2006年7月30日

遊園地化

単なる繁殖以外を文明の目的地とする限り、その究極の姿は安寧な繁栄にある。理想の幸福は繁栄の果。環境の適度な合理的調整によって生活のなかに多くの遊びをもたらすものこそ文明。自然の促進ですら彼らのrecreativeなあそび。
 人類は自然をつくりかえる。そうすることで宇宙を遊園地化する。

2006年7月29日

詩学

教育の理由は生活の文明的な優等化にだけ見いだされる。野蛮を脱し、暮らしの仕方は洗練・安寧・清潔化されずにはおかない。
 Liberalismは最大の寛容が目的ではない。それは最大の寛容による自発的な競戯飽和作用に従う、啓蒙の合理化が目的。つまり、自由は文明の繁栄への仮に名づけられた近代環境で生きるべき理屈だった。
 自由は文明への道具でしかない。同じく、政治や経済ですら、福祉行為の自発的な模索を誘導する事で試行錯誤を省力化する生態秩序内で考案されなければならなかった体系のみ。それらは目的とはならない、なぜなら、繁栄の為には類内秩序での市民的整列による種の数的中庸が理想になる可だったから。学問が対外的に芸術制作となる事でのみ、人は人自身が形成する精神に発育した偉大な善法に則り、あらゆる不条理から超越し得るだろう。ある不合理の群れは解決する為に現れる課題でしかない。人はある世界演劇で問題解決を行う役者ともいえる。

立派さ

例えばサルどもの巣を創る事を建築と人は呼んでいる。そもそも全て、芸術は二足歩行のサルの為に企てられたお遊びだ。繁殖活動、究極では文明としてのに程あれ協調以外に、どんな生活もできない。政経と学術。あらゆる人類の偉業ですら、繁殖の合理化へ寄与するべく設らえられた機能に過ぎなかった。
 人類の大部分はお愛想程度の理性を担わされたサルに他ならない。理想、我々にとって最高幸福としてのそれですら、思想的伝播、教育により類内競戯を効率化する方便に数えうるだけだ。君が偉大なる理知に突き動かされ宇宙の原理を科学的真理の認識というカタチで獲得したと確信できて尚、理性は君自身をサルの一部から精神の究極へ向かって高める。政治による実践福祉の善の幸福も名誉も、経済活動による趣味的それでも、全て、我々はrecreationに興じる動的個体でしかない。もしも唯一、偉大なる精神の至高性に駆られた君が哲学で得られる結論に応じてサルどもを社会参加的に啓蒙教育し、それらが地球型の生命体群に宇宙への創造的適応に一定の有利を与えられるものなら、それ以外にどんな立派もない。そして只の偶発的寄せ集めたる者が立派たりうる可能性はそこにしかない。君が人間原理をどれ程採用するかに求問の範囲はよるが。

2006年7月28日

建築論

文明環境を経年優化するにあたって必要なのは風情である。それは建築的自然空間の追究による。

神聖さ

人間が、神聖たりえる為に必要なのは、精神価値である。

2006年7月25日

Hellenism

Hellenismの根本には哲学精神がある。

建築論

計画の基本的定義は、構造と設備とを美学的合理のもとにまとめることである。その究極では、人工と自然とを調和のもとに置かなければならない。

建築論

普遍空間と自然空間の建築的差異を問え。普遍空間の基準は構造によって開放された可能な限りの等質時空にある。その究極の姿は、自然空間として解しうる環境適応的な文化組成である。もし人間原理に基づくなら、普遍空間は地球文化の枠組みに属する。

2006年7月24日

環境技術の市場

環境負荷軽減の為に、途上国の経済発展を抑圧するのは先進国民の恣意だろうか。エネルギー問題を解決しながら、彼らの自由な開発を許すような方策は見つけられないのだろうか。
 最も先進的な科学技術は、環境コストを最低化しながら最大限の合理性を指導する。ならばその応用は、先ず途上国の為にこそ適用されるべきだろう。環境技術は商業戦略に乗せられる事で、途上国における最大の利益をもたらすものだ。

建築論

建築家の根源は棟梁の気質にある。それは様々な職人の先頭に立って、全権に渡る責任を取る為の決意である。棟梁は文明の全ての技術を、最も優れた判断による指揮の元にまとめるのでなければならない。

2006年7月23日

建築論

人類の生活は次第に地球化されていく。というより、地球化された生活が我々の中に発生する。普遍文明の理想は地域風土個別性の脱出を志向する。にも関わらず自然空間は個別性を要求する。ここに現代建築計画にとっての、大きな矛盾がある。
 近代合理主義は究極的に、完全な均質空間を創造するよう導く。一方で、合理主義の更なる現代的展開の果ては自然空間の異質性を適度な範囲に利用する所に行き着くのではないか。為らば、建築の未来の方向性は何処にあるのだろうか。地球生態系の持続を促進する必要から、ある程度の期間、地球の各文明では自然主義的な個別空間を形成するよう要請され、またその潮流が支配的になるだろう。しかし、最も広遠にして偉大なる理想の建築が為には、あらゆる個別的性格を限界に至るまで抹消した普遍空間の必然が自覚さるべきである。それは宇宙船としての実現を要求している未来建築の基本理念である、と理解されるべきだ。地球の土地に根ざした創作物に関してのみは、自然空間の性格こそが地球的生活の証明になる。

