せねばならない。乃ち解釈論の土壌は物語と小説の流布よりも鋭く、重要視されるを得る。批評の性能がこの解釈への詳細によっているので、覇権な文芸は次の文脈で即座に解体され文化な形、たとえば文字面や服飾と似た軽い話題へ希釈されていい。さもないと大衆思想と覇権文学は限りなく近づきがちで、この事情は自由化に反するだろう。信ずるに足らない事実は解釈されうる何らかの理学に属しており、それはみな似た説明が違う文脈におきかえられるなる唯一回でなさの本に訳ある。だから引用と断片のつらなりで原本らしさを失わすどの解釈文芸も、自己文化素の反復で原理主義を標榜したがる全ての小説や物語よりその意義では貴い。批評はこの観点に着く。注釈と呼ばれる世界は、又これらの連綿とした脱構築から己の真の意味を自覚し、民族語としての文化素の拡大のみに本当に信ずるに足る信のありかを見つけゆくだろう。

国家神道の批判

本居宣長の赤子知る物のあわれ説はルソー等の生得白紙論と同じ無政府思想を、神道の正当化の為に彼独自で焼き直したものに見える。小児科医の経験がこの赤子の心を全面的に肯く理学を生み出したか。
 が社会内闘争が理知という大人の論理をつくりあげるとして、問題はそれがどう用いられていくかの方だ。大人の論理に護られねば赤子の心も少したりとも存続できない。感性という理念の全面肯定は、理知の両極を否定したがる見方、つまり禅でいう空無論を正当化する。いわば国家神道の正道視そのものが理知で語られたものでしかない。国学で自然の儘とされる神道が対外思想としてヤマト朝廷の理学上へ求められた過去を冷厳に分析した方がいい。国家理学と同一視された種の神道とは民族差別の方便だ。我々はこの思想への帰依のみを真の日本風道徳と思い為す根拠をもたない。仮にそれがあるとすれば国粋思想での独自論の側面か単なる国風でしかない。彼等の奉ずる我が国の伝統とはその位のものであり、又その位に留まるべきものでもある。
 冷静にみて、防衛の為の理念と国家神道には何も関連の必然さはない。国家神道自体にも分流は甚だしいのが自然で、ヤマト朝廷で行われたその伊勢本宮への強烈な自己帰依化は一つの仕業というしかなく、全ての自然崇拝からの帰結とも言い切れないのが真実だ。天皇制度の正当化としての国家神道は、関西地方で信奉されるのに偶像礼拝の解りやすい形式のため効果をもってきたのだろうが、日本人すべてに普く利用や理想視されていい方針とも考えられない。それは別の宗教からみればゆくすえ浅ましいやり口だからだ。
 本居での国粋思想風の側面を国家神道たす軍隊の掌握へ用いた明治から昭和までの薩長藩閥及び公家系の政治家の過半は、これらの武力と理学の違いを頭の中に納める余裕や余地がなかった。急がば回れとは実践理性の段階が、行政面でも一つずつしか人類史の課題を説き明かさない消去法風の土台を示すに、ここでは留まる。武権なる物騒な国家内権力を一まとめにしてきた徳川家は、この面では神聖不可侵の領域な人民が直接仰ぐべからざる皇室を実権の奥へかくしておいた点で、いかなる明治維新期以後の主要行政家よりも格上の判断力をもっていたのだった。彼等は賢明にも式目や法度という法典の権威を錦にその神聖領域化を恒常体として果たそうとした。そうすればもし武威で平衡させた覇権の秤りが何かの拍子で崩れて、も法治の泰平さに乗じた野心の侵略者はその構図を必ず再活用したくなる。我々が実権力と幕府の区分けをこれらの智恵の元に営んできた理由は決して国家神道の本質な思想に向けてではなかった。考え浅き新政府とやらは自らの浅慮の為彼等が長年依存してきて気づかなかった重要な理学である二重構造の巧みをおのずと破壊させてしまった。つまり、今となっては表沙汰となった天皇制度の虚勢は誰の眼にも明らかで、国粋したいものにとってすらそうなのだ。こういう状況は物のあわれ説で包含しきれる崩壊でもない。国家神道の本旨が偶像崇拝とつなげられる論拠はヤマト朝廷からの万世一系論が民族差別しやすい僻地な国土統治にとっての主柱だった事であるから、我々が多人種の混濁を避け続けるつもりでないなら象徴制の体面にしか用いられえないと言える。結局、武力と神道の接続は幕末で公家の一員が主導したとはいえ、彼等の野心の為に悲惨な結末を招いたし我々がその必然さを同情せねばならぬ道理もない。乃ち武士道、国家神道、及び平安文芸の物のあわれ表現とは別の系統と論拠を保つもので一つでは全くない。しかも、我々がどの思想を信念や宣伝に採用しようとそれらを政府の主人公らと絡み合わせようとすべき理由はどこにもない。これらの思想と信教の自由は地域社会内の功利さの規則へ還元されるを得る。私見を述べれば、平安文芸で儚さが強調されたのはそこが空虚な権力の適所で、権力闘争が行われる主舞台では全然なかったという天敵なき人類の呆け加減で全て説明がつく。

知識哲学

世界の中で重要な記述がどれだけあるかは明白でない。人生時間内で消費や読解できる文章や図式は全て、偶然による部分がかなりある。現今の大学で行われている、科学論文や倫理学説の膨大な執筆指導での量では、既に誰ひとりにも全人生時間で読み尽くせない。毎年その量感は指数関数倍で増え付ける。
 質的精選の試み、学会誌の権威としてのそれは全ての不可欠を漏らさない訳では無論なく、確率で優等な位を占め易い已。故もし読まれる学問が指摘されていくなら、権威より元の原型たる論旨の質に求まる。こういう系は学問が進む速度分の先端領域の獲得率で表せる。
学問進度\先端分化%‥不可欠率

社会生態学

階級制度と社会内での遺伝的ばらつきとは、島嶼適所での適応と考えられる正比例の係数を示すらしい。いわばそこでの出現率を遺伝子面で大幅に自然状態から変える為、無意識であれ社会は階級化を意欲する。一般に、大陸場か開放場ではこの条件づけは起こり難い。ほぼ無限に侵入者がありえ、彼らに無制限の遺伝的多様さが保たれた適所では社会内競争で最低限度必要な形質はきわめて幅広い。簡単にいうと寄らば大樹の効果の如きが生まれる。そこでは種々雑多な形質が無際限に増産されゆく。
 対してもしこの前提が真なら、階級化は僻地適応内で素早く目的となる遺伝変異のみを特徴づけるルールで、それは近親交配を最大限避けながらできるだけ共通した能力についての淘汰誘因を表彰づくに有徳ゆえ生じる。高度に完成された突然変異が一定数以上の安定した遺伝子池を保つのは常にかなり強い僻地でだろう。より日常語に近くしていえば正のガラパゴス化の如きが必要になる。こういう僻地でしか階級化の最も望ましい側面は明らかにならない。

篝火

構造篝火嚢蠹泛汳豪語謖邀荐
羣質旻麼栫囂囂鷽英傑藺弌熬
慨嘆从全麼不憫縱犹那斌綏遠
傴邁潯邁剛毅汲汲淤返琺欒拿
遙遙溟卍沍奩麒麟尓夛湟邊娚
岌漑嫦湍矧冰劉淇臻瀋繝儺布

