2005年11月12日

我々は総じて自然である、と悟らなければならない。人工とか芸術とか呼んで地上の生命体や天体から人間が区別したがっている事物は全て、我々自身が創り出したわけではない。精神と呼び慣らすところの自覚したエネルギーが既成のそれらに多少の変化を加えている、というに過ぎない。つまり我々やその活動は我々を含みつつも取り囲む宇宙の莫大な構造の、微細な部分的営みなのである。日用の言語が自然を不自然と対置しと利用されているのは驚きに値しない。専ら対立する観念があらゆる概念、普遍的観念の初源なのであるから。
 とは言え、もしも上記の文脈を鑑みるなら、それは甚だ便宜的解釈であると思わねばなるまい。
 人工が自然環境を破壊するとか現世の有識者が述べているのは少なくとも私にとっては不信である。現に、生命の基本的欲動でありしかも最高の目的であるはず生存を人間も担うと我々が知らぬわけはない。ともすれば自然を自覚的に保護養生するのは人間だけである。あとの生き物は只単に自らの為に利用しているに過ぎない。つまり人間だけが全生命体の幸福の増進という理想を感得し得るのであって、ここにおいて人間の栄光が確立され得るだろう。
 人間が自身の目的をきちんと考えるなら、生態系の均衡を取るのは必要なだけでなく使命なのだ。理想郷を建設しようとする意志を文明と呼ぶ。
 地球号の寿命は太陽系のそれに依存している。だから我々の文明は宇宙化されなくてはならない。自営大系としての地球船が生き物達と共にこの青い星から旅立つのはいつの頃だろう。