2007年1月31日

神話

現世人類との間には明確な一線を引くべきだ。この線幅が広がるほど君は神話に近づく。

2007年1月29日

文明三位の分立原則

文明三位(政治、経済、学術)の相互分立が発展にとり肝要なのは、三権分立の理由とよほど変わらない。更にこれは個人においてさえ処世上の真実であり、万能人は社会の中で永久に全能的地位を達成しないだろう。
 我々は知能の精錬を各位の範囲においてのみ追求させる。こうであればこそ、文明は中流最多主義的協和を民主的福祉の次元で維持促進しうる。

計画論

自然に計画は存在していない。我々の能動的知性が法則を仮設し、その為に全知を理想する故に導かれた過度妄想による錯誤の認識が知的設計論だった。
 神学つまり神の学はあり得ない。それは単なる宗教。我々にとって我々自身の知能だけが計画を理想する。証拠に、法則とは常に不確定な想定に過ぎない論証を参考せよ。秩序を計画するのは唯、我々の知能だけ。事物の背後には何もない。

道徳神学批判

神意とは予見に他ならない。神格とは高度知能の道徳側面。カントの道徳神学とは神格当為の形而上学的な合理化説に過ぎない。
 地上の神意を創造するのは理性そのものである。よって、哲学の実践に神は不用。倫理的崇高を喚起するのは実践的な知能行動だけだ。

文化論

言語間差異の体系は自体が類適意に属する。方言、則ち語族とは地球市民の同胞感情最適化の工夫だった。翻訳通訳は文化の目的ではない。普遍的理念は言語文化にとって望むべくもない。意志疎通は語族同士の不平等に依存する。言語文化とは意志伝達の適意競争に過ぎない。我々は然ればこそ文化する。でなければnationalityもない。文化的作為すなわち語族の協業は知能格差を推進する集積原理。

理想主義論

知能格差は終いに同類を道具視する立場をも用意する。理想主義とは究極の種内順位。蓋し道徳とは調整的正義。過度な競争に対する抑圧の実践が理性の特徴。神格的善導は類全体の相利共生を道の批判で促す。而して個体差は分業へ応用される。

善と分業制

我々は同類から必要以上に搾取しないこと、つまり社会階級の再構築によって種内個体差を最大化しようと励む。この分業体制の組織は文明と呼ばれる。
 結局、善にとりどの程度の生存価値があるにせよ、人類とはかような方式で生態活動を特徴づける動物であった。

格差

人類の生存地位は知能格差によって決まる。階級とはこのための格差。
 精神とは知能。人間とは知能競争の類体系。

2007年1月27日

知能

学術に関する限り、現世との折衷をとろうとする者は馬鹿げている。それは平凡の実証を遺すにすぎない。現世人類にどうして神様を理解しうると想像する。君が真に賢明祐徳巧妙の士なら、俗物どもの蛆虫じみた戯れから進んで身を退けるに如くはない。あらゆる賞与を避けうるかぎり避けよ。地位と名声と金権とを悉く退けよ。君の目的は生物最上の知能である。他は総て方便でしかない。

2007年1月26日

名声

名声とは能力格差を種内合理化する便宜である。優れた個体へ協賛すれば利潤は上がる。
 我々の一類は寧ろ進んで名誉を棄てる。これは過剰適応を避け、自由を確保する利便である。

伝承

人間が表現する意義は学習の伝承にちがいない。でなければ情報公開する意味は知れない。
 ある個体の得た思想をある種の他者へ伝える。その効果を通じて彼自身の属する社会を改良する。

様式

君は表現しうるかぎりで自分なのである。

2007年1月25日

自伝

人間としての私は地球社会の構造に在って孤独だった。私にとって地球という星は仮設の足場であった事をここへ明示しておく。殆ど凡ての個体は話し合うに足る知能を持ってはいなかった。従って、私は常々おのれを啓蒙の便宜に長けた人物として丁寧至極に彫琢せねばならなかった。この手間は大変なものである。

 私は遂には教育機関を利用した。そこで「教授」というつたない名義を被れば、地球上の拙劣なintelligenceと交わる不便の大半を避けるに易かった。
 非常に私小説的な告白にはなるのだが、実際私には異性との発情的遊戯に対してですら馬鹿以上の意味をみいだせない若者だった。だから、俗物を退けるのと全く同じ定義で異性も避けた。
 結局私は幼い頃からの自分の悩みの総てが、他個体との知能格差に因るものであった事へ気づいた。そして第一に隠世、第二に多少あれどの天才以外の人物との接触を飽くまで最小限化する処世の工夫で、この問題をほぼ完全に解消することができた。

