2005年11月30日

都市近代化の手法

再開発などによって
1. 街区整理
2. 集中的高層による空き地の緑化
3. 歩道以外は地下に仕舞う

2005年11月29日

近代都市は未来から見れば古代都市に過ぎない

我々が近代都市として見なしているものは未来の地球文化の基礎である。だから文明化が均質化をもたらしても本来、何ら問題はないのだ。考古学資料の為に幾らか過去の産物を保護して行く必要は別に。

木枯らし

木枯らしに赤ん坊の真っ赤なほほ

建築論

建築表現の地平線に到らせるのは、普遍性だけである。

古典

必ずしも古典主義の為ではなく現代及び未来との差と共通点を知る為に、古典は学ばれなくてはならない。

教育環境

知識伝達の効率化と人格養生の契機付けというより他に教育組織の要点はないのだから、創造的活動を結集させる抽象的環境を造り上げるのがその運営の目的でなければならない。学園が保守の場ならその存在意義は無い。そして教育の理想を追求する以外に進取果敢な教育の舞台を実現する仕方はない。

科学の環境

研究機関である大学院と教育機関である大学部との連関を明確に分離する事なしに人類科学の真の飛躍的発展は有り得ない。

科学研究の本質

科学研究者として生きて行く上で本質的に不可欠なのは論文や講演を通した或る洞察の自他への説明力だけ。だから教育組織はこれを助ける為の副次性である。

2005年11月28日

仕事について

義務を先んじて終わらせるには脳内で自身を暴君的に追い込む事。ストレスを溜めない為にはそれらは所詮ゲームだと冷めた視野を持つ事。

建築家の職能

建築芸術の理想が最高善たる形相の実在化だとすれば、理路整然たる統合が棟梁の仕事。そして時代の標準素材を組み合わせれば分野の極端な専門化が防げる。だから建築家の職能は究極には選択にある。

工学の理想

技術と美術の統合、工学の理想。

流儀

個性の特長を活かした競技流儀がある。

2005年11月27日

一日は一生の象徴

一日が始まり、過ぎて、暮れて行く。その全体が人間の人生である。

依頼を選ぶ事

百年程度の経歴内の限られた実現案を古典化するに、先ず仕事を選ぶ必要がある。それが為に依頼者を限定する。この為に利益率や浮き世の勲章を美学より優先させるのは論外で、寧ろそれら諸価値を精選する才の故に専門はその担保なのである。
 が、現代芸術の論理は商売や公使と矛盾しないのでなければならないだろう。ゆえ我々は生涯建築を学ぶ。

建築の歴史との対話

声高な喧伝から距離を置き、建築史と真摯に向き合い、重要な作品を作るのに全力を捧げるのが建築家にとって最良の処世術だ。計画の正味は誰の目にも明らかだから。

理念としての建物

サヴォワ邸が理念である如く、ファーンズワース邸は空間に翻訳された近代の理念だ。それは普遍的な箱であり、地上から切り離され宇宙空間に解き放たれた人間のすみかなのだ。現代の我々が未来に具象するどんな建築芸術も、ただ理念としてはこれを一つの基点にするだろう。計画に組する極度の単純さ。尤も技術は益々高度になり、生活の次元は引き上げられ続けよう。

大成

死迄権威になる事を避け続けなければ真の大成には遠い。

教科書

啓発的生き方が可能ならば自伝より良い教科書は書けないだろう。

現代建築の手法

建築的消去、生活の主役化、徹底した表現の非個別化・普遍化。地域性や場所性を破壊する力とそれを守ろうとする力の均衡を才能に可能な限り高次で取る事。

肉体

肉欲の中庸と精神欲の極端は人間を聖化する源泉。我々の自然に従おう。それが生命の意志だから。

人格

万人の模範たることを心構えねばならぬ。

建築論

近代建築の主題、建築芸術の理論的可能性がミース以降進展された試しはない。そこで全ては既製品であり、独創性は歴史上の価値を持たない。彼の追究は終始一貫して普遍性に対するものだった。ミースは高層化と長梁間建物の可能性を建設的工業化に則って開拓した。
 自然との調和意志といった環境工学的改良とか、人間文化的概念とかで計画自体の抜本的刷新の不毛をごまかすだけの戯れは後近代といわれてきた。
 新しい建築を造る為の理念は極度の単純化にあるのだ。都市から詳細迄超個人的な技量で貫徹された単純さ。そこに合理主義と地球人の建築文化が到達し得る審美の究極地点がある。宇宙都市の建設。妹島和世建築を見よ。

