2007年5月17日

思想論

経験則が教えることに、どの思想にも限界があるということだ。現代人類は地球の枠内で純粋理性を考える限り合理主義的科学論を真理の名に値するものと信じるべきではあるだろうが、決してそれが学識の最終形態ではありえないと諦めてよいだろう。極東ではかつて仏教や儒学をこの様な学ばれるべきもの、mathematicsに見立てて学習行動を傾向づけて来た。しかしながら現代から見なせばやはりそれらは古代あるいは中世に適度な宗教教義でしかなかったと言えはしないか。われわれは科学をもこのような一定度の限界の範囲でしか見なし得ないと知るべきだ。不完全性定理は結局、事物を確率論の範囲でのみ捉えうるという科学認知の限界を指し示す。哲学から育まれ分化した科学的思考それ自体がいずれ、より巨大な学問架構に取り込まれ相対化される日は論を待たない。
 合理主義は奴隷制度のもとで思考遊戯を目的化したギリシア文化の影響波が地球全面に浸透した経過でもあった。功利主義を基調にした植民帝国による近代文明もまた然り。現代文明とは近代文明を再び文化自律へと導くような合理主義の風土的消化の結果でなければならない。それらの互恵的な利潤と、お互いへの慈しみの人情こそ、国際人道を拓く新たな地平だから。