常識

千葉県民は東京人の類似。
南の人間は将来予測に弱い。
田舎者は気遣いが苦手。
山陰では嘘を慚じない。
過保護と世間知らずは対。
女は真実よりその場の感情を取る。
本気で井戸端会議を国論にすれば滅亡する。
親子の相似は教育で上塗りしかできない。
年寄ると幼児体験が表に出易い。
親族は最高の規制。
都心部に真の中心はない。
女性教育は世知の底上げ。
心の根っこは母親役が植える。
くりかえしの壮年期は一瞬に見える。
男性は仕事柄で違う。
異邦人には特別鋭く神からの監視あり。
庶民の誉れはごく儚い。
祖先の性格は末孫と化す。
虚構は人を移動させる。
羞恥心のみ女性を守る。
因縁が毀誉褒貶の原理。
間接な批判は直言より効く。
浅い人間の感動は浅い。
商売すべからず。
学校歴は志に大きく作用する。
勉強より場所柄。
知性より理性が遺伝する。
理解者が弔う。
天真爛漫さは赦され易い。
記憶は配偶を助く。
本質は変わらず繋がる。
芸術作品は特徴の誇示。
外国人は異なる珍しさを見る。
忙しい人は勉強不足。
都会では言葉遣いが学べる。
地位の高い者は憎まれっ子を特に可愛がってしまう。
愛玩が形質を大幅に特殊化する。
冬は冷静にさせる。
雪は運動を抑える。
学生しかいない。
無言の感化は人生観を一新する。
教師が最も教育される。
穏やかな陽光は子供の気質を和らげる。
大人は子の達に働かせられる。
貯えは努力より重要でない。
勉強の習慣は全てに使える。
利発さは極端でなくば好まれない。
親の職業症は教育原則になりがち。
土田舎者は総合理解力が生まれながら不足する。
冗談に品。
言葉は土地柄を抽き出す。
巧みな者は悟られない程よい。
賢さは巧みさと似て非。
終始賑やかな親類は南方にしかいない。
図々しさは育った界隈の人口密度が決める。
幼い娘は居る男兄弟と違う型を熱望する。
教養だけ尊敬される。
巧みさは現世では賢さより価値が高い。
仲間が協力の達。
親族として有名人は優れない。
肩書は庶民に好まれる。
成長を急ぐ者は成長し難い。
家族は群れの最小単位。
真の理解者は家族に比べても得難い。
欲望はない方がいい。
母と娘は性格だけ違う。
繊細な白人は得難い。
理知的な黄色人種は少ない。
勉強家の黒人は絶対数が少ない。
女性の直感は本能のそれ。
孤独さは都市にしかない。
言葉数は感情の密度に従う。
幼い頃の親の態度は将来を予見させている。
建物はゆっくりと土地の気風を変える。
親の期待は最終的に望まれない。
女権の土地では言葉使いが強い特徴を帯びる。
自然が魂。
旅は魂を分ける。
余計に働くと街は荒れる。
空気は心。
陰気は感染する。
集まっても人間が同じ。
真理と虚偽は各々溜まる。
生まれは才能。
目立ちたがりに裏見あり。
人生経験は岡目八目よりも貴ばれない。
雨期がその場の情緒の達になる。
人気は必ずしも幸福度でない。
首都では快適さの価値が急騰する。
長い都暮らしは狡さを淘ぎ易い。
人口比が価値観の中庸を決める。
海辺の人は最も冒険欲が強い。
一人っ子はらしさが極端に出易い。
世の理解は学力毎に進み遅れる。
教養は校風として進学実績を超越する。
教育したがりは土地の中産層を象徴しがち。
村社会の原則は土地の外では通らない。
理屈は最善の血統書。
平野に特徴なし。
面白さが好み。
虚勢は勘違いされる。
故人語らず。
感情の人より冷静の人の方が遺族は葬儀し易い。
男性陣の評価が真。
赤ん坊は運命を表情にしている。
鈍さは遺族にあり。
誰も理由なく尊重されない。
数の論理で政をごまかすと害も莫大に多くなる。
人間では頭の出来に天地の違いあり。
運動選手は望まれなくともそうなる。
嗜みは知能で全く違う。
程度に見れば出来損ないはありえない。
駅が民度。
道徳はほぼ伝承される。
器用さは生まれつき。
訳が出世させる。
土地勘は鍛えられる。
命令形の用法は文明の順に少ない。
民衆は群れに着く。
生態系の上位層は無用に群れない。
何らかの貧しさが極端な熱狂を育む。
生徒は興味で違う。
芸術家の遺産は観光客の足を止める。
わざは遺る。
拙い技はなくなる。
芸術の程度が客足の保留に比例する。
趣味が客を選ぶ。
得意不得意は相対的。
男女の物を見る目は各々異なる。
戦は頽廃よりは善い。
真面目さが全てに勝る。

韓流と倭臭

韓流波の鵜呑みは全然賢明でない。一時の方便として、分かりやすいナショナリスト氏をこの攻撃隊長に推すべきだ。片方向のみの勘違いされた好意の促しは、双方にとって望ましいとはいえない。安重根や伊藤博文問題の如く、隣国双方にかなり行き違いのある価値観が常識化されていると、いざという国際的な場でいらぬ誤解が生じる。

「文化差」を客観視できる観点の啓発が貴く、他の洗脳は全く違う。劇作なら尚更。

2010年4月19日

文化学

所属場の文化素は主に自由の中身を決める。真に功利な自由は所属場毎に決め得。つまり適応文化の達が望ましい行動形を選ぶ。故所属場がもつ既存や付加の文化素がその侭で功利さの基。郷に入れば郷に従えは望ましい功利性を場で選べと言うに近しい。この文化素にはかなりの偏りが普通。集積の利は人口のみならず各文化をも極度に片寄らせがち。このたちすらも。自由は進化率へ適応形質の違いを見分ける働きをする。故ただ郷の趣のみで次世代への選好には大幅な種内偏差が起きつく。文化素は常々この揺れ内で異なる体系と何らかやりとりしている。

倭政治の穢れ伝統

最低限度所得の苦学生を冷遇し南蛮あばずれへ子供手当てしたがる九州女の党わらえる

学問より金儲けを求める西日本人政府が一銭もない苦学者をニートと言いどんどん世を馬鹿に、汚くする

東京都庁の足元の奴隷店でひっつきまわる俗悪江戸のげすが日に数百万稼いでいるのを喜ぶ倭政治の穢れ伝統

なにこの国。生きてる意味まったくないじゃん。犯罪映像出演で大金持ちになった阿婆擦れも逮捕どころか注意すらされず、子供手当てで万々歳の極悪世襲天皇独裁家大笑い。終わってる南蛮都

無職を量産しながらコストカットと言う守銭奴がつぎつぎ政党へ貢いで、越前越後屋みたく口先うまくごまかす。で? 何が変わったの、江戸時代から。大袈裟になった堕落以外にはさ、このマンガアニメに人身売買通いの下衆東京関西土人どもは? 死ねば死ぬほど美しい劣悪南蛮倭奴だな

信仰

姦淫商業を奨励している邪悪な都の偶像神は聖なる人々の声で亡ぼされます様に。この偶像を崇める人々へは悉く地獄沙汰が訪れます様。

聖なる人々から税収を搾って姦淫界に生活してきた邪な王は虫の如く容赦なく殺されます様。その最悪の一族へは二度とこの世に復活の兆しが訪れません様に。

理由づけと社会

単純な理念と見た時、全ての冗長さには理由づけの巧みがある。それらが円滑な時、論理には一貫さが見つかる。だから理由づけ自体にはどんな留保もない。この円滑さは、時間内で果たせる特有の理が本質で同じ配列で示されゆく点での合理性がある。長期にわたる変化として、共有の目標を掲げる才は理念への到達深さが求められる。つまり道徳適性は、同じ時間内でも適切な推論を正しくできる事で分かる。でないと、社会はつねな最大数の群れを維持不可だろう。

2010年4月18日

Frighten

Did not them, here
You shouldn't be frighten
You shouldn't be admirable
Did not see that, some whole
Stave of disaster soul
Did not here, there were
Some be frighten job
You can't catch all goddess
Or somehow lemon grasses, which
All doubt near appeal-able doubt
Shouldn't you talk, didn't shall say
All bodies school will be frighten
All bodies school hock was frighten, here

お月さま

まんまるお月さま きこえますでしょうか
わたしんちはここから エイセイツウシン中です
まんまるお月さま あしたははれますでしょうか
だれもかも しずかにそらをみあげます
もしもわたしんちが おおぞらのかすかな
くもりでくもってしまうくらい ちいさいなら
お月さまどうかこの きびだんごをどうぞ
わたしんちでは うさぎさんらのはねるところを
ここからみまもるつもりです しずかな夜のうえで
まんまるお月さま もしかすると
この世はとてもひろすぎて わたしんちの
こんなひろえんからじゃ みえないかも
そのときは このねこじゃらしをめやすに
まんまるいお月さまの めやすにしてください
あしたの雨がふるときは そのなみだめを
いまのよいのうちに すみわたるそらのうえで
ふきながしてくだされ まんまるの
おおきな大きなお月さまよ

倭人種と風俗産業の撲滅構想

要塞風に内部から脱出不能な極めて厳重に閉じられた監獄島をお台場沖に築き、歌舞伎町はじめ日本各地で公然猥褻罪を犯した罪人と天皇一家を中へ放り込み、監視カメラに捕えた内部全ての様子を全国ネットで報道するといい。これは『倭人島構想』と名付けられる。
但し、食べ物は送ってはいけない。内部繁殖してしまうので。

こうすれば倭人が何より好む姦淫罪をその島の中では無際限に続けられるから奴らにはこの上ない幸福だろうし、最後には飢餓で共食いするだろう。
我々へは絶えず外部からその様子を中継で観て、奴ら倭人種の劣悪さと醜猥さを侮蔑しつける有徳な習慣に役立つ。
実際、島の内でも外でも倭人種がやるのは同じ芸者遊びだけなのでこの構想実行に何も問題はない。死刑を行う邪悪さよりは罪が軽い。

これで日本国の風紀は、劣等血種の素早い淘汰で大幅に向上すると考えられる。アダルトビデオ産業とやらで起きていることはまるで同じだが、全過程の手続きを公にし縮減しただけで。

生物学

生態の成熟後の姿はその子孫がどんな社会内競争にさらされてきたかを示す。故幼型化が及ぶのはこの条件が何らかの誘因で弱まった所だろう。普通、幼型化のみが進化の的でない。きっかけなそれはある。但し、進化が奇種への道でなく続く世代でも広く分布しがちな先駆種への変異ならその形質は主に上述の競争内適応のみに見つかる筈。この特定競争への適応外では、どの変異も最大数の変異幅維持が難しい事情から、奇種と見做される確率が高い。大幅な環境変異が約束されない普段の緩やかな生存競争内では常にこの特殊化への鍵がそこでの生態革新を司るだろう。
 一般的な表徴種は特定の形質のみへその性特徴を集めがち。故この面への特殊化は続く世代の形質へは再生産率の焦点として素早く消費され易い。結果、開放場では進化とは複数の特殊化を伴わねばならない。他は容易に僻地適応型へ排出される。こう考えれば負担理論の本質も、特定の部位や様式のみが生態上で大幅に優先される危うさへの時間内適応と解る。もし負担へのえり好みがないと、必ずその場はいわゆる奇形への潜在的蓄積を見逃す。
 しかし変異の移り行きは極相と化した場の形質内飽和への侵略や変遷として見つかり、これを負担と見做すと、以前よりも優れた形質とは常に、先代の遺伝よりも生得的な特殊化が競争内優位と示される成熟の向きをもつ。正の幼型化として進化一般は、性特徴への程度の強い選好の結果次世代の成熟後の形質が獲得要素も含めて、極端に特殊化した証。かつこの要素の生き残りには複数の変異が繰り入れられている筈なので、当然同じ場で起こる以前からの生態課題は成長段階の極めて初期に折り畳まれねばならない。個体成熟の系統発生のくりかえしらしさはこうして説明できる。そしてこの種の正の向きになかった幼型化は、みな僻地外では競争に淘汰されゆくだろうから今日まで過半で存続していない。

