2015年12月20日

後資本主義の平和政治論

極悪の資本主義者たちが、金儲けによる格差社会とその非人道性を全く認識していない事は目のくらむほどの愚昧さであり、特に、功利主義を下敷きにした欧米人たちの自己中心な下劣さと無知、無恥は信じがたい質だが、それに輪をかけたこの種の愚行、つまりイスラム教の聖書すら手にしたことがない連中の異なる宗教あるいは民族への無理解は今に始まったことではない。野蛮とは、この種の暴虐を合理化した無知としての自己中心性、自民族中心主義、自文化中心主義、中華思想の類だ。天皇家、京都府、東京都、奈良県、大阪府、兵庫県、こういった神道の教祖が在住した事のある地点の人々に既往のこの種の罪深い傲慢は、英米仏といった連合国の衆愚にも当然みられる類のおろかしさである。連中は金儲けが悪である、という1つの思想的立場についてすら理解が及びはしない。そして悪とみなした非利己的な仲間への暴力を正当化している己達が、いかに卑しく浅ましく、どれだけ品性下劣でも何1つ反省せず、集団心理を濫用して異なる宗教、異なる哲学、異なる信念と理想をこれら衆愚は心行くまで弾圧する。関西、薩長土肥、西日本、東京、神奈川、名古屋、英米仏などの商業主義者の殆どは、現代の水準においては、『コーラン』を理解するほどの知能も、その聖典を読む暇も意思をももっていない。成程私の目からはこういった連中は野蛮である。しかし、これら野蛮人は暴虐を続けることを誇りに思っているので、ひたすら犠牲になるのは正義を報じる信心深いイスラム教徒だ。喜捨と搾取は真逆の経済行動なので、英米かぶれ、神道かぶれ、関西かぶれ、東京かぶれ、名古屋かぶれの功利主義者たちにとって、イスラム教徒が何に不徳を見、何に憤るのかすら理解は及ばない。この意で、資本主義は確かに極悪である。なぜなら無知を合理化するからだ。
 あるべき態度はこの極悪の思想、資本主義とそれがもたらすあらゆる社会的影響からできるだけ離れていることにすぎない。上からみる事に過ぎない。喜捨、寄付、慈善による社会秩序、イスラムの理想郷は確かに、その信念に関して最上の社会であり、英米仏あるいは薩長土肥や関西東京中部の求める搾取、奴隷、労働、金儲け、人殺しの資本主義社会に比べずっと美しい。新渡戸武士道と共通項のみいだせる喜捨社会をめざすイスラム原理主義の理念は共産主義をこえて理想的であり、そもそも社会がそうあるべきだった姿、わが国で最低でも30万年以上と最も歴史の長い原始縄文制、つまり資産のかたよりがない共和社会に近い面で普遍的な理想でもある。イエス、ゴータマ、孔子といった聖人も、マホメットとことなる理想国を思い描いたのではない。
 資本主義諸国の愚者が喜捨社会へどれほど無理解で、その理想と望ましい人道に無知蒙昧で、どれほど利己的で卑しく、共感能力に関して低知能であっても、それら愚者、例えば安倍晋三だとかバラク・オバマだとかデビット・キャメロンだとか、フランソワ・オランドだとかいった異なる宗教やその仲間へ暴力を振るう悪魔的人格破綻者たちがわれわれの世界の有害な存在者である限り、遅かれ早かれ全宇宙からかれらの権力は除去される。日本国を裏から支配している天皇の権力もこの意で除去される。単に、当国家集団の民衆の賢明さがその速度をはやくするだけである。だから、われわれは異なる宗教に対して何1つ不寛容になる理由がない。それどころか、理解深く、思慮深くあってよい。可能なら、私がそう考えるよう、イスラム教の理想、喜捨の法を新設し、搾取を正当化する商法の上に位置付けてもよい。たとえば喜捨を納税分のほかにも、営利法人と営利的個人へ儲けた分に応じて義務付け、違反すれば加えて課徴し、懲役するとか。そして天皇家を含む邪悪な資本主義者たちが、その狭量さとおろかしさとで世界侵略をできないよう、十分な権力をわれわれ、異なる信仰についても十分な学習意欲をもつ高知能な側が持ちたい。もつほかない。こうして、現代資本主義者たちはすべて否定される。イスラム原理主義側の反宗教権力者らへの恐怖政治もまた、全ての連合国ならびに天皇、薩長らのそれと共に、歴史上に合理化されるだろう。
 とはいえ、私自身が恐怖政治を信じる者ではない。逆に、その手法を以て権力を握ってきた薩長者、或いは象徴と述べた世襲君主の地位にとどまる天皇はじめ暴力を報じるいかなる宗教家に対しても、つまり現代の英米仏露中、そして倭王朝や明治政府以後の日本の政治家連にも、同党の意で退位を命じるものである。さもなければ、暴力に対して暴力で抗うイスラム教徒によってそれら、資本主義暴力団らが逆に駆逐されるほかない。
 要するに上述の事は、一切の資本主義的活動とそこから及ぶ暴虐を認めるなら、同等に、イスラム原理主義者のそれも認めるほかないという、世界史における思想多様性の肯定的立場であると同時に、両者の理想の違い、資本主義者は搾取、イスラム原理主義者は喜捨の世界をめざすものであって異なる国をつくるだろうが、わが国においては思想と信仰の多様を尊ぶものであるから、前者、つまり資本主義者のみの暴虐をみとめることはできない。したがって、集団暴力にすぎないいかなる政府組織も、小型のそれであるイスラム国を否定することはできない、それどころか、政党、仲間、地域の地方自治体あるいは家族、相棒すらすべて小型の国家なのである。だから、わが国においては、天皇や長州閥、薩長藩閥、徳川家ら武士団の暴政を嫌々ながら認めてきた経緯がある為に、イスラム武士団のそれも公認しなければならない。さもなければ、人類はそれら全権を否定し、私という平和主義的個人、それが叶わなければ私と同等以上に平和主義的で公徳に満ちた個性へ政治に関する全権を委任しなければならないだろう。この最後の選択肢をわが国の民衆がとりそうもなければ、イスラム武士団の成功を私は祈り、天皇や薩長藩閥、それどころか英米仏といった連合国暴力団とその悪質な搾取の慣習を地上から除去してくれるよう祈るものである。また、もし私に国の政治の全権が委任されれば、私は搾取派と喜捨派に調和をみいだす法をつくりだすだろう。