2007年5月31日

千尋論

日本の未来やちよの先々を期するに、決してゆるがせできぬ絶対死守の至宝は万世一系の天皇血統にあり。皇統純血主義はこの為が自然なり。もし天皇家系に血統独特の特徴を失う時は、それいわんや国家の滅亡なり。滅亡をよしとするときは全世界から国家共同体を排除するとき、乃ち文明太平万人一家の有り様にて到底現生人類の夢想だにせぬ遥か永遠なる旅路の終局楽天地以降なり。
 なれば天皇血統はこれを死守するに際し、全国民の命を全然犠牲にしてもなんら一切足らぬものと定めてすら寿なり。されど実際、以上神風の仮定は飽くまで机上の命題に過ぎず。試みに想像せよもし一億全員総死闘の波乱ありてもこれを組み伏せうる勢力地上になし。あれば天変地異のみなり。天命は人事の関するところにあらず。従って人間に限ってはこのような激烈の修羅場は全くありえぬものなり。すべて戦争とは理知欠落血気過剰のあまり命知らずに悶ゆる馬鹿軍人類の下等遊戯にして、我々賢徳文民は呑気安心して尚も高潔世論を進めて考慮せんや。これを例えば潮干狩りに行きて夢中で蟹とたわむる幼な児をしりめにさっさと蜆を集める海女のごとし。
 福澤『文明論之概略』巻の一に国家概論あり。曰く、「国家内に人心、政令、物質の区別あり。前者は難し後者は易しと云えり。また詳細にみてこのうちの政令に政権、国体、血統の区別あり。概覧のばあい同様に前者は難く後者は易し。難先易後は文明正順なり。なれば国家基幹たる国体こそは国の本なり、血統も政権も此に応じて光を増すものなり」と。さてわれ思うに、国体は国家自体の目的なり。いわゆるnationalityの度合いがすなわち文明人道の初段に違いなし。日人は第二次世界大戦で一旦政権を奪われども国体まで失わず。これを例えば獅子が牙に傷を負うも体も眼も健康そのもののごとし。
 GHQは国連から無情にも分割される以前に利己統治完了を目指して血統を敢えて排せず、国体をもほぼ解体せぬまま政権にアメリカ風の遜色を施して日本人を再び野に放ちたり。1946年1月25日のマッカーサーよりアイゼンハワー宛て電報に曰く日本国民ゲリラ化を防ぐためには象徴天皇制を必要とす、と。山極・中村編『資料日本占領1 天皇制』大月書店より推断可也。これを例えば暴れ狂った獅子の牙をまるく削りてすぐに慌てて檻から解放したるが如く、日本の平和主義はこの新生ライオンのなんともかわいらしき有り様にほかならず。いわばアメリカにしてみれば恐ろしきばかりの猛獣をうまく手なづけて、ペットにしたるが心地ならん。
 されどかくして守られたる国体は初段にして次段にはあらず。国際体・inter-nationalityの様なものは国体の手段化の後に生まれてくる発想なり。やれ余輩の見なすに現代は国家同士の協力模索の時勢なり。EUは先んじてこれを仮設したり。もし国家と地域連合を互角すれば必ず単独の敗れること、孤立カマキリが大群を有した蟻やバッタやトンボ連携の四面楚歌にたじろぐが如し。
 今、アメリカ・日本・EUは世界資本の大部分を専有する経済大国なれば又、三者の進退は地球社会の命運を左右する筈は、ちょうど三財閥の威光が政運さえ扇いだ時代の体なり。要するに、日本は血統を温めて国益を知る君国並立の国体にして、俗論者の謬説に鋒あやまる血統解体の惑溺醜誘は、あたかも生き身の眼を潰して体や牙の節制養生にせんとするが如き失笑憐憫のまゆつば医療きどり哉と見なさざるをえず。

 天皇の役割はわが説天才文化律の崇高圧倒の威力の為に長らく血統連綿を利用すべき家系図差別観のみにして、政が神道を敬い遠ざける限り尊き帝の御心配もいらず、ましてや更なる文明のためにはますます彼の神話が偶像化した国土自然の景勝を保全作庭、果ては民情風紀に絶対被差別の立場から無為の求道を励起させる必然の人気を常識揺藍する様孜々努めざるべからず。

国家建築論

国家を悠久に漸進繁栄させる為には天才達の普遍貢献が十分条件となり、民衆の普通さが必要条件となる。もし前者を欠けば軽視され、後者を失えば蹂躙される。中途半端ではいずれ撤廃や併合の憂いにも遭うだろうが、両者が揃えば伝統建築の礎となる。

 国家建設の際、先ず必要条件を満たすには教育を普及させよ。そして少なくとも同時代世界の平均水準を達せば、あとは彼らの国情へ次第に天才文化律を施し、無数の偉人を輩出せよ。

2007年5月30日

小説論

翻訳し易い文体を作る事は国益の要ともなる。情報伝達速度に摩擦抵抗を儲ける程、文明格差は保護経済的に畏まる。現代文学の為しうる最善とは国際救済の指導である。もし隔世文豪の磔あらねば諸文化民度に革命なし。
 人類文明段階の産業体系に応じた一切衆情間偏差値最適化の采配慧眼あらねば小説に何ら意義なし。

国際憂慮論

国家資本の必然趨勢は地球中を覇権方式順応へと追い詰めている。例: 英語国際公用の必然。

 だが、他方では自由主義の根本欠陥が功利の限界乃ち見えざる手に依存し、「見えし手」つまり調整的正義をないがしろにするのも確かだ。戦争の惨めな引き金、恐慌、環境破壊や食糧危機あるいは世界大戦などの悲惨が皆、自由主義自体に包含された侵略律から誘われざるをえない以上、我々はその狂信を揚棄して然るべきな筈。