 孤高、或いは遁世的求道がみちびく結果はひとつだった。それが理の所残である。

2007年1月22日

言語

言語という道具の用法に正解があると信じる低能どもを悉く戒めねばならなかった。

2007年1月21日

語彙

美学という語彙は廃止に値する。美は学び得ないから。

音楽論

混沌から大世界の調和を聴き分ける耳を持つように努めねばならない。巨視的にあれ微視的にあれ宇宙は一つの調和を奏でる。古代ギリシアの先哲に倣ってこれを秩序と呼ぶこともできる。
 我々が音楽によって実現しうる最高の段階は、この宇宙の秩序を完全に人間化して表現する前進であり、音階、音程、音色は音楽によって秩序を奏でるための音波分析手段である。
 我々は人間聴覚を満足させるために音楽を必要とし、またその究極の点では環境を気分によって文明美化する。

2007年1月20日

忍耐

最良の処世術は忍耐の一言に集約できる。人間社会での生存力とは忍耐の知的側面でしかない。

合戦

知的合戦以上に高貴な使命はない。肉体的暴力を用いるもの、つまり議論を離れて戦争に訴える者は獣の仲間へ帰れ。

2007年1月19日

おのれの敵はおのが無能だけ。

真似

生きる方便に長けるにはかしこい大人を模範にするが良い。彼らに助言を求め、少なからずまねて習うことは最も多いに違いない。そして人が大人に成れば先人の足跡から、又既に君が大家なら自身の理想から真似ること。及び少なからずかしこい子どもからも倣うことを忘れるな。けだし彼らを洞察してかしこい人物を抽出したならば。

2007年1月18日

学校の程度

程度の低い学校へ通うくらいなら独学の方がどれだけましなものか。

自伝

次第に、若いながら私は人間性の中に一点の希望を見つけた。それは賢さの種だった。私は社会分子のほんの一部にではあるが、至当の知能を持つ人類を発見した。彼らは秀才の類だった。彼らは、混雑した大衆の中からでも密かに育ち、有識という芽を出していた。私は彼らの少しずつの生育の中に、地獄での蜘蛛の糸を見つけたようだった。しかし安心はできなかった。一人が油断すれば直ぐ様、その社会上流の風紀は崩れてしまうほど微々たる勢力でしかなかったからだ。私は手記を部分公開しなければならなくなった。きっと彼らのうちには天国へ関心のある者も居る。私の手紙は多く、彼らにとっての切符となる筈だ。

自伝

だが、君を育み得た暫時最良の体制が社会であることも事実だ。理想の幸福でさえ人間なのだ。
 私は古代ギリシャの哲人らが閑暇を利用して思索したことを餓死、漂流、自閉、社会不適合、どの語彙にも当てはめないだろう。

対処

この世で美徳を持つ連中と好んで付き合うが良い。彼らは君の献身に応じて進んで利益を恵んでくれるだろう。

自伝

少ないながらしばしば避け難い理由で奴らと協働しなければならなかったときより不幸な瞬間はなかった。私は猿と神との間に埋め難い格差を見いだして苦悩した。

2007年1月16日

文芸論

文芸に正解はない。啓蒙があるだけ。

都市観

芸術という理念の目的が文明環境の伝播にあるのは疑いづらい。
 われわれは更に趣味という方便を通じてこの数奇な目的を追求する。人工的合理性を淘汰式に捻出するべくわれわれは趣味を制作する。美意識が趣味を規定する。審美はこの批判の用語。感性が導くところの終局は常に、人工における普遍的合理の批判にある。
 崇高が芸術の最終表現なのは、上記の筋に則り、われわれを超えて無限なもの、つまり自然の等価概念たる文明の形相的実現だから。
 芸術の大きな価値は生活の逆規定を為すところに由る。ゆえ根本的には不用ならず、却って他のあらゆる用途へさえ模式を与える。
 文化とはある時代の社会慣習だから、むしろ芸術自体の創発性に反抗する。もし合理批判でない工芸があれば、それは骨董品と呼ばれる。文化財はいずれ芸術ではなく、骨董の保存という慣習に過ぎない。
 君が以上の論旨を悉く理解すれば、絶えず建設破格されていく都市運動の中にしか究極の宝をみいださないだろう。
 傑作は時代象徴としての運命に終始する丈。そして完成品という理念が文明の内部ではすべて幻影であることを認知すれば、君を取り囲む現実性の様相においてのみ、理想を漸進させる継起を確定する様。言い換えれば都市建設を以て芸術の奥義とみなすがいい。