2010年4月17日

地政学

繋がった地域間では交易の活発さの為どちらかの文化での発明はすぐ身近な隣国へ伝えられがち。故、統一文明とそれ以外とは比喩な陸続きのとき、種別差に見える。逆にどの比喩な島国同士でも離れ方の酷さに併せて全然違った系統を維持しがち。普通、これらの文明度の偏りは交易への阻み酷さに比例する。この傾きへ付け加わる係数は地理や言語の差などを諸用件とし、グラフ比例を極端にするか、より特殊化する。地域間の種別差は社会系統と適応形質へのえり好みが大部分趣違える。文明度の様相もこれを象徴づける。社会学内でそう考えられる様に、隣国との闘いが準備させる程度がこの習性変形へは決定的に重要。戦争状態への普段の蓄えは外敵が皆無の地域より比べてより優れている何らかの表徴さを伴わせる必要条件。
 従って、闘争が種別間に及ぶ時この作用乃ち種別差の誇示は最も重きを加える。広い地域に渡る国ではこの誇示には強い高圧さを伴うが、そうでなくば種別差は見分けがつかない。

2010年4月16日

交通政策案

都心部の通勤時過密を解消するのに主に二通りの道筋あり。

一つは、ロンドン等で行われている「通行課金制度(通行税)」で迂回を促す事。但し、私見ではこれは確かに通行の絶対量をへらすが、迂回先へ流れた分は迷惑にもなる上、必ずしも経済効果上利口でない。都心部には集積の利益があるから。

でもう一方は、これは一つの発明だが『高級車両の増設』いわゆるグリーン車専用ラインの増設や出入の課金クラス分けで、ここへ入り込める絶対量をへらさずその混み具合を便宜上解消する積極方法。
電車やモノレールの乗換駅の接合や、高速道路の空中や地下への増設と相互乗り入れの加速も、一部レーンの高級化として含む。

 これらの手法は、都心部の私鉄会社と官庁が必ずしも癒着しない侭で、相互に顧客獲得競争の如く行われる方が結果、合理的に分流していきそうだ。

現代倫理の再考

自然知識の数理的比例が信仰対象になっていた時代は近代化が及ぼしえた工業の効用にほぼ依っていたと思える。自然界の利用思想はフランシス・ベーコンが定式づけた理性の優位を担保としその征服を合理化してきた。実際にそこから得る物も多かったが、この信仰体系は又学問の神聖化と似て誤った権威づけにも余波をもった。自然知識はどんな倫理も説明できない。こちらの規則は自らつけるものなので。
 場所毎の自然は違う趣を選ばせるが、対して自然が誘なう感覚はそこでの倫理原則をも全く違える。故自然知識は工業倫理から見た感覚的真理や信念の核だったが、それを超えない。つまり自然哲学への崇拝は一時代の流行潮流のみ。結局、工業からの急発展が及んだ地域外ではどこでもそれは知識の一部としてしか省みられない。同じく、社会内倫理を他の動物類の侭に室礼えようとする思想、ダーウィニズムか社会進化論は特殊条件下にあり、かなり余裕のある社会では採られない。結論をいえば自然哲学の崇拝は何れ我々が過ぎ来た各固執の体験と類似している。それ自体が社会問題の全部を改善し尽くすと断言できる根拠が今の所ない。故に科学以外の信念を軽視せずできれば維持保存している事は、それのみを信奉する集団より有徳な可能性がある。民俗学の域を超えて、細かな暮らしの知恵はそこでの倫理規制を別の観点から抽出したものかも。科学知識とやらの重要さはそれが経験論の土壌で発酵していく限り百科全書的客体をつくり、我々が義務として身につける体系ではなくなるという知恵の外部化にありそうだ。そして本質に、近代化が用いた最も有意義な潮流は、これらが導いた宗教義務の軽減と生活合理化の側面にあると思われる。だが、科学知識自体には不確定さや漸進さが免れていないので、その方針は常に道具地位に留まるをえる。べきの問題は数理作用とは別の補完した公理系からの注釈でのみ、便宜に解ける。この事実は、考えが母集合としての既存の科学系には回収されきらない一種の言語作業を示している。より精密にいえば、実践理性は可解問題を超えているかその上にある。定義として倫理は不可解命題への絶えざる解説に過ぎない。これらが教えているのは、形而上学の問題は観察のみでは解きえない社会課題への気づきから生まれた、独自の公理系の構築な事。現代倫理は自然科学とは違う。かくの事情が潮流たる工業侵略やその担保たる力学を信奉すべき倫理と見做す可きでない観点を啓く。いわばこの行いは地柄と個性な已。つまり近代化は義務付けられなくてよい上、植民含む工業文化の他地域への侵略さえ正当視できない。それは自然科学が同好会の信仰でしかない限り、学習する個性や地霊を均すのが全場合に最善ではないから。

語学

現在形 する do
現在進行形 してる be doing
現在完了形 している have done
過去形 した did
過去進行形 してた was∨were doing
過去完了形 していた had done

場所学

人類内で天才と呼ばれる形質は、表徴種とみれば全て希少で、そう評判される時代にあっては目的に合うからそう云われる。地域や文明度で天才への選好にはかなり大幅な違いがある。それは続く世代で当場所の生態構図がどう変容していくかに警鐘を鳴らしている。審美感覚は場所の中庸さへのえり好みが造るので、こういう形質は彼らがもつ生態構造内で望ましいとされる競争的優位さへの意識だけが理解する。だから生態からの選択を取り除くと、世界には美醜という観点はない。自然への感覚も、生態適所と見たそれの生き写しに過ぎない。
 生態内で行われる競争は実質的にそれが集団へ用いる個体単位での何らかの社会的功利性として外部経済度を量る役割をしている。いわば社会集団にとってのみ才がある。故この集団が望まない変異は意識的には選択されないか、選好上無視される。だから趣味の多様さは必ずやその集団が最大級の変異幅を維持したくば必要条件。趣味の自由への抑圧は、他のどんな社会生態内での対悪意よりも繊細。最低限度規制とは、公徳が許すその地域の共有した理解による。つまり集団のたちがその侭地域での次世代への選択に繋がる。業とは科学上はこの場所のたちに定義されるだろう。

2010年4月15日

理念と科学界

はじめに世の中で直列した論理を用いるのに成功した者は、それが説得の労作となる効き目も見つけたろう。だから、我々はギリシア民主政が最終的に堕した際の詭弁術としての論理へ軽蔑を得る。より明白にいうと、論理回路の巧詐は決して善の指標とはならない事が人類史の真。対して、哲学や智恵と呼べるほど複合さの高い何らかの情報を能えねばならない話法は、どうしても寸言以上にはこの論理作用を引用するきらいがある。だから哲学は詭弁とよく間違われてきたし、場合によってそれは同じと見做される。言い訳という独特の日本語がこれをよく示している。陽明学の知行合一という考え方が東洋に広がると、それはもっと強調される傾向があった。
 言うまでもないが、智恵は詭弁や言い訳や、どんな不善とも違う。その段階の総合した知識量がある哲人へ特有の考え方を懐かせる時、それは明らかな倫理を示す何らかの理念になる。そしてこの理念は短な文句のみでは誇示するのが難しいか、ごく在り来りな言い方に埋没して見過ごされないとも限らない。例えば脱構築やイデアは日常語と差ほど離れた用法であった理念でもなく、哲学的文脈が十分考慮されねばこうして後生の参照に足るだけ特別な文言とも思えない。結局、哲学の産物に最も有用なのは、論理作用をその補佐官として用いること、及び形而上の問題のみへこの傾注を果たすこと、乃ち理念の説明というその能力を超えない範囲でだけ論理学識からの援護を借りる事だ。逆に、全て論理の為の論理や説得の為の説得は堕落に属している。積極的に主義すべき理念が到底信じおくに足らない場合、この論理はいつわりで終わる。
 もしより望ましい総合の観点が見つからないとき、最大多数の共通理解の要となるのはそれが決して批判できないだけ堅固に倫理の最小最大則を示している場合、つまり最も短い言葉でできるだけ豊富な知識量を集める事による。最上の理念を見つけだす事は常に新たな知識の上に立ち、以前のものを更に高い次元の理念へ止揚していくいわゆる弁証法を要する。だからこの働きは理念の外にある。いいかえると、論理でない方法で弁証法を駆け上がれる可能性は十分予知できる。すると、理念語にとって最上なのはそれが科学体系に対して後見範畴として働く世界の厳密さ。乃ち科学の上で使われる考え方を事前の理念語内に幾つも保有していれば、自然も社会も数理も同じく僅かな語法差で解決できるだろう。夜と夕の語の微差はそれらの自然としての現象を同じくらい違って分類させる。自然界の内で起こる現象はこの理念語からの援用でかなり合理的に捉えていける。なぜなら某最小最大則が働くので。もし後見範畴の莫大さや緻密を伴わねば自然現象への注釈そのものが極めて煩雑になっていく。

