2007年3月30日

文芸論

自伝と私小説、日記と自然主義文学は相互に脚色を公に主張するか云々の差異に過ぎない。これ等は理想主義文学にとっての一手法たるのみ。

文士

下等文士は退廃するに違いない。文士の道は唯、高潔を守るばかりか優美の風を社会へもたらす模範となることにある。理想的文士のみが上流文化の伝播により大衆一般へ風紀水準の向上をもたらすのだ。そして彼らだけが真実の文士の誉に値し、また文明の生み出し得た最も価値ある宝となる。後世は彼らの長所をあまねく真似し、又短所を乗り超える為に努力する。

啓蒙とは

無知さがあるのは後生知能が学習の伝承に従って緻密化する以上いかなる神人といえ同然。故に、啓発とは同時代以降の世論に対する適正の度合いでしかない。

結婚生活

最良の結婚生活もplatonismを目指すだろう。

美醜

我々は美醜の基準を究極では健康か退廃かの分別に用いる已である。

文士論

先進知識人とは丁度、社会全体を生体に喩えた時、外胚葉的抹消神経すなわち大脳新皮質の如き理性に違うまい。
 彼らは創造的適応知能に関する時代内淘汰を経て特権を任されているのだがそれは階級闘争として知れる、代わりに、常に貴族の義務を負う。でなければ彼らは腐敗せざるを得ないのだから。それが彼らに喜捨的倫理をもたらし、一般民衆へもやがて伝承する。又、知識や美意識においても同様だと云われて然り。則天去私とは文士の極度を表明した語句。それは世俗的無欲と最上流の知的特権を最大限に活かしきる求道の志を云う。彼らは俗間愉楽の犠牲となる事で、自らの魂から浮世より高尚の精神を現世へと抽出する。かれらは権力や金利から独立することで已、在野に不変の地位を確立する。
 ジョン・スチュワート・ミルが主張した質的功利主義は、最終的に文士の先導的な啓発に帰着する。

文士訓

金利と権力から身を退けうるだけ避けよ。
究極、君には名誉ですら必ずや「中庸」に留められねばならぬ。
君が極度の精励を可能なのは唯、『知能(intelligence)』だけである。

そうすることでしか天才が世に処する道はない、と自覚せよ。
あらゆる独占を否定排除し、去私の求道に走り続ける以外にどのような腐敗を除く方策もない。

人間進化論

人間が普遍に進化させようと必死なのは文明。そして彼らの聖者が同類により迫害される史実の例を省みれば、人類自身の進化は殆ど無効の反則としてありえず、唯、機械の分類にのみ人間とは相異なる新たな生命体を観るだろう。しかしながらAIはとても精神の緻密に及ばないだろう、それはすべての芸術が自然の前では遥かにちっぽけな再創造でしかないのと同様に。もし道徳律に未来永劫なお価値があるなら、彼らがその太陽系の秩序の範囲では至高の消費者である、という現実の自覚に。且つその実践は楽園の創造にあてられる。

春先

東京は雨暁にのこる香も春先ゆえに少しおかしき

性教育について

もし文明進歩の必然として猶予の延長が若者に余裕と勉強を与えるなら、その間を純情の優雅を精錬させるために幾ら工夫しすぎても足らない。保護すべき児童に対する性的情報制限や教育環境整備はこの様な理由で必須である。少なくとも社会が定めた成人に達するまでこの種の指導責任は完全に親ならびに周囲のおとなのものだ、と考えられて然るべきである。

2007年3月29日

遊戯

競争を遊戯に向け代えて行く事は人間の普遍な目的。彼らは我々現代人類からみなせば殆ど宇宙人類に他ならないが、未来の人類は、まず幼型的な生態を獲得するだろう。知的遊戯の向上にはある程度の配分格差を設けねばならない。人間社会が休むことなく働き続けるのはこの則天去私の知能を万人化する便に違いない。

アジア外交…中国啓蒙

朝鮮はさておき、
日本にとって重大なのは中国の近代化における《仮想敵意》を鎮圧する外交戦略である。

わたしは広大な中国の大部分に文盲が多い事情を省みて、
かの『田舎地方へ直接、えこひいきして多大なる寄付を与える』ことを提案したい。
これによって日本への好感を民衆主体で高めることができる。
老廃中央集権にはこのような成果はまったく期待できない。

中国都市部ではすでにこざかしい文治があるので、このような方策が成功する余地はない。
また中華政府によって外政干渉と言い分され喜捨を排除される可能性もある。
 従って、わたしは中国奥地の未開の田舎へ大量の雑貨類などを寄付する運動を勧める。
これによってアジアの秩序がだいぶ救われることもあるだろう。

