2009年4月30日

政策綱領

われおもわくば、“天下りという一方通行”が官尊民卑の陋習と相俟って或る種の弊害――愚民政策を自慢するという民主主義にあるまじき中華趣味的態度表明――をともなっているのが、儒学の国教化のくびきを背負い込んだ日本政府の一大欠陥だと。

なるほど階級制のつよいイギリスの場合に散見されるように、専門官僚が非常に緻密な細部の知識をともなって中央管理を容易にするということも、ないわけではない。中国の急激な経済発展には果断な統制がよい面を示しているらしい節もある。

 問題は、日本人の大衆一般が政治に無知であるということ、さらには儒教的愚民観が後を引いて、あしきことにはその奇妙な無関心に馴れてしまっているということではないだろうか。
 ちょうど異常に高圧的な親のもとで育った息子が反抗期には無目的の非行に走りやすいのを悟るのなら、国民を見下ろし日々おろかにするのではなしに、たとえ少しずつでも啓発していく政策案が族議員のはびこる現状の国会でもそろそろ、真剣に考えられるべきではないか。

この点で参考に足るのはジェファソンの挑戦の後を継いでジャクソン大統領が行った官僚制脱構築の工夫で、和風に云うと、少なくとも内閣官房以上にはみずからの信頼する民間人を抜擢するという習慣づけであった。
――日本の国政の実態は、衆目が一致するところ官僚制度の最たるものでいつもの‘大蔵族’ののけ反り加減といい、首相は選挙に気を取られがちなその勉強時間の不足もあいまって殆ど、強権をうばわれがちであった。また、アメリカのようなテレビ劇場は世論をわがままに扇動する衆愚政への兆しが感じられないではない。

ここから、飽くまでも奇襲なのでつねにうまくいくとは限らないが、『民上(たみのぼ)り』というまったく目新しい方途を用いて、並み居る高級官僚の出鼻をくじく伊達な天才が一度は出現してもいいのではないかと思われる。
――指先の一任でクビをすげ替えるという抜擢人事の効果は、お雇い外国人をつかった大企業経営の場合にあるように、情実人事の馴れ合いを破壊する威力がある。日本的な和の精神にとっては神経を逆なでするが如き強権発動の実証だからだ。

(このアイデアには二つの徳がある。
第一に民をのぼらすという日本史に類例のない奇襲は千尋の谷底へクビにした高級官僚を突き落とすライオン式教育の側面によって、在野へ政治知識を逆説的に普及させるということだ。
第二に、これを多少の反抗勢力をかえりみず幾度かくりかえせば、省庁へは内閣総理大臣の実権への畏怖が染み渡ると同時に、民間人のなかでは青雲の志が沸き立ち、普段の公共国家への奉仕が活気づく筈である。
もしそのヘッドハントが単なる人気取りだけの芸能タレント向けでなく、ある程度より若々しくてごく賢い政策通へのものであったのなら、結果的には確実なマスコミ騒動により容易に政治的関心度を啓蒙する役に立つだろう。)

(害があるとすれば、地方政治では既に現実となりつつあるように、下手な人事で大衆の人気にこびる行政的実力が何等ない扇動政治化、テレビタレント化の腐敗をすすめてしまう危険。もう一方ではあまりに急激なリストラで官僚へ過剰な心理的不安をあたえ、官庁内部で無駄な競争意識や仲間割れを起こさせてしまう潜在的可能性だろう。
この欠点については、西郷隆盛の訓戒にあるように「功労には賞を、見識には位を与えよ」という人事哲学がよき批判を加えてくれるだろう。つまり、たまたま功名をたてただけの燕雀を鴻鵠へ仕立てるのはまず無理というべきだ。それはいくら果敢であっても、ジャンヌダルクにはルイ14世の帝王学がまなばれる環境条件がなかったからである。)

2009年4月29日

経営訓

チューブ状の食糧品で、昔ながらの形に拘る余りに貴重な天恵を無駄遣いさせるものがある。

歯磨き粉はほとんど換わったが、マヨネーズなどにはまだ「逆さ置き」で最後の一滴まで自然に使い切るようになっていないものが多い。
不況不況と騒ぐ前に、生産者の命綱を預けられた経営をもって任じるものは、その自己責任で灯台もとから毎朝毎朝一つ一つ点検しなおさなければならない。天の恵みに外ならない生産物をみずから無駄遣いしながら、小売り商人式に外貨獲得の下賎な競争でよのなかを弱肉強食のありさまにしてはいけない。

ユニクロの柳井社長はあれだけのあふれる財を築き上げながらつねづね自社のシャツを着て人前におられる。そのように徹底した誇りをもった売り物を大事にする者が損を買うなど先ずありえないと知るべきだ。

最高裁判長について

2009年4月29日。熊本県天草市の小学2年の男児生徒へ体罰を与えた暴力教師を最高裁が赦す。
 この悪魔の如き裁判長は学校教育法11条をこえて暴行罪の正当化を行ったに過ぎないだろう。

2009年4月26日

不岐

文武両道の理想及び難し。されど終生追求を試みざるべからず。

2009年4月25日

経済学

スミス的古典派の素朴な需給均衡論はそれが作物へ長期保存の効かない場合の農業の法則であり、ケインズ的現代派の失業発生論は製品の技革速度が相応にはやい工業分野に関しての理論なのだ、とまとめあげることができるだろう。仮に、必需品をスミス財、便宜財をケインズ財、奢侈品をスズキ財と置く。すると、スズキ係数(生活費全体に対する情報のみに割く百分率。すなわちInformation cost/Cost×100%)はこの両方には属さない産業の豊かさを示す一つの指標として用い得る。そしてスミスの見識にしたがって便宜と奢侈の品に関してはいかなる生産の自然的上限も設けられていないとすると、スズキ係数はエンゲル係数に対する生計的付加価値の総額をしめすことになるだろう。もしエンゲル係数をここでFood cost/Cost×100%と定義すると、
スズキ係数/エンゲル係数=Information cost/Food cost×100%
は実質的な工業的便宜品への支出を基礎付ける指標式(エンゲル分のスズキ係数、エンゲル\スズキ係数)となる。
 そしてケインズの理論が実際になりたつのは、この食費に対する情報費という限定的な条件下においてのみであるだろう。いいかえると、失業率が発生するのは社会が有する労働力供給がそれを吸収する雇用需要に合致しない場合だけであって、なおかつそれは工業的便宜品の社会的価値の毀損が生じない付加価値の差延量においてのみである。ここから、一定時間の製品価格担保をNew timeと置くと
determination I/determination F = New time
∴ dI/dF∫[0→N]f(N2)dN×100%=f(N)%
の積分係数は単位時間あたりの製品担保価格比率を変化量としてあらわすことになる。これを新品係数と呼ぶと、我々はこの積分係数の逆演算によって失業率比例を図示として予測的に割り出すことができるだろう。たとえば120円の食べ物をこの関数で仮に計測すると、製品の情報料として20円を差し引き、その消費期限を3年で概算すれば
d20/d100∫[0→3]f(32)d3×100%
=20 × 1/3 × 27%
=160%
よって、この食べ物を製造から3年以内に消費することは新品係数において+60%の価値担保が見込めると考えられる。裏を返せば、3年間で消費できないときは6割の価値毀損を被ることになる。
 同様の計算でマクロ経済における工業製品の付加価値も差延する変化量として概算できる。そして実質的には、この新品係数が高ければ高いほどその製品の価格は製造業にとり、また失業の未然防止に有利なのである。なぜなら時間が経っても毀損しない製品生産はそれが便宜的であればあるほど蓄積し、次の事業のために余裕を、すなわち内部留保を約束するだろう。

狂歌

国よりもおのれが可愛し賊議員ども血税吸い取り貧血おこさば

2009年4月24日

北朝鮮独裁政権の実践的分析

キムジョンイルは老い方をさとり世襲の権威を無理に作り上げるため、国内へは科学文明の完成度を虚飾し、国外へはその実力のなさを隠蔽しつつ体面をたもつ言い訳で“ミサイル威嚇”を方便したと予想できる。

実際にはほとんど日本からの経済援助で生活の豪勢を保っている腰抜け主将なのである。なので(仮想敵国へも含む)国内外への報道姿勢が裏返っていても男として恥じる気配がない。

 そして窮鼠猫を噛むという事実からは、核カードの禁じ手を完全に封鎖しながら独裁者を捕獲または海外逃亡させて別のかしらを建てるべきだ。それは現況経緯からすれば韓国民が相応しい。
ロシアとの関係修復を試みだした臆病加減をみれば、いつでも「後ろへの逃げ道」は空けておく方がいいと思える。スカンクですらそうなのだから、気が狂った小人へでさえ五分の魂を軽んじるべきではない。