警句

すぐれた者に付き従う者は必ずその感化を受ける。
劣った者に馴れ親しむと知らぬうち堕落してしまう。
憧れは時に教えより強い啓発になる。
下問を愧じぬ年長者は指導者格に着き易い。
先進国に驕る人々は田舎の徳から足元を掬われる。
血統書で保護された者は能力では最大級ではない。
文明より個人を優先させると街は荒廃してしまう。
日蔭の田舎者は先進国を金銭面でしか羨まない。
慈善以外で目立とうとすると仲間の評判は失うもの。
どんな忠告でも軽んじる事は最善でない。
見栄っ張りは救えない。
必要外の装飾は害を齎す事が多い。
大陸国は構成員の道徳に大幅な差がありがち。
信仰が学のない人々を纏める。
形が変わっても魂が残れば人は変化にも納得する。
害ある虚飾は即時撤廃すべき。
表象種が形質差の全てを説明するのではない。
美人というものは人気の外に存在しない。
言葉の端々で既に育ちが因果を決めている。
智恵だけが次世代の指針となる。
若さを老成より好むと先ず後悔する。
時間は努力だけを耕す。
勉強だけは取り返せない。
経済の繁栄は束の間の事。
芸術は学べない。
技は真似うるだけ。
学問に盗難はない。
祖先の功徳が後生の自分を決める。
女性へ高度な教育を与える事は全てに勝る。
旧徳は永遠に使い古されない。
理解者は先駆者に勝る。
商人の血はその場限りが得意。
学問に優る習慣なし。
陸続きの共同体では場所柄で緩やかに習性が代わる。
雄々しさは結局どんな場面でも頼りになる。
理解していない物を軽んじると泡を食う。
大都市で為した行いも遠からず因果応報に遇う。
女らしさにはどこにか弊害がある。
有名人はおよそ媒体に依存している。
発展に理由あり。
天主を望む者から勝手はなくなる。
他国から学ぶ者は大抵生国の者より賢くなり易い。
奥行かしさは最良の生存戦略。
島国の道理は海外で通じ難い。
島国に来た外国人は何気に恥をかき易い。
島国同士には幾らか通じ合える道理がある。
大陸国同士は反発しあう傾向がある。
経済環境とは幸福の程度条件。
政治家の幸福は自己犠牲による。
子供が親を表す。

2010年4月13日

新交通システムの知識

低床車(Light Rail Transit、LRT)はピストン輸送に向く。例えば恒常さの高いつくばセンター駅と大学構内までの交通など。
但し、維持費面と敷設の手間を考えると、余り長い距離にこれを敷くのは決して合理でない。また循環輸送はルートが変わる可能性を慮ると、バスの方が良い。そしてもし公園駐車(Park&Ride)が確保された自動車路の少ない構内では、レンタルサイクルの方が健康や環境負荷からも望ましい。条件者を考慮すれば低速の自動三輪車などもここに入る。

 地表面の開発可塑さを侵さないべく執れる新輸送手法は二つあり、一つは地下鉄化、もう一つはモノレール化。
意外な面で風光明媚な地点ではモノレールで素晴らしい眺望がえられる利点あり。ゆりかもめ等はこの好例で、観光客の需要も高い。
逆に地下鉄は乱雑な地区や再開発が予測される土地を、地上の動向に左右されず常に高い効率で輸送できる。例えば仙台都市圏で計画中の東西線はこの例だ。但し、維持費の賄いや利用予測が見込めないと赤字化して後の処理が難しい。嘗ての炭坑の線路の様に遺構になるかも。

社会生態学

最も具体的な階級基盤は、主に高度な社会性が定型化したとき生まれ易い。その定型さが固まると、序列は形質の特徴化へ至る。そして階級秩序は定例で有用な、若しくは長らくは道徳に類した何らかの特徴をとぐのに、ある程度より環境収容力への適所さがみられる地域で普遍。
 この種の階級秩序は未だ有用な形質が明らかでない開放場で普通でない。故形質の特徴は、長期に渡る環境収容力適所での淘汰にしか究極の変異、乃ち進化と呼べるほど以前の系統と掛け離れたがる意欲がない。単純に言って、僻地で長い世代を変異にかけた場合のみその形質には決定的な違いを見つけえる。生殖隔離の効果は、島嶼化をその決定因とする。

いとわろきもの

いとわろきもの、さてもなみにてこころぐるしきちごなどをかあいかあいとひとまえでさわぎたてるみやこのおちぶれしまちむすめ。
 みやこのみにてみすテレビにてはじらいもなくおちぶれししなを吐きすつるおんなのざえ、株をかう女のおごりいとみにくしこれらみなけがれた処にてすごせるものにあまねし。

ぽこぽこ

ねこのこどもからきいた
ちいさな鳥のはなし
ねこのこどもは走って森をでた
とても深くて先のしれない沼
ちいさな鳥はねこのはなしを
ききのがさなかった
チャンネルがきりかわり
ねこのこは走った森をでた
仕方なくゆめはねこをみた
夜は深まり森はねこをみた
シャイニング!
すぎに夜は深まったとおい森だ
ツベルクリン反応がそれをのぞんだので
すぎばやしはねこのこをのみこんだ
さわさわさわさわ
なにもかももとどおりだろうよ
すきとおる川たぬきのはらおどり
ぽこぽこ

公家の悪業

娯楽をも学問せんとす倭の愚民

和歌という倭の習慣卑しけれ

朝鮮人の一種と言える天皇家

薩長と組んで侵略公家の悪業

江戸色にはまり動けぬげす倭奴王

関西悪徳否定論

倭人社会の構図を観察して理解できるのは、彼らがおもに都市圏で広くもつ風俗業界と呼ばれる接客業種は、それが慰安専門の経済界をつくる中で生殖能力の保存とその維持の省力化に使われている事。より解り易くいうと、倭人は「性的本能の経済」をおそらく伝統的に商業化しており、それは彼らの理性では非難されるべき悪徳とは捉えられていないという事情。こういう慰安の商売は人類の都市圏には少なからずゼロではない程には見つけられるが、倭人の特徴はそれがおおっぴらに営まれることだ。彼らには普通の人類のもつ理性が欠落していると思われるのも、この羞恥心のなさに求まる。我々は倭人の中にいる女子学生が目を覆うばかりの淫らな姿で日常を過ごしているのを客観する。彼女らは上述の見苦しい風俗業へ参加する前座としてその畜群まがいの発情期の初期を過ごすのである。言うまでもないが、そういう業態が全く規制なしに繁栄させられる限りこれは倭人社会では適応的な行いなのだ。そしてこの明らかに性的倒錯のなせる業は、彼らの自然的かつ必然の人口減退に、悪徳とみなせる放埓の因果で一役も二役も買っている。

 倭人がこの商売できわめて円滑に性的放逸をあからさまに遊び回るのは、関西という地域圏の周縁では普段に鑑賞できる。誰もそれを咎めないばかりか、大体の人によって共感や奨励、つまり感染させられる。テレビドラマでいう水戸黄門の中でも、関西人が監督した途端そこにありえない芸者遊びのミームが感染させられる。広島という中小都市を真夜中に独り歩きしてみれば、その種の売春婦が数多くあなたを誘惑するかもしれない。勿論、そこは原子爆弾が落とされた都市だ。結局、これらの血統は以前と変わらぬ劣悪な理性のために、如何なる天罰によっても、既に習性化している頽廃の界隈ではその血統の業が淘汰しきれないのだろう。
 この種の倭人が向いている商売は娼婦のみであるから、その扱いには最低限度か場合によればそれ以下の敬意しか何等無用である。彼らは理性の勝る人間の足を引っ張り、その尊厳を手段を選ばずけがすばかりか自らの頽廃を合理化するため、反教育的な作物をあちこちであふれさせる。この行為を制止するには彼らの血統をこの元来清浄なる地表から一匹残らず消し尽くすべきが疑えない。私は関西人が己の頽廃した性格を合理化するために関東へ侵入し、そこで元々営まれてきた素朴な賛歌を淫猥なものへと堕すのを見た。更にはあらゆる卑劣な手立てでそこの風紀を悪い方へ、前よりよくない方へと誘うべく元々確立されていた地霊の尊厳を酷く貶めた。江戸城で行われてきた関西出の王の人格をまざまざと見よ。山ほどあふれさせた一大人身売買地から得た税収を元締めているのは誰か。道端で喧嘩ながら警官に暴言を吐き、日常に漫才しながら彼らは金儲けを目的と信じ、そこで得た大金を頽廃した風俗業界の階層へ分け与えるものが倭人の皇帝だ。

 もしこの行く末あしき行いが他の土地でも防がれるべきならば、関西人の血筋とその生計が、発見された親の段階で一切全滅させられるべきなのは全く疑問視できない。彼らの臭いがする場合には、敢えて必要最小しか取引しない方が多分によい。この種の最終始末はいわゆる越前越後屋、悪徳商人の仕事であり、それは我々にとって望ましい滞留でもない。既に彼らが大幅に入り込んでしまった土地では、関西風の悪徳否定が完全に有益である。さもなくば、上述の例と同じくその土地は倭人が何より好む汚れきった悪風俗業であっという間に占められ、彼らに特有の発音と行動原理がどこでも、その底抜けに醜い行いを合理化し続けるであろう。近く、主に彼らの力で復興した広島はその反面教育にも足る一例と言えよう。