建築論

地球生態系が太陽との適当な関係のもとにのみ、暫時的に成立しているものであるのは疑えない。それは永久不変の絶対なる核でもない。環境学が持続可能性と云う理念ですら、仮設の一時的関係に過ぎない。即ち、生態系は目的ではなく方法であり、地球の生存を永久的なものへ高めるために用意された土台でしかないのだ。これは生態系への調和指向を翻すことを意味しない。寧ろ、我々はそこから理想的な循環、理想的な生活環境の関係を学ばねばならない。
 生命が生存を目標とするのは宇宙の膨張に由来した多様さを維持・促進する為の仕組みである。人類における文明創造による永久繁栄の理想は、このような文脈から導かれた生物の本性に根付いている。
 地球の体系ですら、上記の宇宙的事象の普遍性に基づいている。従って、生態系は地球形態を可能なかぎり維持しようと努める運動量的な意志に合致する。そして究極的なその意味は、地球形態の維持という以上には無い。地球生態系が理想性を持っているとすればそれが多様な生命体の生存を養護するような循環の関係を仮設的にであれ、実現しているからである。我々は太陽と地球との関係性から学ばねばならない。

教育と伝達

自己教育の限界はあり得ない。それが他律的で、受動的な義務付けの範囲に置かれたならば、はじめて過剰の問題が生ずる。個人の自由権を侵すから。基本教育が国家によって現代なお義務付けられている理由は、知能格差の極端化を防ぐ為に全体統制による福祉が、私民により世論として容認されているからだ。
 以上を鑑みるならば、理想の応用は常に、学習を適切に伝承することに還せる。それは生存競戯を合理化する為に個人生活の自由選択の範囲へ帰せられるべきである。すなわち、教育の受容も授与も、自由競戯の原理のもとで成熟させられなければならない。

教育の用途

人類個体の学習の伝承を教育と云う。研究が彼等に益をもたらすとすれば、それが人類の知的水準を向上させ得るからだ。則ち、理想の結果は疑問あたわず、教育に用いられるべきである。教育によって民度は上昇していく。

2006年7月22日

猿の戯れに混ざるべからず。神のそれをこそ求めよ。

建築論

地球が奇跡的な現象なのは驚くに値しない。それは人生の現実に驚くのと同じ程度の奇妙でしかない。驚異なるのは時空間に関する法則的関係であって、それは自然の最奥で支配的に振る舞う意志である。かつて人々はそれを神と呼び崇めた。今は、我々によってエネルギーと名づけられている。生態系の循環性が道具たるべきを憶えるならば、有限の地球星に対して人工的に再現された自然循環が必要なことは考慮されなければならない。それは新しい星という船を創るだろう。
 或いは我々を含めて、地球の生命体はいつか人工的なそれか、既に地球に似た環境に移住する必然のもとにある。太陽系は構造ではなく、現象だから。これをかんがみれば、我々を取り巻く自然環境が絶対不変なる対象たり得ないと分かる。則ち、自然は目的でなく、方法であって、少なくとも理想のなかで、人工的な環境統制を経られるべき平野である。

2006年7月21日

哲学の構造

単に生物の多様性を促進する為に生き延びるべく使命づけられた個体が君の実存だ、と言わなければならない。その自由の限界は精神と呼ばれる脳の働き方に依存する。サルトルやハイデガーの論考はすべて、その様な生物構造に依存するものにとどまる。
 では、人々が文明生活を指向し、種内多岐性と生物の地球種を富ませるべく働くのも又、同様の原理に導かれたものにちがいない。もし人間という条件において高等な生と下等な生とが善における質的差として見い出されるとすれば、その基本的定義は活動の福祉性に求められなければならない。乃ち、理想の自己目的幸福を最上とした福祉的生は多少なりとも高等な知的活動であり、それ以下、快楽、さらに有用さの順に下等な利己的成果に留まる。
 だがもし理想に生きる個体を最上の善の結晶だと見なすならば、我々は一様な生へ向けて生物構造の本義に反することにはならないだろうか。知的多様性はそれ自体が人類における生存の別性とも謂われる。人類の猿類との最大な差異は知能の顕著な発達の事だ。ならば、順当な発展の順序はやはり、理知性の開発にあると言わなければならないだろう。それは善なる個体と以外とを選り分けるほどにもなり兼ねない仕業ではあるが、かつて、知恵の実として旧約聖書に考慮された如くもっとも、悪なる個体、獣的・非理性的な人物を徐々に除去するような仕組みに文明はある。哲学は知能における福祉性を養成することで種内秩序を最大多岐と寛容な突然変異可能性のもとに置こうとする体系。