だから敵の敵は仮想の味方というジャンケン式の道理から言っても、期待できる「非核武装の威厳」による合法的圧政に際して(共産主義をさえ貫けない場当たり的の傾向があるロシアはともかく)中国との同調は敢えて行わないほうが賢そうである。目的は決定的危険の可能性を未然に取り除く『核の去勢』にあって、決して当面の雑魚棟梁への必要以上の執着ではない。

シャボン玉

晴海を流され消えたシャボン玉なんの為にぞ生まれたこの世か
誰にあれ儚きこの世に在るときの思い出だけは夢見る心地ぞ
神にあれ虫にあれどもみな同じゆめの上をば流され眠れる

2009年4月23日

メタン革命以後の最有力株

ほぼ無尽蔵で甚大な電力が補償された商業環境では必然に、労働力需要は減退する。なぜならこの溢れる仕事率は単純作業の自動化を急速に推進させるからだ。
(たとえばユニクロやギャップの登場で潰滅した中小の軽織物産業のように、幾つかの最もすぐれて自動化に成功した大企業へと資本の回転は集中するだろう。)

 そこで最大の進歩が見込めるのは情報産業だろう。もし単純労働の必要が少なくなればなるほど、我々の能力は如何に密度の高い複雑な情報を機械へ行わせ得るか、すなわち「経営性」に結集していかざるをえない。
だから資本制の元では経営者層へ資本および能力としての国民所得が必然に集中することとなる。その偏差は一般に、なんらかの調整機能が働かない限りは永久に縮まらないだろう。
――つまり、富の集中は電力多産にともなって必然に増大する。肉体労働者層がこの面で得を被ることはその有する家電製品の省運転代金という部分以外には求まらないのだから。そしてそれは機械化の得点を独り占めできる経営者層と比較になる規模の家計負担軽減ではない。

 もしこの道理が国民の多数派にも認知される時が来れば、彼らはどうしても不平等への対抗として「福祉国家」を要求しなければならなくなろう。
各種の公共財を国有か公有として無償化することで自らの以前と変わらない程度の分け前以上はなんとか守ろうとするだろう。さもなくば彼らの失業は疑えないのだから。

我々はこの予想を元に、現状から「教育産業」が各種情報産業のなかではもっとも先に進んで需要およびその学位提供価格の高くなる将来を見通せるのである。というのも、仮に大学教育までが無料となれば経営力を身に着けるか、その高度情報産業社会環境での希少化した雇用需要へ最大に有利となる小数の名門への就学または学位取得希望がみるみるうちに増大するからである。
――ある程度より賢明で、子孫への投資を惜しまないくらいの財産をもつ中流以上の国民ならばその最低級よりは高尚な地位を彼等が十分に成人するまでなんらかの教育的配慮で保証したくなるだろう。国家の支配が一元的な政府下でつよい調整機能から世襲を実質的に不利とすればするほど、評判また特権階級の造られ難い常なる能力間競争による急速な実務経験値の暴落から同系列の跡継ぎが難しいほどそうだろう。ゲイツ家が三代続けてマイクロソフトを経営するよりは針の穴を、あるいはハーバードの門を彼等みなが通る方が時代の更新速度にずっとかなっていそうだ。

資本制はそのままで工業的前進を続ければ必然に『特権教育の価格』をつりあげるのである。ここから、ブランド校というものがメタン革命後のしばらく資本を集中投資する為には儲けの上がる最速の判断となるだろう。そこには某国の富裕層の多ければ多いほど、流出する留学生を予想して海外投資をも含められる事情だろう。
中国から日本への留学は米国へのそれに継ぐ数であろうから、国内の小数のブランド校はしばし異常な騰貴を見るだろう。

国防の将来

メタン発電の時代が工業化された島国へほとんど莫大な資源を約束するのは目に見えている。

すると、いかなる立国でさえこの富裕を羨み、可能ならばかれらから分け前を引き出すか、あるいは移民や侵略によって富を分割しようと企むだろう。産業革命後のイギリスを考えれば防衛力そのものは決して無用とは思えない。
 もし米国が産業の進退に応じて駐在軍備を省力する政策を決定すれば、自衛隊は解釈改憲的差延、或いは「建前」の上で主要な護り手とならざるをえない。したがって今後の国防の課題は如何にして警察権力との一致を計るかにあるだろう。

どの国家も警察力を否定しておらず、また日本国憲法も文民統制の性格上そうしていない。
 日本人の歴史がはっきりと示していることに、史上で文官が長期にわたって政権を維持できなかったという“育ちの野蛮さ”こそは現代の国際平和レベルでは顰蹙ものというべきだ。
絶対の確信を持って言えるのは、もし些かなりとも国民が油断すれば必ずや戦国時代から五百年にも渡る武人統治の血筋が騒ぎたち、国政を暴力革命で奪い取るだろうと。

我々はほかのどの国家よりも強烈な自制心で『文武の分権』かつ『文民統制』をはかるべきだろう。さもなくば次は国統ごと水爆以上で消し飛ばされても首長が謝れば済むどころではない。
人類史は戦争が犠牲にする人間の数量、残虐さが次第に増大する傾向をも明らかに示している。
 古今でいまだ侵略統治を被らなかった強い国家は英米だけである。その理性的国防法を手本とするのは現在で最も有徳なことだろう。

この畜生界

京土人猥褻文書を売り捌く

腹切らず女流を気取る芸者さん

ゼニまみれ生きる価値なき豚類が
犯罪奨励悪徳都知事に群がる汚れたこの世ぞ

われこの畜生界に産まされ生涯勉強す

学歴を飾りて春売る雌豚醜し

東京猿

糞女タバコを燻らせ子供を噎せらす

東京猿車内で抱き着き愧じもせず

暴力団敬い建たせる奴隷店

東洋の臆病王こそ卑怯者

遮二無二はたらく中国人の留学生女性潔し

2009年4月22日

走者

春雨のおと
へやの緑に水やり
硝子越しに聴く
土砂降りの中を
颯爽と走り抜けるランナー
世のつねを駆け抜ける戦い
飛ぶ鳥のあとへ
なにひとつのこらない
明けたら儚いゆめの上を
なにも見えない
先行きなく曇った空の下で
孤独に息を嗄らす
誰も感じない苦痛を
腹の底に潜めた侭
真っ暗な世の中を過ぎ行くだけだ
流れ去るだけの今を
繰り返す大河が
僕の耳をつんざく

東京川柳

穀潰しつつ都民にふりかけ血税や知事の
おごるよ風俗街
天皇島は今日も鬼畜の天国です
またまた地方進出!淫乱撮って売り捌けTOKYO

芥川死んだら後は構うまい
みだらな糞女史たきつけよ愁波を贈らせご満悦
若ければ若いほど買うぞ猥褻罪
文芸検閲閣下なるぞ

てのひらをかえしたようにほまれ買う
カネ撒き走らす悪路上
喘息必須の排気ガスリンピックや
まことおもぐろし

政治屋さん

かねもうけ国民見下す政治屋さん

どっかで聞いた子持ちロッカー必死で商業歌うたう

堀江門あしもと掬われアメリカ独走

2009年4月21日

常陸国と武蔵国

鮎川の夏の始めに遊びしほとりで
並んでコンビニのざる蕎麦を食べる嬉しさよ
誰もいない海岸線を撫でる風が
停めた自転車をかすかに湿らせて行く
テレビの中で騒ぎ回る大都会の光景
段々と似てくる下らない月9のドラマみたく
我々の町を変えていく力
海の向こうから聞こえない音楽を
ただ一色で塗りかえてしまう
畦道はアスファルトで舗装される
姦淫の雑誌が回し読みされる
偶像がホルモン剤を打って女装する
当たり前の姿を訳もなく卑下させる
僕は名前もなく声も押さえ込まれた
一羽の孤独なからすになり
右翼の宣伝カーが耳を割るがなり声で
渋谷交差点を鈍行で渡るのを見る
清川はお笑い芸人に潰されて
代わりに京都土産の芸者屋が建つ
極東に渡来した黄色人種が
金儲けするためにあの川のほとりを潰した
恥という観念のない汚れた心の笑みで
タレント知事が僕の目の前を通りすがる
後から何人も何人も
東京湾から這い出してきたへどろが笑う
なんの罪もなかったんだろうに
皇居を護る名目で
情報汚染をファンタジー化するのだ
僕は名もない土砂降りに濡れたからすとして
今ではどぶ水を流しゆく川を眺める
だれからも省みられることのない
高架下の江戸川だろうに
悲しみの声さえ
君は絞り出せない

