2011年12月21日

社交界の平均さ

社交的な人種又は生態の中に、立派で尊敬できる能力を見出すのは難しい。彼らは早く繁殖するが、特殊な能力と呼べる物は持たない。社交性の中にある技術か技巧は殆どの場合単なる慣習で、しかも高度と言うよりは特殊経験の量へ積分的に由来している。「世慣れ」という言葉が其の侭社交界の共通語、となるだろう。
 Millが述べた社交界の不純と不穏はその場で淘汰される能力の質と関わっている。我々が多くの社交界を渉猟しても、文化という面で特別な才能や才質を有した学者が見当たる事は全くない。そういう人が社交界で評判を得る事もない。

 全心身の協調性の中である型や特別さを達するのが最高達成の同時的社交つまり芸能なるものでは機転や機知が常にそうな水準よりこまかく試されるとはいえ、冷静な又は抽出的とか鋭意選抜的な場が提案しているより複合した経験が求められねばならない訳でもない。そこは全て、能力へ平均の舞台なのだろう。
 大昔に上、現代にidolという言葉でこの平均者を崇めさせる物言いがあったのは、これらから見返すと大変奇妙な事だった。その理由が一般な無知並びに過剰な期待だったと理解してもなお、当時の社交人達の悪意以外には原因が見つかりそうもない。絶対主義者の名あるいは皇族及び王室への揶揄はこの点で哀しくも冗談ではなかった事蹟を含めて。