2019年7月31日

れいわ新撰組の公約批評によせた中くらいの政府論、及び全額預金保護制度含む金融機関投資促進法、基礎年金保障・GPIFボーナス制などの提案

れいわ新撰組代表・山本太郎氏は
1.政府歳出が他国に比べ低い
2.故に日本も他国にあわせ政府歳出をふやすべき
3.結果GDPは上がる
という論理構成をとっているが、ここには幾つも欺瞞が入っている。

 先ず1について政府歳出が他国に比べ低いというよりGDP比でみて「小さな政府」に属するだけである*1。

*1
なぜGDP比で見る必要があるかなら、国の歳出規模を成長率でみるのは論理のすり替えだからだ。
 山本氏の引用する次の画像*2は、この詭弁で、意図的に日本の政府歳出額が少ないかの様、一般公衆を誤読させようとしている。
*2

他、政府歳出の規模が本当に少ないかだが、内閣府「国民生活に関する世論調査(2018年)」によるとまず最も国民側が要求している「社会保障」*5について、OECD諸国と比べ中くらいの支出になっている*3, *4。

 *3
  *4
*5
対して3番目(18~39歳では1番)の要求内容「景気対策」*5にあたる「公共事業」は他主要先進国と比べ突出して多い*6。
*6
政府歳出の推移を米英仏と比べても、日本のそれは寧ろ規模を拡大している*7。そしてこの内訳は、主に政府による社会保障給付の増加である*8。いいかえれば日本政府は税収が伸び悩む中きちんと国民の主な要求に応えているわけだ(第二要求は高齢社会対策で社会保障充実に入るし、公共事業も伸ばしている)。
 *7
 *8
したがって、山本氏の主張のうち
1.政府総支出(歳出)が他国に比べ低い
は事実に反する。事実は、日本政府は寧ろ他主要先進国に比べて歳出規模を拡大している方で、国民一般の要求に応えOECD諸国に比べ中程度の社会保障を行っており、かつ景気対策たる公共事業では主要先進国より大奮発している。

 次に山本氏の
2.故に日本も他国にあわせ政府総歳出をふやすべき
との主張についてだが、これはいわゆる大きな政府をめざすべき、という示唆になる。
 この理屈のからくりを一言で解くと、彼は途上国や中進国における開発独裁下の急成長と、社会保障の充実を大いに混同しているのである。
 既に日本の社会保障費が、OECD諸国で中程度にあることを示したので、日本の社会保障は北欧など福祉国家ほどではないにせよ、他先進国にさほど劣るでもない。
 一方、彼の引用した名目GDP成長率が高い国々は、いわゆる途上・中進国である*9。即ち民需が未成熟で政府歳出が主な経済部門の傾向があるのだ*10。
*9


*10
ではこれを前提に、日本が更なる高福祉をめざすべきか。
 先ず日本は税収がOECD諸国で最低級に低い*11, *12, *13。いいかえれば税率が低い。
*11
*12
*13
つまり国民が要求する社会保障・公共事業を行うには税が足りないので、政府は国債発行で民間から資金調達して、赤字分を補ってきている*14。そしてこの政府債務の規模は世界でも突出した額になっていて*15世界最大である(IMF, 2018) 。
*14
*15
日本の税収が他の先進国に比べ大いに伸び悩んでいるのは、低い経済成長率、つまり長期不況が続いているのに(あるいはそれゆえ民需に期待し)減税措置をしているからだ。そのうえ社会保障・公共投資で国民の要求に応え奮発しようと無理をしているので政府債務が世界一になってしまっている。
 *16
 *17

  *18
 *19
別の論文で分析したが(「日本経済の構造論」)、日本の長期不況の主な原因は、国内のお金の殆どを高齢者が老後資金に貯め消費せず、大企業も内部留保のうち現金預金などで貯め市場に回さないからである。つまり国民の貯蓄性向が高すぎ、消費性向が低すぎる。守銭奴なわけだ。
 ではこの状態で高福祉化をめざすにはどうするか。しかも山本氏はさらなる減税政策として消費税廃止、かつ追加歳出案として奨学金徳政令、最低賃金引上げ分の補填、公務員増大、デフレ脱却給付金などを訴えている。
 ここで彼はいわゆるMMTを使っているわけだ。世界一の赤字国がまた赤字拡大すべしと。MMTは現時点で「社会実験理論」でしかなく、当然、無限の(山本版ならインフレ目標2%到達までの便宜的期間はあるが未到ならやはり無限の)政府債務増に過去全ての国々は耐えられず、超貨幣膨張・超物価高騰の異常事態に陥って財政破綻した。無限贋金作りの幕府みたいになり、市場がぶっ壊れたのだ。
「無限の打ち出の小槌がありますよ。国債発行なら無限にやってもいいんですよ」とケルトン氏はいう。それで日本国民が餓死しまくろうと彼女は責任とれない。
 一方MMTを麻生財務大臣が否定してるのは、麻生氏も財政破綻否定論者だが、長期で国民が政府を見捨てなければ全部返せると思ってるのである。
 少なくとも2010年にギリシャ経済危機が起きた。旧共産国みたく超インフレにまではならなかったが、財政赤字隠蔽・統計不備が明らかになったあたりで財政計画の甘さが悲観視され、もともとあった政府への不信から国債暴落、続いて株価も下落し、ギリシャ政府がEUへ金融支援を要請する事態になったと。 安倍政権も隠蔽・不正統計をやりまくってるのでもはや政府統計を信用できなくなってしまったが、この上、山本氏らがMMTで赤字拡大したら「どうせ返せないでしょ?」と思った格付け機関が第二のギリシアになると予想し、日本経済も金融市場の不安定化から政府への不信が高まり破綻に至るかもしれない。
 この節をまとめると、山本氏の

2.故に日本も他国にあわせ政府歳出をふやすべき
との主張は、高福祉化に必要な前提条件が欠けている。赤字国債拡大に頼るのではなく、高齢者の貯金と、大企業の内部留保(特に非事業投資・非株主還元で事実上死蔵されている分)をいかに市中に回し税収をあげるかだ。私は後者について既にブログ記事で税制案を述べた(「消費税を付加価値税に正名し輸出企業にも負担させる税制案、及び内部留保税の投資鼓舞効果の考察」)。即ち
・消費税廃止かつ付加価値税を新設し輸出企業にも負担させる
・付加価値税は日用品無税など軽減税率を含め他先進国と同等程度の水準にする(累進付加価値税)
・内部留保税の新設により大企業が貯金を株主還元・事業投資に振り向けるよう鼓舞する
前者(高齢者の貯金を市中に回す為に)はオレオレ詐欺に頼らず、金融機関(つまり銀行や証券会社など)向けの投資促進法を立法し、主に起業間もない小規模事業者からの投資収益に減税措置を作ったうえで、金融機関に課税すればいい。そうすれば金融機関は進んで市中に高齢者の貯金を回すしかなくなるし、特に新経済への還流率が高くなる。
 簡単にいうと、おもに銀行・証券会社に預けられている高齢者のお金を、金融機関自身からこれから成長が見込めるベンチャービジネスにがんがん投資させ、つまりはエンジェル投資枠で起業家がお金を借りられる(いわゆる融資であれ、株式発行であれ)優遇条件を、税制上の大いなる鼓舞としてつくるのだ。高齢者はそれでお金がなくなるのではないかと思うかもしれないが、金融機関には法律上、預金保険制度が設けられているので高齢者自身の貯金がなくなることはない(現在一銀行あたり1000万円まで)。ここでも金融機関側への投資鼓舞のため中央銀行による全額預金保護を義務づける法文を追加すればいい。要するに高齢者のお金が絶対になくならない条件(全額預金保護制度)を法律上定義し、かつ、金融機関自身にはベンチャー投資しないと課税により収益率が低下する構造を作る。
 次に高齢者がそもそもなぜ金を使わないかだが、特に年金不安が大きい。だからGPIFによる株式運用分は、「基礎年金」を超えた部分(超過年金分)に限定し、この超過分は投資収益の成果によって基礎年金に上乗せして給付する様に立法すればよい。基礎年金分は国債で100%確実にまかなうのだ。GPIFの投資収益がうまく伸びなかった年(単年赤字の時)は、この超過分を上乗せせず、しかも基礎年金は削らず支給する。いいかえれば物価上昇率に基礎年金分が追随するのを法的に保障し、年金を支払う人達に対しては、GPIF投資収益の一部を元本繰り入れの複利効果で将来、よりボーナス支給するわけだ。この方法だと嘗て年金を過去払わなかった人にもきちんと基礎年金分を支払える(高齢者向けの基礎所得状態になる)上に、年度(又は四半期)によってはボーナスもあるので、高齢者としても若年者としても老後の安心が確保される。したがって全年代、過度の余剰分を貯金する必要も少しは減るだろう。
 もともと日本人一般の過度の貯蓄性向には、脳の不安遺伝子(セロトニン・トランスポーターS型というやつ)も関係しているかもしれず、制度的に貯金の必要がない状態を最大限つくってもまだ不安に感じて貯め込むだろうから、上述の基礎年金保障制度をやりすぎと思う必要は全くないであろう。
 この節の本論にもどると、他国の参考例としてフランスは個人所得課税を大幅にふやしたが*20、一人当たりGDPや国民総所得でも日本と遜色がない*21, *22(それどころか長期バカンス文化*23なども省みるとフランスの方が余裕をもち働き、消費生活しているといえるだろう)。
*20
*21
*22
*23
上図ではフランスの一般社会税(96~98年)、富裕税付加税(2012年)、資産性所得に対する分離課税の廃止(2013年)などが実例だが、要するにピケティの主張に近く、程度あれ累進性をもつ社会保障分を新たに徴税したが、結果、日本より高い時間あたり労働生産性もあって生産力は日本人ほどなわけだ。
*24
つまり単に高齢者や大企業の死蔵されている貯金を市中に回す鼓舞のみならず、フランスを一つの財政再建成功の先鞭として、個人と企業とを問わず、徐々に社会保障の目的と一致する累進性をもつ増税を行っていけばよい(政府の収支が安定するのは日本経済全体への信用度を高め、有形無形の恩恵がある)。
 ちなみに山本氏は消費税廃止論者だが、フランスで同税に該当する付加価値税は標準税率が20%、軽減税率は農水産品や住宅、レストランなど一部サービスが10%、食品、書籍、障害者用機器が5.5%、一部の医薬品などで2.1%と、単に累進的なだけでなく必需や社会的弱者に負担が少なくなる様にできている*25。
 この節について最後に付け加えるが、大小政府論は最終的に「中政府」が最善という結論に行き着く。政府部門が大きくなりすぎれば官僚主義の腐敗や市場の非効率、民間部門が大きくなりすぎれば弱者切捨てや社会不安が起きる以上、両者の止揚形が目的だから。アリストテレスのいう配分と調整の両正義だ。

  先ず山本氏の主張する公務員増員だが、公務員数はパーキンソン法則でしられるとおり無駄に増大するので、これら公共奉仕の為に最少人数であるほうが望ましい。できれば高い奉仕度のため民間委託する方がよい。よって政府歳出のうち主な国民への経済波及効果を伴う公共事業・社会保障に限ると、日本は他主要先進国に比べ公共事業分がとても多く(図では比較国中最大)、社会保障分はとても少ない(図では比較国中最小)。しかも経済波及・雇用効果と逆の歳出先になっている*26。
 *26
 これは教科書的には日本政府が建設投資により、耐用年数が長いインフラ整備に力を入れてきた結果だろう(原発の様な公害を除けば総じて次世代にも益するので、成功と考えられてきた)。
 が社会保障を相対的に軽んじた副作用で、所得が中央値の半分未満な貧者の割合である相対貧困率はあがってきた*27。
*27
他国と比較すると日本の相対貧困率は先進国でアメリカに次ぐ。しかも2000年代からの推移を含め、OECD諸国と比べても平均から大きくずれ、貧者が多い方に属する*28, *29。年齢別賃金格差も大きく*30、また所得格差自体は近年再び漸増している*31。
*28
 *29
 *30
*31
2012年から2015年の間に子どもの相対貧困率は下がった様にグラフに出ていて*27色々原因は考えられるが、統計不正がなかったとしても、一つはあまりに格差が開いて生活保護世帯も同期間、急速にふえたせいかもしれない*32。
*32
つまるところ、山本氏がいうGDPを政府歳出の経済波及・雇用効果で伸ばそうとすれば、経済波及・雇用の両面でより費用対効果が高い可能性がある上に、相対貧困率や所得格差を調整する役割の社会保障を主な支出先へと、これまでの公共事業重視から方針転換すべきことになる(コンクリートから人へ)。
 1.2.について論じた様、仮に社会保障の充実が課題となっても、MMT式に(期限つき)無限国債発行によるのは家政的ではない。消費税廃止、付加価値・内部留保税の新設などの新累進税制、基礎年金保障・GPIFボーナス制など年金改革に伴う金融機関投資促進法で、新経済を成長させ税収を上げたらいい。
 現時点で自己責任論と呼ばれる、新自由主義政策下で世相にはびこっている弱者切捨ての病弊が民衆間にみられるが、これは一時的な文明の退潮にすぎない。人類は全体としてよりよい状態に向かうため努力するものだからだ。よって社会保障の程度も、意欲減退を伴わない中に向かって充実すべきなのである。
 最後にいうと、いわゆる自由至上主義(libertarianism)の立場では政府部門を最小化したがる。計画経済の不可能さについてのハイエクの論旨をあわせ、社会保障も無駄の削減に入るとの意見もあった。要はこの立場は社会正義(ここではアリストテレス部分的正義)とは配分と調整の両面が必要と知らない。
 確かに現時点で、安倍政権は、日銀に日経ETFを買わせ、株価維持と企業国有化を兼ねる共産化を進めている。これは自由競争を損ない旧轍を踏む。できるだけ早く日銀保有分を市場放出するのが望ましい。公害防止(外部不経済の内部化)を除けば企業は民間のもので、政府介入は市場合理性を損なうからだ。GPIFは国際分散投資の現代ポートフォリオ理論に基づく極力保守的な運用で、日本企業に偏り資産配分しているのではないので、ここでは共産化の範囲に含めない。例えば西洋最大の政府系ファンドなノルウェー政府年金基金も似た方針だが今のところ成功で、よりよい理論が見つかるまでは最善手だろう。

 帰結。れいわ新撰組代表・山本太郎氏の主張を大略化した3つの論理構成
1.政府歳出が他国に比べ低い
2.故に日本も他国にあわせ政府歳出をふやすべき
3.結果GDPは上がる
について。
 1.は事実に反し、政府は低税収下でも国債で賄いつつGDP比で中程度の社会保障や、大規模公共事業に歳出している。(確かにGDP比でみて小さい政府に入る方だが、それは低成長下で高税収が見込めないせいであり、国民要求への奉仕である社会保障・公共事業の歳出額自体は他国に劣らない)
 2はまずMMTは財政破綻や、市場不安定化での国民生活一般への被害、超物価高騰・超貨幣膨張などの副作用が予想されるので自国に適用するのは愚でしかない。
よって上に詳述した
・消費税廃止・付加価値税の立法
・内部留保税の立法
・金融機関投資促進法(全額預金保護制度含む)の立法
・基礎年金保障・GPIFボーナス制の立法
・各累進税の立法
などで経済成長を促し、税収増を鼓舞しながら、結果として政府債務を徐々に減らしつつ歳出を行うべきだ。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。
 3は「コンクリートから人へ」公共事業から社会保障へと歳出の中身をきりかえていくべきだが、同時に日銀による企業国有化(共産化)は市場の自由競争を損ない新経済へは抑制に働くため早期かつ徐々にETFを売却し、結局は公害防止(脱原発)や、福祉等の民間委託を除けば政府は市場干渉しないに限る。
 なお公務員増は無駄の制度化につながるので悪手で、寧ろ民間委託先を透明性の高い公開された住民監視の元で競争入札するといった形で、癒着を避けながら政府部門もできるだけ外注すべきなのである。支出元が政府になっていれば、費用対効果面で最も公共奉仕が優れている業者を住民と選び取ればよい。
 山本氏は公務員を安全網の代わりにしようとしているのかもしれない。だがこれは巨視経済の誤解で、安全網はより合理的な順に一律貸与(universal credit)、基礎所得(basic income)、生活保護捕捉率の最大化という社会保障立法で広げるべきで、経済全体でみたとき無駄の制度化によるのではない。