2009年4月20日

財政論

ケインズ的修正主義は強制的有効需要の拡大で失業の救済を基本目的とする体系なのだから、慈悲からの景気づけというでもいうべきもの、つまりもともと生財の知力には有利ではない立場の層へ貴重な国家財源を無償恵与するというのは本末転倒であって、単にそのような無駄遣いは放蕩者がとるにたらない望外の贅沢に耽るよすがとなって即日消え去るにすぎず、あらたに生産的な人員を増加させるにはなにも及ばない(タナボタ浪費)。そればかりか、これらの支出対象はおよそ社会で必要悪か公には害悪とみなされているもっとも卑しいたちの奢侈品へ、少なからず需要を与えるという悪影響すら免れない。
 景気対策としての有効需要拡大の適切な投機先はつねに、公共福祉を最大化させるような耐久性の高い基盤施設に限る。即ちケインズ政策は建設需要にのみ、適当なのである。なぜならば、この方法によってしかより持続性の高い就業回復は考えられないからだ。ほかの表層活動への財政投機、たとえば催し物や戦争のような仮設性の強く瞬間的に営まれるそれは、殆どが即日に消化されてしまうことから、生産の中核以下を担う肉体労働力を疲弊または不自然に沸き立たせさせこそはすれ、決して景気の回復そのものには繋がらない史実が過半だった。その最も失敗した反例に見返りのない防衛戦を張らせた元冦時の武家配置、近年ではイザナギ景気後の大阪万博で浮足立ったところへ石油危機の直撃が挙げられる。万博や五輪などは同時に都市開発や工学奨励の意味を持ち、しばし記念物を遺す点ではより建設投機に近い政策だが、かといって余裕のある時に使い込んだ財政難傾向の結末は戦時や恐慌などの緊急時に国債を発行させざるを得なくする点で最善ではない。それらはいわば財政の道楽であって、例えば偕楽園造成事業のような民間福祉を兼ねた大盤振る舞いよりは徳の面では幾分か、先憂後楽の教えに背くとも思われる。財界人の方が必需には詳しい限り。

積極的防衛戦略

憲法九条による武力の制限は、それが知謀に関する限りはなんの制限もないと説明する。

すると、日本が自らと矛盾せずに北へ先手を打つには敵国内を調度よく情報撹乱し、自滅崩壊を加速させるしかありえない。

たとえば、なんらかの「迷惑の機先」を捉えて国際世論の納得を買い、巧く米軍を出動させることが徳なのである。独裁者には最も腐敗した人格を予想して先ず間違いはなく、ここから公正よりは狡猾を外交原則とすべきで(悪党には正義感を啓発しても無意味である)、したがって敵の明らかな弱みを口実にすべきとなる。“人質”の進退はまったくこの為に適切だろう。
 だから、“人質”に関する非常に高圧的な問い掛けを絶えず経済制裁のカードと引き換えにくりかえし、なんらかのつまらない示威行為を、どんなに小さなものであれ日本領へ直接及ぼさせるべきなのである。それが安全保障条約上で恰好の、実質的な逆襲の機会となるだろう。これは『取立作戦』と呼べるだろう。

自衛隊は例によってかならずや後方支援でなければならないが、にも係わらず的確にキムジョンイルを捕えるならば国際社会にはなにも損害はもたらされないだろう。

2009年4月19日

土建業の砂糖粒

東海道線の移動速度を上げることは財貨の流動にとって、もっぱら最善の基盤開発なのだと言っていい。

ここから、道路法および鉄道事業法に於いてその空中および地下へも敷きうる線路や高架を別の所有者へ売り出すような権利、つまり『空中権』や『地下権』を整え直すのが迅速な業者間の新敷設競争をいざなう、景気づけの良策だと思われるだろう。

そしてそのための端緒は国土交通省の利権拡大を意味するのだから、方途を教えさえすれば明日の地位危うき某――土着の土建屋票(組票)と戦後復興期から癒着する――エセ官僚連中も、蟻へ知らせた砂糖への道筋の如く何一つためらわず暗に明に、ロビー活動を開始するに違いない。というのは冗談でいいが。

物理学について

量子転移の物理条件は光速の謎を解く最も有力な思想株式らしく見える。我々は光に原則的上限がある訳を自然学の体系上、確実には知らなかった。
 アリストテレス以来、度あるごとに無という非物理的な仮定を要する問題に直面する人類が苦肉の策としてもちだしてくる真空という理想化状態は、ダ・ヴィンチでも精神作用の理由をそこへ仮説づけて慰めを得たが、空間的な移動を情報の「後を濁さない」交換というほぼ極限の瞬間に等しい条件下に各種の化学反応系をくみこむ工夫で解決され易くなるらしい。
 工学への落とし込みを見れば、情報伝達の光速化と、その拡大化としての空間の移転が、おそらく非常に長い天文学的距離をほぼ瞬時に移動させる宇宙エレベーターの実現として、可能になる日が来るだろう。この面で、経済効果のフィードバックを要請する工科系大学では、今日に於いて量子論の徹底した突き詰めは決して流行の素材ではないと知ることになるだろう。
 有名な反・量子論者としてのアインシュタインの勘違いの原因は微視的論理を巨視で解決しようとした、視野の広すぎる空想癖にあったとも考えられる。遠慮なくその権威の肩をのりこえていくしか科学の前進はない。

世襲衆議論

元冦後の藤原氏の衰亡や関東軍の実質的独裁による忘れえない大敗北を歴史的経験として豁眼するに、実質的な世襲政権の支配は概して近視眼となりやすく、統治の方針として最善ではありえない。ここから、世襲議員を衆議へ認めることは避けねばならない。イギリス民庶議優位の原則はまったくその権力の癒着による腐敗速度を遅めるには民主的議決のかなめだろう。
 血縁を利用して権限を伸ばす貴族的偏見を平然と隠さない独裁は国政を大きく傾ける自民党の癌細胞となる。
 古今、当時の世論すなわち視野狭窄で現世利益をのみやみくもに求める庶民感情に合致した扇動政権が長続きした記録はない。徳川末期でさえ一橋派は質実剛健の気風を重んじ、大老の密勅へ具体的な実力行使をもって最大限対立していた。

2009年4月18日

模倣説

まねという行動規則が最初に生じた場所が遺伝子という概念を現実化した。真似されうる規則順列が群れを造らせた。そして真似の集積が文化圏を生じ、それらの相互作用は各文化圏の真似事として文明を斉す。
 創造説に対して、模倣説の立場が持ち上げられる。
 偶々生じたような真似の形態として源初の細胞を挙げるとすれば、その複製と分裂とは宇宙の物理的熱反応という時空環境にとっては特有の近似的閉鎖系内で混沌度容量の増大を意味した。するとこの生化学反応はそれ自体で自律した系列を持って増大することができる適所を閉鎖系の中で最大限に模索し出す。単純な生理規則からより複合した、より規則的変則を可能とする多細胞の連携した熱的反抗が始まる。進化の実質的な規則とは模倣の集積による真似遺伝の拡充だけであった。だから神の、想像できる限り全知全能の真似に対しては不可能性だけが模範となる。生物とは固有の半閉鎖系の中で増大しつつある生化学反応上の反熱反応的な斥力値のこと、要するにまねの系のことだから、その上で創造性を演じるとは群れの全模倣を最大の儀式として自らの作為と詐称するような神話の方便にある。
 社会の仕組みとはこの模倣系を他に比べ最大の相対的な容量増大へ導く為に、形質の実質的規則を絶え間無くまねあうことである。もしこの一方が他方の形質上の規則を一つのこらず学習すれば、その系が放出しうる外部への混沌度は圧倒的となり結果、生存をめぐる闘争に際して行動を真似されて遺伝順列の入り込む隙間を埋め立てられることはより少なくなる。おそらく異性体である動物の場合、性特徴としてのそれはより大きな混沌化の規則を好んで増大させるだろう。その方がより素早く遺伝配列を寡占できるのだから。一般的複雑性の選好は真似のし難さを最大多数の複製という遺伝項目内での優先順位の順に整列させる為に有用な法則である。減数分裂の規則。染色体は自己以外の塩基配列を持たない→性特徴を配偶子へ優先せよ。それは目次を形成する場合、瑣事を後に書き連ねる方がより調った辞書となり易いのに似ている。
 どうしてまねが生じたかという生物学からの問い掛けには、擬似的な閉鎖系の中で持てるあらゆる化学的手段を培養せよと命ぜられる。かならずやそこには生命体という熱的にかなりは整った連鎖反応が見られるだろう。自然が断裂した反応系(引力系の不可逆性を観よ)をかくも豊富に用意しているというのに、なぜにその中へ一つなりとも可逆性を呼び込めなかったと考えるのだろうか。我々同士が続けてABCと書くことがもし奇跡の範畴にあるとするのなら、川が流れることさえも同等に驚愕すべき奇跡に違いない。だがそれらを科学するのは不逞でもなければ頭脳の仕事というに他はない。

