2009年3月30日

社会学

適応価値の性特徴的側面は経済性自体とも多少あれ異質である。我々は経済生活に於て希な適性をもつ彼らを暫し見かけるし、逆に経済的でも性徴に欠陥をもつ或いは反性差的な個性を権利の上で認証する場合がある。仮にこれらを簡単な人間性という指標で認知すると、凡そ類人猿と違いのない形質から最も神格的な彼ら迄は高い経済性へ達するという内容での達成度に加えて、その達成形式に関する偏差を異なる姿で取る。
 人種概念が何らかの遺伝に対する分類を許すなら、その最も特徴的な変異の幅が顕れた形質について、則ち二次性徴の雄性形質に関する目立った偏差に関して真と認められる。もしこの概念の獲得が知識にとって有益ならば社会形成に於る、文化型分析の指標の一つに用る可塑性認識の道具に、だろう。群的行動型の中庸の極として企業活動が社会生物に経済概念(建築術の形式)を該当させる原理(いわば群生の原理、とでも云われる)に相違なくば、必然に或る適所の環境変異誘因は最も目覚ましく合目的化された形質を獲得形から遺伝形に至る連続した世代間の選好的集積により適応価値化し、結晶させるであろう。幾つかの誇示や雑種間競争の手段となる形質への学習的模倣は変異の尋常ならぬ個性を教育し、目的に適った行動型へと習性を漸次変形させ、擬態の演技を物してこの系の総合的複雑さを増す役に立つ。かの為にさえ、社会の有する富の相対比が調度裾野を拡げる富士山の如く末広がりを許せば許す程、詰り配分と調整間に調和的正義を適宜に達し得るほど分業の合理化を計る建築本能の微積に応じ、適応価値の寛容さは現実の物とも成る。
 かねて文明国と呼ばれる場所で利潤や生存自体にさえ無用の構造が生じる珍しさをのみ理由として時に保護され、又は擁護され、奨めて養生さえされるのは冷静に観察すれば分業制の経過である。専らなんの稼ぎにもなりえない無駄な体制を切り捨てないのは、それだけの変異幅を養っておく余裕がなければできないことだ。地球で最初に8の字を画いた蜂はおそらく誇示の性選択効果の為に運よく保存されたのであり、決して公益を仲間に認められたからではないのは最もはじめに発明された行動型が稼ぎに繋がるまでに大幅な差延がやむをえないくらい複雑な協力行動を余儀なくした社会であればあるだけ真だろう。寿命より長く効用を持つ個体の変異の合目的性はそう信じられている様、一般に芸術の天才と呼ばれてしかるべきだろう。その突飛奇特な蜂の一群は次第に種内に広まった遺伝形質が再びその指導力を獲得させるという偶有の功績あるいは企業性の為に他の旧態依然たる付和雷同的や放浪気質的な昆虫群より多くの資料を集めることになったと考えられる。
 偶々果った既存秩序より勝って分業化の合理を達した独創の、又随って芸術性の生得形質はよくもゆとりがあればこそ、自身には多かれ少なかれ経済的欠損があろうと後生大事に保存されるだろう。そしてこの形質が一大部位を形成するに当たって社会は彼らの有する合理的特徴から利益を受けることが益々多くなるだろう。逆に協業的形質はそれが模倣され易いだけ凡庸な構造であればあるほど、競争的価格平衡の作用に才能としてより希少ではなくなり収穫量を減らしていくだろう。まるで遷移する樹林に等しく、日光を支配する為に伸ばした枝は他の木々がそれを真似る限りで栄養を享受する、企業間の競争的遷移。
 以上が富山湾化と形容されうるが如き形質と環境との相互変異あるいは文明建築の基本的な運動法則である。我々は富士の法則としてこの末広がるほど豊かになる社会性生物の道理を認識することができる。そこでは崩れ易い低い山であるだけ急峻な構造の幅を、安定した優美な姿であるだけ多彩で分業された末広がりの生態の各適所を必要不可欠とする自然法則を、社会体制の必然的変遷の規則に見立てることができよう。たとえ直接の種間か種内の競争が何らかの協同か共生の方法で部分的に又は殆ど全面的に回避されている中から高度の社会性をもった生物属にとってさえも、その経済適合の規則は普く一定の構造の可塑化を続けようとする懸命な自助と協調の連綿たる作為に従うと知るのなら少なくとも既存人類については、世界計画への逆恨みを含む狂信者らの誤った偏見を破棄させるに十分ならんと反省させられる。

