2019年7月20日

サブカルは中二病向け偽薬商売に過ぎない

村上隆氏(以下、生前の各氏は二度目以後、敬称略)がインスタで京アニ炎上事件に英語コメントしてた。
 要約するとこの事件は成功したアニメスタジオをねたんだ中二病のオタクがルサンチマンから凶行に出た日本社会に特有の病理と村上隆は考えており、しかもそれが事前に計算できず我々の社会一般に蔓延した機構なのに立ちすくむといっている。
 村上隆はここでアニメ界で成功した会社(京アニ)への自身のねたみを犯人に投影してる。なぜなら犯人がアニメーターだった証拠がないので、ねたんでいるはずもない。村上隆が憧れる宮崎駿氏へのねたみ、6HP(シックスハートプリンセス)など自身のアニメ作品で大衆受けを収められていない劣等感を間接的に吐露しているのかもしれない。犯人によるなんらかのルサンチマン(うらみ)が京アニを襲撃する凶行になった、という推論は、犯人自身が事件後「ぱくりやがって」と非難していたらしいので一理ある。つまり、おそらく、京アニをねたんでいるのは村上隆のほうで、うらんでいるのは犯人のほうということだ。
 注目すべきなのは「中二病」というオタク用語を挿入して論じてるところだ。英語で"eighth-grader syndrome"(8年生症候群)と訳されている。要は大人が現実の日本社会に適応できず、幼児退行しているさまを、犯人にもみられる一つの社会病理として批評・批判的にとりあげている。村上隆が日本のオタク業界で嫌われている(というか欧米人をたぶらかす劣化コピー売りの部外者として疎まれている)最大の原因は、彼のこの自己批判的なオタクへ向ける皮肉なまなざしがあるせいだろう。オタク自身はマンガ・アニメ教を狂信したいだけなので、宗教批判は邪魔でしょうがないのである。
 もしオタクが社会不適合者の成れの果てで、幼児退行の空想世界としてマンガ・アニメ(その他サブカル)に耽溺したがっている存在なら、確かに、彼らは一種の適応障害を一時避難先でやりすごしているだけなのだろう。ゲーム中毒はWHOに障害扱いされたが、マンガ・アニメ中毒がそうなる可能性もある。京アニ炎上でオタクの一定層がツイッターなどで発狂しながら、政治家やサブカル俗物なネット芸人衆にまで急に庇護を求め媚を売っていたのは、一言でいえば安全基地になっていた宗教本部の1つが襲撃された恐怖感からきた国外逃亡なのだろう。全体が酷く醜悪にみえたのは社会病理が暴露されたからだ。
「中二病」がオタクの発症している社会病理の患部なら、現実逃避をかねた幼児退行がその本質なのだろう。そして京アニ作品が大人一般にとってみるにたえないくらい幼稚なのも、中二病のオタクに与える癒し、あるいは偽薬だったからなのだ。犯人はアベノミクスの苦い果実(経済苦)でこの薬が効かなくなった。
 嘗て宗教にはまっていた信者が、脱会後に一転、本部批判を始めるなんてよくありそうな話だ。その宗教の中身が下らなければ下らないほど。今回の脱会信徒は過激派のアニメ原理主義者だったと考えられ、具体的な暴力による復讐にまで及んだ。中二病をこじらせたという村上隆の解釈はこの点で正しそうだ。

 では「中二病」を、オタク一般は完全に治療できるか? 問題は村上隆自身が彼らへの特効薬を与えるどころか、嘗てサーカスで障害者を檻にいれ見世物にしていた様に、その病癖を嘲笑するネタとして欧米美術界でさらし者にする第一人者だったということだ。外人はこれを真に受けアニメを美術扱いしている。
 外人が村上隆によるオタク・サーカス団の来訪を受け、戦後日本美術の古典的様式とオタクアートをみなす様になってしまったので(勿論これは誤解である。サブカルはどこの国でも所詮、無教養でハイアートになりきれないサブカルなのだから)、クールジャパン式に芸者もフジヤマアニメで一部外人にへつらいだした。こうして「ええじゃないか」と日本政府ぐるみで京アニまでサブカル業界全体をもちあげていたところ、オタクの患う中二病の負の面が突如暴走しだし、大量死をもたらした。さもありなんというか、なんの疑問もない。オタクは適応障害の一種なのだから、もともと病んでいるだけで見世物やアートになりえない存在なのである。
 美術用語でいうアウトサイダー(部外者)の領域が、いわゆるオタク界といっていいだろう。彼らは知的裏づけなしに美術っぽいものをつくったり消費しているが、実際には中二病人が寄りあつまって排他的で狂信的な宗教団体として、皆で幼児退行の病理をうつしあっている。オタクに批評言語がないのはその為だ。
 村上隆と奈良美智の両氏が、日本の戦後美術のもの派以後で最も主流となるオタクアート(マンガ・アニメ風の表現)の担い手になっていた。しかし村上隆のほうは上述のよう中二病を外界にさらし売り物にしてしまい、奈良のほうは天然で中二病内に安住している。彼らはその社会病理を治癒しなかったのだ。
 私と同世代でいえばカオスラウンジという人達は、村上隆に近い批評家の東浩紀氏をイデオローグに、オタクアートの延長を試みている。具体的には抽象表現主義またはアンフォルメル風にマンガ・アニメの二次元表現を流用して再構成するという手法だ。しかしこれも中二病をなんにも批評できていない。
 中二病の本質は二次元的、または虚構の幻想への惑溺である。いいかえれば嘘と真を混同する傾向であり、しかもその自己に都合がいい妄想が裏切られたとき現実を受け止められず、大発狂がはじまる。今回の犯人がまさにそれではないだろうか? 高々虚構とみなしていればアニメ如きに逆恨みするだろうか?