 現存の常任理事が連合国際秩序の自己正当化に強く働かねばならぬ以上は、国連改良の為、国家資本の割譲が天下に必要となる。国家資本を私有財産から国連公有のそれへと次第に棚揚げする方策が考慮されるべきか。

 それはいずれ和平的穏便に図られる自然があり、であれば国連組織を世界市民政府に向けて折衷する可能性が審議されるといい。覇権国家が事実上の国際王政を担う現状を冷徹せよ。又、国際専制政治は常任理事権の寡占により発生する事情を客体鑑査せよ。

 南北格差は偏った地政資本から生じると同時に、国情の差縁にも密接する。例: インド人一般と日本人一般に各地で同然同趣の仕事量を要求しても無駄でしかない。国際分業が世界史の普遍‐部分両正義にとっての職業序列を附けるのは偽善。世襲制度はその侭、職能区分に反する所なきにしも非ず。ならば文化は否定され、文明が採択される。文化は手段であって目的ではない。でなければ人間はいずれ国際共栄を果たしえないから。

 もしある国民が立派なら、自ら協業の分別を主張し、国連政府の中に教育省を設けざるをえないだろう。国民文明間学力格差は国際分業合理化の妨げになるばかりか、却って国際社会不安を増長させる役に立ちそうでもある。ならばいまに学ぶ様教えることを努力する者は救われるだろうから。

経世済民

寄付の仕方を考慮せずに利を貪る者は貶められる。家政とは先ず慈善の方便である。さればこそ稼ぎが世に益するのだから。搾取は勧善懲悪の手段に過ぎぬ。

2007年5月29日

松岡農林水産省大臣の自殺に関する見解

鈴木宗男氏、自身のweb上の日記で農林水産省松岡大臣との先日のやりとりを明かす。
 著作権限につき内容省略。要約して述べれば、国対支持で不義理を隠蔽す、と。詳細記録、朝日新聞朝刊2007年5月29日(火)付け34面にあり。
 これが真実の内訳ならば、即ち安倍幕府の実証にあらずや。表面内閣支持率のみを目的にして、実質の不正をひた隠しに口先蝶々、なんら慚愧の念に堪えぬ首相とはこれなんぞや。
 吾が輩、一日本国民としてこの煽動政権の醜態を史実に記録す。大臣を自害に追い込みたる上からの指示とは即ち偽善的序列の悪業なり。

文明論

品格の下限を切り捨て、上限を進捗する文明を文化の目的とす。

2007年5月28日

流れ

人は大河なり、我は清流なり。

2007年5月27日

現代文化

福祉世界の実現が為には、文化多元主義的な多律国際環境が是非とも必要だろう。但し、インドの様に独立を余程欲しない民情もあるかもしれない。国際連合形成の為には多声主義が必要。専ら日本国内に限っても、地域性はこのような多文化環境の必要を要請している。

2007年5月24日

政経中道説

政経的中庸は社会の目的である。

政治における民主と社会、
経済における資本と共産の間にのみ、
目的とすべき中庸的社会体制はあるだろう。

それは配分と調整とを最適化するような『中道主義』の文明的追求にある。

こんにゃくゼリー

こんにゃくゼリーによる窒息死亡二件。EUでは2003年から既にゼリー類へのこんにゃく使用が禁止されている。こんにゃくゼリーとやらが必需品でもないかぎり、寒天などに小型カップサイズの商品展開を移す等未然事故の防災に他の食品へ切り替える法ができないものではない。

現行法の遵守

名古屋簡易裁判官の山本裁判官、淫行罪をみずから合理化する。悪意の有無に関わらず現行法の遵守は罪刑法定主義の大原則でなければならない筈が。

2007年5月23日

覚悟

迎合するくらいなら餓死を選べ。

勤労

各土着文化を至上尊重しての勤勉が即ち、国連政府による経済的調整が為される以前に日本国民の人道に貢献しうる最良の途上国寄付となるだろう。

2007年5月22日

国防警察法案

自衛隊は国防のための警察組織で、平和主義憲法の内部で持ちうる国防警察である。自衛隊の名称を変えるだけでこれは十分に賄いうる。即ち、平和憲法の枠内で可能な国防警察隊という名称にすればなんら国内外に矛盾はなくなる。警察組織の一部とすれば文民統制の範囲にそれを組み込みうるのだから。
 自立した防衛庁を廃止し、防衛局として内閣府管轄下で警察庁内部に位置づければよい。

国政論

平和主義の死守。国連中心思想を世界中へ伝播させ、日米同盟の破棄とフェビアン社会主義に漸進する事。

現代経済学

国民総所得(GNP)から国民所得(NP)へ企業を目的とせず、個人のそれを優勢に考え直せ。国民純福祉(NNW)から国民環境福祉(ENW、Ecological National Welfare)へ新たな福祉達成度の指標が世界経済の目標に代えられねばならない。なぜなら経済の目的は福祉だったから。

現代社会批判

私はアメリカの没落を予見する!
テロリズムは彼らを滅亡まで追い詰めていくだろう。

世界中を自由主義で侵略し尽くすことは不可能だ!思い上がるな。
中東諸国の戦闘的抵抗の土着性格を悟るならば、イラク戦争こそが彼らアメリカ覇権時代の終焉を告げていたのだ。

 現代日本の衆愚社会的荒廃を救済するには――

民主社会主義政治とassociationism経済とに社会政策を根本から展開させよ。

煽動政治家と学歴世襲体系を破格せねばならぬ。
そうでなければ日本は再び《テクノクラート寡占の専制主義》に堕落するだろうから。

信仰

集会結社を伴うな。独立自尊を旨に、一途に信仰せよ。

天地教義批判への論駁

善に過ぎるというなら、『中庸の徳』もまた、善行の追求から自ずと導かれる。

2007年5月21日

善の為に善を為せ。

僻地人為の天災

日本人社会全体がもつ自然的集団が犯す過ちの蓄積はある日、臨界点を超えて巨大な悲劇になる。あたかも彼らを育む風土に特有の地震がそうである様に。彼らは暫くそのことを反省し、犠牲を省み、軌道修正をする。しかし潔く忘れてしまう。