2005年11月26日

革命家と思想家

社会主義化を導くのは生産様式の殆ど完全な機械的自動化であり、直接的には右派の社会革命によってではない。とは云えいつもの革命家なる人物はのこのこ恥知らずに歴史上に登場しては我々の世間を騒がせるのだ。最高の立役者は技術者の毎日の思考情報に伴う創造性そのものなのに。

幸福主義の時代適性

生産労働への従事は機械時代以前に貴ばれない訳がない。従ってアリストテレスは早計だ。

権威

権威の本質に何もなければ、それへの面従は少なくとも破壊的である。

育成

賞罰というのは馬に与える人参と鞭に似ている。人間界でも同様。栄典や法律を容れた社会は我々が制度化した調教施設であったろう。

苦労

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」の諺は、「若いうちしか肉体を酷使しづらい」という意味に近い。尤も、天才にこの格言は充てはまるまい。超人の学習効率は、凡人の目には苦労知らずに映るかも知れぬ。さらに上の聖は万人の為に苦労自体を演出するのだろう。その上に苦労の概念はない。

起業アイデア

伝統的な茶屋を現代版で蘇らせる。ジャズ系のBGMと雰囲気に配慮を凝らし、LOHASなシステムをファーストフードの日本化として位置づける。和を理念として掲げ、東京発の口コミブームから全国展開する。裏原宿に第一店舗を設け、老若男女や身分を問わず、日本でいちばん落ち着ける場所を提供する。
 目標に世界でいちばん落ち着く場所を置く。New York SOHO地区への進出をキッカケに世界規模展開。LOHASの代名詞として、日本の文化的優秀を背理的に宣伝する結果を待ちながら、マクドナルド以上の宇宙的流通を目指す。全て都心部を位置取るが、特定の店舗には現代風日本庭園を置き閑寂な観想の趣へ誘う。おにぎりと緑茶をメインにし、漬け物と饅頭辺りに商品種は抑える。日本最高の水と米を使う。

2005年11月25日

名人

成功への欲望が傑作創造の意志より勝ればその者は芸術史に残らない。尤も、成功欲のない者はそれ以下である。芸術の社会化に貢献しなければ消えてしまった砂遊びに変わらないから。

死に至る病、運命を楽観視することを希望と呼ぶ。それは安心の手法としては至極高級で、意識無意識に関わらず最も広く一般的に流布しているが実際、我々にはそれ以上の希望が又と無いのだ。君にとって生きる行為がその緻密な一部であると認識出来れば永遠の神と境遇として差ほどは変わらない。唯、我々は事実上死ぬだけである。

競技とは

あらゆる命は世代交替する定めだったので、我々の道徳が則る自然の掟にとっては、その精神的偉大さに依ってある人間の崇高さはみられる。肉体の延長上にその究極的抽象として精神が自覚的であり得たから。運動競技に於ける卓越も又、生来の差ほど無い身体能力の故というより到達され得た修練の厳格さに対する崇敬を喚起する機会たる。

縁起

世界は観点によっては互いに依存しているばかりか、処世術の最良性は中庸とも呼ぶ縁起の追認である。つまり縁起とは道徳上の極めて簡潔化され省略された理念であり、自らの信仰の最善性に関する言及の試み以上のものではない。

勤労の定義

経済活動の本質は社会奉仕にあるのだから、会社員や公務員としての今の資本主義経済の方法は、統括された集団労働の合理性である。
 だから、もし個人労働が、我々にとって一般的な最良の勤労形式を生み出すならそこに於いて真に共産主義と再び名づけられて良い理念は現実化するだろう。
 それは過程的に考慮して資本主義労働の生産様式的頂極に他ならず、以前勘違いされた様な社会の急進的革命、つまり暴力革命の結果ではない。そして私の個人的想像が誤りなければ、生産設備を個人化していく情報技術革命がその根源因となろう。

建築論

自然との理想的関係に一般解はない。故に、普遍的建築は各地域各場所で個別的形相をつくる。我々がコンセプトと呼ぶ設計理念は、どれだけ自覚的であるかに関わらずこの言及である。取りも直さず建築とは我々の環境なのだ。