2010年4月12日

民族のひま

言葉の規則内での工夫や慣れが我々のいう民族語の域をつくるのは傾注に足る。言語がどこかしらからもちこんだ幾つもの特徴を有するのは、それが他と異なる差異の体系を内に含んでいるので。そして、私等の知る限りではこの特徴が実質は民族の精神の特徴とかなりの相似を描くらしい。方言という考え方が之を示している。
 どこか言葉の持つ冗長さは、おそらく系統に持ち込まれた昔ながらの経験がその起源だろう。この差異は方言と同じく全ての民族語には相当の量感を以て入っている。語順や品詞はその最たる物。
 民族は各言語にこういう知恵を忍び込ませうる限りで、バベルの昔から独自さを護られてきたし、そうされる可と云われた。もし同じ冗長振りを彼らが共有すると、言語そのものは希少さを生み出す土台を大きく失うだろう。冗長度は情報論や学の概念に、情報量分の重複さへの比較逆数として定義されているが、どうやって言語間のこの値を計測するか未だ不明瞭。もし哲学的という程に捉えれば構わないなら、同値を言い回しの複雑さと考えても大きくは外れない。この言い回しは、ひまながさという訓読み名義と似て彼らが生活体験内でどういう自由時間を弄んできたかに殆どよっているらしい。きわめて知性に適宜さのある系はその場で持て遊べた時間が、敵や同種間の競争に向いていた。同様に何らかの能力への、又は性質というかたちへの移りはそれが適所の日常体験感からの抽出である、という基本底流を伴っているかもしれない。
 冗長さは自体の情報論値のみならず、特徴差を相応伴う。これは必ずしも量へ還元できず、何らかの趣味観からの質の分析を要すかもしれない。
 一般に、このたちは思想と考えた時の精神性の焦点へ集まりがち。故、部分欠落にも関わらずその精神は生き延びゆく文化素を育む。全ての民族語には特有の冗長さ抽出がある。と同時に、この反面としての簡潔度、つまり情報量分の重複さの正数も当然存在し、我々が共有できる規則は全てこちらへ属す。
 我々が会話を愉しむ時、実質は簡潔度分の冗長度を質量の両面から鑑賞ややり取りしている事が多い。この値を深長度と定義できる。単なる機械的応酬に終始してもおかしくない意味が趣をおぼえる類いの仕業へ転化するのは、この深長さの為らしい。異文化がなくば人々は機械だけで十分な取引をできる。そこには簡潔度しかないからだし、ただ効率的な程よい。事務的と呼ばれる世界にはこの種の規則が敷かれるだろうしそれでいい。逆に、芸能的な程どこかしら楽しみを期待される場では、つまり規模を問わない社交界ではこの深長さが素晴らしい程、その個性には面白味があると評定されるに違いない。

自民化

おばあちゃん虐めて年寄りを粗末にするなと言う神戸出の知事
なし崩しに高速高くなってるが無料はどうした埋蔵金
官庁の専門官僚の手管に巻かれ自民党化する霞ヶ関

2010年4月11日

武蔵野

僕は遠い地方からやってきた一人の無名の旅人だ。そこは武蔵野だった。朝早くで、ある目的地へ向けて、その日は祝日初日だったのだが歩いていた。川べりを通りすぎていくと、多摩の山間の方に多くの似た様な大きさの一戸建ての集まった住宅地と、いくらもの田畑が見えた。川沿いの僕に聞こえる声で、その途中にある一件のアパートから「バイバーイ」と叫ぶ二人の少年が見えた。一人は幼稚園、もう一人は小学校低学年くらいだろうか。辺りを見渡すと、自転車を留めてタバコを吸っているサラリーマンらしき人、あとは自転車で通りすがる若い女性がいた。誰に向かっての別れの印しなのだろう? その若い女性はシャンプーの香りをまきながら、嬉しそうに通りすぎていった。
 特に何ということもないある晴れた祝日の朝の話だ。敢えて感想を言えば、僕はそこに東京都と呼ばれているこの大きな蠢きのなかに澄み渡った真理を見た。人々は渋谷とか、新宿とか、六本木とか、何か皇室の今だとか、そういう華々しい現代を有り難がっているかもしれない。だが僕はその何ともいえない風景に、昔この武蔵野が一体どんな所だったのかをすぐに悟った。そしてその方がどれだけ素晴らしかったかしれない。
 声の向こう側へは多摩の住宅地が点々と見えた。実際、今日マチ子の絵を頼りに僕はその辺りを徘徊するつもりで行ったのだ。徳川家康がこの辺りへ侵入してきた時、運命は大きく変わった。江戸氏が根城を持っていた頃、ここはおそらくあの奥多摩と殆ど変わりなかったろう。今では、どこからともなくやってきた自称天皇という人があの堀の奥にいる。だが、僕の目にはどれも俗物に見える。あの一階のはしのアパートの一室で育っていく、何だか分からない元気な二人の少年より、ずっと。そして武蔵野とは、元々そういうところなのだ。

2010年4月10日

地方自治の促進政策案

全ての地方が市場原理の侵略を有り難がる訳でないので、最もてっとりばやい地方権の確立の手順は『租税率の自由化』にありそうだ。
却ってそれできわめて低い税設定のため多国籍大企業を乱立させたがる土地柄も、この広い日本には確かにある。
 幕藩態勢と逆の手順で、おもに所得税や企業所得単位での累進課税という動かしがたい普遍税領域は除いた個別税領域では、かなりの自治観に任せた方が都道府県の個性が動き易い。企業誘致についての土地柄もその方が、地方民の政策感覚へたやすく追随できる。

具体的には、おそらく関西ではこの政策実行で首長がとても低い税率をえらび、極端でない平等観が前提になっている田舎ではその高い個別所得あたりの税収は高齢者や女子供などの少数派の高福祉へ大幅にあてられゆくはずだ。
要するに、田舎では福祉社会ができあがり、都市では資本社会が生まれる。場合によっては極端に高い税率のために超保守的な宗教原理社会も一部には生まれるかもしれないが、それが全体としての国家の最低限以上の法規範内ならば公益に類する啓蒙の場所柄ともなりうるので、他地域にとって問題なければ放任した方がいい。

天の川

何かがあるのだろうと
人々は都会を目指した
実際そこに人は居た
溢れすぎた人はだが
実際ないのではない
そこに居たのは人ばかりで
人々が目指したのもそれ
殆ど自明の様に
僕らは必ず土に還る
海へ撒かれ焼却され流される
天の川は仙台のまち中からでも
見上げられるのだが
人々は悲しみを見る
溢れすぎた人のつくる
どうにか立派なこの世の有様
けど足りないものは

潮風

世界は無限に広いのか
何れにしても私達は屍になる
だからどこ迄も旅する事はできない
我々は小さな星に生まれて
遠い宇宙を夢見る
潮騒の音と波の贈ってくれる
いつも通りの水色の空を僕は
その宇宙の中の小さな体の
呼吸を通して身に修める
だからどうというでもないが
その小さな詩はこの
無限大に広い世界の隅っこで
とても小さな声で語られたもの
だれもそれを聴き分けられないくらい
とても果てしなく微かなもの
僕はその小さな響きが語られた
島国のそのまた隅でこの宇宙が
果てしなく広がりだれもが
綺麗な世界を夢見るのを見る
僕は潮風になり町を見るのだ

2010年4月9日

学者

軍人は救えない。
学者は知る事を楽しむ。
小人は習性がつくる。
人は環境で動く。
知恵より群れを好む者は自滅する。
教育の殆どは女性を鍛える為にある。
威張る者は成長しない。
山奥で育つと一生に出遅れる。
都市圏で育つと子供は可愛いげがなくなる。
宗教をかろんずると必ず悪徳がはびこる。
女性は教育環境で大幅に変わる。
有閑地という概念は自然保養にはない。
遺伝を断つにはその親の生計を断つしかない。
いなか者は見た侭の真似をしたがる。
生粋の都育ちの女性はずる賢い貞節さをもつ。
何へ支払うかで土地の経済は決まって行く。
歴史は最良の旅の伴侶。
芸術家は芸術家を呼び寄せる。
理解した物しか実現されない。
この世の本の一部にしか賢者はいない。

信仰

倭人遊女全員の遺伝子がこの世から消滅します様に。

江戸の女々しいちゃらちゃら男は全員が戦争で殺されます様に。

江戸っ子より酷い劣等血統の関西人は二度と関東へ入り込みません様に。

大人の勉強をうらみにもつ子供はその親の不勉強のため自然に淘汰されます様に。

江戸の堕落へ付き合う一部の水戸人へは天誅が下ります様。

学問の効果

学問で生活状態が改善されるのは難しい。もしそう呼ぶなら、学問は生活の中に登る要素を改良できるだけ。学問だけではそれを認識する系の構成員から、要素の出現率を差し引く効果しかない。豊富なだけでなく、深長さの異なりは暮らしで現れる言葉から何らかのおかしさを導く。故に学問をわざとらしさなく応用できる個性や系だけが、優れた秩序を達するだろう。ここには、言葉で示される現象、言葉が比喩できるものと認識は表裏一体だから鏡映しとしての世界が世界観として各生活内で占める趣しかない。
 趣味は世界観を含む。

2010年4月8日

宇宙生態学

宇宙の底にある幾つもの法則、とは理念上のもの、と考えるのが妥当。故に普遍法則そのものは架空。完全に法則的でない現象は複数というか無限にあり、ある定常か反復した簡潔な情報量を使う個性か知能が、段階に繁雑さ低減を図るのみ。主観原則は知能か理想をこの場所学の土台で計る機能や働き。故何ら知的条件づけ(例えば定常か繰り返す環境からの刺激)がない、若しくは人間原理上の感覚原理、より普遍には感覚基盤原理がないか足らないなら、主観は知識系を持てない。一般に、子供か幼児期の経験にはこういう発生系統下の昔らしさや過ぎた去就が見つかる。つまり、弱い主観原則下では法則知は違和しつける。それらの共通感は鈍く、時には共有の文法や規則を持たないので捨て置かれる。だから主観原則そのもののたち、はかなりかとても法則学力の底となり易い。普通これは道徳場か教養界を造る。趣味論はその審美的頂きというのみ。
 複雑系下での未来予測は法則用の走りが連鎖している条件によっており、縁起的予知は計画の多重にかなりよる。これらは、理解すべき事象が目的に合う為の経路、より直には特有の感覚原理下での状態、次第で可変と明かす。要は法則知それらは直観も含めて幾つもの主観の埒から導き出された計画間の働き。

