2009年11月30日

工学

熱交換機をエアコン様の温冷両用とし、可能な最小のコアにまとめて鍋敷き状にし、これを魔法瓶型の電気ケトルの外部層に張り巡らしたできるだけ薄く軽いコンプレッサに対して共振電源で置くごとに連動する様にして、両方の設置面には一切の金属を介さない風にみせる。かつ電気的平衡で鍋敷き状の電器側へ埋め込んだ捨て溶媒へと排出熱か冷えを向けかえ最小化する。
 即ち、超小型化した自販機の原理を、家庭用ふくむ温冷電気ポットとして季節に関わらず常用とする。これは将来、冷蔵庫を置くには狭い各種車内向けに応用できる。つまりターンテーブル状にしたホルダーへスチール缶を置くだけで再冷か再温できる。但し、なんらかの原因で漏れても感電しないだけ安全な、微弱な電流をそれ自体が冷えたり温まる溶媒が入ったホルダーの内側へ流すことしかできないが。つまり缶そのものが電気を流すのではない。ホルダーごとターンテーブル上に置けば冷えたり温められる。

物理学

光と力はつぎの三つの指数法則に集めうる。Eは仕事量、Aは引力場、cは真空中の光速とすると
光の指数法則
①c=m/A
②c2=E/m
③c3=E/A

力の指数法則
①E=m/c
②E2=A
③E=A/c3
 証明。
 万有法則m=Acをcのみを左辺に移項→光の第1指数法則が得られるだろう。質量と仕事の等価則E=mc2をc2のみを左辺に移項→光の第2法則が得られるだろう。ここで、万有法則と質量と仕事の等価則をそれぞれmのみが左辺にくる様に移項し、
m=Ac
m=E/c2
とする。これらは同値なので、
⇔Ac=E/c2
∴E=Ac3⇔花火効果式
ここでc3のみを左辺に移項→光の第3法則が得られるだろう。これを光三則と置く。
 光三則から、
c3=E/A
引力場Aを単位量1と置くと、
c3=E/1 ⇔ c3/E=1
ここでEのみを左辺に移項→力の第1法則が得られるだろう。これを力一則と置く。
力一則から
E=1/c3 ⇔ Ec3=1
また光三則から、
c3=E/A
これを前式に代入し、E2のみを左辺に移項→力の第2法則が得られるだろう。これを力二則と置く。
力一則と力二則は共にこう示せる。
E=1/c3 ∧ E2=A
また
E3=E×E2
∴E3=(1/c3)×A
→力の第3法則が得られるだろう。以上。
 これらの法則からつぎのことが予測できる。光は、巨視的には拡散エネルギーとなり、微視的には重たい質量となり、庸視的には質量当たりの仕事量つまり各種の運動となる。力は、巨視的にはとてもゆっくりとした引力収縮となり、微視的には単位量当たりで非常に弱まり、庸視的には引力場そのものだろう。
 おそらく巨視光は宇宙の果てしない広がりをその単位としての中心引力場で抑制する働きをしており、よって重くない或いは軽い宇宙系では花火効果から、仕事量そのものが少ないので起こる現象も比較一様だろう。また微視力は微小空間での極端な引力効果低減を説明するので、量子転移などの通常空間では不可能な多くの微粒子間運動も十分起こる。

競技法政

税源として近く有効な銘柄は、いわゆるメジャーな運動競技へかける抑制税、いいかえると『メジャースポーツ税』だ。
 これは、運動能力というものはいちど獲得されてしまえばあとは持続してその性癖を完成させていくしか道がない‘身体能力の袋小路’であることからも、すでに十分国際水準を越えてしまった特定能力にはそれを国内でさらに振興する意味はなにもないから。
逆手をかえせば新しい高度に洗練されたスポーツが初めて生まれる場所は、既存競技への振興がなんらかの誘因で弱くなっており、結果それらに飽きた自由市民が自分流の遊び方を考えだすことがある。(もしこれをも予測して我々が将来の独創された国技を長期勘定面で芸能特許に仕立てたければ、およそルール仕様の独占特許の様なもの、いいかえれば「国際競技ライセンス権」や「レフェリー資格の法的管理許可」が機をみて法案されてもいい。)

今すぐでもスポーツ賭博を業界への交渉によって課税前提で奨励することもできるが、現国技だけは除くほかないだろうから、現時点ではおもに外国由来のものへこの種の課金法政のある程度の開始はむしろ、国民が‘パンとサーカス’へ夢中にならない様、筋肉過剰への嫌悪感を抱かせるのにもずいぶん役立つ。
つまり公営賭博の域を最も人気の高いスポーツ複数個へまで拡げ、各種の小規模の簡易くじの如きものは財政健全化が果たせるまで今のところ、いわゆる法解釈による親告罪事情の援用にとどめて事勿れ的に多少あれ黙認しておくといい。
 すこし考えればわかるように、激化しつつある東アジア経済圏の凄まじい低価格化競争下で輸出可能な品物が「知識集約型の高付加価格製品(あるいはハイテク機器)」の中にしかおそらく何もない内国状況では、ある程度の野生な身体能力の節制は仕方ない。
日本語による教育無償にともなう過剰知識人を増産するしか、人件費が異常に安すぎるアジア国際での日本人独自の特産性をつくりだす方法はない。
だからこの種の運動専門職を目指す危険度の評判からくる特別視や、又あるクラスでの蔑視か軽視はどちらかといえば、国家全体を見渡した倫理風土面では正しいことになる。

2009年11月29日

紅茶

まちしずか紅茶のしずけさうつろいかわる

泣く子供

泣く子供嘶く嵐の度楓まごつきつゝもひとひらおりつ
朗らかに笑ふなをもそたくらみて鶴の扇に旅行くそひと
よもすがら土のゐふこも只あやしふうつろひなす憧れ
たらちねのはゝのなしとるてもやにもあらゝくなゐも梨栗そ
とどしりてあらかたしりぬ世のつづろいづくになくは揃い文の名

愀躡

邇譱闍畆齷髮樣轜謳恁遠
邁鐚涙靈緲猗零畸廼齋涎
濁靄靄湲荐餘誄幾蕷鬻瑪
皚爾髏慥謖簽儼奘鷽龠驥
諾殃曦鴉嘶潼脾靡縷縷喃
滌鐫跏儺櫟觸囑濯羸澪畸
邀邇縱駲邁緞通踴秧瓔儲
讀俐隴隴閼懣瀲隘謔飫禮
儡駑瑙軣鬧迯薹瓷駁玳邏
靨瀰幔跿釋孳遨迹颱潦滬
讖蔡撕橢愍滸殤滯蜉聊遼
獨惻爍潯擺瑁韃楙愀躡瞳

道徳の幅

人類が哲学や智恵を用いる最大の訳は集団行動の幅だと考えていい。マンモス狩りと国家間交渉とでは要する道徳次元が違うというだけだ。だから純粋科学の中ではちっとも道徳がみいだされないのは不思議でない。Scientistを意訳で科学者とするならその種の専門化した人格には元々、Philosopherの意訳たる哲学者と違い、道徳の完成を至上や少なからず重要とみなす動機づけは比べて少ない。数理や社会知含む自然学知識それ自体からは永遠に道徳はえられない。だから、科学それそのものを哲学と代替しようとする試みは結局すべて失敗に終るとしてまず間違いない。
 英米という近代化の際に連勝をきわめてきた国家間強壮種が、いざ道徳行動というべき集団でのなりわいに特別長けているかといえば疑問であり、多くのばあい反するか。では集団行動が、もっといえば群れが必須なのはどんなときだろう。それは一言なら防御のとき。つまり鰯が鮪の猛攻を数の論理でさきはう。こういった幸運をより確実にする為に群れに紛れて個々の生存率を上げることはやはり徳だと云われていい。なるほど攻撃力の面で、既存の体系に留まった各種を破壊するには科学が有効だ。かれらには知りえない個性の技術力で特定集団をけちらすことも高い工学があればこそ自由となる。
 しかし、社会型生物という分業の効用を人類から分化した生命がなおも求めるなら、哲学は不要ではないし、道徳はまたこの結論に従う道を取るだろう。アリストテレスのポリス的人間という表現は、ある程度の防御力が確保できねば生存率の面で危ういことを暗黙に教えてきた。おそらく道徳的勝利ということは、一切の不道徳的勝利よりはるかに社会適応にとり有利なのだ。この過程全域を有徳と則る。完全に社会性を失ったばあいにしかこの原則の解除はありえない。そしてできるだけ簡潔な言葉でいえば、有徳さの最高形式は正義である。道徳があるということは、無論敗退が生存保証でない道理からいって、同等の知識量でありながらなお余裕幅としての道徳量を保てたという脳神経の奥行きについて、多分それが生まれ育ち、即ち品を保証しているという戦場の笛隠しの様な個体発生の中に誘因された祖先種からの功徳によってかれらの中ある者へ、のちの社会内での地位の良さというものを知能行動の極端に集積するらしい。
 卑怯な手で得た勝利は業で亡びる。だから道徳を自己目的化できないにもかかわらず、最善の勝利のせめてもの比喩としての仁義忠孝はいまなお、既に使えなくなった前時代の遺物とばかりは言えないのだ。我々の文明が西洋風の科学をまったきに消化しつくせたとして、いずれこの東洋風道徳観の点も修正か修繕の先に、新たに注解を施された理念集のもとへ繰り入れられ復興されゆくであろう。

Everything

Naze konna gumin domo no nakade
Kurashite ikaneba naranai? I'm disgusted, so
Heavy worlds nobleness or some meanings in
Moshi hito ga thinks all fireplaces will do
Burning everything, I may remember ano
Yuuyake o
Some how them, things whole retouched
Simultaneous nobility wo
Retreat ka rhetoric ka nozomu
Your finely discourse will be changed what is
There all bads

精査した類の問題

人類がかれらの地位をたもつ為とりつづけてきた方策は自然界の耕作により栄養物を再生産する、という農耕段階の論理だった。農耕はそれが自然界のもともつ扶養力を大幅にこえた作物を稔らせる技術であり、少なからず地球の生態系を独特の艸刈り度で再構築する意図だった。もしこの高次消費がなくば、地球では別の光景がくり広がったろう。最も遠く広くへ生存圏を広げる雑食性の動物がその優先種だ。犬や猫の大きく野生化した種が、或いは発汗能力を手に入れた鼠や熊などがそうかもしれない。
 こうしてふりかえれば、人という哺乳類が進化の末端に立つ消費の地位をえたのはほぼ偶々たまたまだったのが理解しえる。人は猿から出た新種で、かなりはやく生存圏を拡げえた訳は直立姿勢で道具をつかう手を、牙のかわりにしたことだ。
 将来は人が永続することはまずない。人相互へでも共生から競争までの多様な系統が順位制として生じ、やがては最も強壮な一種から完成された人類が、そして最も形質の粘り強さが新しい場所へ先駆けた一種から脱人類の新種が当然出てくる。文明が独自の発展を遂げるという博士の見識はおそらく星内でも真だ。具体的には、耐久消費財以降の産業発展はこの事実を如実のもとに晒す。人は、はげしい工学段階の変化へ適応した一種と、その他の類人猿(エイプ)との類比をより多く保った旧系統とに二分され、終局では二種へ分岐す。ジョークの域で文明はあるレベルで科学兵器応報戦争の自己破壊をはじめるので他の惑星からの訪問がないのだ、と言われたとしても、現実の天体論理は想像のかぎり無限の宇宙では無限の多様さがみられることから、星の外の異文明との折衝は時間の問題だと確実視させている。
 つまり宇宙工学への適応は決定的に惑星内での高次元支配率に必然なので、それを中途半端さで失うかぎりで人類に留まること、いいかえれば古代神道思想の陋弊にのみこまれていずれ他の文明の侵略で破滅するか殲滅される。もし人類ではなく、類人猿レベルでの保守なら反抗の余地はよほど少ないので、侵略者にとっても無視か惑星ごと焼き捨てる生物量燃料源にするかは熟考しなくとも済む。だがなんらかの技術を手にした段階ではすでに、無際限にみえるほどの烈しさきわまりない工学の進化競走へ遅れない様に、必死で新開発しつづけるしか生き残りのすべは少しも無い。考えてみればわかることだが、殆ど無限大らしい全宇宙に生物の変異などすこしも珍しくないのは明らかだから、かなり低次元な変異しかもたないらしい惑星など一撃の中性子ビームなどでブラックホール状に完全に固めてその燃料としての生物量秩序を小型のカプセル状に収め、あとで焚火などの悲劇情報としてとりだす方がどれだけ使い道があるかしれない。我々が木々を燃やすことと、大文明種が我々を含む地球の細々とした生態系を同然とみなすことは等しい。
 ゆえ保守とは全く不可能である。長期的な地域保全のためにできる最低限のことは、類の勘定に於いて、保存すべき伝統とそうではない習性とを分別すること、つまり産業の進路に関する知的批判だ。

東京都老廃体制の終末論

東京都知事が千年前の論理で科学補正予算への自説として、国税を全面投与してなにも問題はないというのも同然の認識を示しているが、世界中に文明の意味をしっている人間で誰ひとり技術の恩恵が無駄だと考えるはずはない。
低知能が人間でも都知事をできる、といった民主主義の人気政治化やお手軽タレント化への批評はさておき、『民営化』という効率論の定義さえ望んで人のうえに立ちながら認識できない人格は知性どころかいかなる工業発展の原則を語る資格すら欠いている。

我々はなにひとつ発明した政府機関というものを世界史上にみなかった。俗物どもが同士討ち、権力闘争、戦争煽動、猥談保存、逃げ口上、職権濫用、原爆放置、虐殺公認をくりかえしてきた歴史なら山ほどある。
政府がエジソンをもったことも、ワットをもったこともない。政治家(少なくとも、至尊なる殿下へ寄生して各種の利益誘導をはかる悪徳仲介人ども)という人類の中でも最も力でねじふせる猿山同然野蛮世界の慣習を信じたがる低俗な職種を好む者がなにかに技術を利用したとして、それはすべて権力を支配するための殺傷武器であった。

ここから、毎度の詭弁で喋々するなにがしの愚論のごとく非効率きわまる、しかも用途はみな悪意へ流れるだけ、邪な政商科学技術用の国債乱発、国民からの借金を踏み倒し前提に積み立ててなんの恥じも感じず戦争遂行だけを目的とする俗物どもなどにやる金は一銭たりともない。
今すぐに紡績機や紙漉きや天体望遠鏡がどういった民間の熱心な研究自由人の手で発明されてきたかまず土に還り、全生態系放浪の遍路をしてきた方がいい。政府が学問へ余計な口をだして良い結果が出た記憶は人類内になにもない。