2009年3月29日

経済政策放任主義

集積の利益を省みる限り、下手に労力を分散させず、東海道メトロポリスの領域へ集中的に大都市化を進めるのは利口なことだ。

南海および相模トラフによるほとんど100年置きでの大地震発生の高確率、それに伴う建設投機衝動が経済効果にもたらす規模は決して弱々しい人為による道州政策でカバーしきれはしない。
京阪地帯での商業欲求は遺伝的ルーツとしての渡来系怜悧さを考えてみてもやはり、他の地方文化が一朝一夕で追い着ける種類のものでも、また真似ようと試みるべきそれですらないだろう。
 我々は今日でも、京都に住もうとすれば異国に移民する覚悟でなければならない。大阪では幾分威丈高でいなければ万事に気後れせざるを得ない。単に方言の「らしさ」にのみならず、郷土の性格というものは日々の習性自体に異質さの強調を、個性化を否応なくしている様に見える。

財政逼迫のみを理由として一律な税収調整を進めることは、結果的には全国総東京化を伴い、たとえば彼ら東京人の欠点である“気の弱さ”を汚らしいオタク文化の蔓延というあしき現象でまきちらすに違いない。
仮に十年単位の短期的には多少の好況に似た“愚者の楽園”が広がったにしても百年単位の中期間で客観すれば、どのまともな親でもそれらの‘江戸風の’頽廃が中央政府の愚行で資本原理主義の末期癌としてあまねく感染させられたのを悟り、「薩摩風の」いわゆる九州男児に歴史的に観察できる様な雄々しくも急激な保守の反動によって、差し引きすればゼロに戻るほどの成長速度しか持たせられもしまい。
 最も賢明な宦官は透き通る静かな声音で『自然に委せよ』、と重農主義的格言を引くに留め、永田町の掛け持ち政治屋があたふたと駆け回るのを久遠の表情で見渡すだろう。馬を鹿と為す者が反逆と目される所ではいかなる政権闘争も利権夜郎の芝居に過ぎないのだから。

2009年3月26日

回る月

冷たい真夜中静かに回る月のおと波の声

福祉制限の説明

将に来るべき福祉国家路線にとって、最も注意深くなるべきはその最小単位に“個人”をではなく、『家族』を据えるという在来方針の貫徹である。

我々の話題をさらう事が多い有名な生物理論家からの指摘を待つまでもなく、福祉国家の現実は自然生態の合目的性つまり「人間当たり前の姿」から最も遠い一つである。
資本国家ではおのずと抑制されている破産宣告の潜在的可能性を法的に解除する、という赤軍残党なりの理屈に適った荒業は、経済力の過半を「持てる者」に強制的におぶさるという負担増をあたかも自明の権利かの様に正当化する。それが結局は多少の出生率の上向きにつながったとして、次に控えているのはあふれかえる‘持たざる者’の莫大な負債である。

 日本という伝統的に政府権力の甚だしい特殊なケースでは、その経済単位を細分化すればするほど法の抜け道を広げる悪循環を免れないこと、たとえば我々が深情けを浮浪者にどれほど報いてみたところで可能なのは餓死を見なくて済むという消極的な成果たるに過ぎないのはサッチャーの格言を引く前にも気づく世のあわれであった。
 確かに、資本制下にも関わらず財政難を抱えた、一般的な意味では無能な政府組織にとってなんであれ税源を益すものは無条件に取り上げたくなるのも政権政治の末路、考えられぬ醜態ではない。一方、民主政治の本質である「国民主権」の原則は世論の圧力によって無駄遣いを飽くまで規制したがる。
こうして多数派が教育を受けた経験を持ついくつかの先進自称国では当然、それら進取と保守の天秤は一定の振れ幅をともないつつ「中道路線」を穏当と見なす方向付けを次第に受け入れる。

結局この路線図に書かれている暗号の内容とは、政府の効率よい運営費の内訳に他なるまい――そしてそれ以外には国民生活改善への具体的道具さえ見当たらない。
 したがって安上がりでサーウ゛ィスのいい防衛者を国民があまねく見つけようとするならその雇用主自身が非効率的な経済単位を押し付けるべきではないのが自明の理なのである。
主人が熊手を持ってどれだけ粟を掬ったところでそれが自身に還元されない、という現象は福祉国家が単に‘個人の無際限な自由’をではなく、収穫率の向上を計る方法としてかれみずからに「ざる勘定」を教えるため、すなわち家計を更によりよく富ませるために起こる。

