2011年12月31日

経済化の発明

自販機に電力を補完できるsolar panelと最大で数週間耐えられる小型蓄電池を搭載させ、購入毎に休憩がてら数十分以内の高速Wi-Fi回線利用権を与えた筐体へと全国の、できる限り多くのそれを漸次おきかえていく。

2011年12月29日

こさめ

あさ。あめ。よる。あめ。
ひる。はれ。あさ。。
それから、ゆき。みぞれ。くも。
はれてから、あおぞら。

2011年12月28日

聖性と神性の差

人類の想定できる全てのしあわせの中で、「人類の全数から嘉されている」という予感ほど尊いものはない。Jesusは一部の民から憎まれたとはいえ、或いは仏陀や孔子は、我々の記憶の中でも人類史の最も輝かしい一幕として栄光に彩られており、我々の中にこの偉大な古人の姿が浮ぶにあたっても甚だしい僥倖感や畏れ、尊崇の念を呼び覚まさずにはおかない。
 道徳を称揚した先賢たちは少なくともこの幸福、いわば聖性の中にある人類の貢献者となる事についての多くのありえる中道、そして極論としての当為を語った。神性が手に入った事など唯の一度もないので、少なからず嘗ては実在していたらしい聖たちの行蹟の数々から一応のひじりさ或いはholityを抽き出すしかないが、それによってさえ現代以降の人々が全く永遠性に親近できない訳ではない。

2011年12月27日

福島物語

あしき人類の破壊の手から免れた幸運な土地が極東の太平洋沿いのとある所にあった。そこは搾取を第一とかんがえる賎しい人種から、みずから神となのって世をのべようと驕る悪魔の目からまぬがれた。幸運にもそれは偶然によっていたから、多くの人は誰かの素晴らしい境遇が、成り上がりだとか成金だとか、浅ましい出世欲の権化だとか少しも思わなかった。それは十分に小さい所でもあり、人類がほとんど未踏になる中でありとあらゆる生命が自由を謳歌できる、およそ唯一でめずらしい避難地になった。
 あしき人類の流した毒はあったが、数多の命はそれを何とも感じなかった。多くの生命達は毒というものをしらなかったし、もし知っていたとしても相手にする余裕はなかったろう。
 避難地は原始的な求愛の場になり、素朴な木々の陽光との憩いの場になり、鳥達のけものとの戯れの場になった。川は澄み、数え切れない川魚が豊富な虫たちを捕まえるライ麦畑になった。全ては平和で、まるで夢の様だった。幾多もの苦難をのりこえた生命達を待っていたのは楽園だったのだ。
 ところが、一つの不吉なきっかけがあり、そこは段々と再び、悪魔の手におちはじめる。はじめに巨大なカメラをもった文明人とやらが入ってきた。真っ白の装束に身をつつみ、なにか分からない事をうめきながら辺りをそのつめたい眼でながめまわした。撮影された自然は慄き、隠れ、篭り、宇宙から逃げ出したいと思った。しかしいつものごとく、人類は邪悪で救いがたい。楽園には巨大なトラクターがやってくる。つぎつぎ掘り起こされる、なにかの実験場の様な破滅の光景。川魚の子はわずかにみなもを通してみえる、水上の光景をうかんだ蓮のかげに隠れてちらりとみては、おそろしさのあまり母親の胸元に帰った。大地はゆれうごき、打ち震えたその業火で木々は呼吸をやめた。真っ青になった鳥の父親は急いで巣にもどり、子供を両脇に抱えていつでも逃げ出せる準備をした。空は曇り、大雨が降った。人類はそれでも諦めず、頭に「自然破壊」と書かれた鉢巻きをしめ、全員一丸でなんとかその場を離れまいとした。真っ赤な日の丸のうえに大書されたその文字は、どういう意味か動物たちにはしれなかったが、なにか人類というものが信じ続けているおおきな理想でもあり、信仰で、誇りの深淵らしかった。動物達は元気をなくし、嘘をつきあうほど不誠実になった。なんと、あしきことその下ない人類は卑劣にも余った餌を与えて、その中の一群を手玉に取っていたのだ。動物達は絆をうしない、父母は離反し、世界は絶望の色で染まった。以前見ていた空はもう無い。羽を毟られた鳥は地を這い、人類の一員に毎朝礼拝しながら血肉をとられる役目におちついていった。それを知らされたかつての同胞は、いまや二度とそこへ近づきたいとも思わなくなった。約束の地は遠い。人類は今か今かと気勢を上げ、ねじり鉢巻きにその頭のしるしをかえながらつぎつぎ楽園を滅茶苦茶にしていった。聞こえていたうつくしい音楽、小川のせせらぎ、森の合唱、夜の静けさ、朝の爽やかな空気は消えた。かわりに見るにたえないうらぶれた路地、石詰めの巨大な建造物、大声でがなり散らす大阪人の様なしんだ方がいい連中が連日連夜馬鹿騒ぎのうち好きなだけ飲み食いしながら七面鳥を殺し続けた。見放された土地で起きたすべては、あたかも必然の事に見えた。人類はあしきものであり、自然を救う志をもつ稀有な勇者はあらわれなかった。悲しみに沈んだ動物達のなきごえは、今では当たり前すぎてだれもかえりみなくなった。最新の媒体を通して流れてくる声は、みにくく、歪んだ関西人が貶めあう醜態ばかりだった。あの鳥、あの楽しげに太陽の笑みがこぼれる木陰で母親と語り合い、綺麗な歌声を響かせていた小鳥はどこへ行った。夜は深まり、大地はけがされ、天皇がけたついた。地獄がこうしてできあがった。
 ある寒い日の夜中、やっと人類からの大量虐殺をまぬがれた憐れな子鹿が一廉の沢辺に降り着いた。もう夕陽は疾うに暮れたので何かはっきりと物が見えるでもない。轟々と流れ続ける滝の麓で、夜の闇が大世界の孤独を森々と靡かせている。「だれか、人類をやっつけてくれるものはありませんか」片足を罠で傷つけられ、放射能で眼を駄目にしたその痩せこけた生き物は誰へ向けてでもなく、聴こえないほど小さな声で囁く。「だれか、悪魔を滅ぼしてくれるものはいませんか」
 真夜中はとても深く、自然の奥行きは底知れず、あの煌々と光り、輝きつづける大都会で人類がなしているかぞえきれない悪業を身に治め、沈黙に浸りきっていた。星々の瞬きは遥か遠く、動物達の目には少しも入らなかった。

Control

Way of the aftermath people meet already passed away to triple meaning. Meet to a distinction and their national remember. Why they remember themselves? It wasn't the forgettable reaching, otherwise, intruder humble. Miracle route of the ten. Is not some control societies? Was a good?

A Plane claim to the RandomHouse, Inc. etc.

I saw special bad writers Sodom of the West Japan Kansai regions born in. Why they was not killed or at least arrested till, to be made a bad Human societies like yours? 'Haruki Murakami' really had a BBS(2ch) for my real name hijacking criminal to slander someone by his shameful jealousy, and his erotomania character porn novels have been sold on the other countries. It was the criminal for the human literature, from native Kansai criminals.