2006年7月20日

言語論

文学における目的美としての言葉と、哲学における思索の道具としてのそれとは、違う様相のもとにみいだされる同じ体系の組み換えなのだ、と知るべきだろう。
 もし異言語間の差異が強調されるべきならばそれは文学による。何故なら、文化的観念のちがいは表現の多彩を誘い、個性のために重要な演出装置となるから。ある言語の慣用の微妙を他の言語で充分にあらわせるだろうか。それが不可能なら不可能なだけ、文学同士には競戯と発展の余地がある。差異を無際限なまで微細に分接化していくなら、文章の意義は自体が固有価値を帯びる。
 だが哲学において概念の為に、異言語間の文化的ずれがあることは決定的な不都合ではないのだろうか。どうしてかと言えば、ここで言葉は道具であって、観念の到達と伝播を巧むために使用される様な合理的な体系であるべきだから。ならば人は、哲学用の言語を創案し、それを全人類に共通の規則で回転させればよいだけではないだろうか。そうすれば翻訳とか通訳とかにまつわる誤解の不条理は消滅するし、或いは、あらゆる言語構成の責任は、ただ個人の知的実践力だけに帰着しうるかもしれない。
 しかし、これは現実味がない。思索が文化を抜きにして不可能である由。我々はとりもなおさず、文化的理念に基づいて考える。
 言葉は文化を本質に持つ。それは文法・語順・用法・語彙などの語学的な違いである以上に、言葉のなかに有する思索の仕方にまで言語を取り巻く生活様式からの影響が多大であるからだ。しかし、哲学こそは言語における文化を手段に用いる。普遍性は異言語間のずれを許容するような次元にのみ、確定される。

言語論

哲学が言語の使用という手段に基づくものであることは現実で、又そこで試される観念の組み合わせからのみ、理想は図りうる。人類が今より遥かに知的に進化した未来、言語は今と元通りの構造を保っているだろうか。恐らくそうではない。言語は不変でなかったし、可変であるべく意志伝達の媒介として用いられる基礎にあるから。
 それにも関わらず幾人かの哲学者たちは言語の構造に哲学の問題解決の鍵をみつけようとする。もしかすれば言語使用のうちに確かならぬ事情が見受けられるに違いない。思索は曖昧のうえで踊らされた、不毛な観念の遊戯かもしれない。だが、それにもかかわらず、我々は考える本能、乃ち理性に宿命づけられているし、それは言語の用法を暫近的に改造し、communcationを改良せずにはおかない。いわば、哲学にとってことばは絶えざる変容のなかにある様な道具であるしかないだろう。たとえ口語であれ文語であれ、思索のために用いられることばたちは普遍的な観念を要求して改変されていく。
 我々が対立概念に見出すのはその試行ではある。男と女、白と黒、天と地、生と死、善と悪、真と偽、美と醜などの語彙は、普遍的な定義の為に利用されるべき根源に近い概念故。

生について

様々の個体が独自の生活を経る。彼らは一様に種内多様性の媒介。理想人も死の事情を免れ得ず、また免れないべき所以は、彼らが有性生殖を生業とする哺乳類である所に還元しうる。或いは今日に最適化した個体よりもずっと、明日は今日の落ちこぼれが最適な環境が生ずるかもしれない。
 ならば、生きることは自体が善。そして生きることの普通の善は、文明の創作、生産に合理的な環境のrecreationへ貢献する事。
 もし君が人類という種の進化の先において最良の模範たる個体ならば、理想を最高善とみなさないわけにいかないだろう。それは知能の啓発を目的化するなかで善の実現を図る生活の仕方に他ならない。

知能と善

知能を向上させることが人類の総合的目的ならば、低知能者には存在価値がないのだろうか、と人は、理想主義者に問うだろう。人が懸命に思考する作業でさえも、とりもなおさず地球諸民にとっての目的の部分。知能向上の方向性は千差万別。それは枝葉多岐化を通じて成長する。
 あらゆる人類の個体群は、利己主義に根づいて生活を全うする。我々は文明のなかにその現れを観る。だが、人類は生物だ。文明の基本的理由は、環境の改良による種的生存の延長。
 もし哲学が事物の批判を通じて善を追究すべきものなら、その思考の目的性、乃ち理想性とは、知能を更なる神格へ向けて啓発していく様な体系ではないのか。
 哲学の成果たる文章体は様々に落ち着くとしても、その目的は一つ。つまり、普遍善の神格。すべて哲学者は必然の道を辿って善を欲する。ならば知能自体は善へ至る方便でしかない。