どの農家でも当たり前の道理が知らせるに、働かざる者食う可からず――或いは高度化した文明圏で労働種類の多岐化に及び緩和した見識では、すくなくとも食い過ぎるべからずという訳である。当然、無料でもてなしを受ける為にはそれ相応の代償として、税収に自主貢献した順番に、と云わねばならぬ。
勿論一文にもならない生業の真価はその国賓級の名誉により酬いられるに相違あるまい。我々後進文民はカミの恩寵のもとに何をまちがえたか、つかの間の交尾をくりかえすしか能がない個々のお猿さんを囲う趣味には、肌色の健康さの為か狭い国土にある動物園の容積制限のゆえにか随分縁がないらしいのであった。

2009年3月22日

選手の食事

勝れた運動選手は競技にかなう食事を計るべきであり、平均的栄養価にこだわるべきではない。筋肉質をつくるには動物性タンパク源(鳥肉や卵白など)を、或いは頭脳を働かすにはぶどう糖(白米やパンなど)をごく多く摂取すべきとなる。又かえって肉体の活力を抑制すべき僧侶などには菜食主義が方便である。バランスした食事は標準的な体を維持する基本であり、決して運動選手にとっての最善ではない。

2009年3月21日

天文学

楕円は二点からの距離の和がつねに一定な点の軌道なので、xy軸のある平面上では、x線上の点aとy線上のbに対して
x2/a2+y2/b2=1
また、これに対してz軸を引いて同様に、z線上の点cを定義すると(a>0,b>0,c>0)のとき回転楕円面の方程式が得られる。
x2/a2+y2/b2+z2/c2=1
 以下簡易的証明手順。楕円軌道上の二点からの一定距離を2kと置け∧軌道上の同点を(x,y)とすれば三平方の定理より二焦点(k,0),(-k,0)に対して(k-x)2+y2と(k+x)2+y2との平方根の和は2kの二乗に等しい。a2-k2=b2と定義しb>0→a>kである限り上述の楕円標準式が得られるだろう。かつ(x,z)について真ならばb2の代わりにc2を用いても真。以上。
 ここで、もし我々の属した七夕宇宙系より外へ最も時空的に隣り合わせた十五夜宇宙系を仮定する。かつ万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価法則E=mc2との関係性から、E=Ac3の転化比例が導ける。よって、七夕系においては引斥力の結果として単位質量mに対してエネルギーEは、ブラックホール表面積または単に引力場Aに対して光速cの三乗の指数的比例で働くことが理解できる。
 さて、上述の回転楕円面方程式について1焦点(k,0)のx座標をk=±√(a2-b2)と定義し、離心率e=k/aと考えるとさらにz座標について同様に第二離心率e2=k2/cをも考えられk2=±√(a2-c2)と定義できる。伴ってその回転楕円面はいわばラグビーボール型からドラ焼き型へと移る。偏平率fは1<f<0の間でf=(a-b-c)/aで与えられ、この球面上のすべての点は四焦点からの距離の和がつねに一定である。以上から七夕宇宙系の隣りにある十五夜宇宙系およびその次に近いからかさ宇宙系が措定できる、野口雨情の童謡から、綺麗なお月夜が雨雲に隠れた後で必要になるからそう呼ぼうとするのである。
 これらの理由は、エントロピー増大則が斥力系の最も有力な要因として宇宙外部に異なる大きな引力場が存在することによって働く、という認識で決定的に説明されるだろう。距離の二乗に反比例する限り引力は最も遠くにある質量の重いもの、例えば鉄などを、最も軽いと見立てられる光束波のエネルギー準位を引き込むより遥かにゆっくりとしか移動させない。その物理現象としての最初の証拠はドップラー変偏が銀河系ごとに異なる比率で時間的に進む、つまり各銀河団は色様々な変化によって違った速度で流れているといった普遍的な流路を見つける観測結果でもとりあえずは発見されうるだろう。調和定数すなわち惑星流率が一定な一方、それらの巨視的な流れゆきには一つの大きな潮流が四本の、或いは便宜的には二本の河川を通って拡散しながらまとまっていくのをほとんど過疎な引力系の相互作用で占められた闇が支配する暗黒海へのみちびきとして観察できる。それらは宇宙という回転楕円体の焦点が外部宇宙系からの引力で純粋な正球形から崩されている分だけ星屑の流れ出る方向を変えて行く。天の川から見れば、この最も有力な二本の銀河流路は我々が日の出ずる処に住む限り東側の居場所として織り姫の流れ、もう一方の我々から遠い側の流れとしては彦星の流れと見なすのが至当だろう。尤もベガ流路とアルタイル流路としてもハッブルの法則は変わるまいが。
 また、最も単純な正球状としてのアインシュタイン型宇宙の上で定義されてきた物質の平均密度の公式R
2=2/κρを用いては、近似的には回転楕円面の離心率
e=√(a2-b2)/aか、より精密にはドラ焼き型球面の離心率
e2=√(a2-b2-c2)/aのそれで正確な中心分布帯を取ることができる。宇宙斥力との釣り合いを擬似的な開放系の中で保つ普遍宇宙モデルを鑑みれば、ある適宜な領域にほぼ等密度で一定質量の物質反応が集積するのは時間的に真である。