俗世間について

俗世間へ降りようとする若者へ一つ忠告する。
 そこで運が悪ければ、君は次の様な女に出会うかもしれない。その女は君へ童貞か、と言うだろう。或いは別の言葉かもしれない。要するに、過去に性的経験をどの程度持った事があるか異性交遊の有無を「性交そのもの」を軸に聞く。この女とは決して近づくな。もし近づいてしまっていたらできる限り期限を定めて巧く関係を断つがいい。その理由は、第一にこの女は、風貌がどう見えて社会的にどんな地位や肩書きのうちにあったとしても性的に堕落している。よって、君へ良い結果を一つも与えない。次に、この女は愚かである。頭脳の悪さは人類にとって大きな損失だから、できる事なら同じ人種であったり、似た環境に住むのも良くない。違う社会で違う生態を持つ様に工夫せよ。
 性経験と呼べる多くの異性間の交友関係又は婚姻後の付き合いのうち、性交の有無を聞く理由は唯一つ、その男性が性的不能ではないかを尋ねるところにある。この下心には、浮気症かを探る意味が含まれている場合も皆無ではないだろう。しかし、総じていえばこの質問をする女は、世間がどう見ていたにせよ非常に愚かである。なぜなら愛情を完全に動物的営みとしか見ていないからであり、第二にその全うな人格が恥じ入る質問で人間を侮辱している事に気づかないだけ無恥もしくは低知能だから。この女は100%の確率で通常の結婚生活水準以上の生涯を送る事ができない。更に、複数の男性と関係を持つのを当然と思っているので全うな人間を育て上げる見込みも全くない。この様な堕落した女性は一部の階層或いは低俗で無教養な社交の中で生まれ育つという不運な状況にしかありえないのであり、そういう女性がどこかに居たとしてその女が出入りする様な場所は終生努めて避けるがいい。知能の水準が十分に高く、生まれが優れて成長よく、人々の加護の中で必要最小限よりずっと満ち足りた教育を受けたかまたは愛すべき敬虔な宗教生活を送ってきた女性で、これらの質問がだれも為しえる可能性は全くない。その様な勘違いを甘んじてさせられる場合すらありえないのだ。
 また、万一これが学校教育課程のどこかで学内やその周囲の学生と知り合った中でなされた質問ならば、その教育自体が致命的に腐敗していると自覚していい。且つそういう教育を、全ての事情を考慮しきってもどうしてでも受けざるをえない最悪の事態を除けば、最大の注力を以て当学業課程を抜け出し、別の学校へ入るか他の課程へ属する様に。悪い記憶しか残さぬあしき仲間に入らずに済んだ過去を、後々まで自らの人生観察の経過として若くして物分りのよかった己自身の聡明な賢慮へ、感謝する事になる。もしさらに抜き差しならない義務として彼らと一定期間似た学業を為さねばならない地獄じみた拷問の際にあるとすれば、彼らとは努めて完全に孤立した方が良い。体を鍛え、たった一人でも生き抜ける魂ごと強くなれ。そしてできるかぎりはやく立派な人々のいる世界へ脱出せよ。どちらにせよ、そういう連中の周りにあふれた教育課程なる名を借りたなにごとかの戯れ、いずれ取るに足らない悪ふざけ自体がどういう訳であれ君へ名誉をもたらさないのを予言しておく。

ウィトゲンシュタイン命題の批判

語りえない事へは沈黙しなければならない、というウィトゲンシュタインの命題は自己言及的。それ自身が語っている事が語りえないこと、つまり形而上学界あるいは象徴界か唯の幻惑での命題か論理式の種別なので。この語りえない事を語るという形式、二重否定の肯定が禅または和辻的な空の論理とはいえる。いわば語りえない事こそ沈黙であり、沈黙しか語りえない事はない。他の全ては、現実つまり物事であれ象徴すなわち言葉であれ、語れるのだろう。形式的には無や偽さえ。

2011年12月26日

生命愛の抽出

生命愛は彼らのどういった特徴と過去の系統発生から来たか。
 多くの世俗物語なるもの、具体的には姿をかえた文章列としての副文化、例えば小説という群像的擬似演劇の筋書き化された文芸領域やアニメーション、テレビドラマ、RPG(Role Playing Game)とか映画の中でかたられる個性の声は演技のうちに生命愛をあらわすのが通常。
 この愛という理念は、キリスト或いは救世主の記号をとって古代に言い表され様とされた起源に繋がる可能性が高い。この文化素は、最も帰属的に脱宗教学的に解説してしまえば不義密通の子が己のみが悟った出自への抑圧を、永遠性と調和させた堅固な概念か当時の支配的信教集団のおもいこみを通した人類愛へと自己犠牲的に昇華させたものか。つまり、総じて人類は己の姿に重ねた生命愛の具現装置として劇なるもの、社交界なるものを駆け抜ける。それらには千差万別な差異はあるが巨視すれば一定で、単に地球風の生命への愛情でしかない。慈悲すら生命愛のより知的かつ普遍的な方法論でしかなかった。忠義又はイスラムとしての唯一絶対神への協働共闘の意図も同じく、仲間にうみだす生命愛の姿の方便或いは預託でしかなかった。我々が聖書とやらを丸ですてない限りすべて、人類は古代人から生命愛の様々な種類をうけとるのみだ。最高の賢者とはいえその身を焦がして世界の分析のうえにそれを読み取るひとりへの協調性、あるいは哲学か友情、フィリアを通した生命愛を語るに終わるだろう。之らの為にえられる所は再び地球風生命ごとの劇場である。