2007年1月15日

民族と文化

「民族闘争」は世界共和国へ至る最初の段階である。文化的互譲だけがこの過度に対する沈静の薬を果たす。

2007年1月13日

業績

人は業績に関する限り、どれほど早熟でも過ぎはしない。というのは分野の探求は尽きる事がないばかりか、異なる世界へ挑戦する限り成熟も無限だから。

2007年1月12日

悪人

悪人は早速機械に交替されねばならない。

退廃

快苦の両極を択ぶが故に退廃する。

猿とは会話する価値がない。

衆愚

彼らを幼児視する以外に賢士の世に処する仕方はない。彼らにはいつ如何なる場面と云えど、より効率よく方便を説かぬべきではない。

舞台設定

同じ条件で同じ役柄を繰り返す愚はない。文明が普遍的建設の基礎たるべきは後世人物らのより優美な劇を誘発するため。また彼ら劇団一員の目的も宇宙文明の完全さへの服従。

天才

天才は相対的な理念。それは他の人類が同時代の範囲では如何にしようと追いつけない傑出した能力を意味するにすぎない。蓋し、その才質が人類の範囲を超えることは永久にない。よって万能の天才と云えど神格は当為たる已。
 人間は競争を天才擁籃の方策として自然から一部採用する。彼らの究極の文明社会においてさえ、決して種内闘争が暫時階級の姿を取って現れない事はない。よって社会主義とは調整理念であり最後まで配分的事実にはならない。我々は同類を利用価値に関する絶対敵と見なす人物を必ずしも非難し得ない。彼は上記の筋書きを辿るごく自然な人間。智恵、倫理、技能といった諸能力でさえ搾取以外のどんな目的も見出せないが、その結果が文化的に波及するにあたって精神の計画が福祉という形で成功したのを我々は観察する。

2007年1月11日

自伝

Power eliteらの妄惑が愚衆政への片道切符であるのは知れている。事情私の多大な使命は民衆内への主体性の回復にあった。

 特に報道という手段は彼らへの最善の献身法であった。それは固有の一方通行性によって害を遮断し薬を投射するに好都合な便宜を有したのである。私は娯楽の合間に真理を巧妙に差し加えて彼らへ教養を与える才覚を絶えず鍛えた。

芸能論

君は自己神格化の絶対的な経過を通じてしか真に芸能の中央を極める事はできないだろう。現世演技の最高の表現は神的崇高性となる。

善導について

君が善導の生業に着くだけ哲学に優れた個性ならますます政治的地位は邪魔になる。というのは先導力とは建築性だからであり、文明之啓蒙を通じてしか真に指揮を執る訳にはいかないからだ。もしこれを避ければ単に近代以前の社会体制へ退行するしかなくなる。我々は達見を通してのみ大衆を正しく導くことができる。それが故に言論の解放的風紀の養成と人権の再生は体制常なる命令。
 もし具体的政権を通じて現時的政治を追求してもあらゆる善導は失敗もしくは不良燃焼にとどまらざるをえない。これは民主制の限界。すべて民主的政とは失敗の重奏でしかない。この様な問題へは先見の明なき中等の種類に積極関わらせるのが社会善に違いない。ならば究極の先導点は意見の極限的洗練に置かれねばならない。そしてそのような意見を報道する行為を以て社会体制を徐々に転回させる他どんな最良の大衆啓発もない。

無学どもへ如何なる教育と謂えど善である。

自伝

私は「盗み」を働いては居ない。人は解脱しても世間に身を処するかぎり堕落する。職業は分業的にしかあり得ない。

2007年1月9日

自然精神

自然精神は人間の遊戯的本性に応じて限りなく創造されていくような計画。
 我々は自律した主体としての人間精神がかの究極目的と益々一致するのを文明の建設に連れて観るにつけ、最高の実在としての精神を万世至上の理念と見なさぬわけにはいかない。
 又、究極原因としての神なる仮称についても、精神の種内現象に由来するのは明らかだ。それは当為たる最適化への方便。
 例え夢想の中で生化学研究の終局が来た日にも、我々は精神の実在を世界現象以外のいかなる隙間にも見いだせないだろう。
 思えば精神という概念は決して純粋理性の範囲に存在する事物ではない。
 結局、我々にとって運命の根源に遡ることだけが、その理念の内容をよりよく知るための道だ。かの努力のため今日に最も普通に使われている名詞が哲学。悠に、人間が理想のため生きる行為はみな本質的にこの哲学の姿。
 宇宙と文明は最良の点において調和する。人間精神の再創造はその自然精神の遊戯人たる本性。

2007年1月7日

文明の救済性

全知全能の神という仮定は道徳律の究極目的を定めるにあたり是非とも必要だった。実際カントはそうする事で彼の形而上学の体系を完成させた。
 今日我々はこの神格という理念を、単なる人格神という偶像に捧げることはできない。大衆の理解にとってはいざ知らず、形而上学の進展は主体の他の言語概念を隈なく相対化した。
 我々の信奉する理性は究極目的としての神格を形而上の命題と考える。そして全自然の解明が終わる日が来ても形而下にこの対象が姿をあらわすことは決してない。
 勿論、それは自然外の仮象だからであり、我々の理性が自ら理想する定言命令を実践する限りにおける研究対象だから。
 我々は後々に至ってさえ、哲学者の中に知恵の不完全な発表を観るに留まるだろう。にも関わらず、理想的にしか現実における神格の仮設は不可能である。
 人間は啓蒙をこの世の最高善と見なすだけにはあまねく倫理的に産まれついた、と敢えて言うことは人類上の正義の原則へ些かも劣るものではない。なぜなら彼らの文明は道徳的義務へ奉仕する以外にはいかなる意志をも持たないような主体についてさえ、知恵の求道的獲得および相互伝承への献身を社会の内部で追求させる他には、実践困難な命令を与えるほど不条理ではない。
 我々は義務の遂行を自由の範囲に定義する道徳的批判によってのみ、あらゆる想定にまつわる絶対善行の推究を個人の自律による判断の可否へいなし、従って社会的に相対化すると共にそうして多分の凡庸な人物たちへ時に応じて啓蒙の機会と事後合理化による救済の余地を与える。

