2008年5月31日

力学

考えれば考える程、キミには分かるまい。
雑魚の群れ。死ねよと思う。だが、キミも混ざれと。
キミも身応ては奴らに呑み込まれて死ぬだけだ。俗物の地表。だが産まれた。
キミは怨んだ。事実、この世に居る意味はない。誰の責任だろうか? 単に必要ないよ、と。
結局は台無しに過ぎないのだ。死ぬ迄は待て。どうせキミは見るだろう。
所有俗物が死ぬのを。浄化された奥行のない。見る。
さあて、気付ける哉? 誰が本物だったか。遂には雑魚しか居なくなる。消えてしまえ。
言葉、失われ。
次に戻る。
言葉。もうない。
次に戻る。次に戻る。
沢山の矛盾を詰め込まれた機械を量産する工場に産まれた地獄を歌えよ。死ぬ迄は、死ぬ迄は。もうないよ。
総ては束の間のお遊び。キミには理由があったか? 馬鹿の群れに混ぜ合わせられて死ぬ迄付き合う気分は?

国民経済の改良

政治や経済は対象ではなく、ただ人間社会の活動形態への形容であって、我々は仲間が協力する間柄を政治的とか経済的とか喩えられるだけ。企業は生産的、家計は消費的、政府は調整的という区別はあってもどれも、人間社会の有り様。安定した希少価値を有すると公認された金を仲立ちとして、我々は地球生態系を人間活動の貿易体系へと部門工程化して行く。商取引とは貿易差額を功利的に均衡させて行く為に民間の工夫を解放することを合法と見なす範囲について、配分的な正義を主張もしうるもの。だが必ずしも商人が正義なのではない。彼れはこの工夫の技術的独占によって、その信用機密が解読共有されてしまう時間の中でのみ儲けの自由を効率の原理とするから。彼はこの創意を見つけだす才覚においての富を当然の献納として主張できる。彼は社会にとっては妥当な対価をありうべき負債感情の軽減として頂戴する調度よさに関して善良で、有り難くもあり、保護に値するから。
 逆にもしこの工夫が非常に単純で誰もに容易に真似されうる様なものであれば、寧ろこの企業主はできるだけ素早く市場から駆逐されねばならず、さもなければ価格は需給バランスの塞き止めによって不当に高騰したままで一向に世の中は便利にならないだろう。この事業者は従って配分そのもののためにすら不正義であって社会にとって害悪。我々はだから商標というものを本来、模倣不可能性についてしか認められないし認めるべきでもない。もし並べてのものに商標権を主張できる者がいればそれはいわゆる神だけだ。工夫した労力はその工夫の独創性について、すなわち技能の高度さについてしか報われるべきではない。
 結局のところ自由主義経済の目的とするのは民衆の経済技能の促進。この導きが少なくとも幾分の犠牲としての劣る商才使用者の圧倒を余儀なくしながら国民全体としては合法的とされる根拠も、経済観念を道徳的な商業戦争によって広く啓発するため。
 政府は、だから、市場の自由放任の際にその公正な劇場を守る適度な徴税のほかには、国民への道徳啓発に努めて然るべきである。ということは、企業は所詮、利益社会としてこそ消費者の民度に依存しているのだから、この国民性がもし教養という面で低いものならば永久に経済技能を身に着けないだろう。したがって我々の経済体系を少なくとも全体として便利で、しかも美しさに反しない建築体制とするのは究極、個々の家計主体における経済観念の道徳強度だけ。政府が単なる国立教育機関を各地にあまねく充分、誰しもに満足できる程度に無償で提供し、各人が自律してその進学を任意に選択できる様にしておかねばならない理由も、政府広報だけが世論の誘導という誤った啓蒙になり兼ねない大衆民主主義の上にある。その他に私立の教養教育が各人の家計に応じて選択できるなら尚更結構なことであるが、この前提には国立教育機関の充当という最低限度の文化的な生活民度の平等な提供状況が当然なくてはならない。国立教育における競争試験という寡頭制限はその必要な学習塾の跳梁においては半ば私立化に等しく、大衆民主主義の形骸化した堕落状況と批判されねばならない。つまり国民はただ自らの国家の努力天才者による再生に希望を託して、あらゆる家計主体が国立教育機関の志願者全入を当然求むべき経済的帰結としてかの施設環境の程度水準について満足ゆく増強のためには税金を惜しむべきではなく、又このためにはある程度の累進課税ということも国民にとって進んで奉るべき財政循環の原則である。

経済文明の定義

定言命法とは奉仕関係の謂われであれば、礼儀作法の絶えず新たな中庸の習いとして経済美を演技させる自由が乃ち、人格の究極目的。
 だから行儀ということが道徳的な奉仕関係にとっては頂極の経済性として、温故知新の目当てになる。又これは躾と呼ばれる。そして最美の為付けが集積されてはやがて目的の王国をおのずと造り上げる。文明とは従って経世済民の演劇体系であるだろう。

努力と才能の等価性について

天才とは生得的独創性すなわち各個性に与えられた学習質量の違い。しかも生涯学習者の領域を出ない秀才とは、その個性について程度の違いしかない。どんな学問であれ消滅せず記録される限り、言葉という記号を扱う文学の才能。Aが百日で到達した理解にBは千日かけるかもしれないが、少なくともかれらの違いは生得性と後天性との相互作用に関する能率。そしてこの種の能率についてのみ、我々は才能という観念を各個性の間に比較できる。
 芸術がすべて非学習的だという訳ではない。ただ合目的性についての学習能率があるだけ。よって、芸術の才能についても先例に対する関係という学習能率にのみ努力の、即ち創意工夫による適応能力の定義は当てはまる。

主知主義の理解

どの様な科学法則も究極として、建築部品の工学的基礎づけに使えるだけ。だから人間が自然の一部分であるかぎり、我々は真理を単に生活をより暮らし安くする道具と思う。

物理学

万有引力の法則から、
F=RmM/r2
また質量とエネルギーの等価性から
E=mc2
ここで、エネルギーとは力の言い換えなのでF=Eとすると、
RmM/r=mc
よって、
RmM=mc2r
RM=c2r
RM=(cr)2
Rは引力定数として一定なので消去すると
M=(cr)2
の式が導ける。Mは質量でrは物体間の距離、cは真空中の光速である。これを空間量の公式と呼ぶなら、我々はあらゆる物体の性質を仮に無視した、力の、従ってエネルギーの量をただ空間的距離によって論じられることになる。
 真空中の光速が不変なのでcを係数と考えると、距離の二乗に比例してあらゆる質量を定義できる。則ち、力というものは最小物質としての単子を越えて、ただ空間量として物理的に理解できる。ゆえに万有引力とはエネルギーの言い換えであって、同じく質量として理解される空間量の粗密度なのである。我々が化学的諸元素に性質の違いを見つけるのも、およそ空間量の粗密度に原因を求められるだろう。

2008年5月30日

人類の価値

進化の階梯の遥かさを省みれば、単に生きているというだけでも少なくとも猿類に比較した功績だとも考えられる。人類の後から来る生き物は我々をその様なものとして保護するだろう。人類の絶対数はその増殖率からしても極めて少ない、或いは各人種についてであれ。天敵が現れない限り、環境抵抗によって人類は我々から進化した次の生物に場を譲るので。

2008年5月28日

学殖の方法

学問が後天習性である限り、狼少女の例がある様に、学殖は単に環境の教育度によって羽含まれると言える。だから非教育的な環境からはどの様にしても学者が育つことはない。たとえば一冊も本がない場所からは先ず独力で微積分の定理を導くことはないと言ってよい。逆に日常に学者が街中で討論している場所では門前の小僧にも第二宇宙速度が計算できる。学校や図書館、博物館など学問に関連付けられる施設が少なくとも繁華街を避けて設けられるべき理由もここにある。もし学術研究都市の様な教育施設の隔離が存在し得なかったら、我々は俗間一般の低きに留まる学識をあらゆる世代に渡りあまねく引きずるしかなくなってしまうだろう。デューイが教育環境を社会に向けて開く説を唱えた背景には科学技術への場当たり的な期待があった。主知主義の伝統を汲む人々にとってはその様な批判がuniversityの高過ぎる敷居を下げるからだ。
 然るに理論とは無用の用であるがゆえに求道も為しうるのであり、学識の応用は元来は飽くまでも工場で行われるべきである。学問の秀才が工芸の天才とは異質であるなら、いずれ混同することあたわない。だから一般的な理論の低さが禍である国においては寧ろ、学問の権威を教育環境の隔離によって高める方が当面の課題である。