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*1 http://www.garbagenews.net/archives/2399196.html
*2 http://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/9484
*3 https://www.mof.go.jp/zaisei/matome/thinkzaisei08.html
*4 http://www.zaisei.mof.go.jp/pdf/04-s02.pdf
*5 https://survey.gov-online.go.jp/h30/h30-life/gairyaku.pdf
*6 https://hodanren.doc-net.or.jp/kenkou/gkhtml/gktop/gk6s/gk6s3p/gk6s3p.html
*7 https://www5.cao.go.jp/j-j/sekai_chouryuu/sa11-02/s2_11_1_1/s2_11_1_1_1.html
*8 https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=55385&pno=3?site=nli
*9=*2
*10=*2
*11=*3
*12=*4
*13=*8
*14 http://www.hatan-taisaku.info/archives/253/
*15 http://honkawa2.sakura.ne.jp/5103.html
*16 https://www.nli-research.co.jp/files/topics/55385_ext_18_0.pdf?site=nli
*17 http://feel-japan.net/?p=4229
*18=*17
*19=*16
*20=*16
*21 Google検索(世界銀行)
*22 Google検索(世界銀行)
*23 https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20171211-00079191/
*24 https://news.livedoor.com/article/detail/14060508/
*25 https://www.jetro.go.jp/world/europe/fr/invest_04.html
*26=*6
*27 https://news.yahoo.co.jp/byline/ohnishiren/20170627-00072619/
*28 https://www.ishes.org/society/poverty/4th_povertyrate.html
*29 http://bigissue-online.jp/archives/1017887481.html
*30 https://honkawa2.sakura.ne.jp/4654.html
*31 http://honkawa2.sakura.ne.jp/4663.html
*32 https://wryyy.jp/shirogane/seikatsuhogo-fusei/

ゆるし

愛愛愛
金金金
性欲成金娼婦俗物
学歴差別をまきちらす馬鹿餓鬼
全体として愚劣過ぎる
公徳も何一つない権力亡者
忖度だか圧力だかで崇める邪教
下らない売名テレビネット芸人
全体として何の救いもない国
ろくでもない女がお前を侮辱する
その下種女の妄想も卑俗で
君は吐き気の中でゆるしを語る

君のいない夜

もう君のいない夜にはわれひとり孤独の底にねむる空虚に

2019年7月29日

社畜至上主義国

あなたはこの国では価値がない人間です
なぜならこの国は社畜しか生きられない
奴隷階級になりたくなければ自殺です
わかりましたか
天皇に貢ぐ奴隷の一生
資本家に貢ぐ奴隷の一生
さもなくば他人を貪る資本家になり
さもなくば皇族にすりよって自民党員になり
ひたすら下らんゲームでもやってなさい
疑問をもってはいけません
同調圧力に負けねばなりません
わがままで何のとりえもない下種にあわせ
幸福なふりをして一生過ごすのです
さもなくばあなたも引きこもりで差別です

夢の国

サブカルチャーという夢の国
そこでは搾取されるのに誰も気づかない
他人の負担で自分は幼稚な空想に耽り
低俗娯楽で馬鹿になる
東京や京都から金を貪るあきんどが
次々ありもしない嘘をばらまく
すると衆愚は大喜び
朝から晩まで妄想に耽って大歓喜
政府や老いぼれまで一緒になり大賛歌
そして遂に事件は起きた
目覚めた或る男が立ち上がり夢を壊した
虚構の舞台は崩れ落ち衆愚は大発狂
だがあきんどはここぞとばかりに箱を出し
夢の国を再建する募金を集めだしたのだった

普通の狂気

お前の存在価値は何もない
自称普通の家庭という
凡愚の狂気をまねたがり
ひたすら俗悪な奴隷階級に順応し
いじめを拡大再生産し
商業という悪意に加担し
邪教祖を崇めて死ぬお前には
はじめから何の意味もない
そしてお前はただの虫けらで
裏切られ傷つけられ
その狂気の只中でわめく
お前がやつら虫けらと同等で
そこにはどんな進歩もなく
永遠に抜け出せない地獄にいるかの如く

SNS

成金になり
家庭をもち
そしてお前達より幸福だと言い繕い
或いは現実に幸福さを自慢しながら
結局お前など生まれてくるんじゃなかったと
示す為にSNSがあるのだ
ではなぜそんな場所にいる
社会と縁を断って
引きこもっていればいいものを
傷つく為に社会参加せよと
俗物どもが煽っているだけだ
結局お前など存在しても無駄だと
自殺していく連中の間でじっと目をつぶり
お前は呪詛の言葉を吐いている

彼女

お前はごみで価値がない
なぜならお前は愛をもっているから
お前は愛をもってはいけない
もしもっていても一人の人にしか注ぐな
なぜならお前の愛など価値がないから
お前が為すべきなのは金をもってくること
金を儲けるため奴隷の様に奉仕すること
だからお前は死んだらいい雑魚で
絶望すればいいのだ
お前は性欲ももってはいけない
なぜならお前はごみ以下なので
お前は夢も希望ももたず
ひたすら彼女に奉仕すればよい
なぜならお前は彼女を愛しているので

Your meaning

You are nothing
You are firing
There is no mean
There are nothing
Sometimes you are breathing
For life
But you are nothing on the world
For life
There are stream which are remaining
But I am nothing today
At end I have to tell you that
My all purpose is your meaning

驕りの五輪

福島を無視し再稼動命じ東京都民が驕れるオリンピック

生産性

お前は能無し
この世に価値あるものを生み出せない
お前の生産性は皆無
だから死んだらいいと自民党がいう
なるほど貴様ら議員は神きどりで
我々芸術家を乞食というのだな
もし貴様らが何一つ生み出していないと
実際には収奪する一方の極道だと
全人類に知らせる能力を私がもつとも知らずに

よみがえ

この宇宙がお前を殺し
やがてなにひとつ残らない空っぽがきた
自分が過去に集めた偏見コレクションが常識
そして新たに生まれ変わる

交響曲

つとめてにはじめのせみが合図する交響曲に鳥たちの讃歌

彫塑

一体あと何億年待てば
また君にめぐりあえる
二度とはこない夏の日も
君なしでは輝きえない宝石
それともいたずらに過ぎ去る時を
神が物語の一幕として用意し
私も登場人物の一員であれ
君なしでは悲劇のくり返しに終わる
だから少しでも君の声に近づき
その中にある想いを突き止め
永遠をはるかにこえた彫塑として
私が神の代わりにつくりなおす
それも私の方が君より大きな愛を
無限より純粋に捧げたいからだ

2019年7月28日

除草剤

除草剤まいて枯らした庭の親こどもは私立なにをおそわる
除草剤まいて枯れ果てた嘗て野菜が植えてあった庭
不毛の駐車場になった土地に嘗てひまわりが咲いていた
戦中を生きた老婆の住んでいた土地はますます退化していく
目の死んだ都会人がなにもないという土地は色んな生き物が住んでいた
空き地さえ次々家が建てられて窒息するのを自慢する都会

芸術の仕事

芸術という何の役にも立たない仕事
虚業とばかにされ誰からも無視され
ひたすら赤字続きの仕事を
なぜ自分が択んだか
趣味あつかいで無職とよばれ
まったく理解されない
そんな仕事にどんな理想を込めても
心ある人などひとりもいないとしても
僕は自分の魂を歌うだろう
あたりにひとりもいなくなったとき
遂には孤独の底で負け戦を勝つまでやり直し
絶望より深い闇もただひとり切り抜けていく
そうして僕は果てしない迷路を生還してきた
己の信じる仕事をやり遂げる為に

貪り

他人が金を儲けているのを褒めるのは
己の取り分が減るのに気づかない愚行だ
より少なくしか取らず
より深く人の為になっている清貧な人こそ
無条件の賞賛に値する

超過

愛を超えた想いをなんと表現すればいい
そんなものより金が必要といわれれば
いずれ大金を用意するものの
世界中の全お金よりこの想いは重い
海より深く山より高く
この宇宙の外のあらゆる宇宙群より広い
だから僕はそれに飲み込まれ溺れながら
海辺のアリのよう右往左往しながら
君へのうたを書き綴る

2019年7月27日

サブカル好悪のわけ

サブカル嫌い、アニメ嫌悪一般のおよその部分は、その卑俗さへのものだろう。大衆向けなので低俗(大乗的に噛み砕かれていて時に幼稚でもある)、かつ商業的なので安っぽい内容しか作れない。
 ある人の属する文化環境がサブカル俗物根性に染まっているのは、彼らが卑俗な人々に囲まれていたからだ。

初夏の宵

わがへやに海風涼し初夏の宵
夕暮れの庭の打ち水宵浸す
涼しさに風鈴みあげ初夏祝う
ゆりにばら歌うカナカナ初夏の暮れ
庭の池ふえる水草果てもなし

気の抜けたコーラ

お前は綺麗事を悪事と勘違いしているな
理想なき人は気の抜けたコーラみたいなもの

そして海

蛇足
よほど手間がかかる
その下ない眠気
日々は焼かれ
気取ったやつらが出しゃばる
ピンクの月
時は満ちた
ゆっくり急激に止まり走れ
輝く
再来
なにもいえていないまま終わる話
だからなにを壊す
正しい正解と正しい過ち
そして海

説明

焼かれて消えた
はじめから価値もなかった
そして一言も残さず
あなたの上に答えをみつける
まちがえた道を辿りなおし
陳腐な語彙をなげすて
愛や恋で片づけられない
他にない説明を尽くす
あなたなしに生きられる筈もない
あなただけが生きる意味だ

設計図

パーツしかない設計図みたく
君をとりのぞくと全宇宙は役立たずだ

遠回り

少々遠回りだったが
今では君をみいだせたので
それでよかったとする

レリーフ

この問いは矮小化されすぎている
いのちをめぐるこの星は
あなたなしには意味もなく
よどみなく流れる時のカーテンが
わたしたちを覆い隠している
でも神秘のヴェールをはずし
やがてあなたの日常を
愛という真紅のばら色でうずめ
等しい数だけ集めた貝殻のペアや
きらきら輝くガラスのかけらのよう
かぎりない現象をひきだしてみせ
いつもわたしのわざでしか示せない
この上ない想いを伝えたい
まるでとわのレリーフのように

叶った夢

どんなに巨大な夢も
叶えてしまえば呆気ない

神々は君を見捨てたか
それとも私が神の比喩なのか
たとえどれほど君がみにくくとも
私こそ愛を超え君を守る力になる

守銭奴

大金を手に入れニヤつく守銭奴は
そもそもなぜ経済があるかしらない
大金は重い責任にすぎず
他人の為にしか使えないのだから

本音

本音をいえ
底を払拭
ヒリヒリ
焼き焦がれ

再稼動五輪

ゲンパツヲウゴカシコロセジコクミン
原発で金を貪る都民かな
原発でひとごろしする愛国者
他人にはおしつけ平気再稼動
自分さえよければいいと都会人
金のため国売る自称保守政党
公害を知っても外部不経済
原発を再稼動してひとごろし
自民党ゆびさし原発大公害
東京が今日もばらまく大公害
東京都今日も強欲賄賂五輪
都会人電気むさぼる再稼動
都民さえよければ再稼動五輪
原発で日本人を殺戮す
公害で金を儲ける都民自慢
再稼動中華思想で都会自慢
原発でひとごろしする自公支持
皇室のむさぼる電気大公害
再稼動いなかにおしつけ電気くう

羅生門

もし少子化を解消したければ
私に大金をよこすがいい老人ども
さすれば国中の女どもを孕ませてやろう
だがもしそれができぬというのなら
この国が永久に亡びてもかまうまいな

宇宙の法

夢より深く愛より近く
頭上にあるこの宇宙は
わが魂をのみこみ
やがてどんな不条理も消してしまう

至高体験

至高体験
2019年
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全大学廃止論

差別の為にある全大学は今すぐすべて潰さねばならない。学位は差別の道具以外何物でもない。学歴を書きつけ他人より優位ぶっている下衆は全員が教育差別する目的の極悪人である。

美しい物語

もしだれからも遠い場所で
しずかにねむりしんでいけるなら
はじめから美しい物語も語られず
君について何も知らずにいた
もしだれもが望む星で
たおやかにわらい消えていけるなら
はじまりもない物語はしまいこまれ
君のいない雑踏にたちすくんでいた
だから今すぐ語ってくれ
不完全な君のいる物語を

くそアニメ

くそアニメ消えてさっぱり自業自得

たとえお前がいなくなろうが
俺は最後までこの道をゆく
たとえ全人類が止めようが
俺は最初からこの道をきた
だからお前の代わり進むのだ
俺を止めたがったやつらは消えた
全員ばかみたいなやつらだった
一人もいなくなり遂に自分だけだ
だがこうなるのはわかっていた
俺が辿るのは唯一の道だから

夏の雨

なるほどお前は美しい
だがそれもつかの間
次の日には老いぼれ死ぬ
だからお前は美しい
まるで永遠に降り続ける雨の様に

2019年7月26日

大量死

人類が大量死すればかなしめと一体だれが教えたのだろう

常磐線の音

とおくから常磐線の走るおと初夏の日の夜僕を包んで

美術界

確立したゴミ捨て場
サブカル地獄でさ迷うテロリスト
そして犬の様な労働者
どこもかしこもけがれている
公僕の自覚がない邪教祖一家
全員死に絶えてようやく
ろくでもない連中の騒音が消える
はじめからなにもいらないのに
金儲けの為に買わされる屑
どこかでみたはずの天才たち
まるで月並な女と芸術

合理的経済人

かねを奪い合う
そして最後にすべて無駄だったと悟る
なるほどサルどもよ
お前たちの一生はむなしい

ともし火

宇宙に浮かんだ星の上で
きみはかけがえのない存在
だが孤独の底でつまづき
もう立ち上がれない
金もなければ友もいない
もうすぐ老いてしぬ
だからもうあきらめた
なにを
まったく価値をもたない
なにひとつ
それでなにをあきらめた
たとえ自分が死に絶えようと
このともし火を絶やすな
かけがえのない自分の良心だけは

2019年7月25日

Kyoani animations were not for the general people, but mainly for chunibyo adults

 (A review for Mr. Ken Mogi's a twitter video about Kyoani and Japanese TV)

I haven't good English listening skill so may I miss something to review for your this video, but I have an opinion.
  At first, ordinary Kyoani's animation pieces are not for general people on my point of view. If you could see those at once, you would notice it more or less. My girlfriend said she saw all stories of "K-On!" and "The Melancholy of Haruhi Suzumiya" (shortly "Haruhi") by Kyoani, but her last review was 'Just a time loss for me!' by herself. She loves other animations, so this is very typical criticism their pieces. Because my opinion is same. Please watch those in real.
  I continue, this fierce reason comes from their work's minimalism style (in Japanese, 日常系 nichi-jou-kei). Namely, characters don't do anything dramatic things in their story. Justly bored. And the animation ends. Especially, in "K-On!".
  This style brought from the literature's one. You know well --  Haruki Murakami imitated American literature minimalist (like Kurt Vonnegut), and Japanese light novel, eroge (erotic games) imitated it again on more vulgar expression, at end, was installed in Kyoani's animation.
  This imitation's imitation process involves in degeneration. In other words, like Plato was saying similar thing about the painter who imitated artifacts such as chairs, Kyoani's minimalism was not serious. The style's beginning, American writers needed to express common people.
  Of course, they Kyoani also described ordinary everyday in high school's girls. But if you saw necessarily found that was no mean. So, at least their representative work was most degenerated minimalism fake. I (or we) call it Nichi-jou-kei in sub-culture criticism.
(For the English only reader, I add a representation.
  Nichi-jou-kei is in Kanji 日常系. 日常(Nichi-jou) is meaning 'always' or 'ordinary days', and 系(kei) is 'system' in literal, this term the meaning is 'about'.
  So Nichi-jou-kei is 'about ordinary days' on Kanji)

  In your this video, perhaps (if I don't do mis-listening), you are guessing that Kyoani's pieces have general and wide popularity. This is a misunderstanding for that's fake style.
  The main reason why recently Kyoani's pieces cannot be main stream on most viewed time, for it.
  In addition to this point, if you watched "Haruhi" you would be felt a shock that story was very childish. That anime watcher my girlfriend said 'That was a stupid moe-anime "Haruhi", I had been done a creepy dance for that anime in my school forced with anime otaku fans, as like they were an idolatry religion that I had never known'.