2009年3月19日

雄性形質の進化適性

幼型化の適応性はそれが結果としての脳容積の拡充形質を選り好みする理由で。さもなくば雄性であるとも呼べず、人類に群的協同は知能行動化の傾向を強めるもの。
 この種の逆転化は経済型を勝利速度で優位にする。文明一般への人類内適応は種内競争を抑える代りに幼型人種を連続した選択で属全体に置き換えさせ、やがては進化の項目からさえ離脱させる。自然に於いてそうである如く彼らは袋小路に入り込んだ孤立した種となり類としてのヒト間での勝利の本道から逃れ出るだろう。もしこれが宿命なら、進化した人種は先んじて地球外へと生存圏を拡げる為にその旺盛な好奇心を維持させるのだろう。抜群の器用さがなければ宇宙工学は決して発展しない。

2009年3月17日

春来り

2009年3月14日

印僑との差別化商戦略

タタ・グループの発展率を看るに、彼ら印僑の日本進攻はユニクロやMUJIの英米進出と同程度かそれに勝る衝撃を与えるだろう。
地球を見渡し、余りに狭く小さな極東島嶼へ最適化しきった否応ない奇形さを免れぬ企業の敗退は、今から見渡せる惑星経済の必然の成り行きとなる。又それは商業経営に関与する者以外にとっては粗あらゆる観点から利得を齎す。
今日では有料の多くの奉仕が殆ど無料に近い「普遍価格」を呈する如くである。

 彼らとの最大の商戦地区はインドシナ領域となるだろう。最も傾注すべきは無闇に多種多産や移り変わりの甚だしい値下げ競争へ参入せず、『現地の為になる』仕事へ第一に没頭すべき事である。
大儲けの風で‘得して損する’安物小売り業者を脇目にふり、あたかも日本の丁稚が文句ひとついわずに毎朝の便所掃除を当たり前と信じる誠実な姿勢を貫き通し、地元人からの信頼と感謝の度合いが高まれば高まるほど、結局は何が真にその場で求められる商品でありサーウ゛ィスなのかを迅速的確に発見し、やがては品質のみならず価格面での最適化競争にも勝利を収める道筋を先進できるもの。
 逆説的な様だが、海外店舗の最重要の監査とは本社のある母国内よりも地元人からの感謝の声なのだ。遵って本社との意見衝突は常によき適応化の兆候なのである。それが最後の最後には故郷への最大の錦ともなりうる。

 ある国家で非常に尊重されている本土では無名の日本人は、青山に骨を埋める覚悟であったろうがそのクニでの最高規模の勇気ある貢献を遺し、いずれ語り草ともなりながらこたつを私室に敷いていた。和して同ぜずとは国際企業活動の要と云われる。

2009年3月12日

台詞

いつ終るとも知れぬ無数の現象、精神の観察するそれらに理由を見つけるのは余程困難である。人は旅の中途で何を見出すか? 混沌たる宿世を? 仮にそれらの起源が知れないとして、世界へ生存する知性は因果律の探索をやめようとしない。