2010年4月7日

倭臭の徳化政策

赤信号を渡る違反者の様に、少しの法違反も看過ごされるとそれが必要悪という邪な言葉でやがては朱を奪いがちになる。真に賢明なのは初めの時点で抵抗し一切の不正を徹底的に潰し切る事だが、既にはびこった時点でこの方法は使えない。

法的には、その本来の意図を満たす水準まで規制を強化する為に、条令規則の工夫で別の罰則を設けるといい。

具体的には、情緒的で生まれつき理知の不足している倭人のことだから風俗壊乱罪は、彼らだけが寄り集まるほど容易に犯され易い。
だから既にこの罪が横行している段階ではその裁きが非常にたやすくなる様、「通牒の報償」をおもに自治体単位で制度化し、匿名も含む通報者へは謝礼金その他のお礼を渡す事にすればいい。
 この方法論は、他の分野、たとえば学校内や会社内での内部犯罪が倭型の村八分組織では容易に外に漏れない悪弊を断つべく、通報者が暗に酬いられる制度として組織か自治体単位で応用できる。他にも煙草の投げ捨てや飲酒運転などにも逮捕や罰金への対応を早める現行犯の促進効果がある。

説法

英米人はポルトガルの侵略者が蛮人を襲った上に建てた奴隷搾取の世界を羨ましく思い、古代ギリシアと同じ自由社会を目指して後を追った。
簡単に言って、ゲルマン人はそれができなかった訳ではない。遅れてしまっただけだ。内陸で、大きな集団をもつ彼らは、アングロサクソンがあちこちで自由を建設するのを、また最大の好敵手たるフランスが西欧大陸の覇者を生み出すのを暫く眺めていた。
自由は素晴らしいことだと、奴隷を眺めつつ彼らは考えていた。実際費用を負わずそうできるものなら。我々は彼らが混血していったニグロイドが自由とやらを反面から見ていたのを知っている。自由は、裏側では「隷属」だった。

ヘーゲルは東洋では皇帝一人が自由をもち、他は隷属すると言った。和を以て貴しと為した中国に見習った祖先は、農耕社会を丸く治めるのに自由を一人へ預けてきた。

 ゲルマン人は植民地も、奴隷もとりのがした。辺境の民として、西洋史の表舞台に随分遅れてやってきた彼らは食べ残しを探し、そして見つける。
遠い海外へ多くの兵士を遣っていた西洋人はどこも身近が手薄になっていた。同じ様に遅れて暴れ出した遠い東洋の島国の民は、彼らと似た境遇にあった。
 それもその筈で、暫く前、日本政府は公家に着いた薩長藩閥のいうとおり、ゲルマン人の中へ要人を派遣していた。そこで学んだ通りのことを実践していたのだ。

 ゲルマン人は先ず自分達の集団内で最も野蛮な民を奴隷に仕立てることにした。もしそんな程度のことが悪なら英米人などは地獄に堕ちる。
本物のインドも利用しているアングロサクソンの揚げ足を取るのに、ゲルマン人はアーリア人至上主義というアジアごと包み込める民族差別を考えておいた。

ゲルマン人はそれから徐々に、植民地侵略を合理化している悪徳西洋人を懲らしめにかかった。要するに、西洋人そのものを奴隷にしようとしたのだ。
なぜかイタリア人も着いてきた。どうやら同じくらい周回遅れのロシアへの対抗の為らしかった。

 暫くして、アメリカに亡命した科学者はユダヤ人を粛清したゲルマンを懲らしめるべく原子爆弾という大量破壊兵器をつくっておいた。ところが、予想よりはやくゲルマンは降伏したので使い道がなくなった。
 極東の小さな島の民は無我夢中でアングロサクソンと戦っていた。ところが、彼らの頭の中身はからっぽだった。
他の西洋人が植民地をもっているのに我々だけ不平等だと言い、薩長藩閥と公家の御一行は軍人へ多くのアジア人を虐待させていた。彼らはどこかからちゃっかり盗んできた思想で大東亜共栄圏と言い、西洋人と並び立ちたい一心でアメリカへ喧嘩を売って行った。
言うまでもないが、原子爆弾はその小人らの頭上に落とされることになった。馬鹿は殺される。これが彼らへの説法だ。

精神の流れ

理念だけを相手取る上では最高位の建築家は神の次位として、その理学に当たる形而上学の徒とされた。しかし行動的実践に携わる間は別の民意から使用されるのを疑えないので、当時の総合経済を極相的に仕切る首位となる行政家の考える義理は、考えとしてかなり前代の幾分か或いは随分と旧くなった形而上学徒からの引用となるだろう。ここに最大多数をひきつける演技力についての建前という思想がある。いいかえれば、神の真の次官がこの世の表舞台に顕れないのは彼が畏さに於いて当時の民意をはるか超越している限り当然なのである。このため、きわめて高い精神量あるいはすぐれた知能は、もしそれが示されれば人々へは神格紛らわしく覚われる。だが時代は漸進的啓蒙や啓発によりこの段階を吸収し、良識からやがては常識、それか最低限の知識と覚えるだろう。

2010年4月6日

人類生態学

商業界は再生産率生態が功利的でない場では理に合わない。逆にそれは不安定な適所でのみ栄う。
 人類が進化する為に商業界が不用な事はあまり理解されていないが、条件の向上を除けば功利性の程度外では全くこの行動形は望ましくない。要は中産性の誇示として、商誘因は特有の集団色彩にのみ当たる。全く仕事、最低でも直下の利益獲得の仕事をしない生態はもし単独ならその侭で淘がれてしまう。故中産界の固有の定義、いいかえれば増産しておかねば危うい形質への誇示誘因として、人類社交でみられる商業度、その目立った生態は観察できる。
 一般の見解とは違い、その生態集団にとり不安定な出現率しかもたない個性がより強く再生産化される傾向が普通にある。これが顕在形質にとっての異なる系統との魅了に近づく主要因だからみな生態として合理。

2010年4月4日

歴史言語学

最も簡単な幾つもの記号を、順列規則で等間隔に並べそれらの望ましい配列を意味が取れる処へ導く事は論理作用と云われる。この作用はどうして地球内ですら複数の言語体系が現に通るかを説明する。先ず、それは言葉の意味への配列に、おもに民族傾向で差延があるから。この作用は論理的に望ましい配列が少なく、それらは全順列内では慣習からのずれにほぼ依ると知らせる。故冗長さは、全く任意な最も単純である記号間規則よりも傾向的などこかの違いを教えている。
 この傾きは、全ての言語が方言な事を教えている。その傾きには常に意味を取る迄に特有の差延があり、それらには完全な対称さはない。
 他の民族語との相互参照が希な言語はそれ自体の中で冗長さを増強する傾向が一層のことつよい。民族語相互の類似は交流史がこの相互参照に繋がり、自らの母語体系へ在り方を変える作用を及ぼした証。だから方言の精密さを特有の意味順列と共に保つのは、一般に孤立した文化圏でだろう。この精密さは他の系には見つからない冗長さを意味に於いて彼らが保有している事に等しく、よって、我々はこの種の民俗学的聞き取りを行う中でより自らの体系へ冗長さの増大を図り易い。

同じ島の悪すぎる現状を
なぜ国定教科書ではまっさきに教えないのか

形而上学の趣味観

後期ウィトゲンシュタインの慣習についての言葉遊び論は、形而上学というゲームがある民族語空間のルールで営まれている証への漸近。思うに、道徳は近代日本哲学の伝統を引けば、風土に於ける共通規則を特定の適応課題について慣習化したもの、つまり好ましい慣れの作り事。だから道徳律は蓄えられ、場合によって取り出されおきかえられる。普遍道徳が最も抽象的か定格である、という考え方は各種の風土からの原理が揺らぐ限り偽。好ましい慣れは唯一神格の理念を除いておそらくどこでも異なり続ける。しかも、時と処でこの唯一神格の呼び方すら違うだろう。
 度合いに鑑みると、この好ましい慣れとは趣味と呼んでいい。だから特有の意味の取り方を各世界観へ積み重ねたところに生まれる趣味は、全くが固有の場の規則としか定義してよい訳ではない。結局、趣味の度合いは道徳観念が場に特有の適応課題をどう巧みに解いたかの証のみ。だから言葉遊びとみれば全て、自然描写の主観からの法則知の収集も含め現象論や学な形而上学野は趣味の定義をどう定めるかに等しい。よしあしも場に基本は依る。
 全て、場所論もしくは体系化されれば場所学はできるか要る。そしていわゆる風土論は場所学の一幕のみ。かつ現象学と解釈学とやらは、巨視すれば場所での適応形質がどういう変形を文字や図像とその用法へ定めつけつつ来たかという場所学の、おもに地政学識の分野として有効。一般に語学と勘違いされ易いが、現象学と解釈学は分析哲学系からきたかなりの形而上学識を含み、必ずしも既存の用語分類へ回収しきれない。しかし地理学と政治学の中間分野の固有名詞として地政学へはそうでない。これは場所によれば更新も記録しつけ得るから。

絶望

それは小さな島国の隅だった。
別に意味のない出来事だが、
僕らは高校生で、部活のキャンプに行った。
それは海辺の崖の上だった。
普段星空しかみえない。
僕はそこに、輝くばかりの青空と
友達の描いた一輪の水仙だかを見る。
空はどこまでも青く、先輩らと
夜遅く、誰も見えないコンクリ製の広場で
サッカーをした。けど
時は既に流れ去った。
同じ頃、僕は16だった。そのとき
学校に通う道のりでは、フューチュラマを
ソニーのCDプレーヤーで聴きながら、
僕は絶望していた。この閉じた世界に。
今ではどうだろう? 僕としては
やはりこの世界に絶望している様だった。
単純に言って、勉強しても
この世界はこうなってしまったみたいだった。
そういう青年は不満足に育つしかない。
似た環境にあって、やはり
似た位の境遇の少年は必ず
少なくとも似たいらつきを持ち続ける。
俗悪な社会と大量生産の学歴分け養鶏場。
そして逆らうことを諦めなければ自分になる。
だからどうということもないのだが。
首都は機械みたく俗悪ゲームを続け、
それにのっかる西からの人がどんどん流入し、
彼らをなくすには手段は足りないし、
結局、山崎まさよしを聴くとか。
僕は人類の絶滅を祈り続ける。
彼らには何も無いし、生態が底抜けに醜い。
だから幼稚園のころから同じ祈りを持ち続ける。
どうか人類が絶滅しますように!
どうかこの世が破滅しますように!