目的

建築が人間の巣をつくる試みであるのは疑う余地がない。だが生態系の循環性を想えば、その概念は自然そのものを再生産するところまで拡張されるべきである。こうして、建築は自然の回復であると共に促進であり、地球の計画的な創作ですらある。
 建築計画は宇宙の形態を合理化するなかで整理された秩序を造り上げる。それは自然そのものの法則に根本的に合致し、造形物間に独自の変化をつける。そして建築の究極の目的は、宇宙の合理的秩序に寄与することである。

建築論

自然空間に固定的な正解はないし、一定不変の型もない。それは環境適応を目的とした最適化に向かい、漸近的に進化する概念である。しかし、この基本では重力に満たされた均質空気のある普遍空間の理念がみいだされなければならない。何故なら合理的空間を形成することは建築の基礎であるから。
 地球外の宇宙において自然空間はありうるだろうか。圧倒的に非人間的な外部環境を適応の為に利用するのは当然ではある。人類のあらゆる建設も、この基盤のもとに創造されることを要する。

2006年7月19日

建築論

建築空間が先ず何より人間の巣をつくる使命にあるのは確かだ。それは近代建築の原理に則れば諸々の物質を利用して空調や光量など、環境的諸要素を人工的に操作した均質空間を確保することである。これは普遍空間を意味しない。何故なら無柱の大空間である必然はないから。たとえばファーンズ・ワース邸における外部環境との密接な関係は意図されていないとしても未来の理念なのではある。ミースが外壁を可能な限りガラスにしたのは必ずしも環境建築における自然空間を指向したのではなかったとしても恐らくはかなりの程度、西洋構造主義の文脈からの新しい鉄骨・軸組み構造に対する興味からもたらされた副産物ではあろうが、同様の結果をもたらすに必要なものを提案している。それは閉じられたコンクリートの箱ではなく、開かれた場所なのだ。
 先ず我々にとって空間の心地よさが何から生じるかを考えなければならない。即ちそれは必ずや普遍性と、個別性とを伴っているだろう。場所の特異性を産むものが何より、それの属する環境であるのは疑えない。もし空間が空中を移動するような可変的なものであったとしても、同様に。地球の建築においては、普遍的空間の個別的質が問われるべきである以上、自然空間は人道的概念でありうる。

造物主と精神

生物は凡そ生存を目的に創造された自然の産物ではある。しかし、自然の底で世界を支配する法則は誰の手になるのか。「法則の定義は彼らの知能にのみある」という独我論では説明不可能な驚異だ。精神作用ですら、その様な物理化学的法則として理解できうる現象に過ぎないのだから。
 ユダヤ教をはじめとする各地の民族信仰でかつて自然的なものはあまりに異常で不可解に違いなかったので、超自然的な権威を思想において創出して、あらゆる説明不可能な事象をそこに帰して知能の慰みと供するしかなかった。だが近代社会では科学的な認識がすべてを明らかにして行こうとする。勿論ながら、造物主なしに法則づけられた宇宙に関する認識もまた、批判される時を待たない。
 法則はなぜ見つけられるのか。それを知らなければならない。

建築論

自然空間は普遍空間の理念を環境適応のために応用したもの。即ち、地球あるいは外部上での環境の質的差異を芸術に迄還元して快適性および費用として考えること。
 建築はここにおいて人間的な自然と同化する。その目標は生態系との調和を図り、文明の永続性に寄与すること。

2006年7月16日

建築論

理想的普遍空間には環境に最適化した質の付与が必要とされる。人間にとって適度な調整均質空気で満たされた空間量の定義としてのみ用いられてきた普遍空間の理念は、その環境最適化という方法論によって自然空間の理念に翻訳されうる。そして近未来建築の定義はそこにある。

建築論

素材の洗練はそのまま建築表現にとっての可能性を意味するところ大なので、建築史とは、究極まで還元すれば素材史に過ぎないと言える。
 設備・構造は同様の時代性に、常に制限されている。従ってある巨匠の最良の構築物ですら、多少あれ過途的なもの・可変空間にならざるを得ない。
 普遍空間の理念はここから計画の意義だけを抜き出して、永遠的なもの・不変な空間に漸近しようとする。それが文明の建築的力学を代表する現代だったのは確かだし、おそらく永久にそうだろう。ベルリンのナショナルギャラリーは現代建築の古典的記念碑として、地球規模の文化財である。
 普遍空間のヒューマニズムを、より生物主義的なものにまで還元しなければならない。人間相対観のもとに思考を突き詰めれば、空間の質的差異が問われなければならない。均質空間の、脱構築が謀られる可だろう。
 環境合理に従って、心地よい空間の定義を更新する可だ。それは人間様式のなかで、自然環境に対する最適化を図る漸近的進展に因る。デ・ステイルが真に普遍的である為には、人間相対観が是非とも必要だ。体感要素ですら我々の知能程度に依拠するから。

