2008年5月28日

学殖の方法

学問が後天習性である限り、狼少女の例がある様に、学殖は単に環境の教育度によって羽含まれると言える。だから非教育的な環境からはどの様にしても学者が育つことはない。たとえば一冊も本がない場所からは先ず独力で微積分の定理を導くことはないと言ってよい。逆に日常に学者が街中で討論している場所では門前の小僧にも第二宇宙速度が計算できる。学校や図書館、博物館など学問に関連付けられる施設が少なくとも繁華街を避けて設けられるべき理由もここにある。もし学術研究都市の様な教育施設の隔離が存在し得なかったら、我々は俗間一般の低きに留まる学識をあらゆる世代に渡りあまねく引きずるしかなくなってしまうだろう。デューイが教育環境を社会に向けて開く説を唱えた背景には科学技術への場当たり的な期待があった。主知主義の伝統を汲む人々にとってはその様な批判がuniversityの高過ぎる敷居を下げるからだ。
 然るに理論とは無用の用であるがゆえに求道も為しうるのであり、学識の応用は元来は飽くまでも工場で行われるべきである。学問の秀才が工芸の天才とは異質であるなら、いずれ混同することあたわない。だから一般的な理論の低さが禍である国においては寧ろ、学問の権威を教育環境の隔離によって高める方が当面の課題である。