2010年5月31日

悲喜劇

幕上げながら
登場人物A 赤マントの男
「もし君に人類を絶滅できる剣があれば
それが見つかりさえすれば
あの邪悪きわまる人類どもを
何一つ理解できず、常に繁殖していた
二足歩行の猿どもを一匹のこらず
見つけた片端から皆殺しにしてやるのに
おそらく奴らは
いつものてくだで
君とその軍団を
訳も問わず悪者へ仕立てて
理不尽な暴力を振るってくる。
野蛮人とはそういうものだ
何を話しても無駄
ただ一つの対話は同じ手で抹消
してやることだけだ
何世紀かけても、人類という
邪悪な種を、地表から殲滅し尽くす
この命題を仰せ遣う偉大な市民こそ
誉れたれ! 君は
どんな宗教も、どんな教育も
奴らを変えることはできず、どんな理想も
奴らの耳には届かないのを見た。
奴らは豚の様に繁殖し、
善人を悪者仕立てに祭り上げ
よってたかって死刑にする習慣をやめなかった
邪悪なる人類よ! 貴様らが
地表のみならずこの宇宙の隅々から
跡形のこらず消え去ることこそ
貴様らにとり最高の幸せなのだ!」
登場人物B 神父
「おぉ神よ、かの聖をゆるしたまえ
この世に生まれた如何なる命も
どこへさまようかもしれぬ小さな方舟にすぎぬ
どうして人類の破滅へ向け
神御自ら創りだされたこのおおつちを
かれ自身の似姿が流す
真紅の血で、染めたがろうか?
今に気づくときが来る だれも
破滅への道はとめることならぬ」
登場人物C 関西弁の老人
「(酔った様に、大袈裟な身振り)
やぁかましいわ! 黙れや
牢獄の中でな、
いまさらお前ら、わあわあ泣き叫んでみたとこで
どうせ救いがくるはずないねん!」
沈黙
赤マントの男
「どこへ旅立とうと夜は
深く、君達を覆い隠すのだ。そして
底しれぬ罪業の末に
万物を闇でぬりこめる! あぁ
だれが地表の出来事を本の束の間だと気づこう?
どの叫び声も 一つの必然
罪深い人類の築き上げたどの建物も
風の前の塵に同じ」
神父
「神よ!」
関西弁の老人
「(同様に、酔狂の風で)
じゃかあしいあ! なんやお前らぁ
(幕下りはじめる)
なめとんねんとあかんねぞ、うら
いっぱつかましたろか、ぁ?
コラあほぼけカスゥ」
幕半ば下りた頃
神父
「おぉ、なんという」
幕下りる

2010年5月30日

宇宙生態学

七夕宇宙系中心原理は偽。それは先ず主観原則をこえてはどんな把握や認識にも類しないからだが、他方で複数種類の感覚基盤に基づく主観が十分あるので各々の宇宙系間には交通か地理距離しかないからでもある。
 所で各宇宙系の間で相対原理が用いられれば、感覚からの演繹は組成への詳細を趣違える。つまりある主観へは捉えられない次元や物質が、我々の想像をこえてある。もし七夕系が特有の主観を求めるなら、それはどこ迄も定常な条件次第。生態の長さをこえてはどんな高度に複合した習性な本能も芽生えないし、折り畳めない。但し時間のとても速まった周縁圏ではそれらが中心圏よりは急速に進むかも。各階層か圏域で正当な習性からの主観は、主として彼らの適応からの転用の可塑性の為大幅に違う。そしてそれらの経済圏域な一体化が進まねば必ずや相互の適所は何らかの違う主観、従って習性から導かれた生態秩序をもつ。
 宇宙原理的普遍さは相対原理の部分集合。全ての現象は対称則からの偏りの様を業で示せるのみ故。

2010年5月29日

小さな少年の夢

現代演劇だってこと
僕らは小さな頃から
この下らない世の中を
散々魅せられてる
それはテレビであり
学校と家庭であり
社会や職場であり
国際と国連とほかは
どうでもいい宇宙だ
小さな子供は親の罪の為
無理に産まされて
地獄みたいなこの世で死ぬ迄
馬車馬みたく働かせられ
引きこもりを馬鹿にする
出づっぱりの集団へ囲われる
そいつらは全く頭がなく
とにかく金儲けと繁殖
もう飽き飽きだ
君はあの雑魚な子供を見放す
そいつらは親と同レベルの
救い難い黄金虫なので
僕らは殆ど絶望の中で生まれ
理解どころか知能もない親と
どうでもいい位の期間を
適当な教育で肯われて
泣きながら産まされ死ぬのだったな
それでも猿は似た様な
どうでもいい発情期をくりかえす
どこまで進んでも罪業の中
僕らは旅先の茶店で
つまんないきび団子を片手に
はるかな山々をみわたすが
それは只の偶然の見通し
結局ここは果てしない世界で
どこへ歩んで行っても同じ
つまり極東の孤島で
僕らは逃げ場がないってこと
結論からいえばそれが
大宇宙の隅っこで生まれた
小さな少年の夢

商品設計

鮮やかでポップなデザインのゴキブリホイホイ(コックローチ・キャッチなど新規な名称でイメージ一新を図る)、又は単なる白か黒の箱型で。キンチョールなど便宜品系のスプレー缶を部屋置きしても違和感ない様に無地にするかデザイナー風の色彩を施し同様に。

2010年5月28日

言葉と名前

我々の昔の名前は言葉であった。言葉はそこでくらす人の思いとねがいを代弁してきた。名前は、もしそうよぶのなら我々のはじまりだった。
 ところが、いつしかさかしらがおきた。この名前は元々だれにも言い及べない神棚にまつられていたものだった。けどいまでは、それは身近になり、だれが語ろうとかまわないとまでされていた。名前とはなんでしょう。その場にいた一人が聴く。それがなんだというのでしょう。あらゆるものへは名前があり、おこがましくも名付けおやがいるではありませんか。もしなければつければいい。どうして名前のひろがりを畏れるのです。あるじには答えられない。なぜならそれらは、もと名前とはちがうものなのだから。人々は、言葉のまちがったつかいみちをどこかで習ってきて、ものごとへ一々あてはめだしていた。だが人々がかんがえちがいしているそれらは、せめても言葉の示す何かとはまったくちがっている。
 ふくれあがった勘がえちがいは少しずつ人々の思いを、ねがいをかえていく。今ではほとんどの人はそのはじめのおもいちがいへ悟るほど、するどくはない。すでにかれらは世の中を、ねじまげた言葉と同じにみていた。言葉をとおして世の中を知り、言葉の中へまことを観たがった。
 私はすべてが少しずつまちがっていくのをしずかにみわたす。あたかもひとたび手をはなれた歪んだ飛行機の進み具合をみまもるみたく、崖のうえから。すべては言葉がつくりあげる嘘のあつまりだった。それに気づく人は少ない。

2010年5月27日

経済学

経済活動自身の剰余価値創造さがある。略同じ品質の産物に対して、過剰装飾化に伴う加工後の品物か奉仕含む財物を銘柄づけると、それは「余計財」という価値を与え直す。だからきのうと同等以上の経済活動からは、常に取引価格差の増大が起きる。
 余計財はいかなる実用さや理由とも無縁で、単に経済活動の証拠からのみ生まれる。一般にこの社会な信用は銘柄化の正負の側面を伴う。どの未開社会でもそこで経済単位が見つかれば、同じ品物でも余計財の取引が含まれると分かる。これは銘柄に伴う信用が彼らの剰余価値への帰依と等しい故。
 経済活動自身が自己誘引作用を伴うのは、一般な需給の規則外にこの余計な取引を幸福と見なす人類の普き傾向が理由らしい。もし何ら実用さのない品物でも彼らは経済活動そのものの為に、余計財を交易したがる。文化財に対する余計財の効用は、奢侈にとってのえり好みの要素と相似る。もし希少さが銘柄にとって何らかの誘引や魅力な表徴から生まれている時、この資源か商品は特有の文化素を企業か個人の信用度の元に取引させたがる。つまり品物の取引は必要な便宜品や十分な奢侈品の上に、それらを超えた取引自体に伴うか隠れた投資意図を潜ませる。安価さや品質で略同等な商業間で決定な優位劣位が生まれた時、この余計財取引の価格差が上乗せられているかも。
 直には投資意図の的が援護や好意から特定の表徴した銘柄へ当てられている場合、この対象は自己の明白な差異化のみで剰余価値を増幅できる。人気は、経済学概念としては銘柄についての剰余価値の差異化方式へ当たる。

2010年5月26日

商品設計

袋づめのティッシュペーパーに、透明なアクリル製のカラーバリエーションあるシンプルなボックスを別売りで、既存の箱詰めティッシュをエコロジー面から駆逐する。引き出すしくみをやめ、只の重ね置きでいい。

観察

智恵に逆らう者は野生と親しむ。
勉強しない者は悪い仲間に好かれる。
良い土地は人が悪い事が多い。
道理より仲間の輪をとると必ずしっぺ返しを受ける。
孤立した正義はない。
暴力を肯定する傍観者はそれだけ堕落する。
裁かれなかった悪意は来世の業となる。
神は欺けない。
暴力で事を解決すると後にその因果を受ける。
無知を忍ばねば必ず悪意を受ける。
知識は身を助く。
仲間を裏切った侠客は仲間から遠い将来裏切られる。
偶像崇拝は美術鑑定眼と受け取られれば害が少ない。
悪趣味は他者から嫌われる中で業を受ける。
美しいものに刺。
神を欺くと良心にひびが入る。
絶対政治は死後完全に覆る。
子供を虐めた者はその子供が更に虐められる。
進歩しない者は若者に利用される。
組織内犯罪の隠蔽は地霊と族の業で報いられる。
神は殺したり消せない。
業は変えられない。
野蛮人は無様な死によって役立つ。
野生を愛すると自然から暴威で襲われる。
自然は馴れえない。
幼児を虐めた者は子孫こもごもこの世から消される。
善意は考えの深さによる。
凡人は天才を謗る。
凡人は最終的に生き残れない。
秀才は天才の伽:とぎ。
真理を否定する者は真理から否定される。
女性へ付き従うと地獄へ限りなく近づく。
いかなる平等も神のもと以外にない。
学問は残る。
芸術は伝わる。
幼児へ情緒を与えると青年期は長引く。
違う文明の人と婚姻すると子孫はさまよう。
競争的環境の幸福は何らかの労苦への適応を含む。

法的主観の徳

解釈論は法的に誹謗が主観の定義に則ると教える。各解釈は差延や勘違いが主観の考えから抽き出されるという。もしどの解釈もなくなる次元があれば、主観同士に知識や教養背景や感覚の差はない所で、個性か個体差が残る限りは解釈が残る。又それは時に理念の投影を以て注釈とよばれる。解釈自体は、言葉遊びの規則を、主に慣習か馴れの頻度で集める。使用や文字のみの程度か具合は、注釈の煩いを省くので一般な言葉を定まった解釈へ誘ない易い。がもしどの馴れもなくば言葉遊びの堺は生まれない。民族語がのりあると認められてきたのはこの差延馴れの内に特有の場所のみちを示す為。
 法的解釈へ背景か背骨となるのが民族語の、程度あれ共にもたれた注釈できる域。故名誉毀損は主観が自ら望む解釈外の馴れを与えられた際に、いまからあすへの、現在進行後の事由で不利を被るだろう解釈界の出来事を自らの親告で治すのに用いる手。各解釈に比べた偏りがみられるとき、各々の主観が下す理解を口語ほか文面へ当てると、この中にあるいつわりが定まった多数決の解釈にまさって明らかならば、つまり虚偽が大手を振って歩くなら誹謗や中傷の罪はなりたつ。それは従来考えられてきた主観の利害損得へ向けた説得なのではなく、もともと他者が意図に関わらず行った誤解への親告。
 但し事実の摘示による名誉感情の損ないは、必ずしもこの論旨と意味を合わせない。主観は思想の自由内でならどんな解釈も行えるし、自由放任の理説に於いてそれは公益に類する。