 それでもかねを余した尊王家がもし借金を重ねてもなにか余計を働きたがるなら最悪ただひとつ担うべきは、利益率に直結しない「純粋理論」用の大学予算を確保し、市場の浮沈にかかわらず基礎研究が一部ではつづけられる様にしておくことだ。
実力よりはるかに出過ぎた身の上を愧ずべき失政録には事欠かぬご自身がどれほどの中小以上の国家規模予算を無駄にし、口先で責任転嫁をくりかえした末、まったく切腹する余地もなくなおも御託をならべておられるのか過去の因果を自覚なされよ。国税は愚昧なる一東京土民の私費ではない。

2009年11月28日

秋風

秋風よ吾はこの日を待ちわびた
東京は馬鹿に熱けし人の波
あまつさえいわずもがなに厚き服
晴れ間ならどこまでもふかき青空よ
遠くまで響くこだまか白雲や

2009年11月27日

運動不足

あったまわるいねPONYのブルー霊
さあここでぇおおっとパニクルーきえたぁっ
あっれ鍵ないどこだっけ自民党用ハニートラップのキー
よーしおいらの団子剣でおもろツイッターしちゃうぅっと
ねーねー鬱病ってさーあめた運動不足だよね

月明かりの音

三四郎池に降りつ雪のこる大福餅のはこ見えしぞと
Sanshiro ike ni oritsu snow nokoru yukimidaifuku no box can see
つきせどつきせぬかわり卉漣のごとく地を這いなびく
Never turned weeds like a sazanami chio hai nabiku
舞うことの久しきつかい悉く名も知れぬ侭ゆめだにきゆ
Players ever tsukai ever nd kiyu among not named yume
どこへかやしれぬ旅人ひとりずつ物もたぬ侭つきあかりゆく
Doko e kaya sirenu labors only go nothing have been you
人を喰いあきないながらまつるれば百の虎どもかみながらみる
Hito o kui business like in politics will be watched from under momoyo

記号論の消化

記号間の単位重畳性がそれ自体で価値である、という論理はなぜ既存の文字種の順列にすぎない本なる形態がよくも膾炙されるかの訳あいである。並の順列ではないそれ、少なくとも審美的中庸か極端に理知的なそれは多くのばあい、人為に生み出せる全価値の中でも最高峰のものだ。きわめて遠い時代へ至っても、少なからず言語規則をもつ知的生命なら確実に、これらの順列を希少なものとし又もちいる。ユークリッド幾何学や聖書は欧米圏含め全地球内で最も読まれてきた記号順列だといえるらしい。なぜこれらが好まれたかの訳は、日常に出会わない並びだったからだ。
 我々は国内に幾つもの古典をもつが、梅棹忠夫の情報産業論が先駆だとしてやはり、一民族をつくる大きな原動力は特有の記号配列にあると思われる。Why notという言葉が現れる頻度の高い集団と、止めた方がいいと曰いそうな集団とでは当然、かれらのもつ進歩への関心が違っていく。そしてごく長い目でみれば、結局その集団が保有した順列規則のうち合理性が高い一系統、だけが他の言語種内への文化素の編入率の面からも最も長期にわたり審美的か同類間の共有感を生存率の上に保つ。でないとたとえば一時期に英語が植民地の支配語として、その後の世界構成を下書きした様な一言語の敷衍が当然のものとなる。より単純な科学の言語でいうと、情報量の単位化が順列および一記号単位で積算すればするほど、この語集は他のより複合的ではない順列よりも希なそれを生み出しがたくする。つまり文の美しさを見いだす能力がより高度化しなくばならなくなる。
 故に、もし我々が現代哲学の主流とされた分析哲学のうち、その本質を解釈論をふくむ数列記号論に定めるとすれば(というのも、デジタル信号を省みればわかる様にすべて既存記号をもちいた伝達とは重畳性にしか命題がありえない)そこで問われてきたのは上述の、文理の邂逅なのである。こういう数列規則がもっとも価値の高いものだ、と批評か提示か開示できる論文が、哲学のうち分析を司る本質なのだ。嘗て理解不能さの比喩だった数々の珍文漢文とかグリーク(ギリシア語)とかは、引用される回数が低く意味か趣味が定めづらい、といった解釈慣習の低みにのみ訳があった。だから適応への構造や計略として、できるだけのぞむ言語体系との間で消化への訓訳が工夫されるほど、某母体系のねがう美文の決定性もより、以前にもましてまれともなろう。だが人類が文明内でいきる段階の文化では、こういう記号順列は結局、言葉遊びの社会的な合理化としての小説、いいかえると擬似独白による私説の流布につながるしかなく、たとえば近代文学とよばれていた体系一般と同じくそれらはどれも形式や様式の論究を文字言葉の記述方式で果たす以外の目的に至りえない。もっとわかりやすくいうと、分析哲学という現代の国際的覇権思潮は究極に於いて、デリダが実際にそうした如く擬似文学化という特定順列の権威化を、文面(エクリチュール)とか口語(パロール)とかその種の言文差延の際に施せるにすぎない。これが、私が趣味哲学というより複合化した哲学説を智恵の極度ともより諸評論を包括した総合ともみなす訳だ。どれも擬似文学化は最短音節の理念語への集積を否定する、一種の講演やら散種やらの言いかえに陥り、結果その論説は普及可能さのみならず単なる暇潰しの側面ですらいたずらに衒学っぽい仕種やらいかにも教養ある振りをしたブルジョア俗物根性を養う結末に終わる。擬似教育性にまつわる制度の無駄に於ける大学批判も当然、将来はこの面から行われてしかるべきだろう。つまり実用主義は西洋風ブルジョア支配を解除する方便としてつかえる。
 趣味を軽視し、その意義を見失った時代とは後世からふりかえればみるも悍ましい毒々しき禍々しさ支配の地獄であって、堕落した慣習がまかりとおる時代の記録とはすべて、後生の罪業をますだけに終わる。ことだま信仰の因果応報説もここに属す。たとえば江戸時代の下町の文化の中に、或いは中世の皇族の周縁へとりまいた迎合者らのうみだした腐敗しきった頽廃性質の如くに、高い総合批判力にのりとる趣味の高級さを理念語の威力で確保できなかったときその集団はほかの時代や場所の目からも悪魔の化身にしかみえない。つまり、趣味論は記号論や分析論をもかみ砕き自らの体系に於いてみいだしえた唯一にして最短の理念語へとその全内容物を昇華せしむゆえに、ほかのいかなる哲学思潮よりもなお上記の文理の邂逅にとって本質的なのである。「最高の理念界は最も複合した趣味観念を生み出す」、これが記号順列の単位重畳化を一語ずつの高い配置規律として確約する法則であり、また同時に後生の目にすら目覚ましく古典的完成や参照に足るとおもわせるに至る、文事にまつわる高尚な心理の鍛え方への重要きわまる道なのだ。そしてこの種の趣味啓蒙こそ、いかなる愚劣な体罰などより遥かに、青少年の心情を高級と崇高への挑戦に導く教育哲学の正念場である。古代ギリシアに於ける理想と現実の乖離も又、両者の積極的中庸に至る迄は趣味観念への途上にすぎなかった。

面白さ

焼き餅かなんだか知らぬがチーズ餅
焼き茂木がなんだか知らぬがチーズ餅
兼行法師かっ
なヴぇおさみ何だか知らぬがチーズ餅
お゜もせぐね

生物学

社会性動物の戦略は次の三つにまとまる。
1. 内的増加率戦略: reproduce rate strategy
2. 環境収容力戦略: kapacity strategy
3. 臨機応変型戦略: ad hoc strategy
これらはおおよそ123の順で起こる。なぜならある種の増産が僻地へ入り込み極相化することでここからの進化的な離脱が環境抵抗の条件で起こるのだから。現行では英語での訳語がそれぞれの頭文字を違和か、ドイツ語の翻訳で大文字小文字でずらして使われている様だが、こうしてまとめれば原則として大文字か小文字の頭文字で略記していいことが分かる。混同のおそれがないから。
 ところで、上述の戦略行動は各集団内での行動型を十分説明しない。それらの中でも当然、競争から共生までの一定の群生がある。そしてこの観点をより短期の視野で戦術つまりtacticsの名称で呼ぶとする。それらにはおよそ次の三つが存在すると考えられる。
1. 損得勘定型戦術: merchant dice tactics
2. 唯我独尊型戦術: doctorin tactics
3. 因果応報型戦術: tit for tat tactics
我々が現研究者内でよくしられた、囚人のジレンマ最強のプログラムであるtit for tatの戦術とは、実はこの様な各戦略型の中に含まれた指令なのだ。それぞれ、裏切りの率が相手の信用高下で可変であり短期間で成果をあげやすい場合を損得勘定型と、対して長期間では有利となる可能性もある一切の裏切りを放棄した戦術を唯我独尊型とここでは呼ぶ。いうまでもなく最後に平均点の面で勝利を収めるのは因果応報型である。そしてこれらから巨視的にはrka順の、それらそれぞれについては内部集団へ微視的にmdt順の規則的遷移がみられることになる。
 また、もしこれら戦略間または戦術間の関係を遷移段階(植物学の遷移: successionと区別すべく、ここで動向: movementと呼ぶことにする)でみると次の三つが考えられる。
1. 利口型動向: clever type movement
2. 覇権型動向: hegemony type movement
3. 世話型動向: look after type movement
 利口型とは、巨視的には臨機応変型と内的増加率との間の、微視的には因果応報型と損得勘定型の間に属した一群で、この集団は最も次代の繁栄がみこまれる。もし生物の世代間数量比をみると、それはピラミッド状だろう。
 覇権型とは、巨視的には内的増加率と環境収容力との、微視的には損得勘定型と唯我独尊型の間に属しており、その行動規則は一定以上の、僻地流入にともなうなんらかの習性が密度効果を受けて変化し、結果、高度に器官の特殊化が進んだ完成された個体をつくりだす働きをもつ。その数量化は世代間で逆円錐状をつくる。そしてこの傾向が極端になると幼型化の為にその種集団はなんらかの高度に極端になった形質とともに奇形化を進めて変種となる。例えば天然記念物類とは極端に進んだ奇形化の結果といえる。
 世話型とは、およそ最も終りにやってくる遷移段階であり、いわゆる環境抵抗による密度効果の結果として覇権種からの脱出として新種を生じさせる様な、おおよそみて同種について最も希で珍しい変異についていう。この特殊な遷移についてのみ、進化と考えられている新規な突然変異があらたにみつけられた適所への適応過程で、短い世代間に集積しやすい。このタイプでは世代間数量比は、基本的に釣鐘型をとるだろう。なぜなら比率でいえば形質が未知の一定方向へ整理されていく中途にあるので、逆円錐状ほどでない若い個体への淘汰圧がかかっているから。そのため数量比では停滞している様に見えるが、実際には集団のうち少数の個体のみが全体数維持を賄う変異を遺伝していく。もしこの経過が極端に進むと壮年種や老齢種に比べて幼若種がずっと少ない、ワイングラス状をとる。

工学

熱交換器を二つ設け逆の働きをさせることで冷蔵冷凍庫に付属した温蔵温熱庫をつくる。電気的平衡で室内への排出熱を無化する。

2009年11月26日

酒盛り

国税で学んで食って賞を得たどエライ科学屋あわてふてめく
ノーベルの遺産を貰えば即偉人
親分の子分になれれば安泰ぞ日本の国立サムライ御殿
趣味なのに全体負担か研究費われ想ひしやお気楽研究室の酒盛り

京都学風の行政内縁切り説

情報産業化に、欧米、少なくとも米国よりかなり遅れることになった原因は、経済学用語で梅棹:うめさお係数という情報費用の可処分所得が少なすぎるといった社会環境にある。
いいかえればエンゲル係数が、実際に民衆がつかえる全費用の中で高すぎるのである。これは結局、対米協調を目先の損得に捕われて選択しつづけてきた自民党時代の負債であり、保護関税などという明治じみた前時代の原理をなにも考えずに採択してきた農林水産省の役人の知能が先進国水準でみて愚劣すぎたのである。

私の意見をいえば、中小のカツカツでなんとか手慰みレベルでつまらぬ穀物を植えるなどしている弱小農はすべて淘汰すべきだ。全滅しようとなにも国民に困るところはない。
しかも彼らはいうまでもなく農協に属しているので、今までどおり一定レートで売上金を貰える以上、まったく生産量増大の工夫を自主的に行わなくなるうえ旧態の技術、具体的には手作業や人為での農薬散布をしても「効率」とか「合理性」とかそういう近代化の工夫一切が可能だとすら思いも寄らない。向上心や意欲を掻き立てる要因がない。
つまり千年も前の農奴時代の方式で微々たる作物を実らせて嬉しがっているのはなんと言っても滑稽でしかない。
 北欧や英国の労働投入量分の成果がいかに高く、その作業全体が輪作、機械化、品種改良、さらにはリン化ふくむ過富養を防止すべく取り入れた家畜放牧で合理化されているかを役人代表は農林水産省を代表して見学してくるべきだ。

 私は女脳の仮説、つまり脳幹誇大に費やされる栄養価の為に大脳の成長が形質女性化で阻害されるという脳科学の知見をインチキクサイ高学位偽装の自称知識人よりは信頼しないだけ、文化場のもつ再教育効果へむしろ高い見積もりを投資したがる良識人か偽装された露悪家なのだが、諧謔はさておき要するに京都学派の末端をになう某議員の提出した狂信的仮説、いいかえると国家管理による個別保障制度のもたらす全体主義を愚昧なばかりか害毒であると思わない農学かじりでない。
なぜ博識の士たるべき符合化を施した議員様が、かくある意味不明な農家の政府管理下サラリーマン化を望んだのかついぞ某blogを見渡しても知るよしはないが、似た出自ともいえる前原大臣へ異様な発狂じみた威嚇や降ろし策謀をはたらいた前科は、(これは私個人の批評にとどまる蓋然性のたかい単なる推測だが)おそらく家系のどこかに破産寸前の弱小農家を抱えているといったいわゆる“公家の横領”といういつもの中古論法にすぎないのではないか。
国司の行ってきた数々の資源独占はじめそういう悪徳例は近畿圏には掘り返すほど無限に出てくる。彼らは政商を悪だと感じる知見をもっていないか既に閉鎖的暗黒時代の伝統で鈍化させられてしまっている。
 ひとはつゆしらず私個人は京都学派以来の近畿の学問というものをあまり高く評価していないので、というのも戦争が終わった途端に基礎研究へ嬉々として奮発しだしたという文麿的な戦後の一面をかれらの性悪に垣間見てしまったからだが、つまるところ根拠を純粋な経済勘定から導くなる、しかも権威を笠に政治活動に直接参加するなる大学者にあるまじき堕落破門の徒であるかぎりはアカデミズムの慎重な実証主義側をこの点で強く擁護するものだ。
かれが立派な真理への学徒であったなら、ほぼ確証が得られるまではなんらかの意見ですら仮説の姿でしか提出や保持できない。経営学ですらこの種の実用主義への全面的迎合には慎重なのだ。ニュートンが先取権論拠に用いた様に‘碩学は仮説をつくらない’か、より簡明にいえば間違えならあとで恥ずかしいので決してあやふやな論理は出したくない。