建築論

合理主義は環境建築に直結する。たとえば、君が日本で建築するならば、日本風土に最適化した環境をつくることに集中する可だろう。建築は普遍的形相へ向けた環境の再創造であり、それは人類にとってすれば、地球という地域に固有の表現に、常に制約されている。重力、空気、人間の形態ほか。普遍空間の概念ですら、人間原理に導かれたものでしかない。それは可能なかぎり現代的理念ではあったとしても、宇宙に対する客観的に正確な空間概念を言い当てていない。

建築論

必要最小の自然破壊によって、充分最大の都市構築を図るのは
建築計画の基本である。それは生態系の繁栄を志向するような再生でなければならない。人類自身が生存を確保し、文明生産の合理化を謀るのみでなく、更に自然を理想的なものにまで昇華しうるのでなければならない。
 建築は自然調和の最適化を模索するが、他方では自然自体の中庸な制御によって別坤の自然をつくりあげる。ここに景観建築の概念が発明される。

2006年7月15日

宇宙物理学

宇宙は何故に、どの様に膨張するのか。わずかな膨張が我々の属する宇宙の帰納的事象なのはentropy増大則によって証明できる。
 多様な宇宙modelのうちから我々の属するそれに最も近いそれを選択する術を考えよ。
 なぜそのモデルがエネルギーによって選択されなければならなかったか。確率の意義。
 君が生存する理由は量子論的確率なのだ、と考えることは妥当ではないのか。しかし、それでは法則として理解しえる宇宙的秩序の理由が如何にして説明できるのか。

理由

お前は何のために産まれてきたのだ。導かれて子孫を残し、精神の命ずるままに繁栄の道たる文明を築く。お前は何のために産まれてきたのだ。猿の一種としての拙なる生存を自重し、僅かな生涯を必死の形相で過ごす。お前は何のために産まれてきたのだ。どこまで進もうと、お前が人類である限り、政経・学術の活動にしか至高の生活意義は発見できない。そしてお前はそこに不完全なる慰めを見出すしかないのだ。卑しき獣め。お前の脳髄が下等下劣であることを恥じよ。生存した理由を知らず、ある種の者に至ってはそれを信仰に合理化する。哀れな奴らめ。
 お前には宇宙の膨張の一部という側面しかないのだ。それ以外にどんな必然性もなく、宇宙自体の生成ですら、確率論に帰すべき偶然の産物に過ぎない。
 お前が生きるにはそれ以上の理由はない。お前の原理は生存目的に開発された自然の機械なのだ。利己主義にしかお前の根本的規律はあり得ない。たとえ最高善たる理想による文明福祉を含めてすら、結局はお前の属する生命体種類を生存させ、繁栄させるなかで個体間種内競争の結果、新たな宇宙の動的形態を生じさせようとする膨張運動の一部としてのみ、生活の具体的事情は定義できる。お前の拙い知能ですらも、その為に設らえられた機能に過ぎない。

最高

「哲学そのものが理想の目的である」とする理想主義の立場は、人類の生活における最高の次元を引き上げていく。

2006年7月14日

神事以後

知能格差は階級闘争の合理化を指南する。それは教育の原理にも関わらず、神類を創出せざるを得ないだろう。人工知能の延長線に機械人類が予想できるとしても、尚。
 神類は人類の必然的種内競争から生まれ、人類以下に対する搾取の型を定着させるだろう。突然変異と人類進化の時期について迄は予測されていなかった。それはいつ起こるのだろうか。人類の生態的地位はそこ迄の確実性しか持たないだろう。

2006年7月13日

善為の教育

人類個体間に知能差が観察されるのは種内競合のしくみ。より類人猿に近い個体、より神類に近い個体が発生するのは自然。なぜなら彼らは同じ環境適応の漸近的変化行程を経て進化してきた。近代社会のrule、自由主義においては、現代、民主制の必要から事実上、権利平等が唱えられている。これに有力な根拠はない。形而上学的な飛躍を含むかもしれない。定言命令を普遍的に根拠づけるのは何か。それは個人的内省に基づいた、少なからず直観的な信念ではないのか。
 知能格差は必然に階級闘争へ直結する。我々が身分を利用したのはこれが故。身分制度は平等社会と矛盾する。これが社会主義の不可能さ。それは神格の顕現である以上、理想の善は身分格差を拡大する作用を持つ。
 教育はこうして、進化の文明経過における調整的正義として必要。それは知能格差の中庸化の為の機構。

人類の知能

本能的知能に対する理性的知能、つまり大脳新皮質は抑圧の昇華によって成長した。それは精神という形に還元されて尚、自然。もし人類に今日的地球生態系における存在意義があるとすれば、行動規則に対する多少の自己改良の余地乃ち意識を有することにのみ、ある。なぜならその他に哺乳類における種的差異の特筆事項はないから。故に精神は自然の創作物でしかなく、又それに思考可能なものが超自然であることはありえない。
 知能の向上という人類の使命事は、彼らの生来が反自然だからではなく、脱獣的、いいかえれば神的だからだ。よって、人類という種の進化の方向性は知能の目的向上として立ち現れざるを得ないだろう。ここで知能と云う時、それは一元化されうるようなIQではなく、非本能的・理知的な働き全てを云う。