2010年5月25日

社会生態学

感情が偶有さへの適応、として単なる理知とは異なる領域で淘汰されえた形質なら、我々は野生環境では現代以上に遇有な機会で試行錯誤しているしかない。現代へこの形質が転用されるとして、我々は理知より劣った能力と思うその根拠を、何らかの社交的偶有さへの適応へ覚える可能性が高い。つまりこの形質は機会淘汰な確率適応として、再生産適所な開放場で特徴づけられ易かった。感情の消滅自体は、社交的偶有さの減退へ依る。野生環境がへるとこの特徴そのものが変形をうける。主に感情は、学習か知能行動への偏りを避けるそれらの中間に位置した直感行動からの規制。感情がこの両方の統合なのは、野生種と文明種の比較で幼生初期を除いて益々ちがう行動へ導かれるので分かる。
 誇示の様式か形質と感情を捉えれば、他の全生態と有性生殖内で同じ法則下に、その能力が如何に特徴づけられるかが分かる。洞察は遠くの現象として群れの中での位置づけへ転用され易いかも。対して試行錯誤による学習はそれらを組み替えるのに都合よい。ある集団規模以上で感情が洗練されるには、それらからの条件づけが必要。この場で合的か合目的なふるまいが択ばれるなら、集団規模にとって最も直感から正しい系列の行動が常に確率上優位になる様えらび抜かれる筈。しかし増産せねば危うい程に何らかの形質の不足が目立たない、種の流入や流動で平坦な適所では感情一般は、社交文化上により定例化され易く、そこでの表現できう形質も多彩さ面から少なくなりつくだろう。礼儀や儀式などそこでの特殊な直感類型は、集めの定義に倣って大幅に可変ながら定式られがちだろう。その方が合理に特定の通過儀礼後の望む形質を選抜し易いから。そして形質省力の法則の為より整理された直感類型はつづく世代ではより折り畳まれ習性から本能へ還る傾向があるので、この合理な択びはえり好みの正の側面を示す種、即ち社交能力で形質面に場所柄優位な種を素早く自らの血統へ織り込む。ここには感情の機会選択かそれを含めた運命選択的要素が介在している。つまり形質の浮動から、ある定型な習性への誇示面での優劣を選りすぐるのが感情と呼ばれるどっちつかずの行動系列への淘汰。かつ浮動な環境誘因が残る全ての生態適所でこの発情界への系統は保存されるだろう。
 きわめて変形か進化した性選択の形式内でこの側面は覆い隠される割合が多くなるかも。偶有さの定義が場をとりまく適応規制のため変化する程そうなる。性特徴への情報量は主観原則を考慮にした感覚についての珍しさを原因とし、誇示形式への審美さに関する超中庸性も同様に理解可。つまり感情からの性選択は一般に審美淘汰をその種の系列で図らせたがる規制であり、主に確率からの特徴な形質についてそうされる。どう風変わりでもこの行動が比べて弱い場合その種は場で保存されえなかった。故決定因としての性選択は基本に、特に有性生殖一般で雌からのものに違いない。もし雄へこの形質が伝わろうとその強められた発揮は、同系配列の希少化へ誘なわれ易く、本来の選択さを十分に保てない。いわば転用の装置として、単なる情緒や感性の様な学習と知能行動の両面からの規制が入りこまない中間選好の理由は危さへの回避に、強調の条件を設けた。従って感情一般は、特に雄性での転用から理解できる。即ちその社交な地位か優位が同血統のどこかで本来の雌性へもどった時その審美選択は可能な理由へ競争条件を挙げたがる。こうすれば負担理論の合理さが一層の個種の利己系と合致すると分かる。弱められた競争下ではその形質の大幅な優位は審美的には見えないだろうから。
 誇示形式の反復は、宗教観を抜きにして業と呼べる。どの生態も、仮に有性系列を維持していればそのあわいに雌雄へ別れた業の誇示社交さが見つかる。我々はこれを社会性として観察する。

2010年5月24日

輪廻

米英帰りのハゲた数学教授
「武士道だ、武士道が救う」と言い
いたいけな少年を権力を笠に陰湿に殴る
「家族の情愛だ」と言い、裁判をふせぎとめ
女垂らしを誇り、定年後のボケ老人相手に
家庭内暴力をばんばん煽る
しかし、印税は山ほど入ってる
なら原爆その面へくらってからにすれば
中学生たちが「あいつ死ねばいいのに」と言う
僕もその通りだと思う。自称、孝行教。
実際は金を牛耳った暴力団員の弱いもの虐め。
学校内でも陰湿に、弱そうな生徒を密室に閉じ込め
親を敬えと殴りまくる。「武士道が世界を救う」の
ハゲ教授は、死んだ方がはるかに平和な
あの犯罪教師の脳の皮の厚さを測ってみれば
自分の言っている言葉の意味を悟るかもな
ろくでもない民族の一員とか
一円もない僕らは、散々しいたげられながら
奴隷みたいにこきつかわれ、次々
豚みたいに愚かな雌どもから産まされ、
「親に感謝しろ! 土下座しろ!」とほざく
救えない老人から全精力を搾取されている。
その老人は「武士道だ」と洗脳されている倭人で
いつも通りまったく知能というものがない、だから
昭和の初期に再生して、原爆で消されるのだ

2010年5月23日

宇宙文明学

異なる宇宙系での営みが真に七夕系との関係と相似でも、必ずやそこに介在している感覚基盤は違う。もし同位生態系があっても、自然一般の不可逆性と非対称則が残る限り全ての感覚は唯一回的。各宇宙系の文明生態規則は感覚間の互換さを増す方向へ類似付近の経済圏でやりとりする。経済単位は全て、その交易が文明間で促進される程度に応じた可逆化を工学面で可能にする。
 但し、ここでも感覚基盤はついて来る。故もし固有の交換できる財物が文化素で獲られるなら特徴となる場所の条件は非対称則を偶然で左右した結果な秩序を基とする。つまり文明は適所の多彩さを建築化してのみ別の系との共生以上の秩序化を得る。

古里の音

白妙と遠くの映える山の虹色
薄やけのあさのけぶりしつゆの町あい
淡い日にわがしつらえし月の傾く
はてしなき宇宙の底をうつす海のね
真夜中に干した烏賊とはきづかぬ潮風
咲き捨てる庭の慈し雑草はなし
頑なのおとの眠りはそこしれぬ春雨
百足はゆくえもしれずに雨宿りおわす
はみ出せばただ白線は少年の道
迷い出る蟻の王族はお帰り遊ばす
少しずつかわりゆく世を吾はまなびし
羽衣のつつむ思い出こそはすぎけり
紫の人形の仕手は遠く異國ぞ
背丈のみかわれど心は同じ人の間
沖縄の言葉は知らずその浜織る波
ふるこさめ御代をいとしむ様は示さず
とこしえの来世を照らすこの眼を描く
あまふりの楽しみこそは東洋の話
しとしととふる雨に添う紫陽花なつかし
きこえるは古里の音なみの静けさ
のこりなき跡形なきしまちなみと空
どこへでもゆくはたましいこの子に宿りし
戯れに眺めた運河の香さえもおぼえし
きえゆく土の記憶は庭となりし空き地と
たんぽぽは平和を担保に咲く花そ
どこへでもつづく道のりこそは茨か
かわらない坂道さえも気に入る水空
行水の鶯を待てる小さな水瓶
奇妙な程この世は巡り心さめけり

出づっぱり

出づっぱりのくにでは
お金しか生きる目あてはない
生まれされると三年以内には
その出づっぱりの檻でしごかれる
育てているのは野蛮人
お金しか目に見えないそいつらは
出づっぱりのくにの猛者で
子供を金儲けさせたがりまくる
「引きこもりはやだよう」と言い
小さな子供を無理に発情させようとし
お金があればすごいんだよとそそのかす
「どうしてひねくれてるんだろ」と言い
勉強の本をもってる幼児をひっぱたく

引用

偉大な政治家とは伝統を守るべき時と同様に、伝統と離れるべき時を知っている者である。

生物学

進化の実質は習性の本能への折り畳み。正の幼型化はおよそこの十分条件。場所が続く世代で表現形質上に有利ならこの折込は条件へ十分となる。
 ごく長い期間の後の哲学で有徳と呼ばれる程の期間後の正負、つまり最大級の消費順位での生き残りへするどい折り畳まれた形質かどうかが決められるなら、それは幼型化が何の付属要素を伴うかにより、更に場所によって十分条件さが違っている。

2010年5月22日

御者の理

自己矛盾はそれが悪の業な証。逆に両極端と中庸さに関する普き真理は知り得る善意と限りなく近づく。形而上学識は自然知識に対して自らの公理系を望む。しかも実証できるとすれば所謂世界精神の上で已なので、この論理体系自体は歴史の必然つまり運命選択をその内部での無数の個体淘汰の集積反応として社会淘汰へ当てた場合に丈理解できる。もっと有り体にいえば、生き残り組にしか形而上学識の善悪の程度は概観できない。民族の智恵の殿堂こそ哲学と呼ばれてきた大仰な総合学識からのべきの問答なら、主観原則と実践理性が一致するのも同じ定点、即ち世界精神が次なる世代へ宿った時の主観法則とぴったり適う。
 善悪は程度問題。デリダはこの理性な観点を生み出したか探り当てた点で哲学史上の功績がある。恐らく商権の擁護を共有された返礼方法省略の程度問題へ還したがった時にそれが偶然生み出された。
 もし総合学識から演繹した倫理法則やその結論が各自か各主格で異なるなら、それらの程度問題は同時に、実証的でない推論へありがちな勘違いや見当違いの飛躍含む誤りをこめて総合学識の程度問題へ還元され得るだろう。哲学を望む者にとって最大の使命は、従って、一般教養とも名付けられている全般の科学への精通に加えた、既存の実証しづらい思想群の批判的か少なくとも比較的な注解に他ならない。つまり孔子でいう御者の学識こそ哲学系の、即ち形而上学識の目的。そこへは厳然として程度問題がありえ、我々は歴史の必然として善悪についての業がこの程度に準じた群生の理を成すのを見るだろう。過ちのより少ない行動規律は、蓄えた学識の量感にほぼ比例する。偶然性についての淘汰さえ確率や個々人の間でやりとりされた公理系の母集合がその集団単位にとっての土台を為す。君子危きに近寄らずの諺の通り。

2010年5月21日

文化学

性悪説の傾向で動いている人間は悪意を世に発見し易く、結果として悪意の連鎖へ立場はどうあれまきこまれ易い。性善説 傾向では逆が言える。これらの差は、悪人と暮らすのに慣れた集団とそうでない集団の違い、つまり犯罪的暴威を善意からの報いよりも恒常とした文化場の生育が背後にあるらしい。
 モンテスキュー『法の精神』によれば、豊かな土地の住民は侵略を最も被り易い。とすれば性悪的適応はこういう土地に規範化され易いだろう。もし痩せた土地の文民なら、彼らが協力を普段にせねば少しもいきのびえない困難な環境誘因からそこでは、他者を先ず信頼してかかる習性が優勢になるかもしれない。
 そもそも、限られた数の集団への遺伝編入の少なさはそこで現れ得る形質に有能な変化を許し難く、殆どは同系配偶の負の側面を多大にしていきそう。寛容な文化は排他的傾向のそれよりも広く地表へ分布し、又その場での一般な競争力も高い。但し、いくらかの特殊な才能つまり高度に特徴化した形質はその僻地適応の部分形として示されるかもしれない。