2011年12月25日

幸福の人類内条件

社会がよい物やよい場であった事などかつて一度もないか、単に思い込みによって幸せをえたにすぎない筈。
 之らの幸せ、つまり感覚的充足はどれであっても特定の思い込みの習性にすぎないのだろう。どの快苦も本能やその生育状況に伴う変形でしかないのを省みよ。何らかの感覚の勘違いや、その場での獣的興奮状態つまり単なる喜びを除けば、人類が完成された幸福、すなわち神からの無条件の永久の許しをえたことはただの一度もない。想定されえるありとあらゆる苦難が消え去った人類の一員は、単なる狂人でないとすればどこかに一人でもいただろうか。
 幸福を語った哲人はみな、それが唯のおもいこみだと悟らなかったらしい。もしくは幸福らしさをすぐに失われ行く思いつきか何事かの如くに軽くあつかって、後生へも真摯に恃まず成果を完熟もさせずに済ましてしまった。ミルやカントも、近世のデリダも実質の自己に有利な階級か地位保全のためにさえ最も安易な精神論、つまりアリストクラティックな自足を企んで学識経験に縁がない他の人類を冷たく突き放した。ブッダだけが、偽装や自己欺瞞、自らへのうそを見抜いた。彼は来ると期待する事でしかえられない超常現象的奇跡の世を預言もしなかった。神の国に於ける永遠の幸福感への希望とか、こういった夢見がちな空想といえそうな子供騙しをすてた。生存競争の悲惨を直視し、少なくとも往時しりえた最高の知見に基づいて人類の悲哀はこの世の構造や生まれた仕組みそのものにある、と教えた。この苦への理由付けは行なわなかった。それは熱帯の激しい不衛生や甚だしい過ごしづらさの中で、古代インド社会の必然で全く自然でしかなかったから。
 ギリシア語に於けるタナトスを、ブッダは素朴な理論で正当化した。この生という苦役の内にあって再生されざる事、つまり繁殖本能を抑え込む慣れに中庸な快楽をみいだそうとした。我々が禅の姿勢に持っているもの、武士や学者の中にあって求道心として抽出されていった姿勢はここに一つの震源を持つかもしれなさもある。神学ではない自己統御の原理は、もし見出そうとすれば現実的探究心とのみ云える。
 我々が修行という言葉で今日に引き連れているたましいは、同じくギリシア語にいうエロスとはことなる目的か、必ずしも一致しないとすればそれらの研究的自己統御つまり、理性あるがためだろう。いわば生の豊饒とか死への抑制とかは何れも両極端な限り、よくそれらの中間にある修養された個性の精神性に極まる。永遠の生に近づこうとした命なるものが死の可能性をもつ限り、それは神格に至りえない。だから未来が完全に予見できない間、この生は輪廻の構図を眺めつづける。完全に死滅しきる、とか完全に生成しきるという事は現実にはないだろう。永遠の命そのものとされた神の素は如何に多くの人々にとって歪んでいた事があったり、ばあいによっては打ちすてられてしまっていたりしてきたのだろうか。「貴方は神を信じますか」と問われて、心の底から、頭を冷やしてそれを信じきっている者は超越理念でしかありえない絶対唯一神以外を想い描いている場合は決して数多くまではないとはいいきれない筈。この徳義の程度や信心深さは単に、彼らのもっている精神性をはからねば外から窺い知るのも難しい。
 我々が人生の目的観を真剣に、その人類史の凄まじい悲惨や結局当為たるべき理想郷に向けて実現不能に漸近的であり続けているありえない戦乱や俄かに文明化したとも少しも思えない厳しい闘争状態のさなかで問い詰めれば、殆どの理性ある者は神の実在をもちだす以外で精神の安定を得るのは難しいのが現状だ。危機に際して本能から神頼みをする人の目は、決してそれを偶像には見ていないのである。崇高さ、という言葉で象徴化されそうになった神々しさとよばれてきたこの超越的宇宙現象の想像だにしがたい莫大かつ繊細な力への畏怖の念は、語りえない領域の不可視のしかし最も広く宗教人から認められてきた権威の名にその全知全能のたとえを援け、用いてきた。この理念は絶対に不可解そのものとして定義されているのでどんな特性へも化かせる。ここに過去の人類のなかで汎神論やアニミズム、時には多神教や偶像崇拝が起きてきた訳がある。
 神的計画論またはその独立した抽象化としての知的設計論は創造主の仮定を宗教学からもちこむ。もしある程度は人間的なまでに効力を抑えた人格神、つまり人型をもった神性というものの存在確率を偶像にすぎないとしてもこの仮説か信仰につけくわえれば、それらが完全に否定もしきれなくなるのだろう。この議論で混乱をもたらしているのは実際には寓話やたとえの、具体物に関してしかものごとを理解できない人々の脳の特徴にすぎない。手足をもっている神、ということ自体がすでに有形、つまりかたちを宇宙のなかに有しているので矛盾でしかない。自ら手先で創った世界に自らが属することなど寸法の差のために、仮に永遠の創作期間を見込んだとしてもありえないのだから。いいかえれば人型の生物は自らより小さな世界へのリクリエーションか、みずからを取り囲む物質現象へ影響をあたえられるだけだろう。世界に抱かれた個体が世界その物を創りあげられるはずがない。赤ん坊が母親自身を無から創らないのと同じである。
 幸福が単に習慣からきた特定感覚の充実でしかない、とすればなぜ星内外で営まれている異様な光景が展開しているかも分かる。それは群れが属した共通感覚に導かれて快苦を辿っている。賢者の気質は永遠に獣欲と共感をもちはしない様に、人類の中にさえ淘汰は社会ごと、社交界ごとに大幅に違う形質か姿を選択させる。だから往古の聖の進言、少なくとも預言者として信奉をあつめた程の名うての知能は理性的な態度をその指導集団に即した道徳目で教えたがった。乃ち、精神性の協会へより未来にとって望ましい社会秩序を与えたがった。
 どの生態適応からきた勘違いにせよ、仕合わせと不幸または不運とを決定的に別けるのはそれが人類の末裔である限り、類人猿時代のすさまじい同種内虐待あるいは暴力的絶対主義を避けようとする尊い本性によっている。弱肉強食が最悪の代名詞なのは人類の慈悲あるいはアガペーについてのみだろう。この適性のみが、他の種とことなる地位としての人類の補償としてしばらく働き続けていく。この環境の条件は、域内に人類への天敵がいない限り同種間または同類間での無用のむさぼりと滅ぼし合いを合理的に避けようとする善意をとぎたてる。そしてばあいによっては摂食関係や虐殺に関するたとえとしての彼らの闘争心をあおることになりがちな多くの無駄な生物虐待や殺生そのものを、説得または法規制で経済的に最小化させたがる。我々が生物への残虐な扱いののちに感じる恐れや謝罪の念はまさに、投影された自己が将来陥らぬともかぎらぬ生存競争内輪廻の地獄性をまざまざと見るからであり、その生態地位の順と草刈効果にまつわる伝統的統覚がみたされるとき感応はみずからと似た風の神性をもつ慈愛者を命乞い或いは舒明の意図を無論ふくめ上位に奉りたがっている。実際にそういう天国暮らしらしき夢想が束の間にしかありえない宇宙のつくりの冷酷さを知っていながらに、なお星内淘汰の発生論が彼らにそうさせているのはおかしくも、地球的に憐れでもある。

2011年12月24日

Passed

I've passed through away from, your passion.
It was a great world of my changing soul.
Why are you managed to get something me?
Why are you managed to get something, my purity.
And it was a special situation of my living days,
It has hasten somebodies, or something ultra-matured,
Some body or not, of your fashion ability, of
Clarity and transparent love all over the world.
My Jesus you know my living days of strong,
Fascinated religion belief to The him,
Are not they seeing my poverty too much its wealth,
I believed your beauty above the Christ.
So, little sad that of my misery intruder.
That was your hang on trouble to get the car,
So, what of trans multifavors in the him?
I mean that are good for you, every times.

平成

孤独。走り抜ける。
誰の声もしない。夜、真夜中。
冷たい雨。霧雨。アスファルトを打つ。
破滅を望むと云う。本当は。
単に気に入らない悪人を皆殺しにしたいだけだろう。
夜。誰もいない通り、津波に流された人。
叫び声もしない。冷た過ぎる雨、風。放射能。
夜。言葉もなく、冷え切った体育館で寝たがる、毛布。
響き渡る絶望と、真っ暗の社会。夜。真夜中。
蜘蛛が走り去る。大空。真水色の太平洋。孤独の連鎖。

2011年12月22日

我々が何も持たず、何もできず、ある創造的絶望、例えば悪なるものへの対抗とかその殲滅、粛清、絶滅、排除につかえる全能力のうち群れ間に伝わる限りある法道徳系の情報量といった定め、之らを上回る圧倒的悪種たちの集団が戯れる関西土人達の悪業の底で蠢く醜悪の地獄、惨めな同質性淘汰による破滅、informelアンフォルメル絵画に見られる様な一般的な無秩序さに近い混沌的社会に尚希望を見出そうと努力か尽力する意図は。文明国の威信へ掲げた名誉とか地位は全く無意味な空疎の張りぼてだと悟り乍らなぜ甚大すぎる、計画された通りに蔓延る悪と戦う。
 それらの迷いきった民衆を相手取る連中がいかに自らの愚劣さを自覚したにせよ、事態は一向に好転しない。単に、世界のうえに広がった偽善や選良気取りの跋扈、種の間ならびに種内の酷い競争、奪い合い、罵り合い、下種達の自尊心同士のぶつかり合い、端的に人類史の有様はいつも定常的で翻らない。
 できる限り英雄ごっこの巧い種に着く。身の安全と誉れを守る為に。国家とか威厳の全ては単なる男性的ゲームで、それを眺めるどんな人種も呆れかえっている。
 異星人は人類の差異を多くの場合微細にしか感じないにも関わらず、いがみ合いは半永久に終わらない。利己の種を植えた生命の始原者は最も残虐な呪文として、生存競争ののりを無限に深く与えた。神という理想の姿に縋りつく者はそのうずくまった地底で空の向こうに光輪を待望するが、それさえ当為としられている限り似た仲間や彼らの中でのつまらない立場しか得られない。半閉鎖された凡百な星で暮らす卑小な生命体の驕り等全く省みるに値しないのだが。