精神

「人間の人間的活動には人間的限界がある」と主張する。しかし未来の我々を我々が悟らない限りそれは偽である。少なくとも、獣性を抜け出して神性に到達しようとする意志は限りない。だから我々は世界をよく知るよう努めよう。その本性を解放するだけ我々は聖に近づく。

建築論

精神的建築がいかなるものか、我々には素材の概念的な構成を通してしかそれを知る術は無いが、いづれかにせよごく高尚な一部の特権階級の趣といったかつての要求以上に地球的な民衆には文化的興味が必要である。我々自身の啓蒙という他に希望に満ちた未来の約束の為に。

建築論

何の為に造るのかを知らなければ建築家とは呼べない。

時間

孤独な学究の時間を確保する事こそ学術家の要。

目的

人間としてのより高い目的を自覚して努力するより生きるのに適した様式はない。

建築論

空間に於ける審美とは時代が要求する機能を伴った構造体を追及する事を云う。

2005年11月24日

建築論

内装について。部屋の都市化は我々の生活を普遍化する。

建築論

個人的業績よりも風景の変化を楽しめる様に、それがより理想化されて行く様に建築環境を作るべきだ。

人体学

我々が神と名付けて崇拝して来た超自然な本質は、科学的に定義づけられるならエネルギー。だから創造に不自然は有り得ない。従って人間や我々が精神作用と呼ぶ脳内の化学反応も同様に。そして我々が自由と思う外的かつ内的行為の可能性はエネルギーの範畴にしかない。それは時空に依存する。よって無や独立といった哲学的概念は単に理念内に浮遊する場面。
 以上から考えて精神とは頭脳に宿った抽出エネルギーの一種であり、我々の意識はその結果。意識には独特の活動性があり、例えば理想、セオーリアといった側面も一部。
 人間であることはこれらを生かす自由の行動であり、我々が社会を文明化するに伴ってその多彩は益々発達し得る。つまり我々とは宇宙の動的形態。

生物的人類学

生命体に本来する多様化への意志が生存目的や宇宙自体の延長性或いは収縮性と如何にして関係するかを解き明かせ。次に我々の知的と我々自身が仮定する営為が、その地球上の我々の時空に於ける先端である証明を行え。そして我々の実存を宇宙論に基礎を置く体系のどこかに正当化して位置付ける必要がある。それがidentityの始まり。

建築論

時代の可能性を誠実無私に空間の美学へと昇華する以上の建築学的命題が有り得るだろうか。だから史的建築家は私的な立場を最小化する様、務めよう。建築芸術最高の栄誉は個人的表現の完成より我々の都市の文明度にあると知るのだ。設計における進歩とは終生文明化という繰り返しの試みの中にある。

快苦

生命体の感覚といったものは化学反応の相対性の意味なので、我々がより高い精神的欲求を自覚して低俗な歓楽を軽蔑するのは割に合っている。苦痛が無ければ快楽は本当によく味わえないのだから、人間の本性に基づく限り大事なのは苦痛の質を非肉体化するのに応じて高尚で精神的な快楽を味わう事。
 尤も、肉体の保養はこの様な生活態度がもたらす中庸の徳を最良とする。本人が禁欲主義と享楽主義の何れかを主観的信念と定めるかに関わらず、客観的には、我々の肉体的快苦もこの仕方で頂極される筈。

2005年11月23日

芸術家論

芸術に於ける同時代評価と歴史的重要性は我々にとって残念ながら大抵の場合、反比例する様だ。もし君が偉大な芸術家として大成したいなら、評価を受けたいという浮気を捨てるが良い。尤も、趣味的条件に本気で打ち込むには高い自覚と相応の覚悟が要る。

信仰の究極地点について

信仰の基本目的は自らの精神的安定によって人生観を程あれ固定することにあるだろう。だから信仰が全く「無い」ことはない、その場合、「何も信じない」という信念があるのだ。もし自信に到達すればこの目的、つまり無信仰、無信念、無心は当然達成される。そしてこの無心の立場でこそ自らが人間という普遍的実存である限り、多かれ少なかれ思い込みがある誰もの人間性を信じることになる。

独立主義

人間性に対する絶対的信仰の念が極まれば自信に到達する。ここで人間は自ら神格化し得る。この立場についての言い方は様々であれ、そこに信仰の終わりはある。これを私は独立主義と呼ぼう。