文芸論

構文洗浄化説。言葉が有する側面は考察に値する。それは音声か文字かで伝えられる。言葉は音声としての分類と、文字に於けるそれとを両立して現に在る。他方で、文字の発祥は決して単線的ではない。象形から表音へという抽象進化説は必然と言えない。発音記号を持っている文化圏でさえそれへと言語表記を一元化する流れが普遍ではないと見るのが音楽と文芸との批判の役目だろう。
 音声としての文字体系の中へさえ、表意記法からの調整が見られる。ラテン語の与えた語彙群は音声としての俗語をもかなりの程度、様変わりさせた。より造語の容易な、文字単位の表意性の裕かな漢字はそもそも装飾文字としての繁雑さを多く含んでおり、音声中心ではない表記体系を中国一帯の文字種へ伝播させた。ここから考えられるのは、実際の言語推移の規則とは文字と音声との最適化にもとづくということだろう。デーヴァナーガリー文字や簡体中文のように抽象進化に反する例も見つかる。
 実際の言語使用には時代の科学民度、民族内知識の総量が深く関わるものであるから、各種の文体のうち如何なる選択を用いるかはその為の哲学、いわば文芸論に基づくだろう。言文一致とか白話運動とかいった文芸論の波は時代の口承をも洗浄していった。現代文化が終りを告げた未来についても又同然の経過があるだろう。

狭い国

携帯の待ち受けで待つ妻子を糧に働く工務店員
一万円を持ち去る
何一つ残らず消える記憶の上で
我が物に振る舞う塩基配列
どこかで見たありきたりの空であって
なにも望まない僕は眠る
もし理由があるとしたら
それは最も取るに足りない夜の星々と同じ
過ぎ去るのみの朝焼けだろう
激しく移動し続ける車の列
きみたちでさえ見つからない夜へ沈む
どうでもいいくらいあふれた宣伝で
なにを儲けたいんだ
国だとか血筋だとか肩書きだとか
教養だとか教育だとか
なにを儲けたいんだ
サラリーマン同じ姿で歩道橋を群れ渡る
イギリス風のネクタイした幼稚園児が
妻子をもうけて幸せな墓入り
老人ホームで薄情の安売り
電化製品を更新してたまに交尾するだけの猿
探しても見つからない夢模様
狭い国だ

あぶく

あぶく銭を撒く東京人ヤクザ
あがめろと義務学校で教え込むためこどもを殴る蹴るは自由のくに
その外見だけをみて珍しがる外人
血眼で貢ぐのが義務の奴隷のくに
明日もあさってもヤンキーとオタクに囲まれて勉強を邪魔されて復讐心でかねもうけする為に出席

2009年4月17日

自然法則の知的淘汰論

優勝劣敗の規則にとって、その最も合理的な慣則は取るに足らない構造をより精確に切り捨てていく淘汰の方式が本質を形成するのだと言える。ジャンクDNAの内、偶々その変異が環境にとって適合度の高い特質が当て嵌まれば、当然その慣習的基礎は続く世代の間では徐々に系統的発生の遺伝形質へと絶えず蓄積されゆく選好度の増大に於いて獲得的であることをやめただろう。要するに生存闘争の最たる合理性はそれが変異の限りない散乱をある優秀さに目的づけて淘汰できることにある。進化論あるいはダーウィニズムへの批判の殆どは創造説が種の変化を容認しないために、その自然の創造的序列の最高段階へ人類を置いた、という古くからの万物の霊長仮説を信仰の前提とする思想体系からのそれであった。だが我々を含む宇宙に対する理解にとって最も規範に足る自然認識の数学的基礎によれば、天文学は単なる確率概念の範囲で地球外生命体の可能性を予言できる。ドレイクの方程式を存在確率ゼロ以下にする論理的根拠は自明ではない。それも地球の置かれた惑星環境が決して唯一的でも必然的でさえなく、ある化学的な組成の配合によって生じる有機的特徴に過ぎないと、簡単なエントロピー増大則そのものが確約するからだろう。なぜならもし地球と極めて近似した惑星場を宇宙間のほぼ同等な周縁域へ仮定すると、そこへ漸次的進化の奥行きに従って次第に複合された細胞としての知的生命体を予想するのが順当となる。脳という部位はどの文明場に於いても次第に増大する傾向を持つ。それは観測できる限り地球物理的な宇宙系では絶えず熱的エントロピーが増大することから、その生物が外部へ放出できる情報量をこの慣習的基礎へ適応させればさせるほど、世代間で起こる資源価値の高い場所の寡占競争に際してその複雑な行動基準は比較して優位を勝ち取る。
 仮に脳ができるかぎり多くの獲得形質的情報を記録するための生態装置だと仮設すると、その容量の生得的増大の傾向はつねに最大の学習を保証する十分な構造だと考えるのが妥当である。自然は長い集団的闘争の中で人類の祖先達へ最も初源となる文化として共通神というまねを恒久的に指定した。この理念は脳の学習可塑性という構造にとっては結束の単位を保障させる役目を果たすことになった。言葉がおそらく共通神というまねごとの一番基本的な形となっただろう。この言葉という道具は遺伝的な仕方によらず集団の血縁間を緩やかにつなぐ為の最たる外部媒体であったからだ。
 唯一神の信仰は、だから、人類の古代文化が備えた最大の結束の方便としてかなり妥当性を持つものだった。幾らかの飛び抜けて先験的な天才人がはじめてその考えを持ち出した時の周囲の人種の驚きは、未だにその際の言行録を聖書と呼ぶ慣習が生き残っているので信憑性がそれなりにある。言葉でしかなかった筈のまねはその方が人類という脳の増大した群生の基礎条件を呈しだす。結果、この唯一神への結束の固さを試す為の殲滅戦争が行われるだろう、たとえ経済共生的吸収合併も含むだろうとも。そしてもっと遠い未来にであっても、最も慣習的に強力なまねを可能にした集団が至るところで勝利を占め、種の形質の更なる増大を実現するだろう。この真実の法則は、自然界がより空間としての情報容積を増大させて、そこで起こる物理現象を、生物という斥力形態を含む時間軸に沿って多彩にしていこうとする傾向を普通に持っていることと経験的に一致するのである。
 もし人類の中で、まねのよくない種、つまり外部的に伝達されゆく言葉のミーム容量の低い生態的に単純な文化質のそれをまねのうまい種よりも優先させる場所があるとすれば、当然ながらそこで観られることとなる変異の幅も同様の慣習に従うだろう。唯一神のまねが創造説の抜粋としての知的設計論を余儀なくすることは、この集団の知性が当文化の系列を言葉以前に求める聖書原理主義を正当な道徳観として保存してきたというより他の社会的意義を持たないのである。
 我々は、以前にも増して延長された青年期一般を準備する文明化の学習能容量の増大そのものが、いずれこの系列の遺伝形質を単なる脳容積の相対的に高い種へ有利となるほど複合した行動秩序を要請する場所のもつまねし難さに於いて、典型的な獲得行動の一種とのみ見なせるだけ知性の変異とその種類を繁雑にしていくことが淘汰の法則にとっての合理であると考えなければならない。その認識が、即ち言葉のまねがたさが敷衍するほど、当行動形式はDNAの複製という生殖の論理にとって成功する区域を広げるだろう。

阿呆首相

阿呆首相こどもへ奨める漫画かな
阿呆の国かねを儲けて恥を売る

日誌

100円の缶ジュースを買うお金に困る生活者から無理矢理とりあげた消費税を、「さもしい」と言いながら自分のふところに隠した分をのぞいて威張ってばらまく。

 だが、このような不良政府が長続きすることだけは決してないだろう。そしてその税収の上に立ってテニスコートで軟派する軽薄者を偶像と崇める悪の軍団が、この世に長者として生きながらえることも絶対にないに違いない。