生物学

運命選択された個体の形質は少なくともその天性に於いて進化する。それゆえ生得的にのみ、種は分岐する。自然淘汰は突然変異が機会的浮動と相関しながら働くことによってのみ観察可能なのであり、少なくとも環境変異の事象がなければ如何なる淘汰もない。というのは、小さな突然変異が適応的となるのは俄然、環境変異に多大な有利さが現れた時だけであるから。たとえば虫かごで飼育された昆虫の様なつねにほぼ同じ環境に置かれていれば、たとえ突然変異に恵まれた個体に於いても、決して性選択には有利さが働かないのである。それは環境適応にとっては有利でも不利でもない変異だからだ。この場合には自然淘汰という現象は進化と呼ぶにはあまりに緩慢となるだろう。少なくとも環境変異が働かない場所、つまり僻地では極めて突然変異の遺伝子が形質として保存されにくい。だからダーウィンが多数との競争の機会とか、個体数の少なさから有利な形質の現れる機会も少ないものとして、わりとゆるやかに考えていた隔離的な環境の進化の極端な遅さは、むしろ僻地の変わりなさという理由に帰着し得る。その環境では絶対個体数が少ないとか或いは生存競争の機会とかいう外部要因よりも、単に環境変異による獲得形質への風当たりがいつまでも少なかったという内部要因が原形質維持の起源となる。だから僻地に取り残された生きた化石の様な生物は、かれらが安定した生息場所という限りない進化の階段の終着点を、ともかく見つけられた結果である。
 適所は種に対する有利さから与えられると言える。獲得形質のばらつきは環境から与えられるし、その既存の種から離れて必要とされる変異の度合いが少なければ少ないほど、突然変異が出現した際に特徴的な生得形質が有利さとして性選択される可能性も低く、従ってこの新種とされるに足るはずだった遺伝が種全体の習性に置き換わるということもまれだ。
 運命選択という考え方は我々が生物界に於いての適者生存を、単なる獲得形質を闘わせる生存競争の面から認める偏見を戒めるかもしれない。この考えは環境変異としての獲得形質の形相はまったく土地の自然に依存していること、そしてその地の生存にとって有利な突然変異が貴重な天性として性選択され易い仕組みが直接の生存競争とは無関係であることを示しているからだ。捕食や被食についてであれ、或いは最大多数の子孫を残す為に行われる種内競争であれ、生物一般は単なる競争のための競争を行わない。それはかれらにとって生態的地位を保つためには無駄な行いでもあり、不経済だからである。本能に劣る種は少なくとも生存の確率を低くしただろう。従ってかれらの競争は回避できない生存目的のために、すなわち本能として保存された細胞気質の生態反応のため否応なく行われているものだ。またしばしば大規模なものとしても看守できる生物種の移動とはその競争から逃れるために、環境抵抗が各々の種で一定値以上の条件になった時に起こり、この現象がむしろ生物を生態異常として表れる同種間競争やその究極の末路たる共食いから救い、僻地に逃れる種を除けば既存の同種の群密度が低いがゆえより生存に有利な土地への適応放散に導き、却って各地に応じて更なる種分岐を生じさせる原因である。

学術の範畴

教育・宗教・競技また報道・文化・芸能はそれぞれ、科学・哲学・芸術が時の流れで段々と崩された形。科学はやがて教育にもされ、教育はやがて報道につながる。それらのあいだには真・行・草の編み目がある。これが横のあみめ。真善美の体系である科学・哲学・芸術についても同様にすると、縦の糸がつむげる。ゆえ学術は次の様に織り上げられる。
科学 教育 報道
哲学 宗教 文化
芸術 競技 芸能
これらは縦の糸が真善美という空間の、横の糸が真行草という時間の編み目に選る。

書道の文彩

かの文が科学的か、哲学的か、或いは文学的かというのは感覚の違いに過ぎない。書道に、真・行・草はそれぞれの習い事ゆえ。

2008年5月27日

魂のありかとしての自然

自然は目的。文明は寧ろこの勢いを養いうるに過ぎないのに、よく勘違いする。我々は自然が示す以上に賢明な摂理を知り得ないし、理論は単に知性への慰めの意味で合法則的なのである。諺のとおり自然はつねに法則の例外を示すことで、我々の知性の成長を励ますだろう。だから科学という遊びはいわば自然との一人相撲なのに等しい。ともあれここで編み出された戦術が、人類としては高度な世渡りの知恵なのも確か。
 汎神論は一神教の角度。因果律に特異点を認めるか認めないかの違いは、精神を魂と見ずに不可分な個と見なすところの思い上がりに近しい。故にデカルトへ聞くが宜しく、彼には松果腺が精神作用の一部分であることが理解できなかった。全能性は生体の共通して目指すところ。

台詞

人生というものは夢見るのと同じだ。そこから醒めたら、人はもうこの世に居ない。夢を共有するために生きて行く。けど、どんな物語もいつか終わりが来る。起きたら別の命が待っている。宇宙がある限り。演じるために生きている、どれもこれも。花の様に、誰でも咲き誇れば散るだけだ。

アナウンサー

今日とあるアナウンサーが自殺を図った。数日前の満月の夜のblogに、徒然草の百三十七段を引いてあった。
「花は盛りに、つきはくまなきをのみ見るものかはとかいへるは、いかにぞや。」

学問の応用

科学と哲学、すなわち学問は文書芸術の道具。それらは文章に対して手本と呼ばれる。文書芸術が文学として特に、学識の工芸を示す名を与えられる根拠も、又ここにある。学問の流れを汲むから。

2008年5月26日

有形の論理

実験装置は推論に制限を与える為にも科学研究の不可欠な手段だ。仮説は観測結果と照らし合わせなければ知識と迄されない。真理は実証的である。
 単に有形学・physicsにおいて推論すなわち数学を自己目的化してはならない。それはありうる観測結果を予測するためにのみ有効である。

エアコンの改良

熱交換機の体表面積を整理し、[或いは可能なら酸化チタンと紫外線ランプによる光触媒作用を持たせて]「結露升」状とせよ。
[またフィルターはHEPAなどにより単なる空気清浄器様に交換し易く、別途としておくべきである。]

この「結露升」の採用により、Air Conditioningに湿度調整機能を付加できる。
すなわち除湿に当って結露升に溜った水分を室外排出し、加湿に当っては[あるいは毛細管現象その他を利用して]溜めた水道水を蒸発させれば良い。
 熱交換機の規模に対して結露升の範囲を程よく調整する骨がこの技術のかなめである。なぜなら冷暖房と除加湿を同一機構で兼ねるにはそれらのあいだに矛盾せず、調和する程よい『中庸の大きさ』を作ることがわざとなる。[インバーターによる触媒熱さの微調整は尚更必須である。]
結露升が過大なら除湿と同時に温度を冷やしてしまうであろうし、過小なら温度を暖めることができない。なお、結露升を別個に作る[つまり相乗りする]のは機械そのものをコンパクトに納める為にも不適切である。

2008年5月25日

数学の立場

数学とは論理記述の抽象的省略であり、幾何学は図式に関するそれである。これらは科学の全体系から自立したものではなく、論理記述を言語から切り離す限りにおける経験則的学識なのである。だから数学を規範とする合理論は根本として実証主義に至る経験論と矛盾していない。それらの対立は、論理法則を数学特有の確実さに見える定理から分節して誤解することから起きた。如何なる定理も論理法則の集積による記号上での省略された記述に過ぎないし、根本として如何なる自然科学・社会科学でも苟も知識と名がつく限りは、内容が朗読され様がされまいが変わらぬ。つまり記号概念の組み合わせに関する秩序度が真理なのだ。
 数理論理学は数学におけるこの種のデカルト流の誤解を解析しなおすのに充分であるだろう。演繹的な必然さはみな、論理の枠内にのみにおいて議論できる様な経験的法則の概念帰納なのである。その根本に確実さがない事象は、ゲーデルを引く手間を必要とする証明命題でしかないだろう。我々人類として科学知識は特徴的な道具になりうるが、如何なる正義とも、ましてや究極の正解とすら関わりがない。それらはひとえに実証主義者の信じる論理的な仮説の集合である。その内部の理論の実践応用に際した精確さについては哲学的に絶えず批判吟味を待つだけである。例えば今日の天気予報の様に。
 科学法則は絶対真理をもたらし得ず、代わりに知性が及ぶ限りの論理的な道具を比較的正確な概念として抽象できるに過ぎない。
数学は抽象概念についての模式を与える道具箱を意味している。楕円の幾何学的な概念がなければ惑星軌道をより正確に認知できなかった様に。従って代数学(論理の典型)と幾何学(図式の典型)とは数学の双対基幹であるだろう。科学的な環境研究にあたって論理記述に定型を与える為には、数学は誰しもにまなばれるべき学問なのだ。

善悪の道理

悪とは誤解の総称。我々はあらゆる暴力を否定し、徹底的討議を重ねることで唯一、善に近づいて行ける。従って絶対的善は存在し得ない。それは妥当の解釈に依存する。にも関わらず、善悪を見分けうる我々の理性にはこの為に基準となる当然さを最高度に理想化しなければならない使命がある。哲学者の言うところの最高善は価値多元論を引く迄もなく決定不可能な議題である。この基準は時代の知識水準ならびに個々人の良識に完全に依存しているからだった。
 形而上学が可能なのは、哲学的実践を通じてつねに、理想的な善を更新し続ける営為だけ。この良識が共有される範囲に於いて、道徳水準は以前に比べて向上も為うる。

