2015年12月31日

死ぬ直前にやるべきことを今やれ。
 沈黙は金なり、黙っていればばかはばれない。徳を撒くものは名声を刈る、賢者は森羅万象を語るべし。

哲学

哲学は万学を考究するという姿勢にほかならない。

2015年12月30日

人格

人格が人間への最終評価である。学歴と人格は関係がない。

建築論

建築が人を感動させるのは、最終的に精神による。地域や作り手によってそれは異なる。構造や装飾は表現手段である。

2015年12月29日

戦争

戦争は最悪の政治形態である。徳川は平和をつくり、毛利、山口県人、島津、薩長土肥、坂本龍馬、そして天皇家は戦争をつくった。150年間も50年単位で大戦争を作り悪政を執っている薩長藩閥、そして世襲独裁一味、奈良の宗教団体の長、皇族閥は極悪非道である。

科学

科学とは疑う事である。

社会学

貧しさは卑しさと連鎖しやすい。教養教育、道徳的認知、語彙、文化資本といった要素を身に着けづらくなる。

幾筋にもつらなった今が
流星群の様に僕の目の前をすぎた
耳を塞ぐほど悲惨な事件も
まるでどれもが一幕の劇だ
僕は君を呼んでいた
遠くつらなる雲のむこうに
飛んでいく鳥
夢は覚めないまま
新しい宇宙を作りつづけるだろう
僕は君を探している
果てなくつづくこの現実のうちに
夜が明けないままで
飛んでいく鳥
まるですべてが一幕の劇だった

2015年12月28日

書道論

字体を改良するのが書道であり、習字とは字体論である。独創的な現代字体をうみだすのが書道の美術的意義である。
 楷書あるいは永字八法は筆向けの古典的字体であり、現代のボールペン字の為のものではない。現代字体の規範はむしろゴシック体に近づけられねばならないだろう。
 書道は意味を伝える事が第一義であり、色彩で視覚的情景を美化する絵ではない。この為、文字の形格好より、記号化した象形文字以後の単位図形が単純で、かつ、誤解がないほどにそれは望ましい字体となる。

2015年12月27日

幸福論

自他に徳を最大化する事を利他性という。幸福とは最高利他性である。

資本主義論

人の為になればなるほどより大きな資産をえる。金儲け自体が悪なのではない。よい商売と悪い商売があるだけだ。

2015年12月26日

慈善

慈善や寄付、施しも、程度問題である。怠惰や悪辣の徒を、善良で勤勉な人と結果平等にしすぎるべきではないからだ。

思想

全ての思想はどこかしらまちがえている。
 科学並びに哲学が揺らいでいる仮設のものである限り、国家は堅牢な建築では全くなく、豆腐の上に偶然できた泡の様なものである。
 ある時代の体系的教育は次の時代では意味をなさない。

停止

もしそこで
世界が停止していれば
すべてはうまくいったろう
だが物事はとどまらない
もしだれも
あなたをしらないままなら
世界はかわらずつづき
春夏秋冬をくりかえしつつ
順繰りに翻っていたろう
もうだれも
あなたをしることはないと
もうだれも
あなたの声をききはしないと
凍った雪の中で眠っていられたのだろう

2015年12月25日

奈良テロリスト

天皇はただの奈良のテロリストである。やくざの家の近くに住むな。

テロリスト

極悪の薩長土肥に関西人悪魔の天皇テロリスト
極悪の薩長土肥に天皇家悪魔の関西テロリスト
極悪の薩長土肥に安倍麻生悪魔の皇族テロリスト
極悪の薩長土肥に関西人悪魔の京都のテロリスト
極悪の薩長土肥に天皇家悪魔の奈良人テロリスト
極悪の薩長土肥に関西人悪魔の東京テロリスト
極悪の薩長土肥に関西人悪魔の滋賀人テロリスト

資産調整

イエスやゴータマ、ムハンムドら旧教の聖人は、資産格差の低い社会の方が大格差のそこより幸せを感じやすいと見抜き、その為に慈善、寄付、喜捨といった自主的資産調整を勧めていた。

2015年12月24日

東京善政論

都民の利権にすぎない競技場建設は中止、談合五輪も政府主導で撤退表明し、予定地には東京原発を建設するのがよい。また、旧江戸城(徳川宗家領地、旧皇居)の一部、さらにお台場に次々、東京第二原発、東京第三原発を建造、これらによって地方から東京都内の会社の原発は全廃できる。同時に、放射性廃棄物の最終処分場は都民の目の届く高尾山に閣議決定せよ。東京のごみは都内で処理が当然である。