流通

刻一刻と過ぎる時間を通し人類間に絶えざる商材流通がある事実は、国益という次元を超え我々が文明を築く使命を一様に担う実存だと物語る。だから、経済の究極の形式は相利追求の持続であり、我々の生活環境が需給一致して行く経過はその結果である。企業の理想は為事を通じた人類奉仕への参与であり、最後には生命の救済だろう。

教育機関への所属について

学者にとって教育機関とは先ず第一に閑暇を確保する為に利用されるべきものである。

大成

百年前後の人生時間を如何に構成するかを計画して実現すれば誰でも大成できた。

スポーツマンシップについて

運動を勝敗の為だけの競争という地点から引き上げ遊戯へと改造したところに人類のスポーツマンシップの要がある。勝利は究極の目的ではなく、ゲームの規則としてのゴールに過ぎない。

教育機関の社会的意義

独学が教育機関に所属するよりどんな点でも学習にとって有利だとしたら、教育制度は社会福利の考え方以上の何物かではなくなる。学生や教員はその様な公認された保障によって保護される。それは昔学習効率の為だったかも知れないが、高度情報化以後の社会では単なる暇の言い方に過ぎないとさえ思える。しかしその様な教育制度の堕落した残骸から先にもやはり多少の社会的価値はあるのだ。つまり一定の知的水準を維持するダムとして。学歴と呼ばれる肩書きの体制は社会的に、知的採算における資格試験の様な役割を担う。しかしこのシステムの堕落も必至である。なぜなら観想自体を目的にする純粋学術的営為は決して政経的価値に還元し得ない筈だから。よって現代教育の可能性は独学にある、と結論づけるのは自然である。尤も、これを研究と名付けている。研究機関の合理化を推し進める程それは組織体を失うだろう。だから未来の究極の教育は自己教育である。同時にその日まで教育機関は社会的意義を失わずに改良し続けられるだろう。

同時代性

芸術家としての仕事は同時代に抜きん出る事にある。

2005年11月22日

抽象

芸術に於ける抽象化(人工性の具体化だが)は、否定し得ない傾向である。芸術の論理は抽象化にある。しかし、それは何を意味するのか。
 私は抽象化された世界に親密さを見いだす。反対に、自然なままの世界は原則として生活に不向きであることを知っている。
 つまり人間的環境構築の意志が芸術性に他ならない。美と我々が呼び慣らして来たものは人間的環境に対する尺度の言い換えだった。

建築論

自然と人工の組み合わせ方に未来の建築表現がある。なぜなら人工は自然の中にしか在り得ず、自然は人工を含まずにはおかないから。つまり我々の生活は理性の限りの合理性を環境に求める。都市とはこの結果なのだ。完全に合理的な環境があり得ない以上、自然から人工が完全に分立することはない。従って、建築表現は単体の造形を競う戯れを超えて、自然との調和に挑む空間の芸術へと進むだろう。しかし、この様な意志は常に存在して来たのであり、専ら普遍的なそれが自覚され得なかっただけである。理由は地域主義の隔離性にある。しかし普遍的様式はそれを乗り越える。
 現代に於いては個々の場所に適した同じ建築が建設されるべきだろう。技術の地球的な革新は世界中のどこでも、誰もに心地よい空間を最も合理的な仕方で建造できる。必要なのは都市に対する最善の解答であり、それは又、自然と人工を止揚して芸術化するものでなければならない。

可能な限り高級な人間であれ。

建築論

建築自体の合理主義化を時代の究極まで究めた後、自然との組み合わせという新しい場が開かれる。そして都市建設とは結局その作為。
 こうして理想郷の建設意志を建築芸術の目的に置く限り、都市建設に終わりは来ないだろう。例え詳細についてであれ、或いは都市計画についてであれ。

向上

学習能力がある程、人間的であり得る。だからこれを鍛える限り人は向上して行ける。君は肉体的永劫を得られない事を悔やまなくて良い。それは人間性の絶えざる神化の基礎だから。
 もし以上の論理が正しければ文明は没落しない。個人はその構成員である。自由が文明を建設する。

2005年11月21日

時間配分

老衰する迄にどう生活を構成するかが人生計画の鍵。
 睡眠時間を削ってまで学び働くより中庸を守って長生きした方が総時間で得。
 浮き世で栄華の満足を勝ち取るより歴史に偉大な足跡を残す方が名誉。

