2007年3月23日

罪恥の応用

古来より「恥」の風俗あり。すなわち農村にて外聞あしきは排除される、稲作合理適応の古風心理なり。一方海外特に西洋に「罪」の文化あり。ジーザスこれ磔十字架に象徴されて、アダムとエヴァの原罪を却って煽り為したること。かの狩猟的cultureが即、内面的規制たる罪を倫理原則へ昇華す。日本など季節風土にては恥がこれなり。恥と罪、倫的心理にとって対照的なり。
 日本人古来より「罪」の意識極めて希薄なり。神道にて罪を単にケガレと呼び、禊ぎお祓いなどいわゆる清めにより、必ずしも心底から告白や残悔することもなく社会的更正が図られる。すなわちこれ、農村にては要員の需要があり、罰を簡略化するための便宜なるか。もし心底より反省しておらずと謂えども、一応の儀式を済ませ、再び農村に真面目に従事するようなら誰も咎めず。だれにも損も無き故になり。水に流す、とは清めの諺と云うべきもの。いわゆる和の一側面、ここに見るべきものなり。すなわち、責任の所在は個人に非ず、村集団の全員に転嫁さる。
 ここに、退廃的な俗物不倫の証へ倫理委員会の公論により我らは飽くまで徹底批判加えざるベからず。例えば西洋史上のナボコフやフローベールという小説屋共、性倒錯を卑しくも合理化して世の風紀を乱したり。表現自由の醜悪用には社会世論からその罪業へ償いに適切な批判が必須なり。又東洋にて『金瓶梅』、或いは紫式部による『源氏物語』のごとき淫書悪書のたぐい、これを公然難詰することで却って良識にとっての反面教育を得たり。文士の役目、この様な卑しき矮小の産業についても逃さず、かつ話すべき場所と時間と相手とを考慮し、巧くあしき犠牲として批判すべきものなり。