情報学

情報はただになりたがる。

暴力団

暴力団は暴力で亡ぶ。天皇暴力団、即ち奈良出身の桜田組も何れ敗れる宿命である。

医学

近い将来、精神医学は単なる占いをこえないものとして崩壊し、元祖フロイト理論の破綻があきらかとなってから、薬理学に回収される。なぜなら物質のみが現象だからだ。

2015年12月23日

動物社会学

すべての動物は、異なる。即ち変異。
 人も地域集団によって異なる国をつくろうとする。国の相違はつねに変異である。

生物学

知能に高下はなく、多岐性があるだけである。ある経験または演繹的学習歴が長大に及ぶか難解な時、その特殊性が有益なら集団の他成員に優越しやすい一方、先天的な多様性つまり本能の傾向のみで、集団成員や他の生物に有益な場合もありうる。この為、ある生物集団における知能の質は単一ではない。

学歴

学歴の意味は学習歴であり、仲間の履歴が様々なほど効用があり、その目的は多様性である。

体力

必要十分な体力は、職種あるいは立場によってことなる。

2015年12月22日

冗談

他人を傷つける言葉は誹謗中傷、侮辱罪、そしりという。冗談とはいわない。
 多くの関西人は、侮辱罪を冗談と取り違えている。故に、常に刑法犯罪をつみかさね、既に関西一帯が犯罪地帯となっているにすぎない。
 冗談とは、自分自身の欠点または害のない事についての機転である。

2015年12月21日

模範

やくざを模範にする者はやくざになり、聖人を模範にする者は聖人になる。人は模範とする者に似る。

心理学と精神分析のあやまち

心理学や精神分析は、ある行動類型にかなうとみなした人々を枠にはめ、その型を反復的に解釈する意で単なる確証偏見の体系にすぎない。
 逆に、真の心理あるいは脳の細胞構成は脱類型的なものであり、常に例外事象である。心理学と精神分析は単なる類型解釈理論にすぎず、既成事実への便宜的分類にすぎない。しかも、それら例外的精神はたとえ有害なものであれ、有益なものであれ、全てが個性にすぎず、病気だとか障害だとか差別言辞で片づけてよいものでは全くない。つまり、心理学と精神分析は単なる差別の方法論であって、産業革命以後に連鎖的におきた商工業化の際に生じた、第二次・第三次産業に不適応な個性を柵の中にとじこめるための、悪意ある自称学問だった。

発明

そのまま火とIHにもかけられるよう、金属製の薬缶または南部鉄器でつくられた金属製電気ケトル。

産業

衆愚へ何かを作ってはいけない。下種相手に仕事するな。高貴な人の為に仕事せよ。聖に奉仕せよ。

2015年12月20日

政治界

暴力を正義ととりちがえるという悪習は、人類の最も救いがたい性癖の1つだ。薩長土肥や関西人が自分たちに都合のよい商業社会をつくろうとした結果、より能力の高い関東にまたおいこされて発狂する。天皇家は関東人に成りすまして暴虐の限りを尽くす。西国人は暴力に訴える。暴力で不正を正当化する。西国中心の中華史を周辺地域侵害の合理化でぬりこめる。この種の錯誤が、より愚劣な民の上に常態的に存在する。英米仏ら連合国は地球規模で暴力団行為をつづけてきた。要するに、政治上の正義、あるいは政治権力は暴力にすぎない。民主的な場合は数の、貴族的な場合は談合の、王政的な場合は絶対の暴力。賢明な人類はこれゆえに、政治界、つまり暴力社会を避けている。政治的な人物とおもわれるのは暴力性の証明なので、野卑な者しかそれを好まない。

商売論

商売人はすべてやくざであり、その国で最大の暴力団を政府という。搾取は実質的に資本の乱用であり、取引相手方への奴隷化にすぎず、ただの悪習である。資本主義陣営はやくざ稼業で異なる規則の他者を弾圧してきた。帝国主義、侵略主義、植民地主義、中華思想はその類型であり、日本国内では奈良、京都、東京がその種の蛮風をもつ典型である。世界で最悪の暴力団長は天皇家であり、宗教をも悪用し民衆を洗脳しつつあらゆる暴虐を振るってきた。薩長土肥ら明治新政府以後の薩長藩閥すなわち自民閥、また歴代幕府はこの皇族閥というやくざの総元締めへ加担してきた悪魔にすぎない。