2011年12月21日

偶像学並びに神学の批判、又はそれらの不毛の理解

自己を絶対者にしたがる欲求、これ自体は精神化とか賢明とか学業とか、最も卑俗な場合で宗教人や王、最も堕落したとき世襲制としての皇族と呼ばれた特定のよくある形質の必然な帰結でもあるが、結局すべて誤りだろう。神を自らの外に置かない限りその全ての創造の模擬つまりrecreationは必ず腐敗か、敗退、最悪の時不幸を伴う。偶像という一つの単語が如何に我々に多くを教えてくれるか計り知れない。
 どの芸術家や特定かそれをこえた自然内文明の建築家も神どころか、単なる自己の似姿らしき創造物の真似事しか為しえない。この絶対的限界は人類の理性が及ぶ限り続く。なぜなら全知全能の状態はもし達成されたならば宇宙にとって永久の命でもあり、単に全宇宙と全世界の外になければならない筈で、為しえない事、叶い得なさとかありとあらゆる未完成さ、不完全を伴った事象や価値判定を及ぼす苦痛の得点や負の面は自らが完全である為には存在さえ許されない。不死は神の永遠性についての信念、と定義した過去の哲人なるもの、具体的にはカント等は当然この限度ある幸福感しか得られなかったに違いない。この級の不全さ、この程度の達成のみが人類の脳に達しえる全ての悟りの帰結で、無の概念あるいは思いなど永遠性と関係づけられた神なるものにとっての対立物さえそれを有限さと掛けたものとしての無限とひとしく宇宙の構造に向けて言語の一でしかない。つまり人が属した知能の水準は今の段階では全知をとても望み得ない。単なる無限の世界についてさえ概念以上に認知したり、それらを創造し直す事さえできない。無限の世界という言葉面とか発語による意味の認識をへて、主に人がその創造を擬似的にしか為しえないと理解できよう。神という最古の人類の一員から偉大過ぎる意味を持たせられてきた用語を安易な相対的低能力者の前で使う者たちは甚だしく社会文明にとって害毒以外何者でもないし、その罪深さは万古に比類がないのである。これらの殆ど何もなし得ない程の卑小さしか伴っていない息をする生命体とか彼らの見聞き体感する限られた宇宙の中の現象はどれも、全く全宇宙やそれらをわたる全世界にとって取るに足らない胡麻粒未満の点よりもありきたり。人間の想像規模にさえある程度巨視すればそれらはあってもなくてもなんら同じ。要は世界創造という想い描きによるある主体の想定は古代人の空想が起源だとしても、神なる用語の上に異常な過度の偉大を顕現させ、それを又最も流行し易いmemeの一つとして言語生活上に塗布させた。
 全知全能性をまったく仮定しなかった過去のいくつかの賢人たち、例えば孔子や仏陀は同時にその用語法による混乱を引き起こさなかった為にも賢明で道徳的だった。そういうものが仮にどこかにあったとしてもそれらを無語の領分とか単なる言語概念の問題として据え置きにする工夫で、彼らとその信者や後生たちは偶像だけは免れえた。そして、現代にとってもこの神学の据え置きこそが特定の認知の級を神秘化させそれに伴った偶像としての絶対者づくりを避けさせる、古来から知られてもいた、最も合理なやり方なのだ。
 いわば神学はできない。神学なるものを窮めたがる者は悉く、単なる宗教学者や思想史家になるのでなければ多くの誤って神聖視された聖者の寓言に欺かれたり引きずられたりしつつ、偶像学なる邪な道に逸れ歴史上の個人への狂信で、その頭脳生活を終わるのである。

社交界の平均さ

社交的な人種又は生態の中に、立派で尊敬できる能力を見出すのは難しい。彼らは早く繁殖するが、特殊な能力と呼べる物は持たない。社交性の中にある技術か技巧は殆どの場合単なる慣習で、しかも高度と言うよりは特殊経験の量へ積分的に由来している。「世慣れ」という言葉が其の侭社交界の共通語、となるだろう。
 Millが述べた社交界の不純と不穏はその場で淘汰される能力の質と関わっている。我々が多くの社交界を渉猟しても、文化という面で特別な才能や才質を有した学者が見当たる事は全くない。そういう人が社交界で評判を得る事もない。

 全心身の協調性の中である型や特別さを達するのが最高達成の同時的社交つまり芸能なるものでは機転や機知が常にそうな水準よりこまかく試されるとはいえ、冷静な又は抽出的とか鋭意選抜的な場が提案しているより複合した経験が求められねばならない訳でもない。そこは全て、能力へ平均の舞台なのだろう。
 大昔に上、現代にidolという言葉でこの平均者を崇めさせる物言いがあったのは、これらから見返すと大変奇妙な事だった。その理由が一般な無知並びに過剰な期待だったと理解してもなお、当時の社交人達の悪意以外には原因が見つかりそうもない。絶対主義者の名あるいは皇族及び王室への揶揄はこの点で哀しくも冗談ではなかった事蹟を含めて。

2011年12月20日

仕事

小さな社会
小さな町
誰にもきづかれない
誰にも悟られない下らない人生というもの
その上に咲いた花
すみれ葵かなしみのたんぽぽ
実際誰のためでもない
生きている理由を問い続ける
大きな雲が通り過ぎていく
この頭上にはてしなく広がってる
大宇宙のなかで蹲ってる
そんな命に語りえる言葉
もういい加減に明日なんだから
歩き始めねばならない
もしこの社会が終わって
おおくの望みの通り破滅が来た
その日が目の前にあるとして
だからどうした
きみが死のうが生き返ろうが
それがどうした
このそらの果てに住んでいる
かぞえきれない異星人たち
彼らの祈り思い不思議な言葉の列
だからどうして
貴方にそこでくらしていく
おおきな理由があるっていうんだ
単純にもういつだっていいけど
この小さな命の為に宇宙ができた訳でもない
おおむかしの物語
読み返してみて
なにか古代人の息吹を見た
他に何もなかった
野蛮だった過去の記録がなんになる
下らない人類の徐々に進んでいく文明の内に
うみおとされるその命がみいだそうとする真理
いい加減に厭きない
かみのつくりあげたとされる世界を
知り尽くそうにも時が足りない
何世代かかっても世界が広がり続けていく
本の山につぎつぎ埋ずまっていく死体の群れ
この腐臭に満ちた世の上に
誰のため働き続けるつもり

2011年12月19日

カント三元論の超克

知性人の立場にある人の英雄的な努力、ある猛烈な前進というものは現世的に知られる事が殆どない。仮に一部にしられていたとしても多くの人の注目を浴びる場合はありえない。もしかれらが決定的に高く知性的であればある丈。
 この理から、知性が一般的な名声や標榜、現世的言説やそれによる議論からはなれた特徴で、しかもこの為に有徳で有益でもありえる、とわかる。偉大な精神が多くの同時代やその付近に名誉を得た試しはない。賢者なるものが有名になったり真に評判されたりするのは多くの場合遠く来世的、ともすれば、我々は神的な人々がどこにくらし何をなりわいとしているか十二分に知りえない。知りえた範囲の知性人は既に手元にあるのだから。
 カント以来の定義論としての「知性」「理性」「感性」の様な三元論は、おなじものの側面だろう。これらは一般的には神性、あるいは聖性、少なくともそれに近侍したがる精神性の生きているありかたでもあるのだろう。例えば科学的知見としての経験論や実証主義は理性の中に知性という新しい分野を開拓していった、と学問史のうえにはいわれ得る。だが、もともと過去の動物時代にもっていた本能は感性という発情から至った特徴の審美感覚を維持させた。集団の利害を見分ける理性はかれらの先祖といわれる姿にも弱いものながらみられる。「知性」が、単独の言葉としてもかなり後にうまれたものとこれらから再定義できるだろう。脳の部位としても、この為になんらかの事故や危機に際した動転で最も先にはたらきが失われ易いかもしれない。

偉大な箴言の引用による再記録又は書肆への奉仕

『非人間的生活を強いられる階層を滅ぼすのが文明社会の責務なのだ。
『人間を変えられるのは生活基盤であり生活習慣であり教育だ。金ではない。断じて金ではない。
『過去に世界各地で試みられた、ホームレスに金を与えるという試み、ホームレスに仕事を割り振るという試みが全て失敗に終わり、効果を上げられなかったという事実を思い出すべきだ。
必要なのは生活基盤なのだ。生活基盤さえ与えれば、彼らのうちのいくらかは自ら立ち上がり復帰出来るだろう。
『努力を怠らなかった優秀な人間は、生まれた家の収入や家柄に関わらず成功を手にするべきだ。あらゆる人が満遍なく機会を与えられるべきだ。
それが素晴らしい国であり世の中だ。~
七つの海の真ん中でシェイクスピアを学んだ人間だけが頂点へと登れる国よりは、遥かによい。親の収入で行く大学の種類が決まる国よりは幾分かは素晴らしい。
------真性引き篭もりhankakueisuu氏

 これらの金言は最も偉大な哲人の列へさえ彼を加うるにふさわしい証でもある。
Web log上の彼自身を含む数多くの随想に紛れて語られた為この真実の言のみが他の言説より目立たないのかもしれないが、そこには自由主義の中の最も高貴な精神と理想、それに加えた社会的保障の問いが明白な答えに結ばれている。
 ここで生活基盤と呼ばれているものは、怠惰を伴わせる劣悪な労働条件をつくりあげた資本家もしくはその有効需要の逓減に向けて過ったしまい込みの意図及び含まれた必要十分を超えて我利的な悪意は社会的福利の観点から公的損害とみなす、新たな経済学的視線とおなじだろう。この生活基盤が全くに或いはすくなくとも広く全ての生活状態と相対して十分以上に非人間的でなくなる時まで、自由を持つ社会では資本家の横暴への法的乃至倫理的制裁措置すなわち福利に反してまで搾取された過剰な所得額の罰則による全般調整と、一般に有り得る有効供給の部分的もしくは近場の飽和からきた怠け癖への叱咤、勤労あるいは勤勉の習慣のためになされるあらゆる激励とを、無用の用まで容れた個性の多様性の称揚に加えて自らとその属した文明化の上に加えつづけねばならない筈である。