  At end, Kyoani is an anime sphere's niche company. Because they use not only bored but also decadent expression for midnight time animation. Children don't see midnight anime, mainly be watched by adults. And they have jobs, tired, so teenager girls nonsense caprice is a healing.
  These adults be called 'chunibyo (eighth-grader syndrome)' as a otaku term. Simply said, they were adaptation disorder in real society more or less, and escaped in animation's fictional world.
  If you want to know more about the term's context, see also Takashi Murakami's next a text.

  I have some references for analysis the Kyoto Animation arson attack. There is a critical text, by a subculture critic (a philosopher) Teruaki Georges Sumioka. I quoted main parts of it on my twitter, this link is it's copy to my blog (in Japanese).
And this link is my essay on blog about the incident's analysis (in Japanese).

  Then, I abstract all the analysis which I can read until now.
  The attacker was a chunibyo adult maybe, wanted to escape from 'endless school days' on Kyoani idolatry forcibly.

  By Sumioka, chunibyo adults aspire escape from their hard reality (as like that involved income gap by Abenomics unavoidable), as an underclass member. Sometimes they are called 'kimo-ota' (shorten term of 'creepy otaku') in Japanese.
  Sumioka says, 'Let's wake up from anime'.

  By my opinion, also foreigners are having subculture Orientalism unconsciously, so Kyoani's harmless, more or less childish (especially not related intelligence), feminine world was so perfect for their Japan idolatry bias.

  After all, Kyoani anime geeks include emerging religious believers by my analysis. And main fanatics are a type of chunibyo adult. The incident's suspect may be an example very typical escapism of 'endless school days'.
  He couldn't be a real member with pretty school girls of 'K-on!', and at the same time his reality had been being more harsh day and day.
  He had to eliminate scary gap among his delusion Kyoani idolatry as an infinitely greedy consumer (as if addiction) and low income worker.
  Perhaps his first attack was on a mail or something criticism to Kyoani's president (by the president Hideaki Hatta and Kyoani themselves, October 2018 somebody wrote a death threat on their homepage. They reported it to the police. And other threats which included intimidation or criticism were more over 200 times for employees and supervision. -- From Kyoto simbun news 2019/7/21, 2019/7/18)
But he could never stop his idolatry addiction. His brain thought 'Kyoani stole my novel' (by attaker himself). His last attack broke all delusions.

  Takashi Murakami was a leader of subculture theory, at least on the foreign English sphere. And his that text on Instagram tells you a critical reflection incompletely. That is to say his ages can't escape from anime idolatry absolutely. It's a business.

アニオタ炎上

「私はアニメがきらいです」
と決して言ってはいけません
なぜなら外人受けしてるからです
なぜなら俗受けして
金が儲かるからです
アニメが幼稚だと本音をいうと
大勢の中年オタク達が暴力をふるいます
匿名で暴言を吐きつけ集団で犯罪します
ですからアニメ教を崇めない者は
この国では炎上します

菊と刀の擬制論は決して一般論ではない

(NHKは有能な各記者に、文科省や教育委員会が有能な各教員にヘボさせている、とするツイートへ)

この論理は、『菊と刀』だったと思いますが、ベネディクトが皇室の存在を説明するときに使ってました。すなわち菊は皇室の象徴で、実力のない上位者の象徴。実権を握っている刀は武士の象徴。日本人なるものは巧妙な表裏を使い分け、無能な上位者を有能な下位者が支えているという国民構造論です。
 有名無実な皇室がベネディクトのみた忖度の起源だったといえますが、一方、その種の擬制は日本以外でも、封建制の名残がある名目王権などに残っていますし、一般組織でも官僚制の結果はびこります。天皇制の組織的腐敗は平安期頃すでにあったので、新皇将門が独立政権を主張し、武家政治が出現した。
 もし中央政府のみならず、公的教育機関にも擬制(ここでは法律用語ではなく、形式を守る為の虚構じみた制度的擬態の意味)がはびこってるなら、それは組織が官僚主義で腐敗している証拠といえます。国内の制度疲労があちこちにあるんだと思います。

 私個人の意見としては、下位者が有能で上位者が無能というものの見方は過度の一般化で、実際には通常、下位者の方が無能だと思いますね。例外はあります。しかし下位者が十分有能なら組織全体が腐敗するはずもないですから。自ら制度改良できず、無能な人を忖度する時点で無能だともいえますからね。
 日本人一般が無能であり、個々の記者も「忖度文化」をもっている保身で空気を読むだけの無能だから、組織改革できない。先進国で基本な王権神授説の否定、政教分離、或いは市民革命に基づく皇室廃止もできていないわけで、日本人の下位者一般も、政治面で十分すぎるほど無能なのは明らかと思います。
 NHKや公教育の下位者が、一般的に上位者より有能とする根拠がみあたらなかったので、ここでの論理はベネディクトの擬制論法と同じものを用いた、一種のNHK・公教育機関へのあてつけになっている様に思います。もし本当に両組織系の下位者が一般的に有能と定義できるなら、なんらかの証拠が必要です。

教義

テロはいけません
代わりに搾取されてください
自殺はいけません
代わりに奴隷になりなさい
天皇皇族はえらいのです
あなたたち国民は労働者です
自民党はえらいのです
あなたたち愚民は米国の犬です
ですから成金を信じ金儲けしなさい
富国強兵といい戦争へ行かされ
憎くもない外人を殺戮する為に

男説

女はかしこいと
差別するなと人は言う
なるほどばか女がどれほどいても
少数は賢いものだろう
だがそれは男でも同じではないのか
結局お前はばか女に目をつぶり
少数派を一般と誤認させたがる
ばか男が軽蔑すべき存在なら
なぜ男はかしこいといえる
賢愚など定義できないので
学歴差別している愚者ども

金持ち爺さん

大金を集めたから
尊敬された様になっている爺さんが
本当はお前達から薄く広く搾取していたと
知ったらお前は資本主義を疑うのか

全人類ではない人

だからいったでしょう
宇宙全体よりきみのほうが尊く
なにひとつ欠けたところもない
それで世界が今日ほろびても
なにひとつかまわないと
しかしきみが失われた世界は
もはやなんの意味もない
続いていく物語も
僕には中身のないコップで
そそがれているのは空気だけ
きみなしの全人類などいらない

愛国者

お前はなにもしなくてよい
だれからも期待されていないので
お前はいつ死んでもよい
だれからも見捨てられたので
お前は労働以外目的がない
自分で考えられない様しつけられたので
最後になにものこさず
墓場をうろつき
繁栄の幻想のなか蓄財し
国庫に返納される
お前は神道信者

アニメファン

どこにもない正義をかざし
相対主義者のうそにかまけ
俗受けするざれごとを弄し
お前は知識人と名乗っている
一体ポピュリストとどこが違う
自分を棚上げし
ブロック相手の正論に耳をふさぎ
徒労の果て売名する
博士号を拒絶した漱石が
お前を後輩と認めるのか
堕落した東京のアニメファン

差別する人

ツイッターでもピグでも2chでも
ネット中で私は匿名衆愚にけなされた
特に京都の或る主婦や
FXしている或る横浜男に差別された
彼らは己の住みかが都会で上といい
私の住んでいる場所を田舎とののしり
とかく頭ごなしに悪意をもっていた
一体彼らがなにをいっているのか
私が長い間かんがえしらべ結果わかったのは
差別する人の卑しさは理解不能なこと
結局私は一方的に傷つけられ
それから差別を憎む様になった
そして京都や横浜にそういう下衆がいたと
脳内のとわに消えない記憶になった

非消費財

消費されるものは芸術ではない。商品だ。

理性の快

自分がよりよい存在であるがゆえ少数派になっているなら、それはより安全な位置にきた証だ。
 人は徳に応じた幸を得る。下衆と群れてえられる幸は、賢者のそれではない。
 ミルのいう快楽の質は、アリストテレスのいう理性の快と同義で、人の特徴に属する。人生全体で理性が効く期間の方が長いから。

中二病は正論で少しも治療されない

>あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

>京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。
>それもこれも、京アニという製作会社自体が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだったからだろう。

>学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。
>そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

>なぜ学園物、子供以上大人未満のジュブナイルが当たったのか。なぜそれが日本アニメの主流となってしまったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。

>だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。
>それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。

>夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより「学園祭」体験を求めている。だから熱烈なファンになったのだ。

>自分自身のアイデンティティ無き「顔無し」は、あたかも自分自身で作ったかのように作品群に心酔し、批判を狂ったように蹴散らす。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、いつか一線を越えて、作り手の領域、作り手の立場にまで、かってに自称で踏み込んでいく。
>最高に熱烈なファンの自分こそ「学園祭」の一番の主役であるはずだ、と。だが、それを拒否された、否定されたと思い込めば、彼らの凶暴なもう一面が歯を剥いて襲いかかって、破壊に転じる。

>終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。
>しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。彼らは入れてもらえるリアル中高生のようなLineも無く、数十万もの言葉をいまだにtwitterで虚空に叫ぶ。

>こういう連中に残された最後の希望は、自分もどこかすでにある永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

>時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。

>だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした既製品の夢を見させられ過ぎた。それで、自分で自分自身の夢をゼロから積み上げて創れない。一発逆転も、また他人の出来あいの夢。だから、かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。

>いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢(絶対に誰も入れない隔絶された世界)を売って弱者や敗者を時間的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。
>こんなビジネスモデルは、精神的サブプライムローンのようなもので、いつか破綻する。そして、実際、その崩壊が始まった。リアル中高生が食いつかず、市場が高齢化し縮小してきている。

>まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。
>あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。

>こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

以上、純丘曜彰氏「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」(2019.07.21、INSIGHT NOW!)ページ1ページ2ページ3ページ4より引用。
この論考は、自分がこれまで見た中ではメディア全体の京アニ礼賛報道への「全会一致の幻想」のなかで、唯一、きちんと京アニのもともと抱えていた問題(純丘氏のいう「永遠の学園もの問題」は中二病患者を量産していた)を摘出しつつ、京アニ批判を加えている。その点では非常に見るべきものがある。
 この論考の欠点は、「永遠の学園もの問題」は日本人の京アニオタ(もし純丘氏がいうとおりなら容易にファン・アンチの両極へ転化する、双極性の中二病と考えられる)を一般化しているにとどまるのであり、海外の京アニオタや、礼賛一方に偏っている国際メディアバイアスを説明できないことだ。
>リアル中高生が食いつかず、市場が高齢化し縮小してきている
なる部分も、統計データの様な裏づけがなく事実なのか私にははかりかねる。中高生より中年層以上のファンのほうが主になっている、という「中年向けアニメ仮説」。根拠を多分彼は持ってるのだろうけど、少子化と混同してるのではないか?

 自分の感じだと、どうみても『けいおん!』みてるとは思えない国連のおじさんとかが素でいきなり京アニ擁護しだしたのは一種の喜劇ですらあって、「いや、作品1個もしらんでしょ?」「なんで知ったかぶってるの?」って話だ。サブカル俗物の理論的裏づけは村上隆のスーパーフラットしかないのだが。
 つまり外人の京アニオタはちゃんと作品のファンなのかもしれないが、それ以外の国際メディアは有名観光地としての「京都ブランド」に重ねた「日本産アニメ」全体と、今回の炎上を混同していると思う。京アニはアニメ界からみたらニッチな世界なのは確かでしょう? 普通に見たことない一般人のが多い(京アニ作品は、アニオタが選択的に観ようとしないと一般の目に触れる機会が少ない深夜放送のすきまアニメで、ゴールデンタイムの全国放送テレビでやってない)。

 では、外人の京アニオタ一般が「永遠の学園もの問題」を抱えているか? 前ネット記事かなんかでみたドイツかどっかのアニオタは、社会適応できずアニメに逃げ場をみつけ、部屋中に二次元美少女のグッズを敷き詰めて日本最高! とかいっていた。この点で外人オタクの中でも、アニメ自体が逃避先にされてるのは事実と思う。
「永遠の学園もの問題」は、現実逃避先として終わりなき日常系幻想のなかで、中二病を無限延長させる。この点で純丘氏の批評的観点の本質、つまりアニメが現実逃避の手段になっているのは外人の京アニオタにも一般化できそうな気がする。しかし、それは学園ものが彼らにも共通体験だからではない。
 ここで外人のアニオタ一般(京アニオタ含む)と、日本人のアニオタ一般は、学園ものを見る視点が違う。外人は異国情緒、特にオリエンタリズムの目で京アニ作品をみていると思う。『けいおん!』『涼宮ハルヒの憂鬱』とか女性が主役なわけで、まさにサイードのいう東洋人への偏見と合致してしまうのだ。『源氏物語』ファンだった日本文学研究者のドナルド・キーン氏もそうだったが、京アニファン外人の熱狂の影には、そしてもっといえば国際メディアがフェミニズムと絡め京アニ礼賛する背後には、オリエンタリズムの偏見を強化するのに都合がいい色々な条件がある。女性らしいと同時に、馬鹿っぽいアニメ(女性一般を馬鹿にしているのではない)だからだ。
 柄谷行人がどこかで、大江健三郎と西洋の詩人何某のやりとりについて「西洋人からすれば日本人が理知の分野に立ち入らず、永遠に芸術の様なそこからみて情緒的で幼稚な分野にあそんでいてほしい」といった偏見がある、と指摘していた。いわばプラトン詩人追放論の延長にある、オリエンタリズムである。外人の「永遠のオリエンタリズム」への期待が、特に中世都市の京都や、近代都市の東京などの珍奇さを異国情緒として無条件に礼賛する態度になり、海外から隔絶され文化風習が歪み独自進化しているが、それに無自覚な独創性の高い芸術的な島国という日本への偏見に重ねられる。京アニ礼賛もこの一部だ。
 例えば男性らが主要登場人物である人気アニメ『ドラゴンボール』『ワンピース』などの外人ファンはオリエンタリズムのなかにある東洋人の女性視を全く持っていないかといえば、日本産アニメのなかに出てくる女性はある種の女性性を偶像化された性の記号だったりするので(ブルマとか)、必ずしもそうではない気もする。エロアニメとか同人誌みたいな二次創作分野だと、このオリエンタリズム性はより直接的に表明されている。つまりアニメ中の女性キャラクターが娼婦とかあばずれといった役割だけを演じさせられ、オタクの自慰目的の慰安婦(性奴隷)にされる。外人はオリエンタリズムを含んでアニメファンなのだ。「萌え」という概念は、クッパ姫ミーム(Bowsette meme)で明らかになったよう、このオリエンタリズム的な女性性の記号化を含んでいる。クッパ姫とは外人の二次創作で始まった、任天堂のゲーム『スーパーマリオ』シリーズのおそろしい姿形のボス・クッパが女性化されたキャラだ。
 アニオタらは国内外を問わず、気兼ねなくオリエンタリズムに立脚できるニッチとして日本産サブカルチャーの二次創作を始めている、といいかえてもいい。京アニの代表作の場合、はじめから登場人物は女性中心なので、アニオタは自らの根底にある東洋差別の為、他意なく作風を礼賛できたわけだ。

 では外人アニオタの心魂は大体こんなものと推定されるとして、国際メディアのほうはどうかといえば、上で少し触れたが「永遠のオリエンタリズム」に好都合な中世都市が京都であり、その名がついたアニメスタジオは、ますます日本を無害な芸事に耽る女らしくて愚かなジパング化するのに都合がいいのだ。
 恐らく国連で擁護したひともだけど、京アニ作品とジブリ作品、カラー・ガイナックス作品とか一切見分けてないであろうと思う。素人レベルだと、日本産アニメは全部同じ場所から生まれてるかの様にみえているわけだ。それはアニオタでない一般日本人からしても多かれ少なかれ同じだろう。
 純丘氏は、彼について私は寡聞にして今日はじめてしったけど、彼の経歴や文面から推察するとアニメ史を系統的にきちんと研究されてる方なので、京アニがアニメ界のある種のニッチといってもいいのを熟知されているはずだ。子供が『らき☆すた』をみんな見てますかといえば普通に見てない。『サザエさん』のメジャー度とは全然違う。つまり国際メディアバイアスが生まれてきている原因は、純丘氏のいう日常系のねじけた時空である「永遠の学園もの問題」と無関係に、オリエンタリズムの眼差しを強化するのによい機会だったからだと思う。外人の一部が脳内妄想としてもつゲイシャ幻想と『けいおん!』の女キャラは、東洋人なるもの(ここでは日本人なるもの)に彼らが望む女性性をまとった偶像とほぼ完全に一致するわけだ。
「永遠に芸事に耽って、政治的・経済的・理知的に無害な物珍しい日常系だか学園物だかを、中世から孤立した島国のなかで永遠にやっててくれれば、たまに旅行にいけるし、いいな」
こういう実に素朴な京都幻想を、日本幻想と重ねて、オリエンタリズムの判子で押した。これが国際メディアの真相と思う。
 京アニ側はどうしたか。このおよそ悪意のない(がゆえよりいっそう深刻な差別や偏見を含む)オリエンタリズムの逆差別を真に受けている。「世界の皆さんに応援されている」と解釈している。一見、アニオタやメディアと、作り手の麗しい愛なんだが、純丘氏が指摘するようこれは構造的病の無視でもある。