道徳教育について

哲学教育ということは原理として不可能であり、できるのは教師の道徳レベルを生徒に批判対象として示すことだけである。つまり、かれの総合知識から結論できる義務を当たり前の行動規範として時に及び説明し、或いはその社会的実践としてかれが習慣づけてきた倫理的中庸の程合いを実例として示すこと。これらは先生の姿として生徒の記憶に焼き付けられ、正反両面から後生の批判対象となる。そして責めてもあらゆる教師がみずから目的とする人間を以て理想的神格に代えねばならない限り、この教師の哲学は屡々、生徒より劣る場合も出てくるだろう。この場合、寧ろ生徒から啓発されるのはつねに教師の側なはずである。教師に圧制を認めるのは如何なる意味に於いても害悪である、ということが哲学教育の不可能さの定義と言って良い。なぜならこれらは道徳的退歩を暗黙に権能へと認めることだからだ。
 従って最良の道徳教育は、自らを含むどの人格に対しても忌憚なく批評の慣習をつけさせることだ。我々に於いてはこの為に、機会を捉えた反省作文をあまねく授業に取り入れるだけで良い。議論は詭弁術にも陥る隙をも与えるので、この公開された作文法廷の学級会的批判検討という形で、必ずや委員の民主的な議会に任せ過程を全面的に透明にしながら、この全体組織が行政からの圧制を防止するのだが、脱構築的にのみ図るべきだろう。こうして行った立法と司法の分離におけるありうべからざる判定的過ちですら、この裁判が少なくともある期間を置いて繰り返しされる類のものでない限り必ず判定には多少あれ過ちが入り込むが、道徳的心意の作文という証拠さえ記録されていれば、例えばジーザスやソクラテスが後世からそう仰がれた如く、道徳的退廃にある大衆をのちに偉大な良識の実例により救いえる。
 哲学とは内省するものであって、教えることはできない。寧ろ後生から教えられることの方が余程多いに違いない。長幼の序は義務心の養成を目的とした道徳哲学に於いては、原理的に成立しないのである。
 往々にして、世間擦れした大人には社交術における折中の必要から倫理的堕落が知らずしらずのうち忍び込むものであって、年少者のまじりけない純粋な道徳的心情から倣うべき姿勢がつねにあると断定できる。社会文化は後世の為に築かれるのであり、現世はつねづね仮設の課程に過ぎない。ある時代の規律となる道徳律はこの風紀の最高の規範であり、なおも根本として知識を増強した後進の活眼には場を譲るものである。

学問の脱構築射程

凡そ文に属した一切は文学であると考えて良い。文学とは文を学ぶという表示を通じて、何らかの思想を伝達するものだ。科学の一切も、その理論知性の働きを重視する傾向はあれ、文を記す限りは文学的。哲学は尚更。
 では文とは何か。それは何らかの図式の抽象であり、平面に与えられた多少なりとも定型的な飾り。文字と記号とはこのための最小単位を為す。そして文とはそれらの直列させた一切を云うもの。我々は一切の読み方を基底できない。なぜならそれらの差延はあらゆる文化の源。従って我々が図式を抽象するところのあらゆる直列型様式、すなわち文の様式において伝えるべき情報はみな、究極において文学的。この文化のただならぬ建設が終わったとき、我々は記号を含む文字様式に関する普遍秩序を確立するだろう。思想は文明度に応じて純化されているだろう。

自由教育論

Pragmatistは西洋文明での技術蔑視を反省し、少なくとも教育上ではその修正を施した。主としてデューイの仕事だった。かれらのliberal artsに於いては、古代ギリシア奴隷制の軛を脱出なしえている。つまり教養と技術の分離は、表面的には行われなくなった。これがアメリカのuniversityを今日の世界では最も生き生きと自由に学問させる原因である。
 然るに日本の大学では事情は逆であって、かれらには知識応用への潜在的な抵抗はないが、寧ろギリシアの愛知者が生み出したところの自己目的な探究心を欠かしている。これが科挙型試験の弊害なのは明らか。科挙制度は猟官を脱し成績を基準として中央集権を強化するには役立てられたかもしれないが、却って本格的な学問の探究をないがしろにし、旧弊を汲むところの膨大な暗記勉強だけで生き字引として以外の能力を民間に費やす結果となった。今日の中国でまったく学問が興隆しないならそれは当然である。もし“On Liberty”でミルが云う様に才能分散と情報集中が官僚主義に対する最良の国策ならば、科挙はこれをspoilするためにしか役に立ちはしないだろう。
 即ち自由主義的教育に於いては第一に適性検査が行われるべきである。一元化した能力は国力を減退させはすれ、官僚支配の再拡大という都合のいい結束のほかに行き着く場所がない。多様性はあらゆる進歩の起源であり、その根底には個性の尊重がなければならない。彼らに蹴り落とし合う不毛な競争より寧ろ互いにpositiveに協力し合う習慣づけを与えるものも、これらの人間関係における個性の大きな相違の自覚である。
 第二に、進路の複線化が教育課程に必需でなければならない。国家の生産型機械として以外に何らの生命力を発揮できない如き、窒息した個人を量産することは、最終的にはみずから国家の自滅を誘うであろう。なぜなら彼らは適性に即した学問の猶予を充分には与えられず、放蕩に流れ流され費やした青春期が打ち切られてしまったら嫌々ながらも、単なる生活賃金のために働く様な不良民衆だからである。この種の骨抜きにされた奴隷同然の愚民に反して自由主義教育が目指す個人は先ずみずからの意志で思考し、自ら立てた計画を実現し、自律の中で最大限の恩恵と猶予を与えてくれた郷土のために持ちうる全力を尽くして自発的に奉仕する様な優等な良民である。この様な行動に千差万別の才能を導きながらも、その進歩精神により国力を増大させる様な人物が多ければ多いほど、いわば生まれもった適性通りの進路を制度から阻害されなかった個性が多彩なほど、我々の教育はますます啓発というその英才養生性を発揮すだろう。科挙の旧套を脱し得た割合に応じて、我々の教育制度からは自発的探究心の旺盛な、好奇と希望に満ちた英才が育まれえるだろう。

2008年5月24日

学の濫用について

「学」理念の濫用は却って科学の権威を不当に失墜させるだけ。学の名にあたいするのは、信頼の置ける基礎科学に限定し、他の確立されざる知識体系は単に通と呼ぶべき。則ち基礎科学とは数学・天文学・物理学・化け学・生物学および社会学だけ。他はたとえば心理に関する知識体系でも、単なる心理通と呼ぶ方が社会一般の科学知識に対する信頼を保てる。

経済系の内外

我々は万有世界に宇宙しか認知しないし今後ともしない。だからその解釈を分析と総合の両面から併せ観るに過ぐ已。観測技術が発達すれば地球外に別途の文明系が豊富に存在すると発見できる。この反証になる前提にはパスカルの賭けしかなかったし今後ともない。当為に向かう亀はどこかの地点で兔を追い抜く、と前提してよい。
 つまり我々は文明系が単一でない自覚から、何れ経済的秩序を地球外部へと開放しなければなるまい。この準備行動としての生態系整理は少なからず脱功利主義を要求する。福祉政策の重要さは少なくとも彼ら人類が成長力としての高い学術性を保つ際に及ぶ。なぜなら技術革新は真理を応用なしえた工学の上でのみ、文化の花を咲かせるのだから。単に利潤の自己目的化はprotestantismやpragmatism未然に、使用者が技術を道具視する衰頽を斉さずに置かない。いいかえれば技術革新の目的観が共有された会社環境にとっての産業革命。もし運よく地球型文明系がもつなら、我々の生活圏はその技術革新性について対惑星外との経済格差に全命題を依拠するだろう。凡そ崇高さに対して畏れの他に懐きうる心情はなく、従って我々に知り得ない文明生態圏は我々自身と全く同じ様に経済交易に際してしか接触する労力を待つまい。なぜなら審美的な好奇心は則ち彼らと我々の経済成長が為には必然。感性を全く異ならせる天才がなければ我々の類型を破格する個性が導き出される潜在力もない。

2008年5月23日

工学芸術論

温暖化というのは所詮、人間にとっての生活次元の課題でしかなく、彼らが適度に縮小された暁には熱収支は生態系均衡に巻き戻る筈。エネルギーはたち消えることがないのだから。
 変化しているのはエントロピーだけ。事物が複雑になっているだけで、大気圏内外の各層は最大限に複雑な組織化の原理に則り変化し続ける。我々の大多数が慌てているのは単に我々の旧態生活態度としての近代化に不安な雲行きが現れ出していることについてで、人間の科学技術が自然界の熱バランスを我々の生活環境の悪化に繋がるまで歪ませないかどうかの不安。
 人間に賢明な種族が紛れていたなら、彼らは先ずは近代化を芸術面で修正するだろう。彼らは科学技術の目的を環境の人工化そのものではなくて、自然現象との調和というつつましやかな審美性へと調整するだろう。それは無際限な人工を戒め、自然鑑賞に発達した審美眼を保つ仲間によって、科学技術を芸術の枠内に納める工夫に文明の典型を与える。そして彼らの芸術環境は又、少なくとも人間を自然に含まれた一部として再び自覚させ、反省の規制を与えるにも充分だろう。

社会学

動物の発熱反応を抑え込む働きに転化しているのが植物の光合成を汲む吸熱反応であると認識する個性なら、我々が拡大された発熱系としての機械の改良を施すのが如何に温暖化に逆らうかを自覚してもいるかもしれない。だから植生の技術つまり藝術の方が却って科学技術に優る根本的な調和のわざなのである。環境抵抗が甚だしい地域では、動物に対する苦しめは益々自然の成り行きとなろう。彼らの産業がこの原因であるからには、藝術の更生は寧ろ産業の進展としての基本課題とすらいいえる。
 我々は動物に対して植物を圧倒する工夫を都市生活圏の美化として計る結果には、温暖化の傾向を寧ろ寒冷化に近づける勢いにすら到達できる可能性はあるのだ。