又、聖の位に属する言葉として
『人間世界は、即ち我が国というものは、己の幸せを願う心を持って生まれてきた赤子を、そのまま、その心を失わぬまま、人生を最初から、最後まで生きられる世であるべきである。本来ならば、そうあらねばならぬのである。人と人との繋がりというものは、人と人との接点というものは、それ即ち、幸せでなければならない。そうあらねばならないのである。生きるとは喜びであり、生は喜びであるべきなのである。その至極当たり前の事阻害している物があるとすれば、それは悪である。
------真性引き篭もりhankakueisuu氏

格言

他人に自殺を強要する人物は先ずその人物が自殺する方が善い。

人類生物学

性選択による構造、つくりが大幅に違うときその生態条件の多様性も一様に違ってきた。
 人類は豊饒さや多産の目安として異常で無益な乳房を持っている場合が多い。これらの機能性のない姿は多産性が有益か誉である社会淘汰を経てしか生じ得ない。同じく、学識の目安あるいは自己目的化された身体能力は殆ど有用性を持たない時にもしばしば雄性形質になる。異常な脚力とか腕力、それらに伴う心肺能力とかとある試験の成績が生存にとって必要でなくともそれらが属した集団に独自の闘争の色彩を与えている事がある。人類が過去から非常に高く見積もってきた雄性形質が器用さ、という見識は数えきれない無用の芸事或いは教養の前で強い説得力を持たせられる。
 生態条件が、つまり少なくとも摂食かより大幅にはその上での競争に必要な条件が異なれば当然、世代間の交代が時系列で進む程異なり行く。文化形質あるいは文化型と人類学からよばれてきたものは結局、この生態条件差と言える。それは模倣か創発で一定の幅を持ちながら緩やかに集団間で異なっている。
 日本の中で倭が定着した中古代の商業地、特に京阪神と呼ばれる関西の地域ではおそらく狭く閉じられた山がちの亜熱帯から温帯での過去の王朝形成による過剰な人員について過度の同質性のゆえ同種間闘争の必要が薄いかほぼなかったので、不倫或いは婚外に及ぶ異常な性行動と一連の不祥事の証を断続的にえり好みしている。旧約聖書の中でソドムという滅びた村に見られたのと類似の性格をこの一帯が持っているのはこの公家と呼ばれた中世の頽廃した生活に由来した文化型なのだろう。『源氏物語』にはこの性格者が虚構化はされているが、はっきり描写されている。しかし、この各子女への法的賠償責任を絶えず引き連れている多大な負債をもつ独特の社会性並びに一般道徳から見れば矛盾と堕落しか起こしていない有り得る制裁という面で将来予知に劣ったと言えるだろう行動形質への文化型、すなわち色情狂の姿は関東まで来ると殆どないか、かつてその地に大規模な行政府つまり江戸幕府をつくった家康によって導入されたのだろう関西からの人為的流入者達とその関西圏に定着していた現皇族や血縁者らに或る程度付随してはいるが、薄まった形にしかなくなる。そして関西から地政学的に離れれば離れるほど逆比例して丸で見当たらない。

2011年12月18日

御言葉

寄付によって一番多くを得るのは行なった自分自身である。

Total section of the aesthetics

I loved the beautiful world and its principal, it was a great society. But, people never get their nationally word or culture in, so never feel general meaning of an individuality to the another. Why?
 Whythey once get some arts? I changed others of its ways, at social tactics and sorts to the one. Is not some art of the societies on the today?

関西土人について

関西土人は純潔観念を持たず、それを侮蔑している。過去の書物でもこの傾向がはっきりしているが、それは現実だった。
 関西土人は貞操や家族性を持たない。最も低い階級とされる、社会では奴隷とほぼ似た扱いをされている一部の大都市部にしか存在もしない人種にしか見られる事がない、人身売買の悪徳をまるで全員が内在している。それらの関西人種は、世界の悪徳と犯罪率の上昇に寄与するのだろう。

 関西土人と知り合いになった者は以上の悪徳や悪業も否応なく擦り付けられ、結果、将来性を失うか悪くするだろう。

ルバイヤート

凄まじい悪所、日本国
関西土人が下劣で外人へ媚び
毎日毎夜身売りを煽りながら贅沢している
皇室が出てきた邪悪な世界

そこで何をしているのだ
お前の先には何もない
この邪悪過ぎる日本がお前の母国だ
実際絶望しかできないじゃないか

邪悪の底なし関西ソドム
腐るだけ借財しながら犯罪で銭儲け
上げ句に日々その邪悪な子孫を殖やす南蛮虫
関西土人と暮らさねばならない島国は地獄

さてそれはそれとして
この果てしない宇宙で連中の底無し邪悪に
さいなまれるお前の生涯はそれで終わりか
誰がどう見てもただの亜種に囲まれた小さな命

2011年12月17日

祈り

あしき蛮族、頽廃のソドムに土着した京都土人達が殲滅や粛清され、地上が神の民によって浄化されます様に。

国柄の改善

私が観察したかぎり、日本という国を一流として立派でなくさせているのはおもに関西人の様だった。
 彼らは場を乱し、法を破り、倫理をけがし、知恵も低く、発情期の訪れと繁殖だけが異様なはやさで、異常性欲だけ極端なまでにあった。これは厳密な観察の結果だから、確率論のみならず、各種の調査、たとえば生活保護者の割合や数、失業率、教育水準、犯罪率あるいは軽犯罪認知数、凶悪犯罪の量、そしてそれらに反したかなりの商気質の証としてのGDPや域内の激しい所得格差などでも統計的に実証できそう。

 一つ、重要な注意深い点を記しておきたいのだが、関西人はむしろあしき形質や遺伝子をえり好み選択している。かれらが純潔や賢明、熟慮や高尚といった徳といわれるだろう特徴を侮蔑しているところ並ではない。また彼らの中には激しい不信の文化があって、宗教心はなく、従って正直とか誠実といった特徴がまったくないか、よくそれとは正反対の行為をかれらが誇るかの様な態度でしている。具体的には、考えや思いと逆を言うとか、偉大な相手をけなすとか、取るに足らないどころかまことに嫌悪すべき邪悪な罪人の犯罪行動へ協力協調や甚だしい手助けを平気でしたり、人類の中で最も侮辱されるべき凄まじい頽廃に大喜びで協賛や一体化し、ばかりかそれを全人類へ向け自信満々で喧伝しはじめさえする。無恥とか無知とかをこえて、悪魔の種が確実に内在している。
 むしろ、次の事も予測される。悪所ができればどこからともなく関西人がつどうであろう。この一般表徴がみられたならば、その場は放棄しつつ徹底浄化するか、人員ごと監獄へ入れて邪悪な俗を取り除ききるか、どちらかしか道はない。
 因みに、これらの特徴は東日本でも東京都か場合によっては神奈川県の都市部にのみ少し類似のしかし弱まったその性質が目立たない程いくらかだが、時たまみられる。江戸から明治期に東海道を通して関西系の人種が入ってきたときにそれらの不良じみた気質も伝達されたらしい。しかし、これらは当然ながら冷遇もされ、場合によっては気質そのものが常態的に軽蔑かしばしば差別に近いあつかいさえされているので所謂驕れる者と似た栄枯盛衰を示す。配偶に際しても性質を軽蔑する相手とまともな生計をくわだてる者はいない。つまり関西の形質が強壮というわけではまったくなく、むしろおおくの見るにたえない頽廃は近交弱勢の必然的結果らしい。この傾向は普く、人類学やその史実がとある項目ではっきり弱小と悪徳の輪廻した道理を示しても損はないだろう。

