2019年7月19日

京アニ犠牲者で売名するサブカル俗物は地獄におちるべきである

京アニ同情系の偽善ツイートを目撃しまくって、本当に吐き気がひどい。一応分析してみたけど、そこに邪悪なものがありまくるのは確かなのだが、はっきりそれを取り出して光を照射して退治しきれていないからか、余計吐き気がする。恐らく本質的にはサブカルチャーの持っている低俗性が自業自得で招いた復讐劇なのだが、それにミーハーどもがたかって同情っぽいこと(しかしどこか嘘っぽい。アニメファンとは到底思えない人達が連発する、表面だけ上滑りした発言)を一斉に述べている全体図が、いよいよさらに低俗なのだと思う。

 遂になにが嘔吐感の原因なのかわかった。サブカルチャーに無知な人達が、サブカルをスノビズムの対象にし始めたのが、低俗中の低俗という意味で気持ちが悪いのだ。

 もともと高貴なるものを目指している純粋美術系の人達が凶行され死亡したら、それはまったくファインアートの事情を知らないとしても同情の念を述べるのが正しい人類史への貢献だ。そしてその場合の俗物根性も、決してそこまで気分が悪いものではない。なぜなら人類の高貴さの上限を拡張できたはずの天才が一人でもいなくなるのは、将来にわたる公益が失われる筈だ、と素人でも(作品の中身が実際にどうかとは別に)予想するかもしれないからだ。が京アニに関しては明白なサブカルである。いいかえれば最初から低俗なるものを目指している集団だ(まあ例えば筆者がごくわずかなりとも知っている『けいおん!』がひたすら下品かはさておき、幼稚なばかりで他の芸術に比べ現された精神が立派とは言いがたいのは確かであろう)。低俗な芸術家が1人でも減ったとしたら、それは人類史の足を引っ張る人が減るのだから、文化全体の底上げになるのは明らかである。具体的にいうと悪影響のある卑俗なアニメが減ってしまえば、人はより上品な内容の上質な作品にふれる機会がふえるだろう。つまり、京アニ通ごっこは俗物根性の対象にふさわしくないのである。
 この見解はハイアートとサブカルを戯画的に対照化している単純な例だから、スーパーフラッターとか中間芸術については精査が要る。しかしスノビズムの逆転現象、すなわち甚だしい臭味がある芸術の堕落現象が私の直感していた気分の悪さの原因なのは変わらない。村上隆理論の末路なのだ。
「通ぶる」という俗物根性が、ガラパゴスなハイアートもどきのサロン(公募展)と化したのが日展であり、それがある種の二流の紛い物(キッチュ)としてサブカル化したのが京アニだったといってもいい。ジブリ(例えば宮崎駿監督作品)やガイナックス(例えば『エヴァンゲリオン』シリーズ)の質に比べればその通俗的二流っぷりは明らかで、要は通ぶる対象として中途半端すぎる。
「私は京アニに詳しいんだぜ、だって京都と名前がついてるんだぜ。アニオタの一部にはコアなファンがいるんだぜ。だから俺も私も知ったかぶっておこう、外人の一部も反応してる様だし、ここは同情の余地があるから京アニ自体を褒めちぎって残念がっておこう」という低俗スノビズム。これだ。

 余計気分が悪いのはこの低俗スノビズム、サブカル俗物根性を、村上隆理論を真に受けた外人の一部も素で踏襲しているという、欧米圏の京都後光効果なるものへの媚び方である。例えば作品の質をまったく抜きに水戸のアニメ会社(架空の水戸アニメーションという会社があったとして)で同じ被害があっても、都市名がほぼ国際的に無名なので恐らく全人類は殆ど反応しない。中華思想の地域差別を外人までやっているのだ。
「通ぶる」必要がない、寧ろ通だったら恥ずかしい対象であるべき低俗なサブカル、具体的には幼稚極まる実に下らないアニメを量産している株式会社を、あたかも知ったかぶって褒めちぎる三流文化人ごっこの俗物ども。
 村上隆氏がスーパーフラット理論で彼の宮崎駿コンプレックスを解消しつつアメリカ美術に編入しようとした余波で、欧米人まで低俗な日本アニメを「わかっている」方が偉い、文化的というひどく吐き気のする通俗的幻想にあてられている。この調子で下達しそのうちポルノや同人誌を褒めちぎりだすだろう。
 京都なるものの基底は中世以来、中華思想と俗物根性の塊だったわけだが、京アニは逆に低俗で幼稚な大衆芸術の担い手だ。つまり村上隆理論は日本で低俗とされるものを欧米でクールとみなさせる、奇妙な矛盾で異文化を誤解させたのだが、京都なるものがさらにこのねじれを増幅している。

1.京都は観光客文化によって外部者が褒めるものを内部で見下すねじれた中華思想をもつ
2.村上隆は宮崎駿への劣等感から日本サブカルの低俗さを欧米でネタ化した
3.アニオタでない京アニ同情ツイッタラーは殺人事件を利用し中途半端にサブカル通ぶる俗物根性を発揮したが1と2から恥を売っている
4.ところが3の俗物ツイッタラー自身(外人含む)に自らがどれほど醜悪な言動をとっているか気づくほどの文化的素養はないので、ネットにあふれる同類をみつけますます偽善っぷりにつけあがり、ろくに知りもしない低俗極まる京アニ擁護論もどきを展開する
5.私はこれらをアップルCEOティムの商人らしい新装開店京都アップルストアへのしたたかな援護射撃ツイートからはじまって、事件から1日の間に方々で感じとり、吐き気が止まらなくなった
6.何とか状況分析したら京都中華思想と村上隆の似非アニオタっぷりが下衆どものねじけた俗物根性になっていたのだった
7.結論をいうと、京アニ同情論をいきなり一斉に述べだしたツイッター俗物らはほぼ全員が、京都中華思想、村上隆理論、そして外人と下衆に媚を売りつつアニオタもどきの京アニ擁護論みたいなものを口先に述べているのだが、実際には大量殺人を自分の低俗スノビズムの手段にし善人ぶりたいだけの偽善者
8.因みにこの低俗スノビズム(サブカル俗物根性)はアニオタには頻繁にみられる彼ら自身の自己弁護と現実逃避のための欺瞞であり、実は子供でも呆れるくらい幼稚で下らないものを偶像崇拝しているので精神年齢の高い大人に相手にされないのを合理化するべく使う、一般的なオタクの気持ち悪さの原因
(例えば『けものフレンズ』『けものフレンズ2』は「え、こんな幼稚なの本気でみてるの?」となるのが中学生以上の精神年齢からすると並の中身なのだが、「このよさがわからないなんてかわいそう」と自分達の幼児退行っぷりを正当化する理屈を無理やり立てて、オタク同士で排他的に同情しあうのだ)

 どこかで誰かが大量殺人されました。かわいそう。これで十分なのに、なぜか通ぶってサブカル俗物になってしまう。これが吐き気の原因だ。そもそもサブカル俗物自体が人類全体に無礼を働く一方で全体を低俗化させる意味で悪影響しかない実に最低のろくでなしなのに、それに擬態するツイッタラーの醜さ。
 できるだけ早く忘れよう。当然、京アニ含めサブカル界隈に近づかなくてよかった。自分まで偽善ツイッタラーにならなくて本当に救われた。恥を売りまくっていた似非文化人どもは地獄におちろ。殺人された人らも、殺人せざるを得なかった人も、まさかそんな俗物どもに利用されると思わなかったろうから。