充足

肉体的充足が精神的活躍の素。

2005年11月20日

理想郷

理性的人間が生き延びる意志を持つ限り、地球を去る必要がある。太陽系は有限だから。
 保守的社会派は現世にのみ目を向けるだろう。だが観想は繁栄の理想を君に教える。知的ならば計画に喜びを覚えない筈はあるまい。それが実現可能な程、益々。文明の究極は理想郷にあるので、我々の活動に終わりはない。

幸福追求権

幸福を追求する以上の人間的営為は見当たらない。

リセット

もし君が産まれて来た理由を知りたければ死まで生き続けるしかない。そして我々を取り囲む社会に貢献するほど悟る。万一、ある個体における半永遠の生が手に入っても事情は同じだろう。則ち個々をリセットすることは全体の適応にとって肝心である。

2005年11月18日

手紙

世界には欲望が溢れています。
低俗なそれから良好なそれまで。
人はそれを追い駆ける生き物。
人間は頭脳という側面を鍛えられた生き物です。
だからそれなりの活動があります。
文明とはその意味です。
最小少数の最低不幸と最大多数の最高幸福を目指す行為は人間にとって最良の欲望だと思います。

2005年11月17日

建築論

自分がなぜ何の為に建築するのか、その理由が最大事だ。計画された諸物はこの思想の代替品に過ぎない。だから、思想を鍛えよう。実作は飽くまでもその確認作業と見なさねばならない。
 もし君の思想が変われば実作も合わせて変わるだろう。けれども実作がどの様に変化しようとも建築家の心底にある諸形相を造出せしめる理念は不変だろう。建築家自身の考え方が全ての実作を指揮取る。つまり都市は究極的にこの様に出来る。
 建築する先に何を目指すのか、それが問題だ。建築物そのものは飽くまでも理想の身代わりに過ぎないと気がつかねばならない。
 建築し続ける先にある自然物と人工物との調和、即ち宇宙化という理想の具現を最も単純な形で現さねばならない。
 未来建築物の型を創世せねばならない。
 できる限り単純化すること。可能なだけ原理に忠実に基づくこと。自然物を意識的に造形要素として扱うこと。人工的なものと自然的なものを極限まで純粋な地点へ還元しなければ明確な解答は出せない。
 取るに足らない様々の表現と名作との決定的差異はある明晰さ、つまり解答の自律性にある。建築が芸術となり得るのはこの解答の判明さ故なのであり、素材の構成における統一化の意志である。
 建築は人間の巣である。と同時に自然と宇宙の理性的形態である。
 だからして均衡性や力動性の探求という造形芸術の文法に緻密に則りながらも環境としての責任を果たさねばならない。それは都市の文明化を通して世界秩序を理想化せしめんとする力である。
 私が建築する理由はこの様な合理的環境の建設にあるのだ。それは人間の生きる理由と同義である。

2005年11月12日

我々は総じて自然である、と悟らなければならない。人工とか芸術とか呼んで地上の生命体や天体から人間が区別したがっている事物は全て、我々自身が創り出したわけではない。精神と呼び慣らすところの自覚したエネルギーが既成のそれらに多少の変化を加えている、というに過ぎない。つまり我々やその活動は我々を含みつつも取り囲む宇宙の莫大な構造の、微細な部分的営みなのである。日用の言語が自然を不自然と対置しと利用されているのは驚きに値しない。専ら対立する観念があらゆる概念、普遍的観念の初源なのであるから。
 とは言え、もしも上記の文脈を鑑みるなら、それは甚だ便宜的解釈であると思わねばなるまい。
 人工が自然環境を破壊するとか現世の有識者が述べているのは少なくとも私にとっては不信である。現に、生命の基本的欲動でありしかも最高の目的であるはず生存を人間も担うと我々が知らぬわけはない。ともすれば自然を自覚的に保護養生するのは人間だけである。あとの生き物は只単に自らの為に利用しているに過ぎない。つまり人間だけが全生命体の幸福の増進という理想を感得し得るのであって、ここにおいて人間の栄光が確立され得るだろう。
 人間が自身の目的をきちんと考えるなら、生態系の均衡を取るのは必要なだけでなく使命なのだ。理想郷を建設しようとする意志を文明と呼ぶ。
 地球号の寿命は太陽系のそれに依存している。だから我々の文明は宇宙化されなくてはならない。自営大系としての地球船が生き物達と共にこの青い星から旅立つのはいつの頃だろう。

