2006年6月29日

自己家畜化の分析

人々は競争の過剰の鎮圧化と伴に媚態の消失としての人物の中性化を観ることだろう。最も安定した社相においてはdramaがなくなり、代わりにvirtualityが過剰になる。それを健全な環境だと見做すだけの理由が彼らにはある。協栄とか名づける理念が「らしさ」を遺物と化してしまうから。

男女差の権利

性差はそのまま、日常の合理性に属してきた。よって、性差の剥奪をうながす制度下では差をもちいえない分だけ生活の効率から来た安定は訪れにくいだろう。

全知と全能の間

全知の夢を抱いているごく少数の知識人がいる。もしそれすら失われていたなら、狡猾な猿共にどんな同情の余地もない。
 全能の定義は曖昧にすぎる。あらゆる物理能力は相対的故。

神への飛躍の必然性と超人類

人類は本能的な理性に基づいて彼ら自身を自ら絶滅させることは殆どありえない。彼らは己を保護し養い営み続ける為に最良をつくす。だが彼らの知性はその中から別の生態的地位を持つ超人類を産み出さずにはおかないだろう。機械的操作を施された改良遺伝子人類の他には、宇宙船や他星での超長期的生活と繁殖、即ち製造に充分耐えうるだけの適応力を持つ地球型生命はほぼいないから。
 もし地球人類に永遠に対する希望がありうるなら、超人類の製造を自動化するしか方便はない。
 人類は文明のうえで生き残りたがるだろう。だがそれを幸福とは呼べない。創造的でない人生は奴隷に等しい。人は神の為の機械となる訳だろう。自由とはその為の暗号だったものか。

存在論

種が多彩に向かう理由はentropy増大則にのみ基づく。よって知能の啓発差が現れるのは自然、それが生物生活間に格差を育む。結果として文明、種内の個性について多岐化促進の合理的運営が為に、知能格差が最善用されるのは必然。
 もし人工知能による機械生命や遺伝子操作による新生物を含む種内多岐化が、突然変異を誘発する為の道筋だと認めるなら、自由主義は自体が知能格差の極端部を拡大させると同時に、平均の中庸を取る為の方式なのであり、それに応じて人類史を終焉させる為に確立された社会生物的体制。いわば人類史は、それ自体を新たな生命達の誕生の為に捧げられるべく企画された知的進化の経過だ。永久繁栄は夢想にすぎない。より重大なのはより適応力に優れた生物を生み出すための科学的発達。人類は彼ら自身を可能な範囲で保身するだろうが、それでさえも殆どは地球という太陽の衛星にして惑星に対する、一時部分的支配権しかもちえない筈。
 人類は目的ではない。生存を通じて宇宙的形態の多様を遂行する事が万有存在の使命。

最高の幸福

神の他にどんな愛するべき対象もない。
それは超宇宙的な実在である。
 だが君は依然として絶望せざるを得まい。
二足歩行の類人猿の思考が作り上げる諸観念はそれでさえ、どんな風に進化しようとある猿からでてきた脳内での化学反応にすぎないから。

 人は人間という愚昧たる病を治し続けなければならず、
その為には絶え間ない理想生活を通じて知能の発展を目的に推進するしかない。
だが君が進化すればする程、大天才とか精神異常とか神経症とかの俗物からの不正な判断を仰ぎ、
且つ君自身は益々根本的な孤独感に苛まれざるを得ない。

 それでも人は神たらんと欲し、その実在の為だけに生きるしかできない。
以外にどんな最高幸福の定義もないのだから。

2006年6月28日

文明の開始

趣味の啓発こそ、人類文明の開始だ。そこには普遍な永久繁栄の次元があるから。

2006年6月27日

理由

君自身の理由は君自身が見つけなければならない。というのは、個人の思想はどこまで行っても個人の救済にしか役立たないから。哲学の必要な由縁は知能の出来が千差万別な事へ帰着する。

趣味

人間が生活することに無限の可能性があると信じる者は理想に希望を観る。文明は事実というより信念。
 生活の質的向上が活動の知性化を意味する以上、趣味主義的な信念は幸福を約束する希望の手形に他ならない。それは人生を神格化しようと欲する永久の善意志だ。いいかえると、文明は最大多数の最高幸福を目指す福祉的意志。

2006年6月21日

累進課税の不正

人民の愚鈍化を防ぎ、
国家的搾取を抑制して国際関係間で民主制を公正に存続する為には累進課税を改め、
且つ社会保障を蓄えなければならぬ。

なぜなら国家など組織支配の領分を漸進的に市民化していく方向こそが文明だから。
 所得の再分配は政治的強制力による徴税によってではなく、
人類間競戯によって『努力差の自由』に関して謀られて初めて、
その調整による部分的正義を全うする。
でなければどうして官僚主義による公的福祉性の低落を未然に防げるだろうか?