2006年7月12日

建築論

近現代都市の為のもっとも基本的なモデルは、ル・コルビュジエのヴォワザン計画に観られる。それは超高層集住と立体的な交通整備・地上緑化を指向するような地上の首都。
 人類の社会形態が如何なる経過を辿るにせよ、また風土の影響でそれが仕方ない地域個別性なのだが、多少の差異が残存するとしても、生物学的集中の利益に導かれて地球における人間生活環境の中枢はそのモデルの近似形に向かうだろう。

建築論

建築の目的は合理主義でなければならない。それは地球生態系を促進する様な人類の快適な生活を保障し、自然を再構築する中で宇宙秩序の美を形づくるような体系的建設。絵画・彫刻すなわち遅速的な物質的環境を含む空間造形としての建築は、それを為す彼らを取り巻く物体を利用して、一定の秩序立った方策のもとに再構成するような整理の方向。それは混沌度に対するある範囲の制限を加えることで宇宙空間に抑揚をつけて文明を美術的に昇華する。

2006年7月10日

神格の善

肉体は哺乳類のままにとどまるとしても、精神は神格へ向けて限りなく成熟していける。
 人工知能(AI)の適当な生育段階での移植による知性改良や、DNA操作による新種の生命体に対する人類の態度は飽くまでも神的でなければならない。我々の知性に幾分の理由があるとすれば、その考える自由だから。したがって、神格の追究は同時代な哲学の命題でありうる。

言語哲学の周辺性

言語の問題は哲学にとって本質ではない。言語は目的ではない。それは哲学において、形而上的概念を造出する為に用いられる道具。
 文芸における言葉は目的。それは美術としてのことばの戯れ、又その他にどんな目指されるべきものもないのだから。

知能相対観

人類の理想趣味が普遍的か否かを問え。知能の概括は大脳の性能に依存する。ならば、脳髄が人類におけるより発達した生命体が宇宙の周縁に実存した場合、我々の自己同一性は相対視されなければならないだろう。いいかえれば、地球における現在的な地位についてのみ理想主義は善。
 もし我々より適応力に優れた種が人工的に、ですら発生した場合、人類の生存価値は保険としての単なる多様可能性の範囲にまで還元されてしまうだろう。よって、理想主義は飽くまで仮説にとどまる。だが、尚それは善を求める人々にとっての地球的規範であり続けるだろう。

人類の生態目的論

快楽は君をどこにも連れて行かないだろう。アリストテレスが云う様に、快楽は生活をより幸福にする為の方法であって、目的ではない。なぜなら、それは脳内化学反応の結果であり、しかも生態balanceをとる為に仕組まれた相対的な反応に過ぎない以上、肉体的な中庸を要請されるから。君にとって目的なのは、理想でなければならない。それはそれらの具体的実現よりも質の高い快楽であり、その分、有益ですらある。
 理想は知能発達の促進という進化の過程を辿る、目的視さるべき活動。それは人類の地球内生態的identityを実現する。

人生

生活の限りない知性化に由る。

2006年7月7日

自然と人為について

人間の善は自然の支配にある。調和の理念は人為性を自然性より優位に持ち出してはじめて意義をもつ。なぜなら生存闘争の種内競戯化だけが突然変異との共存として自由主義社会を可能にする方向。それは競争をgameとして定式化し、後天的な学習者にできるだけ有利な条件を与えることで、繁殖対称性balanceを調整する結果にある。

 もし自然の語義に、より広範な内容を与えるならば、人類が生態的地位の飽和を利用し文明を目的化することですら自然の善ではある。だから、哲学という形式で正義を問う行為は地球人類の善導に等しい。

文明論

なぜ生きていくのか。人類の理由は文明建設の合理を悟る段階に有る。もし君が神格に達すれば、宇宙秩序の為に世界建設へ参画する意義を感じながら生きていける。それを自在と云える。普遍文明は自然に対する正義を主張することで、都市を理想と見なす。全て善はその世界の人為関係を養するための心理でしかない。究極的に達成された世界は理想郷を体現するだろう。
 この故に君は生きていかねばならなかったろう。善導はあらゆる建設の基礎たりうる。

権威論

君が如何に考慮するとも、地上の権威はすべて戯れに過ぎない。それは無常に属する非・形而上学的な執着であり、顧みられる可ものではない。にも関わらず、制度は権威を手段として抱く。権力の分配に効率を導入する為に。地位・名誉・栄典は現世にとっての下らない潤滑油の役割を果たす。