2007年1月6日

歌唱術及び芸能論

歌唱なる音楽形式の限界は固有の芸能性にある。その内訳は結局、歌手の声音という楽器は個性の所残である他ないからだ。歌唱の音楽性はどれほど人間味に溢れた傑物による表現に依るのであれつまりは個性の自己顕示である他ない。従っていかなる天才による歌唱といえど最後まで芸術的な普遍性を獲得することはないだろう。我々は虫や獣の類が求愛のために歌を吟う場合をよく観るし、例えいかなる楽器類や手法を用いていたにせよ、人間が日々大衆の面前で飾り立てつつやっていることがそれとさほど変わらない事実を観察するにつけ、歌手という自称・芸術家へは冷めてなおぬるい感慨しか抱き得ない自分に気づくに違いない。そして彼ら動物側の歌曲はしばしば下手な歌手より高尚な趣に満ちている、というのは言葉を知らない彼らは意味を持たない純粋音楽へ興じるにはより適した環境にいるからだ。
 夏休みの鈴虫の風流な合唱とか、曙に合わせて毎日開かれるスズメと鶏の賑やかな演奏とか、深い森の奥でのカッコーやミミズクの寂しげな演出とかは殆どの人にとって好みに合わないうるさい流行歌、よりは普遍性を持っていると、感じられるかもしれない。
 実際、流行の文学性と音楽性とを適当に帯びた「私小説的な」芸能活動としていわゆるpopsは現代の低級大衆向けの大きな市場なのである。そしてこのようなベクトルはビートルズ以来のrockというgenreの成立から端を発し、今後も少しずつ時流に合わせ変形されながら、応用芸術の一種としてmass cultureの一部を担っていくのだろう。
 純粋音楽として充分鑑賞に足る楽曲でさえ大衆向けの人気を確保するために、歌詞と声色の個性的な芸能人との演技表現のために応用させられる現実に対しては、量産化の可能にかこつけた質的低俗化という一点の読み方で充分なのである。

 尤も我々がこれに一般に預かることについて音楽芸術の市場化という利点も見逃せない。従ってかしこい階級の上品な人物はこれらの動向を静観するだけでなく、却って煽り為してより高次な基本芸術の成果を大衆社会へ解体伝播させる努力に事欠かない。そのため、彼らに偶像性をこぞってまとわせ、更にstarを演じさせてピエロに仕立てて操り、大衆市場の掌握へ利用する訳だ。

 歌手がためのstarさあるいは偶像さ、idolさは、他のあらゆるiconと同様に、ideaの仮象的な存在化であり、多少あれ理想的価値の退廃を含むものだが、そこには偽造されたauraへの崇拝を通じて市場の独占体制を宗教化する、というproductionの意図に適うだけの必然性がある。
 我々はすべてのstarは偽造であり、あらゆる偶像は贋物である事を既に目的論の次元で知っているが、各形相の存在論的価値に関するかぎり、彼らピエロが一定以上の商品形態としての流通価値を持つことも又、容易に疑われまい。従って「音楽芸能」としてのpop musicをあながち無用の産物と見なす訳にも行かなくなるだろう。例えば文学においても、近来同様の市場化手法の援用が診られるのは偶然ではない。それらはmass societyへの芸術流通の応用から産まれてきた傾向であって、一概にたんなる一時の社会現象にすぎないとして否定し得ない。
 だがこういう芸能化が行き着くところは最終的には知れており、すなわち「人気、popularity」の演劇的実現、という世界精神に結実するのみである。そしてそのような役者あるいは有名人の社会的醸成とは、謂わば英雄、heroとか姫、heroineそれ以下の脇役などの文明内活躍を通じてある人間的模範たちの時代劇場を伝説化しようとする総合芸術からの要請に基づくのである。よって、こう結論できる。我々はたんなる舞台演出術たる純粋芸術以上のより高次の、芸術的総合の結果としてそういう、ある時代の主要登場人物たちの活躍を期待しているのである、と。そういう星々の瞬きは宇宙の調律とまったく変わりあるものではなく、それが故に限りない崇高美へ続く唯一にして最高の段階であると考えられねばならない。