都鄙の調和

感受性の乏しい人はなにをみても感動しない。ある心の貧しい長野人は、私が心から賞賛する日本最大の平野を占めた一大穀倉地帯、悠久の営為をこえて地平線まで稲穂の実る鮮やかな光景を荒地と呼びながら、汚泥にみちたコンクリートと塵芥の中に住み、親元から送金されたわずかな金を握って無礼千万を働き驕り高ぶっていた。その人にとって自然は物言わぬ対象であり、カントのいうよう、その人は都会の退廃と不徳を愛好する点で完全な悪趣味である。
 この種の都会かぶれは、本性から害他的となって群れ集い、反省の余地がない。自然が美で都会が醜という意で、ロマン主義の立場は商工業、特に商業のうみだす諸現象へ批判的である。少なくとも、農園の美を否定している面でこれら都会デビューの新興商人は国民の9割が農民だった時代を蔑み、まるでその牧歌的な農村社会からはきだされた自己を正当化するべく、都会の悪徳を礼賛する。つまり、金儲けを主義とするこれら関西、薩長土肥、西国藩閥系の成金根性は、単に拝金業商になる事を近代化ととりちがえたままにすぎない。それは文明化ですらなく、ただの人口減退策だというのに。あいかわらず農業は努力と勤勉で進歩しているが、働くほど賎しく貧しく浅ましくなるサービス関連の商業に従事する個々人に比べれば、利率がよいままだ。人類に食べものが不必要になりえないかぎり、全商人も農に全面依存している。第一次産業がきえてしまえば第三次産業以下も必然に亡ぶ。
 本質的に、前述のたぐいの都会かぶれたちは、農村において不必要なだけでなく余計者であった自分のいたらなさや社会不適応性を、特に都会の競争的で悲惨なくらしを合理化するのに用いているだけの、情けない下賎の民である。これら下民は、人口減の目的で都会につどっているだけではない。その退廃は反面教育として、その搾取はサービス競争として、いずれにせよ田園の善良で生産的な民への貢献についてしか価値をもたない。カントのもっていたロマン主義的態度は、ワーズワースらの田園詩人からきたるイギリスの王室、バルビゾン派以後のフランスの画家ら、はるか以前の時代の陶潜にみられ、中世の芭蕉や近代の雨情にも典型的にみられた田園賛美であり、私自身のもつ趣味の正格とこの都鄙の道徳的対置は一致している。
 モンドリアンのよう都会を称賛していた近代主義者たちは、不自然を理性の産物とおきかえた為に、都市と田園の調和という大観をできなかった。懐古趣味や逃避癖に陥り、山奥や古都に逃げこんで文明の利器を拒否してくらす原始主義者は、それにもかかわらず未開とされる段階の医療やインフラ水準に戻ろうとしない。都会の美とされていた商業趣味は、その醜悪とコインの裏表である。