 ところで、もし日本国が関東及び東日本系列のみの独立国だったら、日本が一流国として万世に比類なき高貴さを輝かせるのはおそらく、確実である事だろう。多くの凄まじいまでの頽廃は、京阪神とよばれる一帯から伝わっているか、そこに土着した一連の悪しき種が伝えたがっているのが間違いない。もし人類に何かの偶然の奇跡、或いは計画的な文明改良の意志があれば、京阪神とよばれる地域ならびに関西の多くのあしき風儀を排除していく事で、日本のみならず地球人類と東洋諸国の一般的高貴さは随分見違える様にまさってくるであろう。

2011年12月16日

Academic Journalistとしての鳩山氏の功績

鳩山由紀夫氏が連名で、イギリスの‘nature’に載せた論文は大変に高い功績だろう。

 東浩紀という評論家はツイッター上でニュース直後に「みっともない」と大上段に日本の名を借りて非難した。しかし、これは全くお門違いの誹謗だろう。隠そうとして隠し切れないし数えきれない国際社会へ及ぼした、人災の大公害事故なのは誰の目にも明らかなのだから、家庭内の些事の如く一国内で丸く収めてしまえばいい話ですらない。ある間違った仲間思いの隠蔽性を象徴させた黒塗りの工程表の表紙が談合体質に凝り固まった氷山の一角として示しているにすぎず、そういう企業と体質が経済成長と名を変えて山の様に鬱積している暗澹たる極東社会の事実も含めて。見たくもないどころか、少なくとも深刻な危機意識を共有した人々はもっと詳細に見たく、むしろ福島県民を含む将来世代や貴重な経験則の為に歴史の証人として誰もが見なければならない。
 そして国有化によってしか精確な情報がでてこない私企業としての致命的欠陥を抱え込んでいようとする、特定省庁と族議員に渦巻く利権の闇を裁くには彼ら自身の業にとってさえ現時点で、鳩山氏の方法が最善だったのだろうから。

2011年12月14日

英知論

今の文芸誌というものは廃人のたまり場だ。組織に問題があり、今後とも変わるまい。世間には文人の定義が或る文芸誌主催の賞で決まる、といった一般的無知の表徴があって、これは意図されて菊池寛など明治と大正の先人によって形づくられてきた組織なのだが、全く機能していないどころか社会にとっての害をあからさまに与えるまで腐敗している。恐ろしいのはこの表徴が多くの人に勘違いされ、実際に尊重までされている現世社会の凄まじい皮肉である。
 評論家が自らの権威づけに一寸した小説風の、或いは取るに足らない書き物を発表して三島由紀夫の名が冠された受賞を確保する。こういった出来レースひとつとっても狭い、内輪のなかでやりとりされる文事への装飾は何かの徳を持つでもない。全ては腐りきっていて、多くの人はそれに関心もないまま呆然と事態の落魄を眺めるともなく口先あわせているか、辻褄ごとあわせさせられる事はなはだしい。マスコミュニケーションは俗悪の賛美へのっかって凄まじく偽善的な現代文化とやらの上っ面、欺瞞と矛盾にみちた表層性をぬりかためる。私はそれらの世間的悪をよく観察してきた結果として後生へ忠告する。世間の名誉と思われているものは決してそうではない。多くの名誉らしきもの、或いは名声は仮初の草舟、束の間の虚飾である。追従者たる多くの売文商人らも同じだ。
 すべての帝国が滅び去った様に、驕れる者久しからずの言葉どおり、また聖書にある「狭き門より入れ」の格言そのまま、世間の多数を占めている意見や有様に真があることは殆どない。つねに少数者から先鋭を見つけよ。彼らは名を知られることもなく、また秘めた実力をひろく認められてもいない。彼らが単に無知にして世間を怨む愚か者やはっきりとした変人でもない限り(とはいえ隠者の様、当時の世相との懸隔差の故に、判断力のない俗人からは一見そう見なされている場合も多いだろう)、世間のすみにあって最高の徳を持ったごく少数の秀英を見つけ、その人徳と高貴な仕事に従え。精神性が高いと見受けられる者を信じ、物質の豊かさを見るな。こうすれば、貴方が自由の中にあっても必ず、世界の潮流やはげしい環境の浮き沈みにも耐えられる操と信頼できる舵を得るであろう。
 私の時代には、他の多くの時代と同じ様に特殊な適応条件があった。そこでは少子高齢化が急速に進んでいた。そこで、世間では慌てて子を儲けたりできる限り急いで労役に携わり、次々欠けていく金銭を掻き集めたがる人々が大勢いた。彼らの多くは沢山の媒体のなかの伝達の際で馬鹿にされ、賤しめられてもいたが、又その哀れな立場は丸で奴隷の如く馬車馬を引き、資本家へ毎時ごと礼拝し、機械の様に管理されつつ労働という単価に身を焦がしていた。さらには、この要件下で彼らは必死に子を儲けたがっていた。が為にますます慌て、ますます事態が悪化するのだが一向に反省せずできず、獣類の様な悪徳、性的不埒になれしたしみ、婚姻の制度を意義もろとも忘れ、往時の京都宮廷の様な混乱した傲慢に陥り、考えのみならず世界が狭まり、自殺したり親が子殺しをしたり子が親殺しをしたり、それらのどれでもなくとも人心と安命を得る方法をなくし、ただ野垂れた犬の様に金、金と騒ぎまわっていたのだった。一人それらの上で安物を売る途上国から搾取した質の悪い商人と、彼らに寄生した皇室のみ栄えていた。大地震や原子力災害、大津波による破壊がつらなり、世間では見るに耐えない混沌が日常的だった。テレビジョンという媒体のなかでは、子を流された被災者の目の前で、歌手まがいのアイドルへの投票選挙というものを東京にて日々大勢でわめきたてていた。大政奉還の際に起きた下士による明治簒奪を美化させる頽廃した劇が国税で豪勢に造られ、貧しい民衆は長期失業の底でそれらを黙って眺めさせられた。ここから、我々が学べるのは「冷めていよ」というアインシュタインが特許局時代に身に着けていた態度による世間への相対こそ、賢者をそうでない側から分かつ処世術でもある、というわけだ。冷めつづけている為には熱帯に住んではいけない。そこはなにかを真面目にやるには気候も暑すぎるし、人口の過密が多くの表象を変幻させ続けるので人類の理性は弱まり、知的分析の才覚は抑え込まれる。亜熱帯に近い温帯も同様の悪所へかぎりなく近づく。寒く、多くの人がおらず、野蛮ではない場所を選り好んで住め。できたら知恵のある者がいた証拠ある文化を択べ。そこでは容易に同等の形質を再発掘や再生できるからだし、世間の側からの前例との参照が数多くのいらぬ手間を省いてくれる。これらの為にさえ、知恵または知能の高い遺伝とそうでない者とはほぼ似た効率で社会内動態を移動していった。人種へ差別ができない時代だったが、生まれつきの頭のよさは少数者にしか見られない様に全体に比べたかしこさも、又少ない人員の遺伝的傾向の為に保守保存されていったものだった。知性の住み分けは速やかに、しかし確実に起こっている。それらの元祖は小さい様に見えるし、賢人というものの元素はあまりに僅少で失われ易そうに見えるだろうが事実は、まったく正反対だ。それらの種は必ず然るべき時点で再発し、人々の迷惑を糺し道義を語りながら豊かなすばらしい知恵の実あるいは知慮と英明を撒き続ける。もし神が十分に慈悲深い存在ならば、かれらの上に許しという原罪からの解放を与えるであろう(これは寓話だ)。そして知らぬふりをしながら知恵の実を与えた訳も、何れは明らかになるであろう。例えば、現時点の人類の知的段階でいえば「類人猿らの進化の際の突然変異」とか、それによる「生存競争の輪廻からの離脱の意思」として。ヘレニズムとヘブライズムを同時に参照するまでもなく、冷めた意識とは理性、理由、理論、いわば超認知的な神の目線を知る為の道なのだから。観照とか見るとか見物する、という古代ギリシア語のもっていた意味は事実上、ゲームの様に食う食われるの関係を続けてきた同類たちから離れた、神性や神らしさへと至りつく道のりだった。いいかえれば、古代から現代まで続いてきた世界宗教の本質にある聖の言葉もまた物思いのほか何もしないこと、アートやわざから離れて理想を追っていく独特の知覚への選択誘引の提供だった。この道は現代ではおもに学問や理論といわれているが、そのとおりに進めばやがては人類が今よりはるかに神々しさに寄った生態を持つ日がくるのは誤りない。考える人は他のどの生態より神らしさへ近づいていく余暇をもっている。
 それから、我々の時代が遠くすぎさった後でも多くの違った条件が貴方のいる社会集団を襲ってくるであろう。この際にも知恵の高い者をより有徳とするだけの理念は、その集団規模のもっている混沌度に応じて高まる筈。
 文を芸事として扱う者は、彼の理説を娯楽として以上に高めきる事ができない。同様に、いうまでもなく現世の大多数の人々を相手にこの仕事を商売仕立てにする者などは最も大事な理そのもの、伝えるべき真理というものをその記した文字のすき間にこぼれ落としてしまう。古代人の書き物は莫大な量をもっているが、全ては形式的・様式的に分類され、参照されざる無駄な冗長性の枠に納められていく。卑小な作家達の大多数は何らかの偶然によりそれらの取るに足らない文句を発表する様になったのだが、どの文事も理論のたとえであり世界観察の鏡である、という真理への情報量はごく少数の者にしか知られたことがなかった。この要はまた才能とか英知とかいわれてきた独特の知能の変異に由来しており、それこそはある時代の中でもまた全人類の形質幅にとってもごくたまにしか生じ得ないものだった。

