2010年5月22日

御者の理

自己矛盾はそれが悪の業な証。逆に両極端と中庸さに関する普き真理は知り得る善意と限りなく近づく。形而上学識は自然知識に対して自らの公理系を望む。しかも実証できるとすれば所謂世界精神の上で已なので、この論理体系自体は歴史の必然つまり運命選択をその内部での無数の個体淘汰の集積反応として社会淘汰へ当てた場合に丈理解できる。もっと有り体にいえば、生き残り組にしか形而上学識の善悪の程度は概観できない。民族の智恵の殿堂こそ哲学と呼ばれてきた大仰な総合学識からのべきの問答なら、主観原則と実践理性が一致するのも同じ定点、即ち世界精神が次なる世代へ宿った時の主観法則とぴったり適う。
 善悪は程度問題。デリダはこの理性な観点を生み出したか探り当てた点で哲学史上の功績がある。恐らく商権の擁護を共有された返礼方法省略の程度問題へ還したがった時にそれが偶然生み出された。
 もし総合学識から演繹した倫理法則やその結論が各自か各主格で異なるなら、それらの程度問題は同時に、実証的でない推論へありがちな勘違いや見当違いの飛躍含む誤りをこめて総合学識の程度問題へ還元され得るだろう。哲学を望む者にとって最大の使命は、従って、一般教養とも名付けられている全般の科学への精通に加えた、既存の実証しづらい思想群の批判的か少なくとも比較的な注解に他ならない。つまり孔子でいう御者の学識こそ哲学系の、即ち形而上学識の目的。そこへは厳然として程度問題がありえ、我々は歴史の必然として善悪についての業がこの程度に準じた群生の理を成すのを見るだろう。過ちのより少ない行動規律は、蓄えた学識の量感にほぼ比例する。偶然性についての淘汰さえ確率や個々人の間でやりとりされた公理系の母集合がその集団単位にとっての土台を為す。君子危きに近寄らずの諺の通り。