偶像論

現代社会で偶像、idolの果たす役割は軽視せらるべきではない。青年期の延長はその中途段階で文化的昇華への期待値を、代償によって補う必要性を益す筈である。特定の性特徴を選択的に表象させることを通じて、最大多数へ可能な限り経済的な代償情報を提供する生業は巨大な規模で膨れ上がり、いわば生けとし偶像興行としての芸能界を形作っている。成る程それは虚構であり、聖像、iconとしての演技体系を意味するに過ぎまい。だが同時に象徴制に関する累々の議論を省みてさえ我々は、演劇の巧みさが協力行動の強力な紐帯となる現実を否定仕切れる迄の世界精神的秩序には無い。
 すると人間という未完の機関はいまだ偶像を少なからぬ方便として必要か活用形としている。

 幾つかの聖書で禁忌の条項へ数え上げられる偶像崇拝はそれが本来の現実をも覆い隠す程に増長させられた限りで、狂信をも誘う可能性の故に悪徳とされた。虚構を現実と思い込むことが代償への耽溺を際限なく加速させればその個性は当然ながら、幻想に惑う世間の不案内者として被淘汰の謗りを大分免れなかっただろう。他方ではこの種のカミガカリ的精神状態が精霊思想、animismとして信教の具に益した文化史にも人類は事欠かない。それは被抑圧的な無意識の領分に関する専門家として、霊媒師や神聖宗長、所謂shamanらを次々生み出していく。彼らはまことしやかな嘯きを以てつくり物語に託し、現実には満たされえない仮の情報を与える。この能力の為に少数部族のみならず多くの民族状態に於て巫祝階級の存在、或いはミコ的な存在が社会内でひそかに補償されていくものなのだ。
 結局、現代人が政治として記憶する集団的調整の行動形とは可能なだけ合理化され共有もされた呪術信仰の名残りであるのだろう。その体系は殆ど群生にとっての無意識の集合に他なるまい。演劇術に関する基礎的変異の保存は憂き世に芸能界を恒常的とし、かつその内で更に審美化された経済界と倫理化された政治界を構成する。彼らが演技者として群れ、如何に振る舞うかは象徴制についての価値観に基づくものだ。浄化の用に類する限りでこれらの配役はまた性選択的とも呼ばれ得る。なぜ偶像が禁忌の慣習の元で暗黙の内に伝達されていくかの理由が正に、それがつくられたまことであり、演劇術による代償行為であるがゆえになのである。いけにえとしてidolは現代にも生き続ける、象徴の作用による慰めの方便と呼ばれるだろう。だが我々はやはりそれを合目的形相と見做すことならず、現代文明段階では止むを得ない群的象徴化すなわち便宜な社会形成の手段と呼ぶしかない。地位肩書が要求される組織形態ではたとえ嘘であっても配役を用いざるを得ないのだから。
 将来の世代にとっての解決は、社会形成の最善の手段に位の援用を最小化する理念の発明に待たれる。実際に犠牲の居ない世界は又階級制の組み替えが自律流動的で恒常かつ頻繁となった本質的相互等価の世界であろうし、若しその様な社会形成の原理が代償を無用か不必要とした範囲を広げるほど幸福の閾値も少数階級の独占物でなくなり益々普遍的とならなくてはならないだろう。