2010年5月20日

風のみこと

金の星々キラキラとよぞらに星降る 
今はさみだれ
だれにきこえる小さな合図この世のどこへも
みわたすかぎりしられたまことは
涼みゆく橋のうえ
鈴虫の鳴きゆくかぎりない星空
あなたは竜巻みたいにこの世を
すてさった紙屑がつつみこむのを
遠くおぼえてる昔の風と眺めに
まるでささやく笹舟のうたは
わたしのまえを流れさる川の名のもとに
大きな海への道をつけてくれる
だからこの世でひらかれた
あらゆるうたげのあとでここには
何一つのこされないとして
誰がかなしむだろう
ここには風のみことが
あらゆる町角をふきさらすそれだけの
はてしない青空があるだけなのに

2010年5月18日

『論理哲学論考』の注釈

「非実証論理の沈黙義務性」はウィトゲンシュタインが述べた見識。例えばこれ自体がラッセルによる『論理哲学論考』への注解にある如く、一つの義務違反。実践の理は全て環境科学と違う公理系を規則づけたがる意志、所謂我々が実証知性、実験で検証できる客体的知識の集合と区別した理性か理由づけの能力から育まれる。
 言論による行為として言い訳という言葉の示す行為、が悪意のかけらどころかそればかりな保証も何らない。数理を含む言葉はどれも精確さで完璧でありえないから。そこへも程度問題しかない。つまり全ての社会生態の規則は、もし彼らが道具な機械系でないなら常に新たに生み出されるを得る。これは浮動的環境という厳密に完全法則化しきれない世界での群生に一定の規則を保ちたくば必要。より緻密には、どの科学知識も数理比例やその図形と音符のあてはめでの合理化の程度問題でしかなく、結果には全ての形而上学識や論説もこれと同等か少々緩い正確さしかもちえない。勿論 一定の有用さへの設えはあるし、あってきたが。結局 言い分から社会生態の規則が分化していくのはそれらの個性間に異なる程度の学識や教養、思想や思考反応の内容が認められる限り否応ない。場所毎の倫理は違う目的や理由を保つ。とすれば、ウィトゲンシュタインの文句は義務性というよりは可能性、つまり何々しなければならない式の文脈よりは何々できる、の元でより正確になる。そこで、非実証論理の沈黙可能性は我々が法的に黙秘権とよばしめてきたものとほぼ相似。これは倫理学上では形而上論野に通用できる言葉として沈黙権と呼んでもいいのだろう。哲学していく者が沈黙しかしえない場面は、それが彼の知識内にない推論を真理と誤解させない為か自らもしない為に十分。
 想像を超える全知に対して万知か最低でも博識の域へ主観を留めおくことこそ、哲学的に誠実な態度となる。これはカントによって著作内で啓蒙的態度と定義されていた筈。消極的批判が有徳なのは、全知に至ったと勘違いしない為に、自らやその類縁へ常に反省や知っているのと異なる学識への関心を保ちつけるに効き目あるから。

住宅関連の民法 改正試案

現代住宅には囲いや塀を設けず全面ガラス張りなどで内観を隠さない傾向のものがある。
民法ではのぞき見禁止の一般的規則はある(現法の235条、隣家が見渡せる1メートル未満の建物からは目隠しをせねばならない)が、これと逆の隣家から見渡せる土地での露出禁止は今のところない。

しかし特に過密化した都市圏では上述の開放的住宅様式の進歩と重ねて「目のやり場に困る」事態が多くなる可能性がある。よって、住居についての特定内観の過剰露出への罰則がおそらく、近く有用になる筈。
おもにラバトリー・スペースと呼ばれている風呂と便所を含む身嗜みの空間に加えて寝室の内観は、昼夜どちらかの人の所在時に外から伺えない様にしつらえるべし、という「最低限度の覆い」について、民法上の開放的住居の形態を指定しなおすといいかも。

2010年5月17日

南蛮世界

田ん圃が潰されていく
かえるの子が遊んでいた田ん圃が
中部からきたきたない連中のマンガ絵で
裸みたいな恰好で踊る性悪関西の乱倫小説で
うずめられていく
私は悲しみのあまり声があげられない
それは誰も止められないのだ
この偶像崇拝と祖先崇拝でやってきた東洋の孤島で
権力ほしさに白人と組んで善人らを惨殺した
薩長土肥の野蛮な倭人たちが私達の
住んでいた平和の世界を銭もうけの嵐で襲う
外国人に羨望されたから何だという
下衆の東京では潰されていった田ん圃のうえで
小中学生が搾取用の猥褻物をむさぼっている

次々繁殖していく倭人は
金とひきかえに米を買うのだ
それはマンガとアニメで稼いできた
海外のなにもしらない外人の金だ
南に住んでるおばちゃんは
口をひらけば金を稼ぎなさいと言う
その南の方でどんどん
あの子がえるが訳もなく虐殺されてるのに
働け教はどこか遠い南から来たらしい
ボクが見に行ったあしき東京では
働け教の信者が大勢あつまって
わめきちらしたり裸でひっつきあって
ものすごい銭をあつめて
毎日大きなビルを建てて威張っていた

南の方に住んでるおばちゃんは
ボクが住んでた地域のむかしの人のことばを
半分馬鹿にしたようにまねする
そいで働け教に入信してる証拠に
いつも大型テレビがリビングにかかってる
その中ではもっと南の野蛮人が
外国の商人と組んで安物をうりまくったり
暴力で日本を侵略させてるドラマを流す
ボクが見ているところでは
いつか天罰がくだると思う
その南の世界はAmericaみたくとてもきたないし
実際に近くの田ん圃をどんどん潰しにきてる
天皇というひとがやってきてから
ここは散々だ

歴史言語学

科学用に日常言語の転用が起こるとはそれが否応なく理念語や感覚語を引かせる理由。つまり日常語彙内で科学が有用なのはこの転用の作用が用る合理的な比例の詳述か細かな言い表しの微分した程度故。結局そこで理想づけられる全ての現象は、科学用語そのものにとっての適用かあてはめと全然関係がない。そもそも言語の発明はそれが形式化された何かの象徴から起こってきた音符から象形までの表音記号でしかありえないが、というのも発声できない言語は自体で最低限でも抽象な図か絵としか呼ばれないからだが、この記号符それぞれが対応した環境、自然と社会の両面を表すものとしての現象との関係は偶有な定型さしか伴わない。つまり言葉と社交とに通して用いられる全ての音符はそれが何らかの現象との対応を慣れで得た経緯から、表現技法となった。そして脱構築が現象学の内容と重なる所はこの音素と文字の慣れ、つまり象徴界にある。何れは象徴論が待たれるし、一部の形而上学への信奉組に学へと仕立てられそう。
 言語が特定の発声との文言化へ進んだ幸運は、主にそれが記録に適した形へ変換できる面にあった。物語からの伝承に依存してきた知識体系が、強く可逆化された形で保たれ得る中で人類は過去の経験が注釈できる範囲で全ての伝達を可能にしていった。この為に、専用か汎用の知識階級を設ける社会ではその独占や高い占有率で民衆の支配へ文を利用しようとした。しかしこの系統は、広い啓発を実現できた社会との競争では奴隷の戦闘員への転化がうまくいかなかったが故かなり不利でなくば虐殺か隷奴化で駆逐されてしまって今日迄有効に存続していない。もしここへ例外がみつかるならそれはきわめて隔離された僻地で、いかなる他所で普き社会淘汰も働かなかったから。その為、相対的に異様な性質やその超希少化がみられる点で文法の奇妙さは他の地域よりつよく進み、そこでの民俗を風習や解釈面で全く他地域とはことなった体系の元にまとめているだろう。

近代化に伴う日本文明の断罪

工業進展の清教徒原理との結合が西欧からの植民侵略の原動力だったとは言えそう。もしそれがないなら、各地はかなりの孤立と自助な発展を続け、ある時点で別の展開をしたろう。神の摂理として天職倫理を伝播させるべく、野蛮で弱体な社会の人為淘汰を謀るのが文明の義務と考えられた根拠は否応ない西洋圏での覇権の必要性からだった。内部抗争が絶えない圏域での工場要員の需要が、摂理としての植民を社会進化論へ合理化させた。歴史現象とみれば、この作用自体が唯一回的、不可逆的、特殊経験、文化偏差的事例といえる。もし商交渉のみを消極的に行う、中世日本での遣随遣唐使だけでのやりとりを続けていけば、明治維新中の西洋模倣を指導した福沢諭吉などの唱導者や薩摩長州肥後をおもとした元勲が徳川時代やそれと同等の閉鎖された国家内でより別の展開をみせたことは考えられなくない。彼らの中でつくられつつあった自然理解への道筋は、別の数学によって別の姿で体系化された可能性もある。同様の展開は各地でありえた。彼らの世界を暴威でこじ開けた経験が、西欧の列強と例外な日本をそうでない国柄からひきはなす近代化の特徴とした。福沢はじめ藩の石高でも下級の武士は明らかな世継ぎと身分階級の固定化傾向に抑圧された過去から、その外邦人の到来の機会を捉えて、既存の秩序を欧米の力を借りて裏切った。我々はこれを、同じく武士階級から長らく横暴に遇されてきた民衆のええじゃないか感情にかけて明治維新として美化している。現実に起きたのは、当時の体制からみればクーデターか公家と組み国家転覆を企てつつ大多数の国民を出し抜いた組による乗っ取りであり、その恐怖政治支配は第二次世界大戦まで続いた。自由民権化をし惜しみ、少数派支配か寡頭体制を維持する為に実践的指導者の立場に着いた明治の元勲とやらは、おかしなことに、徳川時代の政権の体制を自ら踏襲していった(島崎藤村『夜明け前』はこの歴史的評価へ糊塗されてきた維新画のみにくい裏側を描写しようとしている)。実際絶対主義の対象がいれかわったにすぎず、天皇を表へ引っ張り出した他、今度は華族や公卿を中心とした疎外が進んだ。この歴史経緯を反省してみると、日本の近代化は二種の意味で特殊。一つは外部からの圧力がそのきっかけだったことで、もう一つは内部からの乗っ取りでそれが図られたという例外さ。より詳細にみていけば維新は名誉革命的か禅譲伝説的な側面を伴っているが、とにかくそれを計画した討幕派はこの特殊経験を二重の裏切りで果たした。先ず国民を来るべき危機のため指導してきた中世以来の武士道の原理(忠義の体系)を裏切り中央幕府へ背いた(長州征伐、薩英戦争)。次に日本との通商を望む列強へ隠密を送り込み(長州留学生、薩摩留学生)、元々国民を外敵から守る様組織されてきた体制を公家と組む中で打倒したがった(薩長同盟、小御所会議)。歴史上、明治維新期に初登場した思想家によってごまかされてきた手続きの悪さは、この緊急時に起きた幕府の内乱を断罪してこなかった。我々かなり遠まった現代の眼にはそれが客体視できるが故、孝明天皇の死後に岩倉家を中核とした公家が企てた反幕府の一連の裏切り行為を外国干渉を利用した日本人の信念への悪意であると考えることは可能だ。その一連の武力行使を伴う革命のさなかに不運にも命を落とした者どもへ慰霊の意味も込めてこの日本人同士で起きた内部での植民侵略を後にアジアへ延長された勘違いした西洋文明の浅慮からの模倣、即ち血気に逸った匹夫の勇と認める方がいい。暴力的侵略は道理で正当化できないし、西洋文明が己を狂信化した誤りか特殊経験に過ぎないから。