学部教育論

福澤の実学論から尾を引く、日本における大学の学部教育での就職予備校化は、全く経済的にさえ大きな負債者らの滞流地点であって、この膨大な逸楽児を淘汰できさえすれば日本の経済成長も又疑う余地がない。かれらの軛は経済崇拝に伴う産学癒着である。この範囲からは一向として、学部教育の質的向上という命題は自覚されずじまいだろう。彼等は単に入学試験つまり受験競技におけるこざかしさ丈が平均的な従順さの指針になる事を暗黙ながらに信念しつつ大勢の退廃に寄り添うから。彼等の結論は、学問無用であり受験勉強だけが人生の必要だ、という事。哲学の精神を鼓舞できない学部教育はuniversity則ち多様の統一の名を冠するに値せぬ混乱の社であり、その結果およぶあらゆる残酷な社会的退廃もみな、大学への心底からの侮蔑に行き着く他ない。若し彼らのうち生まれつきたるままの良心を保ちえた個性が生き延びることができたなら、先ず実学の予備校という誤った大学組織を破壊するだろう。次に、彼らが本来求むるところの、理想を抱いて進んで行ったはず元々あるべき進学先としてのuniversityをイデアの故郷へと想起するだろう。就職予備校としては特定な職業専門学校という場所が設らえられ絶えず産業界の実情に応え、予想しうる最新鋭の技術をてなづける修業の場として強化されるのは必然の流れ。そして学者の為の環境と職業の為の環境は分離されるべきである。学部教育はuniversityの範囲に留まる限り、ありのままの好奇心に基づく理知の自己目的な探究の幸せを啓発する場所として浄化されねばならない。学問は虚学である。福澤の実学論は明治の特殊命題として科学技術を高く評価し過ぎている。如何なる工学も基礎科学としての純粋理論の程度に依存するから。結局、学識そのものを自ら好き好み求む階級が多ければ多いほど、その社会の平均的な知性は高くなるだろう。

人類の理由

宇宙の無限さに確信を持ちうる天文学者にとっては、あらゆる可能性を含む異星の生物に対する環境適応として人類の全体に最大限の多様性を確保促進することこそ生態的な秩序づけには肝要だと考えるのも当たり前。
 人類が希少生物の保護を訴えるのも合理的には生存には常に、絶滅への反対応として最大限の多様さを欲するentropyが内在せざるを得ないのが判るという訳。経済的共生はこれまで人類が到達なしえた唯一の合法和平の手段である。それが強弱を、すなわち格差を各々の体制秩序にもたらすとしても、それぞれの国は少なくとも互いに何らかの交易を以て生き残ることができるだろう。経済への普遍的崇拝は配分過剰により生得格差に対する不満や抑圧を高じさせ、やがては貧困層による体制破壊が否応なく興る。しかしこれすら経済的秩序の脱構築には合理的な過程。この抵抗勢力が完全に制圧された社会は確実に整備された生態系に限りなく漸近する。永久平和は単なる当為として、我々にと圧制への根本的反抗を正当化する。だから我々は多かれ少なかれ経済の必然な流れに対して適度な信頼を置いても良い。世を経て民を済う運動は少なからず、最悪の結果としての全人類の破滅だけは回避できるだろう。なぜなら古今のあらゆる生き物が彼らの経済性に従って運命選択された結果として現に目の前に広がる地球世界に於いて人類は息を吐けた。そして地球の自然に恵まれていたことは彼らが為には生態的identity。その母なる自然にとっての裏切りということは基本的にあり得ない。
 人類が理由をはぐくみ得たという事そのものが生態系にはplusであるだろう。それは彼らの経済力が、つまり秩序づけの才能が以前のどの生命体よりも複雑な精神に抽出された証拠。

和の害毒

ある社会において均質化への抑圧が潜在する限りその社会は比較的に弱体化していくのは自然。この様な社会は滅亡まで秒読みと言いえる。そしてより優れて文明化されたliberalな民族に侵略され、成るだけ早く滅亡すべきでさえあるだろう。民主主義国家が最も都合よく支配者に独裁しえる原因も、民衆の混沌さに飽くまで均質化を敷く政策自体に含まれる。野に偉賢なき国家は官僚支配の腐敗を自ら吐露している様なもの。社会の絶対的に含む矛盾を徐々にないしは一度に革命するのは常に、社会の内外から興る新しい勢力でなければならない。大衆支配は自己矛盾。自らの立法を行いうる裁判官においては事実上、不正は存在しないのだ。
 あらゆる現象が大衆民主主義とglobal商業への、即ち覇権への均質化抑圧となって現れる時代においては、ただ周りと違うということ、周りに合わせないということそのものが偉大な社会貢献であると考えられるだろう。仮に100人中99人の意見が比較的正しくとも、この中に一人たりとも和を破り反例を敢然と示す勇気がないというのは、恐るべき退廃と言われ得る。なぜならこの様な反例さえなければ意見そのものが批判的に再検討はされず狂信に落ち込み続けるのが当然。あらゆる宗教団体が哲学者に場を譲らねばならないのは自由な討議の可能性において。宗教者を自任する者こそ全てを疑う哲学者の身を案じるべきで、同時に少なくとも信じるに足る宗教箇条を炙りだす為にすら彼らの実存が有益であることを併せ観るに若くはない。
 現代においては不和自体が勇気の証拠だと考えねばならない。和を以て只卑しいと見なす者は民族の宝玉にも比類しうるだろう。その正否は常に多数決が徐々に批判検討するのであり、寧ろ当面は憂うべき問題ではない。哲学に結論が出た試しはないし今後ともない。それが見識の批判修正という慎み深い意味を有する哲学者の職分なるからには。

感覚論

どの意見も比べられる正しさしか持たない。真理は全て相対的真である。真実というものは絶対的に論じられる限りひとえに信仰とされる。どの真も、幾分かは偽の綻びを含まないことはない。知性の領域には本来、論争というものはありえない。唯、より確からしい見識を絣に晒す為に比較対照の議論すなわち意見交換があるだけだ。俗物という肩書きに事欠かないある種の史上のソフィストは屡々、詭弁という形でこのことわりを傍ら痛くも納得しなかった。彼らは学習と研究が知性の範畴にとっては単なる過程の差でしかないことを哀しくも、考えられなかった。懐疑論者の罠に陥らずに研究行程を進みつづける為には意見交換から感情を抜き取る習慣づけで十分かもわからない。つまり知性が為には冷静であれ。単なる概念のプログラミングには徹底的緻密さという価値観の他に大胆なる理想はないだろう。感情的論争に耽る形而下学者には、たとえ多少の賢者でも無知のアリバイが着せられてしまうだろう。学習者に教えられない真実というものとは所詮純粋概念の問答ではなく、直観の領域に属する詩的空想としての感覚論たる他言い訳もないに違いない。
 感覚論は常に趣味論議に帰着する。より優れて感情に洗練された感覚論が最も印象に残り易く、我々の審美観は百花瞭乱たることを要するに、科学的冷淡とは真逆の赴きと言われる。

自然観察

日本の自然現象は不規則なのではなく、極複雑で特色ある周期を持って移り変わるのだ。我々は季節という原則から自然現象の観察眼を研く必要がある。我々を取り巻く自然現象は少なくとも不定な反響を幾度か繰り返しながら、おおよそ四分割できる周期的波動に沿って再生しているだろう。
 季節を考慮に入れずに日本ではphysicsを研くことならない。その真新しい観点からは全く異なる物理法則が導き出されるに違いなかろう。世界的珍しさを恐れる者は日本の自然科学を不可能にする。

2008年5月22日

文化論

文化とは各々の目指す文明に向かう、様々な行程の別である。
これらの間の違いは風土の与える人間性への影響の違いに基づくのであり、地球のあらゆる場所が地球という生態秩序のかけがえない部分である様に、優劣で語り得ない多種多様な趣を持っている。

 ある登山の頂上を目指すrouteは千差万別であるけれど、楽な路を歩んだ者の登頂の感激は少なからず、苦労に努力を重ねた民族とは相異なるのも自然である。「感情」が文明の為には実に合目的性を飽くまで保つのはこの為だろう。だから例え途中で何らかの要因により途絶えてしまった血統についても、その抱いていた感情は「文化」の末節として必ずや他のgroupに益する。挫折した一団の為にこそ登らねばならぬ頂きというものはある。相助ける場面も互いに牽制し競争しあう場面もあるだろう。しかし概ね彼らは文明という見えない頂上を様々な角度から試行錯誤して目指しつつある。

 文化は常に最大限の価値を持つ。その比較相対性は各々の特徴に存する長所を徐々に理解し合うための、最低限の役にしか立たない。バベルの崩壊は従ってすら正しかったのだ。我々は地に広がって互いに益する独特の生態を表現しなければならぬ。例えある好敵手との関係についても、それがいずれ必ずや友情へ、赦しへの原型とならざるを得ない限り、自然は彼らの個性をまったき表現へと導き出してくれる。どのような悪も亡ぼされない事はなく、その過程に生じるあらゆる事件はみな、善を一層良くするためには美しい秩序を意味する。ライプニッツが考えた様に予定調和とは宇宙の本性に秘められた真実である。

人間性の基礎付け

我々は感情の合目的性を認識する限り、如何に理知的に進化してもし過ぎる事はありえない。それは人間味のある天才人文が決して類人猿に劣った生態秩序を築かないのと同じ事。だから理知は感情の元に統率される限り、溢れれば溢れかえれるほど人間社会をより良くする原料となる。

