2009年2月28日

真名教育の意義

仮名文字がもともと仮の名でしかありえない以上、その草書化されない侭の真名を、乃ち漢字教育を徹底することは日本語の独自さを将来の漢語圏で維持し続ける為にもまこと理に叶う。GHQの漢字簡略化方針は英文との適合性のゆえにのみ近代的ではあれど、日本文化の在来方針とは無関係と云われるべきである。漢文が通用する利点は決して漱石の頑固に帰せる錯誤ではない。初等教育を終えれば、我々が常用字を簡単な略字と見做すのも至当である。カタチの巧妙さに特徴をもつ限り表音化は漢文学発展の本領ではないし、現代の簡体字が流通する区域は共産圏の枠内に過ぎない。よって和文が如何に繁簡自在な漢文学を構築してもいつしかその普遍性はやまとことばの中で生き続けるだろう。国際標準として英「語」教育が重要視される他方では、東洋圏の基本疏通手段としての漢「字」教育は全く同等か或る場合にはそれを勝る意義を持つものだ。

東洋のくびき

文化サロンを数多く持たない伝統は必ずしも後進の特徴というのでもなく、期待される社交の役割が顕著にか密かにか洋式ではない証拠でもある。生産性の観点からすれば上記の見解は照葉樹林文化にとっての普通でもありそうに思われ、かれらには労働集約の土地生産性向上戦略が慣習的だったか適応的なので相互の連携は耕作の効率や効用と離れて為し能うと考えられ難い一つの制約が掛かっているともいえそうだ。

 ある博士が講義録で、孤立型・対話型・集団型という研究体制のパターンを類型化して居られたが得意苦手の対句を越えて、漢詩ならぬ学問の推敲には地域の特色を復興させるべき条件がありそうである。特に、稲作の行われてきた場では村社会的発祥が一般なので概して孤立でなければ集団へと二分極の性格へ誘われやすい。閉鎖的談合の中へ混ざれなければ排除するといった八分式空間の研究法では、公開討論や参加可能な談話の場を用意するのは余程困難だし、かれら土民のなかには議論と喧嘩の区別がつかない蒙昧の痴が珍しくもない融和の風習が蔓延してもいる有様だ。東京都民の衆愚らがよく使うこの種のあしき俗語として、明らかなファシズム的村八分と全体主義を意図して各個人から意見並びに討議内容の多様さや言論・表現の自由を、その群衆性によって剥奪封殺したがる「空気を読め」「(この語を略して)KY」という命令語がある。
 単純に議論の機会を多産するといった不自然な恣意ではかれらの村社会を一層強固に保守化するばかりで埒も明かず仕舞いとなる。

 ここでは適所を人為的に創造する工夫でしか、旧套を脱する習性を身に着けさせられない。喫茶文化をopen cafeの経営で導入し、大学での公開討論をテレビ中継し、広い社交的対話のきっかけを学校授業の一環にすること、これらでも鬱々とした東洋式文化の閉鎖的性向を一掃する契機となるなら我らにとってはもはや伝統の定義自体を改善しなければならなくなるだろう。Orientalであるとは奇形的な異国風であり続けることではない。退行した東京町人による御宅文化の醜風は一切絶やされるがよい。
 現状の半東洋的社会を更に徹底して西洋化することは必ずや、子孫の社交性の向上に適いその健全に益するだろう。しかしそれが決して日本らしさを喪失させまではしない。漢字を用いても中国人である必要はないのは洋服を着ていても欧米人たるのに十分でないのと同じ。田園には高い教養が、また都市の逸民には強壮な先進文明との容赦なく厳しい競合的淘汰圧が東洋のくびきを再検討する、現代的命題なのは誤りない。