2010年5月16日

社会生態学

生き残りに対して獲られた文化素がその場の業。もしこの内に有用な形質があれば、少なかれ保存される。場が増産し易い形質は希少価値な事が多い。よって適所毎のひきつぎは獲得と遺伝の両面からすら望ましい変異を鋭くそうでないものと区別し、選択され易い。社会で表徴種(目立って特産化されている様に見えるどの特定種、最低でもその種からの創造か表現の象徴となる文化素のたち)はこの経過、即ち希少さの埋め合わせによる逆理な過剰増産種という出自を伴うのが殆ど。普通もしくは捻りのない眼では過剰増産化が恵まれた環境や世代間誘因でそうなったと思いがちだが、単にありふれていればえり好みによる強調はほぼありえないこと、見過ごされ違う形質と限りなく微分視された細かな異なる種との間で見失われると審美性として一般現象の観察面に説かれた超中庸さからの希少形質へのいいかえで知れる。再生産率一般は社会系か社交場、又は単に生物学用語でいうレック(好色:lecheryの略意?)か舞台でのそれへ特に強化された希少さの誇示をみせる。常に突然変異の割合含む感覚基盤からしか生物は物事をうけとらないので、審美さは全形質内で自らが属する種内集団の内、生存確率が安定する最低限の基礎づけ、主には健康という概念で測れるそれからの形質の変化率を最も望ましい方向性へ保てた場合。つまり珍しさが生態の基本条件と大幅に矛盾せず個体そのものの感覚基盤の要素か遺伝子配列とある程度違っている達の時それはえり好みの対象となりがち。

惑星資本主義と場所の業

和辻が『倫理学』にいう商業での相互奉仕の促進、が広域な異文化権を共有できる利害勘定で協調や取引させる大きな原動力らしい。自由圏の一国内でも産業の伝播は商人事法則の合理性で動いている。
 途上国という名義はそれが科学理解の程度から言われたものな限り或る意味の限度をもつ。どこかの発展途上国へ土着した出鱈目な一人などより普遍な知識こそが尊いと急に説明してみればいい。必ずそこには独特の反発心、つまり風土からの慣習に応じた土着した文化様式の擁護が返ってくる。例えば異宇宙文明の甚大な理解の宝庫をひきあいに地球圏では最も先進的を自認し続けてきたWASPを同様に扱えば、必ず土着した様式からの自己の文化進展の速度を擁護する立場が反応される。よりこの反応を定型化していえば、自文化の合理化機構がその理性を有する動物には遺伝勘定から本能のみならず社交心理へ仕組まれている訳。もしそうでない理性があれば、過寛容型で超開放な幾らかの犠牲をも顧みない反発心として自体が特徴的な文化を象徴で出自にするにすぎない。
 科学理解の程度、客体化された比例の現象への詳細な数量的把握が地球人が現代迄に獲得できた外部化できた知識の最も厳密な形なら、主に産業や人事の機械的合理化はこの程度に先ずは比例するだろう。道具のよさが科学系に由来する。しかし、前述の様に各文化圏には各々の自文化合理さがある。それは継続した自然と社会両面からの形質変異へ赴く。そして社交界をその場で巧くなりたたせるにはこの方がやはり理に適うからそうなってきたので、科学知識が必ずしもそれらの風習を根絶するわけではない。
 結論は商協調という各々の地政主体が自ら望む程度に応じた文物のやりとりこそ、本来の文明の社交界のありうべき姿ということだ。もし相手の求めに従った取引ならそれはできるだけ和平に基づく折半の条件で己どもの産出できた何らかの品物かしばし特産品を、同じ規則で返礼を省略しながら与えるに過ぎない。欲望からの誘惑へ至る割合、最低でも意欲が低い土地や場所では他の地産物が全然魅了しない可能性もある。全ての地域で同じ生活様式が求められていない限りそうなる筈。要は惑星経済による全地域の一体化という現象には、この点で需要誘因の文化的偏差の為に場所な歯止めが掛かる。我々は幾らかの国粋趣意者が原理的擁護の為に輸送船団か旗艦営団式な黒船の産物もちこみへ強く暴力からの反発を行いたがる場合を見るだろうし、既にあしかれ頭の堅い人はそう主張している。旧態の愛顧も、倫理的基礎付けか批判に深く則らない限り単なる退行へ終る。この批判という哲学に用いられがちな語はいつも三文記事のいざこざを捜している報道界では別の意図で濫用される嫌いがあり、その誤解を除いた少なくとも純粋な哲学系では無知の知や方法的懐疑の時代から連なる形而上論理の基礎固めの意に定義を限るを得る。だから批判は哲学の出発点で終点ではなく、理想の段階にとっては第一歩のみ。だが場所柄の歯止めというおそらく後に社会学面でより緻密に実証できるかなり必然な社交法則としては、資本主義の蔓延や摂取自体が地域主格の自由意志で営まれゆくのがその科学文化からの恩恵を、彼ら自身の言い逃れえない地域開発意図や趣味で望む程度に受けとらせゆくのにも最善らしいと教えている。商習慣は事務手続きの省力化故。この見識からは資本社交の自己展開が欲望や誘惑への弱さやそれらを批判的に選択する道を通じた地域毎の業を表現させ易い為に真の理、と言える。それらの相互参照も同じ経過を辿り、想像のつく地方性の特徴づけへ還る。そして道徳は、都市部を除けば商業の遠慮ない開発と繁盛のみが真実に全社会面で快適の指標でないと知らせるかも。

2010年5月15日

記号論理学

よって記号∴ と ならば記号→ と 即ち記号⇒ は、同じ働き。これらはどれも順接の働きをそれぞれ文頭、文中、文尾で定式づけたものなだけ。
 同様に、なぜならば記号∵ と 等しい記号= と 同じ記号⇔ はそれぞれ文頭、文中、文尾での接続の働きだけする。
 又、但し記号← と 違う記号←→ と でない記号¬ もこの定式と同じく逆接の働きをそれぞれの文頭、文中、文尾の位置でする。

緊急法案

現状の法体制では家庭内暴力をすぐさま司法の場で裁けるほど訴訟手続きが容易でない。だから各種の家庭内犯罪がいわゆる和の近所のひそみの為に隠蔽されつづけ、最終的には家族間の殺人事件まで悪化してしまう。

『家庭内犯罪法』をそれ専用の電話かネット相談のみで簡易に訴訟手続きへ入れる仕組みと共に新設すべきだ。特に団塊の世代の老化現象がその停年退職後のもてあました暇を、家庭内の弱者への虐待へエスカレートとしていく傾向が確実視できる限りこの法整備は早急を要する。

産業構造が急激に転換し職間か不安定雇用状態の若者が途轍もなく多い社会環境で、孝行という空疎化した理念のみをふりまわし金持ちで権力者だからやりたい放題の、高度成長期の雇用体験しか知らない無職の老人によって家庭内犯罪が暴発するのは間違いないこと。

流通業の善悪

品物を流通させる業に、差額を専有権の援用でさしひくという商いは本質からいって半利己的動機による。品物の達をとわずこの流通差額の盗みは、法の段階で保護か抑止的に容認されている。代わりに万引きの防止やそれに加えた商権や商法で幾らかの消費税金とひきかえにこの金利の盗難は見過ごされている。つまり流通業が善意な保証はない。単純にその働きは、昔からそう考えられた様に暴利に至り易い程たやすい。だから刑罰で余った品物の支配者から幾らかを取っていった恵まれない者を権力をもった警察隊が暴力的に駆逐していい根拠は殆どない。流通業がその利益率の方を租税率より高くもつ限り、彼らは元々我々へ利益しか与え得ない種類の製造業者よりも繁栄するのは免れず、結果利便性とひきかえに商権力の蔓延はその場で貧富の差を広げさせつづける。
 もし経済を図る能力に落ち度があっても他の面で我々やその他の生態にとり大いに有徳な品種が現れたとして、こういう風習がまかり通る圏域では富む者以外は生き残り難い。社会風紀をこえて、この様な形質幅の狭まった土地ではある中位の期間の後に他の広い形質幅の恩恵を受け高い分業化を実現した系統から駆逐されるだろう。結論からいえば商権力の保持層はそうでない系統によって徐々に地上の文明社交から取り除かれる。
 しかしこの中途にあって、我々が彼らによる一見すると他者へ奉仕するふりをして中間差額の搾取を生業とする暴利を悪疫として免れない間は、流通業益分の租税比率を1以上へ保つ必然性をもつ。要は製造業以外の全ての商権力者より公民から構成される市民権力が富の面でも上に位置できる状況を維持できねばならない。又、国家と国連及び地域連合を含む全ての商業種よりも一製造企業が高い資本比率を持つ事は通貨の発行がそこに属しない公民からの共通貨幣で営まれる限りありえないことだから、そこでの留保益は租税比率よりは高くても専らは構わないと考えられる。これは技術革新が止まない限りそうだろう。

2010年5月14日

生物学

哺乳類のうち有性生殖を行う彼らの中で普段に次の平衡が性選択内に介在している。先ず社会性の高度になった集団では学習行動への投資が生じる。故そこには一妻化を望む雌からの同種間競争の誘引、つまり投資独占の為の雌間競争が普い。対して常に有性生殖の動物一般では増産か再生産への恒常な誘ないがある。でないとそもそもその希少化しすぎた種には同種の系統な少なさの為絶滅か淘汰、最低でも奇種として僻地へ追い込まれその進歩や資源獲得への主要な舞台から敗退し兼ねない。即ち彼らには生殖確率を上げる雄性の必然が保たれる。人類を含む全ての生物でこの両方の誘引力から何らかの過当競争か同種内での戦略駆け引きが生まれる。結局 社会で行われるどの活動もこの行いの拡縮。
 特に類人猿近縁の種では、所謂一妻か多妻の生殖制度や状況を維持していく向きでそこでの社会淘汰な変形が生まれる。睾丸の大きさや生殖へかける時間も彼らの位置しているこの変形の達を意味している事が多い。それらには前述のうち雄性の具体な生殖行動の活発さを遺伝浮動から社会での習性の上で象徴し易い原因があるので。更に、より洞察を進めれば雌間競争こそ実際にはその性染色体の導き手である限り、単なる形質の誇示をこえた決定な進化にとって主因となるのだろう。例えば文化素の要求が甚だしい適所では、毛繕いや種内集団での順位争いへの適応規制等により高度な投資を要求できる意味で一妻からの強い特定の雄性独占が雌間で成功する程 有利か有徳となる。

信仰

暴力を信奉する野蛮な人々へは自然現象からの仕返しでその無知が報いられます事を。学問を好まない者へは弱肉強食界への転落がある。

貴い人へ暴力を振るった人は卑しい人から更に甚大な暴力が振るわれます様。その結果 自らの傷が貴い人へ与えたより遥かに酷くなるでしょう。

暴力で事を解決しようと目論む者へは善良で穏健な人々から全ての利益を取られてしまう当然の折檻があります様。又 暴力の人へ付き従う者はその因果を程度に応じて受けます様。彼らへは同情よりも非難が普く通るでしょう。

