経済平衡のみでは危うい環境の恒常さ、なる考え方が真か増してや善である保証や根拠は明らかでない。簡単にいえばそれ丈で全然安泰かもしれず将来予測へ悲観論をなげかけたがるのは環境学商売の類かも。つまり経済平衡の限界効用が外部経済の面に及び難いとする論拠は、ただの利権争いな可能性もある。何を実証から引いても彼らは環境崩壊を致命的と述べつつ本質でどうでもいい商材を売り込んでもきそう。柄谷行人氏等が言う環境問題の政治思想化は、以上から流行の域を出ないかも。恰も自任知識人らのお遊戯みたく、環境という概念がもてなされるのは笑えるばかりか、不合理。抑この種の利権思想はみな資本主義の精神から功利節として生まれるのを隠蔽する詭弁術らしさがあまねし。
それでも手放しの公害を放置するよりは囲い込みで人為な制裁を、その破壊主体へ与えるのは正義の旨にのせられ易いかも。結局これらが言うのは、環境の恒常さを普遍な権り也と声高に主張できる者の過半は、先進文明っぽさの国連間優位を延ばせるだけ延ばしたい意図からなのだ。来る大量絶滅も決して不条理でない。そして人類が天敵なき時節に相互競争内で異種殲滅も含む、高い國柄を維持していくことは、譲歩された利権商業での安住よりは余程高貴らしく見える。こういう商共生体とやらは和辻哲郎の云う仲良しこよしの世界史舞台論みたいな観点の引き写しなのだが、我々は一文明が他より内部の秩序度とその粘りに勝るのを否定しきれる訳でもない事を十分反省してみる必要もありそうだ。要は資本主義の精神はくらしに絶えざる進歩を与える点で今や唯の利権商売の理でもないから、商共生しか目指すともいえない。商覇権が他の文化を亡ぼすとしても、先ずそういう時代は訪れ難いとしてもなんら利権なき世界よりは尊い。結論は経済平衡の域値にしか今日での環境問題への解読方法はない。この領域は通常、国家のそれと等しい。国家権力が不当と公認された時代にない間は、人類が社会間を営ませる第一の原動力は国家の定まりをより手堅くする自家の築き上げに違いない。この点で、世界市民思想よりは国家経営思想が信ずるに足る共有認識と覚われる。前は空想で、既に実現している協調体よりは後手に回りがちなので身近な将来に消え去るかもしれない。国家間の当然の順位制はそうでない社交より望ましい秩序の基たり得る。でなくば、世界政府による業の連鎖をこえた征服の如きが全国家を暗雲で覆うだろうし、また地球外部の権威との折衝にも倫理観の各地点で多大なる支障を伴い、何れ優れた協業へは遠回りとなり必ず他の地域との競争的排他で滅ぶ。