『君の名は。』の新海誠氏という監督は京アニ事件に反応していたけど、この人の作品は中二病の特徴を余す所なく表している典型的なものだといっていいのではないか(よくみてないので断定的に書かないが)。少々極端にいうが、現実の東京は酷く汚いスラムだし、人心も堕落の極みだ。犯罪件数や犯罪率もそうだが、全国で最も狭い住宅、常態的な満員電車の苦痛、雑踏、人混み、地価や物価の高さ、下流であることからくる水の汚さや臭さ、産地に比べ新鮮でなく高い上にバリエーションのない食事のまずさ、あるいは大量の浮浪者を抱えながら救わない冷たい行政、性売買の頽廃、或いは急速な高齢化や、所得の偏りからくる地域間格差、サービス業に属する会社員らの疲れきった顔の過当競争、電車が毎日とまるほど頻繁に起きる自殺、繰り返し当選するタレント知事の終わりなき不正や、ローカルテレビであるTOKYO MXの下品極まりないニュース番組の出演者にみられる民度の低さ(子供もみているだろう昼間から公然と不倫含む性の話をしたり、当時の首相をユーモア色なしに豚扱いするなど、個人的にカルチャーショック受けた)といった都内での体験上の実感として。作中の華夷秩序で見下されるいなかの美質、例えば善良で素朴な人心とか、自然に囲まれている環境の美や快適さ、美味しい空気、動植物や気候の奏でる心地よい四季折々の世界、観光公害のない静かな環境、郊外の量販店を使う買い物のしやすさ、俗悪さにあふれた広告など過剰情報のない神経にとっての安らぎ、治安のよさ、衣食住全てにわたる暮らしやすさも全無視される(のだろう。ちらっと様子見た感じ)。要はこの点で『君の名は。』はどこからどうみても完全に嘘をついているわけだが(さもなければ極めて偏った主観で現実の都鄙の質感に目をつぶっているわけだが。上では東京中華思想の反証できる例をあげたが、正反両面を公平な目で鋭く語ってるとかなら分かるんだけど)、中二病を患っているオタクとかそれに類した人達は、単なるマーケティングに基づいて捏造されるこの新海の脳内妄想を鵜呑みに、素で信仰対象にしてしまうのだ。作中人物は俗人なので聖地巡礼でなく俗地巡礼なわけだが、妄想を醜い現実に投影し、逆に現実の美はみないのだ。
 ポスト真実の先取りが中二病の一症状である妄想への逃げ込み癖で、ドルオタ(アイドルオタク)とかにも同様にみられる差別的偏見だ。もともと批判的思考力や科学的知性の低い人しかそう頻繁に妄想へ逃げ込んだりしないだろうが、オタク一般にとって現実を自分に都合よく変える妄想は大好物なのである。
 宮崎駿はこの種の妄想でしかないアニメの限界を以前から悟っていたらしく、麻生大臣がマンガの殿堂を国立で作ろうとかいっていたとき、代表的アニメーターでありながら批判的に「そういうのを大人がやるべきではない」みたいなことをいっていた。「アニメは所詮、子供の逃げ場」という解釈である。アニメやマンガは作り話の要素を含んでいる。つまり、昔でいえばおとぎ話みたいなもので、年寄りや大人が、道徳の概念を直接理解できない子供のため、登場人物が演じるいろいろなたとえをつかってなんらかの教訓をおもしろおかしく語り聞かせる技術を原型にしていたわけだ。宮崎駿はそういいたいのだ。そしてこういうアニメやマンガの原型をできるだけ実作でも忠実になぞっていたのが宮崎であって、彼が手塚治虫(死者の敬称を略します)以後で(藤子不二雄氏とか鳥山明氏がマンガでの後継者にあたるが)最大の影響力をもつアニメーターになりえた一つの原因である。つまりは、宮崎は主に子供の為にたとえ話をしていたわけだ。
 しかしだ。正直いって京アニがどうかというと、新海もだけど、全然そうではないのではないかと思う。新海作品の方は卑俗すぎ、嘘が道徳的教訓などすっとばしていて極めて悪質だし、どっちかといえば東京中華思想でいなか差別みたいな日中に独特の皇帝制(天皇制)教義の残滓を子供に刷り込みかねず、一極集中あおって諸々の都市問題をさらに混迷させるし、色んな意味で悪影響あるほどだ(『君の名は。』以外は違うのかもしれないが)。京アニ作品に関してはただただ幼稚園的なれあいの癒し偽薬みたいな感じだ(多分)。