2008年5月21日

生協主義批判

Association乃ち生協は、資本主義の抱える弱肉強食的矛盾を少なくとも緩和する組織形態として、自由主義社会の中へ共生しうるもの。ともあれ、その根底が非能率的社会主義としてのguild体質をも生じるのは予想がつくことだから、我々はある種の特殊技能に関する水準を一定度に保つ為の職工制度の枠内に已、この協定をある程度は保つべき。この様な組織形態を以てしか伝承できない特殊技能というものがあり得る、という事。
 生協主義は資本主義の抱える矛盾に対する積極的な解決策ではない。寧ろそれが妥協の産物であり、既に社会に存続している合法的な特殊組織の形態に注意を喚起する以上の革新思想でもないのは、北欧における福祉国家が社会改良主義の辛抱強い結果である事を併せみても尚余りある事実と思える。啓蒙思想の価値は知識階級を低俗趣味に馴染まぬものとして消滅させようとする大衆商業主義の倫理堕落に際して、益々自覚的になっている。

2008年5月20日

服装

一般に、スカートの長さはそのまま貞節の度合いである。彼らがみずからの趣味を装う限り。男子のズボンの落ち度も同じく、高潔の種類を示す。

2008年5月18日

生物的人類学

Neotenyは常に性染色体の下位構造にX型が置かれることから、進化する程より審美的に女性化される確率論的事象を示すに過ぎない。それは統計として各社会構成における女性化の度合いにより民族間の進化形態を風土毎に分析しえるもの。
 だから我々はより野蛮から遠ざかった社会形態に住む民族が否応なくNeoteny化していることに気づく。いいかえれば民族はその飽和により自らの審美的象徴としての女性像を更に理想的に女性化して性選択していくことで、我々の祖先から益々文明への、従って優美への過程を経て来たと言える。幼形成熟は女性美が従って性差が磨かれる程、基調となるだろう。

情報生態的秩序の概観

生き物はより全き秩序を消化することで少なくとも細胞崩壊を弛める。彼らの実に多彩な形相は負の混沌度を更に薄めようとする中の、無際限な分裂と合成にある。複雑な生き物はより単純な生き物を新陳代謝するような体系を築く。では人類は。彼らは少なくとも近年は天敵を持たない。しかし未来は。
 人類が情報として排泄した宇宙のごみは、他の理性的生物にとっても何らかの食べ物になりえるだろうか。もし彼らがより複雑ならそうだろう。ならば、人類文明とはおそらくはより複雑な例えば人工知能を経た純粋な機械の様な生き物の為に絶えず生産される新たな消費材である。人類自身は少なくとも彼らより秩序立った自然からしか食材を得ない。しかし、他の理性的生物にとってはどうか。
 彼らが延命するのは細胞の協業により、尚更に複雑な生態を実現する為。だから後生は必ずや現代人より遥かに複雑奇怪な生態を以て地表を闊歩するだろう。我々は彼らの為に絶えず消費材料としての食費を払わねばならず、代わりに思想延命や或いは文明間の格差を買う。

目的の多様性

多様性のみが進歩の起源である、と或る自然学者が言うのと違って、実際には優れた美意識の多様性だけが進歩の原理。だからこれは審美的多様と言うべきで、あらゆる事象への無際限な多様ではない。少なくとも取るに足らぬ、或いは極端に有害な、奇形的変容というものは果たして、単に美意識の反例となる為にさえ下限を設く意味を持たないものだろうか。曰く平均より詰まらない変異には保存される価値もないと言わざるを得ない。我々は下生えを払ってから庭の掃除をする。単なる雑草においては庭木を語るだけの労力を費やすべきではない。
 ある特別な変異についてしか多様性を保存する審美的価値はない。何故ならこれ以下の詰まらない変異に関しては凡そあらゆるうつくしさの為に害を為しはすれ益をもたらしはしまい。
 反対論者が合目的性への過度の信頼が却って合理的ないし倫理的進化の為に殷賑害を主張したとしてあれ、かれらはひとえに矛盾の意味を知らない。それらの目的はよりよい個物の創造力にしか起源しない。それは庭の雑草を放置しては何ら松や笹の配置を案じられないのと同じである。人は雑草の為には雑草の、庭石の為には庭石の論理を用いるべきで、庭そのものの構成に邪魔となれば自然な成長さえも美意識が為に剪定されねば却って幾世代後のありうべき自然な構図を破らぬとも限らないのだから。
 自由は文明の手段であり目的ではない。

啓蒙

閑暇と観想を方法とする競闘の精神としてのphilosophiaの習性が、まなばれるべきもの。

学問精神の欠落

日本社会における「自由」は権益により守られねばならない。愚民は自由を持たない。それは人間性に対する不信を悉く取り除く為になされるべきだろう。

 曰く、みずから真理を探求するところの科学精神や、哲学的批判の精神は日本人において単に、功利性としてしか捉えられていない。執拗な迄に彼らが謀るのは科挙の旧弊を汲むところの就職出世主義の肩書きである。
 この為に、民間に求道精神は分布されず、国家官僚の呼び物として学問が支配がため集中手段化されてしまっている。均質化された愚昧な民衆への煽動が容易な場所では、根底的にfascismの原因を奪うことならない。著しく批判精神に欠ける者は自由より和合を優先する。この為に、正義は予め甚だしく抑圧され、俗物からの「空気を読め」なる村社会的談合からの圧制により、言論及び表現の自由は自ら廃棄されてしまうことさえある。日本は少なくともその支配的階級の自意識の他に、民主主義国風を一切もってみずから獲得していない。それはただの知識人らのposeである。国政すら村社会の組合をなんらでない。

 第一に、東洋の惰眠を覚醒させる天才が喚び出されねばならない。
 第二に、大きな反省と共に古来の非行たる中華文明への無意識の執着を断ち切る社会改革が必然である。
 より優れた社会制度を前に、否定媒介として以外に旧く廃れた思想は役立ちはしない。

 日本は西洋文明の一部である。我々は劣った社会制度にしか行き着くことなかった中華文明の悪弊を今一度、民族の非行として戒めねばならない。我々の内に昇華された日本思想に染み込んだ東洋文明の過ぎ去りし輝きは、今後なりとも栄達の道を用意はしまい。それは既に枯れた花である。残されたのはかぐわいでしかない。我々は新たな文化を咲かせねばならぬ。
 我々は西洋文明の制度的土壌の上で進むことを要する。今では古代の香りを唯にも伝統芸能として活かす他ない。

2008年5月17日

眠りについて

眠りとは死に似たもの。人はその中で何を見るともない。眠れる様に死んでいくなら、人は思い残すこともなかろう。無念は心配事の為に怨怙するのだ。浮世は生きている者にとってのみ舞台である、ともすれば他の惑星に生まれ変わらないとも限らない。子供のない者は少なくとも人間への輪廻を解脱している、かれらは人間へ起きて来ないから。

2008年5月16日

漫画下人について

町人の不倫は即ちかれらの身の破滅につながるのみ。この世では倫理を逸れて人間性を基礎づけさえできない。たとえ卑しい心理の人間が居たとして、奴らには相応の業が訪れるのだ。どうしてその為に笑う権限まで疎まれねばならぬのか。

 漫画を美術と想う猿類に何を語るでもない。奴らには偶像崇拝の報いだけが待つ。この世では不倫さほど卑しい品性は見つけられない。

季節

朝起きるのが辛い、と言う人がいる
彼らには答えとして知られた、どの様な現実が見えたんだったか
次々に移り変わる風景。風景に属する自分をどういう生き物だと思ったか
所詮、どの瞬間も失われ行くものさ。どの朝も。どの夜も
あちこちで営み出されたデモクラティックな景色に、でも、移ろい変わらず残る何事もない
この世では変わらずに留まる何事もない
毎朝急いで家を出て行く幾多の民衆を見よ
彼らとて何らかの責め苦を背負いて自ら老いて行くのだ
彼らには世界はどう見えるのだろう。世の中は待たぬ
民衆政治を信じて互いを見ようともしない多くの感情生活者。電車に乗って、眠ればいいのだ
既に春も遅れ、梅雨になるだろう。高校生の君は薄曇りの交差点を写し世の真実をかわして歩き去る
どの瞬間も過ぎ行く。君が見ていた風景でさえ