 この一連の検証から私が結論するのは、農家個別保障制度は一時しのぎか単なる農地面積の少ない近畿権益の財政私用による旧態温存策にすぎず、我々の国家の生産力そのものを不自然な我田引水で減衰させる悪意であるということだ。
こういう弱小農家は、かれらが工夫、改良、壮健に劣るという農耕向きではない形質の持ち主なので当然、自然淘汰下でいえば真っ先に消えてなくなる一種の奇形種なのである。
そして社会淘汰の観点に則れば、具体的には衣服の分野での問屋制国際間軽工業化へ先駆けることに成功したユニクロや無印良品といったいくつかの例にみられるごとき強壮で競合能力;コンピテンシー高い新種の方こそ、実に生産力の増強の面でいって我々へ恩恵を与えてくれる、よりずっと褒らむべき変異なのだ。

なんらかの一定の『最低時給品目:ミニマム・バイタル』、すなわち、おもに必須栄養価の分析に則した食料質量の内製を前提として、その権限をこえては奇形化増長にすぎない甘えきった怠農の絶滅ふくむ全面的な農作物の貿易解放をこそ、現行の誤った関税の漸進的な撤廃で進める方が賢い。

この理由は、少数の大資本や大地主のもとに耕作工学を集積した方が国土の合理的な耕作は雑魚を育てるよりはるかに充実した成果や成長につながるからだ。
それが偽だとおもうなら彼は地元駅前商店街のなんの経営努力や開発研究も行っていなさそうな古ぼけた店内の品揃えと価格を、ほぼ同程度の小売り出身だがなお抜群の優等生である産業資本家によりモータライゼーションに適応しなおし敢えて郊外に建てられた倉庫型店舗内の商品との圧倒的出来映え差に、一体みくらべてみた試しがないのだ。
彼らの間に次第に生じてきて結果として人々の暮らしゆきの福祉を増大させた競合能力偏差値の原因こそは、資本主義の原則である自業自得を努力価格差の論理で説明しきるに十分である。

 なおも借金だらけの国債権益にぶら下がってもし戦前に築いた旧秩序の破壊が憎いなど御託を並ぶとかれら京都学派のエセ農学徒が言うなら、我々は少なくとも全国規模ではなく、(東京都は農地面積からいえば少ないことから)共通認識をもたせたりもちやすい関東圏を中心としその他、賛同してきた都道府県だけへでもこの種の汚らわしい政商癒着前提の国司的悪意を侵入させてはならない。
なぜならこれによって気まぐれな観光地以外なんのとりえもない京都人荘園の五臓六腑の具備や充実とひきかえにした(国統護持へ致命傷となる)農業生産力の減衰は、結果としては長期にこの中古暗黒期に等しい旧秩序、もっといえば公家化した頽廃の野蛮人を単なる経済能力の取引勘定面、つまり商業用語でいう「勉強の有無」だけを因果としてでも海外市場との競争関係下で遅かれ早かれ駆逐してしまうのだ。
要するにアメリカと競う中で大幅にレベルアップした東京政権から首を絞められているが往古怠惰に慣れた弱小公家の無産な荘園農地を単なる私有地にするかそれとも国際的金融資本家へ売却でギブアップするかはどちらをえらぼうが至る結末は一つゆえ時間の問題でしかなく、我々が関東武士の勝利を先に見るだけ推論能力が不足していないなら政権上まったく省みる意味なき無駄手間なのである。

Only do his majesty will poetry reason on falling
凩の君の想いぞ歌言葉となる
Mathematician solves la multitudes migration myth
数々の人々をとく髪のおと
Power buzz popular evolves how meanings in
きこゆれば只かなしきかもうつろひよ
Luckiest of the worlds transparent mimicry did
おもしろきことかまねうるかぜ引きよ
Have to do whole sale global cleaning chairman
楽しきはひとり星ふる掃きしごと

無業党

自由ニート党見下していた失業者と歩む
餓死者をみつつも天下る
中国製うりまくってばらまく私税
維新の成金趣味明治博打
海外市場にとりつく大企業
よのなかをみればみるほど中身なし

2009年11月25日

工学

蛍光管の素材を熱にかなりつよい強化プラスチック製にし、叩いたり落としても壊れない状態でつくり、各種カバーで光度を落とす慣習を破る。表面にはくもってしまわないよう光触媒(酸化チタン)を塗装し、多少遠隔からの共振電源でも作動できる様に電源受信部はコア化・汎用部品とし、できるだけ小型にして水没にも耐えて光るしくみとす。

天文学

七夕宇宙系の分布帯式は次の方針で与えられるらしい。
⇔x^2/a2+y^2/b^2+z^2/c^2=1

X(u,v)(x:(R+r cos・u)cos・v, y:(R+r cos・u)sinv,z:r sin・u)
Xu(u,v)(x:-a sin・u cos・v, y:-b sin・u sin・v, z:c cos・u)
Xv(u,v)(x:(R+r cos・u)sin・v, y:(R+r cos・u)cos・v, z:0)

凡例、トーラスと楕円面の式を参照。この式はいわば湯たんぽ状で円環面に主要銀河系が分布する宇宙モデルを示し、xyzそれぞれの座標軸への離芯率をもつ。但し、近似的にはドラ焼き状のかたちで代替できる。理由は当方変移が観察できるから。
 反証。もし二方への後退速度が他の一方よりはるかに速ければその宇宙は円盤化して潰れるでしょう。以上。
 さて、この宇宙系のかたちは次の天体を予想させる。
論証。まずxyzそれぞれの軸をのばし、それぞれをアイウとよぶ。それらにはマイナス座標軸が考えられるのでア´イ´ウ´とする。さらにこれらは引斥力が大きな順にふるとする。ならばアイウとア´イ´ウ´の宇宙系が隣接すると措定できます。以上。
 これらは大きな順に、私の文学趣味にかけて仮に十五夜系、唐傘系、鈴系および裏十五夜系、裏唐傘系、裏鈴系と呼ぶとする。但し、これらの七夕系からの表宇宙と裏宇宙へ変移や離芯率は、熱力学第二法則あるいはエントロピー増大則より同質量の宇宙が存在する確率の非常な低さから、一定ではないだろう。しかし表と裏には反作用則による類比できるおおよその大きさがあるだろう(表裏の相性則)。ところでこういう特定名詞を使おうとする意図は、もし番号を振ると宇宙系は膨大なので後々面倒になるからだ。
 又以上が真ならつぎの予測が立つだろう。まず隣接する中でもっとも大きな十五夜系には生物量の公式から、多くの生態系が存在し賑やかだが、ただしそれらの寿命は短い(光速火薬効果)。我々の七夕系以上の知能が栄えるならこの方角だろう。これに対してもっとも小さい鈴系は寂しく生態系が少ないが、比べて他の宇宙系よりも寿命が長い。移住者が温存され文明間的に発酵や永眠できるのはこの方角だろう。中間の大きさである唐傘系へは我々自身と類似の生態系や同位種が栄える可能性が最も高い。

雇用レベル保障法案

そういうこともないだろうが、サッチャー女史に憧れまくった竹中平蔵氏がしばし金融座右の銘みたく掲げられる某せりふは、おかしな古代人が政権与党にたまたま属そうがやはり眞を穿っており、こちらは冗談ではなく自由主義の原則として、救貧法をのぞくすべての弱者救済の手はかえって国民の怠惰を誤った甘え方へ導くに過ぎない。
(経済のアップルパイは必ずしも大きさだけが食欲増進を誘うとはいえない。そもそも消化能力の違いや胃下垂のばあいも考えられ、かれが求めるのは分け前よりもパーティーを抜け出して月見台で冷めた空を眺めることかもしれない。)

下らないことの様だが、通貨収縮は自然な事業淘汰の面では最高の指令である。

 偽善者は人間の堕落を結果からだけ観察しがちだが、もし物語をよく読んでみたことがある者ならすべて、宿命とは業の結果であると認識した試しがあるだろう。
(光源氏は不幸のどん底で死に、雨の浮き橋は発狂寸前で尼寺へ駆け込む。そういう結末はみな、彼らの自業自得を覚らせるため物語られたのだ。)
 ゆえにもし社会不安のいくらかが増大しようと、具体的には信用できる世界宗教の迫害さえおかしな神道政府が行わなければ当然、十分すぎる慈悲心の発揮は助け舟を出すのを元来の仕事にしたいくつかの宗教法人への無為な委託事業でしかありえないのだ。
政府がこの種の一時拠出へ先駆けるということはなんといっても賢明ではない。こういった筋違いの慈悲は同時にかれら自身が発行した代替貨幣の銘柄を、少なくとも国内では軽蔑すべきものへ格下げする。

誰もに全面肯定できる論拠ではないにも関わらず、某評論家がいう「一律課税方式」による新自由主義の方針は、おそらく現段階で内需をもっとも合理的に拡張できる大胆な政策である。つまり強すぎる累進制御をできるだけ解除するのだ。
それによって生じた流動化した金利の上はね狙いへ伴って、これまで抱え込んできた国内株式市場への投資意欲の弱さ、いいかえると日本的経営の最大の負債である不必要なまでの資本流動の固さ、一部階層への圧倒的な資本の偏りという景気循環の妨げとなっている最悪の保守主義をいわゆる外資の向けかえで破壊できる確率が高い。
特に、私のみるところでは経済力に国際的な福の神をもちこむのは、実際には大部分が大変に金融業への造詣が深いユダヤ系の資本家である様だ。
宗教と経済を分けて考えたこのない人格は、かれらが信教の自由を愛し、ともに少数派であることを真剣に反省してみた方がいい。
(第一次大戦後のドイツの様な社会状況は、現実にはマルクス的階級闘争の結果ではなくて、もし公立図書館さえ全国民へ開示されつづけているなら単純に教育投資を出し渋ったか自ら退けた下知者どもの業であり、我々が天皇制という全宇宙でも相応家格の高き地位におわす方々への模範としての役割を期待までは欠かさない限り、英明な王者や君主というすくなくとも象徴の体面だけは、国民への絶えざる倫理啓発に欠かせない見世物となるのである。)
より単純にいうと、勉強しなかった者が落ちぶれるのは童話的によい社会力学なので、我々はこの作業を否定も除去もすべきでないし、完全に放任しなければならない。たとえそれで可哀相な境遇をみていられない忍びざる者が救貧の生業を興すとしても、なおこの業をも世の栄枯盛衰にかけて放置しなければならない。

 但し、単なる労働風紀の面からいって日雇いや派遣社員など多くの不安定な労働雇用を企業へ安易に採択させないために、法的にこれらの使い捨て雇用策の抜け道を締め上げる工夫が欠かせない。具体的には、政府が支出するのではなく、非正規社員への最低限度以上の社員保障を使用者義務として、改めて明確に憲章化すべきだ。
はっきりというと、試用期間を除いて、『雇用レベル保障法案』の如きものが全国民へ開示された透明度の高い政策立案過程によって、また力強い確信を以って樹立採択されるべきだ。
それは労働意欲を自主独立の心構えにいざなうためだし、努力家とその頑張りを旧来通り愛し、怠け者を冷酷に扱うべしという勤労義務への立ち返りを雇用契約の厳格化の面から全体のアップルパイ配分法益ごと見直すためでもある。

もしこういう行政の新自由主義原則が、英米民度への劣等感のうらがえしで安易な再国家主義化への扇動を行おうとする碌でもない反動形成の子供っぽい叫びに逆らってでも復権されるなら、我々は世代間をふくむ自業自得こそもっとも社会内に発生する不平等を納得させやすい社会機能である真実へ、再びそのしくみをはじめに発見した印度の英知者へ反省の意を評せざるをえないだろう。
 直接的には欧米全体、及び耐久消費財の需要減衰を迎えた中国や一部ユーラシア大陸権益の中でもっとも、情報産業化後の経済的分け前を確保したのが、かくある原則をやはり継続して採択してきたごく少数の超自由主義諸国であるのを、いまなお限りある人知には疑えないのだ。
自然のぬしがそうした様に、人類はできるかぎり社会の中に多様化した生態をよびこむべきだとこの国際資本の大幅に偏った移動後の必然はだれもに実現結果で示すであろう。そのとき格差への偏見は収まり、逆にある国柄や個人、家庭への、黙々と努力をつみかさねてきた富裕な人々のわすれえない勤労の習慣へ伴う地球的な崇敬語となるであろう。

2009年11月23日

昔はきっとそうだったんだろう
If older than, ever liberty everything
君だって分からない筈ない
You didn't know that, over him engagement
気づいちゃいないだけ、ただ
All things will vanish ever, and that
なにもかも虚しい
Our language couldn't take an act
だからってどうせ、君は冷めた振りをして
But of course, not to say in the end, may
あらゆる嘘が風にのって
All breezes on the weather field, flow
まことの夢をみせるのを待て
Watch there are, some over the wondering dreams
まるで戦いに飽きた侍の様に
Like a samurai in the warship, above the danger
風の詩を聴け
Hear the winds breathes

情報法義

情報の非対称さは国家間にいたるとき最も甚大な被害を及ぼしがちらしい。この離れは現在では軍事技術間になるとき最もあやうい。乃ち公益に類する隔離、国八分化はその国家体制を世界の大概の軍事literacyからひきはなすため、そうでない強化済み媒体より競争力を削がれがちである。強化された、とは情報媒体にのせうるその量に依存し、情報のばあい質とは単位量に還元できるので、結果、最高に強化した媒体とは同じく最高の伝達である。
 乃ち情報の非対称は伝達媒介力により、又それは媒体のもつ単位情報量による。ゆえ軍事に限らず国家の最大の安全策とはこの能力を文化場ブンカばの内にできるだけ確保すること、技術の可塑を含むやりとりを可能なだけ自由に放任することだ。反証、たとえば滝川事件と情報統制がいかに国家内で当然起こりえた技術上や思想上の進歩を妨げたか。
 戦争の潜みを失わすにはその国家間の情報流通を最大級の自由にする可で、なお言葉の壁はのこるが、これが一国家化を阻む慣習差につながるので競走態勢の維持として、人類の民族間変異のうちによき遺伝か進歩した文化を擁護させる。つまり生まれ育ちのつよさを保つ。ゆえ悲惨さの極限たる侵略型や報復ぶった戦闘的威嚇を防ぐに、できる手だてをこの国家主義権力への抑制とした情報の自由か自律と呼ぶなら、これこそ我々が今知る潜みへのうまい国際除去措置となる。いわゆる私的所有域にかぎれば、いかなる情報を保有しようとそれは自律に任せらるべきなのだ。世界ではいついかなるときにこの熱狂的御宅が救世主に転化しないとも確約しえない。対して、福祉目的に背く商取引についてのみ商道徳面から権力介入は可能で善意となるのである。
 理想主義を政用に省略すれば、少なくとも計略上協力の方が知的であるときのみこの国家との情報流通の解放は頼もしく、そうでなければあし。ゆえ現実面では、巨視へも国八分目は現段階では最善なのだ。つまりつきあいたくない国柄とは情報をとりひきするだけ損や害になる。裏も信ぜる、乃ち情報取引に損害なく利益ある国柄、かしこき群れとは付き合いたいかまず是非そうたる筈だ。