2009年4月16日

新聞

東京、雨

社会学

凡庸な形質、或いは中途半端な形質はその生殖系統が無目的に乱された結果だと言える。育種のために自然や人為が行うのはなんらかの特徴をもった種について、その特徴にとって害のある遺伝形質を注意して取り除き、同時にその特徴を最も顕著に示す獲得および遺伝形質の個体か群を生存上より有利となる条件へ置くことでその一層の個性化を計る方法である。いいかえると育種の最善の方法は剪定と選良である。
 もしこの方法をまちがえれば全体として特徴をなくすか、又はなんの利点も持たない種が広がるだけの結末が待っている。倫理とのかけひきから評判の優れない社会生物学について、この学識系列へ自然淘汰の考えをそのままもちこむのが危ういという直観の根拠は、もしダーウィニズムがそこでも真なら人類間の競争的排除も遷移の規則で説明できてしまうからだ。つまり、個体間淘汰を当然と仮定すると我々は経済的共生の理想的な体系によってではなく、それを二分する勝利種と敗退種との絶えず分割されゆく関係へとヒト科を整理する思考がその基本的な経済遷移の規則として理に適うという結論が導かれる。人類社会に於いては特有の少数派の個性への虐め行動が定式化される傾向があり、それは一般に多数派からみて犯罪と呼ばれている。そしてこの犯罪感情が、或いは単に犯罪措定の法が彼らにとっては種の生育にとって剪定の役割を果たしているのが明らかである。当該個体群の不利になる変異を生態的に排除する、というのがその本質なのだろう。預言者は故郷では尊ばれない、とか郷原は徳の賊なりとかの先哲による幾つかの判断は、普通、極端に調整的または配分的であるような行動形は効き過ぎる薬の副作用のように別の不利さを集団生態へ与え兼ねないからなのだと意味づけられる。かつ、この極端な行動形はいわば社会のホルモン生成の作用と呼べるだろう。そしてその効き目が致命的とまでになる場合には当作用は集団全体の意志の名を借りて甘んじて排除される。たとえれば過剰な性ホルモン分泌が免疫力を解除してしまう為にその生態がみずから病気を患う前に、過度の勇敢さとか柔和さは無謀とか卑屈とかの過剰な性質となって自らの意図する偏った行動を性別的な見地から自己阻害し、性淘汰は審美的に優良な個体、すなわち極度に中庸な個体へのみ働くのであるから、その異常な個体を少なくとも実際の自滅からは救うのである。社会においてはこれが異常な極端すぎる形質として犯罪なる名義の発生する理屈である。
 逆に、同社会一般に褒賞の法が暗に明に定められる場合がある。こちらは生態への快楽物質分泌のように、その有利な成長を奨励する作用にたとえられるだろう。勿論いうまでもなくそこにも抑制はある。脳内麻薬中毒者が危険なのは過度の趣味人や奇人変人への一定の偏見がそれらの熱狂を規制するために急進または退行が尋常の中継的変異よりも進化にとって相対的に有利ではないのと同じであって、通常そのような超急激な突然変異へは保存が働かない。というのも適切な受け皿がないためにこの単独では素晴らしい遺伝子配列はつづく世代のより平凡な種類に混ぜ入れられ、その奇跡的天才は多少あれ崩されてしまうことだろう。尤も人類は遺伝子バンクなどの外部媒体手段でしばしばこの自然のままの遷移規則を時に破格もできることになるらしい。
 社会の安心へ最大の徳目とされることが多かった信賞必罰の原則は亦この両作用、犯罪と褒賞の正しい運用の道理なのだと考えるのが妥当だろう。すると、前例がないか、もしくは前例を大幅に超えた極端な変異をその社会集団が一体、歓迎するかどうかは、結局はその集団が将来へ向けて如何に習性を変異させていくかのその時点で、最も信頼に足る指標だと結論していいことになるだろう。もしこの集団が銀河団の運動法則の発見を一笑に付し代わりにそれをなした個性を牢獄か精神病院送りにしたならば、そうせず寧ろ慎重な学会議決のすえ爵位で厚遇した集団に較べれば当たり前だが、将来像はまったく異質な姿になると予見できる。前者はおよそ堕落した無知きわまる賊党の増長とさらなる跋扈によって荒廃した生態が最も好適な種である茨の地となるしかなく、後者は最も選れた知性の成長がますます促進される限り古今の学識の殿堂のうちいやましに最高潮が見られる寛大の宝庫となる確率が相対的に高い。これらの演繹がもし幾つかの実証の過程から真実味のある社会への知識であると認められる時が来れば、我々は同時に、他の進化した種類たちに従って、人類自身での抜本的な種的分化を予見することになるだろう。そしてつねなる目的に向けた剪定と選良すなわち血統の育種によってより良く利益を享受するのが、地球の自然がつくりあげた審美的な恩寵へ、種の改良へ無理に逆らわない有り様として正統なのだと認識することになるだろう。幾つかの社会国家では血統主義というかなり保守的だと一般に考えられがちな道理が国民の永住権へ賦与されている現象が観察できるが、古くからの世界宗教というよりは、あらゆる繁栄した種を容易に一掃できる真実に畏るべき自然淘汰の観点からこれをみるとするならば、その政権が永続を望むかぎり結局なにより賢明なことなのだろう。
 まったく次元の異なるくらいその種集団にとり極度に有用な変異が出現する確率は、客観的に分析すればその生殖系統が一定の環境変異の中で最大の効率を達したという事実でしかないのである。逆に、極度の稔りなさ・醜さ窮まりない奇形・あくどいほどの無用な構造がもし生得的に生じるとすれば、それはその種の両親の生殖系統が完全に無目的な、つまり望ましい理由がなく、一定の系統立った合理性のない乱暴の影響を受けた結果なのである。なるほど極悪の犯罪的人格がしばしばこのような聞き知るも身の毛のよだつ極度に不幸な生い立ちを背負っているのもかならずや偶然ではないのだろう。この種の環境変異が密度効果などによって固定化するとそこに相変異の規則がみとめられることだろう。ある国柄というものもかなりの程度は必然の地政学的法則に基づくはずである。
 生態的有用性への変異の効率という社会の共通文化或いは社会資本のかなり耐久性のある蓄積の観点を考え直すと、専らの課題に対する経済性が集める汎用さよりは未然の事態へ備える学術や政治に関する際だった特長が、それを群ではなく個体の変異へ当て填めれば既視感のあるありきたりさではなく未視の特別なめずらしさが、種の繁栄のためにはおそらくより有益な、優先する価値ある選好の順序なのだと思わせるのだ。というのも、哺乳類によって魅力自体のための性特徴はおよそ雄間競争の合間でなんとか図られるに過ぎないのだから、このために役立つ特質は続く世代での競争的社会淘汰に打ち勝った場合にのみやっと遺伝されうるものだろうから。さらに、このことは中庸律という論理規則を右でも左でもない的中を必ずしも迷惑でも道楽でもない範囲で追求する個性に関して適用するかぎり、つまりいわゆる個人の幸福の追求に関して、決して犯罪および褒賞の過剰という極端すぎる変異への抑圧の原則と矛盾しないのである。それはどうしてしばし偉人が生じるかを十分に説明する数理的な規則である。
 もしaを犯罪的傾向の変異、bを褒賞的傾向のそれ、cをそのどちらでもない幸福追求の傾向のそれとする。なお以下では略称としてそれぞれaを犯罪、bを褒賞、cを幸福とおきかえて記述する。
¬a∧¬b → c
∵c → ¬[a∨b] これが証明されるべきことであった。
以下は反証。
もし 
c → ¬a∨¬b
であれば cならば aである か bである かのどちらかが成り立つだろう。
ここで、
[a→c]∨[a→b] …①
とすると、犯罪は幸福である か 犯罪は褒賞である のどちらかが成立する。ところで
c → ¬a の場合はその幸福が犯罪でないのが自明であり、常識的に矛盾する。反例、戦友の絆。一方、
c → ¬b の場合はその幸福が褒賞でないのが自明であり、常識的に矛盾する。凡例、受賞級の発見。もし①のaをbにおきかえて
[b→c]∨[b→a]
としても、論理式として等しいので結果も同様である。すなわち 褒賞は幸福である か 褒賞は犯罪である は 幸福が犯罪でない と 幸福が褒賞でない が常識的に矛盾する以上どちらも論理として破綻する。反例、兵器開発の栄誉、皆勤賞。
 こうして幸福cは犯罪aや褒賞bによって定義されてはこれなかったので、はじめの式
c → ¬a∨¬b
はそれ以下に記述した四種の論理式のどれもが偽なかぎり自明ではない。
 よって犯罪でもなければ褒賞でもないものが幸福であり、なぜならば幸福は犯罪または褒賞ではないからだろう。これには反例が見つけられない。以上。
 もし上述の道理が理解できれば、なぜ人類に限っては雄よりも雌に、つまり女性の方へつよく審美性が要求され易いか、という通常の動物の種内競争とは異なった現象が殆どの部族(か文明化されたと称する民族でさえ)で広く文化の傾向へ観察できるかも自明の理となる。それは生殖系統の合目的性を社会淘汰の起きる頻度に際して守り抜くためなのである。これゆえに雄性形質たる男らしさが人類にあってはどうしてすぐれた理性かすぐれた知性へと集中する傾向があるのかも至極、その種の血統を保存する本能の立場にとってすれば、当然の選り好み方なのである。ここに限って専門家以外へのある程度の納得のために道徳観からみて卑俗な例示をも辞さないとすれば、よほど安心できるかよほど信用にたるかが、ほどほどに魅惑的である雄よりも人類にとっては遺伝のよしあしについての手堅い選好なのだとも説明できるだろう。だが極度に魅惑的な場合については、その特殊な雌体の形質が雄性の特徴をかなりの程度、獲得形質を含む顕性の範囲で兼ね備えるかぎりで、この原則をしばしば、又は多かれ少なかれはみ出すかもしれない。ともあれ人類の自然科学という原生人類が考えられ得るかぎり聡明な営みの情け容赦ない法則知が教えるところによれば、決してこの例外が多数派を占めることはない。さもなければこの集団そのものが他の隣接する種集団との断続的な闘争に際し、形質の特性が不安定または極度に一様になっていた結果、敗退するか押しのけられるか、よりその弱小が明らかの場合はなんらかの奴隷化によって支配されたか、最悪のときに滅亡させられた筈である。しかし、我々は常に勝利した集団がより広域に拡散するという適応放散の理屈を忘れない限りは、タカ派の戦略を、則ち知性の戦略を防御的なハト派的理性のそれよりも普段の行動にとっては、信用に足る導きの糸なのを疑えない。おそらく、理性とは戦時訓練にたとえられる群的編成にとってのそれであって、決して平和時点での最適化した行動規則ではない。勇敢なドイツ兵が誤ったプロシアの砲撃に際して土のうの上に颯爽と仁王立ちとなり、偏在する同僚のイギリス兵へ大声で謝罪の意を述べた説話とはそれがもし平時の企業内で起こった呉越同舟の倒逆なのなら単なる失笑物だったろう。すると、順当に事実を収集する習慣をあまり否定しない知識欲旺盛な個人の緻密な思想の結晶中では、あるいはその我らが惑星へ順応した頭脳が独り構想する理想的なイデア界にとってするなら、王侯貴族が種にとって有益なのは普段の窮屈な序列のためではなく、戦乱時点での迅速な協力行動の準備のためにかも知れない。攻撃行動による失点が大きいほど争いの高いリスクはそれを儀式化する傾向をもち、当個体群の行動型を紳士的に、より大人しくさせるという社会生物学からの法則を軽視すべきではない。軍備の寡占による政治的順位制は同等の利点をもつと定義できる筈である。無論ながら我が日本国にはその種の空想を事実と誤認するまで疎かな学究の徒か党派はかなしむべきまでの歴史認識の充足のゆえにそれを科学としてではなく正に詩想にしか活かすまいが。回想へ事実を返したのを素朴な返し歌と取れたのは東国造とされたおきなの巧妙なおべっかつかいなどではなく、先入観のない素直な物の見方でしかない。どうしてその知識の奏でる歌合わせを神遊びも矍鑠たる余裕もなくして、毫も責められたものだろうか。素朴な自然人の心情が都会慣れた芸術屋の放恣よりも真実に詩的である以上、科学する者は高等な文明ぶった擬態をよりずっと、懇切丁寧な自然の説明を職能として誇るべきだろう。
 かりそめにも戦争と平和を越えて有利不利の差は、もしその系統が経済的性徴という女性からの程ほどの選好によって十全から帯患までのありうる健康体として保存されゆくならば必然に開き続け、なんらかの“揺り戻し”がしばしば種の棲息環境を侵さないかぎりは決して元通りにはならないこと、いわゆる自然淘汰による新種の形成過程という社会的生態の必然を忘れるべきではない。もし人類が殲滅戦争をあまねく最大の功利であると認める極道の徒たるを望まない、かなり大人しいかもしくは天敵から免れたほぼ属として同様の種類であると仮定すれば、次第に文明化が進んだ同一惑星の中では理性的な適所としての原理主義宗教の停滞地域よりは、次々有利な突然変異を蓄積し続けられる知性にとっての棲息域が、普段からより多大な供給を受け易い平和時の同盟集団のほぼ決定的な勝ち越しによって、いいかえれば暴力を辞さない群れたやくざ集団ではなく独立した平民の寛容な胴元にはどんどんと増大するのを暗黙のうち観察できることになるだろう。
 生態の進化そのものとは無関係に、社会淘汰の法則は必然に、より知性の高い集団へ微笑むだろう。