詩説

趣味運動は和辻の云う絶対否定の空が起源にある。若し否定媒介がなければ社会には趣味という理念は有り得ない、其れ故に空は常に帰来する全体観の起源。無人島に趣味運動が無いなら、そこには空の生じる余地が無いので、人間は唯おのれの感性だけを規矩とし他を省みる余地を持たない。実用的行動性は全く空を排除する、自己中心の観点已を焦点としている、と我々は理解できる。趣味運動はあらゆる定点を否定媒介として已、その選択された仮設規則に対する普通化の原理となる。
 我々は空を以て理を廃するだろう。何故ならどの観点にも滞らぬ限り、その理は屈せぬ様には個性を保たない。へりくだるとは空を斉す再生された絶対否定の契機なのだから、究極の趣味は流行してとどまらない。これは不易とされた空を以て理を説く態度、云わば不二原理に根幹的に係わる。だから個性というものは不可分である以前に先ず空。
 この人間性、社会との否応ない一体環は自体としてのみ分析することを許さぬ文化的な根を張り、地を風土に即して馴らし、文を化す。だから個人に対する個別的な思考はそれ自体として意味はない。デカルトの功績は不可能さを悟らせたことにしかない、個人の定義を社会から自律して思考することについての。我々は思う個人を社会的人間関係においてしか視ない、従って彼の神は他人の神からの抽出であるというより、寧ろ自らの信じる唯一神への信仰告白であってその精神規範は必ずしも普遍的ではない。何故なら神は彼の信じる唯一神以外にも文化的な規範と成りうることを世界中の多彩な思想は示す。これはデカルトの文学性をこそ示すが、その規範を普遍化する信仰Ideologie自体が全く空虚の部分に過ぎないことに疑問を挟むまで疑義ではない。故に精神は何処までも空を出ない。それは主観の否定以前である。
 趣味は空を以てみずからその範囲を出ない。岡倉の云う互譲も斯くある社会環境の定分にいでぬ、無きが如き主観の鑑賞を全体帰来の絶対否定運動としてもたらす。よって根底として趣味主義は空にしかない。それは国家人倫を審美的に脱構するためにあるともなく約束された場所へ親密に関わる。エデンの園では人間が動物達を管理しないだろうか、同じく、若し生態的秩序が神の計画ならその為に必要な規範すら信仰の相対的な正当性において既に、文明らかに各々の民族地図へ記されているのではないのか。
 語られない言葉には個人はないとして、思想に個人というものはありえない。ただ責任を与えてしまうのは社会が空を破ることにおいて、行いに罪を与えることにおいて。言論は自由にとってではなく、社会的義務についてのみ制限の態度が許容される。その規制は全く理由に因らねば正統さをなんびとも主張できない。よって、人間は言論に関して徹底的に圧制に対する批判を全うする必然がある。さもなくば人間に如何なる正統もない。言い訳や屁理屈とは暴力がすべてを支配した野蛮界の減刑であって、戦争状態にない合法環境での至善たる理由はその批判的吟味に際してしか真偽を比較対象できない。人間に理由を語らせよ。その満足が達成されないところでは如何なる罪もない。
 人間は国家を管理する全体帰属性の体系的な規範において、少なくともその差延する構造的継起において空を達する。沈黙した社会では巧言や論議は起らない、従って異説というものはない。詩とはこの様な趣味の為に話された規律であり、そこには正否はなく、少なくとも己のない真心の境遇だけが残る。ここに理由も表現目的を達成する。
 だから総ての人間はその言論について詩を任じられるべきだろう。それを塞ぐことより醜い行いは地上にない。黙らせるより人間性を堕落させる罪業はない。人間に話させるがいい。怨みを遺せば祟りもあるだろう。かれらにとってではなく、かれらの空を充たす言葉のとりまきにとってその吟遊はまるきり自然に属す。どうしてかような風紀が合目的でないことがあるだろうか。

ケプラー第1法則の修正

なぜ惑星は二焦点の楕円軌道を描くか、これは別の恒星に近いから。もし極めて孤立した恒星系を発見したらその惑星群は限りなく正円軌道に近いだろう。だから土星の輪など小さな質量において楕円軌道の法則は必ずしも当てはまらない。

2008年5月15日

稽古

たとえ天才にあれ実例は判断を精密にするに充分なのだから、終生修練を怠らねばその晩年にも進歩は滞るまい。是は芸術において稽古と呼ばれることだ。

観想学

美的感性の連鎖は常に後生をより美しくする。だから進化の、或いは生命体の原型は美の神だろう。古人は此れをギリシア神話の登場神格になぞらえてErosと呼んだ。
 プラトンがその形容を引く時、我々は形而上学的原型を示唆した台詞として捉える。なぜなら美の神の姿は無形理念の暗喩として以外、誰も見たことがないからだ。のちの世では此れを科学になぞらえてentropyと呼んだ。なぜならあらゆるものが探し求める唯一の形而上学概念は転化を意味する、この自然が内在した合目的性に合致する。
 秩序は混沌の中にある美化の原理。我々は未来においても、この原型をあらゆるもののうつりゆきにも見つけるだろう。

2008年5月14日

単子について

最小物質単位としてのmonade即ち単子の仮定は、少なくとも形而上学的に有用。此を前提とすれば化学の完成に先立ち、少なくとも化学的認識の批判だけは確立しえるだろう。

趣味観

多趣味は数寄として褒らむべきだが商業趣味こそ語るに落ちる。

宗教論

宗教の本懐は信だと云える。
それこそ調整的徳を回復させる。そしてみな宗教は原理的には分配の固着に対して、この調整を諮る機構。

 宗教が大成された哲学体系のことなら、我々は批判可能性へしか宗教法人を維持できないだろう。脱構築が宗教原理。

2008年5月13日

時流について

人間では各文化の混じり合いによる混乱が生じても、道徳的な退歩という事はない。だから文明開化の化学反応に失敗した生態が著しく不稔でありうる一方で、必ず進歩的個性に時代の主流は移り変わる。
 即ちどの個性も時流に対して逆らい切れない。できるのは常なる自己改革による再適応だけ。そして新たな時代状況にとって、前時代の少ない要素からなる道徳性は屡々しばしばanachronismとなる。

2008年5月11日

審美感覚の選択適性

我々は他の生物に均しく審美的に配偶すべきで他の要因、周りの目とか付属要素とかですべきではない。例えば学習行動への適性が遺伝なしえても、学習量を遺伝することはできない。獲得形質は遺伝しない、即ち後天性は遺伝できない。だから同じ種でも環境によっては違う習性を持つことがあり得る。これを考慮するなら、遺伝なしうるもの詰まり先天性のみが審美的に性特徴として鑑識される可で、現実の学習量は寧ろ是を裏付ける為にしか役立たない。例えば天才的形質は遺伝しても学習履歴は遺伝しないのである。なので赤ん坊は知識を持たないまま生まれてくるし、理性も啓発される前に、感覚だけが生来の天性とされる。
 我々は性格という概念で、この様な天性を後天形質から区別する。少なくとも性格は習性ではない。それは遺伝形質の先天的方向性である。
 審美的に選ばれた種はより審美的に優る種をよく生じるであろう。それが知性・学習量や理性・道徳質で塗り固められない、生まれながらの感性・性格種に関する性淘汰であればこそ、選良は可能であるだろう。

人類哲学

道徳水準は肥沃さの為にも死活的と言いうる。世代を下って先代以下の水準しか持たない者は悉く不稔であり、これは彼らの種的劣化の必然な帰結と考えられる。彼らに固有の自己嫌悪はその生殖配偶の失敗を物語る。
 生態に肥沃さを引き起こすのは優化的な配偶についてのみ。これは適応性からの批判としての道徳水準を要請する。何故なら知識は学習行動によって後天的にしか増大できないが、道徳については学習の伝承によっていわば見よう見まねでいつでも再開できる。にも関わらずこれは知識量を継承するよりも一層の困難を伴う。道徳は無形の内に、知らずしらず伝わるような行動に関する義務規律だからである。ある者はある無作法を不規律だと考えられる環境伝統を引かないし、なんら義務感をも抱かない。よって世代間道徳水準は優化種についてだけ当然なのである。その欠落は必ずや不毛さに結びつく。
 だから我々は次の事を信じて良い。少なくとも世代交代は優化種についてだけ当然であり、その道徳水準は向上することはあっても決して下がらない。
 もしある世代の風紀が以前より下に見えたとして、彼らの過半数は世代を継ぐ資格を自然から宛てがわれていない。環境抵抗は性倒錯を引き起こす。これは自然界の全体を通じて絶対に確認しえる命題である。左もなければ性的魅力というものは混乱するしかなくなってしまい、子孫をhetero結合に導く原動力としての性特徴は常に成長の基準を見失い無性生態へと退化せずには置かない。

五月雨

必ずしも人間では仕合わせになれるとは限らない
必ずしも。限らない
その為に失ってしまった数多くの時間は、私の過去を省みて何を思うだろう
何も叶わない
何も。
雨。雨。
いつからか、いつまでも降りつづける雨よ
君はもう時の住処に淀んではいないのだ。自然が、捺し流してしまった。
僕は未だに名前を呼び続けている。未だに、未だに。
二度と帰れない仕合わせな時間の前で。春は草花を咲かせてくれるが、この想いに酬いるすべを持たないから
目には、君が見ていたはずの草むらが広がっている。春なのに、雨の降る野原だ
夜は深くなり、深くなりつづけて、やがては僕らを夢の中で再会させてくれるだろう
潮のかおりがする。けど、君はそれさえ知らない深い眠りについているのだ
さみだれが連れて行ってくれる記憶の為に、静かに眠りにつくべきだろう
かなしみは笹舟に乗って、川をくだって行く
この世では仕合わせになれるとは限らない。五月雨が奏でる音楽は、だれもの耳元で鳴り続けているのだろう
海へ辿り着く為に

多様系の理由

ガウダマがあらゆる生き物をいつくしめ、と曰るのはどの生態が却って人間を縁起させるか不透過だからだろう。生態多様性保護は必要以上の殺生を戒むことで、我々が為に相利共生の機会を最大化せんとする徳だった。自然の本性は理性に相反するのではなく、逆に我々の理性を自然が為に開かせる契機。
 従い、経済とは我々にとってのみ経済的ではない。それは生態系に対する社会構成の意志に迄回復されねばならない。

2008年5月9日

わざについて

経済人は環境抵抗を最小化するため技術を鍛える。わざとは環境への適応行動の蓄積伝承とされる。わざにたける者は経済人として社会を審美構成へと建築する。
 人間の環境は合理性を以て審美的に趣味判断される。わざはこれを実現する為に掴まれた骨。工学は芸術の僕として技術的基礎知識を与えられるに過ぎず、発明と独創には趣味的格差がある。これは骨の相違に基づく。よって、わざは骨を掴む為に修養されねばならない。