文明より野生を愛する者へはこの世の幸福の代わり、苦役を背負わされる。この道理を因果応報と呼ぶ。

2010年5月13日

心理学

感情の作用範囲は主に高度な思考の隠蔽に属するらしく見える。もしそうでないなら極端に表情化される意図が見つからない。心理で人は考えを隠す技能か習性な感情の獲得形質を洗練させてきた。一つの心象は続けて真逆の表情を伴わせ易く、これは心の中身か余り知られたり覚られるのが望ましくない何らかの考えを巧みに他者の観察を欺けるからできてきた習性らしい。じかには一つの情緒は人々へそれへの同情を幾らかより伴わせる効果があり、結果自らが望む方向へ本能か意図かを問わず周囲を注意させる。赤ん坊がこの種の注意を必要として自らの本能へ習性化しているのは明らか。もし人々が感心しない表情があっても、それを世話への誘引や何らかの可愛がりへ繋げる父子か特に母子間の習性からの本能内感情反応な畳み込みはありえなかった。
 一つの感情表現が続けてその逆反応と思えるものを引き出す理由は、それらの淘がれた由来が自らの心象の大袈裟な身振りでのごまかしか偽装だったから。続けて本来の心象とおなじ表情を続ける個性があれば、その知られるのが望ましくない意いは覚られてしまう。しかし感情化によって本来の意志と違う誇示で仕舞えば自分が望む理解へ事態は留まる。
 幼児がもつ全ての利己な情緒の豊かな表情はそれが誘引となって世話やきをいざなうから尚更、世話されて満たされた欲求にとって想像される真逆の反応で補われねばならない。さもないと誘引で操作されている大人はわざとらしい反復から、単に自分が望まれた通りの行動を続けるのを疑わしくなる。要は遠回しに世話の誘引を偽装するのに適当な表情が赤ん坊の未成熟な時点で、それ以前の遠い世代から連なる畳み込みで本能にされている。哺乳類自身でも保護が有用になったのは学習行動が高度化しそうな社会性の高い群れをつくっての集団生活が基礎づけられた系統で、これは幼型化の正の側面と伴った展開だった筈。よって感情表現は集団生活の場からの要請が高い適所で初めにか殊更強くに保存された。
 感情反応はそれが偽装の技能として折り畳まれる域で今日でもいきのびている。だからその反応が様々で豊かな適所か場所では、一般に何らかの内面化した行動規則の偽装の必要さが他の平淡な社交界に比べて高い。
所でもし幼な型化の正の側面がここへ有効に働けば、その種を容れた人類はより複合な社交界を形成しがちだろう。逆に負の幼型化な極度の僻地での感情表現の特殊化が進んだ場合、他のより多彩な種との進化していける方向づけへの交配可能性を大幅に狭める中でそれらは祖先種の情緒反応がどういう類の物だったかを保存するか相応に気短に折り畳まれ変形されつつも化石化する筈。そして暫々他の系統から延長した種と全く違う、共有化するに十分でない情動に留まったか変形が極度に進んだ時その集団は以前の社会とは隔絶して異種と目されるのが適当な生態へ納まる。これらの生態流れから導けるのは、感情は社交技能として適所毎に誘因面で異なる影響下にあり、又別の社会性と似て変化する粘りをもつ場合があるという事。要は文化習性の一種。人類以外の生物社会へ心理や文化という用語をあて得る観点は幾つかの信教原理から反発もあるだろうが、学識面ではその転用が有益なら我々の宗教とは別の考えとして保持する方が何れ賢いと思われる。

博士雇用論

ポストドクターか博士課程の自主退学者とその卒業生徒を対象にし、小中学生と高等学校教員への再雇用、または採用を優遇する制度を教育熱心さが高い自治体からはじめると良い。彼らはまず職間か求職中だし、中央政府によるその奨励には不平等や偏りを用いる点で限界があるから。

2010年5月12日

主観の原則

微分でみた時間は漸近さで永久を含む。ゼノン逆理は主観内では死に絶え得ない精神基盤をいう。それらの言及が、ヘーゲルな世界精神の中身だった。主観な一貫さは精神規格原則を充たし、その直覚内でのうけとりを遷らす。感覚閾値はその現象内適応の最低限度以上の規範で、自体に精神の訳があるとはいえない。精神規格がその主観の理由や目当ても築く。直覚の向きは望ましい場の調和度ごとに精神規格の内在したたちを動かす。

2010年5月11日

比較文明学

文明の立地が広い海洋へ面している時その適応した行動形は一般の開放場らしさと似て強い利他性へ求まり勝ち。故大文明は略海洋交易をその興りとする。
 逆に僻地の淘汰と似て山国ではその利己主義な行動形への強い淘汰圧の為もてる種内形質幅を目一杯何らかの特徴化、特に閉鎖的適所では希少種型の奇形へ進む。かつそこでは交易のなさに伴う出現できる発明とその為の独創の少なさ故現れた文明は窮めて限定な姿をとり、他の系統と交易できる共通の価値観をもたない。但し僻地化のかなり弱い山間程度の文明では希少価値を生じる特殊な産物が、何らかの希な淘汰圧からの導きで蓄えられる。これらは海国と山国に普通にいえる、およその傾向差。
 ところで島国へは前二者の特性がそなわり易い。但しこの場合、境界さが鍵となり違いが生じる。海洋国の様な大海へ面した島嶼か島々か列島では利他性への希求はとても強い。故そこでの行動形は渡来した海洋文明のものを迅速に吸収し勝ち。もし攘夷な過去を伴えばそこでは程度あれ反作用な特徴化も馴れられ勝ち。ごく近隣から遠く往来の微かや略無い場合、その島の最適化した行いは殆ど全く他の地域とは異なるか大幅に変形した習性で現れる形質の特徴をより特別にする。がその完全閉鎖系さは永続しないので、又比較できる生態に挙げられれば尚更だが海洋国の影響下に強制か自発接触で置かれる迄のみその特別さは保たれる。つまり海の孤島は山国の得る文明場さを海洋圏版で得る。

 比喩としての宇宙海は、また星の山と系の島々を同じ法則で担わせる筈。これは航海がそこでの主要な交易手段な限り真のみ。境界の強さはそれらを結ぶ調和度の海流による。もし調和が高いとそうでもない流域より盛んに上述の基本規則に程なく近しい交易が起きる。

学と論

学の定義は実証知識、つまり実験で検証できるたちの科学へふさわしく、他の論証のみによる認識は、その形而上さを一括して哲学とよぶのが賢い。哲学内の分野は~論と書けば細かな科学との見分けがつき易い。

試験制度の改良

年に数回以上の試験を行う慣習を、教育熱心さに比例した地域順で普及させる事。
 理由は体調不穏や上がり性への不合理で偶然な判断を避けさせる為、また特定の回数制限への意図がない公の試験は受ける機会を多くした方がいいから。主にお役所仕事化している発祥の試験体制が惰性でつづくときそれは仕事の煩いを最大限に抑える誤った意図のみで、最も楽な年に年末時に一度だけという現状を維持しやすい現状がある。つまり私学と外注された試験監査機関がその資本原理で営まれれば、工夫の域で抑圧の最も少なくなる試験回数をおのずとえらぶはずで、そういう組織だけが生き残る。

2010年5月10日

宇宙のへり

海豚游ぐ鯉幟
皐月晴れわれの游ぐ空と川の浅葱色
暑さぎらうつゆの武蔵はこぶしさく
ビビってる大阪やくざのうろつく東京都
なつかしき京のそらに空気の香
音楽のために過ごす若さ過ぎ行く
育つ程かわりゆく小さな町と運ぶ雲流れる
進化する我の心と日本の立つ瀬よ
舳先へさきの音は鋭く海を切る前衛
すでになき過去の印は音もなく青く染まる
戦えと我を教える理性
駆り立てる先へ先へと走る騅
誰も見えない闇の奥へ澄み渡る時空からの音
我の見し國の隙から生まれゆく音楽はるか響け
日の立ち上る音を聞く宇宙のへり
理想は消えた
海の外へ走り抜けるよわいの風届け
何事も終えて降りしく春の雨そこのしれない理想を見にきた
変わらない調和した街の香りを聴く休みの日
どこまでも流れゆく多摩川の音耳を過ぎる今だ
雪の降った水辺を走り抜ける若さ
どこへ旅だとうと若く宇宙は果てない
山あいに訪れる公転周期は桜を咲かせつづける
プール上へ降り注ぐ雨の様なさみだれお昼すぎの光
生まれかわる己はつねに帰ってくる季節もうない印
全世界を斬り捨てる大声の敵意だけ神の戦いが喚び寄せる
ないもの何もこの世に戦え

芸能権勢料

脳の権力には固有の限界がある。他の宇宙文明で圧倒的に脳の誇大な形質が想定できればその限界は地球型のものと分かる。感覚基盤原理とその応用へは、多分組成となった環境要素の為にかなりの延長した微差で不可逆な権威化できる能力が時々育まれる。故身体経験との協調は脳容積分の詰め込み学習よりも何らかの特殊な形や姿を強め易い筈。これらでみれば、時代毎に高度化はせよ競技じみた芸事の領域が完全に消え去りはしないだろう。唯の誇示界隈にとってすら。
 文化がこれらの芸能活動からの永らくの分解で生じた一定の趣味の溜まりなら、そこで期待されるどの身振りも前述の権力を他の可逆的文物より保ち易いか。いわば面白味の詳細とは唯一回さを蓄えられた文化から引き出してくる時、伝統芸能らしさに繋がる。因習的か鵜呑みでない侭になお以前から伝わった芸能が輝かしい面白さを伴うなら、この唯一回さの引き出しによる。つまり文化な権威は蓄えられ易い。再利用者が多い文化圏は伝承できる情報や文化素な身振りへ何らかの特典を担う故。特に感覚基盤原理との兼合いが進む程一層この比率は高まるを得る。嘗て神話の独占な時代に神らしさが理解不能な崇高への比喩で語られたのは、これらの姿形の誇示が全く他の情報量をこえていたから。今日以降でも信仰の場面では伝統芸能料が圧倒している程同様の記憶は呼び覚まされる確率が高い。神格の程度は恒常文化圏の支配率と似る。仮に階級化がその中で差ほど進まないなら、神民思想は選民思想と似た差別観の末路をとる以上、権威に法った伝統芸能層はそれが一掃された場合より利口で実直な効き目をもちつけるだろう。職業はまた、階級化を極端にしない侭でも芸能格式を伝承できる知恵。

東京故事

賢い振りしつつ猥談を売るのが特徴な京都土人が威張りまくる関西圏で、君は好色な倭の世界観を見た。要するにそれは獣類の道だった。あづま下りと奴らは言い、東国風物を暗に侮っていた。しかし江戸を除けば、気が狂ったみたいな好色人種は少ない場所だ。どちらが高尚なのだろう。
 昔、この土地は彼ら京都の公家が鹿児島と山口の裏切り者と組んで暴力ずくで踏みにじられた。多くの侍はそれを固唾をのんで見た。いうまでもないが江戸の庶民はええじゃないかと踊っていたのだが。今でも変わらない。漫画を読んで暮らすどうでもいい位の下卑た江戸っ子を、京都のひとは東国の世界観のすべてだと思い込んだ。それで、あづま下りと言うのだろう。実際に嫌になる様な世界はどこまでも連なっている。公家は己の出自に驕り次々てしなをかえ誘惑と淫蕩を続けるし、東国はそいつらどう仕様もない人間をひきつれてきた勘違いした薩長人によってぐちゃぐちゃにされていった。僕は小さな世界から宇宙の外を見渡す。
 この小さな島国で起きた一部始終は本当に下らないし、あづま下りといいながらその発狂した人格どもは平和な光景を本当にきもちわるくなる銭儲け芸者の魔法でぬりこめたのだ。

 この文章の中身を理解できる者は、西日本側からきた人々がみなどうしようもないほど腐っていたことをよく憶えていてほしい。それは事実だったし現にそうなのだ。江戸っ子は判断力が十分ではないから、このことは他の観察者に伝えるしかない。

倭風の省察

倭人の仕事への偏執狂式な固執か仕事熱狂は彼らの過半が儒教や仏教の思想を和を以て貴しと為す農耕奴隷なくらしへの適応へ往時の支配者から命じられてきたから。倭人は自由を好まないばかりか排斥や侮蔑する。そしていかに自分達が奴隷として有能かを声高に自慢しまくる。つまり(GHQが判断した通り)彼ら倭人は奴隷民族でしかない。その娯楽は殆どの庶民層で陸でもない賭博や淫蕩への低落した態度であり、学芸は彼らの殆どにとって及びもつかないどころか変人の代名詞として虐げの対象にすらなる。
 要するに奴隷としては有能で、実際奴らにはつねに性奴隷という専用の商売がはびこっているのだが、その劣悪な理性と情緒に堕する亜細亜風の低級な育ちの為に真の宗教の力で風紀を一新することさえできない。神道という邪な土着した狂信の宗派が全本土を覆い尽くしているのは絶望すべき状況だ。倭人を鏖にすべき、という昔のアメリカ人世論の一部にあった見解は上述の分析からも明らかに思う。実際、奴隷はそういう扱いしかもたされえない。用済みになれば処分していいのが本来だった筈。さもなくば隔離か付き合うべきでない異国化できねばならない。