 もし政府にとって充分な福祉用の歳入が必要だと云うならば、
間接税を巧みに用いて徹底した一律課税を心掛けるがよい。
機会均等の出発点とはとりもなおさず平等な競争環境においてのみ問われる。
もし《所得による差別》が国家的に遂行されるならばそこから、
「生活力」についての公平な視座が既に失われているのだ。
なぜ労働や勉学への意欲向上に対して所得の配分率が邪魔だと言えようか?
否、
政府官僚による支配的恣意の他、
人民自身の無知以外に個人的努力に基づくそのような「必然的」所得格差が大衆にとって不利であると証明する手段はない。


 国政における偏重した社会主義的傾向は悉く、
緻密な注意で啓蒙的世論善導により祓わねばならぬ。
そこに野卑にして不正な堕落の魔が憑くのだから。

法哲学の理念

個人の現世が北にあれ南にあれ、輪廻りんねの恐怖を科学的に解脱する為には文明の建設が地球的かつ国家的に行われなければならないのは自明。
 法律は道徳律に対して常に相対視されなければならず、絶えざる脱構築的改良主義により再解釈の批判で鍛え上げ、地球市民の世論を善へ導くものでなくてはならない。

Hegal的自己の現代的理解

Nationalismの最終的和解は自然資源の独禁思想によって実現されるだろう。もし自然Energie系燃料が主要な商標でなくなればその日に国境を撤廃しても可能。いわば、国家立地の資源上の利便によりgeometricalな私有地の権利を説明するところからnationalityを建立し、国民文明の伸長が地球人類の命題となる必要が生ずる。
 地球のあらゆる地平が均質な公共時空間として再定義されるのなら、人類が定住するmeritは気まぐれの次元にまで後退するだろう。現代に観察される都市遊民の顕在化はいずれにせよ、国境を無効にする向きへ導かれる。彼等の目的は自由の満喫であり、大儀の殉死ではないのだから。乃ちnationalismは歴史下の最終的なIdeologieだった。それは文化財たるEnergie問題にまで還元されなければならなかった。
 だが未来人は主張する。自然資源は既に国際貿易間で為替交換されるべき対象であり、かつての金脈の如く、早晩公共財としての地球国連的な定義づけにより、その独占権は部分的に奪回されざるをえまいと。
 Nationalismの地理学的な意味は、自然文化財の搾取を合理化する為に設けられた現段階での人類史的仮設理念。よってそれは時間的空間的な普遍性をもちえない。我々の実存の根拠に人倫を持ち出すHegalは誤ちを侵している。存在論は先ず生物学的に考慮される可だ。歴史的主体は総て動物なのだから。

2006年6月20日

文明

生命の目的が文明にあるとするならば、理想がそれを実現する。

2006年6月19日

神格

神格なるものを追求せよ。

2006年6月15日

都市論

日本型都市の要は風通しにある。公共空間は敷地内の人口密度の差としてのみ定義づけられるだろう。従って、欧米風の広場・squareの理念は事実上摂取の必要がない。市民社会での開かれた大規模日本型庭園はそれ自体が自然を抽象的に再現する。

都市論

地方は趣味人の為のくにとして。都心密度の極大化に未来文明の姿はある。

2006年6月14日

独学

仮に如何なる組織に所属していたにせよ個人主義的独学の意義は、組織的な教養理念から離れて思考しえる点にある。

哲学の趣味的転回

自然法則は数学的信仰だ。たとえ帰納的に導かれたものであれ、自然界に一定の規則的認識が可能であるという信念は事物に対する思考の洗練。つまり科学的認識は宇宙を説明する為の人間的試みであって、精神作用から離れて実在する訳ではない。いわば、形而上学で実在と認められる唯一の事象は我思う故に我在りを忠実にこなす精神という主体以外にはない。よって総ての善は精神からのみ出発し、また精神に辿り着いて終わる。哲学はこの様な精神崇敬論を環境に適応して延長する試験である他ない。
 よって私は主張する。精神は至善を実現しうるし、それはまた生存ある限り際限ない思索的態度のなかにのみ見つけられる理想の境地だろう、と。