 彼らの集団的犯罪行為に対して息を抜くこと、そしてしばしばその犯罪行為自体を鎮めて方向性を翻すことは知識人の要たれ。

自然

なぜ生命は増殖していくのか、宇宙の目的は何か。

詩学

雨月物語序文にある様、後世永久に流毒をもたらす芸術の悪用を為してしまえば既に、芸術家の魂は地獄へと堕ちぶれているのだ。
 果たして江戸時代の上田秋成にとっての良識が京都風物語の堕落した専制政治に於ける放逸を憎むこと多大なら、後世の民衆になるほど苦悩もまた増大然るべし。我々は平安女宮の理想とやらが、現代倫理から見なして如何に腐敗していたかを悟ればかの悪魔女史の供養も弔いうる筈。無神論者は一生の範囲でしか快苦計算をしないほど退廃しているが、輪廻の法則は祟りとなって彼らの子孫血統を蝕むだろう。
 芸術から道徳分子を一切除去し去ることはならない。唯、同時代において最純の理想を結晶させるこそ傑作の目的たれ。かくあればこそ時代民情の最もよき神髄は栄典に記録され、後世の反省模範に示しうる。

2007年5月20日

土着性の互譲論

各民族の共生の為には相利的関係を養生する様に国民性を指導すべき。
 世界中が理性至上の幸福主義を信奉する日はありえない。たとえ数学や、形而上学すなわち哲学においてさえ、理性の絶対は確定し得ない。ならばその基本定律は普遍的ではない。乃ち、西洋文化的でしかない。
 我々は各民族特性を最善化し、且つ互恵しうるような国際秩序を折衷しなければならない。決して世界中が等しく自由主義に染まりうると信じる事はできない、民族文化の土着的な根深さを悟るなら。

2007年5月19日

趣味論

知情意あるいは真善美の如き諸情緒間に仮構の分断を設くは破格の方便たるのみ。決して癒着自体が正道たりえず、又分離そのものが目的に非ず。豈唯、それらの自律分散かつ平均程度向上展開の便利たる已。
 乃ち、同時代における平均文明つまり常識、の程度が進展するにあたって、これら仮の分散に限度の上昇があるに等し。もし仮に分離せずせば解剖学に方途なく、社会不正を勧善懲悪に従ひて暴く傑作文面に形式論已から迫害加えられ益々醜悪の増長を許すが如し。
 同時代にて許さるべき表現の自由は常識に頼りて極端な差し支えなき最低限度以上の域に規制限るべし。やみくもな情緒分断はその極端な癒着と共に後生へ悪例を開くのみ。乃ち各趣味論によるよしあし評論の目的、この限度に適当の幅をどれだけ許すかの良識養成が為にあれ。

儒教圏

儒教圏で啓蒙活動をする時、自分の立場が弱い時は露悪的または偽善的な背理法を使えばよい。乃ち長幼の破格。

2007年5月18日

官民権限の癒着

2007年、5月18日、朝日新聞朝刊の34面社会欄の記事。安部首相の公設秘書が言論弾圧まがいの牽制風訴訟を起こす。視聴者に客観正当な事情を報道することは言論の自由の要石ではないのか。もし真実に偏った観点からの不正な報道であったとすれば、この問題をみずから公に論じるが良い。
 なぜ秘書を通じ、暗裏に朝日新聞の報道的自由を阻害する様な、万が一あらば真実の事情を揉み消そうとするような挙動にも思える行動に出たのか我々市民には知る権利がある。それが世論煽動の方便ではないのなら当然。
 体制が公正無私な体系である為には世論からいかなる不当な批判を受けても、何ら事実無根にて大丈夫な「清廉」な団体組織でなければならない。であればこそ、不当な非難に対しては世論への説明と正義ある政策を通じて民主的に万事納得してもらえる筈。
 市民間自由の権利に政府組織が一切関与してはならない。例え体制批判に近しい内容であっても同然。もし政府から見て誤った印象を与える可能性のある報道を悉く封殺すれば、必ずや民間に官民権限の癒着を催すだろう。それが民主主義の堕落を引き起こすことも絶対の真理である。
 この議題に関しては万国民が悟るところ大なる独裁政傾向世論煽動退廃の芽として、よく公衆疑義の対象に供されねばならぬ。果たして朝日新聞がこれで政治および経済関連の事情報道に萎縮してしまえば直ぐ様、日本の民主主義は退廃するに違いない。

閑居

小人閑居して不善を為し、君子閑居して至善に勉む。

現代文芸論

文学における理想主義は大衆世論には程遠くなりがちであり、彼らには理解できぬゆえ衒学だとか逆に無学だとか酷い場合には低知脳だとか、或いははたまた神格的だとか極端な評価しか受けられない。
 時代美意識の啓発が文学の目的ならば、いかに幻惑低級的であれ現実主義の陣営にも一定度の自然がない訳ではない。すなわち近代小説様式は現代大衆の造詣程度に適当なのである。例えば脱構造的手法は、彼らの大半にとっては一生の範囲では凡そ理解及ばぬことなのだ。
 私は今や漸近理想主義という改めた理念を折衷しない訳にはいかない。それは二次関数曲線のように、世論美意識の啓発を主目的に定めた現実の美化を微妙に積分していくような様式であれ。

2007年5月17日

建築論

合理主義は文化の範囲においては風土最適解のため利用されるべき一技法だった。西洋型近代建築が世界中を統一することは永久にないだろう。それが却って特定風土において不合理であると欧米の中華主義者が悟るなら。