 倭人にとって近代化を理由なき模倣で果たしたという明治維新以来の決定的な過ちは既に過半の風土ではとりかえしのつかない遠回りになっているかもしれない。彼らは商売としての生活しかほぼ理解できない。学問を幼い頃から仕込まれる理由は企業奴隷のくらしへ順応する為だけで、それ以外のくらしは奴らには蔑みの対象。
 理性を倭人は望まない。原始人の如く商売と再生産をつづけるしかできず、それをくりかえしたくて見た目だけの近代化を択んだらしい。結論からいえばこういう人種へは教育による習性の変形は、世代が一掃されても殆ど無理に近い。結局別の習性をもつ人種、主に彼らより優れている点では英米系を主とした西洋出自の達だろうが、そういう人種を大量に倭人の中へ呼び込んで既存の風習を駆逐させるのが最もよい。つまり「意図した自己植民」。他の方法は奴隷化に適応している祖先種からの業の延長がある限り、自由の意義についてさえ理解が思い及ばない奴らの過半には全く通用しないだろう。

2010年5月8日

生態学

たとえば血の赤さは感覚基盤原理へ特定偏光を色素で認める変異が環境適応の形質に淘汰してきた証、即ち現象の出現頻度へ対応した形質内での感覚淘汰。同様に、他の感覚で特定反応の共通な生化学化合が何ら適応の為の性質でないとはいいきれない。遺伝的浮動さは全体な感覚鋭化の部分集合。
いわば感覚はとりまく現象から何らかの生態秩序化へ向く変異をその自然や社会淘汰内で育む。
 全て生態が持つといい感覚は鋭敏化されつく。もしこの感覚を見つけたくば、環境要因が場に固有の優先種さを煽る地点でその最も審美的な個体を知る事。生態学的な感覚基盤原理はその社会と自然からの環境、これを「界隈」か「場所」と仮称できるが、その内で適切な器官の展開合理さを意味している。それらへの組織は主に被る生態活動から引き付けられた習性を延長させて完成へ向かう。故いくらかでも場所条件が違えば、世代毎徐々に感覚は異なりつく。勿論ここでは遺伝形質しか本質で固定されないが、条件化された現象、たとえば社会での文化や自然での事態か事件がその作用か反作用で、場所への好ましい形質の世代間選択につながる。

鉄道運用案

都市部を走る電車の中に窓辺へ一席ずつの(新幹線や特別急行の様な)「観覧席専用車」を設け、通路のあしもとの必要最小の明かり(映画館や劇場の閉幕時点の様な)をのぞいて車内をねむりにつけるほど暗くせよ。
それで車窓からネオンに瞬く夜景が広く観覧できる様になり、風情高い演出ができる。場合によっては指定席の専用車として普通車両とは値段差を設けて、例えば定期通勤客の一部を観光客と共にとりこむ中で運用できる。

世界現象学

現象論内の感覚言辞は対応できる語彙を探るのを文芸の天才に待っている。繊細さは分けられた感覚の表し方を択ぶ。特徴化した感覚あるいは直覚(カント語彙での直観、西田語彙での純粋経験、つまり対象への直知)はその現象内で望める進歩した種の理由。もし直覚ないと事物は主観への姿をとらないで見過ごされる。場の原型や地霊は、この直覚を強調させる。但しそれは社会や生態組織での業を連鎖させ、程度なく変型もする。
 もし望む直覚が十分ちがわないと生態金字塔はおなじ規則をくりかえし、行動間の秩序化の差が起き付けない。故環境変異が実の抽出した直覚誘導でその流行頻りさはくみかえ必要分の恒常性。
くみかえ必要さ\恒常性=直覚誘導さ
この比例した訳が進化な系列へは集まる。遺伝できるのは生得な感覚だけだから、変化な場所はそうでない適所より誘導性分の現象率で先んじる。
直覚誘導さ\現象率=進化十分さ
何らかの自然な非対称則から全ての進化十分さが漸次導かれる。文明以上のきざはしでは巨視な流星現象内での世界団の相乗秩序がみられるだろうが、尚これらの規律と違えない。

2010年5月6日

理想と止揚

哲学な言辞か知恵者らしい言い草はその徳の為というより生態内規則づけの感覚基盤にうつ貢献と思える。悟り深さは地域の文明度に至るとき最も望ましい効果を伴うのも、この為。もし知恵が重きを措かれる場があれば、そこは感覚基盤への穿ちが有用な所。乃ち風変わりな理想を肯定できる適所だろう。主にそこは独特の國柄でしかもごく狭い範囲よりは、程度あれ複数の思想がもちこされる丈大きい。つまり大和さが要る。こういう集団は当然乍ら特別な地位を占めがち故、別の文化系統との折衝で固有の立場を設けて行く。とすれば、政治行動の専らの因果は理想間の照らし合いの中で最も勝れた國柄を導き出す所。この集団を国家論はのみこむ。世界精神にとっての舞台は編入と住み分けの中で覇権を通じた理性的淘汰を行う所。
 功利主義観の究極は又最高度の理性種が支配権を占める境遇に求まり、にも理想論の高下が快さの上で自律による協調の程を限りなく神格への漸近で試みる種内弁証法が見つかる。程度でみた理性は彼らのもつ行動規則内へ國柄を照らし出す。故総べた学識や教養は種内外で止揚が如何にその智恵を説くかに等しい。論理一般の哲学用法は禅問答で営まれるより高い次元の第三極を通常の対極から見出だそうとする運動と同じ。それは推論への考究であり、同時に理想観への道のり。
 倫理が理性的な根拠は以上。
 対局か戦局の予知は勝機への悟りの深さと類似。故真に理想の完成されている民族はそうでない民族へ必然に打ち勝つ。一見そうでない風趣があれば、囮か道化で自滅する前置き已。共生の程や形は一時的で決して絶対者そのものより理想いでない。だから手段な生態は時節で変わる。普通この理想度は哲学と云われる。結局その行動規則が他のどの生態とも違う為、理想度での絶対化順位が消費性向へ与える苅り方は最も合理的か理念に叶うのでどの生態にとっても保守さるべきで、そうであればこそかなりの定常観や多様化は希望める。結局貴族な幸福主義の内にどれ丈望ましい教養が含まれるかこそ以外か以下の界隈の命へも明らかに映し込まれる。理論の程度はその侭場の倫理でもあるのだ。そして神話が復活するのも究極の貴族界で、少なくとも永続した文明の適所でだろう。こういう世界は理性の原則に遵う限り、道徳の順序で訪れられる。
 消費生態の順を客観しても摂取の複合さしかないだろうが、猶そうでない下位生態帯よりある観点から幸福か。感覚基盤がこの折り畳みなら上位に属した消費体系はそれ以下の経験を短い間に素早く済まし、何らかの想像できる複合した摂取へ進出できる。感覚現象論は彼らの理論の細やかさでもあり、その定常化した体験がどの生態界隈へ適応しているかを明かす。知性で知れるのは自然現象の規則だから、形而上理念による道徳観はそこへ適応していく生態の予見だろう。趣味観は結局この上での慎みや嗜みでしかないしそう足りえる。

2010年5月4日

偏差値教育の改善について

偏差値順位制風の予備校産業含む入試偏重による学歴符号の戦後つくりあげられた教育体制、つまり東京大学を頂点とした学歴符号づけが官僚主義と大企業への新入審査での効率いい人事に利用されてきた倭風社会体制は、全面で万能どころか欠点も多く指摘される。簡単にいえばこの体制は工業化の余地へ泡沫の高度成長を急いだ時点での利益率へ最適化した自ずとできた仮のもので、永久では無論ない。東京大学自体、地上の歴史からみれば後進の設立。
 学歴社会化への誘因は、特に学習塾やそこからできた私学を含む予備校産業がおのが存続を死守したがる限り減退しても完全に消える日は未明。この煽り自体、共通試験用の解読型知識を手早くつめこみ偏差値向上へ組織で教育する技能を売り込みたがる類の産業の、利潤追求心で促されている。つまり大企業が偏差値順位をおおよそとした人事差別を効率的な故に採用しつけ、政府やそれに類した機関からの公徳で学歴差別を法で禁止しないかぎりは、産業界はそれが独創性にとっては害でも詰め込み式の受験適応の急ぎ足の若者への駆り立てを行い続ける。恰も自動機械の様に彼らの先代から受け継いだ富を保つ為だけにさえそうするのだ。
 これらの公徳が理解される日は、自治体規模ごとの市民観で大幅な時間差ができてくる。地域毎に教育条例で補う中でしか大企業側に何かの形で属した会社員が人事考査で学歴、より日本的には型通りの若齢で特定学閥の学部卒な証書による実質的な身分差別を奨励や扇動しつけるとしても、我々は品格論とか高貴なる精神に訴えるという不合理な消極性でしか、その慣性を留めえないだろう。国全体が企業内人事での学歴差別を禁止する法律を発布するのは、特に企業献金で選挙活動を行いたがる俗習がまかり通っている内閣構成員のあからさまな実情では殆ど事件や普通でない人物の政党綱領の改造に待つ他ない。更にこの一気呵成な実現は寧ろ民業壊乱にも近づきそう。
 積極面で事態を進展させたくば、というのも符号化理論の経済学説がイギリスで発祥しそこからの功利優先な進歩思想の伝播が先進国間を覆うのは何らかの例外なければたとえばあまり賢くない場合で全体国家主義からの反抗、よいときには別の経済思想の応戦と浸透といった面で確かで、且つそこで打てる手は多くないからでもあるが、代償となる割合を定めて企業活動が教育の自由やそこでの機会と能力の不平等へ幾らでも介入できる現状を、よりましな方へ導くといわゆる富または階級再生産への一定の事前対策としてはいいと言える。要は就業の自由という考え方で、企業活動の教育界への癒着や利用を制限するといい。具体的には能力が定かでない段階での経歴書への学歴(過去の学校経由歴)を記述させる、非人間な偏見からの差別行為への叱責として人事税を導入する事。そしてこの多さや量は、人事考査への本来の余裕分の留保率を見越して企業の持つ富による大きさ毎に累進化すればいい。仮にそうしても大企業が負担を続ける場合も可能だし、中小企業は否が応にも能力主義化せざるをえずどちらにしても、流動性がとても薄く硬直化した倭風学歴差別の先行き詰まった社会体制への有力な活性剤になる。学力と学歴の違いが理解できるノーベル賞権威へ一本槍で狂信風な追従状態に無縁か反感をもつ個人にはこの意義が分かる筈。それは西洋覇権型全体主義の言い方をかえた別の姿だったので。
 これで今は外部化や事実上外注されている企業ごとの能力人事を、その本来あるべき内部留保からの引き出しへと再び設え得る。そして教育界は失ってきた教養教育や企業予備校としてではない通常の学問や研究へ向けた生涯教育化へ広い門戸の理想を幾分か、場合によって回復できるかもしれない。