2009年3月5日

協同の論理

身体的成熟が社会内家計的而立よりずっと前に訪れるという環境要因は、それが青年期の一般的延長を通じて性行動の複合性を企画するが故に文明化の一段階と呼ばれる。もしこの種の変異幅の保証された場が進化の誘因として原理的なら、複雑な成長過程そのものが自己目的に斉す昇華の企みの為でもあるし、亦かれらが模倣を事とする限りでその学習伝承が個体群の社会建設に有益であろうからだ。
 上述の内容を真と認めると何故、文明系では成熟的諸形質への一定以上の抑制要因が道徳に編入されていたかも明らかとなる。生物として対象化されるヒトは通常の生存競争要因を協同へと向け換える方便にそれを用いたのだったろう。より抑制され、より延長的となった性成熟の表象は益々形式的複合性へ寄与し、かくして単なる延長自体の為の新伸性すなわち幼型化さえ選択的となった。
 感情として我々が只の感性(外界への受容的な働き)から峻別しうる生産的能動性は、結局の様、理知という否定媒介を止揚する働きとして性特徴の中心でもあった。選れた感情の表象は続く世代の遺伝形質の目安となる、感情は真似られる物ではなく純粋な神経系統の生育結果だからだ。我々の心を感嘆させる俳句は学習や後天的努力によってというより如何に感性の動きを合目的化なしえたかという精神の完成度を証明要素とする。多くの文化圏で芸術耽溺への批判が倫理として説かれた一因はその過度の伸長が自然性への再帰を呼ぶ為にであり、なぜなら合理化を施した担い手自身が学習者の代表だからでもあった。言換えると素質の隠蔽として模倣を集積した者が知識人とされ、巧みな言い訳を生業とする知恵者が栄える形質の幅の狭い区域では学問の、伝承後学習系の権威が本来の自然的秩序を覆い隠す役目をつとめた。あらゆる学者が規範として仰いで来たユークリッドの体系さえも測量術を後学化した天性の追認に過ぎなかった。創造的知性と呼ばれる働きは存在しない。全ての知性は模倣の活動である。それは近代世界観の基準とされる力学にとってさえ自然運動を原論風に叙述する手段を代数学に基づいて考察した証拠に外ならないこと、我々が知識と見做すどの科学活動も体系づけられた模倣の積算であると考える他ないものだ。
 進化にとっては依然として審美性が有用であって、また感情がその特徴となるのも疑いがないことである。雄性形質としての理知は、寧ろ文明場にとって条件付け、或いは基礎付けの役に立つに過ぎない。独創性は感情の技術においてのみ見出だされ、模倣と教育とが更に強化された社会環境にでも未だどの個性とも異なる遺伝的素質を開花させられる場合にのみ、綿密にあてはまる好ましい方向への突然変異つまり進化の実証なのである。この種の特徴を慎重と熟慮をもって集積させ、かつ配偶と養生を欠かさないことで人類は、文明を殆ど天国と見紛うばかりに協同の為に好適な系とすることができる。

2009年3月3日

救世主教の再生

キリスト教道徳が浸透していない事実が日本の国で「罪悪感」の希薄な一因ならばやはり何らかの工夫でその教義を復活させるべきである。
仏教が国民の安心へ深く染み渡った今日からみれば、儒教と共にそれを輸入した際の太子の心配が取り越し苦労だったとさえ感じられる。無論、巧妙な翻訳作業による和風化が施されたからこそ国統は保ち得たとも考えられる。

専ら直接政治の蚊帳の中で信教を革新することは不可能だし、実際にそれを試みている政党等も存在するが法的に政教分離原則の歴史的正しさを参照できる折、政治参加すればするほど状況は悪化し、人心は混乱するばかりである。
 従って、經国の大業をなし遂げうるのは在野の宣教師でなければならない。

例えば凡そ平和の続く時代にあると、大陸から孤絶した、高度に感性の栄達へ好適な季節風土の色彩の強いこの島国では、優美の極を通り越して深い頽廃に沈み込む傾向が潜在している。その象徴として記録されている文芸に源氏物語もある。
恐らくは先史時代における、魏史倭人伝へ示される多婦の風習が遺伝的形質の何処かへ記憶されており、外敵の侵入もさしたる内乱もない期間が連なると先祖返りの法則がその澱みとして現れてくるのだろう。また反動として真逆の形質、平家物語にみられるが如き激情的好戦性もやってくるのだが。
 一般にキリスト教道徳が浸透した文明国ではそれら退行、反動形成の歴史現象を観察できない。モルモン教の希な例外を顧みても寧ろ極端な厳格説の行き過ぎで侵略的布教傾向には先例を事欠かないとして、概して国内に頽翳の兆しは看られないらしい。勿論国教会化には権力集中の腐敗が歴史の常として普き。
ゆえ必然に、キリスト教道徳の布教には「信仰中心主義」を自律して回復し直す必然を負う。集徒化し易く又それを正当化する文言さえ聖書には存在している上、脱構築からの文章論を再検討してみても原理主義化を逃れるにはキリスト本人が正に模範をしめした様、「自らの十字架を背負って」個人の内面からの信仰を告白し続ける他、良策はないのである。

上述の事例ひとつ取っても極東の倫理は完成されたとは未だ言い難い。現実に姦淫自体を巨大産業化している国民性とは神の子にとっては目を覆いたくなるばかりの地獄全体でもあろう、この絶望の彼岸を前に我々信徒の勉めとはかのカルウ゛ァンの抱きし理想と寸分も違いはないのである。すなわち神の恩寵を信じて天職へ一途殉ずるべきなり。あの奢れる資本家達が針の穴の筵よりもっとカミノクニへ入り難い限り、少なくとも一心不乱の努力の継続によって魂の救いは訪れるであろう。