 私はこういう理由で、宮崎駿は手塚治虫に続く一流のアニメーターだと認めるけれど、京アニにはそういう評価はなんら当たらないばかりか、村上隆が指摘していたとおり商業的成功を収めた小賢しい中二病向け偽薬アニメを量産していた二流の会社ではないかと思う(いうまでもなくこれはファンや社員、関係者には時期的にも受け入れがたい余りに皮相な見解なのも認めるが。単なるアニメ批評として一つの理論上の立場として)。『けいおん!』しか、しかもそれすらろくにしらん今の時点でのぱっと見の暫定見解だから、この京アニ二流説には賛否両論あるに違いない。一般大衆全体を巻き込んだ王道ではないかもだが非主流のほんわかオタ専門系アートとして、ニッチ開拓的だったのではないかと。でも深入りしても、同系列の作品の感じだし二流説の論拠であるところの、お茶の間ファミリー向け的でない性質、すなわち人類一般についていけないであろう過度のマニアックさ自体が大体同じではなかったかとも思う(将来は未知なので除く)。
 要するに、アニメ業界も玉石混交で、本物と偽物があり、中二病あおって金儲けしてるだけのろくでもないやくざな追随者もいれば(まさに犯人がいっていた「ぱくりやがって」みたいな観点で。まあ流用すら芸術的でなかったと犯人は感じていたのだろう)、本気で敬服するしかない次元の圧倒的独創性もあるわけだ。具体的にいうと『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』辺り、筋や表現力の質からいって今のところ並の余人に追随できたものではない。じゃあ村上隆の6HPが偉大ですかというと、アニメとして色んな点でどうしようもなかったといわざるをえず、勿論彼もアニメでは成功できていない亜流なのだが。

 結局、私としては中二病に結果、クールジャパン視を与えてしまった村上隆や東浩紀らは落ち度があった思う。たとえていえば「病気はかっこいい」みたいな、ものすごく曲解した偏見を中二病に無理やり与えようとしたのが彼らオタクアート世代だった。この派生でゆるキャラとかコスプレみたいな如何なものが大手を振り始めた。正直、私はこれらは東京文化の低俗さの様態でしかないと完全に軽蔑しているのだが。
 中二病を具体的に治癒する役割は、東京文化(特に秋葉原界隈)が病理の発生源であるかぎり、都民自身がやればいいのではないかと今の私は思っている。なにせオタクに批評言語がないことは既に述べたが、美術との擬似的接合点であるスーパーフラットもいずれ引き剥がされ、サブカルは分離されていくと思うのだ。
 私の属する文脈は岡倉天心や横山大観ら、五浦をめぐり地元で起きた近代日本美術の前衛運動の上にある。そして私はオタクアートと距離を置いていて、ゲーム制作に関しては子供のころの夢だったので一時的に近づいてみたのだが、今後も私より知的な質が低すぎるサブカル側に深入りはできないと悟った。
 サブカルの限界はそれが大衆的で商業的な芸術だという点にある。しかしハイカルチャーは高踏的で純粋な芸術で、両者の目指すところは全然違う。村上隆はアメリカのコンセプチュアルな美術界に面食らい自分のルーツとしてアニメに遡行したのだろうが、京アニ炎上はアニメ教団も安泰でないと示した。ほかに小説の村上春樹氏や、脳科学の茂木健一郎氏は、高度な内容をできるだけ大衆の最も愚かな者にも届ける、大乗的な解説の様式を肯定する。絵画(主に落書き分野)でバンクシーがやってきたのもこれと似た絵解きだ。アニメ教はこの種の単純化した大衆芸術とほぼ同じ様式という点で、サブカル的なのだ。
 私のみたかぎり、この大乗様式はハイアートの上座部性に比べ、根本的な限界がある。それは純度が薄まるという点だ。中間芸術は所詮、解説書の域を出ない。聖典自体は不動だろう。純度が高いものこそ貴重なので、それは芸術にとっても同じである。サブカル全体は一時の流行でしかなかったのだ。
 京アニ社員自体の死を悼むのは皆がやっているし、それは当然だろう。亡くなられた方には心から哀悼の意を表します。またおいつめられていた犯人に感じるおそろしい狂人としての遣る瀬無さから、或いは人的被害や遺族感情のためなんらかの法的報いがあるのだろうと同時に、いきり立ったアニオタからの一方的な国家権力を使った即時で残虐な死刑以外の、最大限の懺悔の余地が与えられるべきと信じる。しかし京アニ的大衆芸術が卑俗なものだ、という美術批評的観点では一歩も譲らないのが肝要だ。それは単に京アニ単体に対してでなく、サブカル全体に向けられた無反省で退嬰的な中二病向け偽薬商売と、その邪教的な大乗性がはらんでいる、不道徳さへの疑義の念として。