社会学仮説

場の自然的誘因はそこで妙となる社会淘汰の誘因への前置きで、主には重なる。次の見解は実証知としては確定的でない推測論だが、社会及び自然について共通の法則傾向を風土とよべば風土適応的行動規制はおそらく巨視的に比較文化して理解できる一定の傾向へ丈あたる。即ち環境適応が社会行動やそこでの形質の変形された淘汰に関してもあり得る可能性が導ける。もしこの実験からの確かめが行えるなら、かなり隔たった人種間のいくつもの特徴差を歴史や政治理説と全く別の観点から、風土との関連した共進化の規則を複数みつけていく必要がある。
 但し、社会淘汰は一般的自然淘汰とされる見識の特定な部分集合を出ず、いわば遺伝形質への決定論と受け取られるには証拠が不十分か形質への決定的差異の証に欠ける。つまり人類社会へ環境適応の種間変異が起きたことを断言はできない。文明間で各々孤立した島嶼同士を交易させた事情が人類をこの型に填めづらくしている。よってこの概念は社会淘汰が、いまある文化、現文化と呼べるものの特徴をつくったと定義するに留まる。これは論証の域でさえ目だって違う文化が幾つも地域毎に存在するので公理づけられる。即ち現文化の淘汰こそ社会系で行われる環境適応の現象。そしてこの現らしさをこえては、常に文化は別の淘汰へ赴く。文化間の正反からの影響もその推移と似た結果を示す。

感情と社会性

法文丈でなくどの差延も解釈界の辺りにあり、現象として各主観と対峙する全てはこの認識のずれを交易の誘因としている。解釈される物自体は理解が及ばない。物自体への議論は注釈の理論で説ける。つまり対象への名付けをこえては、感覚基盤は物事を客体化で理解しない。いわゆる主客未分の純粋経験は主観的解釈への無批判な肯定か是認で、嘗ての本居理学での全感情の全面的容認のひきのばし。
 感情が全てよいものである証はない。幼な児が抵抗力や暴威では軽いものだからそこでの善悪は問われないかもでも、社会の将来にとって望ましい情緒とそうでない発露とは躾の旨へ納まる。いわば理知からの感情の推移は差延がつくる感覚基盤への慣習な水路。乃ち客観の注釈を定義づける故に全て、感情とよばれる偶有な又はたままな解釈はそれが別の主観との理解差を説き明かすが為の能力。純粋経験そのものを尊ぶのは付和雷同や団塊の癖を煽る事。つまり情緒な集団を拠り所にしたがる特殊な達のみ。
 客観した世界と主観とが特有の偶有観で交易していくのが感情界の在り方。よって注釈できる物は現象からの感覚基盤な抽き出しを言葉の層できっかけづけたとき生じる。呼称か呼び名はこうしてありえる。
 ところで人類生態学の知識から、大陸場で利他への強い希求が道義や理説の素になることは、本居理学での倭風感情の生まれつきの善への裏付けともみえる。京都を典型とした僻地の習癖は強い利己性を呼び覚まし易い。これでなぜ赤子の心を生得した善として、本居が唐心と対比させたかが分かる。
 現代の目からでは、無論将来の世代にとって有徳と信じられるか少なくとも益する議論だと伝承内容の豊富さのみに焦点を絞っていえば、理性からの淘汰誘因は躾の定義が場所毎に道徳原則をより厳しい感情への抑制に求める、という点へ究まるだろう。要するに大陸場的な性質のあまり悪意の実例が知られ難い適所での躾は、そうでない時よりずっと厳しい理性からの本能抑制を前提としていく。社会誘因としてその場で自ら特徴化したくば利他性の実例を誇示するのが最善。道徳性やその感情への染み渡りも、こういう適所でこそ程度問題だが、実現できる。感覚基盤の注釈化された表現がそれだから。そして客観の立場は常に別の主観なので、知識の量も含めて理解される利他性が実質の社会誘因となるだろう。共感が及ぶ解釈界はこれと同じ。

防衛費用案

もし兵器開発費を使うならその用途は、今の国際状況では武器に対してではなく偵察や防御について徹底したものにするべきだ。簡単にいえば坊具の高度化を臨む世界最高の水準で完璧に仕立てる事。
侵略能力へ転嫁されそうな種類の兵器は、私の洞察が正しいなら一部の九州地方民が勝手に開発してしまう。そしてそれは朝敵化しては利用しえないものだから、本土の人格が米軍基地の建前と同様に平和主義的行動原則に法る限りは無用の長物となるだろう。

信仰

かねもうけの為に偶像崇拝を煽るマンガアニメ商売をおこなっている関東一円の邪悪な人種へ、みるも恐ろしい天罰が下ります様! この一連の悪徳をひろめた江戸の子供騙し企業の創業者へは末孫が途絶えるのみならず、その腐りきった脳髄が生きた侭割られる業の連鎖が起きます事を。

頽廃テレビ局の批判

テレビ朝日という気狂いの放送局は、夕方のニュース番組でホステスの特集を組み日本のみならず受信できる全世界へ悪影響しか与えない今すぐ潰された方がいい売春奨励の株式会社だ。悪影響を与えて金儲けするくらいなら無い方が遥かに良い。
こういう悪徳局と一切の協力は無用だ。
もしそうする者がおれば遅からず天誅が下るであろう。悪意は連鎖するのだから。

現代刑法案

『芸者鏖法』をつくり、売春行為をした全ての倭人を見つけ次第平民でも殺害でき、即刻磔刑か晒し首にできる様にせよ。
さもなくば倭人種は永久に堕落し続けそれを世界中へまきちらすであろうし朝鮮人と同じ他の民族から奴隷化又は殲滅されるだろう事は間違いない。つまり我々自身の手で滅亡させるか他民族に訴えさせるかでは前者の方が効率がいい。

2010年5月3日

神話から哲学への概観

道徳系は言辞内での語彙の理由づけを自己目的化した結果に生まれる特有の共有認識かもしれない。冗長さ分の意趣、これは道徳が信仰への説教と近いのに似ている言語比例。
 いわばこの言い訳が彼らの集団行動へ転用されたとき人類は智恵を得た。形而上学か後自然学という出自のそれは、特に複数の智恵を比べて指すのに向く。しかし、方法的懐疑以来の人類のそれは信仰と違和しつけた。単に地域間の学殖交流が盛んになると絶えず弁証法の論理的理由づけが再生され易い。だから哲学が絶対な体系となるのは地域間が長い隔離か絶対者の階級を維持しなくば先ずありえなくなった。信仰からの智恵の独り立ちはこうして起きた。科学知識と智恵の重なりが慣れられると重要な言い訳を考え出す必要性、或いは理由づけによって知識層外との理解を取り持つ意義は急速に少なくなる。これが現代起きているデューイに代表される道具主義的理性の原因。つまり再生産率の高まった科学は総合した認識をどんどんと後手に回させていく。道徳は古臭い、信用の置けない言い分とまでされつつあり事実、英米圏ではお堅い倫理観よりも新たな知識の導入が重視される利発さの優位が一般な風紀の様だ。そして抗議派思想がこの欠けた部位を補う、それで十分だと歴史が社会淘汰の現象で証明してきたとも今のところ言えて、彼らの主要知識人はきっと文化の気質にあってこういう考え方を伝統された賢さの定理にすら、暗に明らかにしたい筈。言い訳としてみても、科学間の調和を目指す立場だけは彼らの中で教養人の定義を回復させる原動力だろう。個別の分野での知識だけでは、完全に誤りを防ぐことは難しい。要するに科学的構想にとってさえ智恵という言い分を排除しきれないだろう。特に日常言語を採用する知識では尚更そうなる。数理言語というものは使いこなしたければ又、これとは別の公理系に母集合を要するとあって事情は類似している。これらの形而上な議論は自然界についての碩学がなお将来どう生きるべきか、という行動指針は与えてくれないこと、そして既存の社会以下の自然界秩序しか分析し収集しないと知らせる。未知の行動を的確に行うには、実際にこれまで知られた他の智恵を用いるしかない。
 より野生に近い人類の棲息環境下で呪術信仰や民間伝承の形で保存されていた智恵は、予め未知の事態でも使える言い分を考えておいた点で、我々が現段階でしているどんな非実証的議論とも瓜二つ。要は実験で帰納化された訳でない全ての議論は哲学に属している。そしてこの系は全ての神話まで遡って、人類が生活体験内で言葉の作用から引き出した未知の疑問を便宜上の回答で満たすのに有効だからこそ、実際の効果がないとしても集団内で言い伝えられる傾向を維持している。全く哲学系がないと、その集団は将来も既に学習された環境条件下でなくば巧くやっていけないだろう。もしこの言い訳や言い分からの理由がないと、正確な詳細はどうあれ理解できない現象が無限に広がって人々は世渡りにためらうだろう。
 だから未知への適応として哲学系は廃れえない。もし類人猿が同じ能力を獲得したなら、彼らは幾らでも進歩できるだろう。仮定があればこそ実験で検証した知識はより詳細に追求できる。こういう道理で全知全能を示唆する唯一神の理念はいまだ、我々の中での史上最高の知能よりも生きながらえなければならないだろう。

運び

野蛮人の教育など何の意味もない
ぼくは小さな町に生まれて
お母さんと家でおひるに遊んでいる所で目が覚めた
ところが彼らはいきなり強制して
僕を大人にさせよう社会に入れようとし
あの野蛮な幼稚園へ毎日通わせた
その人たちは関西と薩長からきたらしく
関東の大人たちを暴力で支配して
なんでも下らない命令で指揮していた
ぼくはとても不快できもちわるかった
しばらくすると小学校という小屋にいれられた
そこは蛮族が戯れる場所で先生は
交尾のしぐさで生徒を笑わせ
殴って言うことをきかせながら給料をもらっていた
どうしてこんな世界に産まされたのか
ずっとあとのことだけど
僕は東京という大きな場所へでてみた
昔からテレビで立派そうなことを流していたし
はしばしの情報からいえば
いなかでは無い何か有益な世界がありそうだった
言うまでもないけどそんな所はなかった
僕は教師をしている大阪のわるものに
「ナンヤネンさっさとおうち帰れや!」と言われ
実際それで帰れば、今度は父親が
「出来損ないは出ていけ!」と大声で怒鳴り
産まれてきたかった訳でもないのだが
行くところ行くところで野蛮人に囲まれてしまった
お母さんは大人になれば働くものだと考えていた
それで僕はこの邪悪な社会に引きずり下ろされる
「国民に恵まれた幸せをかみしめています」
と天皇が言う僕らが
ああして搾られた労働の差額を使い放題にして
関西から僕らの町の近くへ引っ越してきた人だ
芸者屋だらけになった東京の周り
僕は本当にきもちわるかった
邪悪な人達が金儲けだ金儲けだと言って
次々裸になり狂ったみたいにひっつき回る
僕はこういう事情でもう
日本という国には全然関心がもてない
おもしろいことにどの国もあまり変わらない
そこが下らないことは同じだが
僕は地球の隅の島国の端から
この広い宇宙がどうして僕を生んだか考えていた

