2009年11月18日

文化論上の善

同一の時間流率を一方が知識あつめに、他方が道徳的内省に費やしたとする。この両者の間には同傾向によって、時間がほぼ同一の引力場内だったとすると進歩と保守の触れ幅が次第にふえる。
 もしこの個性が大幅に異質化し、また空間の隔離で変種化を経過したら、種分岐も起こりうるだろう。だから、我々が宗教をもつこと、そしてできるだけあまねく通用するそれをもつことは進化、その連続的過程のうち少なくとも社会内変異の原則的趣味化にとって必須なのだ。つまり人が宗教というやさしげな趣きすら失うならその個性は、道徳の退化に伴う様々な弊害をさける為には特に保守の論理を維持する能率が哲学という手間ひまなしには達せないのを悟り、内省の時間を余分に設けざるをえない。
 宗教を無化しようとする社会は知識あつめの能率が阻まれる。いいかえれば学習に遅れる。この論理が真なら、宗教間の学問、つまり文化論はそれが常識化されて恒常値として高いほど当社会の学習能率をよりよくする。
 宗教同士の論争や対立は、みな無意味だ。それをする個人は、道徳哲学の上には偽装がありえないこと、最も合理的な社会規則しか真理とは呼べないことをしらない。
 もしその個人の道徳が真に迫っているなら、いかなる批判も誹謗と化しかえって自らを傷つける刃となりまったくの無意味に帰す。孟子が云う如く仁者は無敵である。真理は否定しえないこと、正義や美徳といった文面上の概念ですらその部分集合にすぎないことを理解すれば、謙譲という消極的な能力がどうして論破や勝利より時に仁慈の手段なのかも腑に落ちる筈だ。頑なに説教を続けるより自由な成りゆきにまかせ、とりあえず道を譲ることで寧ろ過ちに悟らない、生き急ぐ彼らの自業自得で反省を促すべき場面もある。