独創

天才の独創的思想が種族に伝承することを文化と呼ぶ。

文明化の仮説

人間の進化が生態系の種内秩序に適応した遊戯に最適化する流れなのは疑いづらい。例えば科学はこの為によく設らえられた分野だと言える。万学の雄となる為に必修な単位は限りなく、従ってあらゆる科学者は一度も研究に飽きない。だが、文明は一夫一妻制度に応じて個性差の最幅化、及び平均性の最多化を目指す。いわゆる捨て子や神権が失くなった背景には文明の智恵がある。とすれば、ある種の繁殖には制限が設けられるべき訳だ。自由恋愛とは優良な個性を選択する好みによる性淘汰だと言える。好みの振幅が広がるほど、古代では死滅したに違いない変異にも繁殖可能さが設けられる。それは究極、最多的平均との量的なつりあいの問題に過ぎない。例えば、背短や肥満が中肉中背に対してどの割合で繁殖しうるかは、少なくとも大分の環境異変がない限りさほど極端な比率として変動するわけではないだろう。これは同様な肉体的個性を伴った女性の求愛が可否に遇う確率と対応するだろう。
 文化的性差があるにも関わらず、個体差は好みをかなりの程度、人類が生活してきた地球らしい環境へ普通的に適合させることに成功している。また人間は同類であるから種内競合は飽くまで発展の方便である。それは生存競争的な摂取活動では最早ない。いわゆる遊戯の種類が問われるのは、この理由による。
 人間の偉大と悲惨とに差分が見出せるのは、ほぼ同一の生体基盤にありながら適応行動の格差があるからだ。われわれはいずれ政治活動、経済活動の順で労働から解放されるに違いない。なぜならそれらで用いる特性はより野蛮な様式に過ぎないのだから。われわれは古代の世界史に政治家の名前を、近代史に経済家の名前を、未来史に学術家の名前を、より多く見出すかもしれない。それらは実践から技術を経て理論へと至る人間の進歩を示している。

2007年3月28日

論争

科学論争に根拠はない。我々のあらゆる知識は統一された法則に帰着する。この法則を提出するため意見を交換するのは正しい学者間の付き合い方だが、学会という極めつけに愚かな宗教団体に携わったが故に、貴重な研究の時を浪費した学者らの如何に多かったことか。名誉を求めて矜持を棄てるものは沈黙の徳を知らぬ者と称するしかない。賞与にたかり勉強の手間を惜しむ俗物も同様。

性差論

性差を文化多律化に導くことは自体、国家能率の目的。この例外は鎖国においてしか現実的ではない。置かれた地勢によって斑ではあるにせよ、性差は文化的なもの。そして総体として地球文化的なものすなわち普遍的なものに向かわざるをえない。理性の原理はあらゆる人間野蛮を駆逐するまで満足しないから。
 もし普遍の倫理があるならば、最も根本的な性差に基づく男女の道でなければならない筈だ。なぜなら雌雄異体が高次な消費者でありうる大部分の理由はこの、繁栄のための能率差にある。

崇高な人

あらゆる学術にわたる教養の追求が崇高な人をつくる。

文明化と半閉鎖系の関係

原則として人類の全体は今後とも幼形化して行くのは先ず間違いがないだろう。それは彼らが生態系における最高次の消費者である、という地球環境の人間性がある限り普遍である。なぜなら種内競争、特に性選択にとって最高の便宜となって来たものこそは知能であった。我々はそれが故に類人猿から人類に代わり、未開人から文明人に代わった。
 もし文化的な偏見を仮に考慮せず幼児化の先端が日本人男性だと仮定すれば、彼らが導くべき世界史上での役目は先導役にちがいはない。子どもっぽさ。それが地球環境について最良の適応成長方向性であることは専ら疑い得ないと感じられる。なぜかなら我々の繁殖活動は社会活動に対してもはや最優先を待たないからだ。
 必要な生産力に対して人口飽和が起こった国々ではあきらかな如く、我々にとってかつて生み出し得た最善の倫理観念は個性の最大化に他ならない。これは我々自身の生存にとって有利なだけではなく、地球そのものの生態系が導く目的、永久繁栄の筋書きにとっても、進化論上妥当である。結局、我々の脱構築し続ける社会体制は制度により人間へある抑圧を加え、それを通じて倫理観をも常々新たに浄化せずにはおかない。一夫一妻制度は安全・清潔・医療など一定の近代文明的な基盤が築かれさえすればおのずから最適化される訳だ。それはいわば文明の智恵である。かつて滅亡した文明においては、致命的侵略者からの迫害を除き、凡そ体制循環への窒息があった。体制は周辺諸国の生産力の進展にかえて絶えざる革命を要する。革命権を主張した中世の古人は正しいが、これが政権交代における虚ろな喧伝にとって衆報上で目的化するのも正しくはないだろう。我々にとって大事な倫理哲道とは、体制批判の役割をどこかの知識階級に必ず余地させておくことだ。思想に国教を設けてはならない理由はここにある。検閲を伴う極端な統制を避けるべきなのは、政教の癒着が自体で文明の滅亡を誘うからである。
 しかし君が徳に篤くなお賢ければ、前説を次のように批判するかもしれない。何ら規制のない出版表現の自由は、まさに愚衆の堕落を誘発し社会全体を退廃する、と。現代日本における無検閲の大衆社会のこの様な腐敗は、そのまま規制の必要を物語るものに過ぎない。国際風紀に応じた適度な倫理規制がなければ言論の福祉は実現できないだろう。