ナショナリスト

日本を中国に対立させた天皇家というナショナリストがわが島の世襲独裁の系譜だった過去が、わが島におきた全不幸の中で最悪のものだろう。

後資本主義の平和政治論

極悪の資本主義者たちが、金儲けによる格差社会とその非人道性を全く認識していない事は目のくらむほどの愚昧さであり、特に、功利主義を下敷きにした欧米人たちの自己中心な下劣さと無知、無恥は信じがたい質だが、それに輪をかけたこの種の愚行、つまりイスラム教の聖書すら手にしたことがない連中の異なる宗教あるいは民族への無理解は今に始まったことではない。野蛮とは、この種の暴虐を合理化した無知としての自己中心性、自民族中心主義、自文化中心主義、中華思想の類だ。天皇家、京都府、東京都、奈良県、大阪府、兵庫県、こういった神道の教祖が在住した事のある地点の人々に既往のこの種の罪深い傲慢は、英米仏といった連合国の衆愚にも当然みられる類のおろかしさである。連中は金儲けが悪である、という1つの思想的立場についてすら理解が及びはしない。そして悪とみなした非利己的な仲間への暴力を正当化している己達が、いかに卑しく浅ましく、どれだけ品性下劣でも何1つ反省せず、集団心理を濫用して異なる宗教、異なる哲学、異なる信念と理想をこれら衆愚は心行くまで弾圧する。関西、薩長土肥、西日本、東京、神奈川、名古屋、英米仏などの商業主義者の殆どは、現代の水準においては、『コーラン』を理解するほどの知能も、その聖典を読む暇も意思をももっていない。成程私の目からはこういった連中は野蛮である。しかし、これら野蛮人は暴虐を続けることを誇りに思っているので、ひたすら犠牲になるのは正義を報じる信心深いイスラム教徒だ。喜捨と搾取は真逆の経済行動なので、英米かぶれ、神道かぶれ、関西かぶれ、東京かぶれ、名古屋かぶれの功利主義者たちにとって、イスラム教徒が何に不徳を見、何に憤るのかすら理解は及ばない。この意で、資本主義は確かに極悪である。なぜなら無知を合理化するからだ。
 あるべき態度はこの極悪の思想、資本主義とそれがもたらすあらゆる社会的影響からできるだけ離れていることにすぎない。上からみる事に過ぎない。喜捨、寄付、慈善による社会秩序、イスラムの理想郷は確かに、その信念に関して最上の社会であり、英米仏あるいは薩長土肥や関西東京中部の求める搾取、奴隷、労働、金儲け、人殺しの資本主義社会に比べずっと美しい。新渡戸武士道と共通項のみいだせる喜捨社会をめざすイスラム原理主義の理念は共産主義をこえて理想的であり、そもそも社会がそうあるべきだった姿、わが国で最低でも30万年以上と最も歴史の長い原始縄文制、つまり資産のかたよりがない共和社会に近い面で普遍的な理想でもある。イエス、ゴータマ、孔子といった聖人も、マホメットとことなる理想国を思い描いたのではない。
 資本主義諸国の愚者が喜捨社会へどれほど無理解で、その理想と望ましい人道に無知蒙昧で、どれほど利己的で卑しく、共感能力に関して低知能であっても、それら愚者、例えば安倍晋三だとかバラク・オバマだとかデビット・キャメロンだとか、フランソワ・オランドだとかいった異なる宗教やその仲間へ暴力を振るう悪魔的人格破綻者たちがわれわれの世界の有害な存在者である限り、遅かれ早かれ全宇宙からかれらの権力は除去される。日本国を裏から支配している天皇の権力もこの意で除去される。単に、当国家集団の民衆の賢明さがその速度をはやくするだけである。だから、われわれは異なる宗教に対して何1つ不寛容になる理由がない。それどころか、理解深く、思慮深くあってよい。可能なら、私がそう考えるよう、イスラム教の理想、喜捨の法を新設し、搾取を正当化する商法の上に位置付けてもよい。たとえば喜捨を納税分のほかにも、営利法人と営利的個人へ儲けた分に応じて義務付け、違反すれば加えて課徴し、懲役するとか。そして天皇家を含む邪悪な資本主義者たちが、その狭量さとおろかしさとで世界侵略をできないよう、十分な権力をわれわれ、異なる信仰についても十分な学習意欲をもつ高知能な側が持ちたい。もつほかない。こうして、現代資本主義者たちはすべて否定される。イスラム原理主義側の反宗教権力者らへの恐怖政治もまた、全ての連合国ならびに天皇、薩長らのそれと共に、歴史上に合理化されるだろう。
 とはいえ、私自身が恐怖政治を信じる者ではない。逆に、その手法を以て権力を握ってきた薩長者、或いは象徴と述べた世襲君主の地位にとどまる天皇はじめ暴力を報じるいかなる宗教家に対しても、つまり現代の英米仏露中、そして倭王朝や明治政府以後の日本の政治家連にも、同党の意で退位を命じるものである。さもなければ、暴力に対して暴力で抗うイスラム教徒によってそれら、資本主義暴力団らが逆に駆逐されるほかない。
 要するに上述の事は、一切の資本主義的活動とそこから及ぶ暴虐を認めるなら、同等に、イスラム原理主義者のそれも認めるほかないという、世界史における思想多様性の肯定的立場であると同時に、両者の理想の違い、資本主義者は搾取、イスラム原理主義者は喜捨の世界をめざすものであって異なる国をつくるだろうが、わが国においては思想と信仰の多様を尊ぶものであるから、前者、つまり資本主義者のみの暴虐をみとめることはできない。したがって、集団暴力にすぎないいかなる政府組織も、小型のそれであるイスラム国を否定することはできない、それどころか、政党、仲間、地域の地方自治体あるいは家族、相棒すらすべて小型の国家なのである。だから、わが国においては、天皇や長州閥、薩長藩閥、徳川家ら武士団の暴政を嫌々ながら認めてきた経緯がある為に、イスラム武士団のそれも公認しなければならない。さもなければ、人類はそれら全権を否定し、私という平和主義的個人、それが叶わなければ私と同等以上に平和主義的で公徳に満ちた個性へ政治に関する全権を委任しなければならないだろう。この最後の選択肢をわが国の民衆がとりそうもなければ、イスラム武士団の成功を私は祈り、天皇や薩長藩閥、それどころか英米仏といった連合国暴力団とその悪質な搾取の慣習を地上から除去してくれるよう祈るものである。また、もし私に国の政治の全権が委任されれば、私は搾取派と喜捨派に調和をみいだす法をつくりだすだろう。

政府機関の水戸集積論

つくばをはじめ高度な研究機関の集積効果を駄目にし、地方振興の本質である経済効果となんら関係のない政府機関の地方分散はまったくの悪手としかいいようがない。特に文化庁や理化学研究所をほしがる京都は中華思想の極悪の伝統を継ごうとしているにすぎず、再び地方蔑視の原因となるのみだ。政府機関は、一切をあげてつくば近郊の茨城水戸に遷都し集積するのが望ましい。そして地方振興は、公共事業を興すことでの経済政策にかぎるべきである。