中央統制の審美的限度

それが審美的でなくとも、知的概念や道徳理念は評価される可、と考えるのが通常ならば「芸術として」の文物を過剰に見積もる傾向が風土的に内在している文化の危険は、たとえ見にくくとも真理である事象から目を背け勝ちになる過剰な品性に逆説として弱点視されうるのだろう。育ちが良すぎるということは或いは通用の世間知らずとか、皮肉の起源として郷士へ大陸旅行を敢行させるファウストの逆理とかで説明されるのがつねなら。勿論独創の為にどれだけ感性の鋭敏さを形質投資にあてても損は買うまい。だが標準を構えるとか、野生味あふれる豪快な業績とかの非選種な手当てに対して、繊細さはかなしくあだともなる。
 経済が唯一の国民倫理ではない理由もここに見つかる。泥沼に降り立つ丹頂鶴はその美しく長い足の為に滅多に羽を汚さないかもしれない、一方で彼が目的として摂取するのは干潟に土着するダボハゼなのだ。無論どちらが望ましい生態とも言い切れず、努力の余地を最低でも地方生活の素朴な体質へ確保しておくことは我らが一時の泡沫に戰ぐ貴重な絶滅危惧種でのみありえないというなら、必然なのである。眉を潜めるばかりに血みどろの訓練を経た貧困層出の選手が、にも関わらずある種の成功者だと言える野趣を社会風紀へ幾分かのこすべきは、平安の御代にて支配的富裕層の次第なる柔弱化を将来的に補う方法でもある。

文明系統の整理

文明の個別さはその普遍性に益すか、比類する価値の源泉だと考えるのは功利の見地からさえ合目的である。体系の由来が異なる場合、その摂取または編入は元の文化にとっても異系交配の利潤を斉すのが疑いない。
 文明系の希さはその価値にとって一つの重要な側面を為す。然し単に独特だから乃ち最高度の文明を意味するのでは毛頭ない。我々には希少価値が却って系統発生の適宜さ、謂わば選好的由来により増すことを当然視すべきとなる。例えばある系統樹の葉先が華を咲かせてもその珍しさは草木全体にとっての生存益に叶う限りで理由ある。同じ様に他には見出だし難い形態で栄える地域は文化交雑の適当さへ偶有的に膠着した為にそうなので、文明度を仮に審美性、或いはもしそれを一般に量へ還元して信じられる所の経済性の概念により評価するに当たっても同然なのだ。つまり文明の形態は普遍の観点からのみ判定されるべきではなく、寧ろその背景にあたる遺伝的素質に関しても価値と認められる。所謂先祖返りの法則を鑑みても、特有の社会状況になった際に類似の歴史が繰り返されるのは文明形質の自然に思える。従って、現生人類には一体どの系統が真実に未来の繁華への道なのか明言することができない。文明樹の保存の意義は社会の遺伝的ファクターを維持する周到な用意の面からも擁護されうる言説なのだろう。こうして殲滅的侵略型の文明系は経済性の低さという自然要因からさえ、いいかえれば協同の機運が高まった暁の国連の倫理勧告已然にさえいずれ被淘汰種の驕りに過ぎなかった。それは各々生存を賭するに中り好意を受けることが益々少ない程、諸民族および生態系一般にとっての不利益を被る定めである選好的競争の規則なのだから。
 実際、珍しい品を多数創出しうる為には異系交配の良い結果が整理されて現れねばならず、柳に風というくらい高度の構造的可塑化が図られた形跡がなければいつであれ、彼らが独創性を認知され貴ばれる記憶もなければ。

運動について

肉体を通じた精神性の表象のみが、運動競技を単なる戯れから峻別する。自らに科した限界の負荷をルールの許す最も合目的な表現型と一致させること、そしてその絶えざる修練が我々に現実態としての崇高さを付与する。肉体的能力差をではなく、それが用いる最高度の負荷を競技の本質と見なせる限りは、勝敗は成る程ただのゲームに過ぎないだろう。しかしここに優劣の違いがまざまざと示されるところ、本能の統治を果敢に為した精神面での力量差である。知識分析のなしうるところはその比例性を高める事。もし以上の見識が真実さを含むなら、競技の巧みさを決定づけるのは直観の才能だと考えられる。
 ある運動方法に対するより合目的な行動型を技術として身に着けるのは、肉体の形質へ与えるべき習慣づけの絶えざる修整、による。それは直観によってしかよくなしうるものではない。