2006年6月13日

Liberalismの高次生産性について

生活における集団性というものは殆どの場合浪費。集団主義的大衆社会は即、衆愚。大量生産大量消費は資源の無駄遣い。社会最低限の人数分を守り通してこそ相互恵与の福利計画は実現に向かう。民主政は個人主義的市民社会を要請する。
 資本経済は商品差異化を無際限に推進する先に永久繁栄の余地がある。

2006年6月11日

科学論

若し君有史の科学者たらん事を欲すれば先ず、生涯に研究す可き課題群を計画として整理せよ。楽しみの為に弄ぶ有閑研究と一生分の時間を充分費やすに足る事業実現に為す仕事研究とを可能な限り分別せよ。また両者の関連の度を日々刻々緻密化す可し。
 そうして初めて君という知能の限界としての現実的な勉強paceを創造できる。また無用な寄り道を息抜きとして明確化する上で回避し易くなる。そしてscienceの地平が無限であることも知れる。

2006年6月10日

文芸論

芸術における普遍性の希求は文明生活での合理美要求に由来する。
 文芸でさえこの為に導かれる。内容が啓蒙主義的情緒の各々特徴を持った美意識群を実現することを欲するのであれ、その形式は工業的原理にますます従うであろう。
 いずれ文明の必要は文芸を新聞の類に還元してしまうだろう。人類は事実の即物的叙述の中にのみ、生活の美的満足の要求のため読む至福を感じるだろう。
 我々がかつて文学と読んだ種類の文字群は混乱する言語用法の整理に役立ったにすぎない。文字本来の目的が高度な抽象情報伝達にあるかぎり、文芸は新聞の効率化に向けて整頓されていく手法試験以上の営みでない。

建築論

建築における宇宙性は目的である。なぜなら合理空間は人がこの世で造りうるもっとも美しいものだから。それは構成の極度の単純化によってしか実現されない。

宗教論

すべて宗教は啓蒙の方便たるのみ。真理は固定していない。それは知能が成長を止めないのに等しい。

知性的進化

非道な差別に対抗するには必ず、暴力によるのではなく、知能によるのでなくてはならない。人類という種が暫定的であれ成立して以来、まさしくその方法、知略によってのみ、我々は進化的適応の流れから振り落とされずに来たのだから。
 もしひ弱な生物にidentityがあるのなら、それは知性にある。人類より賢い蟻が居たらどの様にしても我々は彼らを絶滅し得ないだろう様に。

常識と信仰

現代文明の力というのは民度に由来する知性の程度に依存する。よって啓蒙が即、文明化の定義だと主張するのは正しい。宗教の弊害は批判精神に基づく自己啓発のspoilにある。十分に批判されない思想には全て、疑わしいところがある。

永遠なもの

思索が生活の具体性から離れる程、それは理想性を獲得する。そして文明の生活はその様な、活動の抽象化に導かれていく。普遍化に逆らえるものはない。
 実用に根づきながらも、またそこから遠ざかるほどに思想は宇宙性を帯びる。普遍性は永遠性と同義。永遠なものに想いを馳せることを通してのみ、生活の辛苦は救済されうるだろう。

普遍化

地球文明の普遍化を推進する他に個人の共通目的は見いだせない。

スポーツ学

単純な技術に関しては知性に依拠するのだから練習を重ね、年齢を追う毎に上昇する筈だ。然し体力に関してはこれに反比例しがちだろう。理屈は人間の肉体の成長曲線が「知能」を主義としている以上、全般に体力的peakを設けられているからだ。もし有能なatheleteに成り自在に活躍したければ、これらの二つの曲線、二次関数的に向上する知能と、前半を頂点にして下降する体力が程よく合致する一点に活躍の密を集約するといい。