名月

写し世を照らして廻る名月

価値

価値を求める行為を生活と云う。そして価値を求められなくなったとき死んでいる。どの世でも。

自分

人間に可能な限界としての神化を志す事は我々の使命に他ならない。なぜなら進化の方向性は種内競争の永遠の向上としての自己目的化に照準されてきたのだから。ここにおいて幸福追求の権利や万人平等の理念が正当化され得る。例えば社会建設における貢献度が成功と一般に呼び慣らすものの判断基準になるとすれば、最も広い意味で働くことはこの為に行われているのだ。人間という生命は自由を持つ機械であり、また宇宙を多かれ少なかれ自覚的に再創造するという点で精神的なのである。
 そして獣性の洗練化、活動の精神化即ち昇華という方法で我々は絶え間無く向上して行ける。
 というか、取りも直さず生きるという事実は向上の軌跡である。それは義務ですらあり、逃れ得ない拘束だ。結局、専ら堕落という事はあり得ない。人間にできたどの様な危害、兵器その他に拠る同士討ちも慈悲の想いを分かち得ないどんな動植物よりは、せめても尊いのだ。だから我々は向上を目指そう。明日は昨日の自分より良くなっている事、未来は過去よりも幸福になっていく事を信じ続けていよう。この様にして我々の普遍的自分は人間信仰、少なくとも精神のそれ以上にある。

2005年11月7日

建設

我々の先には社会建設という巨大にして無限の目的がある。往々にして日常とはこの為の働きなのだ。我々はどの様な点に於いてもかつて地上に繁栄した如何なる生命体と変わらない。二足歩行を武器として生存界の頂点に躍り出たと自ら考えている一種である。未来の全てについて悟るほど賢くはない。少なくとも今は。
 文明は彼らの巣であり、彼らの作業である。歴史とはその結果。

2005年11月6日

栗アイス

都会にて季節を告げる栗アイス

歳寄り

君は野原を這うライオンになる。辺りに見当たらない獲物を探している。空には輝く太陽があり、地には生い茂る雑草がある。そして孤独の中で、生き延びる手法に想いを廻らせている。
 君は遠い海を想像する。地中海の全てを明から様にする天空の下で、デッキチェアーに座って白い葡萄酒を傾ける。次に山奥の別荘を想像する。小川のせせらぎが鳥のさえずりに重なって、変わらない何事かについての詳細を奏でている。君は窓辺に立って深い思索に浸り、無限点の先を見つめている。
 しかしそれらは今は単なる幻想である。君は砂漠のような茫漠たる緑の平原に置かれていて、目的の分からない生き残りに駆り立てられている。生き延びねばならない。熱くたぎる血潮が語る湧き上がる本能のままにやって来た。けれどもう帰るべき仲間達の空間はない。群れは老いた君に、不要のラベルを突きつけたのだ。
 僕は日本の都市にいる。仕事に明け暮れたある日、君と街で会う。言うまでもないことかも知れないが、そこは小さな動物園だった。
 我々は数秒間見つめ合った。何かが取り交わされたように思えた。けれど気のせいかも知れない。サバンナから連れて来られた檻の中の年老いたライオンと、コツコツと真面目に生きて来た、少なくとも周りにはそう思われている名も無き僕との間にどんな対話がある。
 そして、僕らはその場を去った。

2005年11月5日

この文章

空から舞い落ちて来たひとひらの欠片かけら、光が地球の雰囲気を形成した。君は銀杏並木の下で、繊細な木漏れ日の中を歩いている。隣を流れる小さな川から聞こえる囁きが掛け替えのない時間を作り出し、それは通りを走る自動車の騒音で壊される。君を含んだ何もかもが自然だと分かる。そしてここには心地よい空間が存在している。
 時はゆっくりとその横を擦れ違う。二人にはどんな接点もない。場所の空気の移動、風を共有したに過ぎない。そこには物語に繋がる如何なる要素もなさそうに思える。どんな始まりもないし、劇的な展開も恐らくは無いままに人生の匿名的な一ページが過ぎ去って行く。
 我々はけれども、ここではこの文章を支配している。というより少なくとも筆者としての私は、どんな時空間をも形成することができる。

2005年11月2日

文学的価値について

文章が言語の美術性を有する時、それは文学的価値を持つ。しばしそれは金銭的価値や思想的価値と比較されるが実際の所は、文章を構成する美的技術にしか文学性はない。こうして、書くという事は芸術制作に成り得、それを文芸と呼ぶ事もある。