濃淡漠無明曉
暁よ濃き淡きかも明るみなきまま
様子實回天葉
まことしやかに天駆けまわる葉の様子
在住畤際嚮沺
田にみちし宴のあとかさむき藁
怩丹駛魁喀朗
さきがけし客うどありしやぬくき椅子
贅贅斗税賣蠹
しみもなく時を稼げるあきの本

2009年11月22日

Kieru

They'll never believe to the one
They wa one e mo never believe daroo
Why you didn't see that one, him
Naze you minai one wo, him wa
Obvious modesty, how should amazed
Obvious modesty, how amazed subeki
One. them, really never forget here
Hito ka, them, makoto never forget here
Because this all phenomenon will be
Nanode this all arawale wa will be
Vanish
Kieru

人知

萬國萬象内唯一不動
この広い世界で唯一つ動かぬもの
無明之境貴君不明
だがあなたが見えないもの
贅語不十分
贅沢な言葉だと思うかしれない
是丁寧之眞實
決して嘘じゃないのだけれど
既定茫漠砂上獨邇
あなたはもう失った砂漠を
喪失感而浪士之下野心
どこでも見なかったのだろうか
罪悪感而悉皆俟
罪深いことにどうせ
是愛慈愛内蔵奈乃美麗無乂法帰結俟
アジアのぼやきだと嘆くのだろうか
小子拙止不得邇
私は小さな島ぐにからでも
空地畭恕乎側一輪之花
彼らが空き地に咲く花の声を
看過个讀不得信邇
聞き漏らさないことを願う
語大哀充實際而乃
それが語りかける真実は
四海未踏已然亊難邂亊
すべての人知より難しい

唯一神の信念

虱潰しの論理である限り全て哲学的な言説というべきもの、さらに書き下せば評論界とは、より数学化された諸学としての科学的知識より、つねに真理の関数では遅れる。私はそのことを忘れた訳ではないがなお希望を捨てたわけではない。ウィトゲンシュタイン主著冒頭の有名なせりふ、 「語りえないことについては沈黙しなければならない」とはもしかすると神の言葉の比喩かもしれない。つまり我々は神の智恵というべき至善の理念から何事も引きだしえない。
 最も極限での完全な知能を想像すると、またそれは絶対唯一神という仏教を除く諸宗教の帰結が、この無語の領域への精一杯の言及の試みであったと振り返れる。そして人類の末端が学問によって得るのは、語りえない領域を最大級に低減させようとする自然体系の総計画の意味を考えた結果であり、またなぜ合理化の作用が自然理解自体とは別の領域で確保さるべきかの訳でもある。理由というものは理性にしか作り上げられない。これがウィトゲンシュタインが辿り着き、また古代ギリシアをのりこえたカントから流れきた大陸合理論を現代につなぐ根本の命題である。
 およそ理想すること、自らの理性という能力で得られた知識群を結び付けつつ世界の理由を考え出すということが哲学の本職であり、かれが道徳をもつと云われていい本当の訳だろう。単に科学的であるだけでは永久に道徳は生み出せない。それは知識相互の比例関係を詳しくてくらべてみてこそわかることなのだ。たとえば昆虫類界や爬虫類界では競争関係が最も合理的だとしても、のちにダーウィニズムとよばれる弱肉強食の全面肯定論とは違い、ある程度より高い社会性をもつ生態、特に哺乳類では協力や協調がいかに多元に及ぶ集合の利益をうみだすかを知れば、我々自身がどう生きる可かという倫理の確信も着実に、単一の知見による拙速を戒めるに足るものとなる筈だ。八百万やおろずの神々という和語が示す多神教の風土はいずれ、他のより厳格な思想の侵攻で過去のものとなるだろう。忠義や博愛を至上理念とする幾つかの既存宗派はこの流れを強力に推進する。そして無言にのみ善意の極限がありうる、という誤った言説を最小化しようという分析哲学の悟りは、仏教での縁起説に於ける神概念の回避をふくめてなぜ実証できない対象を語らないかに十分な論拠となるのだ。これらの概念はどれも理由づけでしかなく、無論それそのものは説得論や方便として高い価値をもつのだが、対して真理としての森羅万象の比例にくらべればやはり特殊化された、一人ずつの信念に過ぎない。
 だから、私は全宇宙系の中心付近に御座すはず全知全能の唯一絶対神という、想像上最高の理想を決して他の中途半端な神達やそれに類する偶像とは別に信じておくのが今日でもなお、道徳に無限遠の可塑性をつけくわえるがゆえに善意であると思う。但し、この実在は信じうるのみ、或いは特定の知性に論証はできるのみで、永久に実証はできない。なぜなら神とはまったくに我々の知覚に類するほど卑俗ではありえないのだ。もしこの理念の中味みなを知った者がいるとすれば、彼はあらゆるかそれぞれの精神の中ではおそらく最も神にくわしい、という理論家の称号を附しうるにすぎない。
 多神教とは低次限か曖昧な侭の、一神教に対する部分集合である。日本神話の中にすら天照大神あまてらすおおみかみの初源がみつかるか解釈でき、また仏教に於ける仏陀とは単に神以下の生態内での慈悲深い学問求道の師にのみ適当な概念であるだろう。各種の低次神とかいう概念は、どれもこれも精神と読んでおくのが適当だ。そうすれば絶対唯一にして全知全能という神本来の意味が失われたり忘れられることはないだろう。すべて、至善の実在へのまことよりほかを述べる者は彼らが目標と定めた中途半端に堕落した生態に安住する傾向を免れず、よって神への道から自ずと戻ることになる。だから、より高い知能を遺伝や文化か生育のうち雪だるま式とか等比数列的に得られるのは確実に、選種誘因をこの偶像軽蔑の趣きとかぎりなく合致させえた生態系だけだろう。

豚の衆

裁判員罵倒で裁く己れども
契約の自律を差し置きつかう放送法
電波にのせた大奥で清教徒から搾るNHK
金に目がなく財産と住居を侵す悪魔ども
拒否しても拒否しても拷問しに来る成らずもの
法を逆手に弱者を虐めはべれり
殺人犯イケメンと言う豚の衆

2009年11月21日

Enthusiasm

May be you'd say everything
Died, more over them, came back
Here? If we'd
Never listened this whole joy?
Maybe, for me that everlasting will
Cheerful phenomenal readings do
Why you can't see, that everything will
Dye, or something be that here will
Enthusiasm
なぜきみはみながしんじゃう、どころか、
もうかえってこないという? もしこういう
どんなたのしみもきいたことなかったとしたら?
ボクにとりおわりなき、はげましにみちたよみごと
さえなされれば、なんでもそめてしまう、
くるっただれかをこんなとこでもきみは
みなかったわけ。

日立

日立蔭了欣 誠実味蓬榮
艸艸胚上品 海瑛隱陸璧
開闢無下賜 切実豪快馳
昧昧択良禽 無二大蓬莱
日は立ちかげよろこびにおわ
誠実まことしさ蓬にも栄えを味わう
草々は上品なるを胚し
海あまねくしてたまわせりかの隠陸こもりく
開闢カイビャクより下賜カシされしことなし
切実にして豪快に馳す
昧昧あやふやながら良禽リョウキンは択べる
無二にして大いなる蓬莱を

科学知識や知ることは自然界を、社会を含むそこを今よりずっと詳細に認識できるだけだろう。ここまで私が試行錯誤してきた哲学の命題、それは総合するという科学知識への注解だったのだと今では分かる。つまり哲学は既存の知識から理由づけによって、自分が生きる為の意味を作り上げる過程だったのだ。そして総合した知識量が異なる限り、生きている人類かその知能の数だけ哲学というもの、いいかえれば道徳度というものもあるのだろう。古代の哲人、西洋ではソクラテスやジーザス、東洋では仏陀や孔子、中東ではムハンムドやオマル・ハイヤームの様な人格も、彼らの名を現代の私に届くまでのこした理由こそがこの総合した知識量の程にあったといえる。
 科学者と呼ばれている人々か個性というのは、自然全般のどれかについての学の一分野に特に秀でているのが普通だろう。対して哲学者はこれらの保有できた総量の方に特徴があると言えるらしい。このおおよそ二つの学者の型は、また現代のひまの少なさでは希にもせよ重なるばあいあるとして、決して敵対関係ではない。彼らは、専門の通暁と、比べて広義の教養というあいことなる利点をもっている。
 自然学そのものに後自然学か形而上学が代替することは結局不可能だろう。私はこのことを、社会学の戦略論での規則から理解した。いわゆる最少最大の法則とよばれる考え方は、虱つぶしに探索するという試行錯誤型の論理作用を、保守的な観点もしくは急がば回れの徳律から擁護している。哲学が能率のわるい計画だとおもう者は、それが役に立つ知識ではなく、ふかく納得できる理由をうみだす作業であることをしらない。たとえば庭作りの途中で清掃だけをたのまれた者は苦労して苗を植え石材の配置を何度もおきかえて考え込んでいる業者を能率の上ではそれほど賢くおもわないかもしれない。実際には、この庭師は明らかに全体計画の意図を設計者ほどではないにせよ、また全宇宙に及ぶ世界の計画主ほどではないにせよただの賃金をめあてに部分作業だけ足早に終えた者よりも理解しようとし、また仕事が成功すれば理解できる。
 私はこれらが役割の違いであり決して究極の格差ではないとおもう。なぜなら、もし最善の学習者がいれば、その個性は自らの意志によって部分に飽き足らぬこともこまかな作業に加わって細部を改良することもできるのだ。哲学が時代遅れになるとか、無用になるということはついぞありえない。それがもしあるなら、道徳が不要となる社会性を失った生態の元でだろう。知識相互を比較検討しながら批判的に、つまり一分野だけが突出して他を侵さない様にまとめて理解或いは総合判断するということは協調の原理であり、別のいいかたをすると知識体系への補強の作業を主義とするということだ。完全な神の元では完璧な真理がみいだされると仮定でき、そこでは当然のことながら一切の矛盾は起きないと思われる。だから知能が不完全か未完成で、おもに連絡や交換によってしか高い効率がえられない段階では、即ち文明の知的段階では、残念ながら哲学は神の地位への理解を深めたければ最善の手段たらざるをえない。もしそれがどれほど効率わるく面倒で、大変に煩雑な長たらしい試行錯誤を経由したとしても。
 以上から私がいえるのは、哲学にとって最高の成果はそれが総合できる理念だということだ。解釈界となづけられてしかるべき分析哲学による口文や異民族言語間の様々な分解は、結局この理念の深さを、趣の高さをつくりあげられるにすぎない。そして既存の語句か造語かはしれないが、哲学にとってその教養体系内で最高の貢献とは、万古から永劫の未来まで変わらずに通用する様な趣味を現段階で最高度の深淵さへと還元すること、この世界に於ける深い味わいをできるだけ最短の一語でみいだすことにある。なぜこの様な作業が行われるかというと、それは最もよくまなんだ者が知りえた世界観をできるかぎり広く長く純粋な侭で伝えるべし、という啓蒙論の為だろう。単純な様だが、古聖によってこうして発掘された愛、無知の知、慈悲、仁、絶対服従あるいは忠義、天国と地獄などの理念はその考えが彼らの悟りをへずして記憶されつづけたとは思えないほど何気なくしかも意味複雑なので、もし彼らが強い個性で理想を鼓舞しなければほとんど無限に近くあるだろう語句の海のなかに埋もれて、今日までその重要な意義が見過ごされたはずだった。
 私にいえるのは、こういう不完全ながらも最高に近い世界計画の理想をかれの哲学の総合学識度からみち引きだした最短語句で記憶させようとする試みは、すべて神の似姿への努力か少なくとも世界への分かりから訪れるものだ。だから究極の唯一絶対神のおもいを悟れない間はみなそれらは仮設計画論にとどまる。おそらく全能の知性を想像できるのは古今の地球では人類だけだったので、この唯一神意とでもいう可ものは初めかれらには納得しがたい不可解や悲惨なできごとを合理化や正当化するための方便として朧げながら知覚されたものだ。私が現時点で知っているのは、この絶対値は各宇宙系のさらに中央というものがほとんど無限に探りうる世界構造からいって、唯一神は我々の前に姿を顕すことは先ずないだろうということ、そして全知全能が様々な物理制約に囲まれた現世で到達不可であるのはあきらかだから、少なくとも博学万能を人類からのぼってきた生物が希望するのが今日理想できる上限だろうということだ。暗黙の前提として、精神力という使い古された語句で我々がみなしてきたのも同様の、仕事量とはことなる力のつかいみちの概念だった。ここから、博識と才能をのばす力を単位として精神量とよぶのは将来あながち非科学的でもなさそうだ。