信仰指導

日本人に罪観念を教え込むにはキリスト・イスラム教を興隆させるのがどうやら最良の方策であるだろう。

道徳と倫理

道徳は寿命を伸ばし、倫理は処世を助ける。
 道徳とは普遍的観点に基づく長期的実践の正義力、倫理とは時と場に応じた臨機制変の機知。

思想論

経験則が教えることに、どの思想にも限界があるということだ。現代人類は地球の枠内で純粋理性を考える限り合理主義的科学論を真理の名に値するものと信じるべきではあるだろうが、決してそれが学識の最終形態ではありえないと諦めてよいだろう。極東ではかつて仏教や儒学をこの様な学ばれるべきもの、mathematicsに見立てて学習行動を傾向づけて来た。しかしながら現代から見なせばやはりそれらは古代あるいは中世に適度な宗教教義でしかなかったと言えはしないか。われわれは科学をもこのような一定度の限界の範囲でしか見なし得ないと知るべきだ。不完全性定理は結局、事物を確率論の範囲でのみ捉えうるという科学認知の限界を指し示す。哲学から育まれ分化した科学的思考それ自体がいずれ、より巨大な学問架構に取り込まれ相対化される日は論を待たない。
 合理主義は奴隷制度のもとで思考遊戯を目的化したギリシア文化の影響波が地球全面に浸透した経過でもあった。功利主義を基調にした植民帝国による近代文明もまた然り。現代文明とは近代文明を再び文化自律へと導くような合理主義の風土的消化の結果でなければならない。それらの互恵的な利潤と、お互いへの慈しみの人情こそ、国際人道を拓く新たな地平だから。

2007年5月16日

政治家論

名声だけを託みに政治界に躍り出た芸能人が長らく成功した試しは一度もない。

ほめ方

あしき相手を責めたくば褒め殺しにするのが最上である。正面から他人を咎めるなかれ。方便に長ける者は尊敬される。

国際倫理学

文化差は即、文明間の功利福祉を増進させる一方で、偏差により同類間に敵意をもたらしもする。

 我々はやみくもに自文化中心主義をとっては決してならない。なぜならそれは人類の不平等を当然とみなす様な傲慢や、近代文明への適合度が低い民族国家への蔑視に陥ってしまう。
 我々は今やあらたな国際倫理を折衷する責務を負う。多声主義はこのための第一歩でなければならない。なぜなら特定の立場の者の声に偏れば即、人間倫理は寡頭に傾く。
 すべての階級・人種・民族の声を聴く他に、globalism中途を乗り切る新たな倫理観を養生する道はなさそうに思う。

 文化多元主義は母国の中に、混沌的多声環境を斉す。それは倫理結束: moral tieを少なからず破損し、伝統的な社会秩序を崩壊へ導く。近代西洋社会中で文化多元主義政策が退けられた理由もまたここにある。民族主義は適度ならば倫理結束の手段ともなる、と主張するたぐいのある新保守派層が力を持ちかえした理屈もここにある。だが、それはやはり、元々彼らがもっている善意とは異なり、国際偏差の拡大へしか働かない付け焼き刃。新保守派が支配的な先進国には、libertarianismの自由主義圏と同じく勘違いされたterrorismも襲いかねないことは避け様がない。なぜならその様な保守化した集団が広い公共心をわずかでも失い、自民族中心主義へ近づき利己的になった時追いつきがたい途上国にとっては羨むべき相続財産権に他ならない、と捉えられてしまう。それは国内的な金融資本への調整的立場とは違って外部からは寡頭集団に映る、という勘違いに基づく悲劇ではあるが。少なくとも、広い公共心をもつ保守主義がありえるなら、そういった人々にとって最も。
 この最後の場合、もしそういう複雑な事件がありうるならだが、最も状況が悲劇的なのは利他的な善意をもって地球規模の再調整を行おうと志す保守派が、それとは真逆の我執に凝り固まった利己的行動原則で動いている革新派、進歩派というべきlibertarianと同じ程の被害を、国家という単位にあるが故国際金融資本への狙い撃ちをするterroristの標的になってしまいうけかねない事、つまり理解度のひくい原理主義過激派がもった二重の愚かしさと天からさしだされるはず蜘蛛の糸を断とうとしている盗賊の暴挙によるのだろう。しかし、この原理主義の根本意図も調整なのだから、それをある国家で行おうとする保守派をも攻撃するのならばやはり拙速な誤りであり、彼らterrorist自身が矛盾している。原理主義者は先進国や金融資本に関連している保守派を攻撃すべきではなく、libertarianを最大限和平的な方法、できたら経済合理性の面から途上国への投資という形をとった喜捨の説得をする方が効果あるといえる。

輪廻

過去の中で必死に努力した人々の跡、即ち伝統だけが浮世で唯一、頼りにしうる良識の証明。歴史は罪業と善果とに微分差を伴って存在しているが、伝統の神髄には必ずや現代を助ける思想がある。私達が生涯に力を尽くした聖性の結晶が、未来の人を再び鼓舞することを知るならば。

啓蒙

啓蒙には良心の許す範囲で決して手段を選ぶな。長寿の為にはいかなる養生も欠かさない様に。衆愚の卑怯がどれほど下劣限りないかを悟るならば。彼らには良心が比較的ないのだから自然ではあるが、猶。

修身論

又産業がおこれば機械化により人間の余暇は増大す。若輩にmoratriumの延長が与えらる事、労働の知的省力化、老余の自在が増大する事、之等はみな趣味主義の最たる傾向なり。
 閑居の倫は性癖清潔を至善とす。習い性となる。家庭団欒に純潔は是非必要と悟るべし。男子にありては己の個性差に応じた学術求道を、女子にありては家政学を主とした淑徳の滋養を若年の目的とすべし。

