2019年7月19日

アニメ邪教論

一円にもならないファインアーティスト(純粋美術家)が何十年間も一般大衆から苦渋の差別、迫害、冷遇、無視をされ続けていても、また彼らが自殺しようが殺されようが何一つとして同情の声などあげもしない連中が、みたこともない幼稚なアニメを描くアニメーターがアニオタに殺されたら急に聖人ぶる。
 京アニは過労が前提のアニメ業界でめずらしく正社員雇用していたのでましな方だったという新聞記事よんだ。これも首を傾げたくなる批評だ。ファインアートの現場を知らないのだと思う。かねにならないばかりか赤字が嵩む一方な上に、無間地獄の労働が前提なのが美術界なのであってアニメ業界は商売だ。
 大衆商業美術なアニメは漫画やゲームなんかと一緒で、美術界全体からみたらかねが儲かりまくってしょうがない方にはっきり属する。「正社員だった」って時点でほぼ同情の余地がないというか、半ばかねほしさにやってたのは明らかだからやくざな客商売してたんですね、といわざるをえないのではないか?
 純粋美術業界はアニメ界に比べたらずっと堅気なほうだというのが事実で、ものすごく端的にいうと、清貧に耐えられる覚悟がある本気の人は芸大美大界隈からファインアーティストになるけど、金も欲しいやつかサブカルかぶれの中途半端な俗人がアニメ業界に入っていくわけでしょ。
 新聞とかネットニュースの論調をみてると、「子供のころからアニメーターにあこがれてました」系の、いわゆる生粋のアニメージュ的オタク(懐かしい表現なのかもしれませんが)が主な社員ですみたいな紹介のされ方されている。本当にそうか? 割と違う気がする。美大の落ちこぼれがいくのですよ。美大を理系でたとえると、研究者志願の人がファインアーティスト(いわゆる美術家。画家とか彫刻家とかインスタレーション作家みたいなの)志願者で、極端にいうと金融機関に就職しますみたいなのがアニメーターのルートでしょ。京アニに関していえばフィンテック系の仮想通貨大手みたいなもんでしょ。
 このたとえでわかってもらえるかわからないけど、要するにアニメ業界は美術界全体の中では際物なのであって、給料もらえるのが前提な長時間労働だけど子供とオタクに人気みたいな娯楽産業の位置づけにあり、それを「日本の」とか「世界で最も」とか大げさな京都中華思想で糊塗されると気持ちが悪い。この気持ち悪さの中には、「商売人の眼差し」が多分に含まれている。つまり俗受け、大衆迎合、金儲けを価値基準にする色眼鏡だ。美術界全体の中では最もやくざな部類の堕落した連中に、逆に賞賛を与えまくる。なぜそんなことが起きるかといえば、前に書いたオタク通ぶるサブカル俗物根性が入っている。

 そもそもだ。京都と自称する某地域はかつて蛇が岩の上にとぐろまいてた山で(そう『徒然草』に書いてあります)、朝鮮陶工などの移民地区として平安期に都市になった。そして皇族という不労階級が移住して、中華思想まじりの俗物根性をあらゆる面で発揮しはじめた。現在の自文化中心主義もその延長だ。京都府知事や京都市長らは、皇族だの公家だのが自分から呼びもしないのに慶喜公に冤罪かけて江戸まで侵略した罪悪を忘れ(というかもともとイケズ文化流の性悪で罪悪感かんじるほど良識がある人たちではないんだろうけど)、皇族をよこせとかほざいている。京都人は皇族の政治利用OKといいたいらしい。
 京都人が皇族を自分達の箔づけだか改めて公式首都ぶる駒にするのはOKどす、とか馬鹿いってるとして、東京は東京で中世都市コンプでじゃあ文化庁あげます(国家公務員特権として身近に観光できますし)とか、まあ実に下らない受領じみたやりとりしているわけです。私は彼らを本物の下司と思っているが。
 で、京アニなるものも、この京都市民の俗物根性の一つの道具というか手段にされている。「東京が大都市になってしまったが、所詮、東夷の飛び地やろ。うちらのアニメのが世界で人気どすえ」みたいな古代朝鮮移民エリート意識の残滓というか。まあ裏返った首都コンプがエスノセントリズムになるのだ。
 私は、この京都の自文化中心主義は、非常に幼稚で、かつ前近代的なものだと思っている。それは東京中華思想も似たようなものだから、どちらの差別的イデオロギーも心から軽蔑しているわけだけど、この京アニ炎上事件の背後にあるのは、東西中華思想の共犯関係といえる。アニメは偉いという嘘の教義だ。
「アニメは偉い。なぜなら大衆受けして金が儲かり日本代表の新鋭な芸術表現で外人が褒めちぎっているから!」という根無し草的な自画自賛。あるいは「先進朝鮮から来た京都人は文化的に上位者でいなかものは土人のごみくず、京都が文化首都で東京は二番手にすぎない」みたいな典型的な洛中思想。
 文化多元論の目からみたら、当然、芸術に関する東西の自称京都中華思想は鼻で嘲笑できる分際の稚拙な自己愛妄想だから、その点に関しては傍ら痛いで終わるのだけども、一部の外人までその悪意ある文化差別主義に乗っかって「京アニは日本代表」扱いしてるから始末に負えない。全体として醜悪だ。