2009年11月20日

経済学

英人M・スペンスのシグナリング(符号化)理論のもっとも主要な誤りは、おもに学歴獲得用の費用が各自や各家計で異なるという、教育投機への資本金の社会的不平等さを無視か省略した前提として論を進めていることにある。つまりそれはケインズと同じく選良主義の偏見(俗にハーヴェイロードの前提条件といわれるそれ)を前提に置いている点で、通用する範囲もせまく或いは資本主義内での貴族趣味、紳士の理屈に過ぎない所がある。
 具体的に、この符号化は同一の努力、たとえば学習過程を大幅に試験用に省力化できる学習塾の様な抜け道を利用できるか否かといった世代間所得からの投機資本の度合いを無視した段階での努力個人差を絶対視するものではない。いいかえると、大して頑張らなくとも一流の進学塾講師から秘伝を授かるお坊ちゃまお嬢さんと、ほとんど泥沼的家庭で貧乏子沢山を地で行く煩雑さの内で黙々とだんまりを決め込んで無償支給のチャート式を解かねばならない生徒とでは、明らかに意図もしくは学歴用初期投資が異なる。ほぼ装飾としての符号化は、実質は富裕団の資産増徴の結果であり、「実学」なる東洋語彙が示す最小額での最大成果の学習(それはプラグマティストの姿勢だ)と異質なばかりか目的を異にしている。つまるところ、シェークスピアとディケンズの教養はその獲得に費やされた額のみならずそもそもの出版が、経済学の主要命題たる福祉効果の合理性かそれとも経営学とか商人のてぐすね引きとか呼ばれることも屡々なうまい稼ぎ方のハウツー読本なのかで趣が違う。善良な婦女子に好まれるのがどちらかは今更いうまでもない。ここで私の論破が雄弁に過ぎるとお思いの方は、スペンス氏が巧く最少の努力で最高の符号化を施したことを疑うべきではないだろう。それも伝統に屈せし偉大なる紳士の徳かもしれない。
 つまり、私が批評家風の観点からより現実的な理論を提示するなら、逆符号化論、即ち生物学に於けるハンディキャップ理論を人為社会へも少なからず適用した学歴の負担化理論も当然考えられてしかるべきだというのである。この負担は、たとえば上野にある某神社への坂に二種の粋な計らいがあること、つまり男はより険しい道をえらぶことでかえって自らの努力係数を誇示できるという町人なりの道徳は、彼らか彼が同一の結果的仕事を為す上で最少の符号化を練ってからそれを行うとき、企業内合理性ではなく社会福祉の効用面では最大の外部経済に繋がる経験則からきたのだろう。
 もし符号化理論が初期投資の不透明や不平等を可視化できていない欠点から、経済学に於ける微視な内的合理化の文法に過ぎないなら、なるほど部分最適化には適うだろうが、これにすなわち負担化理論というものは少なからず有性生物界全般と共有できる巨視の規則をもつことになる。なぜなら学歴ではなく学力を、装飾ではなく質実を、華美なネクタイではなく燻し銀の心意気をより趣味が合うとみなす精神は決して功利性を無視した訳ではないのだ。たとえば不治の病にある少年が希望をみいだすのは生まれながらに最大の初期投資を約束された主ではなく必ずやできるかぎりの配慮を払って努力家の面を隠蔽する側へである。負担化理論の効用の関数はそれが符号の及ぼす企業人事内の心理戦を十分熟慮したものであるが故に、符号化のいやおうない趨勢であるプラグマティズムへの援用、直接には議論ごと回避されるはず努力の価格差を単なる日本的経営の古きよき側面を超えて直属の上司へくりいれさせるだろう。

2009年11月19日

焚き火

寒暑さえともに過ぎけり秋化粧
ストールかマスクか知らぬが秋化粧
季節すら次第に追いたつ散るもみじ
もじことばしゃもじに遺れるいつの日よ
山のうえ一筋のぼれる焚き火あり

浪速

浪速のいなにわうどんでいっ
やだー空気読んでよクウキなんだスモッグか
中国人万歳全世界飛散
なにすんのよオッサンここは東京砂漠痴漢は冤罪でしょう

神類の想像を超えない論証

世代間変異の向きは、人類にあって今日迄に展開されてきた歴史様相では彼らが国民国家の単位でいかにその暮らしの知的合理化を果たすかで測れるらしいことを省みると、文明論への批判考証としてたとえばレヴィ・ストロースの万民平衡的視野の間にまに、また所謂仏教からきた慈悲の理念は、対する経済という日本語では経世済民なる救世概念の、他方で輸入されたeconomyつまり支配という語趣意との翻訳触媒として生まれたその言葉のもつ意味に於いて、我々にあって西洋圏とも米大陸とも違う一切衆生との福利共生という含みを単なる市場効率をこえて胚胎させる。これは経済を経世済生、即ち世を経て生きものをすくうという一つの日本的な概念へと高める道が、他のどの圏域よりも先に神道の国統を含めて、自然崇拝や自然愛顧の感情的基盤の上に可能であると教える。
 芸術、少なくとも古来の意味でのうえるという植栽の術、つまりそのの藝というものはこの達成のためには最も神の命令に忠実なこと、我々がrecreationとよぶ生業が全てもとの神ながらの計画を完成させる唯一の道であるらしいことへ、調和という概念の自然と人為の関係の適度さを穿つ文脈から示唆を加えている。例えば究極の崇高さが自然畏敬への自己反省の念から生ずるという、カントに於ける精神論の本質は、実際にはこの自然という我々以外の全的知能による創造物とみなすほか仮にも解釈の仕様がない無限の宇宙界を、その中で藝に遊ぶべき生き物どもにとっての神からの楽園の恵与として捉えたとき、孔子が最高の完成と考えた人格の境地と同じく又、決して既得人類界にあって理想状態が東西で違うものではないと生来の調和を感じる心情の尊重から、天才論か天性論によって擁護解説する。
 十二分に繁栄された経済界が形づくられるなら、それは藝術の商化が一切の人格主義の理想と限りなく一致させられた世界に於いてだろう。そしてその世界では、消費的進化にまつわる生態的上位種の変異も、艸刈り効果の一般解と近似して現実に、各生態系内で異種の多彩化に一役買うのみのものに過ぎないことだろう。が為に、選好の消費序列は人類やその末裔へ向けて、優先種への経済的哺食を肯定させている。だが人類がひとたび競争的飽和で最低でも地上世界の最優先種となってしまえば、既に彼ら自身の過剰消費による、それ以上は殖えられなくなった適所内が終末での過当競争的共食いや資源不足にまつわる絶滅を誘なうだろう。これは戦争や飢饉か恐慌と呼ばれるが、もし彼らの内ある一種か集団が、自然畏怖を維持した結果ほかの群生とは違い藝術の本質的意図に忠実か少なからず肉薄であったなら、その生態は言わば共生的な最適化もしくは適応の隙間効果で当生存ごと保障されゆくだろう。そして我々は人類という生態の侭ならいずれもこの藝術優先種としてしか保存されえないのを観るだろう。最も原理的な狩猟採集か農村共同体として人類の最優先種は僻地に取り残され得る。彼らが哺食される割合は、遠い将来の変化した地球の環境誘因がどれだけ強壮な生態を育むかに依存し、おもとしては寒冷化か品種改良に基づく身体増大と、人類以降の種分岐後の競争力強化の度次第だろう。
 全知全能という理念は人類がその容積に依存した知能で万物の創りはじめが有り得ると想像した限りで伝達された理想なのだから、ある民族状態内で最高のかしらが少なくともこの理念に、最も近しい何らかの考えを得るのは確かだ。もしも当仮説を撤廃して世界は創りはじめられたものではない、という近現代物理学の主流を道徳哲学の面へも引用すると、古代ギリシアからカントのいた中世へと流れきた神という絶対の仮定は、このかしらの考えを神秘化したもの、つまり知り得ない事について無知で居るべしという古代哲学の教えが超越論的仮定という概念の枷を彼の理想に填めこんだものだ、と分析する程度が妥当だろう。
 以上から考えられるのは、神という仮定に漸近することは実現面で可能なばかりか、それは究極段階では確実視できる未来ということだ。具体例に即せば、知能容積と社会現象ふくむ自然界学習の限度がその侭、彼が神格と自ら名付けた所の彼自身の理想像、要するに知り得ないことなく為し能わないこともない境地への道なのだ。さてこのことは確約できる。人類に留まりたがる者は留まるだろうが、神への道を辿りたがる者はやがて神へ至るであろう。そしてこの両者はいちど道を違えれば永遠に交わらないだろう。進化が系統的であること、まったく同じ種の復活がありえないことは進路選択の失敗か脱落は致命的か宿命的であると教えるのだ。
 全宇宙ではつねに有限の向こう側が漸次見つかるという道理は、無限という概念が神内序列を設けることを論証している。上位神と下位神とは理解できる計画量に於いて違いがあるだろう。そしてそれは実質、彼らがどの引力場に引き付けられた星の子かという生まれに依存している。もしある宇宙系での中心圏と周縁圏とをみ比べると、それらの宇宙系ごとの育みうる生斥力の大きさとは別に、周縁圏では計画量が低い代わりに高速な知能すなわち敏捷な形質か高い再生産率をもつ生態が、中心圏ではとてもゆっくりとした育ちだが極めて甚大な計画量をもつ神類が生きているだろう。彼らは人類とは異なる生態と社会か個性の秩序を持っていることが殆どで、この高度さは系統発生の繁雑な経緯に依存する以上、できるだけ大きな銀河団の最も主要な恒星での適度な衛星内でのみ文明化流率に応じた栄えの光を魅せている。
 そして我々の将来についていえば、現在観測できる範囲では地球は天の川銀河団の周縁圏に過ぎない様なので、それよりも大きな銀河団の我々が計画量として持っている天体知識の少なさから言って、できるだけ七夕宇宙系の中心圏に近い他の文明場に属する賢者か神格に習う事でこそ今より遥かに進んだ、単一星内人類系統のみでは辿り得ない文化の手法をこの惑星の生態に摂り込めるだろう。地球外への連絡に関して神がその名に値するだけ十分に知能が高ければ自然界の意図からして哺食の必需を超えて異種と争うことは先ず考え難いことから、我々かその精神的末裔にとって少なくとも動物段階か優先種状態を抜け出していない生物間の競争状態にある野種がいると見える場合には、いいかえれば某文明が脱遊藝でない状態らしいならこの種の属する中途文明場か夷狄途上場とは接触しない方がよく、仮に必要があれば確実に一瞬で殲滅か征服できるときだけだろう。結局、脱遊藝とは彼ら又は彼が、理論以外を目的としている集団とは変異の度や集合性に於いて、国民国家以上としてまとまった到達観をみせていることだ。神の目には理論以外は機械の仕事である。生物機械論はこの本能設計面で真なので。当表徴は情報量の珍しさで高い可逆率のゆえ他の一般経済圏や自然的文化より隔絶か遊離しているだろうから、より単純に、文明の整理度とも言いかえられる。藝術がではなく、藝術の中の整理度が神達、随って理論集積の適所として相応しい。
 そして全世界を見渡せば想像できるかぎり最上位神というものも、おそらく希望があるだろう。それ、或いは彼のありさまは知能のよさに依存し、全宇宙圏の内もっとも中心に近いどこかの衛星で計画量の極限を支配している。それ、というのは究極全知全能性は我々と最小の類似しかもたないかもしれないから。

ナニモデキズ
ヒタスラカネヲタメ
ニヘラニヘラトワラツテヰル
ヒガシヘユケバデクノボートヨバレ
ニシニカヱレバブヾヅケドウドストヤラレ
ウマニノレバオチブレ
クーデターヌシイワクラトモミヲソンケイシオサツニシタテ
アラユルテロリストドモヲエイユウシヽテハ
トタンニヒルガエツテミトミツクニコウヲケイアイス
キドツテヒゲヲハヤセバコマラレ
アメカゼニメツポウヨワリ
ホンノナグサメノナヱヲテサギヨウデカリトリ
コンクリヰトノサバクデヒトリダケミドリデカコマレテヰル
サフイウモノニワタシハナリタクナイ
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經

先端工学からの高速道論

高速道路無料化への臆病は、民衆が渋滞を心配するところからくる。なぜならいかなる人間でも只を喜ばないことはないのだ。
もし全てが無料になった世界を想像すればいい。

 だから、おもとして渋滞緩和対策を事前に十分考慮しておけば、この決断はすべて結果的には社会に大きな福祉効果を用入る;もちいるだろう。
たとえば船舶や飛行機の熱機関効率がいかに自動車よりも改良の余地が少ないか、いいかえると――鉄道網の上に施設できるピストン輸送機としてのリニアモーターカーを除けば――国内移動の最高速度を容易に達する手段があきらかに、自動車の高速化と高環境効率であるのを、工学者には確実視できる。
(最も進んだ段階ではチューブ状にし内部を真空近似状態にすることで空気摩擦を最小化する様な、「高速道路網の進化」こそ輸送能力向上の現実味の高い未来であるのを疑いえない。
しかしさらに進んだ段階のテクノロジーでは、量子転移という物理的効果を利用した光速度により近い情報解析輸送がこの他に現時点でも十分考えられるが、こちらの実践には人体よりも機械化された身体の方がはるかに再構成の可逆化率にまさるので、いわば人工知能で心理化された、ロボット・プログラムの移動方法にしか決して適合性が高くない。
‥具体的にいうと低次なドラえもん級のプログラムならほぼ瞬間に大距離を輸送可能にはなるだろう。だがのび太級のかなり生態的上位の生物体になると、あまりに転送情報量が多いので空中にチューブ化された高速道路を通った方が単純で速く精確に移動、又は原形のまま別の時空間へ再構築できるはずだ。但しこの例の場合でかなり遠い銀河間規模なら、時間分の費用はほぼ等価となるだろうから除く。)

 これらから我々が現日本人の世論を納得させるには、たとえばアウトバーンの様に車線拡張か、それともレインボーブリッジ状に積層させた高速レーンを新たに設けるという「ETC有料版の超高速レーン」を新財政支出としてたくみに経営すること、つまり『超高速路維持計画』を工期上実現可能なレベルで建設国債内で確立できれば、将来インフラへの準備をふくむ景気復元力、を土建屋のコンクリート・マニアさに吹っかけてとりあえず期待できる。
かつ少なくともこの新設レーンではそれが直線状を主義とするのであれば、一般スポーツカーで危険ではない限界速度、おそらく200km超までは許可できるだろう。
…但し、素材としてのコンクリートは持ちが悪い欠点があるので、近未来の建設業ではいわゆるリニアモーターカーの家庭用自動車単位化がとうぜん技術可能性の面から起こりそうなことからも、超高速路の新設路面は強化プラスチックかなんらかの合金がいずれ基礎素材となる。なぜならこの車体は重力に依存して静止するのではないから。よって、進取政権にまつわる今度のコンクリート製の一時拠出金は、それがあるならだが、飽くまで機会費用にすぎない。

つまり、ピラミッド計画者に類比しようとも、このコンクリート版の高速道設置費用を永遠のものだと考えるべきではなく、いずれは「人工地盤」として使える様なできるかぎり土に近い範囲でのみ、いつ造られたものなりとも基盤施設性があるだろうこと、これは以下で詳しく説明できる。
‥もし空中路面といういわゆる脚付き道路をつくれば二世代を超えることなく自然風化し無用のものとなるうえ様々な破壊処理費を負担させられるだろうが、仮に一般のアスファルト舗装と同様にはじめから接地路面に近づけて造っておけば、破壊した石材を上から拘束か打掣:ダセイかしておしかためるだけで、べつの空中に張る新型超高速道を建設する際の足場用の、基礎材の費用をいわゆる世代間の固定資産として人事省力化に援用できることだろう。