運動と理性

元来人間の進化の方向は肉体の物理的腕力を犠牲にして成り立って来たのだから、我々がsportsに必死の汗を流すのは唯、精神訓練の為なのだと諦める他ない。遠くへ走る能力だけは格別な様だが。人間の長距離走に向くところはその知的遊戯に向くのと調和しなければならない。恐竜が滅びたのと同じ理由、つまり、強くなる為で、肉体を鍛える事は愚かしい。人間の運動は理性の健全な発達の為に行わなければならないだろう。

2006年6月9日

文士道

求道と啓蒙を両端に持って前進する可。

悪弊

女権の濫用は天下の悪弊だ。

2006年6月8日

思考

考えることは命を伸ばす。人生時間分の啓蒙を催すから。

学者の社会性

如何に学び超越的思念へ到達し得たとして、その結果が個人という範囲に限る以上は専ら、二足歩行生物たる哺乳類の脳髄に発達した大脳新皮質の密度に変化を来す丈だろう。よって学問の効用はたんに個人の生活についてよりずっと、それがもたらす社会一般の文明化にあるといえる。これを省みれば、理論のような目的性に由来する学究的人生がしばし、実利性のみを至高の生活の命題と考えるような社会参加型の人々によって大いに軽んじられる事は人類世界にとっての絶えざる損失の漏電点だ、と主張しなければならなくなるだろう。一方、アリストテレス的な理想至上主義者からのpragmatism批判に必ず損耗無いわけではない。
 つまり、勉強なる行為が物理的労働という根本な観点に立ってすら、人間一般の知的生活への啓発として社会貢献というruleから自由でありえない。学者の社会性は公に証明されなければならない。

知的生活

文明人にとり知的生活はごく重要なlifeworkでありえる。

文化

野蛮さを軽蔑することは何時であれ自体が文化に等しい。

2006年6月7日

修養

肉体の中庸と頭脳の極限が人間を向上させる修養の道だった。

絶対善

最も普遍的な利他心が暴かれるならば、それは間違いなく人類を救済する思想ではあるだろう。Jesusの主張した博愛がここへ至る唯一の階段だと多くの人達に信じられてきた。だが我執渦巻く現実の野蛮な性の前でこの思想はあまりに高潔過ぎ、またあまりに迂遠すぎる。衆愚はこの理想を苟も個々の動物的な性愛にまで貶める。
 神という響きに象徴された至高性を示す抽象観念を借りて人類の啓蒙を図ったChristは偉大かも知れない。だが普遍的理性の云奥は生存欲求のegoisticな合理化と論理上変わらない。それは種内秩序を繁殖多様性に最適化する為の利他的方便を利己心の一部として正当視する理念にすぎない。ここに絶対善が知れる。
 全欲求から利他にとって最も合理的な行為を熟慮のうえ選択せよ。それが絶対善と呼ばれるべきものだ。人の間を効率よく生き抜く徳として。

利己心のありか

人間の醜さは同種に対してすら身近の血液から離れる丈同情の念を忘れる事に象徴される。動物的利己主義。が之は又生存活動を保身する為に是非ともなくてはならない側面だったろうから、人類が全面非難するのは適当ではない。寧ろそれ故にこそ我々の感情的生活は残されているともいえ、失えば機械に等しい。

天地

我々は野蛮より地獄に近い光景を知らず、文明より天国と似た場所を知らない。

資本民

趣味主義は文明に対する一思想潮流の方便にとどまるだろうが、それでも尚、現代人を導く理念ではあるだろう。それは思索を知的遊戯化するという点で、最も民主的で且つ資民生産的。