2009年4月15日

国際協調の監督的見地

我々がアイデアと言うとき知らずしらずにプラトンの恩恵を受けている様に、ある種の対象を持つ概念をそれ自体を指す理念にまで昇華するのは知識系統に対する、哲学的な批判の基礎付けに待つ。もし観念というものを定義するなら、それは感性に待つだろう。すべての認識は観念から概念へ、概念から理念に至り、再びあらたな観念の生産へと還元されるように見える。それら個々の働きは分けて独立すべきものだとして、より高次の認識はそれらの巧妙な循環または輪作にあるらしく思える。分業と協業の作用はこの循環的輪作のためにそれぞれ適宜らしい。文化と呼べる働きがあるとしたらこのリズミカルな再生の活動に目標を置くべきと思える。理知と感情とが相互を敵視するのではなしに、互恵する適度な距離を保つべきは循環的輪作をよく為し能う農耕の道理に近い。
 もしそのような豊富の骨が掴めるとすれば国民の性格もまた、再生の律動へ適応すべきだろう。限りない階級分化も、限りない平等調整もこの面からすると最高の格率ではないだろう。多くの階級制度には層間変位をうまくする抜け道、あるいは遊び幅が設けられるのが通常だが、社会の順位制において固定せずとも過剰な流動性をふせぐ対策には例外の余地は絶対に欠かせないものらしい。
 よりよく調和した社会には体制の塑性がより一層必要だろう。地域間の協調もそれが互いへの牽制を兼ねてこそ、結果、偶然に左右されにくい堅固なバッテリーを組むことになる。他国を無視すべからずという憲法の理念は傲慢をでも自虐をでもなく、より強化された協調の場を世界へ要請する指導力を当然視するところに成り立つ。よって原理主義そのものさえ決して粗野な見た目より悪の道理ではないだろう。

哲学と文の学の関連

後自然学が自然学の後から進もうとするのはそれが最も総合的な学識であると示すに留まる。知恵を好む事は決して後発的ではない。シェリングの意見に、哲学するとは学究自体のことであるから哲学部の存在を問う必要がないとある。但し、哲学という訳出語は惟神への道を哲ること、より恒久しき精神を有することにある。
 現存の哲学部の存在はこれらを慎重に鑑みると、自然学の最終的形態としての社会学をも含めた批判を行う為に他の学野とは独立して、総合の学野として設えられるべきなのだと思える。それは既存の研究領域を拡大する事を専門化し、蛸壷と化した科学者とは異なる観点から、認識を容認か否定する為につねなる独立した論理作用を学識の外へ置いておく為に。一般教養のためには哲学部が最適な本質となる。文学と呼ばれるものは、芸術に関する趣味批判を特徴づけるとしても必ずしも最善の総合的学問体制ではない。それは実践的学究の為の文の学ではなくて、文芸の準備という技術面からの命題が忍び込むからだろう。
 言葉と学識の分岐が十分なしうる訳ではない。文章と学問が不即不離であるのは伝承に関する筆記の可塑から生じる事態だと考えられる。記号の論理がそれ自体を指すということ、文の事実がまなばれたことを一定の伝承形態へ託す。
 哲学に流行があるという事象が示すのは、代の考え方が最も総合的な知性を道徳と見做す所から。

まっさらなダムをそば立たせる春雨の儚さ
神奈備の山から起こりし曇りしめやかなる
アスファルトを染め上げる薄紅の上ゆく車輪
海寄りの田畑稲穂に住まう疋蛙一斉に隠れる
音を立てて鳴りしきる杉林のもと地蔵様見る
列島を覆え雨の為なる春先の恵み野良犬を濡らせ
過ぎ去りし風の向きに聞こゆるのは常磐の波打つ夕暮れ時
うす盆の街を走り去る明々と照らす電車から見た海空
何もない空へ浮かぶ真ん丸のお月様は君を観る
二度と戻らない若々しい頃も若葉と共に葉桜と散る
街を侵す消防車のサイレンが遠くへ伸びゆく
蒸散する路上から黒猫の走る山あいへ消える
滔々と流れる川あお鷺の戯る空に月架かり下る
神社の上の椿散るただひとり錆びゆく手摺りよ
生温かい街からの風を夜景の上に溶かし混む色
多摩丘陵へ降りる青
歩道を走る子供のキックボードが硝子の街を写す
隠されたのは