文芸論

私は新造形主義、特にモンドリアンが『新しい造形』の中で述べている音楽や文学を含める普遍的総合芸術様式の確立を不可能だとは思わない。否、近未来にそういう構想は近代文明の名を借りて、人類史内へ浮上するだろう。いわゆる大衆社会がこの様な汎神的文明環境へ適合するために台頭してきたのはほぼ間違いがない様に、この時代からは見える。しかし、文学に関する追求を通じて、芸術家としての私個人はその論旨がたんなる敷衍の方式では決して建立できないと悟った。例えば各地域言語は固有の語族文化をもち、殆ど普遍化に耐えない。
 文芸における普遍化は、他の工芸に比べてずっと困難な過程を経なければ実現され得ないと私は思う。単なる明喩としての文脈という極めつきに重たい、固有の命題を背負っている事からも、音楽や造型美術より遥かに遅れてしか発展しない文芸或いは詩劇は、それでも翻訳という便宜を通じておおよそ国際的に実行されていくに相違ないだろう。文芸は内容表現上の展望に関するかぎり、無国籍の段階を経て次第に別の体系へと収斂していく。これは音楽の様な唯単なる音の越境に対して、差異を一層拡複しながら共感という段階で世界市民的な同胞感情をつくりだす様な営為である。
 我々は音楽内の歌詞においてすでに、こういった文芸的展開の端緒を鑑賞した試しがある。同じく、純文学(これは日本の文脈での反大衆文芸という内容に限らない、純粋芸術として文芸)の範囲では、いわゆる世界文学に加わる語族が広がりをもつ程に、彼らの扱う言葉もまた、普遍主義にふさわしい様相を帯びるに至るだろう。
 文化の多元さが文芸という造型芸術を発端に建設されていくことは間違いがない、と言って構わない。それは語族並立的であることによってしか決して現象し得ない芸術展開上の場面に、文明がもはや達しているからだ。

反復

私は建築における対象性が反復の方法にすぎないこと、また反復自体が建築の目的でありその造型上の最も主要な抽象の手法となりうることを疑わない。だから対称の破格が反復の便宜に叶うかぎりその美術的意義を確かに認める。一方で、回転・混乱または対称への美学的な固執という少なくとも文化遺産の希少に反するものでない限り、神は我々へ再創造の自由を与えた。その最善の用法は全人福祉の目指す点に一致している。
 絵画や彫刻は単体としての反復を旨とするべく産まれたのである。作品が独創の産物であるならば、差異の反復すなわち散種を造形の最大の実現として覚えられる。絵画は平面における色彩の差延を、彫刻は立体における形態のそれを認める。

審美論

対称についてでさえ建築美と絵画・彫刻についてのそれに関する解釈は異なる。
 西洋では古代ギリシア以来の整然への志向が左右反転を単体の理念とみなす。中国でも権威主義的な完全さ、円満の美鳳としてかの自然趣味を信奉してきた様にみえる。カントの様な西洋哲学者でさえ左右対称が美学であると疑う余地をもたない。がこれらはある複製合理化への類型であり、必ずしも普き根拠をもっていない。
 実際、審美観とは相対的な感覚論だったし、これからもそうである方がよい。いうなれば尺度は目的とはならない。単位についても同様に。それらは個別の文化であり、文明の普遍さに合わない。

美術論

絵画や彫刻について造型上の反復は目的らしくはないが、建築についてはそうでない。つまりごく単純なことで、建築は人体に比する規模の故にある単位を反復して用いることが否応なく要請される。対して絵画や彫刻では人間的尺度の故に必ずしもそうではない訳だ。
 だから造型系統によって合理性とはかなり違う概念であり、また各々の美の理想にも異なる影響を与えずにはおかないだろう。絵画や彫刻を建築とは違った文脈で批判しなければならない理由がここに見い出される。尤も、こういう認識でさえ、少なくとも審美術という次元ではとある芸術家へ定格を与えるだけにしか役立たない。
 我々はガウディとミースの、あるいは東照宮と桂の中におなじ反復という方法の利用を観るが、両者は違った様式的趣味のもとに建築されたが故に、相異なる姿をあらわすに留まる。

建築論

今日では私は新造形主義が造型美術の目的だとは思わない。モンドリアン以下のデ・ステイル派の為した活動が人類美術史上に傑出した意味をもつ事を疑わないが、他方ではその社会的適用に際しては必ずしも最良とはいえなかったことも知っている。
 ミース・ファンデル・ローエの様な芸術家は、彼らの原則としての教義には明確な距離を置きながら、むしろその本質的意義としての抽象を同時代で社会的に達成している事に注目すべきだ。謂わば芸術における原則とは、ある天恵が確立した様式を大多数へ伝承する際の方便にすぎない。我々は創造力が原則の破壊を旨とすることを美術史上に観るだろう。以上の気づきを以て今日の私は造型美術の究極目的が抽象にあることを疑わない。
 新造形主義やミース様式といった原則的指向は、私にとり所詮、先人の模倣に終始する制作上の誤謬、修養の方法でしかなかった訳である。

