2011年12月21日

偶像学並びに神学の批判、又はそれらの不毛の理解

自己を絶対者にしたがる欲求、これ自体は精神化とか賢明とか学業とか、最も卑俗な場合で宗教人や王、最も堕落したとき世襲制としての皇族と呼ばれた特定のよくある形質の必然な帰結でもあるが、結局すべて誤りだろう。神を自らの外に置かない限りその全ての創造の模擬つまりrecreationは必ず腐敗か、敗退、最悪の時不幸を伴う。偶像という一つの単語が如何に我々に多くを教えてくれるか計り知れない。
 どの芸術家や特定かそれをこえた自然内文明の建築家も神どころか、単なる自己の似姿らしき創造物の真似事しか為しえない。この絶対的限界は人類の理性が及ぶ限り続く。なぜなら全知全能の状態はもし達成されたならば宇宙にとって永久の命でもあり、単に全宇宙と全世界の外になければならない筈で、為しえない事、叶い得なさとかありとあらゆる未完成さ、不完全を伴った事象や価値判定を及ぼす苦痛の得点や負の面は自らが完全である為には存在さえ許されない。不死は神の永遠性についての信念、と定義した過去の哲人なるもの、具体的にはカント等は当然この限度ある幸福感しか得られなかったに違いない。この級の不全さ、この程度の達成のみが人類の脳に達しえる全ての悟りの帰結で、無の概念あるいは思いなど永遠性と関係づけられた神なるものにとっての対立物さえそれを有限さと掛けたものとしての無限とひとしく宇宙の構造に向けて言語の一でしかない。つまり人が属した知能の水準は今の段階では全知をとても望み得ない。単なる無限の世界についてさえ概念以上に認知したり、それらを創造し直す事さえできない。無限の世界という言葉面とか発語による意味の認識をへて、主に人がその創造を擬似的にしか為しえないと理解できよう。神という最古の人類の一員から偉大過ぎる意味を持たせられてきた用語を安易な相対的低能力者の前で使う者たちは甚だしく社会文明にとって害毒以外何者でもないし、その罪深さは万古に比類がないのである。これらの殆ど何もなし得ない程の卑小さしか伴っていない息をする生命体とか彼らの見聞き体感する限られた宇宙の中の現象はどれも、全く全宇宙やそれらをわたる全世界にとって取るに足らない胡麻粒未満の点よりもありきたり。人間の想像規模にさえある程度巨視すればそれらはあってもなくてもなんら同じ。要は世界創造という想い描きによるある主体の想定は古代人の空想が起源だとしても、神なる用語の上に異常な過度の偉大を顕現させ、それを又最も流行し易いmemeの一つとして言語生活上に塗布させた。
 全知全能性をまったく仮定しなかった過去のいくつかの賢人たち、例えば孔子や仏陀は同時にその用語法による混乱を引き起こさなかった為にも賢明で道徳的だった。そういうものが仮にどこかにあったとしてもそれらを無語の領分とか単なる言語概念の問題として据え置きにする工夫で、彼らとその信者や後生たちは偶像だけは免れえた。そして、現代にとってもこの神学の据え置きこそが特定の認知の級を神秘化させそれに伴った偶像としての絶対者づくりを避けさせる、古来から知られてもいた、最も合理なやり方なのだ。
 いわば神学はできない。神学なるものを窮めたがる者は悉く、単なる宗教学者や思想史家になるのでなければ多くの誤って神聖視された聖者の寓言に欺かれたり引きずられたりしつつ、偶像学なる邪な道に逸れ歴史上の個人への狂信で、その頭脳生活を終わるのである。