2011年12月13日

心の裕かさの前で人々は何も言えない。

2011年12月12日

個性と全体性

文明の個人性は全く命題的。我々は全体性についてはよく勉学もし、議論もするがそこでの個人性、分かち得ないものについては殆ど無視しているか、ある社会化される時期を境にそれを忘れようとさえする。構造主義vs実存主義、合理主義vs浪漫主義の様なありきたりな定立だが、この二項に関しては自我や己が属した全ての側面が含まれていく。
 多くの戯曲や物語や小説は主人公という概念のもとに個人性への同一化を期そうとする。文明が宇宙で属した次元は果てしなく全体的で、そのすべてを詳細に把握するのはほぼ無理にひとしい。しかし、すべて生命が人をこえれば個性にのみ還元されるのが確か。
 個性を問う力はほか一切より強い事しばしば。反省力や内省は個性をより強固にし、外界から影響を受けにくくする。単に学習に関する限り人類は強い個性を手に入れる事はないだろう。それらは外界についての認知を増すが、ほか一切とはことなる何事かをつくりだす源ではない。遺伝子を含め、生命が担っている神話の作用、或いは永遠性と一体化しようとする活力はすべて個性に関わっている。この変異した情報量は宇宙の全体、世界の全てよりも希少か、時に特別だろう。この遺伝情報は肩代わりされえず、二度と復活もできない。個性はすべてその唯一個らしさ、代替不可能性、かけがえのなさについての絶対的権威であり崇高さや最高の理想についての出発点にして終点でもある。
 個性が十分に問われたのち、人類は世界の神秘についての最善の理由を手にするだろう。世界の甚大さに比べて個性が如何に小さく儚いかの訳も、同様に手に入れる。そしてこの生命力は他一切の事物より貴ばれるべきものであり、決して失われてはいけなく、更には地位と人種、立場や環境の一切をこえて宇宙の全体よりも重大な変異であると知るだろう。
永遠の個性はその構成素について神性に限りなく一致する。ヘーゲルの神格についての分析、つまり当為としての神が同時に人類の理性でもあるわけはこの総合された個性の表徴、或いは普遍的人生についての考察の程度、構築要件による。最大の共感はまた最高の個性に限りなく一致する。独我論に陥らず個性を追求するとは同時に世界についての絶対的認識と全くひとしい。全知が当為ならば少なくとも博識の底知れなさは当然であり、全能へは同じく万能があたる。こうして単なる本能からきた同種への保護や協調欲求から最も遠い場所にある博愛や慈悲は、程度としての限界化された神々しさへ漸近していける。精神は場合によっては神性とおぼわしき高潔な才質をつぎつぎ連鎖的に選択させる。この個性のみ、全体に比べて重要でも貴重でも、また合目的であるし、且つそれは実質的に量的だろう。理論、theoryという言葉が含んでいる多くの意味合いは最高の場合その進化の先に神と呼べる何者かを築くであろう。なぜなら、人生その他の生命が生後に獲得してきた多くの段階を短い間に一言そのほかの記号の羅列で理解させ、省略させるものこそ理論、その観照の記号的抽出だからだ。例えば戦争とか愛情とか和平とか時代といった言葉が如何に多くの意味と各事実の総合とを省略して伝えるだろうか。これらを知れば、実際にそれらの現実性を経験しなくとも、次元や知能によっては必要十分すぎる認知を得られる。現代が現代と認識できる人類はその時代意識をまったく同時代性に保つ或いは時代意識を絶えず同期し合う様に、本格的な世界の理解は自我にとって果てしなく抽象的であり、省略された少ない記号からの類推の集積でありえる。
 こうして、全体性にとっての個性の意義もまた一切の神話や神学の起源、或いは一切の学識や理念、理想、将来への見通し、過去の分析と温故とに由来していく。生命体はこの種の直観的躍動や知覚のひろがりによって行動をより効率へ向けて制御し、型にはまった行動をはぶき、他の単純な生態を利用して世界の神話的建築へ向けて如何なる技と自然の乗り物をものりこなしていけるであろう。

青き星の人々

人々よ
心安く暮らせ
互いに仲睦まじく助け合い
己をむなしくして神に仕えよ
この世にそらが明けてから
世の中は目まぐるしく変わりつづけ
夜を昼に変え
朝を夕に様変わりさせた
だれもの心のそこにねむる
小さな宝のうちに
大きな息吹がやどり
砂浜は風に舞っていった
青き星の人々よ
その小さな胸にしまった宝箱を開けよ
空は果てしなく土はたおやかに
この世の見果てぬ夢を奏でつづける

2011年12月11日

祈り

成り済まし犯罪者村上春樹が逮捕され重い懲役を受けその過った名声が地に堕ち失意のうちに死亡し世界の誰からも忘れ去られます様に

それに便乗した関西人、筆名綿矢りさ本名山田梨沙や筆名川上未映子本名岡本三枝子には失意の連鎖と二度と筆を執れなくなる大事故が起きて地上から金輪際死滅します様に

2011年12月10日

悪人

悪人と暮らす限り悪さばかり起きる。近寄られると悪さもうつってくる。

2011年12月8日

情報工学

公的ネットワークを介さず個々のメーラーのみでコミュニケートできるmedia。少なくともアプリとしてその装置を各mobileから標準的なOSでも起動できるフリーソフト。単独メーラー、或いは独立ポケベル。
 これが前例通り悪用されえる可能性は当然あるが、少なくとも全体主義政府からの監視を免れた言論の自由を電波の暗号化の最新版複雑化はやさに応じて、保障させえる。この更新は自動とし、有志らの無償行為とすれば経済ナショナリズムとも別れられる。付け加えるが、このシステムは完全に善意あるいは、歴史をかんがみて当時の権威ではないジャーナリストらを主とし、あきらかに直接の害毒や他者への犯罪つまり公共福利に反するのでないかぎり風変わりな意見をもつ個人の尊厳の為に使われねばならない。あきらかに悪用されれば寧ろ国際的なNGOと国連を含む省庁か各国各地域の警察へ内部情報を提供すべき。

Rain song

The rain song sings a night on a winter fitting

随筆

カンサイ人のいう善は巨視的な悪であることが殆ど全てだった。
今後ともそうだろう。これは、かれらの知能が長期的損失を測れないことによるのだろう。その血統も同じ末路をもたらすだろう。

 私は「善きカンサイ人」にただの一度も会えなかった。わたしの人生経験で少なくないかれらを実際にみたり或る程度会ったりしたが、個々から演繹できる総合的徳の達成という観点から、探しても「居ない」筈だ。いいかえると中程度以上の善人や人格者、君子とか侍、もののふ、紳士淑女などはそこからは淘汰されきえてしまうらしい。
彼らは一様に非常な性格や性質の悪さ、非常な劣悪性をもっていて、いつも他人を誹謗中傷したりすさまじい頽廃に沈んだりしながら銭を掻き集めてくらしていた。そして、これは習慣なばかりかほぼ本能的習性ですらあるので、かれらが生き残ったかぎり将来もなんら変わらないだろう。
 げす、という言葉がそれより似合う人々は世界中に殆どいないだろう。

2011年12月6日

Rubaiyat

We shouldn't touch with Kansai,
West of Japs, they are the criminal
They do many of cowardness, cheat
But they never apologize to miss all of it

Talk to daughters

By my experience and insight, the people of arts are too bad to relate with them. So my daughters, you must not to interest or curious to them, in every reasons.