空色のせせらぎが地上を隈なく満たす光になって消えていく。無数の鳥が飛んでいく風景のどこかで、君は月の涙を受け取る。海の底を覗く。キラキラ輝く海底の景色のなかで、世界で最も大切なものが話しかけてくる。
「何のためにあなたは生きているの」
少なくとも産まれたからだよ。それ以外に何が。
 私はいつでもここにいて、旅立っていくたくさんの命の息吹きを育んできたわ。そうだろうね、海の字のなかには母なるものが存在する。太陽よ。ならば、我々は星屑の子供なのだ。
「どうしてあなたは産まれたの」
太陽系の秩序がそれを満たしたから。あなたは本当に、産まれてこなければならなかったの。必ずしもそうではないかも知れない、何れにせよ貴女はわれわれを羽ふくみ、育てた。
 けれど、生きていくことはいつも困難だ。
「私に責任はないわ。すべては偶然なのだから」
 やがてイルカの群れが一場の光景をすっかり塗り変えてしまう。
 水中に奇跡の虹が架かり、ふわふわクラゲの間に夜の帳を下ろす。竜巻が地上を制覇して沢山の人々を殺し尽くしてしまうだろう。それでも、海の底は依然として平和なのだ。
 夏休みが来て、小学生の列がどんどん海岸を浸してしまう。渚を騒がせる潮のかおりがやがて、色んな風味を満たす。

2006年7月6日

建築論

計画された自然公園をつくることは、都市建設の基本的演繹。煩多な市民的合意の過程が必要の民主制の国家では、これは資本家の知性にある種の幸運が神がからない限り実現しない計画にすぎない。よって、現代都市は殆ど自然発生に近似した帰納的構成によってしか普通の表現を持ち得ない。
 他方ですべて、建築家という職能には実現可能な計画規模と、それを導き出す運に限界がある。すなわち、彼らの大部分はは矮小な土地に対する点景としてしか文明生産に参画できないし、またそれですら、自由主義の制約、大衆福祉的説明の義務によって抜群を実行し得ない。そのとき創建者の任務は、最も明快な都市展望、単純化を計画のあらゆる部分で思想と手法の両側面から提案しつづけることで、知的生命全体の方向性を美導することだけだ。ここに現代の建築家の定義はある。

建築論

すべての都市は文化からのみ成長する。従って、環境から完全に自立した生物主義的巣は半永久に存在できないだろう。しかし、それでも生物の活動は、文明化の自由を理由に、神造の自然とは別の改良された秩序を計画しようと欲する。ならばあらゆる都市は文化に根ざすことを余儀なくされながらも一方で、必ずや普遍都市の次元を目指して量的・質的に成長し続ける。それは同時に、漸近的な天国の創出でもある。だからあらゆる時に住まう幾多の棟梁達よ、君の属する時代に依りて試みざるを得ない工夫の種々をやむを得ない方便としてこそ卑しみたまえ。それを技術と云う。
 真の建立さるべき合理秩序こそは、理想のうちにのみ存する。それはあらゆる実際の形相を導くための永遠の美の泉。

建築論

都市における自然が緻密に整理されたものでなければならない理由は、人工環境の基本的秩序はその自然に対するエントロピーの法則ある整頓である、という現実的事実に観察しうる。それは無秩序な非我を人間味の為に改良する試みであるから。再生の都市環境的意義を否定したところからいわゆる文明都市の片鱗は発生し得ないだろう。

建築論

私は建築造形物における単純化を普遍的合理として信じる。それが詳細の化学的性質から自然環境を含む都市計画まで、広義に適用できる規範だと考える。何故ならそれがかつて考案されてきた、また将来予期されるはずあらゆる複雑な設計のための基礎となるのを疑えないから。

2006年7月4日

永久繁栄の理想

普遍的善は文明にある。それは野蛮を改良しようとする永久の意志。それでも人類に永遠の生存価値がある、と信じる者の為に我々は種的枝葉の一形態としての自己正当化を図るべく永久繁栄の理想を観る。

理性的生活

哺乳類としての人類という命題が、殆ど彼等の希望と絶望の全てを包含していることが君には、哀れに思わずにはおけないだろう。それは繁栄的生存の促進を幸福と見なし、これを侵すものを悲劇と為す。どんな理想ですら、その為の方便という事実しか持ちえないだろう。それでも生活は続くのであり、文明化を志向する以外のどんな未来も君にはない。地球文明の推進以外に繁栄を仕組む道はない。だが、どんな生活でさえも縁起律から逃れえないだろう。ならば、繁栄する文明に加担する理由は唯、人類の理性的な本性に基づいた暮らしでしかない。なぜそれを暮らさないのか。なぜそれが自然でないのか。