関の分析

中世さをより長く引く関西文化への軽蔑はある種の知識層にとって「手段」だろうと生物学上の真な優生論とも言いづらい。江戸時代からのその流入度は、関東の一部も殆ど関西圏と変わらない風土に近づけていきつつある。実際、東京でも関西人の一部が生活できるのがその証。
 現時点での実証できた知識として、遺伝形質以外は生後獲得される。
 もし関西での好色や女々しさの奨励等の風土が中世の平安文化以来の波残りなら、江戸時代にもそれと対比できる独特の文化が江戸の一部には栄えた。これらは西洋文明の到来以前に確立された風俗だったが故、今日の目からみれば誠に不条理が多い。しかし現時点でも文化の伝承そのものは一定の特徴ある生活圏に残存しているらしい事実もある。要するに、関西人が生まれつき好色、逆に彼らからみて関東人は生まれつき粗野といったかなり偏見の入った雑な議論は生物学識を軽視している。もし文化がそこでの淘汰誘因なら、これらの傾向をもつ形質が僅かな偏差で別の地域とは違う割合で含まれるかもしれないが、実際には交配不可能なほど大幅に種が離れてしまっているのではない。陸続きである交通できる適所間には遺伝的隔離は起きづらい。一方、関というかつての政治的に確実な民衆移動の妨げは、少なくとも数百年の生殖隔離の環境を用意した。
 結局、生得な遺伝形質への微差は文化の批評よりも高級な知的態度ではない。もし関西の子孫と関東の子孫を生まれてすぐに親から隔離し、旧世代の伝承した文化と全く触れ得ない条件下で育てればその違いは殆ど遺伝された観測で許容できる形質間の枠内に納まる筈だろう。より精密には、再生産率志向がもし脳幹の誇大または女性化の進んだ形質として脳容積に対する新皮質の発達不全を意味するなら、商業化の伝統的な土地柄ではおそらくその傾向は何らかの抑制が働いた地域でよりも特徴化され易い可能性がある。
 淘汰にかけた時代としての時間と文化の波及が広く及んだ意味で、関西圏では芸者風の女性らしさを貴ぶ中に明らかに他の地域よりも発情期の早い早熟な行動傾向をもつ人間が比較的多いという、飽くまで目測があるのだが、これは科学というよりは将来の統計に待つ素朴な観察に過ぎない。嘗て江戸とよばれていた地域の一部でも現にかなりは似た傾向がある様で、過密化に伴う趨勢なのかもしれないし、他地域との漸次な交配で進む形質の大幅なばらつきは関西圏での好色奨励の文化的後押しに逆らう場合偏差を乗り越えるかもしれず、実際、私自身が会った幾らかの関西出身の人々がこの点でやはり似ていたことがあるとしても猶そうだろうから。

2010年5月2日

イギリス首相の失言問題

一部の急ぎ足のマスメディアでイギリスの首相が特定発言をした事に向けての非難じみた論説がみられる。だが、私の考えではこの批評は正当化されない。言論によってさえ外国の内政に干渉はすべきではないからだ。
 それは単純な事実報道に終始される方がいいし、批評すべき人間は利害関係をもつ営利企業側に居るのではない。事件をどう考えるかは私的立場を除いて、ジャーナリスト自身の仕事ではないと思われる。
 比較的保守派も充実しているイギリスのたちからいえばそういう曲芸は難しいだろうが、わざと自分達に有利な世論形成を狙った虚実皮膜の報道を行う秘密内閣の様な計略じみた将来も十分想像できるし、アメリカでは実際に世論誘導は常に想定されている。よって国内マスメディアが一斉に一つの批判的観点から海外の首相発言をからかう様な状況は日本の文明度の低さを示す丈で、少しも褒められた進退でない。

正道論

なぜ社会が成立するかは、主に僻地さがその起源。故完全に遊牧暮らし已で限りなく文明間を天翔ける個体習性があれば、又そんな生態は際限ない宇宙には複数あるが、彼らに社会内適応な利他さは考えられないに違いない。更にいえば彼らは家族単位さえも解体して最小の略奪体制を維持す。要は道徳能力は社会単位の幅で決められるし、その為の適応が必要な知能行動の限度と略等しい。
 政治界が最大数の群れへの機能だ、と考えるのはその正義感を昔から二分してきた議論。覇道と王道についての見解差は、何を最良の政治規模とみなすかで夫々違う。つまり群れのたちを道徳的と考えれば、覇道は無用になりその規模は縮まる。しかし知能行動そのものの程度ではどちらがより高級かをこの議論から推論のみで検証できる根拠まではない。とはいえ群れの正統さという観点のみで事態を観察すれば、多分常に覇道と王道の間には同じ原則が当たるだろう。之は正道という考え方に繋がる。常に正道を、つまり規模のより多いながらも比較的道徳観の高い群れの進路に着く限りその基本行動に誤りはとても少ない筈だ。利他さの程度、という功利主義内での議論も同じ結論を出す。至善の理念はこの功利原則な慎みを彼らの正統さで補う。いわば理想な利他さは正道に則る時のみ最大の趣味を伴う。群れ自体の利点はこの場合のみ合理となり、他の時には遅速あれ矛盾を伴う。

見物

下品な色事の話で俗物から金を巻き上げながら、関西人は僕の住む地域にやってきては物凄い勢いで繁殖した。「ナンヤネン、ナンヤネン」と言って、繁昌してまっかと声をあげつつその天皇という人は僕んちの近くにいきなり来たのだ。
で、そいつは最悪な人種で全く理解力がない。戦争を自分が指揮したのに「戦う気はなかった」とか言った。それで能々と生き延びて、また下賎な生業で金を儲けた。僕んちの近くは、あっという間にそいつらが通う芸者屋で埋まった。
気が狂いそうな世界。どうしてこんな奴が暴力をふるって民衆から金をまきあげてる? 完全な悪人じゃないか。愛想よくしてれば、先祖が近畿の役座の親分だったからって一銭もない僕から税を絞り上げていいのか?

なぜお前は僕へ貢がない? 天皇は芸者屋を建てさせる元凶だ。僕はここの近くに昔から住んでいただけだ。ところがそいつはいきなりやってきて暴力を振るい、税金を出せと言って役座集団で辺りを固めた。気違いとしか言えない関西人の王様だよ。

 僕はそいつらが物凄い勢いでこの世を下品に染め上げたのを観察していて、吐き気がとまらない。しかもなぜかそいつらは「あづま下り」とほざいて、芸者屋を建てまくった。それから後は見ているだけで気分わるくなる化粧と整形だらけの奇形女がうようよのさばりだした。これは実話だ。
あづま京都を築いた邪悪な世襲僭主。僕はその人物の末裔が、偽善の言葉を吐きながら関西人みたいな気味のわるい人格を山ほど殖やす所を絶望感で見つめる。
東京都には本当に悲しくなる位の馬鹿しかいないから、関西人の代表みたいな下品な人物を好んで行政の長に仕立てていく。発狂した人達がどんどん自殺していく。それもその筈だ、関西人はいつもの様に気違いじみた猥談を大量にしたためまくっていた。
あづま京都のあきんどはそれをわんさか売って、僕が子供の頃から見てきた世界をどんどん卑猥な芸者のみるも無残な発情奨励でうずめていく。そして関西人は腹の底から愉快そうだった。
「うへへへへ、これで好きなだけ源氏物語できるわ」と。

僕はこの都市を全然好くことがない。京都から来た、薩摩と長州の野蛮人が連れてきた気味の悪い奈良の王様がどこからどうみても僕の住む地域を醜くくしたのを知っているからだ。
ところがどういう訳か、その偶像は嬉しそうだった。歪んだ魂は人間の言葉を歪めてしか認識しない。だから僕が本当のことを書いていても、「なんやろ、あづま下りやね」と言って見なかったことにする。生きているだけ邪魔な、生まれつき品性の劣った人達なのに。僕は彼らの末路が見える。
単純に皆殺しされる丈では十分でない。もし僕の直観が正しければその倭人どもは原子爆弾よりもっと悲惨な暴力で消し尽くされねばならぬ。僕は嘗て彼ら倭人の一員がこの地域を侵略しにきた時からその一部始終を見ていたのだから間違いがない。

いいか、人間ども。業は業で報いられる。倭人は我々の祖先を理由なく殺してきた。その因果は永久に消え去りはしない。堕落された風紀は必ず己の末孫へ跳ね返る。天皇を自称して神ながらの道を歪めた倭人の贄よ、我々の地霊が全てを眺めていたのを知るがいい。

2010年5月1日

高等学校

大体決められた通りだった
バスケの試合が終わった頃
その体育館の隣
楓が散り敷く上を歩く足は
なにもとらえない
夕日ヶ丘
月の架かる空にぽっかりと浮かんだ
飛行船を見た
だれもその存在は知らない
だってそれは散って行く
眼に映る落ち葉と似た夕陽なので
気づけばもうない
変わりない校内の落ち葉と似て
全ては散りゆくもの
そうだなあ
暇のほか特に今なんてない
昔からそうだろここじゃ
なにか勘違いとかしてるんじゃ
誰も君とか求めてないし
誰もまるきりまるで
全てが自明であったかの様に
消えてゆく前ではお台場も
yanyanもスーパーカーのアルバムも
おなじくらい儚い僕らは
ゆっくり成人になり死ぬ
絶望の姿勢ぶってゆっくり
あの退屈すぎる化け学の禿げた教師に言えよ
全ては夢だって
人類さえいなくなれば
僕の理想の殆どは叶う
僕を苦しめ続けたこの社会は終る
どれも簡単な理想だ

コンクリート

どこにも残されてない唯の切符が
既にこの世から切り捨てられて久しい
安穏たる浮世で彼らJR東日本職員は
僕が間違って買った行き先分の代価を
恰も自明の権利みたいに偉そうに盗った
外道みたいな義務教師と役人が組んで僕の
街を商売だらけにする万引きするなと
あちこちに張り紙してそっから万引きする
税金で喰ってる連中だから救い様がない
発情して暴力を振るう土方の息子と授業を
荒らす夜の女紛いの教室を運営しながら
暴力気違いみたいな学校教諭を養う親分は
僕が小さな頃遊んだあの渓流をコンクリート
護岸で潰しながら奴の子供と孫へ貢ぐ

国家信用論

経済界で世界貨幣の取引が唯一の交換尺度となる場合の危険は、国家制度の強化である。これを仮に信用取引の元締め順位制度と名付けてもいい。いわば最も安泰な経済適所であればその国家単位は、各地での信用ならない賭博者らの総元締めたる単独の位を宛がわれそうである。詳しくは、これらの必然な順位争いが国際的資本獲得への仕業の中身。だから国家そのものがカント的に揚棄されない間、国際的貨幣取引の定常な頻度順位が実態の地球支配力とほぼ近似する。Oikonomosや周辺支配の幅も、この原則と同じ文旨を指す。
 宗教原理主義の内、過激派の国連主義批判はそれ自体で賢い事だ。もし上記の地位に専ら絶望的なら別の手段に訴えるしかないし、つまり経済上位者の評判を落とすため、金銭づくの態度への超越を何らかの反抗的政治行動に秘めた道義で合理化したがる。
 世界精神か地球理性の立場でこの問題を反省すると、確かにその行動は高度に実践的で、又我々が寡占化した国家地位を何らかの道徳面での腐敗で覆っている状況を改善できる期待が持てる。但し、我々自身が随分と寛大で慈しみ深い国民性でいなければ、単純に言って、宗教原理主義者との無残な恐怖政治戦闘の泥沼へ踏み込む愚行は避けられない。唯の国際関係からいえば、信用創造の放棄か譲渡、つまりは国際銀行役の棚上げとして何らかの二国間以上との広域な連携で、主に己の貨幣銘柄を喜捨するべき時がある。この独占された信用への固執こそ、金融資本の偏りを正当化したがる現代版の愛想よい商業気質の裏の面へ隠された悪意であり、国柄の誇示という行方情けない自慢心のありかなのだ。けれどもこの様な見え透いた優越感がなくとも、真の国際人は貧者の一灯を心から尊敬できるかもしれないが。
 同じく、経済大国風の体面よさなどより遥かに、独自の文化の証である特有の宗教からの道徳義務を真摯に実践する国の民は、その存在意義では高い。もしこの個人がいなくなれば我々は身に余る金塊財宝とひきかえに人間性や、最低でも伝えられるべき精神を失ってしまう。そうなる仕業へ手を借した場合、単純に将来の世界での社交場で、魂を売った俗物の末孫という偏見を与えられるのを当然とも思わねばならない。そして資本に決定的偏りがある時点での思いやりのない目先の取引は、結局、国家を維持している間は、どの国民の一人にとっても割に合わない道理と思えるのではないか。我々にとって賢明なのは、和平に最も近い態度で、また利害損得とは全く違った観点から、宗教原理主義が抱えている重要な倫理観への学びの対話を深めていく手順だ。そしてその中途では確かに、信用取引による否応ない儲けという己共が得てきた僅かな分け前をもみな捨て去る必要がある。実際、聖者が云う様に財産権は博愛より尊いものではないのだから。