審美論

芸術の目的は質でなければならず、量という概念はいずれ犠牲にされなければその普遍的定義を十全にまっとうすること能わない。人が以上の命題を精密な理解で達するには次のことを一考してみるで事足りる。
 個人の独創は生涯という時空間の限定の範囲でのみ有効な理念でしかあり得ず、同時にそうであるかぎり、芸術はその他大勢へ範例を垂れる為に叫ばれる合格適意の尊称にすぎない。よって創意の抽象でたとえば文芸において、君は後世のとるにたらぬ衒学者の連中が、同時代の制作上の生産技術力水準に比するある芸術家の個人的な創造的努力の成果を謂わば揺るがぬ権威として定義する場合を散見するやも知れぬ。
 日本の文芸に限って言えば、我々は物語の出来栄えがかの作品が有した量の故にさえ突出していると認識させられがちである。しかしながらこの視点は誤りだ。我々は作品の質の故にその芸術を記憶しているのである。実際、かの場合についてはその文芸的な質を達成するために否応なくある一定の長さを要しただけだ。むしろ長々しい物語という形式に頼らなければならなかった分、それはかの作者の結晶力的無能を意味してもいる訳である。彼らは自分の信ずる作品上の質を達するがためには時代の平均生産量に対して相対的に多くの叙説が必要だった訳だ。つまり、量感そのものが作品の本質的実態に仕組まれた場合もなきにしもあらず。だが同様の破格の場合を我々は鑑賞しうるかもしれない。無論君がもし注意深い芸術思潮の観察者なら、真に傑出した作品は必ずしも莫大でないのを観るだろう。芸術にとって重要なのはいつでも、時間的あるいは空間的な容量ではなく、その創作が到達する時空の質に他ならない。そうであればこそ、芸術は万人へ万世開かれた作為の競戯であることができるし、又その可能性の体制を維持し続けることこそ芸術史の最高の命題なのであった。
 結局、無知が量を審美観の対象に付するなら世人の趣味は少なからぬ過ちに導かれるだろう。というのは、我々は作品自体の到達した美の境地をでなくその量を愛でるなら、まったく取るに足らない多くの俗物の結集を当世文化の粋と取り違えて美学者面で蝶々する弊に陥るに違いないから。

2007年1月5日

国際論

中国の敗因は官民不和にある。永きにわたる権力偏重のガタは民情の腐敗に結びつく。事実、中華人民の世論程度は世界中で最も悲惨なものの一つである。
 民情は世論と縁起する。両者は国の感情的または論理的な側面。


 アメリカは衆愚化に陥りだしている。建国に由来する直接民主主義の過剰信奉が煽動政治家を生み出している。

 一方では、我々は世界中の人民、特に途上国民との親愛を今からどんなに深めていても足りない。そうする程地球人類から我々への単なる人間的な信義が極まるだろう。そして日本国が最高の名誉と考えるものは、他国民からの絶対的と云える国際的信義である。
 また、イスラエルの正式成立以来、日本人とユダヤ人との協賛の必要はますます高まっている。

2007年1月4日

現代政治論

現代人は人権平等という理念を功利主義的命題[最大多数の最高幸福、すなわち福祉]
の有力な方法として採用する代わりに、
「選挙」という工夫で改良されたaristocracyを追求しているのだった。

官僚制: bureaucracyはこの内部現象としてあらわれる。

 民主政: democracyが理想的最高段階の政治体制ではない事は以上をもって明らかだ。
それは隠蔽された貴族政である。

もしたんなる民主政、すなわち政策における直接選挙的な傾向をおろかにも追求すれば、
その国家は――Polybiosの政体循環論よろしく――衰退へ向かいやがて滅びるだろう。

衆愚政: mobocracyとは官僚主義が極まった社会体制の名称であり、
そこでは不徳な寡頭的我が侭が進路のすべてに優先するのである。
 事実、公的体制の透明化を徹底する以外のやり方では官僚主義の教派: sect化を防ぎ得ない。

 そして衆愚的煽動を行う似非えせ政治家があらわれた際、
かつ直接民主主義的傾向が不幸にもその国民の理想であったならば、
独裁的全体主義が政党支配的になるのは避けられないだろう。

そのような腐敗した国家体制は、
いかなる伝統を持つのにせよ、
遅かれ早かれ必ずや自滅するだろう。

そして治療策はresetの他ない。
 どうしてかならかような風紀を生み出した民情は万世の士気そのものであり、
一月今夕で変動できるものではないからだ。

衆愚政に陥った国家からは誰であれ急いで亡命するにくはない。

 危険の最大の兆候は《直接民主主義の信仰》にある。
それは現代社会においてはまるで誤りなのだ。
 民主政は王政へのひとつながりの輪であって、容易に退行しうるものである。