 今現在、アニオタは勢いづいて純丘氏をネット炎上させている。彼の名前でグーグル検索すると、上位結果はほぼ純丘氏への集団虐待じみたアニオタ暴徒からの一方的な誹謗中傷で埋まっている。「一生恨むぞ」「死に絶えろ」レベルの犯罪じみた脅迫も多い。けもフレ脅迫事件(『けものフレンズ2』の制作陣を、前作『けものフレンズ』の衆愚化したファンらが、作品が気に入らない、前作の監督を復帰させろなどと言いがかりをつけつつネット上などで執拗に脅迫した事件)もだがアニオタの常套手段だ。
 サブカル全般がそうだが、大衆商業娯楽に感けてる程度なので反知性主義の傾向がある。ゆえ純粋美術で普通な批評言語がほぼ欠落している。オタク内では「語彙力()」(語彙力が足りないの略+(笑)の短縮化で())などネット俗語で、互いの批評言語のつたなさを自虐ネタにする場合も散見される。だから否定的批判が安易で攻撃的な脅迫になるのだ。
 純丘氏の当論考は、サイトから除去されている(アニオタの一部が魚拓で保存していた)。BIGLOBEニュース編集部の取材によると、(恐らくアニオタからの)複数の通報を受けたサイト側が規約に照らし不適切発言があると判断し、表現を自主規制したらしい。純丘氏への危害を懸念したのも、非公開にした理由の一つという。純丘氏自身によると、「炎上」を受けて同サイト側は一旦、記事削除に踏み切った。純丘氏には事後報告だったという。
 要は京アニオタ一般は、自ら信じる現実逃避のアニメ教がおびやかされていると感じ、外人のサブカル・オリエンタリズムを追い風に、一教団本部へのお布施を免罪符として大盤振る舞いしつつ、不安を追い払うべく暴徒になって魔女裁判のスケープゴート(いけにえ)を探している最中だ。

 純丘氏は最初の論考で「アニメ教団そのものを考え直しましょう」と宗教改革を唱えた。「アニメキャラとの学園祭へ、永遠に中学二年生として参加などできないのです」
ルター役の純丘氏を磔にしかねない京アニオタ暴徒の大発狂は、中二病は正論で少しも治療されないと示している。

アニメ嫌悪

京アニひいき狂信者らの醜さでアニメ自体もきらいになった

人類見苦し

私には一銭払わず仕事盗り京アニに貢ぐ人類見苦し

寄付の逆差別

またこれで田舎差別か京都人
アニメ売り田舎差別か京都人
寄付募り世界と差別の京都人
人類がひいきし京都中華思想

2019年7月24日

貞操

身売りで大金を手にした東京遊女
精神障害で極貧の貞操な田舎娘
一体どちらが正義といえる
憎むべき遊女を愛さねばならないなら
神はなぜ障害を与えた
それとも遊女の性売買罪を裁かぬ
頽廃しきった東京が文明の障害なのか
香油を注がれたイエスの様
私はなにを訴える
下衆どもの大都市に滅びを
それとも障害を負う娘に救いを
ではその救いとは
大金の代わり愛を得られない遊女は
享楽とひきかえに誇りを失った

こびとの島国

この国で明るく楽しく生きるのは罪だ
周りの顔色を伺い
互いに不幸自慢しなければならない
和という風土病の島民
この国に一度うまれてしまえば後は絶望
ほかにひとつも道はない
互いの足を引っ張り合うしかない
邪教祖を崇める信者
だからお前は嫌になり
遂に命を絶とうとした
だからお前は沈黙し
いじめに加わり無視をした
恥ずべき衆愚の真ん中で
普通と称するこびとども

ひいきの悪業

ひとが誰かをひいきするとき必ず
逆側にいる誰かを差別しているものだ
そしてそれに気づかない愚か者だけが
群れて賞賛という悪業をくりかえす

京都ぎらい

私は京都がきらいだ
京都人らは私を面と向かって差別し
税金で贅沢自慢の腐った場所だったから
世界中の俗物どもが京都をひいきし
どれほど偏見で逆差別していても
私は彼らに一方的に傷つけられた
私は彼らの汚点を沢山見た
私は良心に従う
私は真理をみた
全人類がなんといおうが
私は京都がきらいだ

もしきみがいなければ

もしきみがいなければ
はじめから知りえなかったことが多すぎる
だがしらなければよかったこと
しる必要がなかったことも
もしきみがいなければ
自分の存在は空っぽのまま
死まで悪足掻きし
この世の目的を見誤っていたろう
もしきみがいなければ
自然も都市もただの背景で
その奥にある真理をつかめなかった
もしきみがいなければ
宇宙にながれゆく星屑より
僕の魂は空虚だった

うつくしさ

あなたはこの上なくうつくしい
とりのぞくべき点もつけくわえるべき点もない
だがわたしに描けるのはその側面でしかなく
結局とりこぼした真実の方が永遠に輝いている

出会い

はいそうですね
よのなか腐りきってますね
政治が堕落していますね
そして若者はもっとですね
そして下らないやつが馬鹿をいい
金儲けのため型にはまり
消費できないあなたを差別していますね
やつらは本物の奴隷なので
金に魂を売ったと自慢しながら
偽善の会社員になって
今日もあなたを搾取したがってますね
だからあなたは居場所がなく
絶望のあまり自殺未遂をしてましたね
そして私が助けたんでしたね

異星人

この無意味な世にうみおとされ
ひとは死までのあいだなにをみる
みずから意味をみいだし生きよと
哲学者のいうとおり他人に奉仕しても
人々はきみを見下し
しごとを盗み去っていく
極貧のなか絶望しながら
俗人たちの浮かれ騒ぎをながめる
私の居場所はない
この世になぜうまれた
死に至る旅の上で
月のよう貼りついた孤独は
あらゆる夢も洗い流してしまった
冷たい異星人のあいだで

利己主義者

英国の没落の日をわれは見る侵略せし日の強欲のまま

都会人

都会にてコンクリートに囲まれて自殺しまくる自称洗練
アニメ描き炎上しまくり泣きながらかねをとるなりサブカル宗教
学歴で人を丸ごと差別して見下す相手は高貴な田舎者

空っぽの不幸消費文化

あれだけ京アニ京アニさわいでいたのに(京都アニメーション炎上事件のこと)、数日したら無音。遺族感情など脳の片隅にもない。この日本人全般の「他人の不幸を消費する」感覚はものすごく気持ち悪い。そして都内マスメディアやそこに関わる自称文化人どもがあらゆる人間を、非情の死でさえ、視聴率の具にしているのがわかる。
 ツイッター芸人どもは売名の道具に、他人のあらゆる不幸をあげつらう。それも空気に流され一時的に同情しているふりをする、という最大の偽善で。
 それがただの演技なのは数日後、彼らがなにをさえずっているかみれば一目瞭然だ。いうまでもなく彼らの脳は空っぽなのだ。

新UIを廻るツイッター史と改善案

ツイッターUIは、リツイート、いいね、ブックマークとか3つも選択肢いらないし。日本メーカーみたいな複雑さ。こういう鈍臭さがFAANGに比べたツイッターの伸びなさだと思う。ネットフリックスはよくしらんけど。返信もいらないし、コメント・画像つけられる「いいね」1択でいいと思う。
 機能はリツイート1つのほうがいいか。ツイートorリツイートだけにしたらタイムライン1本に絞られるんだから。わけのわからんアイコンがぐちゃぐちゃあるのがみにくい。ツイッターのいいねって昔からなかった気がする。フェイスブック系のぱくり?
 あと左上のホームのアイコン、その上にツイッターアイコンあるんだから意味ないでしょ。なんで同じ機能のものが2つあるの。
 それと、自分の名前欄とプロフィール欄も翻訳できるようにしたらいいと思う。その部分だけ翻訳できないせいで自分で異言語話者のこと思いやってどう記述するか考えなきゃいけない人がいるわけじゃん。
 あと自動翻訳オンをつけておいて、原文のほうをクリックで開かせる様にすればいい(以前はタイムライン上にもついてたが、なぜか個別ツイートのページにしかなくなりました。マイクロソフト翻訳からグーグル翻訳になったのは寡占につながるけど、無料だからでしょうか?)。その方が手間少ないだろう。
 まだ新UIの問題点ある、誰かがリツイートした内容を右クリック・ダブルクリック・ホイールクリックで直接ひらけない。前までできたのに。要はタブでリツイート先を参照のためひらけないのはウェブからとても見づらい。
 私ならこの左上のツイッターアイコンを、左下の羽ペンのアイコン部分にする。そしたら「さえずる」の意味になるし。なんでtweetなのに羽ペンなのか、矛盾に気づいてないんでしょうか?
 いわゆるマネタイズ部分だと、ユーチューブミュージックみたいに広告消すのに定額制で課金させたらいいのでは? あとツイッタラーへツイートインプレッションに応じ収益分配するか、投げ銭可能にしたらいいのではないですか?
 まだある、たまに他のサイトからツイッター連携で投稿すると一時的にロックされるんだが、あれもメール認証ですぐ解除できる様にしてほしい。前からいってるけど。電話認証しかない、それ使えないなら中の人が手動で解除って相当鈍臭いと思う。なぜもたもたやってるのだろう。
 それと、ツイッターって過去のツイートを時系列で並べてあるから300以降とか一々辿ってみれないんですよね。なのでブログに自分で記述しなおしてるんですよ、私とか。しかも誤字訂正できない上に推敲すらできないので、一定期間で過去ツイート消してるのね私。他のアプリいれて。ブログ連携で、ツイッターに書いたことをブログに自動で直接投稿できる(保存できる)様な公式アプリか、さもなければブログに書いてあるのを自動ツイートしなおせる機能(サードパーティのアプリでも)がほしい。僕にその技術はないが。またはツイッター自体が過去ツイートを簡単に遡れる様になるか。
 それか、上にかいてあるとおりツイートって間違って書いても直せない致命的欠点があるから、普通に推敲させてほしいんですよね。そしたら別に消さなくてもいいかもしれないし。誤解させる様な言葉遣いを、正しく言い直したいなとかよくあるでしょ?
1.一定より過去のツイートってツイログとかに登録しないと容易に見れないので不便(死蔵されてしまう)
2.訂正・推敲できないので消すしかないのはウェブの特性上もおかしい気がする(石版や紙の文章ならわかるけど)
3.手動でツイートをブログに保存する側からすると二度手間はぶく方法がほしい
4.ブログならアドセンスなどでマネタイズできるけど、ツイッターにその種のツイッタラーへのインセンティブがないので、ツイッターアドセンスみたいなのを社内開発すればいいのでは?(そしたら過去ログ辿れる仕組みも、ツイッター社側の総合インプレッションを伸ばし、ツイッタラーのためにもなる)
要するに、私は一定期間でツイートを自らサードパーティアプリで消し、上の4つの問題を便宜的に自己解決してるんだけど、4のツイッターアドセンスをグーグルと組んでやるとか普通にやればいいのに。スナップチャットみたく一定期間でツイート消す公式機能をつける、という方法もあるけど。
 他にも、ツイッターの規約ってとっても分かりづらいところに書いてあって、なにが禁止事項なのか初心者にもプロにも殆どわからないんだよね。はっきりルールをわかりやすく明文化し、BANするならこの項目にふれてますってメール通達に書くべきだと思うよ。意味不明なBANって不安にさせ不条理なので。
 あとこれは通らない意見かもしれないけど、アイコンとか背景とかいらないんですよね。新UIだと目立たなくなったからまだいいけど。ツイッターの本質ってツイート自体なんだから、それ以外の煩瑣な装飾部分とか削ってほしいんだよね。
 まだある。匿名ツイッタラーに荒らしが多く悪質なのはほぼ確かなんだから、少なくとも登録時にしっかり個人情報を書かせるべきと思うんですよ。まあこれはツイッター文化からするとプライバシー問題との天秤になるけどさ。でもその方が信頼度は高くなるから業績でフェイスブックに追いつけると思うよ。
 もう少し細かいこともある。連続ツイートを追加していって間の1個だけなんか違うので消したいな、というときそれを消すと、分裂しちゃう。これは勝手につなぎなおされる様にできると思うので。単に連続ツイートの間のを消したら自動でつなぎなおされるだけでなく、間に新たなツイートを追加もできるとおもうんだよね。できるだけシンプルなUIで。そういう細かいところが雑なんですよね。今後そうできる様になるのを望む。

 もっとある。このフォロー・フォロワー数って非表示にできたほうがいいと思う。なぜならフォロワー数が一種の階級制みたいになってるからですよ。フォロワー多い人が威張り散らしているんです。インフルエンサーになんかいうとフォロワーがイナゴみたいに大挙して誹謗しまくってくるしね。まずツイッターの一番よくないのが、このフォロワー数稼ぎゲームになってしまっている点。もともとはそうじゃなかった。
 私は最初期からみていたけど、まじでミニブログで、ほんとの日常語り(雨だ)みたいなのとか、引きこもりみたいな人らの毒づいた内面とかごろごろあって、興味深かったのに。今はもう商人とテレビ芸能人みたいなのがネット芸者化して、売名と金儲けの為のインプレッション稼ぎが9割くらいだよね。体感的に。私がなんでほぼロム専だったのにこうやってツイートしだしたかというと、そんな中で古典的な「自分語り」的ツイートしてたら希少価値ありそうだからなんだけど。
 まあはっきりいうと、初期ツイッターってパソコンオタクが内面吐露する私小説的な空間でした。私はその頃からの歴史をずーっと眺めていました。そして最初期が一番よかったと思います。なぜならフォロワー数10人以下とかの人たちが一番いい人達だったからです。正直、フォロワー数が多ければ多いほど、その人は俗物です。これはほぼ間違いないでしょう。多数派からの声望を得る為のツイートをしているか、その種の芸能人ですから。私がみたかったのは、楽しかったのは、このフォロワー数1人とかの人たちの希少で、消え入りそうな、本音のささやきでした。
 で、実際には、私はリストを使ってフォローしている。なんでかというと私は多産なので自分のさえずりでホーム画面のタイムラインが埋め尽くされてしまうからである。しかも自分が書いた文章を推敲できないのに2度も3度も読まないので、自分のツイートもホームのタイムラインに出るのは色々おかしい。フォローしている人が見えますよね? しかしリストだと非公開にできる。フォローしてる人を他人に見せる意味ってよくわからないので(嫉妬や邪推されたり)、リストのが便利である。私はホーム画面はみてないのだけど、じゃあフォローする意味って何かというと、鍵アカの人を解除する為でしかない。鍵アカを相互フォローではずしていることを公開する意味、というのもまたこれも意味がわからない。こういうわけでフォローってリストでいいんじゃないかと思う。
 フォロワー数の公開って「人気者ぶり」を競争原理にしてるからだと思うけど、それミニブログってより芸能人有利の弱肉強食なんですよ。
 SNSなるものはほとんどが最初は、初期ツイッターと同じで、内面がたりの日記ブログみたいな感じでした。ミクシーみたいな。その時代は俗物芸能界とすみわけられていたので希少生物がたくさんいた。嘘抜きで。私は彼らが好きだったとまではいかないが、情報の多様性はいまより確かにありました。