2007年5月15日

文士道訓

死んだ気で同類の目を覆うべき醜悪を徹底に懲らしめる事――勧善懲悪が純文学の第一歩でなければならぬ。
先ず、弱く正しい者たちへの救済、傲れる悪魔への懲罰であれ。

俗物作家類の小言に構うな、いずれ雑魚は時代流行に応じて一切淘汰忘却さるのみである。
決して慌てるな、牛のように歩め、人間を押せ。

言語論

後学の余地を与えないてらいは多少あれ悪徳。文語における未知の言葉を文脈上で説明する手段こそ啓蒙にとり現実味ある。

相手

学者と芸人は違う。相手にする人間により頭は進化も退化もする。絶えず盛んに勉強せねば何ら知能とは言えず。職分を超えた真似を看過する秩序は人間にない。

王手

人生に目的を仮設せねばあらゆる活動は徒労である。大切なのは、この仮設物にこだわり過ぎぬ事だ。工作遊びだと思うがいい。もし、途中で都合が悪くなれば切り替えることをためらうな。段階を設計せよ。王手以前には臨機応変であれ。

悲運

君を理解できる人間はこの世の範囲には君独りきり。共同化が慰めうるのは祭り事だけ。果たして人間に、他から完全に理解してもらうに足る聖性が一度たりとも獲得された例しはなかったが知能の特徴は個性的故に。世に居られるうちが花。現し世には孤独より愛すべき何事もなし。天才は豚より不幸である、勉強するのはソクラテス的慈善の為。天才は孤立のあまり自殺しなければ人類に飽くまで異和するものだ、進化の法に則りて。いい加減に彼らを苛めるのは辞め給え。凡人の哀しさは真贋の見分けがつかないがゆえに奇形もろとも彼ら、人類の至宝を無闇に殺してしまう事だ。天才は優生的突然変異であるがゆえ二度と比類なし。この地表で最も貴重な種を黙殺し死亡させてしまえば人間の不運は限りなし。凡人の無恥による悪行もまた因果する。即ち、聖人を安易にも殺した連中はいずれ祟りに遭うしかない。
 仮説。もしヒトラーが迫害軟禁されていればドイツ民族はやはり植民されていたか。可哀想なユダへの祟りはいつまでも尾を曳いては祓い得ない。人間の愚かさ。仏陀のたまわく怨みは棄ててこそ止む。同類を妬むな。奇形にあれ天才にあれ貴様らを根絶やしにはしない。滅多な事で同類を殺め為さるな。そこには悪業の連鎖しかない。

啓蒙

連中から身を退ける事。悪徳に憑かれた心ない人々。
 人間を少しなりとも改良したくば連中を世界宗教或いは教育組織に囲い込む事。学歴差別による世襲的形骸の弊害を避けるには例外を拾う社会良俗を興隆する他ない。

時代

詩歌は理性の光による権威の脱出でなければならぬ。もしお前に智恵があれば、聖と邪とを見分け得るであろう。誤って親を討ったオイディプスになるな、いずれ君自身が伐たれたくなければ。

2007年5月12日

家庭

妻子に依存する勿かれ。

2007年5月11日

作家

同時代人から心理的な距離を置く事を習慣にしていた。流行に対する伝統文脈主義的な間の取り方が即ち、作家の活動を時代航海に成功させる舵となる。

考え方

哲学は時代思潮に対する考え方の仮設としてのみ価値をもつ。それは善導の方便でしかありえない。

物理学

宇宙の多様化展開律以上に精神知能の理由がないか探る方法。解剖、実験、検証。Entropy増大則の化学的組成を厳密に定式化する思索とその為に必要な期間および学習成果、時空膨張の原因。以下準備論考。
 なぜ生命体は生滅するか。彼らの延長特性が個体に代謝を与える事で適応功利をしえる様に。肉体の末枝である知能がこの目的に一致しない筈はない、即ち延長特性に過ぎない。それが秩序であるという事は過ちだ。複雑の認知が数理秩序をも混沌特性として担っている、と考える方がより真に近い。たとえば数学は十進法の単純な規則を原理にした複雑系の一類たる。生命体は能動特性により宇宙に秩序を打ち立てんとす。なぜ? 彼らの利己競争性即ち宇宙斥力の膨張観の変形であり、能動的自律はエントロピーの系に対する消化を省いていくparadoxicalな永久の時空漸進経過である。生命体は本質的に無機環境に対立する、なぜなら彼らは有機的自律を指向する事で宇宙の多様系のうちに独自の運動系を形づくる。宇宙とは何か、こう答えうる。運動系の多様観である、と。無機物の運動系は普遍力学で論証しえる。
 どうやってより確実な帰納的実験成果を果たすか、宇宙がどう展開するかの実証、巨視的に、微視的に、人間的に。これら宇宙の多様観がなぜ存在するようになったかを検証せよ。
 真善美といった精神価値も又、環境との調和を果たす為に知能が地球環境内持続的共生に最適化するべく合理づけた形而上‐形而下越境の秩序に過ぎない。幾何学と十進法数理論とはかねて堅密であった。前者は形而下量を、後者は形而上量を扱い相互媒介する。だが、この間に必然性はないのだ。その関係はユークリッドに総合された思考特性が一時人類種内伝承したに過ぎない。宇宙はなぜ存在するのか?
 混沌度の増大は即ち空間的膨張とは言い切れない。なぜなら最小単子に限っても空間そのものが視点を変えずに膨張・縮小する事などあり得ないからだ。ならば、縮小の極限としての宇宙の誕生といった幻想は神話の次元でしかなかった。世界にはそれ自体の理由がある。決して創造神話に依るのではない。時間を遡る果てにもやはり、同様な定常宇宙があったろう。時間を流しても同様に。
 相対論の原則はそれが定常宇宙を前提としなければならない事にある、と考えた方がよい。そうでなければ量子論の確率性と矛盾を起こす。もし創造でなく選択ならば、単なる試行が複数回に渡る際の認識上の省略的抽象知としてのみ数字を扱いえる、と気づくべし。多様観は時空展開の典型方向であり、永遠的複雑進化の系列分化律。なぜ? なぜ宇宙はそこにある? 理由は混沌の自存にある。なぜ混沌がある?
 創造主を仮定することでは多様観を説明できない。
 複数単子が存在することには分裂以前の問題だから。もし最小単子が何らかの場合分裂するなら、それは創造ではなく空間の不可能であるから。混沌は複数の最小単子同士が関係を時間的・空間的に組み合わせて成立する。