2009年11月18日

志の他なにも持たないとして

糞みたいな東京の町で
全国から集まった糞みたいな集会をひらく奴ら
それを蟻みたいに寄ってたかって
ゴミみたいな姦淫罪小説屋都知事を選出し、やることなすこと
お下劣な猥褻物の違法販売だけ。君らが見てる
東京人など、昔っからその程度の生命体だが。
何を美化してんの? 見たこともないくせに
僕は見た。家康に就いた江戸というものの末路を。そして
そこには馬鹿しかいないことを悟った。
消えうせろ
地上で最も低い所に蠢く無数のお荷物どもめ
だが彼の声を聞く者はいない。
世界では権力を振るう愚物類が、次々
戦争で弱者を叩き殺していった。彼は、志の他
なにも持たないとして
次々殺されていく犯罪者を見ながら、皇族が、
権力者と呼ばれる武器を支配した大金持ち共が
いかに俗物かを批判し続けるだろう。

政治学

自然的有性生殖という形態がそれ以外の人為よりすぐれる大きな理由は、美醜に関する中庸の規則が働くことだろう。もしこの制限、つまり審美的な選好の潜在された全体規制を撤廃すると、まず極端な速度で系統から大きく異質な形態が生じる中で進化についての目安としての統計的変異を失う。次にこれは、又最も危険なのは寧ろこちらの点だが、部分誇大化の傾向を極端に進める内に先祖との類似点をより多く速く失い、結果としては審美性や能力に関わらず母集団数をへらすのが明らかだろう。
 分けても自然的有性生殖での最大の利点は、実はその形質改良の緩やかさにあると思われる。だから共通の遺伝の池をもつ集団が混み合いを相互比較によって促進するという群生のことわりも、この形態にのみ忠実に機能する。
 もし母集団数を期待しなくてよい何らかの遺伝変異を誘発するべき場合なら、自然的有性生殖以外の方法は選種の上で幾つもの利点をもつことから正当化できる。要は、意図的品種改良の手段としてのみ愛以外の不自然か人為の配合は遺伝知の上で合理なのだ。人類自身へこの意図が合理的かは結論されていないし、仮に真と認められるとして我々が母集団の数量を一定より保ちたければ必ずや自然的有性生殖、つまり自由恋愛の極めて高い再生産率を社会統計面でも採用したがる。もっと俗なかたちでいえば発情期に繁殖させるのが動物をふやす骨である。
 特定集団か階級の経験則や教訓により上記の論証を実現したがる者は、選良化の副産物を推して良かれあしかれ引き受ける。つまり自ずと少数派となる道を辿り再生産率を自主抑制するのだ。一般に、階級化誘引の高い隙間が進化場であると仮定すればこの進歩に逸る一味は、いずれはその他の群生に編入されるのを待つだろう。我々が選良嗜好を例外とみなす訳はここにある。よって社会学の営みの上では貴族政治という特定団の支配権はやはり例外期に当たるので、安定度でいえば民主と皇帝をより選択しがちになる。もし有性生物の発生期に起きたろう系統発生史へ類比すると、最も活発な細胞が精子という多数派内の選良を、また最も鈍重な細胞が卵子という少数派の母体を担った淘汰知の帰結は、社会力学や歴史運動とでもいうべき人類間の性選択(いわば政治淘汰)についても同じかもしれない。
 以上から私が結論できるのは、政治社会間には次の経過がつねにくりかえされるだろうことだ。一者は民主化し、他者は皇帝化する。そして進歩した個人を導き出せるのは民主政の自由の下でだから、つねに皇帝政はその新たな集団に征服されるであろう。だがこの中途ではより大きな皇帝権を担うに成功した母集団の数こそが、盤石の地位を占める役割を果たすであろう。もし貴族政治の余地があるならその社会では階級化が進みすぎた為、他のより自由度の高いか群生の数に優る民主か皇帝の権力に支配されゆくであろう。
 こういう政治力学が最終的に生み出すのは、最も進歩した自由化の世界と逆に、想像できる限り多数の同一種群生だろう。そして社会進化についていえば、政治の最終目的は一国家という単位でこの系統発生の内部化を完成させることだろう。たとえば、今日では間接選挙による代議制度から始まる一連の手続きでこれを行う全経過が、母集団内で最高の能力をもつ個性を代表として立たせるのを合理とみなす慣習が、如何に国統の象徴を一座の華とも人生不動の目的ともするのかをみるがいい。人類が自らの地位をふりかえればやがて、彼らの内ある者が個性の発生過程の中に上述の内部化、即ちのべ伝えられてきた国統を身に修めているのを知るだろう。そして英雄という古代から最高のものと信じられてきた雄性形質開花の誉れが、いかに自らの欲する原因存在乃至起源として機能したかをまざまざと実証するであろう。

文化論上の善

同一の時間流率を一方が知識あつめに、他方が道徳的内省に費やしたとする。この両者の間には同傾向によって、時間がほぼ同一の引力場内だったとすると進歩と保守の触れ幅が次第にふえる。
 もしこの個性が大幅に異質化し、また空間の隔離で変種化を経過したら、種分岐も起こりうるだろう。だから、我々が宗教をもつこと、そしてできるだけあまねく通用するそれをもつことは進化、その連続的過程のうち少なくとも社会内変異の原則的趣味化にとって必須なのだ。つまり人が宗教というやさしげな趣きすら失うならその個性は、道徳の退化に伴う様々な弊害をさける為には特に保守の論理を維持する能率が哲学という手間ひまなしには達せないのを悟り、内省の時間を余分に設けざるをえない。
 宗教を無化しようとする社会は知識あつめの能率が阻まれる。いいかえれば学習に遅れる。この論理が真なら、宗教間の学問、つまり文化論はそれが常識化されて恒常値として高いほど当社会の学習能率をよりよくする。
 宗教同士の論争や対立は、みな無意味だ。それをする個人は、道徳哲学の上には偽装がありえないこと、最も合理的な社会規則しか真理とは呼べないことをしらない。
 もしその個人の道徳が真に迫っているなら、いかなる批判も誹謗と化しかえって自らを傷つける刃となりまったくの無意味に帰す。孟子が云う如く仁者は無敵である。真理は否定しえないこと、正義や美徳といった文面上の概念ですらその部分集合にすぎないことを理解すれば、謙譲という消極的な能力がどうして論破や勝利より時に仁慈の手段なのかも腑に落ちる筈だ。頑なに説教を続けるより自由な成りゆきにまかせ、とりあえず道を譲ることで寧ろ過ちに悟らない、生き急ぐ彼らの自業自得で反省を促すべき場面もある。

2009年11月17日

悪女

もしこの宇宙から一人のこらず、悪女連中が消え去ればどれだけ世界は清浄だろうか。

2009年11月15日

物理学

アインシュタインの万有引力定数
⇔ 8πG/c4 …①
と、質量Mを単位とした調和定数
⇔ G/8π2 …②
から、次の値が導ける。
c4/π ⇔ 光流率
 証明。①をG=c4/8πに変形せよ。②をもし掃除分と措くと、G=8π2×掃除分となる。両者は等しい。よって、8π2×掃除分=c4/8π。ここで掃除分のみを一辺へ整理せよ。以上。
 この値は、花火効果が最低でもこの七夕宇宙系でいかなる起爆力をもつかの単位となる。なぜなら質量と真空中の光速度とは等価ゆえ。

極東文化圏の生化学的省察

キリスト教思想の意味の未浸透ならびに生まれながらの不平等を正当化させる天皇権力の主張さえなければ、一切の生活は以前よりも高質で高貴になりうるという心理上の幸福への約束が、つまり世界宗教という偉大な聖者の足跡がいわゆる覇権政治界隈よりも尊い真実のありかである。人知を超越した絶対唯一さの仮定、即ち、神の前では生まれつきの上下はありえない。

朝鮮礼賛戦法

政治の現実は結果が、少なくとも「いかなる過程を経た結果か」がすべてを説明する。いいかえれば手段にしかその現実の的はない。
もし世界平和を実現しても、極悪な手だてによればその政治が安定を樹立するのは難しい。なぜなら敵対勢力を納得させ難いから。
 つまり、現実にできる最善の仁慈の手段を取る者こそが最も長期に渡る覇権を敷く筈だ。これは究極論なので、現実に即せばその時代なりの最善さ、たとえば戦国時代なら攻略は最善とみなされたことを理解すべきだ。今日では既にそうではない。
推移する最善さの内、その場その場で最も現実的なものを選択しなければならない。

 さて、極東にロシアとの折衝から北朝鮮という疾患部を抱えた継;ままにしておき、将来興るアジア極東の内戦化を将来の利潤込みの軍事介入へ利用しようという意図がどれだけGHQを操る、本土のニューディーラーにあったか。
この真意闡明を未だ有識に頼れないだけ我々の知識収集度がたちおくれた低情報文明状態の老廃政治体制の中では、いわゆる北朝鮮の核開発がもつ実行力の前で、何らかの軍事示威を起こせば途端に憲法九条と矛盾するのを避けえない。
某お坊が盛んに吠えたてるのと違って、もし北朝鮮が自暴自棄の極として排他水域を含む日本国内へ核かそれ以下の威嚇を実践したとすると、即刻この国連内での地位から総攻撃で占領されるのは目に見えている。
つまり、単に日本一国からみれば、北朝鮮を恐れるべき理由はその‘自暴自棄のとばっちり’のみにある。取立作戦を全く事前対策なしに行うと、多少あれ自暴自棄行為の誘発にはなるだろう。

 以上と中国の軍事予算の膨張傾向を天秤にかけて将来図を描くと、我々にとって最も好都合な極東展開とは『北と南の朝鮮内乱』を何らかの外交政略によって実行させる、一種の半島文脈の復古調の援用である。
もしこれが北朝鮮への決定打となる偽装した好意の餌付けによって、核カードの矛先の向け換えで実現できれば我々自身は無傷なうえ、米軍出動による内需拡張の好景気が演出できるはずだ。
 そしてこの計画が真の文官によってもし十分賢明にまとまるなら、殆ど完全理想主義の遺産である九条の文面を一種の国際保護にあたいする勲章的天然記念物として、未来の国連内での盤石な地位を求める爵位の様なものとしていずれ使える様になるかもしれない。
つまり、この一文で書いておきたかったことは、和平工作のみによってたくみに取立作戦の平和的敢行は可能であるということだ。それは在日朝鮮人らの画策で文化的下流大衆一般の韓流人気が栄える他方では、某国内では排日法が現に存在する様にまったく真逆の嫌悪感がまかり通っている「好悪の非対称さ」を一つの、槍玉の煽情報道に仕立てる道を教えている。

具体的にまとめると、先ず相手の核カードを封鎖するためには非核三原則の建前がなければならない。これさえあれば実質は中性子衝突爆弾理論により複数個の地球規模惑星潰滅以上の技術開発力が現にあろうと、なにも問題はない。なぜなら当然、国連通報で非武装平和主義者の善人組に入れる。
 次に、取立作戦の実行にはコツがあって、これは完全に手放しで大韓流ファンの風を装った機密外交官が絶対に不可欠である。この人物は例にもれず酒豪であればいい。しかも北朝鮮も国際的参加をはじめたサッカーファンならなおいい。但し、血統が純倭人でないと朝鮮語の会話時の情にほだされいざとなって微妙に裏切る危険性が高いので在日系や京都系皇族関係者をつかうべきではない。
こうして、勇気ある小泉氏以来の日本人側の北風と太陽文脈をチェンジの世風を逆手にもちいて、戦前については完全反省した豹変と平謝りの風で、両班研究にもとづく「朝鮮人の徹底的礼賛」を数々の古風きわまる儒学の知識を引いていきなり大袈裟に振る舞わせるのだ。
これはいわば大政奉還の前提づくりに等しい。一旦この前提をつくられてしまえば、北朝鮮は韓流にかこつけ親朝化しきった酒盛りで腹を分かち合うことになったひとのいい日本人高官への私情の念から今後、威嚇の悪さを働く大義名分を失うのは確実である。さもなくば取立作戦の前提通りに討幕の密勅を内奏せざるをえなくなり、彼らは無理に敵をつくる独裁内政の建前上、我々のどこかの領海へ示威行動を働くであろう。
(もし我々がこの被害すら避けるつもりなら事前対策が有効だ。それは国内へのかれらの密偵によるテロを徹底的に退けるために韓国籍を装った、朝鮮系の渡来するテロリストを最初から排除するため、空港や港での韓国人の一人一個の国民番号との合致をチェックする鎖韓態勢をはじめから構築しておくのだ。)
 そして最後に、この朝鮮礼賛戦法が体よくも巧を奏するなら、完全に大義名分を失った北朝鮮首脳は(主としてはほぼ必ず腐敗する世襲次代の暗愚さがつけいれる隙となるだろう)、つぎの天敵をさがす必要から前方を宗主国に囲まれ一方をもと骨肉の大社会主義圏に往路塞がれ、また唯一の敵視可能で異質なはずの強大自由主義者にも間一髪で友愛の念を押し込まれて窮地に陥り、“南側との大きな格差”をはからずも照準にするほかなくなり、朝鮮人元来の情緒的性格からしてこの挑発は兵役済み韓国内過激派をソウル北で侵略型報復戦争に駆り立てるであろう。

2009年11月14日

いい加減きづいたら 
世界は既に終った
君は夢をみていたにすぎない
どこにも隈のない
よどみなき今を
靴擦りの上を這うコインが
ころがる先はたゞの窪み
もしあなたが死んでいってもやはり行き着くのは
この土の上から幾らもの命が芽生えふたゝび
地球の大気となりひかり栄えんとして羽ばたくのちに
あなたはテーブルの上に載った卵が
自分自身だと気づく
目覚めるのだ
われらが大地の子よ

無炭素社会

無呼吸で実現せんかな無炭素社会

2009年11月13日

南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ

ニートを蔑み亡命躍らすきちがい東京ぢから万歳!

若年失業者の救済がわりに税収で国外追放おどらす東京テレビ特番ヒャッホウ!

和をもって貴しとなし溜め込んだカネで書き付けさせし皇族猥談集はっぴい!

チンの国には批判者などいらぬゆえに今すぐハラキリ特攻イヤッホウッ!

追い込まれ差別されつつ生き抜いた犯罪者蔑視で南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ!