 一応語っておくけれど、Tumblr(タンブラー)の歴史というのも興味深いものでした。初期、地域別の上位投稿頻度者みたいなのが地図の形で公開されており、世界中の人たちがおしゃれページとかをばんばん出していた。私のみてた限りでは、あのときが最盛期だったと思います。
 しかしタンブラーおしゃれ圧力は低きに流れ、段々と無修正アダルトサイト化していって、それはそれでネット全体でみたら規制を受けない一種の避難地みたいになっていた風だったのだが、某経営判断で一気にユーザーが消えた。私はそこで「清流」になったからタンブラーにやっと入れたんだけど。

 で、ツイッターの歴史からいうと
1.PCオタクの私小説マイクロブログ期
2.2chねらーにみつかり事件化が始まった時期
3.ニュースなどに取り上げられインフラになった時期
4.インフルエンサーと名乗る俗物商人跋扈期(今ここ)
私はツイッターがすばらしかったのは1だけと思っている。
 なぜ私が1の私小説マイクロブログ期に唯一、ツイッターらしさを認めるかなら、あの純粋さえずりが目的だったころはフォロワー数売名合戦など面影もなく、いわゆる俳句より短い様な芸術性がみられたからなのです。「わ、あめ」「傘ない」「晴れた」みたいなの。そんな文学はツイッターしかなかった。
 私の記憶が正しければ、勿論そのころ広告とかありませんでした。どうやってマネタイズしてたのか、赤字だったんでしょうね、きっと。でも広告挿入が始まった頃、既に初期は放置されていた色んな過激発言への道徳警察ぶりが、不寛容いなごツイッタラーらからみられる様になり、段々と煉獄みたくなった。なぜ自由度を自ら下げる道徳警察ぶりが始まったかですが、これは2の2chねらー流入の頃でした。彼らは荒らしが多く含まれ、他人が攻撃的な口調で書いてるだけで悪意で通報するし、ツイッター社側もこれを受けたか段々と規制を厳しくしていきました。それで純粋さえずり派は絶滅した。
 1のころの過激発言というのは、他人を攻撃する類のそれではなくて、人生自体に対する懐疑とか、文明批判みたいなのがよくありました。それと罪のない内面の垂れ流し。要は素朴な人間感情をつぶやけるサイトと思われた。それで私はツイッターを「つぶやき」と訳したらそれが定着してしまったんだが。
 もうひとつ興味深い点は、3(インフラ化)頃の代表的な論客は某自由記者さんだったといえるけど、テレビでも「私はツイッターに詳しいです」って配役で出てらっしゃったので、しかし彼は某批評家と親くなっていって4の時期にはブロッカーになってしまったんですね。ここでブロッカーというのはフォロワー数が万単位のインフルエンサーが、一方的に異論を封殺する目的でカジュアルブロックと彼らが称する「国交断絶」をする人たちです。彼らからするとフォロワーは信者と一緒なので、一方的に崇めてきて金よこすイエスマンしかいらないわけ。
 確かに実際にツイッターをやってみないとわからないのだけど、「通知」というところにあらゆる反応が流れてくるのだが、そのほとんどは、2~3の時期以後でしょうが悪意あるもの、さもなければ暗愚なものなんですね。いってみれば大衆化してしまったので、反応のほとんどは2ch的卑俗な雑音なんです。このフォロワー万単位のインフルエンサーからすると、雑音が余りに多い為、その中で雑魚キャラ排除みたいな人間軽視の感覚ができあがってしまい、しかも膨大な反応のほとんどが2ch的衆愚のそれなので、段々と「本当の批評」と、「ただの悪意ある誹謗」の見分けがつかなくなってしまうのでしょう。
 4の時期の代表的論客は、某学者氏と某商人氏(旧ヒルズ族のほう)といっていいでしょう。特に後者は炎上によって話題を振りまいていらせられる。このお二方がなぜツイッター史の4段階まで生き残っているかというと、反ブロック派だからだろうと私は思う。要は1からの流れを知っているわけです。
「もともとツイッターって各自が自由につぶやいてた、孤独な人らの裸の王様(またはロバの耳)の井戸だったよね。じゃあ2の時期(2chねらーによる発見期)あたりからできてきた返信機能とか通知とか無視しときゃいいんじゃね。そもそも批判的思考による自己の可謬性がわかってたら異論封殺とかありえなくない?」
私的には、トランプ大統領がツイッターを始めた時点で、そしてFlashのサポート終了でピグが潰れると予想できた時点で、ツイッターの情報インフラ性は確立するなとみて、本腰入れてやってみた。去年の12月ころから。それまではロム専で、アカ自体はブログ自動更新通知だけでほぼ放置してたのだけど。

 なにがいいたいか。私は1(私小説マイクロブログ)期のツイッターらしさを残してほしかった。つまりフォロワー数の非表示案は、インフルエンサー恐竜やブロッカーの暴力(いなごフォロワーによる集団虐待とか、数の馬乗り)から、名もなき弱小動物を守ってといいたい。
 たとえば一般人はインスタのDMとかライン(海外ならワッツアップとかカカオ)とかで私的やりとりしているので、ツイッターのニッチって純粋にマイクロブログだった。途中でウェブ開発者のおじさんらがマストドンに狂喜してたが某つくばの少年はドワンゴに吸収され終わってしまいましたね。彼が独立してマストドン専用の会社たちあげてたら状況は変わっていたかもしれない。ドワンゴ側はニコ厨専用の閉じたスケールに、マストドンの潜在的ニッチを矮小化してしまったといえますね。だってニコ厨と絡みたいやつとかまずいませんから、一般社会。
 そしてニコ動自体も、ビリビリに長期的に潰されると私は思っている。市場規模そのものが世界スケールのビリビリのほうが圧倒的に有利な状況にあり、ガラパゴスなニコ厨に国際性が欠如しているのは当然ながら、UIからしていかにもな日本的複雑性(つまり設計下手)で到底世界に通用するとは思えない。
 つまり、マイクロブログの決定的競争相手だったマストドン市場は、ニコ動の戦略ミスで今のところ完全に自滅したので、ツイッターの独占はしばらく不動である。上述のよう私が本腰で参加決めたのは、IT業界の事情と大統領の情報発信とをみて、ツイッターの国際インフラ性の確実さを見極めたからです。
 今後、ツイッター史が未知の5期にすすんでいく中で、その時代の覇者って違ってくるでしょうね、当然。これまでもそうでしたから。一方、1期にいたはず絶滅した純粋さえずりキャラは、フォロワー数非表示の設定で、やっとマイクロブログ界に復帰できるのではないかと思う。階級差別されなくなるので。
 多数政治(俗にいう民主主義)の最大の利点は、少数意見の尊重です。世間で信じられている多数決ではないんですね。ある超少数意見が真理だった時、全員の意見をできるだけ尊重する前提なら、多数決の盲点を自己修正してきちんと採用されうるのが美質なんですよ。
 マイクロブログの長所は、長文できちんと体裁の整った論文を書く能力がない人でも、ひとことふたことで意見をいえる点にあります。つまり、超少数意見をみいだせる。その点で新しく、また貴重なすきまだった。今は多数派の圧制がはびこっているが、フォロワー数競争システムのせいですよ。

 結論。ツイッター社が自サイトの長所がマイクロブログらしさにあると気づき、フォロワー数競争原理を修正するのを、また、マネタイズ面ではツイッタラーへのインプレッション収益分配、インプレッション弱者に対しては投げ銭で、大乗的・上座部的の両面でより高質な情報発信を鼓舞してくれるのを望む。

 もうひとついい忘れていたことがあった。インスタは承認疲れ防止のため「いいね数非表示」になったけど、これはツイッターのリツイート・いいね数にも完全にいえるとおもう。下らないツイートは拡散されるが(低俗なら低俗なほど)、立派なのは沈黙されるほうが多いのだから。

UI

UIを改悪するのはやめて欲しいツイッタラーの悲痛な面持ち

芸術家

ピカソは偉い偉いとキュビズムにたかり
ハーストの動物殺しに大金を出す馬鹿ども
前衛ぶった似非えせ漫画をハイアートとほざき
中二病の幼稚なアニメで萌え萌えいう下衆
全体としてお前らは愚劣だが
一体なにを威張っているのだ
全体でなくても滑稽だ
写真そっくりに描けたらすごいといい
機械よりずっと下手な写実画で金儲け
素人をだますルネサンスもどきのごみ
一体なにに驕っているのか
ひたすら赤字続きの仕事が
本当に職業と呼べるかすら怪しいのに
お前は芸術に身を捧げなにをしているのか

あなたはだれの様になりたいですか
別にだれにもなりたくないです
あなたは将来なんになりたいですか
私以外になれないです
では最後の質問です
あなたは何者ですか
私は私です
それ以上でも以下でもないのです
私はあなたを愛しているので
自分という真心をすっかり捧げ
代わりに遠すぎる海辺の町から
あなたを想ううたを届けます
まるで今日世界が終わっても
あなたを見守る羽の様に

2019年7月23日

反証性

反証を疎むのは馬鹿の子孫である。

自称成功者

この国の殆どを埋め尽くすのが
俗悪なごみどもと知っていれば
はじめからなにも期待せず
あの商人のよう平気で金をむさぼり
人間を完全に馬鹿にして生きていけたろう
だが満足した豚よりソクラテスの方がよいと
ミルがいった理由がただの合理化なら
ますます連中の騒ぎの中で
他人を手段にした一生がすばらしいと
他人を奴隷にできる一生はすばらしいと
他人のため働くのはすばらしいと
他人を差別するのはすばらしいと
他人を見下しながらいう自称成功者は
不満足なソクラテスとして恥を売っていたのだ

疑問集

自分より愚か者しかいないなら
一体どうやって仲間を見つける
自分より卑しい者しかいないなら
一体どうやって配偶者を見つける
軽蔑せざるを得ない群れで
一体どうやって都会を愛する
互いにむさぼりあう悪魔らと
一体どうやって寛大などといえる
多数決の地獄で
一体どうやって救いを定義する

金のごみ

はじめて金貨を思いついた人は
やがて人類がそれをなにとも交換せず
ひたすらごみとしてためこみ
赤の他人を餓死させると思ったろうか

涙の川

あなたは私に必要なものなので
もはや何一つ必要とされないこの世で
ただ水のようあまねくあふれかえり
私の悲しみを流してしまう
あなたの涙の一粒でさえ
私がすべてぬぐいさり
かわりにこの世の果てまで流れる川が
もはや何一つ必要としないあなたを
ただ宝石のよう静かにたたえているだろう

神の似姿

まさかこれほど卑俗な世界としらず
わたしはどうしようもない地上で
さも恵まれた人かのようすべてを楽観していた
そしてなにもかもが出来損ないと分かり
やがて人類に馬鹿しかいないと諦めた
探せば探すほど惨めな人しか出てこないので
やがて人類を他人と思う様になった
まさかこれほど創造主が設定をあやまり
ひとつたりとも希望を置いておかなかったのは
わたしにどうしようもない地球を
最初から最後までつくりなおさせるためだと
さもわたし自身が神の似姿かのよう
全宇宙を修復させるためだと気づかなかった
まさか芸術家までも設計済みとは

無学

人を差別しむさぼるため学ぶなら
はじめから無学の方がよかったのだ

リバタリアン

お前が生きようが死のうがどうでもいい
単に自分以外に興味がないので
だがその自分さえ死ぬのなら
結局だれの為の命なのだ

不完全な人

無限に続く孤独の中で
不完全な人をみつけた
そしてその人しか愛すべき存在がいないなら
この世にはゆるししかありえない

命のかけら

命のかけら
2019年
PNG画像
7680 × 4320 px
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報道一般は発信者の利害から自由でない

NHKが選挙戦の前に憲法改正の是非など、公平な報道をしなかった不作為についてのツイートへ)

私の解釈が間違ってなければ、公共放送だけでなく、資本関係をもとに情報を公衆送信する全メディア、全記者が、なんらかの上位権力に媚を売ってしまうところに、資本民主主義的なメディアバイアスがあるのでは? この報道自体の限界は、個人の自由記者が自らの利害で動くところにもあるのでは?

少数支持の意見が国会に反映され得るのが多数政治の利点

日本の選挙では不支持にも投票できる様にすべき、とするツイートへ)

もし一票をトレードオフで支持(いいね)か不支持(ダメ)のどっちかに投票させたら、人々の悪意が可視化されるのでは? 陶片追放はスケープゴート(いけにえ)を無理やり生み出し、政情不安の捌け口にしていただけだったのでは?
 不支持投票案の問題点は、支持の少数意見を、不支持の多数意見がかき消してしまい、結局、少数意見弾圧につながるところと思いますよ。

ツイッター上で私が一部の立憲狂信者らにされたこと

民意を国会に届けるから「代議士」、つまりは国民の代わりに議会に出てくれるさむらいなのであり、その公僕とやらが、頼みを入れた有権者を狂信集団で虐待するとか信じがたい。だれのことかというと私がツイッターでお伺いを立てた枝野幸男議員、立憲民主党、彼らのツイッター上の支持者のことである。
 私がこうして欲しいと頼んだのは、「とりあえず国会も行政もまったく埒が明かないので安倍政権を打破するのが祖国救済の第一義である。したがって全野党で共闘すると申される小沢氏のいうとおり一致団結せよ」と述べた。完全に正論でしょう。枝野氏は議員、党首の分際でこれを無視していたのである。
 そして一有権者であり一国民であり、ガチ貧者の一灯で政党助成金その他の税を搾り取られている私を、その税を食む立場の公僕たる枝野議員は無視し、「比例区での統一候補はありえない」とか抜かしていらっしゃった。そのせいで周りの立憲狂信者らに私は死ぬほど名誉毀損された。立憲暴徒は度し難い。

 その後、わたくしはどうしたかというと、ツイッター上で小沢氏に状況報告してから、枝野氏の党首交代をなんとかするため戦略を練った。そして「放置」が最善とみて、数ヶ月じっと我慢して耐えていたのである。その結果がこれだ。ほらね、負けたじゃん。そりゃそうだよ。狂信暴徒が支持者なんだから。

 先ほども書いたが、枝野氏はなんと、その比例統一候補を土壇場になって公認しだした。つまりは前言撤回というかあれだけ断言してた宣言を、無言で撤回してたんだけど、武士に二言はないどころの騒ぎではなくて安倍氏レベルのダークトライアドみたいなことを平気でやっている。まあ安倍氏よりはましか。あれだけ周りに集めた枝野イエスマン、立憲ファシスト集団が、主権者であってつまり日本の最高権力者の私を不当に名誉毀損・虐待しまくってるあいだ、ツイッター上で「やめて!」ともなんともいわず放置しておきながら、枝野氏はちゃっかり私がいったとおりにしているのである。なんという輩でしょう。
 私は極めて穏やかな人間だ。私の親友なんて私が現実で怒った場面を一度もみたことがないといっていた。実際そんな感じに近い、私は正当防衛の為なら普通に戦うけれども、基本的に争いを好まない。実に平和と愛を歌う詩人。その大人しいわたくしを、枝野ファシストはいじめまくったのです。不当にです。
 今回の参院選でも立憲が全然、自公連立に勝てなかった。正直なところ、私としてはいくらか痛快なくらいなんだが。枝野氏や立憲ファシストどもの自業自得というその点だけではね。が。今後を考えるともっと枝野失脚の流れにしてくれないと困る。私の傷が癒えないんだから。私の名誉はどうなるのか。
 安倍晋三という男が、ダークトライアドなのはほぼ間違いないと思うのである。サイコパスにマキャベリズムとナルシシズムが加わった性格をいう。が。私は官邸にいつかメールで、ある自殺した青年の話を訴えた。そしたら普通に拝読しましたって返事きたんである。安倍のが枝野よりましってどういうこと? 安倍という男はあんなのだけれども、私がそのネットで自殺配信した青年の残したホームページと共に、彼は母子家庭で、彼の兄弟も極貧のなか自殺していて、彼の老母は彼が生配信していた自殺後の姿を真夜中にみつけ慟哭したと、救貧が急務と私が訴えたら、一応「拝読しました」って返事したのである。官邸の名義でだけど。じゃあその後、安倍氏が救貧政策してるかというと、まあ統計データでみると相対貧困率は下がってるんですね。どんな手を打ったかっていうと、それははっきりしないんだけど。いつもの大本営データ捏造かもしれないし。多分、民主以来の就業率上昇のなかで非正規がふえたせいなだけだろうと思う。
 でだ。枝野は無視し、安倍は一応返事した。どっちが有権者の一人の声を聴いているといえるのか。本気で考えていただきたいのですよ。枝野氏という輩の傲慢ぶりは、安倍氏以上だというのは恐ろしい話ですよ。それだけ器が小さい。首相にしたらとんでもないことになるでしょうよ。予想つきますよ。
 実際には私がいったとおりに枝野は比例でも共闘したからいいじゃん、というかもしれない。しかし私が訴えにいったとき、周りのとりまきは私にガチで犯罪しかけてきたんですが。名誉毀損。私をオザシンがどうとかいって。雇ってる代議士を信仰なんてしませんわ。それあなたたちでしょという話。オザシンとは「小沢信者」の略であろうと思われる。政教分離すら分かっていない民度の枝野シンパの恐ろしさ。まあ信任するとか信頼するならまだ分かるけど、宗教信者扱いである。どの時代に生きているのか、枝野のとりまきは。そんな輩が与党になったら日本会議の再来だ。