2015年12月19日

美術論

美術は、その人の精神の写しである。

伝統

地位や身分に惑わされる事なく、尊い人とのみつきあうがいい。天皇も卑しく、乞食も尊い。下賎な者が象徴や権力者であったなら、その国は卑しい。下賎な者が崇拝されているならその国は卑しい。ある文化資本のもち主がどの位におかれているかをみよ。その地域における尊卑の文脈は、仲間の過去である。卑しい伝統をもつ仲間とつきあうな。尊い伝統の仲間とのみつきあえ。尊卑は伝染するからだ。そして尊卑が、その仲間にとって幸福の中身である。
 尊い仲間がみつからなければ、ただ一人でいる方がよい。サイの角の様にただ一人歩め。卑しい仲間とつきあい下俗に染められるより、孤高の趣味に遊ぶ方がよい。一人でくらせないというなら、自らの次に最も尊い一人とのみ歩め。必要がなければ、下衆と会わないのがよい。社交性が益するのは下賎な者においてである。その下賎な者に比べ社会の成員はみな尊いからだ。このため社交を要する生業を好む人間は、みな尊い人達より比較して卑しい。弟子のいない聖が最上であり、一人のみの弟子をもつ聖がその次位である。弟子の多い聖は既にして俗である。最上の聖は常に隠者としてのみくらしているだろう。

徳政論

政治家はあしき商売人の総元締めとして自分自身が民から搾取し、民の奴隷化を行い、権勢を振るうという俗欲の為に、人口をふやしたがっている。たとえ日本国が亡び、天皇家が土に還ったとして、宇宙はそれをなんら顧慮せず続く。奈良盆地にいた世襲の宗教権力者が成り上がりの俗欲で人々をだまし、星中の蛮族と殺し合いさせる。全て俗悪な政治屋のやくざ稼業にすぎない。成程、政治屋のなかにも少しましな者がまぎれているかもしれない。わが県の現知事はその一人であると私は信じるが、その上司である首相だの天皇だのが、なまじ薩長だの関西だのの蛮族であり、国連に至っては侵略犯罪を自己正当化した上に立つ極悪の集団であるというのだから、たとえ世界で最も高貴な県茨城が至善に止まっても、野卑な県外人が我らの徳を見習うとは限らない。それどころか、下衆な日本国民達は天皇の悪業を崇拝し、わが県の高徳をそしる始末だ。一つだけ確かなのは、下賎な民の中で下賎な天皇家が崇敬されていたという事であり、従って、愚民の上には辛き政治があった。
 高貴なる人間である為に政治がなんら役立たない限り、暗黒時代史にその名は現れない。つまり、現代は暗黒時代なのだ。
 他方で、こうも考えられる。ある時代の道徳からずっと進んだ一人の理念の中では、どの時代も暗黒であろうと。目的の王国、文明の太平、理想郷、桃源郷、神の国、様々な夢想家がいいあらわそうとした当為としての社会は、政治家によっては不完全に到達されるのみである。それどころか、民主主義等という意味のない誤訳された考えで、衆愚のえらぶ最低程度の首相、或いは天皇の元では決して、当の顕現ですら我々を満足させることがない。実際、私の眼には近現代の薩長や英米の悪政も、又、天皇という奈良出の新興宗教祖による隠蔽工作的な独裁も、それらをうのみに崇拝している愚民らも、一様に非社会的である。それらの反社会的存在が完全に反省し、縮こまり、或いは十二分に駆逐された社会が、本来のあるべき場所である。

地元

侵略を誇る野卑な南西日本と同じ県民でなかった事に感謝しなければならない。侵略犯罪で成り上がった極悪の世襲宗教家兼偽装世襲君主の天皇家では自らの家がなかった事を、先祖に深く感謝しなければならない。救いようがない退廃的下賎風俗の東京都民や関西地方民、名古屋民では自らの地元がなかった事を、神に感謝しなければならない。世界中の人類を殖民地奴隷にしようとした野蛮な西洋人や薩長土肥等の下人では自らの過去がなかった事は、当然ではあっても、幸運な歴史だった。

経済

贅沢が無いように
まるで自然かのように
人々が流れていく川だ
僕はほとりに立ち
連中の死屍累々を眺めている
人類の流されていく川
この川の底には彼らをくらう
幾多もの魚がいるのだ
宇宙の果てまでうめつくす
生命を分解していく物質
われらを構成しその曲を奏で
下劣も高貴も
一つにして流していくのだ
まるで自然かのように