骨一つ

僕は不幸そうな親子を見た。
彼らは生まれくる命の凝集らしかった。
その母親は都会の影響でいらついており、
気の強くなさそうな少年はその機嫌を伺うしかないらしかった。
僕は幼い頃、この世の仕組みをまだ
十分理解していなかった。だから、そこで
起こる南側の現象の邪悪ぶりを、別に
平気だと思っていた。実際、それを間近に見る迄は。
僕は南国の人間達が邪悪な生き物である、
と全然知らずにいた。テレビはその生き物達を
日々映し込んでいたし、洗脳は徐々に進められていた。
東京都という南国はそこで悪さをする
以外の目的がなかった。僕は、始め
それを知らなかった。あたかも
僕は自称人間を名乗るその類を
自分自身と同類だと思い込んでいた。
実際、南の人間は性としても最悪で、
頽廃の底が知れない。だから
神は彼らを焼き尽くすだろう。骨一つ残さずに。

2010年4月3日

春の嵐

吹き荒れる春の嵐の気持ち良さ
よのなかの目まぐるしい変化と春一番
移ろえば稲穂の数の田の消える
都烏はよく似たるなり人に馴れ
東京はテレビで繕う偽桜

論理学

普き説得力と論理の証明法は同じ物ではないが間違われがち。説得力は心理さも伴い、決して不動な方法論でない。よって論理の証明法は説得力の部分集め。
 論理のよさはおもに証明法の完き備りへ着く。故論理は幾つもの経路をもつ方が巧み。
→:ならばと←→:さかさとは対:ツイ。ゆえ片方は他方をうなずく。
→→←←→:ならばはさかさをつ。
同様に、
⇒→←|⇔:すなわちはもしおなじならをうつ。
∧∀→←∨∃:かつすべてはまたはとあるをうつ。
∥¬→←→∀:どちらかでないはならばすべてをうつ。
¬¬→←⇒∃:うらはすなわちとあるをうつ。
∀←→→←|∃:すべてさかさはもしとあるをうつ。
∧∧→←∨∨:みなははともにをうつ。
みなは造り数理記号にまとめれば
是対逆⇒背:ゼ;そむく
即対若同⇒楽;ガク;たのしむ
且全対又或⇒侭:ジン;まま
他非対是全⇒悉:シツ;ことごとく、どれも
裏対即或⇒只:シ;ただ
全逆対若或⇒仮:カ;かりに
皆対共⇒単:タン;ひとえ
かつ
背→←楽⇒侭→←悉⇒只→←仮⇒単
の弁証法がなりたつ。一般にこの経過は
背きは楽しみを対つ…ままに
侭は悉くを対つ…ただ
只は仮にを対つ…ひとえに
すなわち
ままにただひとえに⇔現象学の基本定理:あることなし
を導く。
禅語を引けば、これはいわゆる空:クウと同じ論理運動。どの論理運動も空に帰る、という空理の論理学原則が見つかる。
 どの写像も現実界の映し込みたる論理による一公理系にすぎないので、あることなしは論理学にとって最も基本となる定理なのが明らか。これらの最短順列のみならず、殆どの論理規則の分岐はこの空の源をとりあえず経由する。証明法も同じ。これらの論理分岐は各数理へ用いられう。

経験則

東京都はゴミの集まりで、それより西はもっと酷い。この事実を早めに理解すればするほど人生は良くなる。
最悪なのは北陸人系だが、関西人とも係わり合いにならないほど幸せになる。なぜなら生きている価値のない下品種だからだ。
又、東京人は人間ではなく、奴隷だと考えると合理的だ。奴らは群れるしか能がない。

 おもに英米人に向けて書くが、言わなくても分かるだろうが日本人とは付き合わない方が賢い。日本人は全般的に知能が低く、娼婦だらけの劣等な奴隷民族であり、東洋人一般と同じで異様な驕りと極端な金儲けの素質を持っている。
非常に希な例外を除けば、日本人は全面的な能力で英米人より遥かに劣っている。だからもし機会があれば殲滅しても特に問題はないと思う。彼らの生態は朝鮮人とよく似ており、中国人よりは環境収容力的傾向が高いというのみだ。

 江戸の小人は関西人とよく似ており、実質の同位種。彼らは群れつつ誰かを笑わせて金を貪るのを生態の特徴とし、繁殖速度がとても速い。彼らとは人間としても決して関わらない方が賢明だ。
 京都人は意地が悪く、嘘を嘘と思わない。おもに財力をもつ何者かへ寄生するべくあらゆる下劣な手だてで媚びを売るのをその生まれつきの特徴としている。
 神戸人は他人より目立つことしか頭になく、自分自身より優れた他人の足を平気で引っ張ることすら辞さない。そして彼らの属する関西圏を常に見下している。
 東京人は彼らの特徴を受け入れてきたので、彼らとかなり似ている。東京都とは東日本の関西圏だと呼べるだろう。だから関東ではあまり好かれていないばかりか暗に軽蔑されている。
 西海人は低知能を誇り、平気で暴力を振るう野蛮人なので手に負えず、多くの場所では嫌がられる。そして自滅への道を理由なく誇りとする。
 東北人は理解力に欠け、田舎者の典型的性質を全て持っている。すぐ怒り、考え方は頑固で柔軟性に欠け、さらに悪い事には進歩しようという気もない。そして協調性にも欠けているので孤立し、特に旧型の世界で自慢して暮らしている。

2010年4月2日

俗塵

自民ニート党員、おまえらが見下してたハローワークいけよ。
お笑い芸人の半端ブルジョア振りは関西圏でにしてくれ。醜い。
東京いい加減にしてくれ。お前らだけ関東で堕落し過ぎにいい加減悟れ。空気読めと言ってるお前らが読め、げすが。
ジャニーズ系のエンタメ進出痛くて仕方ない。時間を選べ。
山手線もういいから広告で無駄に疲れさせないでくれ。
関西人疲れるから寄るな。金儲けしたいのは分かったから、お前らの本性は分かったから。

人類生態学

人類社会で逆選好の働く際に、次の雌雄選択が介在か浮動する傾きあり。一般に、中央政治界(集合した調整組織)があるほど環境収容力の高い適所では、何らそれなきいわゆる開放的再生産場よりも女性からの選好は男性の身体的魅力からかけはなれる。そしてこの傾きは特定の社会的有用さが周囲から認知される能力へと集まる場では更に変形され、何らかの特殊能力か特徴、特に文明度や文化の長い地域では精神性へ求まる。
 もし内的再生産率の必要とはその不安定な適所さ、即ち遺伝的浮動への好ましい選択誘因の高さだとすれば、人類が単なる種内協力の建前からだけでも精神性というとても変わった能力を淘ぐ理由はこれら、適所の変形以外にない。だから学術や学芸とよべるほどそれらの集積がみられる適所は、きわめて希。この種の適所でしか何れ人類からの進歩か進化誘因は起きてこない。
 これとは別に、男性からの選好は定常的に女性側の身体的魅力を基調とする傾向がどうやら普きか最低でも広いが、おそらくそれも一般の哺乳類と同等の選択への感度の弱さに訳があるだろう。ここでの本来の意味、又は慣習的意味での逆選好も適所についてはかなり強い変形を受ける様だが、その場合は女性からの選好よりも強まり辛いのが普通。一般の哺乳類と同じく男性の性徴は誇示へその更なる強調や世代間改良として求まり、従って女性にあっての性徴は、人類形態では幼児保養の必要とかなり限られた期間の身篭り機能の比較希少さに基づくその選択主体誘因の高さによりこの遺伝された又は獲得要素だが文化素間へ伝承された特徴が弱まるか抑えられて連なる。

現代経済学

資本経済の矛盾は福祉経済では完全に解消しきれない。後者はいわゆる生協主義(associationism)の部分集合も含み、国家経営論を無効化へ持ち越せないから。

国連への所得調整の義務づけ以前にはどの国家間の貿易も外交官の交渉の場でしかしかも最低限にしか規制されず、どんな国家撤廃論もその段階では無用と考えるしかない。つまり福祉国家そのものは必ず資本経済の確立された国よりも損が膨らむ。之は外資の税調が誘因面からも限られるから。
「多国籍企業立地関税」自体は、ゆえ資本経済体制を維持していくつもりの国家では必須。でないと、国民ではなく超大企業に全国土そのものが買収されてしまうかしまえることになる。より身近には風土が荒らされても何も言えない。多国籍企業の文化破壊に対しては自治体からの調整が要るからその税調は、資本経済体制下でこそ前提。