 もともと、立憲に入れ政権交代させないと困ると思っていた私が、立憲嫌いになったのはこういう理由である。どこの宇宙に、代議士に民意を伝えたら、いきなりいきりたって集団虐待してくるやくざなとりまきがいる政党になんて投票する馬鹿がいるのか。逆にそれでも支持できたら発狂でしかないであろう。

小沢党首の下で全野党は安倍氏と天下分け目の戦いをし負けたら民主主義を諦めるべき

某氏は自公連勝を、有権者に公平な報道をしないNHKなど主要マスメディアのせい、との論点に立たれている。これは私の意見としては「東京の」報道業界の平均的質の低さと、別の問題を混同していると思う。なぜ東京の、と特記するかなら、地方紙や地元のテレビみてると東京発の情報の方が俗悪なので。
 この第一の意見、「東京の報道業界」と、都外の報道業界の決定的違いは、東京のそれは記者クラブ企業連合にがんじがらめになっているのに加え、そもそも東京都知事をみたらわかるよう一般的な政治民度がとっても低いのです。ダニクル(ダニング・クルーガー)効果で都民は驕ってるが、普通にいなかのが議論の質がまだましです。一つ反証例を出すと、東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉とつくば圏)の外で、恐らくつくばも含めて、歴代都知事のうち石原慎太郎氏以後の面々が立候補してもほぼ確実におちるであろう。なぜかといえばそんなタレント知事みたいなのに期待するほど阿呆が多くないからです。はっきりいうが。
(このたとえには例外もあります。諸々の相関係数が、学園都市であるつくばを除く東京圏に近い道府県なら政治民度にも類似性があるため、タレント知事誕生も頻繁にありえましょう。具体的には大阪、京都、兵庫、愛知、福岡あたりです。しかし全体として、都会にタレント知事が多いのは、多数派の民度のせいです。資料:都道府県別統計とランキングで見る県民性「東京都の類似都道府県」

 で、もう一つの本質的な「問題」の方を分解して考えます。
 それは結論からいうと枝野幸男氏が第二党の党首なのが敗戦原因です。彼のカリスマは正直、とても低い。そして器も残念すぎるのだけれど、首相にふさわしいとはちょっと思われないサイズに一有権者として感じる。きちんと理由があります。
 枝野氏は、小沢一郎氏がオリーブの木構想で、野党共闘で第一の民敵であるところの安倍独裁政を成敗しましょうと持ちかけたとき、「迷惑だ」と一蹴していました。これは私としては失望の極みで、自分の実力を全くわかってないのかこの人はと呆れましたね。やっぱり結果はそうでした。
 一応書き残しますが、その際、私はツイッターで枝野氏に話をつけにいき、反省せよ、お前が第二党党首として全野党の大将になるつもりで俺についてこい、後は任せろくらいいえなくてどうするのといって説教しました。そしたら枝野氏はこれを無視、驚くべきことにやくざなとりまきに私は侮辱三昧された。
 これでもう寡頭政治めざしてるだけのくだらねー第二党だってことはばれてしまいまして、枝野氏と立憲狂信者は、ほかの少数政党を支持している「全国民」の公益を代表するつもりがてんでないのだ、と、政局的態度として示されてしまったわけです。ああこれはダメだと。それでもう立憲支持も危ういと。
 そして私としてはこんな小人が政権取ったらまた菅直人暴走政権のときと似た顛末になるのも目に見えていると立憲の応援とも距離をとって、野党の実質的なボスというべき小沢氏を全面的に支持することにした。小沢氏はさすがの貫禄で「枝野さんを信じて待て」と仰り、実際こそっと枝野氏は方針転換した。ここも私は本当に呆れた。枝野氏はあれだけ「迷惑だ」とか大威張りで、その時点で思いっきり立憲応援してた私みたいな一有権者を、手下のやくざが不可抗力で全く無意味にツイッター上で名誉毀損三昧、集団虐待しておきながら、あとでこそっと私がいった通りの方針転換するとか、これは枝野氏は非常にずるい。
 枝野氏はこういうわけで、「フルアーマー事件」(原発事故の時、「安全だ」と官房長官としてテレビ放送などで連呼しながら、現地住民が丸裸のところに自分だけ異様な完全防具でやってきたんですね)以来、人格的もしくは大局的判断で問題が色々とありすぎるのである。安倍氏はもっとだけどね、勿論。

 有権者がばかであって、テレビやネットに踊らされる雑魚で、安倍独裁の不正がはなはだしく危機的状況なのは明白なのに野党に入れない。だからメディアのせいだ、という某氏の推論のどこがミスかというと、実際には有権者はきちんとみてるのだと私は思います。なぜなら私もみまくってるので。有権者の政治の見方は、正直、冷酷なものだと思いますよ。私もですから。それはよい意味での冷厳さであり、「こんな野党党首じゃダメじゃん」っていう完全に客観的評価である。全然踊らされていない。安倍も無論どうしようもないやつだ。みんな知りまくっている。だが実際の政権運営は一応やっている。
「安倍独裁がどうしようもないのは認める。だが枝野独裁になったときのほうがはるかに恐ろしい結果がくるであろう」というのが、有権者一般の判断で、ですから棄権する。「うむ、ほかの野党党首の顔ぶれをみて、権力もたせたらよいと思える面はおらぬ。ここは待ちだ」
 普通に政局の判断として。
 そして私は特別な人物に注目していた。徳川家広氏である。ご存知、日本史の最重要人物の家系、それも宗家のご末裔であらせられる。静岡県民がどう判断するか見ていた。ご著書も購入し網羅的に読みつくしてから、歴史が変わるのかな? と思ってみていた。そしたら落ちた。有権者は非常に冷酷である。
 毎度のことだが、ツイッター世論とほぼ真逆に世間一般が動く。これはいつものパターンだからもうツイッター観察歴が長ければ長いほど重々承知と思うが敢えて書いた。なぜならツイッターってサイバーカスケードの蛸壺だから、そして一般社会の少数派が鬱憤の捌け口にしている傾向のメディアだからだ。
 今後、徳川氏が再び選挙に出られることもあると思うので(家康公はそういう人生でしたよね)、その時は枝野党首以外の政党で出馬されたい。ご著書の中身から総合判断すれば立憲から出馬もほぼ納得できたんだが、結果から見れば、主君の選択が筋としてよくなかったといわざるをえない。まさに徳の面で。

 そしてですよ、私が求めたいのは、普通に全野党の最重鎮でしかない小沢氏が野党全体を率いる党首として、党首討論とかで代表として安倍氏を打ち負かしていただきたいんですよ。小沢氏は御輿のやり方を好む。健康面の心配なら安倍氏もそうだから、寧ろ自分の実力に謙虚すぎるんですね。ダニクル効果で。
 枝野立憲に投票したいかといわれれば私はしたくない。その理由は上に書いた。安倍自民に入れる必要がないのは、今回の選挙でもそれ以前の日本人の傾向みてても明らかで、自民にわざわざ入れる意味ってなにもないでしょう。だってほうっておいても自民党が勝つんだから。つまり入れるなら野党なわけで。
 有権者が冷厳に自分の利害を計算している、というのが私の見立てで、いずれかの野党党首が首相の器として安倍氏より明らかに上なら、そして勝率がほぼ半分以上なら普通に投票にいきますよ。私も鳩山由紀夫氏が民主代表だった時は自分からいきましたからね。新聞広告とかもとてもよくできていたと思います。「いざ鎌倉」風の「さあ、政権交代だ」みたいな雰囲気を、当時の民主党はとってもよく演出できていた。そして実際にあのとき民主党の面々は、鳩山氏を御輿にしていた最大の実力(いわゆる政局練度含む公徳)をもつ小沢氏と、部下としては優秀なタイプの菅直人氏にうまく仕えていたと。

 もう少し枝野氏について分析してみましょう。
 彼がなぜ第二党党首になったか。政治に詳しい皆さんならご存知でしょうが。
 小池都知事による希望の党へ合流をめざした当時の民主党首の前原誠司氏だったが、実際には自民党の外部勢力である小池氏は、悪魔的政略で、自由派の民主党員を排除しはじめた。こうしてその自由派とみなされた旧民主党員の中には、枝野氏がいて、彼は失職の危機にあったのだが「枝野、立て」と支持者の一部がいったとかで新党を立ち上げた。それが立憲民主党。そして旧民主党の殆どが在籍していた希望の党は敗戦で空中分解し、国民民主党になった。小池氏はしてやったりである。
 ツイッター世論をみてて「旧民主の裏切り者がわかってよかった」と国民民主党を酷評してる人がいたんだけど、これは正直いって政治理解が足りていない。上述の経緯なので、旧民主党の主要勢力(の残党)が、国民民主党のほうなのである。そして立憲のほうは排除され仕方なく独立した浪士組みたいのだ。こういう事情を思えば、前原氏が政局ミスを犯し、小池氏という女狐に鼻をつままれた。そのせいで本来同じ志をともにしていた仲間が、なぜか分裂している。ならば前原氏が(国民民主)党首の座から失脚し、小池氏が邪魔することもなくなったんだからまた一緒になればいい、強いしと思うのが自然である。
 そこでさきに書いた問題が出てくる。枝野立憲党首は、なんと「(旧民主党の主要勢力と一緒になるのは)迷惑だ」発言である。なぜでしょう。答えをいうと、彼は第二党の党首の座であるのが心地よく、自分が仲間はずれにされても助けてくれなかった旧民主党の主要議員を排除した方がその座が安泰というのが本音でしょう。建前は「信用の為」というが。ここで今回の分析の焦点が出てくる。枝野氏はなぜ「野合しないのがわが党への有権者の信用だ」「これまでの失敗は志を異にする人たちと野合したせい」みたくいっているのか? 上の経緯からいったらあなたも旧民主党にいたではないか、なぜ最初から独立政党を作らなかった? となるし、矛盾甚だしい。
 たとえば世界の政党政治をみて、党首の是は党員に絶対だ、みたいな傾向をファシズムまたは独裁政(僭主政)というのである。いいかえれば党員は一定の自由度の中でまとまっているが、個々人は政治信条で微差があって当然である。ロボットじゃないんだから。この点で小泉進次郎議員から「自由のある民主党が自由民主党だ」とか講談みたいなジョークかまされるくらいで、実際には党規模なら自民党のがファシズム傾向なんだけれども。
 つまり、枝野ファシスト党といったほうが正確なのでは? となってくる。安倍ファシスト党とどっちが結束性が高いか競ってらっしゃるの? となって、実際に自民党って派閥間でプロレスやってるから、前より格闘技が弱くなったとはいえ党首選の時はそれなりに党員同士ガチンコで批判しあってるわけだ。

 で、小沢氏ってのは自民党の派閥プロレスじゃ国政の腐敗なんて全然変わらないと悟った御仁であらせられ、いわゆる先進世界の常識であるところの二大政党制、特に政権交代文化を移植しなければ日本を救えない、と最先駆してこられたスピンアウト革新起業家キャラなわけだ。だから私は応援してるのだが。いまでいえばスガ官房長官が、「もうこんなうそつきばっかの忖度会見やってられっか!」とか申され、自力で新党たちあげられたくらいのインパクトが、いわゆる自民党幹事長からの小沢氏の軌跡でしょ。私が生まれてくる前も入ってるけど。なので日本政界は遅れてて、彼は革新派なので虐められてきた。壊し屋のレッテルは政権交代で失職しかねない自民党側が彼に与えた汚名で、実際には「直し屋」、つまりは御隠居による世直し政治みたいな立場でしかない。ほかの先進国でいったら長期政権が絶対に腐敗するのは経験的に知られているのだから、堕ちた与党をそのたび倒し直すのは当然なのである。
 はじめにいったよう都内マスコミって平均値がほんと語るに落ちる民度でしょ。これはみんな知っている。集団で冤罪かけて視聴率めあてに金儲けして、自宅とりかこんで風評被害ばらまきつつ無関係の家族に自殺させ、謝りもしないとか。そんなのが東京都内の報道関係者のデフォなのでやくざよりひどい。
 なにがいいたいかというと、枝野という男は、正直いって、このイーロン・マスク級の小沢一郎というご老公にびびっているんですよね。だって枝野氏なんて上に書いたよう流れで浪士組のボスっぽくなってしまった男なだけで、もともとは菅直人政権で鳩山氏や小沢氏への冤罪排除に無言だった男だからね(現中国最高指導者になった習近平氏との会談をめぐる、平成天皇と宮内記者会を発生源とした都内マスコミによる一種の濡れ衣を濫用する、菅直人氏らの党内クーデター。鳩山氏は首相を辞任。小沢氏はその後、マスコミぐるみの東京地検による魔女裁判にかけられたが、裁判官が義憤混じりに疑獄と認め無罪だった)。これは別に枝野氏を貶めたくて書いているのではなく、有権者は党首の人柄から思想からなにから、言行録、将来の政治能力としての期待値や流れまで含めすべてを「冷酷に」評価してるのだといいたいのである。なにせ自分が払ったなけなしの税金で養う公僕なんだから当然でしょう。

 結論を書くと、「普通に立憲党首が安倍氏よりろくでもない様にしかみえないので、わざわざ応援したくない」と有権者一般は思うわけであって、安倍氏より低い評価しか与えられない党首って時点でもう、その政党は解体したほうがいいと思います。嘘抜きで。組織として終わってますよ。立憲民主党を解体したら自公の暴走はとどまることを知らなくなっていよいよ終わるというのはわかるが、枝野氏への信用度が低すぎて、党首交代なしに勝利とかありえないと思う。そんで枝野氏は党首の座にしがみつくので解体しかなくないですか? ほかに選択肢あるなら教えていただきたい。
「野党がだらしない」といっている一般人は言葉足らずなのであって、「安倍さんより信頼できる野党党首がみあたらない」(これはまあ確証バイアスですが。現実には全野党党首が安倍氏よりはましでしょうから)か、「自民党より政権運営能力が高そうな野党がみあたらない」というべきですね。そしてこの2つを総合していうと、「枝野さんは安倍さんよりましとはちょっと思えない。過去の行いとか普段の言動とかみてても、頼りない」となります。この有権者一般の判断が「馬鹿だ」といえるでしょうか? 一理あるかもしれないというぎりぎりの判断だからこそ、難しくて棄権が多いんですよ。
 たとえば小泉進次郎議員が野党第一党の党首だったら、結構普通に勝っているんじゃないですか? 小沢一郎氏が野党第一党の党首でも、私の見立てが間違ってなければ勝てるんじゃないかと思う。もしそれで負けたら、日本は政党政治ができない国民だった、となって逆に民度の限界が明快になるだけです。
「日本は北朝鮮や中国レベルなので、政党政治なんて全然できない。一党優位で独裁者が不正三昧してても崇めてるのが関の山。そんな国にそもそも政党なんているの? 天皇陛下万歳とかほざいてる愚民は奴隷として扱えば?」ってのがそのとき当然視される未来で、寧ろ小沢氏が勝負に出て証明して欲しい。

