2009年11月18日

政治学

自然的有性生殖という形態がそれ以外の人為よりすぐれる大きな理由は、美醜に関する中庸の規則が働くことだろう。もしこの制限、つまり審美的な選好の潜在された全体規制を撤廃すると、まず極端な速度で系統から大きく異質な形態が生じる中で進化についての目安としての統計的変異を失う。次にこれは、又最も危険なのは寧ろこちらの点だが、部分誇大化の傾向を極端に進める内に先祖との類似点をより多く速く失い、結果としては審美性や能力に関わらず母集団数をへらすのが明らかだろう。
 分けても自然的有性生殖での最大の利点は、実はその形質改良の緩やかさにあると思われる。だから共通の遺伝の池をもつ集団が混み合いを相互比較によって促進するという群生のことわりも、この形態にのみ忠実に機能する。
 もし母集団数を期待しなくてよい何らかの遺伝変異を誘発するべき場合なら、自然的有性生殖以外の方法は選種の上で幾つもの利点をもつことから正当化できる。要は、意図的品種改良の手段としてのみ愛以外の不自然か人為の配合は遺伝知の上で合理なのだ。人類自身へこの意図が合理的かは結論されていないし、仮に真と認められるとして我々が母集団の数量を一定より保ちたければ必ずや自然的有性生殖、つまり自由恋愛の極めて高い再生産率を社会統計面でも採用したがる。もっと俗なかたちでいえば発情期に繁殖させるのが動物をふやす骨である。
 特定集団か階級の経験則や教訓により上記の論証を実現したがる者は、選良化の副産物を推して良かれあしかれ引き受ける。つまり自ずと少数派となる道を辿り再生産率を自主抑制するのだ。一般に、階級化誘引の高い隙間が進化場であると仮定すればこの進歩に逸る一味は、いずれはその他の群生に編入されるのを待つだろう。我々が選良嗜好を例外とみなす訳はここにある。よって社会学の営みの上では貴族政治という特定団の支配権はやはり例外期に当たるので、安定度でいえば民主と皇帝をより選択しがちになる。もし有性生物の発生期に起きたろう系統発生史へ類比すると、最も活発な細胞が精子という多数派内の選良を、また最も鈍重な細胞が卵子という少数派の母体を担った淘汰知の帰結は、社会力学や歴史運動とでもいうべき人類間の性選択(いわば政治淘汰)についても同じかもしれない。
 以上から私が結論できるのは、政治社会間には次の経過がつねにくりかえされるだろうことだ。一者は民主化し、他者は皇帝化する。そして進歩した個人を導き出せるのは民主政の自由の下でだから、つねに皇帝政はその新たな集団に征服されるであろう。だがこの中途ではより大きな皇帝権を担うに成功した母集団の数こそが、盤石の地位を占める役割を果たすであろう。もし貴族政治の余地があるならその社会では階級化が進みすぎた為、他のより自由度の高いか群生の数に優る民主か皇帝の権力に支配されゆくであろう。
 こういう政治力学が最終的に生み出すのは、最も進歩した自由化の世界と逆に、想像できる限り多数の同一種群生だろう。そして社会進化についていえば、政治の最終目的は一国家という単位でこの系統発生の内部化を完成させることだろう。たとえば、今日では間接選挙による代議制度から始まる一連の手続きでこれを行う全経過が、母集団内で最高の能力をもつ個性を代表として立たせるのを合理とみなす慣習が、如何に国統の象徴を一座の華とも人生不動の目的ともするのかをみるがいい。人類が自らの地位をふりかえればやがて、彼らの内ある者が個性の発生過程の中に上述の内部化、即ちのべ伝えられてきた国統を身に修めているのを知るだろう。そして英雄という古代から最高のものと信じられてきた雄性形質開花の誉れが、いかに自らの欲する原因存在乃至起源として機能したかをまざまざと実証するであろう。