ダムしずか

仕分けびとEXILEから削らずに
皇后妃EXILEの歌おきにいり
きりすてよなにもかも無駄ダムしずか

2009年11月12日

落ち葉

ひとひらの落ち葉の名にも気づかずに想うこゝろの散るのぞをかし
八咫烏やたがらす傅く凪ぞちりぬるをひでひらつゝぬ月のおとずれ
可ならずや東のみやこすぎぬるを堅気健気のあき月におぼゝゆる
をりふしのことのなきをそたずねつゝみちのさなかにおとすさけのは
よみしけりくしげの數はいとおほりゐしゐさぬかもしりもせぬまゝ
澱みなき水うち叩く音すればすでに晴れたりさつきの笑みし

2009年11月11日

水云

ひっそりと流れゆくあきの水云
あれよあれよという間に冬物
稲穂かぞいなごのはえる薄野すすきの
過ごしやすき日はつかの間ひゞく
おいしきとおもえばやはりにいごめのしるし

理屈の効用

世界で最も最初に神の概念を発見した者はそれが及ぼす驚異的な伝播能率の為に、彼自身の知的上位性を預言者という形で保存したがった筈だ。もしこの試みに世継ぎで成功すれば神官階級を独占できた筈で、現に、幾つかの地域ではいまだこの名残りが実在する。ユダヤ教徒、バラモン教徒、そして神道シントウ教徒は土着性の強い姿で残った神官階級の末裔である。彼らの始祖は属した共同体の部派闘争を鎮める方便に、理解不能性の比喩として神概念を用いることを思い付いた。絶対唯一神、汎多神、一族神などの地域風土に由来した多種多様さはあれ、どれも超越概念を確信として伝播することでは同じである。
 もし人類内社会が超越概念による人心掌握の業を既に今日的でないと見なすほど進歩した知性を確保すれば、しかもそれは社会であればこそ多数必要だが、彼らの一派は確かに世界宗教を終った試みとして伝統芸能面でしか省みなくなるだろう。具体的には、政治と宗教の関係は完全に分割され、二度と接触しなくなるだろう。なぜなら狂信以外の合理的方法で協力可能な群生は、確実により知的な集団関係の処理を可能にする。だが最も伝統的な方法としての信仰による教化は、最後まで原理主義群での基調となるに違いない。この方法の利点は戦争目的の正当化を熱狂によって確保できること、いいかえれば説得の省略にある。ゆえに生態が知性を保有したがらないほど、理屈抜きに一致団結できる宗教的群生は神官長の独裁に理想的となるのだ。
 今日考えられる限り最も協力行動にとり合理的なのは、共通の利害をまとめこんだ理念への帰依を誘なうことと考えられている。たとえば民衆政治とか自由主義は最も先進国内現代人らの間で好んでいる文化素だと言える。仮に真偽が危うい場合でも、理念はいくつもの知的省力を施した単純化された考え方なので、少なくとも強い内省力をもたない個性らの行動を一定の型で支配するのに急速である。
 主義とか思想と呼ばれている各種の考え方は、結局それが政治結社をまとめるのに役立つ限りで使える実用の手段であり、究極の真理ではおそらくない。もし究極の真理とよぶべき目あてがあるとして、それは人類が研究肌なら分かる様、無際限に細分も拡大もできる自然界の果てしなさ即ち無限への知的解析による永遠の接近過程だけだろう。最小の単位も最大の単位も人類の限られた大きさと生存期間内の知能には永久に確定できないだろう。つまり、超越概念の段階的仮設による漸進的な理解と微積にしか知性本来の意図はない。これが教えるのは、最高の理念というプラトンの考えは原則として当為だが、現実には実在ではないということだ。だから理想するという知的機能の哲学性の中にしか本当の神聖さが宿る余地はない。さてこれがどうして哲学の結果が政治行動に引用されがちなのかを示した理由であった。この真理探求のせめてもの仮設物としての理念という結晶は、大変に利用価値の高い説得力をもつ合理性集積の進んだ滋養分なので、単にそれを先にひそかに確保して神官や預言者を大勢へふるまえばたとえ自らが考えついた考えでなくとも、無知な人間を帰依させるのは比較して容易である。この説得効果は理念の超越概念化が緻密に進めば進むほど高まる。神の概念がかつて旧世界を席巻した様に、真理への集積された理論的発見の漸近が進んでいればいるほど、知能の高さの誇示としての理念価は同類説得による支配力をもつ。以上から推論できるのは、学者の多い集団は理屈の効用によって支配圏を広げるといういわば戦争行為による征服の常識とは正反対の、社会的因果の真相だろう。碩学が多ければ多いほどその集団の協力に入り込む知的順位制は複合される傾向があるので、最も原始的で単純な超越概念素である神への帰依のみに留まった一群よりはるかに、内的知能指数を変異づけうる。だから政治家は、少なくとも完璧な勝利を収めるつもりのある政治家は一時の征服ではなく、決定的理屈を志すべきなのだ。もし理屈で劣る様なら征服を試みるべきでない。なぜなら相手の知能の方が優っている以上、たとえ一見した武威によって相手が攻撃のそぶりを収めたとしても結局は機を看て逆襲され最終的勝利を奪われる。しかし裏をとれば理屈で劣る相手は征服可能だと言える以上、この秘伝じみた権威をいわゆる能ある鷹の風で決して無用に振るまい歩くべきでないのが明らかである。つまり達人剣術の様に、知己の過剰な誇示はその派手さの為に無駄な威嚇の結果を不可避に伴うので、特に国家単位では警戒心を誘い、包囲網を敷かれる場面がとても多い。威嚇は怯えた者の武器であり、自重は思慮深い者のそれである。ところで強すぎる自尊心のため普段から部下へ無益な叱咤を好んでいた者は自らが真の上位者になった頃、いつどこから裏切り者が現れるかしれずにつねに警戒心をゆるめられない。こうして実際に訪れた高位での自由の能率が阻害される。
 だから、政治家がもし相手の才能を見抜きたければ、その人物がどの程度理に屈強かを注意深く観察せよ。もしこの才覚が誇示の装飾を取りのぞいても本心から劣る様なら相手を何れ平定できる。しかしどういう擬態にも関わらず決して軽視できない程なら、その時は相手を侮る代わりに同盟を結ぶか又は服属するがいい。こうすることで地位秩序の中で最も有利な位置どりを、実際の衝突以前に最小の被害で続けることができる。無闇に利口ぶる者が本当に賢かった試しはない、或いは聞き齧りは怪我の素とは兵法以外にもあてはまる諺である。もし彼が十分畏いなら臣下忠実な批判者の立場に留まり、いずれ孤軍では戦えない仲間の軽蔑を後から態々買う様な一芝居を打つ必要はない。これがなぜ多くの役者を儲ける芸能界では道化と俳優が違う職分をもつかの訳だろう、彼らが共におのが個性を誇示するにせよ。

2009年11月10日

昔話

野ざらしになった死体の山の上でその
南蛮夷狄は僕らの先祖を賊あつかいした。
なにもできず腐敗していく息子の死体の前で、侍は
必ず復仇を誓った。なにひとつ大義のない
邪悪な、テロリストども
蛆が湧いたひ孫の死体が置いてある山を
毎晩狂った様に拝んでいるお婆様は、いまさら
天に、なにを願った? 純真な忠義の志の前で
旗振りを誤った京都土人、
便乗し、あからさまに裏切った南蛮俗物ども。
貴様らを永久に赦さない
将軍を恥辱で染めた官人は、外人から貰った拳銃を裏の手に
なんの弁別もない痴呆同然の麿連中を手玉に取る。
それが大昔から京都の文法だったのだ
話してわかる相手ではない。渡来した大陸の血族だ
空を迂回する
幾羽ものカラスが、赤紫に染まる夕暮れ空に舞う。
奴らの死肉を啄みきるまで、真実を知っている僕達は
貴様ら官佞どもをどこまでも追い詰めるだろう

2009年11月9日

婚姻制度について

私は嘗て多少あれ社会生物学の知識から、一国内での種的多様化を図る意図で場所毎に多妻制も容認すべきかもしれないと考えた時があった。具体的にはイスラム教の勉強をした時に、その戦闘行動への高い適性を見いだして武士道と呼ばれてきた旧日本人の道徳観に於ける‘命の軽視’との共通項を見つけあげたことによる。
 だが総合して勘案すると、もしこの婚姻制度に於ける制限解除を行うと、全体としての国内では内的増加率の過剰による種分岐の偏りの方が起きそうに思えた。なぜなら、実際には日陰者という名目の元で、現行の民法内でも認知されない非嫡子の存在は完全に抹殺された訳ではないのである。
いいかえれば、建前としての一妻制度はやはりどの様な場合でも、人類に於ける熱帯圏適応のさなかですら高い家庭秩序、特に幼児教育環境の安寧には基本となるということを見いだした。

これは世俗派救世主教の教義の中ですら、現実には制度のゆとりが存在する示し合わせなので、社会風紀という温帯での基礎を鑑みる限り「一妻制の維持堅持」には必然性があると考えた方が、全体としての成員間の種的多様化には余程優れる、という推論結果につながる。
内的増加率以外の行動も擁護されるにはその種への艸刈り効果がなければならない。だから法律がこの『非嫡子』という概念を維持することには知的社会内有用性がある。

 もしも日本国民が分派を許すなら、具体的にその性向が最も見受けられそうなのは冷厳な知的風習には伝来事欠くらしい九州圏だが、地方自治内で条例上の法的解除を工夫し、非嫡子概念を現西洋諸国の如く破棄できる可能性か危険はある。
具体的には回教徒の流入が東南アジアとの経済協力中途に進む中で当然、薩長同盟以来の政治的急進性の擁護の性癖の為に直接国政へかれらを参画させたがる中でもこの、浅ましい隼人風紀の国法化を隙あらば狙わせるだろう。
だがこれに協賛しそうな性悪か商売繁盛第一な渡来系血縁である近畿人一群を除けば、在来の日本人種は過半数を超えてあしき独善政治屋一類を除き、元々のきまじめな習性から大勢に於いて上述の熱帯圏最適応の退化を望まない。
 よって本土と下関海峡とを「国防の関所」としてその人種の間行を原則閉鎖か通行料によって大幅に塞き止め、政治過信の風習を促進したがる九州一島と概念の垣によってきりはなすことによってのみ、上記の野望は実現性があるだろう。
 但し、それでも一国二制度を統制領域の減耗ならず過度の内乱誘引変異による中枢国力弱体化の因果と悟る官史がいれば、関東圏に重しのある武力又は知謀による鎮圧か威嚇によって九州勢の急進をよく封じ込める手立てが東アジアの商圏的一帯化事前に考じられておく可である。
より直接には、何らかの党派内策謀による西郷像の取り壊しや目立たず人目につかない美術倉庫への移転、九州圏の危険な経済力の致命的減衰を謀るべく原子力やメタンはじめ各種大規模発電所の非設置や取り壊しと国策による新興の原則回避、特に目先の利害に動きやすい長州と確実に分断する為に山口県側へ監視用の新設太宰府(九州監視府、又は本土府)の設置、並びに薩英戦争の顛末を重く看て武器への転用が最も及び易い現九州大学への福祉税配分の大幅見直しが考えられる。
これらをどれも行っても決して本土に損失はないばかりか、政治的急進派の来る爛熟阻止を可能とし、本国の知的風土の減殺(要するに日米開戦までの自壊暴力団ルートを誘導した知的に劣る層の国政支配に応ずる自滅大敗という最悪の二の舞)を未然に防止し、もとい擁護さるべき理知高い各穏健派をありうる南蛮風俗伝来の聞き及ぶ悪影響から満足できるかなりの分保護し、結果、当決断は本国の高貴な文明度をより長く守る役割を果たすであろう。

皇国

あたしみたいな奇形女でもいきのこれる様に
家族なんかぶっつぶして、イケメンふやしなさいよ、と
その陸でもない関西系東京人は言った。江戸の末裔。
死ねばいい
だれもが生き残るのに必死だ
肩書ほしさに腐るほどある大学に通い、落とすのは
碌でもない江戸人の末路だけ。都知事!
もっともっと猥褻女優へ淫行勧誘罪で繁栄して下さい!
死ねばいい
やくざの親玉は民衆を見下しながらアジアを恣にした
生きている価値があるのか? 芸者ジャップ
極東の奇形児どもよ? ハラキリ侍民族が、
世界中で中華民族の蔭に隠れて繁殖しまくる。お前ら
死ねばいいのに
碌もない関西人が世界中に姦淫小説をばらまき続ける
ごみ民族ジャップ。金もうけと安物廉売と、変態アニメにしか
才能がないのはわかったから、はやく死んでくれ。
もうお前らの品性下劣さはだれも見たくない。都知事!
奴隷制げす天皇様を崇拝して発狂してください!
死ねばいい。
だれも貴様らなど、好む者はない。神の裁きに従うのだ。
魂の歪んだ首長を持つ無神論者どもが

2009年11月7日

高速無料化の迂直

高速道路の一律無料化への非難がしばしばみられるが、この貴重な社会基盤の補修費や適宜増設にかなうのにあわせて、通行料の維持や増幅が必要なのは普段から渋滞が起こっている地点と減価償却が済んでいない有料道路についてだろう。
いいかえれば「迂回税(ロード・プライシング)」は所々の要所では必然だし、有用だみとめられる。これは計算実地に即して勘案すべきだろう。

2009年11月6日

土建票閥の害悪

参議院予算委員会中、自民党内の利権癒着議員による詭弁あり。いわくへんてこな標語をつかったことをコンクリート業者に誤れと。
 コンクリートの為に人がいるのではない。場合によっては、人の為になんらかの建材が要るのである。つまり『コンクリートから人へ』という首相の見識は、やみくもな土建票癒着でなあなあやってきた自民党閥公共事業対象の見直しの標語としてはまことに正しい。

石鍋のごときヒートアイランド化の原因と大規模建設産業の排出する異常に大量なCO_2の及ぼす全地球的害悪は、‘無軌道なコンクリート詰め都市化’にあるのは火をみるより明らかだ。
政治家の仕事は公共奉仕であり、建設業のごとき目先の利潤に奢った破滅型新興開発への追従ではない。

 土建屋と癒着した悪徳党員はおおやけに迫害排斥しても何一つ国民の目の前の公正透明な討議審判上、問題は起きないだろう。
公務員は「全体の奉仕者」であり、決して自民党員を裏からあやつる悪徳土建屋どもの、やくざじみた金儲け威嚇の傀儡であってはならない。