共栄

何のために地球世界に産まれたのか。それは共栄を指向して構築される生活ではないのか。実存の理念が結局のところ、人間的なものを神格化することに帰着するとすれば。

理想

人間を襲う様々な問題のなかでも、更に分け隔てなく人を捉える事とは正に、生活の地球性ではある。いいかえれば、君は地球人類としての命題に常に追われているし、これからもそうだろう。だから、地球人類としてより正しく生活しうるように努力せよ。それは理知の追究にある。

2006年7月3日

秩序

文明、星空、天国、宇宙は似ている。

生滅

生滅してゆく命のあわれさ

幸福論

普遍的な善さを求めて考えることは、自体が最高幸福へと人を高める一つの道。それは、人類を構成する生活の一部としての文明だ。しかし、善が実存から遊離して有り得ない以上、我々の実践理性的な思考は常に一定の方向性へと君を指揮しなくてはならない。それは哲学が地球的活動である事になりはしないか。近代文明はいずれにせよglobalだ。それは地上を充たす迄に進まない訳にはいかないし、実際に進んだ。人類の思索が脱構築的生物相対観を基礎にした暁には、善の区域は神化する。哲学は普遍の善を追究することで神格的理性を獲得していく途上にある。それは宇宙が産み落とした種に宿った宇宙性ではないのか。我々は我々自身を普遍化する先で、宇宙の目的へとより合理的に親和する。それは幸福なるものの実現ではないのか。

人間について

絶えず増殖していく生命体群のなかで君が、少なくとも現時的地球生態系内で知能に特化した動物であることを想う限り人類の基本的目標は、彼等を取り巻く環境の優化にある。乃ち種内多彩の推進、文明を超えて、我々は地球型生命体の適応力向上のため種外の生物に対する人為的改良の連綿により、更なる多岐と共栄を計らねばならなくなるだろう。人間を万物の霊長と呼び、地上の指南者の地位へ自ずから立たせるものは知能。
 だから、君はよく勉強するようにしよう。終生はより良く、より高尚の課題研究をす可く設らえられたものだと考えるがいい。そうすれば地球の何処に暮らそうがidentityを保ちえよう。

文化人の定義

悲劇の領分を侵し、幸福の区域を拓く事。これだけが人生に宛てられた命題ではある。しかしなんとこれを解く為の道筋の多い事か。それが故にまた、効率の違いも莫大ではある。こうして殆どの成人達の自由は失われる。何故なら思索を永続するには相応の辛抱が要り、それより安易な紛い物に手を出すのが楽だから。
 凡人として生死する彼ら。君自身の生涯が何処に有るにせよ、文明化という命令は常に君の前に提示されて行くだろう。どんな個体でさえも文明建設の作業者たらざるをえない。だからそこにあるのは貢献の重みのみであるだろう。

競戯

地球の諸地域に存在する個体群同士に如何ばかりの差異が存すると言えるかを想うべきだ。而して対比的に実存群に基本的等価性を見出すだろう。ならば、君が有する国籍であれ人種であれ、その基本的意義は云わば競戯のため用意されたteamに過ぎないと知れる。
 そうすれば君の多少なりとも普遍的な立場は先ず、人類としての一員の次元にまで還しうる。君自身がどう考えていようと、自分の生活の側面はすべて、地球人類という生命体にとっての行動を代表せざるを得ない。君が如何に生きて死ぬ可きなのか、又それによって何をか再造物す可きなのか。

完全性

完全を想うに如かない。それは永遠の自己向上を志向する理性に基づかなければならない。

2006年7月2日

詩学

人間が生き残ったことは楽観視すれば正解だった。文明の進歩はそのまま、生活における幸福の度合いを増し続け、産まれて来た事をより大きな喜びで満たすだろう。だが一方で悲観すればそれらは社会的抑圧の領域を増し、外的な類内競争の乱暴を穏やかな個人間へと内部化していっただけで実際には諸法無我の結諭たる絶対的孤絶の悲しみは、知能の発達と伴に益々深まっていくばかりだろう。
 悲惨な戦争はなくなっていく。だがそれに併せて、人々の間に交わされる抑圧も深まっていかざるを得ない。人の使命はあらゆる社会的機構の力で暴発を防ぎ、浄化の矛先をめでたい調和のそれへと転化していく試みだ。そうして地球世相の表面から悲喜劇を逓減することを目指さなければならない。

善の方法

仮に君自身が如何に望もうが、生態系の不可避的な抑圧、競争による生産合理化から逃れる筋はないだろう。ならば生命の理想郷は、生物学的な生存の秩序のなかには見いだし得ないだろう。少数派支配は常に全体の寡占之競争を効率化してきたし、これからもそうだ。
 あらゆる現実において競合のない地点に生活することは不可能だと悟るがいい。そして理想の内部でしか安心した充足を知れない事を。
 尤も、理想でさえも君の生活を仮設的に救済することしかできない。悟り或いは超越という仕方で。しかしそれ以外に、種内の均衡的な非生存競争化、乃ち共栄たる善を実行する方法はない。