老人

優れた老人になる為に努力せよ。

2015年12月18日

配偶論

家族や社会が決定することなければ性を否定しているのがよい。それが高貴なるふるまいであり文明人的態度だ。
 文明国では性売買はいうまでもなく、自由恋愛も消え、お見合いのみが残るだろう。

芸術論

芸術は趣味を啓発できるにすぎない。

2015年12月17日

名古屋ポトラッチ

名古屋社会は商売社会であり、名誉ある贈答の代わりに婚姻のさい大盤振る舞いをする事が、金を蓄積したという名古屋人にとっての誉れと認識され、その名古屋社会的地位を誇示する。他方、商を利己の証として蔑む地域にとってこの名古屋ポトラッチは浪費とみなされ、幾らかよりからかいの的となりうる。

2015年12月15日

娯楽

最上の娯楽とは哲学である。RPGは詩の一種であり、哲学を分かりやすく伝える手段である。
 賎民について想像する時間は無駄で、娯楽は常に貴族の為に存在すべきものである。尊い人の為に働け。

2015年12月14日

悪人

悪人は、自分が嫌がる事を他人にする傾向がある。善人がその逆な様に。

経済学

奢侈品(以下スズキ財、需給に関する無限性をもつ。即ち単なる顕示的消費の為のギッフェン財を補完する、母集合的概念)の使用を禁ずる事が、必需品(以下スミス財、需給に関する有限性をもつ)の供給をましはしない。それどころか、奢侈品が製造、流通、販売、使用されるまでに便宜品(以下ケインズ財、需給に関する限定性をもつ)の需給を促し、さらにそれらを消費するまでに必需品の需給を連鎖的に促す。従って、所得上位者が奢侈品を購買し或いは顕示的に消費する事は、微視的にみたとしても、巨視的トリクルダウン(滴下)理論とは別の立場から、単に経済成長の起因となる為、社会にとって有益である。この経済学的解釈を、ここではスズキ効果と名づける。またこれらの奢侈品はある文化的な活動を意味し、その社会における十分な生活を表象するものな限り、人類に望みうる最高目的物である。その上、スズキ財は需給に関する無限性をもつので、その高級化がなされるほど望ましい。次世代はその時代における最高達成形としての当財を、なるほど可能な限りあらゆる人々へ無限の需要を促す性質のものであるから、普及のため大衆化させようとする。こうしてある時代の貴族の教養、嗜みが次代では大衆娯楽となっている現象をみてとれる。と同時に、この新時代では別の奢侈品が既に需給されている。
 例えば仏教における上座部から大衆仏教、さらに日本仏教への展開、また、ユダヤ教からキリスト教を経てイスラム教への展開を鑑みても、宗教観念または信仰は当時の最高度の哲学のいいかえとして、形而上学的奢侈の思想的産物であると捉える事ができよう。一部の貧民がねたみ、うらやみ、ルサンチマンによって一部の資産家またはそうなりたがった勤勉な成金の奢侈、すなわち当の貧民には浪費にみえる閑雅な活動に対して、世論をあおり贅沢への禁忌を誘発した場合に、この社会における福利厚生は然るべき程度に低下する。甲の貧民が大不況の中で奢侈品の需給に必須の便宜、必需の品を供給する為の労役が根元から削減されてしまった事を、失業のうちに後悔しても手遅れなのである。
 他方、顕示的消費が経済成長にとって多少なりとも非効率の固定的な効果をもつ貴族趣味の産物に過ぎず、ある時代の無益な徒花であると見る向きがある。無駄の制度化を批判するこの立場における便宜性は、目的としてのスズキ財の観点が仮定されていない、旧唯物論的解釈によるものである。いいかえれば、貧民の最低限度的奢侈品の移行を、貴族の教養、嗜みの漸次的大衆化とみなすスズキ効果の観点を欠いている、と私には思える。
 なるほど、あらゆる貧民用の趣味が前時代の貴族にとってのそれであったとはいいがたい。この意味で、趣味の質がよく貴賎とみなされるのは、その時代の基礎教養程度からみてのスズキ効果をよく説明する筈だ。ある時代に達成度の高い知的状態、例えば江戸時代頃の関孝和による微積分の使用が、現代には高校数学として普及されている状態、あるいは、当時の江戸町人の浮世絵が東京商人の漫画に関する好みと対比されるような場合に対して、当時の数学水準を引き上げたイギリスのニュートン以後においてもなお、PISA(Programme for International Student Assessment)の数学成績が国際水準において下位の当国民衆の存在を否定できないとか、テニス或いは蹴鞠という旧貴族の娯楽が一般国民の間では野球やサッカーに比べ不人気である(しかし貴族側に大衆娯楽が遡る事は殆どない)といった場合が観察できる。いわば、スズキ効果には順繰りに貴族趣味の大衆化がされるときと、それが非常に遅れるときの2つの場合がある。後者については大衆娯楽自体でしかないものが貴族側に需要されづらい現象もある。つまり当時の大衆の道徳性にとっての娯楽が、彼らの求める奢侈嗜好品なのである。遅延したそれについては、ある時代の貴族に求められていた基礎教養そのものが、産業と並んで或いは別個にリベラルアーツの構造的改組で多少なりとも変化し、趣味の模範もが変質するための連鎖的現象であると説明できよう。ある貴族性が古典的となり、次世代では時代遅れとみなされる場合もあるが、これについても、その古典が当代の実生活に何ら役に立たないが故に却って教養学的、乃至、虚学的な権威を有することになるにすぎないだろう。要するに、趣味の質的変化は単に唯物論に基づいたものではなく、その社会で尊敬すべき立場の人々がより道徳的とみなす目的物の変遷によっている。もし、奢侈の貴賎とみなされている現象が単なる唯物論的変化であるとすれば、それは限定性のあるケインズ財の種類が変わるだけにとどまるだろうからだ。逆に、スズキ財に関しては、無駄や無為である事、つまり何らかの有限性にかかわらない遊びが顕示されうる事にその本質の一部がある為、工業的進歩とは半ば無関係に続けられて行くものなのだ。この観点は前石器時代から近現代をこえて使われる素材や支持体、研究媒体が立ち代わっても、当時の技巧に可能な最高度の芸術品、知識、道徳観念の需給が探索的に永続していく学術現象そのもので、たやすく理解されよう。
 そもそも、なぜ奢侈品が人生の十分条件かといえば、その無限性による。あればあるほどよい性質のスズキ財は、しかも、需要者の人生における限界消費量を満たしきれなくなった時点で私有財から公共財へとあふれ、その文化活動のもつ道徳性の限り人類の生活を豊かにしていく。