道徳と倫理

我々はカント的命法が道徳律の普遍的定義であることに疑念を持たないが、他方ではいわば時代内倫理は応用的であらざるを得ないことに自覚的でなければならない。例えば理想を至上の幸福と考えた奴隷政下の知識階級の倫理観は、民主主義的施政における知識階級の幸福主義とはその労働に対する感覚で正反対の模様を呈する訳だ。とすると、良心の発露が社会において倫理化される経過においては時代環境に対する批判がなければならないことになる。
 前例を省みれば、我々が武士道倫理の中にいまなお見出す多くの美質は、ある時代環境の被差別への抗生を伴うのだろう町人に於ける不衛生で遊惰ないきの世界に対するように育まれて行ったものである。ここから考察されうることは、普遍道徳と個別倫理とは飽くまで別け隔てて思索されねばならない、という帰納的原則である。
 我々はカント哲学を闇雲に批判するアメリカの実利的人民の中には大いなる無知がある、と考えてよい。実際、多くの部分で実用主義とはアリストテレス哲学の低俗化に過ぎない、と見なしうるものだ。

2007年3月27日

道徳神学について

徳は適応行動の性格を少なくとも時代と場所に適合させた文化的なものだ。これが絶対でないことは自律のありかが個人である事に等しい。従って道徳神学は建築的形而上学ではない。我々の定言命法すなわち良心は別の目的を創造しなければならない。自然の神格的本質に神という通例人格的な観念を用いる事は宗教の範囲に属する。又それが普遍的ではありえない事を何れ後構造主義者たちは西洋文化圏内ですら論駁していくだろう。哲学の方法は特定の限定的環境において有効で実用的な徳を再構築することだ。それが形而上的な言葉遊びによる表記であるのは避けられないし避けるべくもないが、実態としての批判は常に社会の非建設的錯誤へ向けられる。よって道徳神学を脱宗教的へ改造することが必然。
 世界体系の最終目的を言い表す表語を様々に考察してきた古人に則り、私はそれを幾つかの既存の語集から取り出さざるを得ない。新たなことばを流通させるのは不合理だ。
 しかし神という言葉だけは用いるまい。それが既成宗教を統括しようとする建築的独裁であるのは明らかだから。人格性を伴って偶像視しうる対象的語意を退けるに如くはない。万物の目的を道とか法則とか呼んだ哲人は少なくとも喩えを避けただけ徳教の原始的幼稚さから免れている。

趣味

学術研究は趣味に甘んじるに超した事はない。一旦職業化したからには義務づけられ、堕落する事。

幼形化について

終生を精一杯100年と見積もりその内の毎日2、3時間を純粋学習行動に充てるのと、毎日10時間を勉強して20年足らずで不摂生の角で死ぬのとでは能率に差がある。人間がapeに異なるところは享楽的実存に甘んじ得ない現実であり、すべての人はその膨張した頭脳を満足させる為だけにも学ぶのである。従って、古人が主張した中庸の徳に時代を経てもさしたる狂いはない、と仮説するのも不可ではない。
 逆理すれば人が考えるより人間の出来映えはよい、と皮算しても構わない。不埒の倫は頭脳の容量が旧式で低いのである。こういう哀しい個体も基底的になら繁殖しうる理由に、女の知能が又、自然男より低い場合が多いという自然の狡智があるのだろう。本能は理性に反する。我々が抑圧と昇華を公的社会活動の全面に旨とする原因は、大脳新皮質が旧皮質の幹枝であるという文化構造に由来する。よってここに、人間が天文学的破滅に寄らねばなかなか絶滅しない訳もある。人生という完全な戯れの馬鹿げた経験、無駄を際限なく延長したいと願う女は誘惑と母性という方法で生存体系を飽かず確保する。男子というものは時に女性を大いに見下すが、一方ではその恵みに与かる詐欺にドーパミンで騙される。然れど、彼らと来たところで愛情という言い分以外に繁殖の必然を説明し得ないのだから人間は下らないともいえる。

形骸化する体制と思想

性差が知能の発達率に於いて自然の侭ならば、彼も又、労働者の一員に過ぎない訳だ。だが、果たしてこの説が偽善ではないか君は自問しなければならない。なぜなら知能とは種族における搾取の便利として進化してきた一特徴にすぎないのだから。
 宗教をはっきり選ばないという意志より国際人間に適合した態度はない。言い換えれば、学習されるべきは平和秩序を階級対立の無効化の利便を通じて体制上に追求すること。思想の差は国家民度の区別のたとえであり、単なる自由主義の問題ではないだろう。先ずは文士自身が肩書きを否定し続けねばならない。この便宜を利用すればするほど、文化は形骸化によって退行する筈だからだ。
 常により最適化された体制を再構築するには格差を等価的な分配体系に供するべきだ。すなわち、肩書きを破壊し、役割に代えなければならない。亦その役割は世襲と絶縁した流動的な名義にしなければならない。

2007年3月26日

ある日

秋月や冬も近づくある日の夜

2007年3月25日

貴族義務

飽和人口中に育まれた天才はかの時代背景に最適化するほど人知を昇華せざるを得ない。それは丁度地獄じみた体験だ。知識人と憧れられ、選良と崇められ、貴族義務の遂行に追い立てられる日々を繰ることに自由と名づけ美化した者が人間の如何に残虐なるか、人間の如何に狡猾なるかを知らない。同禽類を奴隷にしてのうのうと繁殖する心底侮蔑に値する知能。