文芸論

どれほど下品を嫌っても足らず、どれほど上品を好んでも足らない

2007年5月10日

運動論

競争と遊戯の中間、競戯としての運動だけが人間性を健康へ改良する余地を伴っている。

2007年5月9日

斉家

人間は闘技せねば改良されず。大幅な改革には必死の戦闘を要す。これを戯れとみなす。人間に休息場が必要なるは上記の理由によるなり。家内安全を願うは、日本人の休憩治癒に甘えのもとめられたる由縁なり。
 戯れと甘えとの調和がなければ十全な社会貢献は為し難し。処世の極端主義はこれらの相対が強きほどに功利あるがゆえなり。乃ち彼らの潔さはこの両極端の媒介たる自然ならん。

2007年5月8日

審美論

文明の格差は美観に及ぶ。美術は時代思潮の文脈に対する美術である。文明と文化とは時代思潮の文脈情勢に応じて同一源。

2007年5月7日

知識

如何なる理論といえども社会中継の分子たらざるを得ず。永久に通用なしうることわりの種は人間に一粒もなし。ならば理論の巧拙とは中継の丁寧に甲乙の区分あるに過ぎず。真理とは単なる時代航海術なり。
 而して世界市民の学問たると世人の信ず知識にありても不確定性は必然なり。唯、学識はこの敏か鈍か繰り返し試験し、より真たる確率を向上なしうる合理論の遊び已。

勉強

勉強の勧めは優性学に近し。もし平凡に甘んじ得るならなんら勉強を要せず、家庭にも社会にも文明にも進歩あらず。

無私

何れ策略如何に関わらずある種は栄え他は絶える。これは理性の度合いに傾向としてしか因らぬ、自然現象としての理性を含む。つまり如何にしても確率論から逃れ得ない。全て芸術家の趣味啓蒙の格闘群は栄転の確率に対するものであればこそなり。芸術家の世に処する構えは無私でなければならない。

文壇

俗世の愚物に媚るな。奴らが未来へ何れだけ盲目かを悟れ。ある愚老は風土別美醜の定義すら知らずに白人文学賞を貰って日本に権義を獲得なしえたと考えていると云う。そして志ある後輩を迫害して権力濫用し恥じぬ。何という乱暴か、なんという野蛮か。

2007年5月6日

軍人政治屋の愚

馬鹿男子、若者、坊主頭、『合コンの達人』という本を電車内で堂々と読む、自衛隊の制服を着ている。気違いめ。軍人は自律神経なし。馬鹿ゆえに軍隊内で他人の指導に従い、悪行を為す。文民の命を助けるというあたかも立派そうな野蛮の大義名分に騙され、気違い共の愚劣な闘争に無謀にもよろこび勇み好んで死ぬ虫類。文民を助けるのは高級民度だけである。軍人は使い捨てられる生けとし道具に過ぎず。こういう連中を啓蒙は無論、絶対的に迫害する必然を少しも譲るな。いずれ貴様自身の子をこういう馬鹿どもとの下らぬ戦争で無駄死にさせたくなければ。愚老どもの悪徳、若者を騙しておのれの残余を如何としても守らんとす。平和主義以上の武器地表になし。

本能

本能の否定からいずるもの。

白人のおごり

白人の大勢には遠慮という概念すらない。傲岸不遜に根付く白人文化。

2007年5月5日

典型

哲学書は君の思索に考える為の手がかりを与えるが、決して疑問の究極を解決しない。もし君の懐疑が独創的ならば、自体独創的な読書を要するものだ。これが、典型的な学歴からは典型的な学者しか育まれ得ない理由。

2007年5月4日

求道眼

現世内成功を避けうる丈避けよ。おろかしい馬鹿笑いを振り撒くかの間抜けの姿がどれだけ醜いか、しかと悟ったならば。嗚呼お前は知らないか、わずか一生が死後の永久に比べて如何に短いか。俗物の類を仲間と思う勿かれ、奴らの悪徳集合に媚びる無かれ。もし君が傑出したるまことの聖ならば、次の訓戒を肝に命ぜよ。自由であれ。牛歩せよ。狷介の士であれ。

品格

道徳性は君を堕落から守る。内省の習慣は人間の品格を鍛える。哲学は処世を助ける。

普通主義

現実の範囲に期待するな。いずれそこで手に入るどんな価値も相対比でしかないのだ。「AよりBが高い」という連鎖作用には唯の理想があるだけだ。そしてその理想の想起を習慣づける頻度に応じて君は満ち足りうる訳だった。
 現実では程々が最もよい。平均値の異系結合には美のあらゆる条件が揃っている。なぜならそれは同種最純の適応格性を示しているからだ。買い物をするなら、努めて良い物を求めてはならない。敢えて択ぶに足る程良い物に最も価値がある、と認知せよ。
 普通主義は一体、人間の倫理処世にとって最高の目的である。カント的形式主義は形而上学の範囲においてしか的確ではない。それは実践に適さない。従って、かれは不幸だったのである。理念とは机上の空論でしかよりよく語られ得ない。現実においてはいい加減にしか理念を実行できないし、又、そうでなければならぬ。