2009年4月14日

特権階級増設論

我先日痴呆の老婆が病原菌を都内満員の電車内へ咳込み盛んに飛散させるを目撃したり。
 然るに日本の無階級社会は将来、あの種の惨劇から大きな損害を受けなければならない。もしそれが中流階級車両しか存在しない国家にたまたま乗り合わせたケインズであったならその社会は二度と景気を依然にまで回復させないであろうし、たまたまニュートンであったなら数千年近くを無明の境で彷徨い民族ごとほかの知的集団に解体されるであろうし、たまたまダーウィンであれば創造説の過信を修整できない弊害の為に血統の意義をも失ったであろう。

 特権階級の存在意義を滅却させた、又はさせるのを疑いない善意であると信仰した大衆社会の現象は、近々凡庸なだけの際だった変異のない均質化した同系遺伝子集団の大量絶滅を予見させるに十分である。もし天皇制があればどの階級も無用と述べるつもりならたった数名では変異幅が他集団より圧倒的に不足すると結論できる。ここから、格差論が血統上は特徴を持たない凡庸遺伝種プールからの根拠のない怨念であると考えて間違いない。

 もし少しなりとも理性の残った貴人がこの奇怪な島国に残存していれば、最優先の社会的課題が特権階級の増設であると直観する筈だ。さもなくばあの種の遺伝的伝染病により既存種の全数が死滅しても自然の賢明さを人員整理と述べるしか間がないのだから。中流のみの社会は極端に変異幅の狭まった、免疫的弱点のみの構造体でしかない。
 人間社会では最も極端な形質が、超極端さであれ超中庸さであれ種の生存の為に保存されるべきでありいかなる観点からさえ凡庸がそうなのではないと知るべきだ。

2009年4月12日

生物学

一般に、内的増加率戦略(reproduce rate strategy)の区域ではその生物種が対称形を最美と見做し選り好みし易い傾向がある。他方で環境収容力戦略(Kapacity strategy)下ではその逆がかなりの具合で発見されるらしい。乃ちそこでは特有の非対称さを選り好む場合が多い。
 我々はこの原因を、r戦がその場の広域な為に急速な支配を目的に経済的完成度を求め、k戦が隔離の区域にあって寧ろ既得の場所を奪い返す新しい変異を好適とするからだと結論できるかもしれない。言換えればk戦の起きている場所では環境抵抗下で如何なる突然変異を誘発するかに性選択上の焦点が移ると謂いうる。おそらく幼型化の傾向はk戦下で、成熟化のそれはr戦下でより急速に精選されゆくであろう。時間的にも非常な程度で固定した適所ではそこへ要求される適性の的を射る変異が出現する速度が、かなりの広域で幾らでも逃避可能な拡散の条件下よりずっと珍しく特殊化した袋小路へ選好をいざなうべく速くなる。
 処で、隔離された小領域でも広大な開放の場でもない、或いは両方の特性が交じり合った半開きの適所がある。殊に外部種の出入りが自由だがそこには一定の定員がある様な場所または場合。多くの生物が進化するのは前述の二方ではなくこの第三の適所に於いてである様に見える。なぜなら進化一般はr戦内での勝利(既存種の完成)とか、k戦内での突然変異の集積(幼型的変種の形成)よりは、新規の習性を要求する今までとはことなった適所を発見しその場を寡占することで果たされ易いのである。当然この希な隙間では既存種とは違う習性をもつ明らかな新種が作られ易い。
 この第三の道に於ける適応の型は臨機応変型戦略(ad hoc strategy)と呼ぶことができる。もし環境抵抗がなんらかの誘因から一時的に増大すれば新変異を選好するだろうし、そうではない時には完成度を示す成熟した種をより急速に増加させ易い。だがこのa戦略を生む適所は謂うなれば時間の中に存在することの方が多いように思われる。結局その場所も続く世代の内で環境の変化が一定の周期に捉えられれば外来種の流入がない限りは収容戦域に過ぎず、逆に既に多数の勝利を収めた経済的優位種で占められていればその周辺へ向けての増加戦域と化するだろう。

2009年4月11日

桜散る

徳川の防衛

北朝鮮の財政が最終的切迫を迎える時には必ずなんらかの武力によるチョッカイを出して来るのが確実である。
おそらくそれは9・11の小型版のような恐怖政治によるだろう。
太陽政策を永続するのは北の財政難上に無理があり、よって遅かれ早かれ“ジョーカー”を引き渡す為に野暮な脅威を用いざるをえないのは、もし我々がハルノートを渡すまでのことだろう。

 ここから、最もつまらないチョッカイのはしけを見つけ次第、可能な限り公徳の論理に訴えかけて一息に敵の首を取るべきが明らかである。すなわち『家康分割の説』は今日の防衛論の上でさえ正義と見なされる。なぜなら“ならずもの”を放っておくのはそれ自体が悪なのであるから、国際世論がこの正当防衛的逆襲によって非難をすることは決してないであろう。その任務成功がすみやかであればあるほど。

しかし国内の極右をいたずらにつけあがらせないためにも臨機の気性に富み豹変に選れる主将を推すのは必然的で、この点では最も機動的な文官があわてふためく国民を煙に巻けねばならない。
 政治史一般に於いて、武力差が圧倒的な場合この遠征にはいかなる遠慮も要らない。それはハーンの帝国をみれば判る。商戦や外交を通じた漸次の手だてを要するのは情報不足か又はこちらの劣位が明らかな場合にこそ。

 また、この際に米軍との品のよしあしの別を強調する為にいかなる大量破壊兵器をも用いるべきではないのは当然でなければならぬ。警察的武威のみでも、もとが貧窮した社会主義国で武力が一極へ集中している限りその抵抗筋を先手を打ち押さえ込めば、直ぐさまの征服は十分なしうる。
可能ならば麻原逮捕時の如く相手方への最大の威嚇報道こそをもって無血開城を求むるべし。フセイン拘束ふうの泥臭い方法は反面教授である。
なお、これには米軍との必要最小の連帯のみで韓国との協調は無用だろう。判断のにぶい同類項は必ずいらぬ難癖をつけるのが落ちなのだから。
 そして北の首脳陣解体後はそれを朝鮮民族自体へと譲るがいい。
手っ取り早くは、南へできるかぎり大きな恩を着せるため、ハングルの公認を真っ先に掲げて最も早速去り、平壌へ米国よりずっと日本の痕跡をのこさぬことだ。日本国旗が報道されれば特に中華圏であとあと面倒なのだから、自衛隊の旗は隠すか警察隊級の別のデザインを用いる方がよい。

2009年4月9日

文化上の特殊命題の一考察

日本風土の神妙に移り変わる季節性の珍しさはその文化での収穫物を著しく特殊化してあらわす。この点で、日本の風物はそれが先進的な時は独創として、後進的な時は奇形として評価・表象されるものとなる。或いはそうであらざるをえない。

 この為、本の郷士のつとめはその文化のつねなる文明化を必須命題とすることになるだろう。いわば意図の有無に関わらず恒に風変わりな習性を余儀なくする国土の性質の上にあってはその他国の習慣との適合を絶えざる宿命とする。我らは努力して開明的でなければならない。そして奇形さよりは独創性の方が栄誉の表彰であるからには、絶えず自ら先駆けてある為に学問を、特に科学の民度をいずれどの国風よりも我々は贔屓目に見る必要があると云える。というにも、非科学的な独創はおよそ趣味の産物であって、たとえば茶の湯の如く数寄者に愛好されはすれ社会基盤に共通化が行われない万人からの尊敬を受けること希である。

スポーツ賭博の消極的な黙認について

被抑圧層の好戦欲求を殺さずに気晴らしの便宜を社会の公益へ結ぶに、野球やサッカー等メジャーな運動競技の賭け事化を防ぐべきではないだろう。それは世界宗教や公的教育等のように奨励を必須とまではせずとも、決して否認されるべきではない生業だろう。少なくとも再軍事化よりは遥かに健全な戦闘力の準備となるのだから。

山女

山奥で静かに流れる岩蔭の山女の眺める朧月夜
新宿の霞みの隅に隈どりて山戸より来たる君の宿りぬ
どこにでも観られる花と想えども二つともなく桜の薄絹

基幹産業の回転率向上策

運送と移動にともなう「資本の運転率」をあげるには、特に若年層の生まれ持った個性に応じた地方都市圏への才能の分散と特化とが有効な方法論と云える。

ここから、現状の高速道路に可能なだけ新設の高速レーンを設けてその最高速度を法規上、時速200km近くへ上げるのがちかぢかの功利策に見える。
 主要あるいはほぼ基幹産業である日本車の取引分を落とさないためには、BMW等のドイツ車と張り合うかそれを超える高気筒のエンジンを搭載した高級車市場へも本格的に進出するメーカーがなければならない。それは国際寡占的なトヨタの中産クラス適応に比べれば、ホンダか日産が現況では適当におもえる。
バイクの超高速運転の不可能さ、危険さをかえりみれば「格好」のみを追求したスポーツカーがいかにステータスを主張し尽くしても足りはすまい。もうヨーロッパのレースで常勝を遠慮するべき時期は過ぎたと言うべきだ。どの白人(しろうと)も深刻な環境問題を目前に黄犬と揶踰れはしない。

