2009年3月29日

経済政策放任主義

集積の利益を省みる限り、下手に労力を分散させず、東海道メトロポリスの領域へ集中的に大都市化を進めるのは利口なことだ。

南海および相模トラフによるほとんど100年置きでの大地震発生の高確率、それに伴う建設投機衝動が経済効果にもたらす規模は決して弱々しい人為による道州政策でカバーしきれはしない。
京阪地帯での商業欲求は遺伝的ルーツとしての渡来系怜悧さを考えてみてもやはり、他の地方文化が一朝一夕で追い着ける種類のものでも、また真似ようと試みるべきそれですらないだろう。
 我々は今日でも、京都に住もうとすれば異国に移民する覚悟でなければならない。大阪では幾分威丈高でいなければ万事に気後れせざるを得ない。単に方言の「らしさ」にのみならず、郷土の性格というものは日々の習性自体に異質さの強調を、個性化を否応なくしている様に見える。

財政逼迫のみを理由として一律な税収調整を進めることは、結果的には全国総東京化を伴い、たとえば彼ら東京人の欠点である“気の弱さ”を汚らしいオタク文化の蔓延というあしき現象でまきちらすに違いない。
仮に十年単位の短期的には多少の好況に似た“愚者の楽園”が広がったにしても百年単位の中期間で客観すれば、どのまともな親でもそれらの‘江戸風の’頽廃が中央政府の愚行で資本原理主義の末期癌としてあまねく感染させられたのを悟り、「薩摩風の」いわゆる九州男児に歴史的に観察できる様な雄々しくも急激な保守の反動によって、差し引きすればゼロに戻るほどの成長速度しか持たせられもしまい。
 最も賢明な宦官は透き通る静かな声音で『自然に委せよ』、と重農主義的格言を引くに留め、永田町の掛け持ち政治屋があたふたと駆け回るのを久遠の表情で見渡すだろう。馬を鹿と為す者が反逆と目される所ではいかなる政権闘争も利権夜郎の芝居に過ぎないのだから。