2015年12月13日

学問

哲学のみが学問であり、他の知識は語彙である。

仲間

人間は心豊かにくらす事以上の目的を達成しえない、いわば哲学的な仲間のよさの質と量を改良できるだけである。本質的に、人間の幸福は仲間的である。科学のみならずいかなる工学や技術、芸術も、この仲間の為の道具にすぎないだろう。そして場所でさえ、仲間の劇をよりよくする状況にすぎないだろう。

2015年12月12日

因果

英語帝国主義の海のなかで
口惜しく我らの言葉はさまよう
名残惜しくみなもを駆けて
飛び魚やらイルカやらが船を追いかける
下らない百済人の末裔が君をそしり
この島をいくらけがしていたとして
侵略主義の蛮族一切が無反省で
薩長土肥の無知蒙昧が直らないとして
万物を支配する規則をみよ
さもあたりまえかの様
君の両手は宇宙に縛られている
人間の心は変わることがない
さも大地におちた秋雨の様
君の肉体は因果の網の目を抜け出しはしない

2015年12月11日

町の風

新しき秋の風吹く
あの海へ
町の風
新聞紙滑らぬように嵐敷きけり

ゆずのき

ゆずのきをふりのこしていった秋雨
あらしのちふえた池の水に花気づく

変異

所詮、天才も障害者も、変異の一種である。

財政論

消費税+食品に減税は累進課税である。それと同時に、法人税を減税かつ、内部留保税を増設し、雇用ならびに給与所得の向上と庶民救済をはかるべきである。

啓発

相手に分かりやすい真理の啓発は最高善である。

2015年12月10日

晩秋

すこやかに吹く磯原の風暮れる秋

歴史

賢愚は過去を知る度合い。

自由

自由をてにいれて
このろくでもない世界を眺める
何がすばらしいの
いるのは聖人と衆愚
みえるのは月と地球
きみのゆめはなんだった
てにいれたものはない
失ったものであふれている
自由をてにいれて
このうつくしい世界を眺める
空転しつづける回転木馬みたいに
われらの星も宇宙をめぐりくる
命がうまれてはしんでいくさなか
みえるのは神につくられていく自然

2015年12月9日

稼ぎ

稼ぎとは中庸なり。かねもうけも、怠惰も、どちらものぞましくない。

慈悲のあて

悪人に慈悲をかけたら、自分までその悪にのまれる。悪人は悪人のままにせよ。善人のみをたすけよ。

金儲け

尊い人間は金儲けをしてはならない。卑しい人間が行うことをまねたり、似たことをしては誤解されるからだ。
 尊い人間は慈善と寄付に生きねばならない。金儲けではなく、寧ろ資産を尊き人達に分け与えねばならない。