 私は子供のころからアニメーションもみてきましたよ。例えば絵本ならノンタンをずっと読んでましたし、ドラえもんからドラゴンボールからジブリも全部みたし主要なのは大体みてると思います。最近のもけもフレは全部みましたし、要は目が肥えているわけで下らないものは下らないと判断できるんですわ。で、京アニ系のアニメーション作品をすばらしいと思ったことが一度もない。まあみてないですけども、『らき☆すた』『けいおん!』『ハルヒ』くんだりをすばらしいといってる人らってアニオタの中でも、相当下品なほうだとおもいます。ほんとに。これは一人のアニメ鑑賞者としていうのですよ。
 私はアニオタというほどにアニメファンではないですが、子供のころから身近にアニメなるものがあった、そしてきょうだいは実際にアニメーター志望だったみたいな周辺事情からいっても、京アニ系の作品って正直いって二流以下ですよ。うそぬきで。これはオタクの中でどう思われてるか知らないけども。
 私はね、どっかの狂人に殺されまくった人達に同情したくないわけではない。いや私も彼らの冥福を祈りたい。いきなり殺されて怖かったでしょう、と。しかしである。この事件をとりまく諸事情を直観するに、ものすごくきな臭いというか、吐き気がするほど気色悪い歪んだ俗物性が結集しているのでござる。

 ニュースサイトに京アニはこの数年間、くりかえし何者か(まあいわゆるアンチ系アニオタでしょう)に脅迫を受けていて、警察に相談していたと書いてあった。そうなる必然性は、いくつか分析論を書いた様に()、彼らの文脈的にあったといっていいと思います。当人らの努力と関係なく、「下らないアニメ作るなよ」ってのが大きい。ここでいう「下らないアニメ」というのは、単に作品の質が低い、幼稚で俗受けを狙っている(例えば一流のアニメといえるでしょう宮崎駿監督作品、或いはディズニー映画と京アニ作品比べてみてください)みたいな単純文脈であると同時に、上述の京都中華思想を背景にした俗の押し売りみたいなのもある。
 勿論、「まだ下らないアニメ作ってるんだね。私はみませんが」くらいの批評的距離感がありうる並のアニメファンに優等生的に期待されるものなのであって、「ぱくりやがって」とかいってガソリン放火は完全に気が狂った極端すぎる態度である。幕末でいうと水戸学者と脱藩土佐浪人くらいの違いがある。

 他にも事件の背景として、新聞でよんだけどこの埼玉に住んでた犯人は、周辺住民をどやして「俺は追い詰められてるんだ」といってたらしい。まあ安アパートみたいなところにいたところから推測するに経済的事情ぽいので、アベノミクスとかいう愚劣な格差拡大政策の犠牲者といっていいでしょう。京アニみてたばかりかそのなかでの流用を盗作と思い込んだくらいだから知的にはだいぶ劣った人と予想されるところでもあり、「この数年で」脅迫うけはじめたと京アニ自身がいってるとおり、格差拡大がアニオタの原理主義者というべきアニメ信者層に響いているのは確かであろうと思われる。
 アニメは下流の慰み物になっていると私は書いた。安価か無料の娯楽としてイギリスでも同じと或る友人から聴いた。つまり、無教養あいてに洗脳的な偶像崇拝を客商売にしてるアニメ制作会社なるものは、潜在的に格差の底辺から逆恨みされうる構造をもっているのです。
 簡単にいうと、パチンコ屋(公営賭博でもなんでもいいですが)が極貧の半グレやくざからぼろい儲けあげすぎたら逆恨みされるでしょう。これととってもよく似ている構図が、京アニと一部アニメ信者の間にははからずも成立していたといえる。いわゆるけもフレオタと制作陣も同じである。
 悠仁脅迫犯がエヴァオタだった推測も成り立つ以上、クールジャパンで麻生氏が副総理席に鎮座する日本政府から公民権を与えられたアニメ信者のうち、過激派というべきアニメ原理主義者らの中には、アンチ活動その他のテロとして犯罪をものともしない連中が相当数、滞留している。そしてアニメ原理主義者が暴徒となったとき、今回の悲劇をはるかにこえた崩壊が起きる。これが私の見立てで、おそらくあたると思う。彼らは鬱憤のはけ口を幼児退行したアニメキャラへの同一化にみいだしていた。その時点で防衛機制が複数起動してるほど追い詰められている連中を、安倍独裁下で貨幣錯覚を無視したインフレターゲットが直撃する(しかも潜行スタフレとして大企業と癒着した自民党政権が続くかぎり一定期間、実質賃金は下げ止まるので庶民を須らく生活苦が襲う。「生活保障により実質賃金の下げ止まりに対応する政策論」参照)。
 では対策は? アニオタを犯罪者予備軍に分類し、隔離なり監視の目を厳しく向けるべきか? これを恐れているアニオタが、突如サブカル俗物になったツイッター芸人に媚売る返信を沢山していたので彼らとしては差別されるのを避けたいと同時に、内心的にアニメ原理主義という狂った教義を守りたいのだ。なぜこの際アニメ批判がまったく消滅してしまったかというと、アニメ原理主義は完全におしつけがましい新宗教でしかないからだ。下手するとアニメ批判する者は人でなしくらいの勢いで、ツイッター民全体が外人ともども、さして興味があるでもみたことがあるでもない二流アニメを礼賛しまくる。
 一体、アニメ原理主義者と、神道原理主義者の過激ぶりにどれほどの差があるといえるのか。テロを平気で行うのはまるで同じ、いかなる批評も許さず信徒集団で少数派を誹謗中傷しまくるし、元よりどちらも根拠のない偶像崇拝をくりかえす。王権神授説の対象がアニメキャラか天皇かの違いしかない。
 最善の対策は、アニメなるものを偶像崇拝と認め、単にメタ認知として徹底した批判対象にすることでしかない。アニオタ全体の狂信集団としての傾向、そして中でも己の教義の為のテロを辞さない過激派は、業界全体が宗教団体であるかぎり一体不可分である。つまりアニメ界全体が邪教でしかなかったのだ。