2009年4月18日

文芸論

構文洗浄化説。言葉が有する側面は考察に値する。それは音声か文字かで伝えられる。言葉は音声としての分類と、文字に於けるそれとを両立して現に在る。他方で、文字の発祥は決して単線的ではない。象形から表音へという抽象進化説は必然と言えない。発音記号を持っている文化圏でさえそれへと言語表記を一元化する流れが普遍ではないと見るのが音楽と文芸との批判の役目だろう。
 音声としての文字体系の中へさえ、表意記法からの調整が見られる。ラテン語の与えた語彙群は音声としての俗語をもかなりの程度、様変わりさせた。より造語の容易な、文字単位の表意性の裕かな漢字はそもそも装飾文字としての繁雑さを多く含んでおり、音声中心ではない表記体系を中国一帯の文字種へ伝播させた。ここから考えられるのは、実際の言語推移の規則とは文字と音声との最適化にもとづくということだろう。デーヴァナーガリー文字や簡体中文のように抽象進化に反する例も見つかる。
 実際の言語使用には時代の科学民度、民族内知識の総量が深く関わるものであるから、各種の文体のうち如何なる選択を用いるかはその為の哲学、いわば文芸論に基づくだろう。言文一致とか白話運動とかいった文芸論の波は時代の口承をも洗浄していった。現代文化が終りを告げた未来についても又同然の経過があるだろう。