賎民

卑しい人間達に触れたり、近づいたり、その考え方を学んだりするな。卑しい人間達の悪徳を身に着けずに暮らすには、賎民からはなれ奴らの近くによる事なかれ。卑しい人間が尊くなったり、高貴な者の考えを理解する事はない。卑しい人間はついぞ卑しく、尊い人間をそしり死ぬ。
 卑しい人間の考えを知る事なしに暮らせない国からは去れ。卑しい人間と共にいる事なしに暮らせない地域を去れ。尊い人間とのみ暮らせ。自らが尊く、卑しい人間しか周りにいないなら、卑しい人達と会話せず、至善に止まれ。自ら尊くあれ、又、自ら尊い人間とのみ付き合え。いかなる場合でも、卑しい人間とふれあったり、似たような空間にいるな。卑しい人間と同じ時間を過ごすな。自らの地位や金銭などいかなる物を得て維持する為にでさえ、卑しい人間達の生態を知らないべきである。
 卑しい人間から言いがかりされたら、その場を去れ。卑しい人間はついぞ卑しく、永久にその蛮行を恣にして死に絶える。卑しい人間のふるまいをまねたり、その人生観を決して模倣するな。

2015年12月8日

こどう

きみのこころは
つめたくさみしく
たすけることができない
かわりにぼくはめをつむり
きみのためにいのりをささげる
よるふかくに
もしあらゆることが
かなしくむなしく
うごきだすこともないなら
かわりにぼくがこえをあげ
きみのせかいにいろをぬる
あさはやくに
だれもがおきださないあいだ
きみのいのちがこどうをうつあいだ

2015年12月7日

変化

いつか変わるなんてことはない
いま変えるのだ

2015年12月5日

ゆめ

ゆめをおいかけよう
それはかなう

2015年12月4日

蚊の残党

蚊の残党テロを美化して死んでいく

2015年12月3日

物理本能

星は流れ、人は生む。

文明学

増えすぎる人口を抑制することを文明という。勧善懲悪に対する弱肉強食を自然という。文明は都会化させ、教育過剰を目的にした金儲けを奨励する。文明は口減らしであり、人間の多様化を試みる特殊地域である。文明の定義する文明的善は反自然淘汰であり、自己犠牲的な利他性である。
 一方、文明は生物界や全人類からみて必ずしも正義でも善でもない。文明は特殊的行動類型をもつ変化適応の蓄積されていく試みにすぎず、現実にはそれが極端化した時、環境適応度を最小化し滅亡を彩る徒花である。人類は文明を過信し自滅してきた。生物本能からみた文明は、不自然で、非適応的である。完全に多様化した人間は、相対的に弱小集団化し、滅び去る。野蛮における正義が、文明の利他的な善を破壊し蹂躙してしまう。
 野蛮は単なる行動類型であり、本能に基づいて行動している利己的集団である。文明によって奴隷化されなかった野蛮人は、必ず文明、都会を敵視しそれを滅ぼす。なぜなら、野蛮にとって都会化、金儲けは偽善だからであり、人間の多様化を強圧的に誘導する事は利己性にとっての敵意だからである。
 この二派は常に多少あれ敵対しあい、同時代的に抗争を試みあっている。ある時代の中心都市は文明を自称し贅沢を行うが、他の集団はその過度の大盤振る舞いを浪費とみなし、権勢を奪取したがる。こうして非文明圏とみなされた地域または周縁における技術革新をある文明化の現象自体が促し、産業転換による文明の移動が進んでいく。

いつしか君はいうだろう
われわれの前に並んでいた波のねも
消えうせる身のやり場のない困りも
星々のあいまでみた一瞬の夢だったと
いつしか君はみるだろう
解き放たれたときに
いつしか君はみるだろう
悲しみに打ちひしがれたときに
いつしか君はきくだろう
ねがうだろう
われわれの上に輝いている光のなか
すぎていく時代のうちに病みつかれ
あさやけをまちながら遠く潮騒を知る
いつしか君は起きるのだ

2015年12月1日

金儲け

金儲けでくらしている人間は、馬鹿である。それによって得られるもの、又えられた生活は、初めからない方がよいものだからだ。

英文法学

会話文のなかでは時制が現在形になる。

正義

金を奪い悪をたおせる縄文の人

衆愚の都会

夜深く
息もつけない合間
探していた人もみえず
星空のうちをさまよう
人の心がみえたとして
それがなんだというのか
探していた人は消えて
この世はなお広すぎる
朝になり
息を殺しつつ眠る
悲しみの音が響き
町で仕事がはじまる
待ち望んでいた未来
けど衆愚の都会があるだけだった