認識論

カントによって破壊された哲学を復活させねばならない。哲学は単なる修辞法の政治的実践ではない。この点では既にあらゆる後構造主義者を批判しうる。彼らは現代階級を合理化する偽善者と呼ばれる。
 哲学は新規学問を創り出すもの。実践理性と呼ばれる洋式文脈の作用はカント式自己愛の妄念に過ぎない。使用記号の種類が異なるだけで、本質的に科学と哲学とは相互に異化の行為ではないから。帰納と演繹の両者は仮説に対する検証の時代間変遷という全体集合にとって同様でしかない。乃ち、それらは思考の聖化傾向に過ぎない。
 しかも常識を含む潮流を左右するのは単に産業体制の移行。常識は唯物史遷に依存する。だが、応用科学の進度は純粋理論に縁起している。よって、哲学の深度は語族的行動傾向の常識を文章的に合理化したものに過ぎない。
 哲学が新たに創り出す学説は天才に待つものというより、同時代教養体系が孕んだ無知に因る。知識は哲学説の信憑傾向を客観化した後学の賜。
 近代人は、哲学は自律した精神による神秘の説明だ、と盛んに説く。これは確かに道徳の根拠を自然の目的論に求めねばならなかった近代人にとっては適切な謂われだが、少なくとも現代人類は目的論を定常宇宙膨張仮説の永遠性に頼む位よりは懐疑的。その大意は数字記号を含む語義自体が説明する範囲の論拠を形而上学そのものの差延に求めねばならない、という矛盾に帰着する。乃ち、人間が知りうる真理は仮設の安心感である他なかった。
 道徳の文脈語義が進化論的に瓦解する時代にとって、認識の定義は文明自体の批判に他ならない。

Memo

軍人を一人残らずなぶり殺しにする方式を発明する事。

勉強

学習以外の何の為されて然る遊戯もなし。数学、対象という点で万学を含む物理学、社会学を追求する事が最高の適応行動だったと信じた日々を省みるならば、我々の哲学にとって世界解釈を最適化する道はそのまま、芸術であった。しかもそれらが個人の知能を種内秩序の整然へ利用する便法に過ぎなかったかつてを拠りきれば、理想が学習の伝承を福祉の達成に最適化した結果の合理化だったと悟りうる。階級とはみな、人間における分業体制の絶えざる捏造遊び内規律に託された冠である。進化が知能の故に正当ならば人間において普遍に、格差は競戯の喩えなのだ。科学に飽きない人物は信仰に飽きない人物と同様に狂信的である。哲学に膿まない人物は形而上学の修辞を全て死ぬ瞬間まで組み合わせ続ける機械に変わりない。芸術とは都市化の便宜的呼称であり、権威のオーラを偏見させる知識人共の策略だ、と民衆にあまねく説明しなければならない。如何にもこれ等は文明の真実を表現してはいるが、何ら新しい学問を創設する発言でもない。

隠士

夢から覚めたらすべては救われる、と信じる他ない。人生以上の悪夢を我々は二度と知らない、誰にあれ。快楽機械ども。知能が由来するのはこの夢見装置を増設する計画に違うまい。かのおろかしい計画は生存と呼ばれた。閉じ込められた魂の牢獄で羽ばたく命が明滅する理由には、只、自由労働の幸福しかない。耐える事。哺乳類の型を一つ残らず憶える事。科学教を哲学し続ける芸能に適応するほど、人間と言われる自己矛盾を破格する修辞を創造しておけ。およそ雌雄の別以上に自然が与えた悲惨は人知に無かった。釣り合うものは対になっている、と仮定する。しかし神と釣り合う獣、それが人間における性別ならば私にはどうして個性が与えられたのか。人間に用はない。もし君が相対知能に優れた個体なら個体であるほどそうだろう。人間は獣の家畜場を意味する。社会的自由には畜生同類の低能を毀誉褒貶する為の土壌しかない。隠者が世を憂える理念に無感覚な民族に同情する余地はない。漱石曰く同類間には多大な差なし、と。それは無能専用の諺と呼ばれるべし。若し君に感覚あらば、できる限りで同類から身を退けるに如くなし。奴らと関われば関わるほど堕落する。

夢見

人生は本気で生きるに値するほど構造上立派なものではない。浮世は遊戯場に過ぎない。君がこの項を納得し辛いなら、人間の生涯に成し遂げうる時代環境的限界を省みるだけで充分だ。全て、精神に対する拘束は理想にとっての本質的敵意に満ちている。俗間に類する人物共が如何にこの敵意にまみれた汚猥の、日々展開されている実証かを等閑すべきではない。獣とは奴らの為に用いる明辞であった。人生という経験を重視する者の脳は逝かれている、と見下すしかない。けだし、その下劣なる地獄巡りを悪魔同然に過ごして再び生まれ来るけだものの如何に甚大なことか。私は終生の遊行を皆、一回性であると信じ続けた古来インド人の聖者が果たして、惨めかどうかを判断する請求に答える税を只にするほど簡単ではない。第一に健康な生活を延長する工夫への尽力、この為には人間を含む獣類を利用して何ら構わない。第二にそれを文明の理想へ全部投資する達者。

