文明の個別さはその普遍性に益すか、比類する価値の源泉だと考えるのは功利の見地からさえ合目的である。体系の由来が異なる場合、その摂取または編入は元の文化にとっても異系交配の利潤を斉すのが疑いない。
文明系の希さはその価値にとって一つの重要な側面を為す。然し単に独特だから乃ち最高度の文明を意味するのでは毛頭ない。我々には希少価値が却って系統発生の適宜さ、謂わば選好的由来により増すことを当然視すべきとなる。例えばある系統樹の葉先が華を咲かせてもその珍しさは草木全体にとっての生存益に叶う限りで理由ある。同じ様に他には見出だし難い形態で栄える地域は文化交雑の適当さへ偶有的に膠着した為にそうなので、文明度を仮に審美性、或いはもしそれを一般に量へ還元して信じられる所の経済性の概念により評価するに当たっても同然なのだ。つまり文明の形態は普遍の観点からのみ判定されるべきではなく、寧ろその背景にあたる遺伝的素質に関しても価値と認められる。所謂先祖返りの法則を鑑みても、特有の社会状況になった際に類似の歴史が繰り返されるのは文明形質の自然に思える。従って、現生人類には一体どの系統が真実に未来の繁華への道なのか明言することができない。文明樹の保存の意義は社会の遺伝的ファクターを維持する周到な用意の面からも擁護されうる言説なのだろう。こうして殲滅的侵略型の文明系は経済性の低さという自然要因からさえ、いいかえれば協同の機運が高まった暁の国連の倫理勧告已然にさえいずれ被淘汰種の驕りに過ぎなかった。それは各々生存を賭するに中り好意を受けることが益々少ない程、諸民族および生態系一般にとっての不利益を被る定めである選好的競争の規則なのだから。
実際、珍しい品を多数創出しうる為には異系交配の良い結果が整理されて現れねばならず、柳に風というくらい高度の構造的可塑化が図られた形跡がなければいつであれ、彼らが独創性を認知され貴ばれる記憶もなければ。