『草枕』の模擬

思想は人類間を移動する。それは瞬く間に行人同士を跨ぐ。そして遂いる。
 男は何が為か、秘密の階段をトントンと降りていく。視点はそれを真上から追う。男はやがて地底に着く。そこには重い鉄の扉がある。男はそれを開く。
 ギイーッと錆びた蝶番を軋ませて鳴り、通路を充たす不快な音に代わって男は真っ暗な扉の向こうへ消える。視点はそれを捉え、またそれがガタンと鼓膜の割れる程大きな音を起てて閉まるのを観る。
 視点は暫くは一部始終を眺めていたが、やがて諦めて地表を目指して上昇する。今仕方来た過程を逆向きに舞い戻る。地下は暗闇を深めて遠ざかる。
 地上は目映くばかりに輝く真昼であった。そこには一人の女が立っている。
 かの女は白銀のワンピースを着こなしている。視点は女を一様ならざる角度から描出する。厚ぼったいくちびるの色味、飽くまで細い指先に絡んだ指輪、足下に引っかかったハイヒールとの際にできた僅かな靴擦れ痕。視点は女を艶めかしく魅せる様に工夫してきりかえされる。黒髪から薫る微かな仄かな香、それが耳の裏の窪になった部分に塗布された多少の香水と混ざり合って奏でる色彩豊かな調べ、大袈裟でなく整えられた眉に揺れる風の音符、うなじに生えた産毛が少しだけ湿り気を帯びて女の生命力のもっとも繊細な部分を教える、腰つきに観られる高慢な憂い。
 それらはどれも等しく一個の女性の魅惑を想像力の実像を通じて読者に伝える。目的は未だ知れないが、特に女は適度に健康で、且つ豊満に過ぎないほどに洗練された肉塊を天性に譲り受けてそこに存在している。読者はそれを自然の建立として観る。
 且つてダ・ヴィンチが述べた様に、人間の天才が如何に至美の限りを尽くしたとしても、その芸術性は絶対に自然の工芸を超えることは無いであろう。
 女は光の中央に立ち、今やその命の華やぎを完全に伸長させようと欲する。男は地の果てに潜り、魂の中央を冒険する仕事に従う。

文芸と哲学の間

文芸は思想を美化して伝播する手法でありうるが故、しばし哲学的文章の境目を問われなければならなくなる。だが両者の釈然としない由は自体が利点でもある。両者の混在化した哲学の文、つまり随筆が思想に対する文化的理解ゆえ。しかし、最終的な結論は一つの場所に戻る。文芸は道具ではない。それは言葉の芸術であるから、科学をも含む哲学的観想により掘り起こされた思想を美術的に利用する。
 哲学と文芸とは出会いながら不即不離に共生していく運命にある。尤も遠からず両者の特性の違いは哲学の論理と文芸の比喩性によって明らかにされるだろう。文明とは翻訳上直観的に選択された語義自体に従えばとりもなおさずこの謂いなのだが。

記憶作用による生と死の通念

記憶はニュートン力学的な二次元時間系列順に必ずしもない以上、我々が普段時間と呼ぶ観念について、生死に対する憂いはすべて徒労でしかない。生死の傾きは記憶にのみしがみつく哀れな物象であるだろう。端的に言って、生と死は言語概念上にしか実在しない虚構。我々はその幻影を通じて記憶を手探りするにすぎない。だが記憶よりずっと未来を重んじる人々にとってすれば、そういった全体は滑稽の劇場の他には観賞しえないだろう。
 無知にも我々は未来人の生活から憂いが消える日を見抜ける。物流は常なる再創造の中にあるから。生命体という認知は仮想さるべき虚空の楼閣にすぎない。生死は究極的に実在の観念ではない。それは言の葉があそぶ我々の想像でしかない。
 生と死なる形而上的な概念は一般的法律に善用される。その場合の方便は唯単に人類の公共性の保護にあるのだから。

至善

際限ない幸福を願う事なしに生活を合理化することは出来ない以上、生命体の最終的種内徳性は利己と利他との互恵的調和に帰着せざるをえない。
 思索の先には幸福の増大を希望しなければならない。哲学職には希望をもたらす責務がある。ここに至善が自然に止まる位置がある。

上達

カントは哲学を科学から切り離し得た目立っての上達ではあった。後世の学者はすべてその恩浴に値する幸運に甘んじてきた。哲学が単なる似非科学から独立し得る理由には以上の経過があるのだから、現代人にとって、言の葉を手段として操って真理を探るには善の概念が槍玉に挙げられなければ済まない。
 蓋し、言の葉の問題に終始するのは下達に過ぎない。審らかに比喩を借用すれば哲学者は社会建築家としての役割を意図する。文明の善を具体的実現に結ぶのは唯、倫だから。

理論と実践

実践に於いて中庸であることと、理論に於いて究極の命法に極限であることを矛盾と信じる勿かれ。

道具

言葉は道具でしかない。

哲学と信仰

模糊たる宇宙時空間に浮遊する我が身を顧みれば、善悪とは凡そ思索者の属する地方の文化的規則であると知れるだろう。
 神の規律は文明に普遍か。
 君の甘受している某徳性とやらが生態系を超えていなければそれを万物の霊長類として誇るには足らないのは自然。
 追求する善は何よりも先ず永久の普遍性に対する変わらない信念でなければならない。この認識は殆ど宗教のそれに近づく。否、哲学者とは積極的な意味ではより懐疑的な信仰者。それは思想に対する絶え間ない思索の証拠であるべきだ。