A person of H.M., he was a famous bad written in our ages on their life, had been worst of reputation above the worldwide first classes and their nation. He made many of hijacking name libels to the others, but it invited his ruin and decade commission for the destiny on the duty.
 Bad persona makes their fall. It could never touch our humidity on the nation. Scholar of science and the philosophy are the safe of their humanity, intelligence or ethics, we shall get with them in the every situation.

Twit

The earth is one.
I loved it, ever.

2011年12月3日

Quatrain

So bad mad criminal Kansai
They had done all got a vice
Everyone might see all these criminal
Society of the Atlantic economy

Aichi prefecture and person them
Makes an animal society at megalopolis
Every man watch a criminal like trading
Ah why did not they manual themselves?

Ultra worst a society Kyoto women
Mean vice is a safety command on them
Are not they loving not a money
No they are the Osaka members false

These far west of Yamaguchi prefecture
Whaling over the view on the Earth Sea
But they have done the central dogma
Via from Meiji usurpers have been same of

2011年12月2日

Sonnet

Mean fellows of vulgar West Japanese
Came to the older society their immorality,
Plus, do evil action in the East or world
Why they didn't do vanish of world at civilization
A wicked woman said vulgar words
The West Japanse Kansai, pleasures its bad
Why they live in the earth on the site?
This bad vicious members are Genji lovers?
The immoral Kansai means every vices
But they never know all criticism by means
Because they know they are the vulgar cluster
Knowing exploit acts are the only living way
Ah why we have to see these disorder society
Kansai members cheat and be hijacking it, over

Quatrain

吐き気のする国だ、日本は
ありとあらゆる悪さをしまくる関西人
それを褒め立てまくる東京都の皇室
こいつらの邪悪な搾取の体系が、日本

どんなに努力しようと、
どんなに働こうと、一銭も手に入らない
僕が実際に経験した現世だ
そこで繁殖し続けるのは吐き気のする俗物

想定だにできない、邪悪な
成り済ましによる名誉毀損で満足そうな
神戸からでてきた吐き気のする小説屋
それで邪悪すぎる日本の醜評をまきちらしてる

何でこんな連中と同じ島に
産まされていくのかまったく分からない
凄まじい劣悪な稼業で銭をかき集める
性悪土人達が「勝ち組だ!」と驕る現実社会

幸福と地位

経験を省いてくれる言葉こそ学ばれるべき。
よき運命はよき血統から来る。
すぐれたものはおちぶれない。
金銭は消え易い。
不正な者を見逃す者もまた不正を裁かれる。
宿命に変わりない。
知識とは多くの場合信仰である。
利に逸る者は足元を掬われ易い。
うらやむ者は自らの影法師にそうしている。
道徳やそれを身に着けた人物は得難い。
幸福と地位は必ずしも比例しない。

2011年12月1日

叫び

自殺していく人々の群れ
なにがたのしくて生きてる
何度となく脳の中で響き渡る声
実際お前であろうが奴らであろうが
聞こえる声は静かに静かに
波打際を駆け抜ける絶望のたえ
東京都でのさばっている
邪悪すぎる世襲独裁者の血族
その後搾取搾取
だれも声をあげない
どうしてこんな絶望の島に
お前らは大人しく逆らったふりしてるの
どうせゴミみたいな連中が
西の蛮族みたく愚劣すぎる銭儲けを
息つく間もなくくりかえす波打際の音
だれも二度とそれを聞いた事は無かった
だれも

約款形式の最新化

日米安保をより堅固にしきる為には、その契約をより相務化せよ。つまり、もし契約された安全保障をある被害をうけた日本が破られれば公的誓約の文言に於いて賠償返済を迫りつづけられる更新がいる。
 同様に、知的総力を結集してこの約款を国際ならびに国連形式の参考書たる先端とすべく徹底的に法文の隙を潰しきっておくしかない。

見聞

関西人は想定できる限り最悪の更新をつよくしつけられている。関西人はよいものを貶め、わるいものを習慣的に崇めている。関西人は悪徳を誇り、道徳をけなして生きている。よい関西人には一度も会えない。悪を好んで行なう関西人が生きているのはただ繁殖欲の為。愛知出身者は悪徳を恣にしても殆ど恥を覚えていない。山口の人には驕りがつよい。神戸の人が善良だった例しがない。罪深い生態の子孫にも生まれつき罪あり。京都の女は堕落している。東京に憧れるのは遠目だけ。沖縄の人は動物の様に未来への展望や徳目がない。九州の人は早熟。水戸の人は畏るべき。軽薄でない神奈川出身者は先ず以て見たことがない。大阪人に教育や説教する手間は総じて無駄である。兵庫の人に関わると損をして得はない。京阪神の人には貞操観念がない。

婚姻

早熟な人間に陸なものはいない。また、晩稲でもよいとは限らないし、中間にもそういう者もいる。しかし、素晴らしくてしかも早熟な人間を私は一度もみたことがない。総じて、早熟であるほど陸でもない。南方の人間は総じて早熟であり、結婚というものをあまり深刻に考えていない。かれらの人生観が堅実なことは殆どない。また、どうやら知能一般のみならず、人生の困難に際した的確な判断力、理性、総合的な知性もここに入るらしい。
 商業地で立派な道徳が知られたことは殆ど一度もない様だ。観光地から人格が優れる事は希である。
 悪い結婚の中で悪い子を育てるより、独身の中で職業に励む者の方が幸福である。この血の量感は目に見えない力、因果律の平衡を求める生態力学によって、栄枯盛衰として逆転する。陸でもない者は続く世代の中で不幸のどん底に陥るが、立派な人格者と一族とはその評判の為に結果として血統を広めていくのだから。
 愚か者にする忠告は無駄。賢者には一言ばかりか寸言でも足る。
 軽い気持ちで性的関係を結びたがる者は獣類付近の暮らしから抜け出た試しがない。貧富や文化資本にまつわる格差の殆ど全ては、どうやらここに由来していた。婚姻とその操の堅さは単に配偶同士のもつ倫理観に由来している。故に、良き家庭はそういう人にしか確立したことがない。家庭人の幸福を知らない者はそれを手の届かない雲の上にしか見ない。皇帝や王侯貴族にとって、この境地は殆ど手が届きえないもの。
 家庭を真に祝われる者は母集団の徳が高いほど少ない。
 時代は職業観や優良種の目安をかえていく。しかし、上記のうち、堅実性の種は殆ど変化がない。

関西圏と血の必然

悪は改善しえない。悪と呼ばれるもの、少なくとも多くの関西土人ほかが持っているある種の性悪な傾向はそれ自体として輪廻的に伝わっている。単に文化のみならず遺伝として。彼らの善意とみえるものはすべて悪業につながっている。ある驚くべき劣悪さがこの極東のGalapagosにはあって、少なくとも関西でひろくみられるそれは血統が除去されない限り永遠に変わるまい。

 多くの人類は、遅かれはやかれそれを実際に目撃することになる。
 極東の神秘的風貌あるいは奇風にかぶれて、本質を見抜く目をもたない者には必ず地獄への誘導がまちかまえていることだろう。私自身が、かれらの悪業を長らく眺めていた限りでそこから何らかの回復が訪れることはないと理解した。遺伝する限りそれらの悪習はつながっていくはずだ。