食料製品の情報量付加論

その考え方がどの時制で伝えられるかとは別に、島国では総生産量の絶対的不足から汎用品需要は最終的に全面輸入化するという法則(卸し価格の大陸依存法則)は同時に、内国での既存の汎用品目がいわゆるブランド化、銘柄つき特産品化によってしかその侭では生き残らない将来を予見させている。
 具体的な食料品市場に即していうと、農産物が地産地消を直接消費の的とするのは、輸送費分の購買量の関係から島国内では真であるケースが殆どだろう。例えば薩摩芋やジャガ芋、砂糖黍と甜菜の有効需要が国内のどの地方で最も大きいか、つまりどこで食べられているかをみればよい。人類もまた農耕文化を引きずる土地の子である間には、土地に独特の作物を食する中でこそ地方独特の形質や性格が育ってくる。
 ところで食品産業の中には加工や料理の分野がある。そして上述の特産品を最も決定づける方法として正統なのは、この加工や料理の方法論を秘伝か技法として確立することによる。農産物(ここでは魚介類や栽培した自然作物を含む概念とする)を地産地消という土地定着の概念から大きく引き離してもなおも新品係数を保ち続けるのは、この食品化の方法論にもとづく。なぜならその製品情報量が他の土地ではまねがたい何らかの工夫によっている場合、更にこの工夫が気候と文化という土地の特徴を拡大させて示す場合の誇示効果は指数関数的に増大するが、明らかに当製品の珍しさは農産物の価格を販売用付加価値として増大させる。
 例にとれば京都産の八ッ橋、茨城産のほしいも、北海道産の白い恋人、こういった土地独特の製法に基づいた作物はいわば食料の作品であり、その地方文化に特有の性格を伝統の品性とか素朴な感性とか巧妙な計算とかへ結晶させている点では、単なるなまの収穫物そのものの販売よりずっと特産品化の正道となる。そして日本の様に海洋を除く農地面積そのものが大陸平原国に比べれば絶対的に不足している環境条件のなかでその土地生産性を所得面から高度化しようと努力すれば、いかなる内陸的量産ともことなり、この様な食品加工の技術的な多岐多彩に生き残りの戦略を図るしかないと思われる。お米に於いても地方の気候に即した品種改良によって、たとえばミルキィークイーンとササニシキでは味から粘りまでまったく質に違いが出せるとすれば、この食料作品化の工夫が特産物の文化的製造の中へ十分活かされた結果だと言える。こういう製品が既存及び開拓された農産物の生産力の上に多数かつ多彩につくられることになれば、いくら狭い国土であっても輸出に堪える堅調で先行き明るい食料品市場はどこまでも豊富につくられうるのである。
 更に、もしサービスとしての料理の振る舞い分野もこの作品化の意図の内に組み込めるなら、たとえばきりたんぽを鍋で囲んで食べさせる秋田式の田舎農家風料亭とか香川式に立ちながら素うどんを啜る庶民派簡易食堂とか、築地市場に程近い江戸前式の高級懐石寿司屋とか、地方の特産品をくみあわせつつ土地勘のよさによって最適化した経営を適宜はやらせれば、それ自体が食品の特産性をさらに強調する役に立つ。
掛け替えの効かない情報量の高さを食事経験の一回性の演出で果たすなら、いわば食道楽化でその料理へ期待できる減価償却後付加価値はおよそぐっと強化されるだろう。

音楽産業の転回

現音楽産業の致命的な冷え込みの訳は、海外市場への最適化に急きすぎて、基盤構造だったCDのダビングを直接経由せずとも作品が手に入る様にととのえられたiPodやiTunesの追随に走ったことにある。
 特にソニーミュージックの純赤字縮小は、その米追随型のお雇いCEOを総括の責任者にしていることから、いわゆる既得権益だったCD‐MD間への購入経路をみずから破壊した節操にある。
なぜならおもな流行音楽めあての購入者だった若者が一人一台以上の同社パソコンをただの流行歌試聴用にもてる時代など製造業者の思惑がかったただの幻想でしかないし、実際に高級品種しか生産しないお高くとまった同系列企業が、ますます縮減しつつある景気のなかで貧しい若者から貴ばれる可能性はまったくない。

そして我々消費者がこの一連のお粗末な市場自己破壊現象から国内的に達観把握したのは、「リーダー企業の誤った判断は既存市場そのものを崩壊させる」という経験則だった。いいかえれば管理価格をになった寡占業者の判断はそれ以下の全消費生態を支配しており、結果、道を誤ればすでに現実となったMDの様な有用性の高い既存製品種の恣意的絶滅も起こりうるということだ。

 法人格たるソニーミュージックはこの一連の事後顛末の責任をいずれとられるであろう。目先の株価目当てに消費者及び外部に対する福祉の意図をあきらかに裏切った利己主義同族企業の汚名は、永久に将来の投資関係者一同の感情内に刷り込まれる。すべてを目撃した若者がいつまでも若者であることはない。

 このみずからつくりあげた惨々たる事態を回収したければ、すでにアップルによって支配的となったネットミュージックではなく、ふたたび以前の様にCDを中心とした既得権益の回復を計るべく、『音楽自販機』を多産するといいだろう。これには割安な数百円単位で各種のメモリーにダウンロード可能な挿入口をつければいい。
尤も、いつものエリート気取り驕り高ぶりの由縁で遂には誰からも見放され、最終的に市場淘汰される迄その音楽産業連中を好意から養う消費者及び彼らを後押しする株主の営業努力への期待を裏切りつづけるつもりなら、いまのままアップル追従ネットワーク販売中心の独自規格の独善姿勢を貫くがいい。一部マニア向けの適所ならいつまでも、ごく広い世界の隅にひっそり用意されつづけるだろうから。
歌え若者、などと大上段に命令する奢った生産者を我々消費者は無視も毛嫌いもできれば何れ食い潰すこともできる事を、すべてがまるきり転回しうる現実の市場進化論的証明によって、言い換えれば「市場の弱肉強食」によって理解するがいい。

2009年11月5日

将軍

なんのことか存じ上げませんけれど、とその公家は言った。
とてもたのしゅう夕餉ゆうげにてございました。
国民の金であろうが、なにを遠慮などしましょう。
わたくし達には有り余る富があるのです!
その公家は京都の文法を絶対視した挙げ句、
あっという間に軍人に牛耳られて
ボロボロになった憲法ごと殺される前に自殺した。
だれが同情するんだよ? あなた方の生前の功徳など
あの晩餐会で僕の働いた金で豪華な和牛を喰った事だけ
それともゲイシャと遊び回るあなたの祖先がなにか
猥談以外のえらい業績でも、私たちのためにのこしたとでも?
その公家は、とっくの昔に仇をとった
白虎隊の墓場のうえで踊りくさっていたにすぎない。
薩長の下心に流された道化芝居をね。
それともあなた方の命一つが、あの何億もの特攻隊員よりも
主君を信じて忠義を尽くした、まだ成年式も終えない
幾多の魂をつきうごかしたわれらの魂よりも
貴いとでも? それをやしなっているのが
俺らの汗水たらして働き通した衣食住の品物でも?
お前は俺達を裏切った。そして、狂ったゲイシャ遊びをし、
遂にはアメリカ人に殺されかかって命乞いをした。
さもなければ今、こうして
あの墓の前で祈りを捧げる多くの
侍たちの心を裏切りつづけるだろう。京都の人よ。貴様には
少しの勇気もない
おかわいそうに、ご機嫌をつくろいなさって
僕はその声を、刀で叩き斬るだろう。それが
すでに失われてしまった主君の、最後の将軍の仇なのだ

2009年11月4日

清流

おとなくきえゆたつなみの満ち干
自動車列車と汽車電車金属音変る
只降り注ぐ水色の空白云のさやか響く町うごく
打ち寄せる波きみはしずかに祈る聞き届けられるのを
なにを信じた百円玉がおちるアスファルトの隈
徐々に盛り返す試合情勢サッカー場の上みる
山奥だった兜虫のくぬぎの木ゆばテーブルのうえ煮える
略して綴れる想い毎あなたは夜波止場に留るのか
聞える生れ育った古里の匂いと空気が私の声になる
ただミンミン蝉が鳴き捨てる真夏日ひぐらしかなし
ゆったりとしさかみちをくだるシティサイクルのハンドルをはなす
むかしだったそこも地獄橋のうえをわたった後ろかご
おちつきなく湯気ふりしきる山形の銭湯おもしろさ
ゆきのちらつくころ蔵王は眩しさをもってくるゲレンデ白さ
おばあちゃんちの畳の匂いベッドの固さ踏み石の巾
竹林のおくになげすてられた菓子パンの袋竹の子たのし
芹を摘みにいきましたさとやまのおくの田んぼの静けさ
おともなくふりしきる雪のねもきこえるしずかな田んぼに
あおい軽トラックと耕運機がひびくおたまじゃくしのたまご
沢山川の底しれぬ流れの緩さよ笹の枝垂る渓流
とびこむ歓声ひたるつめたな清き流れとこしえに
夜空へつながる海へのめぐりゆきは星月のまほろば
笹舟はてのひらをぬけて宇宙のなかを駆けめぐる

ねこのこのあくび

にゃいにゃいねこにゃうねこのこのあくび
おそらにとんだわたぼうしとって
まぶしいおひさまにこんにちはをいうの
おつきさまのでるまでのあいだよろしくね
あそんでくれてありがとうねこのこのあくび
ふしぎなぽっけでねこじゃらしなの
おっきなゆめにみたぽんぽこたぬきのおなかのたいこ
ぽんぽんぽこぽんきこえてきました
ゆずのきのかおりでおふろのじかんだ
つるつるすべるぞきをつけろ
ぽこぽんたぬきのおなかのたいこで
ねこのこのあくびはきこえなかったの
よるもおそくにおしっこのあいずだ
ぶるぶるゆーれいいないかこわい
ひんやりゆかでもおかあさんのぱじゃまにつかまれ
とおくのやまおくでぽんぽこたぬきはねむりこけてる
ねこのこのあくびはきこえてきますか
ぽかぽかおひさまでたりきえたり
ひろえんでねっころがってみえたりきえたりするの
じゅうにじのあいずはもうすぐきこえる

英雄

だれにとってでもない
それは、自然なことに思える
街中があっという間に様変わりしても所詮、
資本主義国のつね。何を驚くことぞあろう
保守派を拳銃で脅した挙げ句、無理に圧し殺したのは
君らだろう?
それともいまさら
負けるのをおそれて、卑怯な手に訴えたグループに
嫌気がさしたか? もともと
やくざに憧れてたんだったよな? 僕は
豪華きまわる工芸品だらけの盆地で、きみらに
殴り掛かるのをぐっとこらえた
いいのか? それで。すべてがもし、過ちでも
僕は散々修業してきた剣の腕を試す晴れの舞台を目前に
潔しとしない
君を敬った。それで
礼を払ってすぐに引き下がった。まるで
はじめから戦う気はなかった風で。ところが
君達は僕を、負け組だと銘打って、銃刀で追いこんだ。
そして君達は、僕の名をけがし、よろこんでその上に土足でふみあがった
そんなに出世したかったの?
僕はゆっくりと帰途に着くだけだ。まるで
傷ついたドン・キホーテの様に。それで
愛する妻と子供のために、大きな
資本主義のケーキを持ち帰れるものなら。

2009年11月1日

教育行政の事前対策

米国の大学がいわゆる学歴主義の弊害として、殆ど所得の調整力をもたないのはその国を尋ねた者へは周知と思う。国際人権規約が教える教育費無償化への誘導も、意欲の有無による能力別の進学率ならまだしも、只にしたらどのヤンキーも喜んでまなびまくるかといえば全く逆だろう。現東大でも所得順位でみると、科挙への殿試勉強が一般にそうだった様にこの遠東洋風の儒学的官位甘やかしは寧ろ階級の再生産率を奢る結果に終わっている。いいかえれば、日本の現況で国立教育機関を一気に無償にすると逆に、特に名門校といわれているブランド大学ではそこへの入試志願者の激化にともなって、多年の勉学費用負担をにないうる高所得集団の利点が益す確率がとても高そうだ。
 つまり本来の福祉的意図である階級固定化への緩和としての意欲と才能はあるが、学費に恵まれない所得層の本当は優秀な子どもへの投融資の結果とはかなり遠い結果が、単なる一律一元の教育無償化では出そうといえる。米ではこの危機を、超自由主義的風土のゆえにまったく痛痒にも感じなければ植民政策の効果でつくられた英語圏の広域さに伴って次々集まる移民の保有によって、どちらかといえば利益とさえ考えるリベラルが多い。
 だが人が産業革命時点での英で、たとえばグラスゴー大学の有職へ一修理工だったワットを招いたアダム・スミスの徳性やまさに丁稚上げたファラデーの大きな活躍、開拓初期の米でもフランクリンやエジソンの挙げた業績を省みれば、人事の機械的合理化のみに着目した類いの学歴主義のやみくもな蔓延は、いわば科挙制度下での一階級による官位独占の時代へ退行する隠された差別と暴威のめばえであり、決して最善ではない。少なくとも、何らかの抜け道としての階級化の影響力を弱めうる制度の余裕を持たせておく方が、単なる知的上級生の慈愛を越えて、結局は予期せぬ発明という多元な進路に於ける人事加工過程の化学変化のリターンも大きくなると考えられる。一般に、王侯貴族(日本に於いては公家や旧華族といわれる)は支配率を目あてとし、上述の様な寛容思想は封建権力を弱めるものとして忌み嫌い場合によっては公に法または裁判権を引用した暴力で迫害する。だから、仮に米のリベラリズムが一種の実現最優先への偏りのために急ぎ足に過ぎ、定着や滞在によってただならぬ名誉をもちいるはず渡来した愛国者や親交者を帰化後の長期間の目でみてWASPより無碍に扱うならそれは、人間の格というものを学歴という本来は学資ではなく学識や勉学意欲の付属品にすぎなかった肩書を、理論や技術そのものの創意工夫の才能及び努力よりも高く見積もりすぎた浅慮の為である。以上から、事前にありうべき不測の惨禍である自民族中心主義或いは京都学派の悪用による神道原理思想の声高な復活を教育権の援用によってある程度より多めに避ける豪快な行政手腕には、聴講生制度の確保とそれに伴う国費の規模を予定できる政府税収の内、教育助成予算のかなりの部分を多くとも見積もることが必要である。図書館施設の原則開放もこれに入る。周囲の多少あれ安価な学生街に定着しさえすれば、いかなる社会階層や国籍、所得及び人種出身でもある程度より高い教育効果がえられる地域の自由度を達する事が、すぐれた創造生態の確保には有用だからだ。
 ところで企業への権力介入はライブドア事件以来の情報産業の冷え込みにはっきり示される様に、おおきな市場萎縮の効果を不可避に伴うので、最小限に留めた方がよい、若しくは推してそうす可きと基本的寛容思想の立場からは定率できる。ここで、待つばかりではなく特に技術革新をより喫近とする工学系大学や専門学校含む研究学園街への景気づけたる能動的な対策案として賢明なのは、地方自治体単位の条令で、学園都市周囲の冒険起業人事への学歴差別禁止を諮ることだろう。こうすれば飛び入りした特殊な才能が生き残る確率があがる為、もっと安定した企業成熟をめざす大手とはことなり、いい意味で未熟なその場限りの独創が集積しやすくなる。但し、全面的な国政でこれを独断専行してはいけない。なぜなら進路の極端な放任による人材の過剰流動とそれをとりのがした経営破綻の続出や、成功率につながらない基礎学力の特徴的軽視によるおおよその人事不詳化が確実に起こるからだ。