2006年6月6日

存する宇宙の始源とその行き着く先を知らない迄は生物が知的とは言い難い。

歴史

現世を信じるな。歴史の力のみが唯一の社会的主体であるから。

思索

道徳を追う者は神という信仰に値しなければならない。

理解

哲学は科学に対する批判或いは科学の理解をも含む。

最高幸福

最高幸福は理想。

自然

自然を学べ。

2006年6月5日

社会改良

人に可能なのは社会改良だけ。

真に永遠の安息所は君自身の魂の中にしか見い出せないだろう。

思想

人を価値づけるのは彼らの抱く「思想」しかない。低級とか高級とかはすべて、思想の次第に拠る。

詩論

地球人であることを忘却しなければよい詩は書けない。神は光でければならない。詩はうるわしい光の流律である可だ。

合理

人は生活を合理化するだけ普遍的実存に近づく。

哲学

宇宙の根源を悟る為の知的思念を哲学と云う。科学は哲学の手法である。

清潔

性情の清潔さは結局、若者にとって健康を守らせる。不倫の習性化は当人へ将来にわたる致命傷を与える。

2006年6月4日

神らしさ

君自身が神となることなしには如何なる道徳的至善をも感得できないだろう。

思考の目的性

思考を鍛えるという面はそのまま神の威厳に値する。神は動物性を充たすあらゆる戯れより遥かに、思考を直に好む。知能啓発は神の目的故。又人工知能が自然知能に神的能力に於いて勝る事は永久になし。神は目的と道具を誤らず。

中庸

現実は君に中庸な満足を要求する代わり、理想に於いてこそ際限ない欲望の解放を許すだろう。理想は思考という現実に立脚しているのだから、この方の満足に対する無関心の極度が中庸に修まるという事実を知らなければならない。

宇宙法則

現世のなにものかに執着するのは総て俗心だと言わなければならない。永遠なる宇宙法則のみが信じるに足る唯一の具体物。我々の理想の働きだけがこれに辛うじて近づく方便を与える。理想の生活を望むだけで良い。

2006年6月3日

清流に口を漱ぐ幼い子ども。爽やかな風が辺りに生える色んな草花を揺らしていく。子どもは河原にたむろしている無数の石のうちから最も平たい一つを無造作に選び出し、片手へ精確に持って、勢いよく投げる。それは穏やかな水面上を遠くまで滑って飛んでいく宇宙船になる。子どもは長らく軌道を見つめている。
 川上から他の子の騒ぎ立てる声がする。
 川を下っていったひとりを探しに、ザブザブ音をたてて向こうから子がやってくる。それを見る。そしてふざけて、また飛ぶ円盤を投げる。辛うじて横をすり抜けていく小さな石。怒って水を叩き、海の化け物みたいに追い立てる。辺りに歓声が響く。
 やがてお昼時になって、バックパックから水筒とおにぎりを取り出し、みんなは食べる。麦茶の香りがさらさらと頭上から降り注ぐまばらな陽光に溶けてゆく。
 自然のなかではどんな不思議も起こりうるのだと、僕は思う。或いは物理法則に則ったものだとしても。
「先生、魚とった」と、子供が叫ぶ。
その子の手にはほんの稚魚だと思われる、透き通った肌を持つちいさな鮎の子が握られている。
「おぉ、すごいね。綺麗だ」
「焼いて食べよう」
「かわいそうだよ」
「逃がしてあげよう」
僕は黙って一部始終を眺めている。やがてひとりの女の子がそれを手のひらから取りかえし、川に還してやる。いつしか運が悪くなければ彼は再び成長して、この土地に帰る。そして新しい生命をつくるだろう。

2006年6月1日

科学

知識に限りはない以上、科学は普遍的な知的遊戯だった。

人権の脱構築

権利とは神格を保身する為の万民への足枷に過ぎない。人権とは政治的方便でしかなく、法の目的は文明化以外に見いだせない。乃ち人権は脱構築的に扱われるべくしてある。それは正義を不断に再建する為の道具立て。