 もし小沢氏が野党第一党首として安倍独裁に敗北したら、私は本格的に多数政治を諦めて、いわゆる単独政治か少数政治のほうに将来のこの国をもっていこうと思う。それは十分できますからね、歴史的にも。たとえば主要知識人を政府に集中させたり、資本家が貴族道徳で賢人政治できればいいわけです。
 多数政治が成功しうるのは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で説いていた通り、最多の中流が教養と良識をもっている状態に限る。いいかえれば個々人に極端な公徳の差がない集団である。格差社会だと政治知も、少数の上智と多数の下愚に分かれてしまうとすれば、少数派が政権とる必要がある。いわゆる多数決による間接選挙を通じた多数政治、というしくみを、なんらかの方法でより公徳の高い少数派が勝利するしくみにきりかえていけば、仮に多数派がどれだけ衆愚になっていても全体として国をうまく運営できる。それは人類史上も多かれ少なかれ明らかで(例えば多数政治、つまり俗にいう民主主義やってた古代ギリシアも隣国の王政マケドニアに侵略受け滅亡してしまいました)、最終審判して欲しいと思うのである。
 ちなみにAI政治に期待してる人をみたけど、倫理という過去の評価関数に依存しない判断の最適化はできないから、今後も無理ですね。意思決定自体は人が直接やるしかない。単にデータの抽出が楽になるだけで、それは公共の問題についての、思考の材料です。具体的にマイクロソフトのAI "Tay"がやらかした(差別の礼賛など)のとほぼ同じことを過去の系統学習、深層学習ではやってしまう。いわゆる「(逆説的に)歴史に学ばない」、過去と同じ判断をくりかえすわけです。全く新たな局面で過去に最適化されているのと違う判断をするのは、人間業というわけです。

フェミニズムの女性ひいきは弱者男性を二重に差別してしまう

今気づいたけど、フェミニズム的な女性中心主義のなにが問題か把握できた。それはこれが「男女同権」や「性差(社会的役割としての文化的性差)の公平」ではなくて、平等という言葉で女性ひいきを行おうとする立場を有利にする目的ということだ。正直、私はそっちのがいいんだが自己欺瞞的でもある。
 ここでいう性差は、某自由記者が某展覧会のコンセプトで使ってる様な通俗的な「性別差」の意味ではなくて、学問的定義に近いそれで、例えば弱虫なエイセクシャル男性でも危機のとき優しく助けてもらえるとか、勇敢で猛々しい女性も戦場の最前列に立てるとか、性同一性障害も尊重されるなどのことだ。
 なぜ私はそっちのがいいというかというと、私は高校が男子校だったんだけど、こどもの段階で父親以外はいつもいる家族が女性だけだったので、女性に囲まれている状態が普通で、感性の面でも女性に近い感じで繊細かつ優しい。男性社会的なものも適応はできるが、自然に女性中心社会に戻ってしまう。

 英雄は色を好むという諺。これは健康な男性はテストステロン値が高いと解釈できるが、理性で抑えてるから必ずしも性依存症だの遊び人にならないわけで、色好みがみな英雄なわけではない。そして私の場合、この傾向なのかなら、女性社会中心の育ちなだけで全然女遊びなどしていないが多分ある種の英雄である(自分の道への本気度という意味でとても長期間、命すれすれまであらゆる努力をし尽くすなどの点で、自分と似た男性はみたことがないので。女性では妹島和世さんという一応、自分から師事にいった人で1人だけみたが。もっといえば本質的には色好みなのかもしれないが極めて理性的なので、硬派なわけだ)。
 で、私は素で女性中心社会のが楽でいいなと思っているので(男性社会の質が低いと起きがちな女性を性的なモノとして扱う観念とか、まれに起きる上位を争う格闘といった、芸術を楽しんだり愛を歌うこと以外の野蛮な要素みたいなのがないので)、フェミニズムの男性差別は違和感を感じつつも、女性中心集団の方が自分的には順応し易い感じがする。
 つまり、私としてはフェミニズムが猛威をふるって女性中心社会になっていってくれたほうが個人的に楽なわけだ。たとえば一般の上場企業みたくおじさんたちの間で男性社会的に生きていくなんて全然したくないが、女性だらけの職場なら自然にいられる気がする。私は弟だったけど大人しくしていればいい。

1.男性中心社会vs女性中心社会なら後者の方が自分には楽っぽい
2.しかし女性ひいき・男性差別のフェミニズムは明らかに逆性差別
3.世間的なフェミニズム運動は逆性差別をあおってる
4.黙っておいたほうが自分には有利なんだけど、逆差別の差別性に気づいてしまっている以上、反対すべきか?
自分と同じ様な感じを述べてる人はただの1人もみたことがないので、一応書き残してみた。

 性差平等を某記者の文脈で「性別平等」として使ってるのは単純に性差(社会的性差:gender)の社会学用語の面で完全に誤用と思う。だとして、性差別からの解放は全性別や全性差が公平に扱われることと思う。
「女性ひいき(かつ、トレードオフで男性差別)」が凄く有利になる世論というのが、昨今の欧米圏、特に国連で作られている運動と思う。そこではもともと男性社会でも弱者に属する男性や、性差が複雑な男性はますます不利な立場におかれ、二重の差別を受ける。だから私心を除けばこの流れは邪悪と思う。

冷夏のヒーター

扇風機いらない冷夏のヒーター

2019年7月22日

あなたなしに

あなたの前にある全ての困難を取り除き
私に与えられる全ての快楽を与え
なおあなたがしあわせになれないなら
もはや自分にできることはない
なぜあなたのいない地上で
私に存在意義が残っているという
なぜあなたなしに
この星が続く
なぜあなたなしに
この命が耐えられる
なぜあなたなしに
私がいる
なぜあなたなしに
このうたを歌う

言語帝国主義の批判

英語圏情報に偏るのは英米中心主義(英米を世界の中心とみなす世界観や物の考え方)を免れない。いいかえれば英語圏は世界の一部に他ならず、他言語で語られた情報の殆どすべてをカバーできていない。
 これは英語だけでなく、日本語の中でもいえて、方言の世界、アイヌ語など少数言語の世界を標準語圏はカバーできていない。言語外の世界もある。

 私は英語帝国主義、標準語帝国主義などの言語帝国主義に反対だ。これらの傾向は自文化中心性を背後に忍ばせているので、他言語圏へ侵襲的に振舞い、異言語圏の植民地言語化(クレオール化)を促す。結果、人類の自由は情報のみならず、思考の面でも特定の言語帝国の利害に回収されてしまう。文化的枠組み切り替え(Cultural Frame Switching)の考え方によると、人は使っている言語によって性格含むなんらかの思考習慣自体も変化するかもしれないわけで、この点でも英語的思考癖が人類全体の思慮に盲点をもたらしたり、思考様式を含む文化を多かれ少なかれ一様化してしまう懸念がある。

 言語権を多言語主義で守ろうという欧州の非英語圏にある考え方のほうが、私の立場に近い。いうまでもないが語族の距離が遠すぎる母語話者一般にとってどう転んでもピジン英語(現地英語)風の熟達程度が限界だし(ある母語話者一般より特定の遠い語族の言語圏の第二言語話者一般のほうがその母語に熟達するのは、幼児から親しんでいる言語情報の絶対量や脳内の基礎的言語セットから理論的にありえないし、もしそうなっていれば既に第二言語ではなくなっているだろう)、英語圏の情報に致命的に欠けている点が他言語圏に沢山あるのも確かだからだ。
 英語で国際的やりとりが容易になる事実、現地英語同士を仮の共通語として異文化圏ともやりとりできるのは体験的にもわかるが、この種の「英語の国際共通語化」の流れは、語族の系統が遠い母語話者ほど極めて不利なのが事実だ。特に科学の論文語として英語が使われてるのはラテン語同様、今だけと思う。
 最も考えられる流れは、即時翻訳できる情報技術が英語帝国主義をひとりでに止めるだろうということだ。だからそちらはおそらく問題ない。

 寧ろ私が以前から保護運動に近い研究してる方言圏、アイヌ語圏の方が致命的な目にあっている。標準語帝国主義は方言の多様性を蔑視させているからだ。方言でしか語りえない、知りえない情報、質感はほぼ無限にあるから、その世界を標準語母語話者は原則として全く知らないのは当然として、差別対象にしているのは明治帝国の最大の罪の一つである。戦後もこの点で、まるきり文科省その他の東京政府が自文化中心主義から脱していないらしいのは実に愚劣である(つまり方言教育、アイヌ語教育、それらの保護・使用促進運動など国内の言語多様性を教育面でも文化面でも完全に無視している)。
 京都に移転した文化庁は、寧ろ中世の京都中華思想に先祖返りし、ますます方言世界を蔑視するばかりか、今度は京都弁を上位言語と自認しつつ、標準語を関東方言扱いで蔑視し始めると予想する。だから私は全地方のため京都文化庁もさっさと解体すべきと思う。市長の門川大作氏が失脚したらそうなってほしい。なぜ門川氏の失脚が前提かといえば、彼の京都市制定「世界文化都市宣言」に基づく文化首都イデオロギー、中華思想的な自文化中心主義が、文化庁招致構想や、今後も彼が公言しやりたがっている京都への皇族招聘構想という、尊皇論以来、暗黙の御法度とされる皇族の政治利用の原因だからだ。

落書

徳川の御世をこえきた選挙にて容保公の落書ながめし

さが

あなたは唯一無二のひと
だがだれもがそうだ
あなたは無我をしらない
けど自分はある
多くの孤独はきえうせ
無人の荒野で僕はみた
魅惑の都市はつくりごと
中身は空っぽの虫けらども
それで唯一みつかったのは
とるにたりない浮気性の女
一体きみの救いとはなに
さががみたされ安心するだけか
嘘で埋め尽くされていく現実で
人のさまよう姿は滑稽だ

二本の川

君のいない世界は月のない空
日の射さない裏庭に咲いたあじさい
だが色のない世界で生きている僕は
さもぽつねんと砂漠に佇むサボテン
脳裏ノウリに聞こえる潮騒しおさいのうち
ささやかれた世迷いごとは遠くはるかに
冷夏レイカに出されたメロンの憂鬱ユウウツ
驟雨シュウウのなか歌うあまがえる
身の毛もよだつ行き先のない闇
おちていく
なおも君は不敵に笑み
遠すぎる距離を祝いながら
決してわされない二本の川辺かわべ
プラトニズムに感謝しているのか

真実

一流の仕事人といい
金儲けしたり威張り腐ったり
まったく僕には不可解だ
もしそんなことをしても
君の存在から離れているあいだ
この世は意味をなくしてしまう
一流でも二流でもいい
心の中を洗いざらい話し
僕の中にあるのは君への想いだけで
もしそれしかなくとも
一秒でも多く真実に触れ
この意味をもたない世の中で
唯一本当のことを教えなければならない
君だけがうつくしいのだと

安らぎ

この世のみにくさにくらべ
いかに君が安らかか
それともその心でさえ
人間たちにけがされているのか

不完全さ

自分の不完全さなど問題にならない
なぜなら君は永遠で
なにひとつ欠けたところのない
まったき存在なのだから

神の迷い

君以外なにもいらないというのに
神は一体なにを迷っているのだ

居場所

人間界に僕の居場所はない
たとえ僕がどれほど善良でも
たとえかしこくうつくしく
たとえときに神々しくとも

2019年7月21日

金儲けの為のサブカルは貧しい

ネットゲームのカルチャーって、PCスペックで大差つくので親などに依存してやってるニート界ですら資本主義的な身分制がある。そしてゲーム自体も課金で有利になるので、この弱肉強食の構図が気持ち悪い。
 グーグルのスタディオは革新なのかなとおもったが、定額制ときいて同じ事態になるとみた。
 聖書(マタイ13:12)に「富める者はますます富み、貧しき者はますます貪られる」とあるが、ネトゲはまさにこれで、まあ弱者ビジネスの一種と思う。が、資本主義全体がそうなので単に、仮想世界に延長された搾取の構図なだけだろう。某有名ネットトレーダーは百万単位でゲーム課金している様である。

 任天堂は買切りの単発作品がメインだったから、まだましなのかなとずっと思っていた。
 しかし僕より貧しい家庭の事情をきいたら全然違っていた。任天堂のゲーム買えないから、仲間はずれにされ虐められていたのだという。うらんでいるとすらきいた。
 ネットで自殺中継してた或る青年は、彼の残した一生を語ったホームページによると、中学卒業後に強度のひきこもりになり、その間、ひどく貧しい母子家庭のなかで時代遅れの中古のスーパーファミコンを買ってもらってドラクエとかやっていたみたいだった。そしてPSVRのエロが楽しみとかいって自殺した。
 任天堂は上場企業として株主の期待を受け、スマホ課金や定額制などに手を伸ばし、高いハードを売る目的でリリースする様になって、だんだん庶民のものではなくなってしまった。
 ファミコン『ドラクエ4』、スーファミ『ドラクエ5』、64『時のオカリナ』あたりが自分の世代では頂点だった。

 なぜ定額制もプレイヤー身分制になるか? 継続課金できる人は金持ちだからだ。たとえ課金なしでも、やってるだけで搾取される。子供なら親の負担だ。
 こういうビジネスモデルがはびこっているのは、一言でいうと、ゲーム企業の良心がなくなったのだ。僕も一、二年ほどその真似事したからわかる。
 かつてのゲーム業界に良心があったなら、中流家庭用テレビゲームで語られた、子供向けおとぎ話の道徳的教訓としてだろう。プラトンが『国家』で物語の役割として同じことをいっている。
 課金、最新ハード、定額制。これらは大人の事情でしかない。本質が抜け落ち、ゲーム業界は堕落したのだ。

 極めて根本的にいうと、人は他人と関わって生きる社会的動物であり、その社会の目的は道徳である。『韓愈』でいう禽獣界の弱肉強食と対比された人間界の特徴とは、道徳性だ。いいかえればよく生きるのが人間社会での目的で、この「よさ、善」を自ら判断できるのは、他の動物ではなく人類くらいである。

 ネトゲも任天堂の家庭向けゲームも、やはり善い娯楽かといえば年々堕落してきたといっていいだろう。マイクロソフトやグーグルが参戦してきた目的を思えば、彼らとしては増えてきたネット配信でのネトゲ人口から収益を得たいという下心しかない。彼らとしたら金儲けを資本主義の善と思っているのだが。
 きのうアニメ業界は弱者ビジネスになっていたと分析した(「京アニ炎上事件の総合分析」)。これはゲーム業界も似たり寄ったりだ。こちらはゲーム障害とWHOが定義し、アニメ中毒と違って耽溺にも限度が設けられつつあるが、ゲームを幾らやっても大抵の人は会社に貪られる一方なのだ。

 さらにもう一つ、根本的に語ると、資本主義なるものの本来あるべき目的は、経世済民という言葉で示される需給の一致だ。欲しいものがあるのに貧しいので手に入らない。これは市場の失敗というべきで、資本主義が善く使われるならなんとか資本家が貧者のため、余裕資金で供給を工夫してやるべきなのだ。
 資本主義の目的を最もよくわかっていた人は、日本なら松下幸之助といっていい。彼は著書などで、お客さんが欲しいものを水のよう潤沢に供給してやるのが経営の最終目的だといったりする。一方、自分の金儲けを最終目的にしている成金は、資本と呼ばれるまとまった資金の正しい使い道を知らないのだ。

 例えば任天堂というゲームウォッチやファミコン以来、世界の家庭用ゲーム市場を牽引してきた会社だけど、この会社は自己資本比率が高く(つまり借金が少ない)、潤沢なお金をもっている。しかしネトゲやスマホゲー市場で出遅れたので焦って、貧しい家庭の子供に負担がいくだろう商売に手を出し始めた。
 任天堂の経営者が高いハードや開発費を賄う「金儲け」と、もっと友達と楽しいゲームをやりたいが貧しい家庭の子供のための「潤沢な供給」の間でゆれ、原則無料のネトゲ・スマホゲーの課金モデルを試したのが、関連会社に外注して出した『ポケモンGO』だったわけですね。苦肉の策である。貧しくなったアベノミクス日本人の家計支出はへってるのでハードが売れないかもしれない。より正確にいうと、DSとかスイッチとかヒットしてたっぽかったけど、新ハードとセットで顧客を囲い込むビジネスモデルが、スマホゲー中心になると通用しない(しかもグーグルがスタディオだしてますますおいつめられると予想される)。脱ハード依存が必要かもしれない、という将来予想があったと思われる。
 なにがいいたいかというと、任天堂は「金儲け」のため課金ゲーに手を出したという点で、グリーとかDeNAによる実質的なスマホ賭博の牙城にきりこんでくるかにみえた。『マリオラン』もだけど。この点ではやくざな商売に遂に堕したといえるのではないか? 私はそう思ってます。課金は麻薬ですから。
 任天堂は花札メーカーである。最初からやくざ(語源どおり)な稼業となにが違うの、と突っ込まれたら反論できないのだが、要は古きよき時代のプラトン物語は、スマホ課金ゲーとか定額制で殆ど通用しなくなると思う。いかに客から金を吸い上げるかが本質の娯楽って、端的にいうと賭博でしかないのだ。