 対して一民主国家が文明度を上げるほどに世論政治が可能になる。
現代福祉の理想は世論政: publicracyの中に見出せる。

民主政の名を借りて選挙された貴族政は我々にとって、世論政へ至る途中levelに過ぎない。

もし世論程度の高尚を中庸的民主主義の根本目的に定めるなら、
人類はAristoteles政治哲学への誤解を完全にほどきうるはずである。

公正な間接選挙は福祉のため意見を精選する。
そして人類政治の現代的な理想は、彼ら主権者自身が世論向上を政事目的に定めることによるのである。

寡頭官僚煽動体制による衆愚化を防ぐにはjounalismの勃興の他にいかなる方便もない。
 政治的正義の中枢は報道の自由独立の死守にある。

音楽論

君はある世界史的音楽作品を構想する。それは完全に都市化された純粋抽象楽曲を含み、各地の自然音や様々な民族的音色を込めた具体音楽の間を旅するように流れ込む。
 音楽は音波を利用した時間の芸術である。我々はかの作品世界を経過したあとでは、すっかり万世の諸地方を旅してきた気分になるであろう。

踏み段

カント以降の倫理哲学者が、彼が言う道徳律の最高目的性自体を批判しなかったのは、かなり不自然なこと。
 どうして人類がそんなに尊いと彼は信じていたろう。彼の人間性への無条件な絶対信頼には多少のだまされやすさが皮肉づけられよう。我々の史実は、想像しうるほとんどあらゆる過ちを甘んじて犯して進む様な、もっとも不器用な自然の御者に過ぎなかったというのに。ムダな同士討ちの頻度については、むしろ大部分、他の動物にさえ劣ることを反省できる。
 自然の狡智はヘーゲルが云う理性のそれに比べてずっと包括的な理念であり続ける。端的に言ってしまえば我々は中世の文脈で云う神様による失敗作。
 我々の理性はかつてより身近な部族を守ることにしか役に立たなかったし、人類脳蓋が依然この大きさで、かつ手を加えられないかぎり今後もさほど伸長しないだろう。我々の共感能力には一定度の限界が設けられている。いかなる慈善家がいかにやさしくていねいに高等倫理学説を説明しようと、今日のごとき半開文明における大半の知性には、当為という観念の人格主義的な定義さえわからない筈。
 そこには必ずしも矛盾があるわけでもない。我々に宿命された遺伝子は共感能に遠近性を特徴づけて、他人の子どもと比較した可愛さにおのれの命を勝利へ導くべく日夜画作する。理性は本能の変種。
 種内競争の醸成はまた、文明体制を効きよく築く便利として普く機能していく。現代人類は後構造主義以来、神様を理性より優勢に置くほどただの語学上の問題で混乱してはいないが、しかしながら普遍的共感を政治抗争の上位に置く概念として一般化するほど優れた段階を到達した社会にいるわけでもない。
 国際連帯の組織が超大国を覇権委譲へ導くためにはまだ幾つかの踏み段が必要。

近代的理性への反省

比較的優れた知能を誇る動物が居ても構わなくとも、彼らが唯我独尊の境地で理想を最高目的と自省する事には幾分かの偽善がある。
 彼らは単にいくらかの知能という特徴を持つ進化の枝葉にすぎない。彼らに相対的存在価値があるかどうかはいずれ環境が決める。勿論我々の脳髄にはつねなる容量的限界があり、恐らく宇宙最大級の知能特化型生命のはずはない。
 人間の道徳は人間のための道徳であり、他のための形而上図像ではない。
 彼らが自律性を認識し、環境への適応行為を理性的に創発しうる限りにおいて、人間の存在価値はおのずから仮設していけるもの。善は我々の文明にとっての合倫理性を試す語義。よって、かつて理性は我々が人間とみなす以外の生物へは適用し得なかった。
 何らかのための手段をとらない理想する行為が、善意志の最も純粋な表現である事は疑われないが、それを生の目的にするには我々はあまりに縁起的ないきものではないのか。実際に、善意志は人間以外の動物へ対しても必ずしも愛玩の道具としてだけでなく、たんなる適意として養護という命題を課す。われわれは道端に捨てられた子猫のたぐいへただの同情から保護するかもしれない。
 我々の理想は己れが繁栄を嘔歌するための演技というだけではない。生物への福祉環境を自由の範囲で調整する機能。謂わば理性とは自然の道具であり、古代人類が妄想したように無比の能力ではないだろう。我々はさほど遠くない日に、生化学的にこの精神現象の客観的な仕組みを解明できるだろう。
 理性の範囲を狭く、人類の適応行動の適性に限定して反省しなければならない。まず種内における、そして種外へいたる行動原理の普遍的・形式主義的確立が現代倫理学の命題に置かれねばならない。