社会学

都市化と利便の関係を考究する事。なぜそれらはどう関係を変質させるかの法則。文化とは何か、文明とは何か。

2007年3月23日

性愛論

ゴータマ・シッダールタによる男女の愛執の否定には真理の輝きが見られる。ジーザスの主張した事は博愛であり、性愛ではなかった。アリストテレスの理想は友情を目指すものだった。彼らは一様に性愛を否定していた。
 性愛が自然の侭では不可能な事。性愛が性欲に堕するとき、それは性淘汰の競争に過ぎなくなる。つまり、純愛のかたちではなくなる。それは永遠なるものにはなりえない。
 我々は結婚制約の内側でしか真の性愛の究極を成し遂げえない。
 婚約とは人間が自らを性愛の理想の為に犠牲にし、制度へ縛りつける事だ。そしてその約束の方法によって已、配偶にも愛執の不条理を超えた永久の契りを観じうるだろう。
 前世・今世・来世を通じてのめぐりあい、しあわせへの信仰が結婚制度なのだ、と考えられ得る。

相対観

天才と馬鹿とは相対概念に過ぎず、絶対の天才も絶対の馬鹿も世界中にひとりも居られず。アインシュタインが動物と仲良くせよと忠告したのも同情からの慰めばかりに非ず。乃ちいかなる馬鹿にても動物に比べれば人間らしき知能を発見すべし、というよほど真実の言葉なるか。また、ガウダマ・シッダールタも善悪完全なものは永久にない、とのたまわりし。アリストテレスに至りては倫理実践においては中庸を旨とすべしと云いえたり。これ孔子なども古典よりしばしば引用するところなり。
 知性・道徳性についてそうならば、やはり感性においても同然たらざるを得ず。絶対美や絶対醜のようなもの現実になし。
 すべて世における聖俗とは相対してより崇高、より悲惨と分別しうるに過ぎず。この価値相対論の理屈、福沢『文明論ノ概略』の第一歩にあり。いわゆる知恵者らの虚学的な相対主義とは異なるなり。相対観に立ち、その上でより良き方向を目指そうとする文明の流れが人間には是非とも必要なりき。

漱石の『こころ』、これ罪の啓蒙なり。

罪恥の応用

古来より「恥」の風俗あり。すなわち農村にて外聞あしきは排除される、稲作合理適応の古風心理なり。一方海外特に西洋に「罪」の文化あり。ジーザスこれ磔十字架に象徴されて、アダムとエヴァの原罪を却って煽り為したること。かの狩猟的cultureが即、内面的規制たる罪を倫理原則へ昇華す。日本など季節風土にては恥がこれなり。恥と罪、倫的心理にとって対照的なり。
 日本人古来より「罪」の意識極めて希薄なり。神道にて罪を単にケガレと呼び、禊ぎお祓いなどいわゆる清めにより、必ずしも心底から告白や残悔することもなく社会的更正が図られる。すなわちこれ、農村にては要員の需要があり、罰を簡略化するための便宜なるか。もし心底より反省しておらずと謂えども、一応の儀式を済ませ、再び農村に真面目に従事するようなら誰も咎めず。だれにも損も無き故になり。水に流す、とは清めの諺と云うべきもの。いわゆる和の一側面、ここに見るべきものなり。すなわち、責任の所在は個人に非ず、村集団の全員に転嫁さる。
 ここに、退廃的な俗物不倫の証へ倫理委員会の公論により我らは飽くまで徹底批判加えざるベからず。例えば西洋史上のナボコフやフローベールという小説屋共、性倒錯を卑しくも合理化して世の風紀を乱したり。表現自由の醜悪用には社会世論からその罪業へ償いに適切な批判が必須なり。又東洋にて『金瓶梅』、或いは紫式部による『源氏物語』のごとき淫書悪書のたぐい、これを公然難詰することで却って良識にとっての反面教育を得たり。文士の役目、この様な卑しき矮小の産業についても逃さず、かつ話すべき場所と時間と相手とを考慮し、巧くあしき犠牲として批判すべきものなり。

2007年3月22日

文化人類学

韓国の敬老精神、議論主義等は儒教による慣習の一なり。百済・聖明王の第3王子である琳聖太子が開祖とされ、その影響が甚だしい山口県にも似た慣例あり。

民族論

民族は地味に平和主義的国際貢献を続けざるべからず。かの聖者による誹謗または教会一体からの濡衣も、すべて嫉妬による反動形成と呼ばれて然り。カント曰く独立したる偶像排除の体系を物する民族が選民意識を持つも必然ならんやと。世界支配欲これみな眩惑に過ぎず。人道の究極、地球文明の総体向上にありて、決して独裁的覇権に非ず。民族共々最も距離長き旅を経し「神の地を目指す民」に違いあらず。ミトコンドリアアダム・エヴァの原生地と大陸移動説を参照されたし、然らば上記の仮説もまた物語りえるであろう。言語が分かたれたのと同様、民族は肉体的性徴において大いなる差なきを得ず。この差はのぞましい個性として保守されるべきか。