 他方で、タタやヒュンダイ等の新興勢が格安車に先駆けるのは国民の労働力価格差からすると殆ど防ぎえない趨勢であって、スズキや、トヨタの分業部門がなんらかの「機能」の良さという付加価値を高効率の生産体制を再樹立して達成するしか対抗戦は難しい。
この点で、あまりに労働力の再生産効率の悪い大卒採用に適当な大企業病の蔓延した現況は、遅かれ早かれ大きく途上国産の庶民車生産に於いてはなを開けられる‘負の抵抗’である。
 もしも彼らを資本の過剰流動性をまともにくらって我が儘に切り捨てるのを結局は国内外で不評を買う損失額であると悟る若々しい経営陣が現れれば、より効率に勝る、より安価な工業専門学校または信望ある専修学校からの人材確保が新規市場適応には不可欠であると考え、そのための採用手段に効率的な「就業前試用制度(インターンシップ)」か又は「自社製の専門学校」を体よく調達しなければならなくなろう。そしてよく働くかれらの信認を受けた家族が20年前後の周期で再調達できるような安泰な人材占有に成功すれば、その企業の発展は未だ衰えないだろう。

2009年4月5日

金策

生活資料にすら困窮する劣悪財政が竹槍で民衆を脅す理由は金策に過ぎない。

重農主義の回復力指導

各交通路の間へ如何なる政策上の介入も防ぐ放任戦略によって、最も輸送の機敏へ適した安上がりな運通手段で農業者間での功利を目指す経営合理化の努力を、我々は国内の食料生産質量へ広く誘引すべきなのである。単なる消費の物量から引き出した減反政策や中央分権的重商化の弊害は結局、現国民性の総大阪人化に至らせるに過ぎない。そしてこの種の商売専守国民が通例とするがめつさ、狡猾な守銭奴の性格、或いは逆転して拝金主義的豪放を好ましいとすら見做す深謀遠慮なさはみな、我々が自らの郷国を金儲けの為に土地の神ごと売り払った因果となるのだ。
 重商主義偏向政策は自民党独裁がますます近視的搾取にしか目的を措くまいとする浅ましい税吏の徒を、どうやって普遍的国民性の上に位置付け天下らせようか思案しているか、にしか意味内容を持たないと云える。もし強い地元魂をもつ気骨ある士がこの事情に眼を啓くなら、先ず独裁政党で弱体化しきった中央政府のおしつけがましいマンガ式等分割政策案を自律して却下するであろう。そして地域連盟を通して一方的な減反や生産統制の暴威を地域市場の確保で否定し、より粘り強く勤労をつづけ改良された設備と科学的農法によって生産力を増大させることで諸外国の安価な量産品に負けないほどの競争力を身に着けようとするだろう。農協に属する限り一定量以上の耕作物が買い上げられる仕組みを設けるのは、極端な生産量偏差のため仲間割れを起こし兼ねない以上困難である。したがって流通と販売をも通信機器や運送業の自社化で一括して管理できる方がこの資本的経営を推進するのに好適である。地産地消の用語は又、輸送費というものが日用食料に限っては、いいかえれば奢侈および気候上収穫や栽培の難しい珍味を除いては原則的に最も近隣の地域へより生産上有利になる条件づけであると教える。ある国家が使い得る土地あたりの農業生産力の範囲で最大限の合理的経営を図ることが、輸入品との価格競争上で、輸送費と単位面積あたりの生産質量との市場取引間相殺作用で拮抗する成果を挙げるには正道である。
 これらは日本の内で最も面積あたり土地価格の安い、広大な酪農適地としての北海道を米国型の量産体制へみちびくこと、あるいはまた急峻な山地が過半である他の内国地域では極めて土地生産性を高めた北欧型機械農法へ現行の労働集約性を徐々に改良していくことが今後の課題に足ると考えさせる。
 一般に生産物について価格平衡の作用を鑑みればいかなる立場からも過剰生産ということはありえない。余った品を輸出しないまでも、国内価格がよりもっと安くなるだけである。万が一捨てられるとしても、それは家畜をはじめより低次の消費者や分解者にとっては以前として栄養たることをやめない。なんらかの不純物からの生物濃縮をさえ注意深く退け、自然浄化の作用に待つかぎり最終的には堆肥として、再生産へ寄与する。すると世の中に惠まれ過ぎるということはありえない。この点で、政治屋とか商売人が単に外交方針とか儲けに対する売り損ねとか云々をするのは元々、国内の全生産物が無料になるまで豊富となったあかつきにこそ語るべき地口でしかありえない。それらは生産者への誤った考え方、おそらく儒学的なまつりごと至上思想の出世欲と悪感情が引き起こす価値の転倒なのである。植物に依存する動物がその果実をあしざまに罵るのは痴愚を超えては倒錯でしかない。つまり儲けにしか関心がなくなった哀れ窮まるあきんどは餓えながら血眼になって働くが、その品性は同情を買うよりもずっとカネにしか執着心がないという点で永久に貧困なのである。もしこれが真実の見識なら我が国民存在をミダス王の轍へいざなう政治癒着の悪徳財界人とやらは一切粛清されるべきものである。

2009年4月4日

コーヒー

春うらら内にこもりて勉学す
桜坂見に行き代わりに素通りす
猿学生発情しておる自由ヶ丘
冷めた世に一人飲みてはコーヒーよ

歌壇の腐敗

後生の歌人へ伝う。決して既成の歌壇俳壇を渉猟する勿れ。当世人気を目的とし俗物の心理へつけいるほど浅ましき詩心なし。

2009年4月3日

法則論

法則が成立する、と考える習性は地球のある知性がその目的にとって適度に惑星化されていくところに生じる。定期的な環境変異の運び行きの中で習慣的に集められた認識の材料が科学知識を作る。調度蜂蜜の様に、人類は様々な生活要素を結晶させて自然法則という認識用栄養分を蓄える。富でさえ、巨視すればこの法則素としての共感的比例概念へと次第にひきかえられていくらしく見える。我々の工学では不老不死を実現させられていないのだし、結果どの個人も死亡するまでしか富の形を残さない。だが蓄えられた知識は外部媒体を通じて伝承される限り滅びず、その認識が上級の秩序であればあるほど古びない。すなわち価値としての知財は富の上位概念。
 いいかえれば情報量としての豊かさは群生技術の産物であり、その蒐集は蓄財のたくみさに基づくのだろう。
 一方すべて学識の集積はそれが進む程、生活形の常磐化をなしあたう様だ。生まれ育ちの安定はこの作用による。建築術的堅牢が特有の郷士を羽含む。法則としては生命が暮らす当惑星の恒星離心率が低いほどその恒常的特質が、逆に地表面の気候条件の乱れがこの変化へ特殊な類型を与えるほど風土的特質がよく収集されるだろう。

論理的双方向性の洋学史的經緯

学問の営みの上で二方向の論理が正当化されるのは本質的なこと。不完全性定理は学問の上では合理的な真理かもしれない。数理と倫理とが相互に違う論理法則をもつのは相互の誤謬を監視する為の必要条件であり、随って物理にとって自家撞着でさえなかった。より単一化されうる規則へと物事の認識を還元する作為はより総括的で複合された大きな理念へと止揚するそれとは異なる推論路程を辿り、故にどちらも訳なきことではなくなる。自然法則の前での足踏みを現代人が信仰箇条とする理由も又この論理的双方向性という学問の基本規則の上にある。
 だから、もっと素朴な考え方で充ち足りていた祖先がなぜ造物主の仮定を理念と取り違えたかまともに問う工夫に進まなかった如く、現代人が工学の恵みに浴してなぜ物理が法則的かを問う猶予をえられないとしても殊更かれらの怠慢でなければ哲学の不足に終わる。
 宇宙の数理秩序視観をピタゴラスが始めたとするなら、その倫理秩序視観はカントの創始に求まるだろう。いずれにせよ物理学はすべてに法則性を求めて止まない。
 ニュートンの哲学は森羅万象へ物理法則という神ながらの計画をあてはめようとする試みの上であった。そして物理秩序視観は論理的双方向性の結果にとっては最も高度の概念を比例のたとえを用いて文法づけようと試みる絶好の適所だと云える。それは真の文学にとっては教科書的中心領域を司る。もし最高度の比例概念が知られる様になれば我々が自然法則を信仰する為の合理的必然性または客観的態度は学問それ自体の秩序の中で論証されるだろう。法則性が単なる論理規則の一種として厳密に定義される時も同じ経路上で果たされるだろう。