2009年2月25日

格差

格差、という認識が時代の流行になって久しい。だが個性の掛け替えの効かなさ、始点の条件は、本質的に(言い換えると「法の元」に)のみ飽くまで権利の上で平等とされるべきというアメリカ独立宣言以来の伝統として擁護されているのが現状なのである。というのも、格差という共産主義的言辞に比べて、努力差が世代間で蓄積されない筈がないのだから。それは文化と呼ばれている。
 重要なのは品位を落とさない程度の救貧への適宜な調整であって、人生の開始点をも平等一律へ引きずり下ろす極端な暴威ではない。如何に勤倹奮闘してもちっとも家庭文化の向上しない環境、また国家の名のもとに全財産を世代毎に全没収される場所がもしあればそれはマルクスの野望が最も邪悪な姿であらわにされた、どんな努力も無意味と化す無間煉獄なのが疑いない。従って成功した努力家を正当に評価厚遇し、却って税制の景気自動平衡機能を損なわぬ限りで一律課税を推し進めるのは民主主義を標榜する一時の思想傾向の流布が、単なる頭数において労働者階級の支配権をますます強調する風議のさなかにあっては真に財政の、取るに足りないごく少数なテロリストの駄々を敢えて鑑みぬつとめである。結局かれらのやり場のない絶望は共産圏でしかまるで解消しないのだから。我々がもし少しばかりの社会学の嗜みさえ顧みれば、民社主義は今日で最も理にかなう保守の仕方であると北欧を模範とし、理解するだろう。

2009年2月18日

普遍の考え

依然としてしきたりや個性は自分にとっての絶えざる反省の契機となるだろう。
 我々には普遍性というものを単純にscientificであることによって信じられた時代を過ぎ去った歴史上の思想習慣の中にしか見いだせもしない。大量絶滅の如き項の整頓も、普遍性が理知を特別視しない賢明かつ合目的な秩序の元にのみ予定している、と考えるのが啓蒙の程からして今日では、合理的故。

2009年2月12日

生物学

昼行型生物の概日リズムが一日より若干長く、ロドプシンの合成でリセットする仕組みが淘汰されてくる理由は、夜行型の生物には視神経の退化が見られる事情と照合する。乃ち光量に感覚を依存する度合いが強い生態的適所に入り込む程、この生物の概日周期が平均より遅れる変異は明るい内に寝静まるという危機を避けやすく作用する限り優位なのである。逆も然りで、いいかえると夜行型生物にとってはロドプシン・リセットのシステム群はその不利さの限りで目のよい種類の餌食となる確率を意味しており、彼等の生態的律動がおもに視神経以外の条件付け刺激に敏捷となる傾向をも場の適応形質としたろう。
 こういう暗なる仮説に説得力があるとすれば、視神経系の明順応の速さを昼行型動物の諸体質に殆ど例外無く発見なしえ、更に夜行的と分類されるものに逆の、暗順応適性の遺伝形質傾向をみつけられる限りであり、尚且つ幾らか多角の実験で視紅合成組織と活動に導く生体ホルモンとの必然的連環が検証されたともなれば、しばし定説としても構うまいが。
 ともあれ確実な事象として医学的応用の見地からすれば、暗所でレチナールから視紅を再生するビタミンAを副作用抑制範囲で投与すれば、多くの後天的不眠症の予防をロドプシン・リセットの観点から凡そなしうる。
 より重要なのは初期の走性からやがて視神経への系統的発展の経過を分析することだ。それにより別の系統を辿った生物種を見分けられれば、つまり視覚依存の度合いが少ない動物にとっての生態的地位を詳細に叙述できるとすれば人類の感性が唯一不変ではない証拠にもなるだろう。実際コウモリ、梟の様な種では電磁波またはそれに類した視聴覚から遠い現象を感覚器で捉えるという形質を観察できるのだから、人間原理と呼ばれる思い上がりは全く地球に於ける無知識時代の傲慢と見下げられる価値しかないものだ。地球外生物学にとってさえその無用の定義は早晩極めて有害な科学検索下の差し障りとなるとして。尤も、信仰上は是非なくてはならない理念なのは誤りない。万が一にも人が第一の生命体でなければ、かれらの協同は利害に法とると主張する原因を喪失するだろう。