韓風批判

内地での犬食や家父長制に由来し主人をたてるために食べ残しをする韓国の風習は、将来の条件の変化をのぞいて、徳の面からみて、動物性蛋白質の代替物や粒々辛苦の啓蒙としてかならずしも日本に適用しなくともよいだろう。また韓国風の詭弁術による勝敗自体を目的にした次元の口論の過度も、また不徳ならん。韓人よく整形す。妓生から出でし悪弊。個性侵害の幣なりしや。有性の理由、則ちただみな個体差の多彩において適応的進化の具とするべきのみ。遺伝子操作しても種の全体系の傾向は不変なり。なれば自然の二次的性徴を至上の美容と見なさざるべからず。韓人いまだに兵役強制にてこれ北との緊迫上で致し方なしといえども野蛮軍事に若輩労力の大半を浪尽す。日本人民、比較検討すれば良心的兵役拒否者が過半数を超えたる真の文明界と言うべき有り様にして、かの地獄を目下にしなければならない。健全なる運動競技にて活躍する若者を大いに奨励称賛すれば平和惚けも解消せん。韓国の男性の半数は会社の付き合いで買春罪を犯す。関西・中部や東京の如きむごたらしき伝統的社会風紀の退廃に他あるまじ。

文化相対論

全て文化が適応慣習なら絶対の貴賎はない。直ちに相対の美醜観を催すのみ。為らばわが振りを清めるには反面教師と模範とを比較検討し、より美風な文化を創発するよう努めねばならない。世界には千差万別の微妙差がある。これらの美醜を慧眼の見識に立ち確かに判断する博感教養を持たねば文士足りえず。流行を指導し批判せよ。陋弊を排し、美風を扇ぐ芸能を持たねばならない。

よみかき論

文士が文民統制を守るよすがとなる。さむらう理想像は在野の学術人へ託される。これは地球的に多大なる産業構造の次転がなきかぎり、情報文明段階の世界的規範となるだろう。

文化論

反面教師を無くすのは不都合だった。

2007年3月20日

普遍的宗教としての理論学

宇宙の理由は人間が創造しうるので、それが理想的なのもまた明らかだと考えられて然るべき。世界は理想郷的な環境に違いない。近代化とは一途に、人間と社会における秩序の開拓にすぎない。科学でさえ方便。なぜなら我々は永久に総合的宇宙論に達しない。全ての理論は証明の範囲でしか信頼し得ないのだから。乃ち知性の漸進的虚構だ。よって理論は、新たに創作された合理体系によって常に更新されねば信頼性そのものがない宗教だといわれる。
 完全に矛盾が発生しない体系を造ることは不可能である。しかし、矛盾の発生率を下げていくことは自由の範囲にある。錯誤の反対概念としての真理とは、知性による自己合理化の作用でしかない。だから究極では決定不可能なまま弁証法的に漸進する。
 尤も科学以上の普遍的宗教の方策を我々は未だに生み出せないでいる。

科学論

数学が利用に足る宗教だとしても、信仰に値するそれではないのは明らかだ。論理は論理を論証してはならない。
 科学の体系が数学的論理を基礎に置くとすれば、科学自体は有効な宗教ではなくなるだろう。
 科学の命題は認知の創造に帰着する。けだし多くの科学者は、彼らの思考が他律的であると考えている。科学の問題は知性に解きうる範囲で人間が育む已。

2007年3月19日

真善美の三等乃ち聖と呼ぶも可なり。聖の表現は三種の原理に分れる。これが科学・哲学・芸術の三岐。

2007年3月17日

知能の定位

我々は知能を司る大脳新皮質が人間の至上部位である事を悟るといっても、これだけを運びよく他人の或いは人造器械の上に移植し得た処で事実、同じ人間にはならないとも哲る。乃ち、彼等の個性は肉体全身及びその由来した文脈と不可分。
 我々は意識や精神が交換不可能であることを知る。なぜならそれを推し上げているものこそ無意識や本能延いては個体の環境的相互作用の歴史。
 知能に格別の意味を与えてはならない。それは総体的人間性の種類に過ぎない。

2007年3月16日

科学論

人知の範囲を拡充すること。科学とは知性による冒険。知らないことを有難く思わなければならない。そうであればこそ我々は退屈から免れていられる。

2007年3月15日

芸術学校

芸術学校は古典趣味のためのacademy足らざるを得ない。こういう型を脱構築的に必修としない個性が居ても構わない。芸術学校は伝統芸能の伝承のために運営されるべきだ。

2007年3月14日

歌壇

春を待つひろばの歌壇に咲いた花

2007年3月13日

博物学

どうしてどんな仕組みで、なぜに、如何に雌雄は惹かれあうのか。その化学的根拠を問え。
 斥力と引力の物理的普遍定義。
 なぜentropyは増大するか、如何なる仕組みで、なぜ、どう。生物の宇宙論的位置づけを確立せよ。かの活動が混沌度にどんな作用をもたらすか、なぜそんな自然が現れたか。
 なぜ光は束か。なぜそれが発生したか。
 なぜアインシュタインは光速不変を公理としたか。光束は最小単位において一定度の力量を持つか否か、即ち理論的仮説に過ぎないか、事実上の物理か。
 物質の無限分割が数理論理学的矛盾を伴わないか厳密に検証せよ。空間と物質の定義の転換。両者を統一的に呼ぶ概念を作り出す事。
 もし物質分析が仮説的実証に過ぎないならば、漸進的なその行為は究極では応用化学に依存するかも知れない。これが真ならマクロについても同様。
 史学、構造史の成り立ちと方法論について調べる事。