 一方私はこうも思う。今後、情報産業化(情報商材とか、エンタメ無料提供での広告モデルが中心)が進むと恐らく誰でもできるゲーム配信が、一般人にとって主な仕事になるのではないかと。だから純粋なビジネス目線だとグーグルがスタディオとユーチューブの組み合わせで覇権とってくると思う。ゲーム配信ではTwitch(ツイッチ)、ネトゲはSteam(スティーム)が覇権をもっていた。スタディオは無事リリースされればこの両者を優に潰すプラットフォームだ。これまで独自サーバーで運営してたネトゲも、当然より安価で安定したグーグルのサーバーに移転するだろう。任天堂はニッチになると。
 いまいったことはゲーム業界に少し詳しければたぶん分かってる話だけど、ITビジネス業界の戦略と絡めてはっきり言ってる人は少ないので、自分でいうけど私の意見はまあまあ貴重だ。それだけ破壊的革新なのがスタディオということです(このスタディオは破壊的革新ってのは、前に「革新かと思ったが定額制だから同じ事態」と書いたところと一見矛盾するが、要はスタディオは覇権をとりにきているという点で商売面では革新的だけど、それが定額制ならゲーム内部でも現実の金持ち有利の身分制を焼きなおしてしまうという点で進歩がない)。そして子供の良心なんてすっ飛ばしているんですよ。ゲーム業界は。
 私は色々みて、ネトゲもスマホゲーもくそだなと判断した(言い方がひどいですが)。それで今のところゲーム制作を撤退しているのだ。子供に夢を与えるどころではないのです。大人の側が激しい陣取り合戦やっててそれどころではない。自分の扶持すら危うい激戦区になってしまっている。赤い海すぎる。
 私はアニメ業界もろくでもないといわざるをえない。京アニ炎上事件、けもフレ脅迫事件、悠仁ロンギヌスの槍事件。宮崎駿という気高い天才が消えたらもう日本のアニメ界は暗黒時代に突入する。かねの為にすっかり良心を売る低俗な連中。そしてジブリの負の遺産である手描きによる労働集約型長時間労働。

 宮崎駿が「この世は生きるに値する」と子供に伝えたいといっていたとか。川上量生氏はジブリ修行で怒られてたけど、駿の本質はプラトン物語なのである。資本主義の美質があるなら、政府に頼らず自分の力で貧しい人を助けたいという松下的な無限供給論がそれにあたる。金儲けの為のサブカルは貧しい。

探索

夢より深い場所で君を探しあて
やっと見つけたら既に誰かのものなら
海より深い絶望は僕を覆い尽くし
永遠の徒労と共に泥沼に沈め
遂には無にかえしてしまうだろう
だから君の残したあらゆる記憶を探り
いっときでもその残り香にすがり
変転する宇宙に浮いた大都市のさなか
狂った時計のよう君だけを想う
昼夜もなく老いていく
人生なる悲劇は変わらず
なおも重ねられるすれ違いは
君というこの上ない美しさを印象づける
遂には君以外の誰も無にかえるこの世で

京アニ炎上事件の総合分析

きのうから今日にかけて、5つの小論()で京アニ炎上事件について自分なりに分析した。が、まだなにか違和感かんじるので、今からさらに、もう少し詳細に分析しなおす。

 村上隆氏(以下、同一人物の二度目以降は原則敬称略)がインスタで、急成長した京アニへのねたみがルサンチマンに転化したと分析していたことは既に最後の小論で述べた。自分がまだ違和感を感じてるのはこの点だ。
 もし本当にそうなら、なぜツイッター民や報道機関など外人も「殆ど全員」が京アニ礼賛しだしたのか?

 殆ど全員と書いたけど、正直私が観測できた範囲では私以外の全員が、大してしりもしないだろう京アニ礼賛しだしていた。これは事件のショックであらわになった「サブカル俗物根性」(低俗スノビズム)の発露だろうと3つ目の小論で分析した。ではなぜ関係者もそうしたか。
 思うにアニメ界に精通した関係者の中には、実は「痛快だ」とシャーデンフロイデを感じている者も、村上隆の考察が正しければ、混じっているのだろう。しかし表向きこれをいえないので、建前として一斉に哀悼している。
 全体主義やファシズムじみた、全会一致の幻想は、道徳警察の場でも生じる。
 イエスの弟子らは師が濡れ衣を着せられ磔へ歩む間、衆愚の後ろに隠れていた。京アニアンチ(過激派含む)は憎き教団本部の炎上中、じっと黙ってサイコパスな痛快に打ち震えていたか、表向き沈痛がってサブカル俗物衆の合間でひそかに現場を見つめる三島由紀夫『金閣寺』犯人式のアニオタ的イケズを発揮したのではないか。
 京都市長・門川大作氏の「火事は3分、10分が大事。選挙は最後の1日、2日で逆転できる」発言(2019年7月18日夜、京都市上京区で行われた、参議候補者集会での演説内発言)は、およそ文脈的にイケズなるものの漏れといっていいかもしれない。イケズ文化は言葉が政争の武器だった公家の習慣からきた、他人の不幸を祝い、性悪な嫌味を楽しむ世界観なわけで、痛快好きはその中ではある種の常態とも解釈できる。門川は対談相手に、京都人のイケズなんてさらっと聞き流せばいいといった(京都新聞掲載、第十三回「ひと」2011.7.31)。イケズをそこまで深刻に社会病理とみていないのだろう。が京都の虐め発生率が長年最下位(つまり飛び抜けて虐めが起き易い地域。反証として京都の公教育が特に、敢えて軽い虐めでも隠さず認めているという留保的な意見をみたことがあるが、根拠はなかった)だったりする原因の一つかもしれないし、特殊なミームなのは確かだ。
 で、京アニ炎上事件で、犯人自身がそうだったよう潜在的に極めて多いはずアンチが雨後の湖みたいにしんと静まり返っていた、それどころかファン(信者)の国外逃亡を受け知ったかサブカル俗物ぶりを発揮するメディア芸人衆の偽善に同調してさえいたのは、道徳警察としてのイケズ化だと思うのだ。本来、正直なアンチなら「ざまあ」とか、「いい気味だ」とかツイッター匿名アカウントくらいならばんばん言っていそうなものだ。やまゆり園大量虐殺のときは障害者アンチが、東日本大震災のときは2ちゃん衆愚がまさにそうだった。なぜ京アニに関してだけイケズ化したのだろう? 京都の事件だから? 
 火事でおもいかえせば『枕草子』(能因本293段。三巻本の大系314段、全書296段)に、当時の皇族は、火災で家財全てを失って命からがら皇族の家の一角に逃げ込んできた庶民を、言葉遣いが下衆だ何だと笑い飛ばし、よめもしないだろうとイケズな歌をかきつけた短冊を渡し追い払ったが、それを清少納言ともどもつくづくおかしがったと書いてある。当時の平安貴族の感覚からいえばこれは本当に愉快だったのだろうし、人権確立済みの時代から激しい身分・人種差別の記述として責めるのは実に簡単だが、門川の火事は最初の10分、選挙は最後の1日発言はこれとよく似たイケズ文化ミームの残滓にみえなくもない。勿論ただの確証偏見かもしれないが。
 この推測が正しいといっているわけではないが、京アニなるものは洛中中華思想からみたらだいぶ格が劣るものなのではないか? これはTHE京都市民たる中世洛中人にアンケートとらないと有意にならない上にそれは彼らが容易に本音を言わない以上無理なので、結局ただの憶測で終わるのは明らかだが。

 まだ外人には全然分析しきれていないまさに京都文化論になるが、3つ目の小論でも一瞬だけ触れた観点として、「京都は観光客文化により外部者が褒めるものを内部で見下すねじれた中華思想をもつ」のは、たとえば八橋への地元人からの評価などでいえる特有のスノビズムだ。
 下らないの語源は「上方から江戸への下り物」を江戸側からみて高級視していた名残、つまり京都ブランドこそ一流の品物みたいな俗説がある(サイト『語源由来時点』くだらない)。引用元にも書いてあるが、これは「下り物」が使われる様になる前から「下らぬ」が使われていたため誤りの可能性が高く、「下る」が「通じる」という意味、その否定は「筋が通らない」、転じて「とるにたりない」の意味となる語源の方が、信憑性が高い。
 つまりだ、京都文化、特に洛中中華思想では平安京から続くなんらかの伝統工芸に比べ、新参の東京者をまねたアニメ様式は、おそらくだが格下と感じる価値観が潜んでいる。これは京都市による「世界文化自由都市宣言」(1978年)にみられる新旧融合を掲げた自文化中心主義からすると、内部摩擦なのだが。

 こうして、空気に流されるという日本人一般がもっている欠点が、京都文化の中ではなんとなく格下かもしれなかった京アニ炎上でも一人も「悪魔の代弁者(反証のため絶対反論する役割の人)」がいない同調圧力に結集した。それで本音を表明しづらくなったアンチらはイケズな嘘の礼賛に加わったのだろう。
「人が殺されたのはとても悲しい。哀悼する。だが京アニはダメだ」っていうのが、まあアンチとしてあるべき態度といえるでしょう。「京アニは神、社員は聖人のみ、世界最先端のフェミニズムなアート環境で何の落ち度もない全サブカル総本山」みたいな扱いには違和感しか感じなくて当然といえるだろう。
(例えば極論の喧伝で却って自見の逆説に気づき易くなる人がいた、なるイスラエル・パレスチナ問題の実験があった。"Paradoxical thinking as a new avenue of intervention to promote peace" Boaz Hameiri etc. PNAS July 29, 2014.)
海外含めメディア全体の狂気な京アニ礼賛が極端すぎるので、恐らくみていた人の何割かは矛盾や違和感に気づいて逆張りアンチになると思う。そしてその直感はサブカル総論として正しい面が大いにあると、5つ目の小論で示した。中二病の社会病理が信者の発狂でばれたのだ。
 事は京アニ単体にとどまらず、実際には中二病患者(まだ精神疾患として精神医学界で未認定だが)を客にしている全サブカル業界が、いってみれば社会不適合の精神障害者を食い物にしていると露悪しているのだ。「ほら狂った宗教だった」「オタクの気持ち悪さって一部正論だったじゃないですか」(オタクへ向けられる世間からの差別的偏見を私が肯定しているわけではない。その直感には、業界ぐるみで弱者ビジネスをしていた点で、そしてその弱者自身が多かれ少なかれ精神を病んでいたという点で、質感として根拠があったといっているのだ)と。

 クールジャパンとかいってサブカル業界を公認してしまっている文化庁の立場も、簡単にいえば内ゲバ喰らったくらい危うい。実際のオタクは適応障害だったのに食い物にしていた、と糾弾されかけていて骨組みからのぞいているおぞましい疾患部位を、方々のアニメ研究家とやらの戯言で糊塗しているわけだ。勿論、現実の中二病患者、たとえば朝から晩までアニメみてその登場人物と会話していて、社会参加といえば二次元キャラとの想像上の交遊のみとか、サブカルグッズに有り金全部はたいて破産してもまだ萌えもえいってるとか、そんなの差別しようもない。「クールジャパン」の一部は治療が必要なだけだ。
 これまでは村上隆、東浩紀の両氏らオタク・イデオローグがアニオタを東京発のクールな文化現象みたいに言い繕っていた。けど実際は一般社会についていけない弱者が新興宗教にしている世界だった。しかもその教義は萌えとか一部言語化されたけどほぼ無言の同調圧力しかなく、結果、凶行で否定する信徒が出た。アニメ教団の内部で、京アニがいうとおり「この数年」、脅迫的な圧力が高まっているのは、アベノミクスで生じた格差の底辺にいるアニオタ信徒にとって鬱憤の捌け口が必要になっているからなのだろう。彼らは魔女裁判の対象を探す。それがたまたま『けもフレ2』制作陣、悠仁親王、京アニになったのだろう。

 もしオタク業界が科学や哲学といったハイカルチャーに接近していたら、美術業界でそうある様、前衛運動みたいな理知的傾向に昇華されていたはずだ。ところがサブカル全体は反知性主義の極みで、大衆・商業傾向である。私小説業界も自堕落だったが、アニメ界はお洒落でもなんでもない狂態を示している。
 私の見てた限り、マーケティング作品と公言され観客動員数を伸ばした新海誠氏『君の名は。』が、家族みんなお茶の間でみるジブリ映画からお洒落路線に舵を切ろうとした一つの目印だった。妻は女優、クールジャパンの追い風、アニメーターも芸能セレブの一員的流れが都内マスコミにお膳立てされていた。『新世紀エヴァンゲリオン』の病み路線の方が、正直、オタクなるものの本体をきちんと表明できていたと。新海は作られた象徴、東京の広告業界代理人の搾取意図を全部流し込み大衆迎合のみを目指したアニメ文脈からいったらとんでもなく下賎な代物が『君の名は。』で、比べれば飾り気のない私小説的内面吐露を含んでいたエヴァ監督の庵野秀明氏は偉かったのだ。
「オタクは見た目も気持ちが悪い、おどおどした弱虫で、男として自信がないどころか実に情けない自慰に耽るばかりの下らない、無力で、なんのとりえもない雑魚なんですよ」というキャラ設定の碇シンジを自作の主人公にした庵野は、軽薄なトンキンチャラ男(トンキンは東京の唐音で、最近では東京を否定的に呼ぶ際の蔑称にも使われるネット俗語)みたいなのを美化して描く新海より正直だった。
 じゃあ京アニは? 京女らしさを表現してるとかなら『源氏物語』から続く文脈として漫画『はんなりギロリの頼子さん』のがよっぽどよくやっている。日常系にのっかった馴れ合いほんわか世界。別に独創ではない。ありふれた文学的ミニマリズムの引用で、『ご注文はうさぎですか?』みたいなもんだ。
 つまるところ、村上隆のインスタでの分析冒頭にも書いてあったけど、京アニは表面上かわいい女性向けアニメっぽくはあったがターゲティングとして余りにストライクゾーンを広げていて、はからずもガチオタにまで届いてしまう形の表現をしていたわけである。新海とは違う意味で、顧客を間違えたのだ。

 まあこれで大体、違和感の原因がわかったぽくもあるから筆を置くが、まとめると
1.京アニ炎上でサブカル界の危機と感じたアンチも一時的にイケズ化した
2.クールジャパンは適応障害者(中二病患者)を搾取対象として美化しつつ隠蔽していた
3.マスコミはサブカル俗物となってこの搾取に共謀した
4.ネット芸者やアニメ研究家と称する外人なども悪意如何にかかわらずこの搾取に共謀した
5.京都文化で無意識の格下扱いかもしれない京アニ炎上は同市長のネタになった
6.比較的誠実なアニメーターはオタクの社会病理をほどあれ表現していたが、俗物はお洒落ぶって中二病搾取を正当化していた

 ついでに書くが、「観光客文化」は京都以外にもある。地元人が好む本物と、外来者がそうする偽物はおよそ違う。が世間的には、いやもっといえば地理・歴史みたいな学問レベルでもこの偽物の方が代表扱いされているものだ。尤も不完全ながら本物をなるだけ考察しようという民俗学みたいなのもあるが。
 京都は、特に同市長の様子として、自ら過去に宣言した文化首都イデオロギーで縛られていて、外来者からの観光都市扱いとの間で生じる自己像のギャップで、同一性危機になっているのが観察される。色々門川は理屈をたて二重基準を解消しようとするのだが、文化庁・皇族招聘が最終手段にされている。皇族の政治利用が御法度なのは論を待たず、1978年の宣言は学の進歩の中で時代遅れになっていて、少し上述した様、いまでいえば自文化中心主義(エスノセントリズム)でしかない。そしてそれは中世の京都中華思想を延長させた一種の自己愛妄想なのである。文化多様性は中心がないし、一元的目的づけとも相性が悪い。
 したがって観光客文化として、地元人が外来者のやたら褒めるものと自分が好きなものとのギャップで面食らうというのは、需給の面からも普くありうる話だ。京都の場合、日本随一の国際観光地になっているので、内外評価ギャップが日々拡大してしまい、余計に観光客文化の性質が激しくなるというだけだ。