2009年2月9日

文学論

重要なのは知性を他の諸価値と混同しない事。理性による判定、それさえ知性の恩恵を被っている。知らず知らずの内に、理性は飽くまで知性の部分集合を為している。それが後自然学の所残であった経歴書に高らかなのは哲学のいとなみが自然学識を同時代の社会的実践へ折衷する業として、常に理性が与えられ直して来た、という成長律だから。
 感情を尊重する事は知性と矛盾しない。それは技術的本性なので、少なくとも数理学と社会学の間に属する何らかの獲得形式の換言へと定義される。
 何故なら純粋な知性の、現象への還元を通さない思考作用の記号による抽出が前者ならば、後学には恒にここより経験識側に論理を推し進める他の目的がない。もし純粋な知性の身の探求に知性が終るとすればそれは一切の社会的な有用性を失い、記号のパズルにしか出なくなる。尤もそれで大半の数学愛好家自身は困るまいが。ならば、帰納法は本格的には社会学的な方法論で、演繹法は数理学的なそれである、と考えるのは大雑把には論理学野の整理に適うだろう。いわれるところの仮説証明法、abduction、仮証法はこれらのどちらからも認識を借りつつ展開する自然学的な真理の探求に最もよく適合していると思われる。スコラ学の二の舞を踏むつもりではないが、最低でもこれらの哲学的基礎付け、つまり認識に関する批判は凡そ実務の立場からさえ思考の節約に、労資の省力に有用であると結果できると思う。例えば、ごく紛らわしい名称で自信作を形容したものだが、パスカルによる数学的帰納法は哀しいほど演繹的思考形式の典型を与えるに十分な事を鑑みればいい。つまり概括であれ全ての哲学が、科学の分析に対する総合なら学問の方法論の錯綜を成るだけ混乱を防ぐ様に設えるのは一つの有徳な理性の命題ではないか。
 我々には社会学の最終的実践法に倫理学を、いや学をというより正に行動を置くのが、徳義の不変を謳った『文明論之概略』以来、この国で至善に止どまるべき大学の、修養の目的である、とも考えられる。知行合一が武士の掟であったことは、陽明学と朱子学の対行を先に知り後に行うとした後者の流暢さを暗に許さぬ殺伐たる現実に即して中江藤樹ら、士族にとって前者が拠り所となった理に等しい。いいかえれば、日本に於ける陽明学派は福澤諭吉に至って質的変化を伴い、その道徳規範を数理学、自然学、そして社会学そしてmetaphysicsの正順へ整え直したのであった。物ありて後に倫あり、とは彼が徳義の不変さと両立する理念として、少なくとも士族層へ知先行後の回復を批判した精神の表れだろう。そして、当時にもこの種の理性を意義ありと認めた実践のさなかに生きる意味ではプラトンの理想に最もよく当て嵌まる防衛者の様な哲人、も現れた。
 そして感情と理知とが最もよく合致する点は、畏らくは社会学の根底に措かれた演劇の工学に至る。何れの倫理思想もそれが実践を伴う理念である限りは、実は劇作法、ドラマツルギーの研究だった。コペルニクス的転回とは社会学の最終的内容が、本当は演劇手法の研究であったというまさに劇的な論点にもカントが依然として無知であったこと、無論誰しも比較的にしか対象を認識しないとして、彼にとっても又、アリストテレスの幸福主義から自由ではなかった事情を照らし出す。政経活動とは人間の演劇芸術的群性すなわち芸能であったからには、哲学および形而上学ないし後自然学を汲む所の総ての社会学は劇作術の学問的論証の作業に過ぎず、他ならない。これが文学の種別において、科学と哲学とに分岐しだした西洋学または単に洋学が史学の立場からすれば、根本的には唯一の道でしかなかった説明である。それらのどの学問も記号法により、何らかの認識を或いは表象機能を能え直す文についての学。

2009年2月7日

紅茶

ロンドンに降る大雪よ
真夜中に腹が減るなり雪の夜
いやしさよ月輪熊の
物言わぬ金柑
午後にのむ紅茶と昼の短さ