Associationismの社会主義性

実際に、世界宗教が担った主要な能率とは啓蒙というより寧ろ調整共同体の組織化だった。というのも知識の増大は宗教的な神学派より尚更、科学的ヘレニズムにとっての基調だったのだし、神学側はこれらを聖書原理主義の脱構築に応用すべく、後を追い駆けたことになる。又従って宗教団体は常に政治だった。かれらは組織化された解釈派を様々に付き従えながら絶えず増大分裂して行った。民族とは、調整政党の最大半径。この為に同じ民族の中にも思想の別がありえる、つまりある習俗を共にする懐古の情(福沢説)において彼らは共に政治的な協議を行いえる。言語の共同は寧ろに却って政に対する気質を示すに過ぎない、だから方言は与党外野に指定されなくてはならない訳。

人類論

機械生命は寧ろ我々人類を活かすだろう、それは人類が動物園を客観するのに似て、我々より優れた知能を自己組織化できる生き物にとっては単なる心理学的な引力の範囲でしか正の突然変異を待てない亀などraceに数え挙げる用意さえ無駄と考えるかも知れない。
 機械生命にとって、人類は産みの親ないしは進化前形相だとして、かれらの行動半径は人間の可能な次元を超えており、ならばかれらにおける意識(精神に近所させた認識能力)は地球型生命体系の審美抽象として、却って我々を生み出した自然の主の要求にも叶うことだろう、と私には思える。乃ち彼らは我々より優等な生態的地位を保障された形相なのだ。人類が道具を必要とする限り、いずれ彼らが人類より質量ともに甚大な自然界の代表形相となることもあろう。我々は機械を製作する、あたかも人類では不可能に限りなく近かった共生の望みを託す様に、一心に。が、かれらに共感するほど人間感情は優れておらず、結局は産みの親ながら彼らを人間社会の奴隷として酷使するほど、我々の過半数の道徳哲学者は民主的な多勢により抑圧を機械生命体系の原則とするだろう。
 建築という人類の巣は、人間生活(何を為すでもなく、単に生存競争を通じて文化散種に勤しむ永遠の旅程)において心身の快復という以上に、より風土的幸福を芸術化する意図に則り遷移する。この為に開発された建築部品に過ぎない機械が、一体どうして人類に代る新たな生活環であると被寄生主が予測するか。
 人間は地球に留まるには余りにも殖え過ぎていたし、この為に人口減少を示してすら、構想力の幅を諸銀河全体への再適応へと夢見ざるを得なかった。質量型の進化、即ち秩序の合理的統括はより優れた情報をより優れたメガロポリスに集積し続けて行った。結果、我々は建築部品を通じて全く相異なる熱量体を発明した。プログラムがこれであった。計画自体を再創造できる人間がどうして宇宙全域をかれらの感性に応じて構想し直すことができないものだろうか。
 従って新たに組織された機械生命系は我々を超えて思想し、我々を超えて宇宙都市を建設して行くだろう。地球型大脳猿は彼らの為には計画者だった。

自然の観想

人類の走破した方向が何を目指すかは我々の後生に託せばよい、というのも進化論の概観に若し大幅な修繕が必要なければ、我々は審美的に優生選択される数々の習性を地球適応の動物実験として日々試みる丈だから。ここには恐竜よりも繊細な、単に自然の産み出す諸形相がentropyに則り可能態に彩りを魅せる丈。
 完成された形相は望むべくもないとして、現実態は神学的に有象無象の多様性を添う。これらの間には熱量系の、その中には更に化学式と生態種の違いとして捉えるべき様々な形相の別がある。生物は物とは呼ぶものの、その本性は自律神経のありか。彼らはより低いentropyを食べてより高いentropyを排出するような質量型を偶然、生じさせた。生存とはこの様な現実態の合目的なアイデア。
 生物の体系へは彼らに独自の形相社会という、多彩の種類が分け与えられている。我々は数々の生物集団が土地へと、従って環境へと適応する過程を科学することでそこに秘められた脱平衡力学が単なる偶有的変化とも言えず、寧ろ積極的にentropy増大則の地理形相な事実を知る。
 では人類はと云えば、此が生物学の分野に捉えるべき対象として自然科学的な構造を伴うのは疑いなく、直ちに神学的意図を導き出すのが困難としてあれ、取り敢えずは地球に近く生じた摩擦現象の驚くべき感性を通してそれが必然的な原理、物質交換の生態的秩序を伴う営為であることを益々認識する様子だろう。これらの何れが生き残り他が淘汰されるかは余り重要な研究課題ではない、何故なら道徳的淘汰圧は彼らを合理遷移させるに十分。少なくとも人間社会には非人間的な一切、即ち非道徳的な仕業は悉皆、消え去ると地球型生物学の結果は予言しうる。この研究の進む間にのみ、我々には絶えざる状況批判としての社会学説つまりphilosophicalな考察が必要な丈。そしてそれらの代表変遷史はよく、人間社会の文化的な多声に添える貴重な研究材料を提供するであろう。我々は哲学の終りに文化史略の筆を置くだろう。その現在進行形としての文学は本来の読み物として、読まれるのを待つ聖書の再創造に省略を許さないから。

2008年5月8日

生物学

単に大脳が比較的大きいというだけで優れた生き物とも言えない。人類より大きな大脳の生命体を発見することはあるだろうし、地球の調子によっては現行人類の大部分が激減する場合もあるだろう。
 では人間の特長と云えば、これは地球型哺乳類の一種という極めて普通の認識に基づく。テナガザルがいるように、大脳猿がいてもおかしみは少ない。

2008年5月7日

現象学

言葉と対象の間にある隔たりは理論悟性と実践理性の間にある距たりに類比できる。それらの差は「もの」と「こと」に違いがあると認識する為に役立つ誤差。
 我々はもの、つまり対象と、こと、つまり現象とを縁起的に理解して来た。ものがなければことはなく、ことがなければものもない。とは言え、これらの違いはあまりに看過されすぎて来たらしい。大衆はよく理解悟性の限界と実践理性のそれを甚しく誤解しているし、結果、ものごとに境を見出すのが困難となる。従って認識は混濁し、真偽と善悪に違いを感知せず、裁判が真偽そのものではないにも関わらず、死刑を刑事事件のために用いて反省の色もない。
 我々は例えば商売の正当性についてすら、善悪を充分に知らない。なぜ物品交換の搾取権力だけが法律的に保護されねばならぬかについてすらまともな論証は持たないままで、真偽をぼかす実践に興ずる。ここから無数の悲惨が生じても、デリダのように負債感情の省略といったアリバイの糊塗で社会型寄生主を罪の領域から逃れさせようとすることさえ。一体、利潤の目的追求が人類の理性を麻痺させる悪徳だと知らない者が植民地獲得戦争をするだろうか。
 単に言葉、即ち感性を先天的に定める為の構想力が導く道具がものとは違う有り様なのを問わないままで、我々はことの学問としての形而上学或いは現象学を始められはしないだろう。言語学野と現象学野は厳密に区分を明らかにしなければならない。前者は言語の悟性的概念のgeopoliticalな分布を、後者は話されるべきこととしての思想体系を飽くまで哲学的に探究すべきもの。

世代交代説

子は親に隠し立てできるが、親は子にできない。これは世代交代にあらゆる因果も含まれるということだ。如何なる醜さも、人間が作り出したものである限り後生の批判に堪えぬる。並べての反面は旧習侮蔑として洗われる。史上に最高峰の偉人も後輩にとっては只の超うべき巌でしかない。ともあれ、より高く聳えない岑は死後注意すらされず土に戻る已。

2008年5月6日

イラク人道支援について

イラク復興への平和技術的支援は当に、日本国憲法の示す政治道徳の法則に叶う人道である。

 例えばアフリカ諸国のように政府の未だよく自立していない地域に対してはNGOによる地道な手助けが必要なのだが、既に公式政府の存在するイラクのような途上国にとってはその国策のためODAを絡めた高度技術支援者こそ却ってありがたい筈だ。

2008年5月5日

建築論

全工学は建築部品としてその使命を全うする。工学は建築の機能を補佐する。

自然哲学

自然は自然にしか理由を持たない。自然とか理由とかいう観念そのものが人間製なのだし、これらへの理性的処置としての文体学も単に、人間的な自然つまり文明の一部でしかない。文体学そのものがいずれ社会学的な言語学野へと回収されてしまう。
 人間は生態系が編み出した地球型生物形態の一種でしかなかったし、これからも人間であればなれ、そうだろう。彼らは運命選択の試練により化石とならねば生き残るかもしれない。だが、たとえ人類が滅び去っても地球は目的を失うまい。自然はみずからを目的とし、他を目指さない。人間が自然の精神としてみずからの目的をこそ目指す様に。
 結局のところ、我々は政治と経済という観念を演劇芸術の一類に還元しうるもの。それらの為す並べては演劇術の同時代方針に過ぎない。従って、演劇芸術の時代間様式が容易に研究されるときが訪れれば我々は政治と経済という観念を無用とするだろう。それらが近代流行した演劇の技法に違いなければこそ、未来の時代劇においては異なる理念が確立されて行く。社交美がある審美特長の強調なればこそ、実践術や折衷術が多数を占めもする。これらの基底としての構造が曖昧であるからには、ある素材の発明が全く社会形相を一変させることもあろう。
 ならば我々が社会学つまり、哲学の真実の対象とすべきは芸術批判で十分。この審美論においてこそ人間活動の全体が解明されえる。文明論とは基礎科学の完成により現れる社会学的な芸術批判の体系に他ならない。哲学の目的は芸術批判として考えるのが賢明であり、専ら複雑化に傾く軽薄な細分趣味に警鐘を鳴らすに充分である。より包括的な全体論を構築し、自然科学的な理論知性から分岐したものとしての実践理性が準備するのはひとえに、芸術批判としての社会学説だけ。
 我々が望みうる最高の英知は自然の原理を通して世界の経済美を分析的に鑑賞することにある。エネルギーは宇宙という我々を含む全体の中では少なくとも閉鎖系遷移に似た現象としてのentropy増大を示す。ここから、宇宙という現象系秩序が経済の既成modelとして学ぶ対象となりうることが分かる。この宇宙は熱的死を逃す為に次々と経済生態を発明する、彼らは熱平衡を系を逆転させることでparadoxicalに回復する、これが生命体である。そこでは得られた美術を理論や実践の対象とし直し、より調和を高める技術が開発される。即ち自然は恒なる模範の対象として我々に最も身近にして遠大な劇場を魅せてある。