2007年5月3日

奇形黙殺論

漱石『文学論』に曰く、もし一般教養に通ぜずして専業分野についてのみ徒な才能をかがやかせる者あらばこれを天才に非ず奇形と呼ぶべし。而してかの奇形を世にのさばらせるは退廃の流毒そのものにして、狂犬に対する如く迷わず撲殺すべきは社会全体の責任なりしや、と。例、われ現代日本中にもこの種の流毒をあたう甚だしき奇形数名おぼゆ。吾輩の見すに、彼らいわば現代日本に風紀の廃病をもたらす害毒悪因と確かに覚ゆ。われ未だ人間良識の極度を達成せぬこと哲学反省至当にして、もし社会上等文明士人からの忠辞あらばこれ等の奇形視を訂正する猶予ありしは当然なれど、現状あらわる清濁相対すれば益々明らかなり。しかも危険極まりなきは、これ等に同調する俗物ありて彼ら奇形が権益を拡張しつつある実態なり。然れど、もし批判なければ、かの奇形をして退化腐敗の極みとして生物界から永久に追放撲滅すべきことを期待す。なんとなればかの様な社会へ害をあたうまがまがしき悪才をむやみに増長させれば文明に明日なきこと必定たればの危機感からなり。
 尚、吾輩において更なる付加論説あり。漱石の説明、気負い誠なれど一点の曇りありけり。これよくも丁寧に訂正解説を要す。
 ジョンレノンの如く撲殺されたる人間たしかにあり。然れどこの種の判断にはやはり俗間の個人を通ずるがゆえ往々にして誤りも多し。ジョンレノンは平和主義者なり。決して人間に害毒をもたらす気違いに非ず。もしオーストリアの一青年や朝鮮の一青年がある奇形と見なしたる傑物を撲殺せねば世界史にクレオパトラの整形以上の変更ありしこと必然なり。
 いま例う。榎本武揚は日本史中に妖名を輝かせる奇形の最たる者と見なして然り。各士、歴史書中にこの人物の異様なる進退経歴を観察すべし。一生に二人を診るが如し。しかれど、この奇形者の進退に一人の鍵を握りたる大人あり。すなわちこれ慶応義塾の福澤なりけり。詳細はかの『福翁自伝』雑記の章中、癇癪の項に参照されたし。氏はある具眼の計略をめぐらし、榎本を撲殺の狭間からたんなる人情のため実質上救済す。別段に深い関わりもなき一人の命を助ける一心で、あれこれ手を尽くしてなにかれ気を揉ましたり。これ結果よりみれば尚更日本史上の一大美談たるのみ。すなわち、かの奇形の運命は氏の慈悲導き一煽ぎの次第に好転し、新政府の大役者としてロシア国交の条約に活躍す。この一手の善行、福澤流に釈せば時代と場所の適切を見分ける公智いわば思慮のなさを外側から補う手段たるのみ。吾輩、漱石は悪意非ずして撲殺の一字を黙殺と勘違いした、とここに破格批判する者なり。もし孔子いなければいかに東洋の風紀を維持せんや。またさほど抜群の名声なきShelleyの類、いわば当時流行の実証主義に揺せられたる若死にの小人と見なして可なり。神格大観を以て人間の児戯を見渡せばヒトラーや日本帝国関東軍参謀のような大業悪魔、あるいはニーチェやコントの如き発狂人の類、みな相当の流毒をもたらすに併せて同時に人間一般に狂犬たる反面教育の呈を後世永々為すなり。暗殺の奨めとも取れる漱石の説は、多少あれ極論野蛮の謬説たる事を認めざるを得ず。例、芥川龍之介やゴッホあるいはイエスやソクラテスのような隔世の才能、すなわち現世範囲の低知能凡人には必然に理解不可能にして、その真価が幾分なりとも判断されうるは時間を要するが故に、浮世の孤独に遂に辛抱しきれず夭折する者、人類史上甚だ少なくなし。然れど、例えばレオナルド・ダ・ビンチや平賀源内あるいは李白のような人物如何。彼ら現世の範囲では必ずしも後世からの評価相応珍重されず。これ等みな、凡人との才能の隔世ありしゆえなり。いわば突然変異たる天才知能の抜群によりて同時代に同類からの崇拝を必ずしも分相応にあたわず。
 もし彼らに対する撲殺あらば、いかなる得あるいは徳あるか。吾輩のまなこを以てすればなんら無用ばかりか、むやみに聖晨を壊す悪行と呼ばざるべからず。勿論天才も一人間にして、平賀源内の如く理由に関わらず殺人を犯せば裁かるべし。されど、あからさまな悪意なき限り、彼らの天才を存分に発揮させかつ黙認することこそ凡人らしさの肝要たれ。かくあればこそダ・ビンチや李白あるいは梶井基次郎やセザンヌ、等々なおいわば天才より秀才という用語に論を引き延ばせば終生無名の大数学者フェルマーなどもこの類の在野の賢者に属す。中華官尊の傲慢民卑たる封建風習これ未だに笑うべし。自由の個人においてしか真理発見は不可とはアインシュタインの訓なり。凡人の判断力の欠如、天才と狂人は紙一重なぞいう俗語に尽せり。これ単に、凡人にはどちらも理解不可能という意味なり。この点において、芥川や三島の如きはほど良き例証なり。吾輩の結論をいわば、もし天才か奇形か判断不可能ならば飽くまで黙殺することを要する。暗殺または撲殺のたぐい、決して後世に美談を開かぬことかの榎本救出喜劇の一訓示からすら悟るべし。
 反して朝鮮の悲劇的一青年、もし自由民権に理解ある伊藤を早まって暗殺せねば、もし金均玉を無惨にも誘殺せねば、もし米国で無情にも銃乱射せねば、かの憐れなる隣国の発展に阻害なかったこと一分の史的想像力あらば必ずしも歴史学援用の妄念に無き事、あらゆるテロリズムを憎む人道の士の常に肝に命じ反省すべきことなり。日本国の水に流すの風習、外人には理解し難きゆえ、当の戦犯合祀を客観いましむるも、かの韓国における暗殺行為の英雄視は如何としても蛮賊私刑の風俗として公然排絶せざるを得ず。例、日本史上の忠臣蔵についても暴力革命の責任は総切腹でみずから報いしことなり。仇討ちの忠義は決して私刑たる事を要せず。むしろ飽くまで公的賢衆の世論に訴え、現時的に公式裁判するを文明最上の策とす。しばしば裁判はあやまつもガリレオこの不完全たらざるを得ぬ浮世刑に大人しく服してなお晩年に至るまで宝物労作なしえたり。問答無き抹殺にては謹慎の余裕保釈でさらにかの不思議たる人物を観察し、不完全たらざるを得ぬ現世内時流の正誤差分を社会人間そのものが内省することすら全く不可なり。而して理解不可能のうち、明らかに害毒を与えぬ人物に関してはむしろ撲滅せず、黙殺(これ黙認して顧みざるの意味なり)し、孤立の末みずからの命を断たせることを最上の奇形排除の方便とす。万が一彼らが真実の天才ならば、必ずや求道をある地点で引き返し、漱石『文学論』にいわゆる能才との間に落ち着くことを人間普遍の法則と見なして可なり。これを天才の指導と呼ぶ。例えば、非常に足の速く冒険心に富む若者が群れから独りきりぐんぐん飛び出し、やがて誰も知らぬ地方で豊かな水源への道を見つけてとっさに引き返し、なかなか話を信じない皆に様々な工夫を凝らし徐々にわかりやすく説明し、結果次第に人類全体をより良き生活水準へと先導するようなもの。奇形はこれに然らず。例えば、足はそれなりに速かれど才覚さほどなくして崖の手前に咲いた花を見つければすぐさま慌ててとって帰り、あちらに花畑があると誘惑するような俗物なりしや。この種の俗物、おのれを過去の英雄に照らして奇を衒うこと史上に類似いとまなし。これすなわち、おのれ自身の勇気で道を進みたるに非ず、単にみながすでに当に忘れたる二流三流の古の道を再び辿りてすでに枯れた井戸を見つけ、ここに無用の徒を誘い込むわずかなる経過をして仮に一時の人気を博せんとす詐欺師と言うべし。されど人知いずれ薄弱にして群れから数名この奇形を追うこと久しく、いまや騙されたと気づいて引き返せば、かの嘘つきはもはや群れに居場所も無く、ただ発狂して自害するしか引き返す道なし。すなわち黙殺の必然はこのような俗物の邪道を試験する便利たれ。もし真実の道を見分けたる独行求道の天才ならば、いかに生涯無理解に耐え辛抱してでも、人類全員のために力を尽くして指導することを決して止めず。これをまた称して天才の啓蒙と呼ぶも可なり。すなわち彼が心底必死たればこそなり。人類全員はすなわち彼の種族にして、もし正しき方へ導かねばおのれのみならず家族子孫もまた同様に崖から転落する運命を被るがゆえなり。
 俗物はこれに反してかつての英雄を模したるたんなる悪戯餓鬼に過ぎず、やがてかの虚偽は皆にばれ、同時代は言うに及ばず史上の誰からも踏みつけられ忘却黙殺さる。漱石『文学論』中に、評価は才を図るに非ず、また必ずしも傑作史上に遺らずとは確率論の大観を知らぬ科学不足と呼ばるべし。もし数十年百年の流行はいうに及ばず千万を超えて億の史潮単位で人間学術を活眼すればいかなる妖しげな奇形といえ何があれど完璧淘汰さるのみ。正統たる天道だけが永久の進化の流れをどんどん前進す。いずれ人類史の栄光は天才良識からの献身指導の先にあること明らかなり。さればなぜ敢えて奇形を応急撲殺せん。われ慰みに天界の漱石居士に問わん。それによりはびこる暗殺の風習は遥かに、奇形の発狂より戒むべきにあらずや。尤に学士諸子、以上は極端の二類を明示する便宜に過ぎず、いかなる才能もこの俗物奇形と天才指導のあいだに微妙の偏差を伴って時代に生きるものなり、と諦め悟るべし。どの聖にも必ず個性的欠点残る。これ人間精神の成長進化に殆ど限りなき希望の余地なり。従って、崇拝と黙殺のあいだにも無数の評価の微差があって然るべきものなり。