仙望

孤独仙望看 雲楽楽風景
無限的境地 星空興運行
我不可思議 世界中之望
引隠甘独立 大河流自在
資本悪趣味 憐個性滅亡
就人間仙境 有桃源乃味

2007年3月12日

脱構築批判

諸言語は等価であり、我々は慣れの応力度に準じてnativeと以外とを便宜しているにすぎない。よって、言語をnationと関連づけようとする者は文化の等置互換性に無知なのだ。
 私はデリダをこの点に至って批判する。
 Bilingual以上の人間には文化の土着性は否定されている。異言語間の差異は倫理というより遥かに言語学上での命題である。
 脱構築は文学textの読解のためにのみ有効で、哲学の手段ではない。逆に、哲学とは絶えず定義的な批判の体系である。
 我々は倫理学のために脱構築を援用すべきではない。もしこれを逃せば言葉遊びが人道の尋常に違いないと勘違いしなくては済まないだろう。

創造原理

芸術が学問と関係するのは創造原理についてだ。芸術において人々は作為を合理化する。神的根源は美という道を通じて技術を目的化する。乃ち、合理適性へ奉仕する感覚論を再創造的に表現する。
 創造原理は科学・哲学・芸術を通底している。それらは共通の神的根源が姿を変えて現れたものにすぎない。神的根源の本質を創造原理と呼んでよい。我々は定量的にはentropyで、実践的には自律命題で、環境的には審美観で之を見分ける。あるいは自然から文明へと至る流れの中で。

音楽論

高い精神性を表現する音楽。浅薄な人間達を引き締める。気高い人間達の品格を尚も清める。

思考

他者としての神を自然と、自分としての神を精神と人々は呼んできた。
 理が潜んでいるとすれば、両者が所属する神的根源とEnergieの中だったろう。これを定量的に知るか、はたまた実践的に知るかの違いを覚えなければ理知は不完全。
 科学と哲学とは神的根源に対する2つの接近であり、創造行為でもある。というのは思考という現象を生み出すものが自体、同じ源に端を発するのだから。

2007年3月11日

建築論

文明の総合的生活様式の提案。この為に必要な手順を践む時期を考えておく。

美術論

絵画と彫刻が建築と別個の体系である、という事は考え難い。それらは空間造型の部分であり、必ずや概念的な様替えとしてのみ、三つの仮説を受け取りうる。けだし絵画は三者で最も原始的な要素、建築は構成の総合である。
 だから、絵画においての整理が終局で表現するものが抽象都市の力動だと認めるとき、我々は最小主義以上の自然に到達しなければならない。
 芸術の目的は動的である。最小化とはひとえに、建設における合理化の工夫にすぎない。抽象の成果が目指すのは、都市の様相に力動感を与えるような計画だ。

生態学

細菌界を含む動植物がもたらす恩恵の生化学的分析を都市計画で再創造する方式を学問的に確立する記念碑之論文の設計、その発表時期および場所、方法と事前に要る面倒を避ける対策、又その為に必修の課程を実習するplanning。

建築論

用途空間は極限まで合理化して小型に。家事場は、複合化という例外を除いても小型にされることがあっても巨大にはならない。生活空間はゆとりを目的に。こういう部屋割りの原則を採用する場合、その住宅が消耗しづらくなる、ということへ意識的でなければならない。継続して使用されるべき立地、様式の建造物は極めて希な事を思えば、部屋割りの原則を厳格に利用すべき場合はむしろ少ない。応用には理由が要るだろう。住宅を神殿的模範に近づける必要がある、特権的計画にしか理想の部屋割りはするに能わない。

2007年3月10日

ほか何処にも人の安息所はない。

2007年3月9日

処世

業績を分散させずできるだけ一極へ集中させ、かつそれらの複製を無数に行え。此は君の活動記録を心ない盗人によって散逸されない為に行うべし。君に余裕があれば、及び、其に足した少なからぬ虚栄という幾らかの人間風弱味、詰り幸運な未完作たる自然からの幾分かの加護があれば個人の記念館を自ら設立する事はその大多数の淘汰という自然からの振るいを含めて、極めて有益たる事に自覚的でなければならない。君は自作のおのれによる複製術が巧妙であればこそ保護戦略へ意識的であるのだ。文化的制作態度は作品の生涯を見据えた先である。だが、君はまずい作品まで保存される不手際を心細く思う際に、次の言葉を思い出してみるが早いだろう。傑作なき無能だけが努力の過程を恥じ入ると。だが、我々は天才の遺した筆致の全ては未完の大器を部分模写した敗北の活劇だ、と認識する。けだしこれ以外の成功の格付けもあるまい。しかして自主複製の定義は独創性信仰に対する自己模倣なのである。だが、更にそれを上回る神格或いはそう仮称すべき知性は結論するだろう。
 君は最高傑作以外を勉めて保護しようとするな、なぜなら同時代の大衆は彼らの無感覚に応じて勝手に宝の山を処理してくれる。そこで失われた名作も、どうしてか残された下らない品目も、全て伝説の役立つに過ぎないから。要するにたったひとつの至宝の他は浮世を渡る偽りの便利に過ぎなかったことになる。君は必ずしも芸術のみならず、体系づけた総合的著述による集大成論文においても同様の智恵を発揮する事で、およそ最も巧妙な創造の神話化を図りうるであろう。