 処で、繁殖確率についての雇用の隙間が、(例えば近代化中途でのシンガポールでの様に)歪んだ人口構成を時に生むのをどう分析すべきか。
之は貧乏子沢山という諺の如く、文化段階より再生産速度を好む世帯が、資本経済下では制度の隙を使って入り込むのを防ぎ切れない事による。社民政策が介在すればこの傾向はより強まる。
 結局、もし代弁という形で真の上流たるべき教養世帯から見做すと、資本経済による大衆の増産は社会内での自然淘汰に任せるのが最も穏当だろう。
より簡明にいえば「不必要には手助けしない」事、福祉国家論全般が所得選好のつよい温帯以南の地域では頻発するだろう制度のただ乗りに隙を与える必然性あることから、社会民主主義(階級闘争論を除けば民主社会主義)の堕落に付き合わない事が経済道義面で有効。
こういう地域では全く手助けしなくとも貧乏子沢山の傾向は強まり続けてくるので何の問題もない。少子高齢化など何の不安課題でもない。
なぜなら高齢者が支配している搾取か吸い上げている賃金が還流されさえすれば、その社会は突如経済成長と呼ばれる総生産面での爆発的増産に進むのは明らかで、要するに自殺や姨捨が禁忌である社会条件では、高齢者はその社会の重しとして生産と消費の邪魔をしつけるが、我々はこの内部不経済と同時に資産家を中心とした主には青年層の猶予期間を延長させる。
この種の社会条件、重たい老人の多い国家は福祉経済を望まない方が賢い。なぜならここでの資産の偏りは、貧乏子沢山とは正反対の力線として猶予層か高等遊民を多く育み、文化段階を発展させる効果がとても高いのだから。これを『資産淘汰』と呼べる。
この効果が最も自然で、弱者の道徳とは一般な経済状態の体面としては必ずしも一致しないが(つまり公の宗教感覚に大部分よるが)、商誘因の高い場所では最良なのが温帯の基礎に省みれば明らか。但し、元々経済界よりも別の伸びを負い易い食糧安定下温帯外では場合によって全くこの原則は無効だ。

資産淘汰は温帯の基礎では最も手早く中産階級員の過不足を淘げる。もし資産がなくなれば彼らは殖えられず死滅か盗賊となり、ごく少ないか貧しい文化場で最大数の子孫を育てたがる。
だが社会がこれを自然の在り方(祖先からの功徳の不足とみなして)と考えれば、他の方法でこの飢えた大衆か貧民を優遇するよりはましな結果が出る。則ち優れて文化段階の高い少数の資産家から少ない数の子息が育ち、また彼らの重しで(但し、何らかの魅力で国内に留まる期間が殆どな時)中産集団の増減が自動調節されるのだ。

2010年4月1日

物理学

最も基本に立ち返れば、世界の混沌は空間相互の非対称化による。一引力場ともう一つとが入れ代わらねば常にそれらは時間的変化を持たない。この偏りを生む微視の場合の数だけが真実の時空の定義。はじめの一撃は時間の実質的停止を仮定すると偽。つまり微視の場合の数は現象場によって異なる。ある理想的真空からの揺らぎ、これを現象場とよぶと、時間の変化は現象場のつくりによる。
 現象場の条件は、引力場が属した地帯とその法則性にかなりよる。もし真空のみにみても、我々にはどこに微視の場合数が集積していくかを地帯の偶有にしか見通せない。物理の多くの既存条件は引力場での化学成分が、どの程度の偏りを系外との取引で持ち込んできたかによる。有機体が栄えてくるとこの傾向はより強まる。
 よって非対称則があればこそ、どの現象場も比べてしか定義されず、しかもそれらの定常さはかなり偶有的だろう。数式による等号の類比は、実際の現象場にみれば理想状態の喩え。ゆえ非対称則が全ての前置きにあり、定常さはこの理想状態の分析に関わらず等号の上にのみのこる。いいかえれば物理現象は一般的非対称則にとっては例外。こうおもえばなぜ数学が現実とかなりの対称さ伴えたか理解できる。
 我々は自らの主観が捉えた理想状態の比喩として、地球風の感覚原理による非対称則の例外をかき集めてきた。特有の数式の審美さとかいうものもこれで説明できる、それは偶有か希な確率の上なので。珍しさといいかえてもいい。

家無し

御老公を反古にす芸人よ大坂弁の頭の中身よ
東京の俗女どもお笑い芸事を眺めて雷同せる俗悪さ
金儲け威張る倭人は賎しけれ西洋人と陥る悪徳
わが目には見ゆる家無し叩く石一銭もらわず続く仕事ぞ

協調の把握

一般の冗長さの意義は、それがもつ程度こそあれ法則的でない認識への労力の振り向けにあるらしい。之は謂わば何が真に道徳かを別の言い方でもつくりかえる仕草に程度の良さが求まる。だから冗長さを達しないどの認識論でさえ、必ずしも次世代の参照に足る奥行きを覚えない。しかも言い換えの巧みなたちは、何れまとわずどこへ諦観外の振り返りがあるかを説き明かす。即ち最も定まり動かぬ世界認識の恒常さは、一般の冗長さがその公理系内の手段へもついくらもの把握法へ因みを有す。気遣いと言われる想像される世間内規則へのたえざるくみかえの感覚論は、冗長さから導かれる文化での把握法によるのが殆ど。そしてここへは必ずしも某諦観の奥行き、たとえば形而上か後自然コウシゼンの行かしさを伴わない。つまり独自につくりこまれう社交規則は、それが認識に限られた把握法という望ましい労力、具体的には何を以て気づかいの功徳と見做すのかを生活での不可逆の経過へと落し込む効果をもつ。
 経験論から営めるどの知識も、それが未知の事態での迅速な社交さのくみかえには凡そ運命選択での細部で叶わないことから、生き残り戦での欠かせぬ判断力規範には決してなりえない。もっといえば如何に自然法則へ叶おうと、道徳原則は常にそれを更新してしまう。神のおもいは何を以てさえこの種の把握法が即時か定格で発揮されう基盤を、我々の複数集団以上での協同義理へと託していく。故に、もし地球型感覚基盤をもたないどの生態にあれ、状況把握についての不規則さへの広がりか臨みは、有徳さが神意にとっての唯一の規範でありこの保存こそ、突然変異から望ましい生態への改めを普通の群れにも与えゆく。道理という言葉は決まって至りえない一つの規範を自ずと生み出す性質、つまりこの種の把握法が、直截には労いへの事細かな認識を趣味論の観察と洞察能へと担わせるに足る、と教う。天命思想の本来の意義は、同じくこういう原理的洞察が群れの統率という絶対不可逆の啓蒙に才を見出ださせるのを合理化や正当化できる処。でないとどんな個性も指導者を何らかの誤解で選んでいく結果、状況への適宜さは趣味の優れた群れにあってよりも遅れるか過ちを重ね、主にかなりの世代数の後には雲泥の差を遺伝された形質及び生態法則の変形についてあまねく覚えるしかない。

本州

倭人は学歴差別しながら繁殖と奴隷しかできないので機械に代えた方が速い。

関西人の理性や利他性、善意は驚くほど低い。

天皇は人殺しと税金搾取しか能がない。

東京人は笑えるほど女々しく、阿婆擦れに目がない。

東北人は全然賢くない。

西海人は行動しかできず、自己中心的で間違った行動を驕る。

リセット

もう無いから二度と復活しない思い出なだけだが、昔、僕の町にはジャスコがあった。それは僕が小学校高学年に上がる頃にできた、かなりでかいいくつもの商店が入った、二階建てのものだった。不思議におもうかもしれないが、僕はどうにもそれがもうなくなってしまったのを、いまだに十分理解できない。あの水色のジャスコは、僕がしばらく東京へ出てきて、家をあけている間に消えた。友達とぼくは、その中にあるゲーセンでカプコンvsSNKとか、メダルの競馬をやったりし小銭でお好み焼きやクリームの今川焼きを買い屋上で花火に遊び、自転車で二階駐車場を走った。不思議なことに、資本主義経済の魔法はそこで買ったフリースや、布団売り場の匂いやテスト機のバーチャルボーイの感動と共にそれら皆を東京に出ている間にリセットしてしまった。

壬生浪士隊

僕は軍人を見た。そして軍人はやはり軍人だった。その人は死ぬ為に生きていた。僕は軍人の頭がわるいのを見抜いた。だれもそれを知らないが、軍人は自分自身が無用の長物だと悟って、戦争になったら名誉とひきかえに死ぬつもりだ。だから普段から、軍人は誰からも好かれない。軍人を好む女は変人だし、もし好むとしても末路は百パーセント悲惨だ。なぜなら必ず死ぬのだ。僕はある時、東京でその軍人を見たのだ。
 それとは関係ないが、二子玉川駅に入って行く多分田園都市線だろうか? その電車から見た多摩方面の光は、また何度か散歩したこともある、その公園の一帯はのりあわせた野球少年らのせいかもしれないが軍人のありかたにそっくりだった。僕は新撰組がこの向こうから出てきて遠い京都へ進軍したのだ、とおもった。その浪士隊は、なんの留保もなくただ忠義な侍を演じるべく、向こう側へ歩んで行った。僕は代々木公園の隅にある小さな墓を見た。それは敗戦の時に進んで殉死した侍の墓だった。同じ頃、2008年ころだろうか? 僕は東京にいた。