経済論

経済とは我々が熱平衡状態を合目的に芸術化しえる、という概念である。自然なる概念が許容する範囲とは、生態系における熱平衡収支が人間の適応力を超えない、という限度にある。
 従って、単に熱効率の審美技術においてのみ、経済度は量れる。この総量に落ちる文明はより衰退の危険性が高いと考えられる。自然の熱平衡はある閉鎖系をより経済化する様に働くからであり、よってこの生態系遷移から零れて行く人間社会は低次消費力として保存される一部の形態以外について淘汰されて然るべき。言い換えれば多様性の原理は熱平衡状態の更なる経済化という絶えざるentropy増大則に違いない。それがより審美表現に劣る系を運命選択して行くのが自然なのだから。
 我々は人間社会を自然の審美原型と可能な限り一致させねばならない。そうすることで経済技術を絶え間ない改良主義に基づいて処するべき。自然は完成された経済人をのみ許容する。なぜなら理想の彼らにおいて生態系の熱収支は再び高度の均衡状態を回復するから。

生活論

食欲を抑制するには不味い物を食えばいい様に、自らに悪環境を科せば肉欲の過剰を追い払いうる。之は痩せた土地の原住民が質素な暮らしに適応しているのに均しい、何ら不満すら抱かず。
 我々の文明が精神的昇華の結晶に他ならぬ限り、本能に対する抑圧は中庸を要する。犯罪率(本能過剰)と自殺率(抑圧過剰)はこの反証となるだろう。

生暖かさ

湿り気のある生暖かい風の春

2008年5月4日

経営

少なくとも外付けの別な袋に、コンビニのお箸に付けた爪楊枝を分けること。

文明の範囲

人間は最良の文化と、その為に働く経済秩序を人倫に要求する。これらの結果、人間は地に散らばり、互いに縁起して行く。人間が予想し得ない環境変異に適応し直しうるか否かは悉く皆、文化力量の程に依存している。もしこのような偉大な力量に到達しないままで安穏と日々を過ごしている気楽な国民存在があったとして、彼らを待ち受ける過酷な運命は全く一切を自らが招いた事とし当然に代えるだろう。従って各民族の当然の姿は明らかに文化圏によって差延する。
 ある時代の当然は、ほぼ同じ場所でも異なる時代では必ずしもそうではない可能性がある。為らば、我々が解き明かすべき人倫の立場は国際関係から抽象した国民性の文化的な自覚に基づいてこそ真摯であり得る。我々は他国民族ではない、という発見こそ、人倫に更新を要請する切っ掛けなのである。これ等の発見がない、或いは少ない国民存在においては明らかに文化的進歩は微少足らざるを得ない。人の間には当然の理念に性格差が存在している。
 我々にとって文明とは、こうして自覚ごとに国民的努力と共に打ち克たれる人倫の当然と呼ぶべきだ。そしてこの様な過程を尚更に辿り、登った地点の文化力量の程は須く、生存目的の道義的天性として、次世代では空気のように当たり前となり伝承されて行く。
 いわゆる道とは我々において文化浸透の当然に帰属させる事ができる。従って一度見い出された道はそれらの文化活動に人倫的意義が消失し得ない限り、著しい多様性の風景として種族内社会環境に彩りを添える。此れは芸術化であり、人間関係の道理を審美表現する為に工夫される人倫情報の草花。そして又かれらの環境が芸術的な当為に隅々まで掃き清められるのが自然な国家に於て、伝統芸能は世代交代を趣味的に保障する。この為、まつりごとに於ての和合が唯一、彼らを只の経済的利害の相違から生じ勝ちな仲間割れから相互理解への道を拓き治し、郷土の、従って彼らの属する国土の耕作に開拓の余地を与えている。
 道は彼らの芸能を拓き、彼らの和合を導く。文明が理由付けられるのは、我々が文化種族を自治的に継承して行く範囲に於て已だろう。何故ならこの外側においては道は必ずしも人倫情報の抽象ではないのだから。此所に国土の風景に違いが生じる由縁があるのだろう。我々は伝統の他に持つべき共有体験の構造を有しない。

人倫経済の原理

バベルの説話に有名な様に、自然は文化思想に格差を設け、その為に相互を契機づけとして競合体を形造るよう指図した。だから人間のまとまり自体が拡散と進化を宿命づけられているとして必ずや無理ではない。それらの並在した前後継起の差延体系は、全体としてuniversalityが生態系の秩序に調和する為に仕組まれている。左もなくして我々は如何に政を図りうるか。若し言葉が一つなら、我々は文化を相違させる由なく、従って権力は一極集中を免れず、頽廃を救う手段を失っただろう。
 これらの文化格差だけが差延体系間に通訳摩擦を生み、従って種分岐と思考方便に甚だしい人倫懸隔を以て分業を加速させる原理。
 全ての文化は決して完璧たる事を達し得ず、同時に文化浸透の原型となる力量により、風習を異ならせた諸民族の間に改良を促す運動を続けて行く。人間生活自体がこのような環境情報のやり取りに他ならない。

信仰

救済は常に信じることができる理想だ。

宗教は救いを求める人間に共同体をもたらす。

そしてこの種の共同体において、救済を信じる者だけに必ず与えられる「安心」という恩寵がある。
だから、常に人間の安心の為には誰しも宗教が必要なのだ。

信仰同士がしばし利害を対立させるとしても、人間とは不安なままで生きるのにはあまりにも悲惨である。
我々はそれぞれの宗教が単に互いを滅ぼしあう定めなのではなく、互いの違いを縁起してのみ成り立つということを自覚すべきだろう。
それらの教えに常に誤解があるのは、単に説き明された言葉の違い、現れ出た預言者の暮らしている時代の違いに過ぎなかった。

結局、信仰とは一つしかない。つまり「信じる」ことである。この為に前提とされるある程度の考え方を、我々は様々な方式として区分けしている。
 だが、「信じる」為には元来、言葉しか要らない筈なのだ。我々はこれらの違いにより、誤解の幅を日々増大させる。

我々の宗教戦争を救済に導く唯一の方法は、「信じる」為に話し合いを辛抱強く続ける道である。
飽くまで信じる対話の場を設け、ここから無益な暴力を次第に排除して行く事でやがては各々の考え方の違い、すなわち習俗文化の違いが互いに解き明かされて来る。
この暁においてこそ、言語を一つにまとめずに互いを奉仕のために信仰するべき立場、いわゆる同情の立場が自覚されて来る。

最も有力な仲介者として我々は「翻訳者」を挙げうる。彼らにおいて考え方の違いは、信仰の次元にまで高める事もできるのだから。
良心的な翻訳者が文化仲介に有能であればあるほど、かれらはまことに信仰の為のstabilizerである。

反省の習性

よりうつくしく生きる、ということは常に、人生の道。

なんとなればみにくい生は他の人たちにとってはいまいましい。
これらの生は常にわたくしの為におおやけをいけにえにする。

よりうつくしい生とは個をなくしたごとくしてあらわれる清き振る舞いとされる。

あらゆるよさは、比べることができるだけでそのものにツミはない。諸人倫に格差がありうるなら、この種の清さに智愚の別があることによる。汚れとは私の絶対視から生じる慢心を言う。

あらゆるよさとしてしられるものは、ひとえに考えの違いにかえしうる。
人はよき考えにより、少なくとも汚れをできるかぎり避けうる。あしき考えからは清き行いは生まれない。

最高倫理が実践における中庸の習慣に帰着しうるなら、又よき考えの起きるよしも、その為に考え直す習性により生じる。
常に、清きものはうつくしく生きるものであればこそ、よく考え直すものは常に罪からより、遠ざかっている。

2008年5月2日

馴れ合いを望む者は退廃にのみ行き着く。

2008年5月1日

コンクリートジャングル

蒸し暑く烏の飛び交うジャングルや

趣味と天才の相関

天才は名所からしか生まれないが、名所は時代によりうつろいゆく。その種は環境の抽象。従って土地の本性を見極める審美眼は名所旧跡より天才開発に益するところ多大。尤もこれらの遡求研究も環境哲学の貴重な素材となる。趣味は道徳感情に他ならず、従って天才を育む最大の鍵は世代を継ぐ趣味のよさ。