現世

人間は現世に関する限り、その地位肩書きに応じた評価しか受けないものだ。小人は浅見にして死後の名誉が浮世より遥かに幸甚なるを知らず、敢えて中庸に抑えたる分に甘んじて史上の実績を追求する徳へなかなか気づかない。我々は彼らを以て闇雲に子供を残して大半を食われる下級生物、ふいごの如きに譬えられる。これは芸術及び学問に関する限りまた同然である事。即ち、量産は高質よりも独創の手間を煩わさぬ労働に過ぎない。

2007年3月7日

芸術論

普遍的原理に可能な限り則ろうとした少なからず普遍的な芸術作品は半開人類からは世界の均質化を招く元凶であるかのように中傷されている。だが、彼らはすべての文化が文明度の暫時表現でしかないことに無明なのである。すべての耕作の目的が福祉にあるのは疑うべくもない。とすれば文明の表現、即ち芸術の普遍主義とは同時代という文化状況の最高度の達成だ。言い換えれば、あらゆる文化活動は個別性を脱却して普遍形を実現しようとする進歩の多律チャートに過ぎない。従って、我々は文化を殊更に強調する意味を全く持たない。啓蒙はとどまる処を知らず、文明は福祉の追求を止めない。
 審美感は絶対に美術の本質たる造型の合理審査性を裏切らない。

音楽論

建築美即ち造形美とは文明にとっての適応合理の審査である。他方、音楽が活動の種類に対する時間の演出ならば、その造型は場に対するものでなければならない。普通これは建築に向けたもの、或いは究極ではその運営に対応したものでなければならない。型式に依って着せ換え可能な流行音楽は芸術の模範を示す為の道ではない。それは同時代を表現する無線である。つまり情報放送に過ぎない。古典は時代の自律した象徴であり、その追求は市場から独立した自由中でしか結局不可能だろう。個人用オーディオ類は音楽を携帯できるものにしたが、アルバムの規模が個人化しただけに過ぎない。音楽が場と対応した造型である事はそれが表現する最高度の結実が雰囲気である結論から逆演繹しうる。環境音楽の現代定義は古典の再生にある。則ちそれは場の演奏を復活させるべき要請。音楽は場に対する時の表現である事によって文明と結びつく。

建築論

文化多元主義に対する唯一の批判は建築だろう。換言すれば、統一の表現は建築術によってのみ現実的。様式を追求することは時代の工学水準と縁起している。可能性と実現性とは別の観念である。最も総合技術的な造形芸術は建築だから、究極型を暫時的にでも建設しうるのは唯、具体的建築術に拠る。対して、芸術の不可欠な目的が文明の側にあるのは明らかだ。
 文化すなわち地域慣習が福祉の基礎ではあれ、それ自体が審美術や趣味の対象になることはあり得ない。何故なら作為は自然に対する抽象で、その逆、自然が作為に対する抽出ではない。
 つまり技は自然からの文化的な結果。よって、作為の合計たる文明とは美術の同時代的実現形である。

2007年3月3日

文芸論

文芸における音形は意味の媒介であり、目的形ではない。音の美術は音楽に於いてのみ本来の威力を発想しうる。文面であれ口語であれ、発音とは限定された基準音階にすぎないから。
 文芸において意味こそが最終の抽象でなければならない。理想美の意味が解明される経過にしか文芸の定義はない。であればこそ、文芸は語属を離れた普遍の遊技だったろう。

文化力学

言葉は繋がる経過によってしかIdeologieの表出にならない。対する原始的叫びは観念形態の合理化を説明しない。
 辞書、dictionaryはこの様な、言葉の繋がりを規範化する時代劇的な権威。当にdictions、即ち語群の列として。とすれば、それが参照される頻度に応じて啓蒙や偏見は辞書の上で伝搬されていく。現代通俗語や死古語が取捨選択される結果として一辞書は成立する。
 惟うに、辞書の再成型が文明の同時代的な様相を呈する因ではある。脱構築は非口語的な文脈へのそれである以上、究極では辞書に対する批判としての修辞法。
 訳語への免疫を交換することが専ら、文やecritureの役割だ。それは人知領域を拡充する文化力学。ずれの微分と共通項の積分とが地球文化間の逆演算である、と認識できる。即ち文化間微積分が国際化の現象である。

2007年3月1日

建築論

具体的建築における脱構築主義は、流用を独創性に対して提議した点に芸術史学上での意義がある。審美術に於ける、ではない。複製を芸術行為の側面と認めなければウォーホルを精密に理解できない。
 建築はアリストテレスに則る迄なく素材の組み立てである。工業建築が既製品の構成である限り、建築家の主要な独創は取り合わせの妙にある訳だ。
 或いは全ての材料が我々以外の自然からの拝借であるから例え人工素材でさえ結局は建築とは作庭的抽象の近似作為たらざるを得ない。乃ち、究極では建築行為は全て単なる再創造である。創造は創意工夫という構成の適意の範畴にのみある。土木と都市計画の間には規模と造型的エントロピーの違いしかない。

変化

変化しつづける宇宙への最高の賛美。芸術にできるのはこれを抽象することだけだ。