訓学

外来先進文明字を摂取して母語へ適用せしめるのみならず、その用法に新たに独特の第三象限を与えざるべからず。これ訓学と呼ぶべき文学内研究領域にして、文学が永来研究すべき要点なり。而して訓学の研究対象は民情のいかに神経微妙なるかを微積分する感情開拓の学問方法論によりけり。

2007年5月2日

子女へのインターネットの悪影響を防止する策

猥褻物をネット上に頒布した人間に罰則を与えるべし。
 子息へは決して監視下以外で情報機器へ触れさせるべからず。飽くまでもオフラインに限ったおもちゃのみ与えるべし。

雄大主義

保守派に於いて女権の目印は家政に置かれるべし。吾雄大主義に毫も不自然の所以を見出すことなき者なり。

増長するインターネットの明暗

人間のおろかさ。ネットは明暗を造る。悪魔は金もうけのため、猥褻物を無垢な子供へそそのかせて見せ物にする。知識通信の伸長は人間の聖をますます聖たらしめる。神よ、私を救いたまえ。善を為し、悪を為さぬ様に勤めるのみ。いずれ悪魔は地獄へ堕ちる。世論の啓発、政府はいかにネット上の猥褻規制を強化しても足らない。安全機能をどれだけ完璧に成長させても足らない。世間の親たち、決して子供にインターネットという悪魔のオモチャを与えてはならない。そこでは好奇心のまま、いかなる汚い映像でも人間の品格の堕落の最低を知らせる醜悪例をかれら、白紙へ取り返しのつかぬ染みとして滲ませるのだ。この毒気に憑かれた人間が社会の犯罪者の列に加わるのはたんに、時間の問題だ。私はある若手女性作家がこの様なインターネットの悪循環に媚売るのをしかと診た。地獄へ堕ちろ、人間の退廃を象徴する悪魔め。

2007年5月1日

口直し

甘味への期待は食欲を節制し、消化のためのゆとりを持たせる。