2007年1月3日

文明学

文明の永続的発展の基礎には必ずや文明学の成功がなければならない。博学者の哲学的総合によらなければ一文明の将来は覚束ない。
 我々は世界史中に多くの文明の興亡を観てきた。又生物種が環境変化に適応して来た様に、文明も時代の唯物史的変遷に応じてその姿を変えて行くだろう。
 我々自身は実存的な参加によって世界史を動かす個々の主体。文明学説は人類思想へ影響を与えて彼らの中に格差をつくる。時代の技術水準への適応に成功した文明は栄え、失敗すれば人々は没落する。
 もし真に賢い人々が存在すれば、技術水準の編成へ度々進化して着いていくに違いない。我々が文明学説を必要とする由縁。
 しばしば何々主義と名づけるところのIdeologieは大抵個々一文明学説の名称。
 私は諸々の文明学説の中で、とくに体系化された科学に値するものを文明学と呼びたい。普遍的に共有しうる形に抽出された理論は時代を問わずに社会体制の理想へ適合する筈。
 文明を永きにわたり保障するには文明学理の積み重ねがなければならない。数知れず多くの学説を擁藍帰納し、確立された既成学理から演繹推察し、仮説を検証する経過を通じて人間社会の新たな指導法則へと思想を展開させて行かなければならない。
 以上の哲学的な志向は人類の本能だけでなく、理性の普遍的願望にも叶う理想だろう。

都市化

都会では思想の多律により、生活から文化的伝統儀式が消滅するのを観るだろう。功利は寧ろそうした万全日常化の結果を呼ぶ。現行中世人類は世界の均質化を嘆くが、世界中の都心が同じ条件へ向かい等値並列することは人類史上でのある達成を意味する。地球遊民の登場は地球文明の段階を象徴する。彼らは文化から自律しており、国籍ではなく資本運動が、彼らのidentityの規律となる。都会人とは、必ずしも良い意味ではないが、彼らの通称であるだろう。
 彼らには語族でさえ有効ではないだろう。そして実効性のために、方言を単に捨ててしまうだろう。文学は普遍言語の流通へ反抗するのではなく、むしろ翻訳によって協賛する。文化的な微妙な差異表現は、翻訳の巧みを養成する材料にすぎない。

海景の描像

遠い空に浮かんでいる雲が君の足下にやって来て、時間の彼方へ自由を連れていく。それが正しいか知れない。波は飽くなき今を追求して止まないだけ。かなしみそのものが海のあいだへにじみ出す。夕焼けのあとには薄闇のあおさしか残らない。
 人という体制が育つまでしばらくの間、青い星の主体を構成してきた水素の行き先。また生き物たちは水を媒介にして価値ある文化をつみあげた。世界はそこから始まった。いつかそこへ帰る。
 太陽と月が見下ろしている砂浜の形は時々刻々とうつりかわり、まちからの声をしばしとどめては削除するまっ更な画布である。
 人物は小さな点景として、造化の力学に含まれた見えない要素。我々日常の建設とは異なる文脈で、宇宙の再構築に参政している場所だってある。想えばいつでも君はそこにある。
 失われるものを求めてはいけない、とひとは言った。失われるものは求めるためではなく、それでなお遊ぶためにあるのだから。
 崇高さとは定量化できない大自然への絶対畏怖と似たもの。君にとっての空間的地平に似たもの。さればこそ波打ち際は一時もやまぬ音楽の源として万象運動の姿を示す。

場面音楽論

音楽は場面に合った雰囲気をつくりだすための機構である。まず音楽家は自然の中にこの音楽的演出性のための最初の例をみいだすだろう。森の葉ずれの音、清流のせせらぎ、砂浜の絶え間ない波浪、雀や鶏の鳴き声、工場の音、戦乱の音、飛行機の航空音、バイクのマフラー音、高層ビル建設の音、コンサートやライブという演劇体験のための音、CDに納められ生活の中に入り込み時代をあらわす流行歌。
 全て我々を取り囲む音楽環境とは場面に対する演出装置の役目を果たす。
 実際、人間の聴覚が地球環境の基本的空気・空間構成にとって合生存の中庸適性を持って成立したのは確かである。そして我々が楽器という方法を用いて、この適応感調査のための感覚を合目的再創造に用いうることを覚えたとき、音楽はたんなる実利のためだけの存在を越えて虚構の定義を獲得した。そうして生活の感受的雰囲気を、程度をもって人為的に操作する機能を持った。
 アンビエンスという用語は音楽のこの様な現代における機能的側面を定理として言い表したものである、と考えてよい。
 音楽家はもはや、流れる場面というものを無視して現代音楽をつくることはないだろう、市場掌握の手法。一方で、場面を超えた普遍的構成をたんなる純粋音楽の為の命題として芸術する指向は否定されるべきものではない。
 一度市場で共有されれば作品の流れ方は必ずしも予測できない。音楽家が同時代を代表する名作を合成するべく試行せねばならぬのは、場面と音響とをいかなる関係のもとに作曲するかという課題であるだろう。事実、作品はなりひびく文脈から完全に離れて成立することはなく、また同時にその形態性という特性上、文脈にのみ完全に依存するものではない。
 我々にできるのは場面と音響との緩やかな繋がりをある調和的な作為の元に再生するだけだ。

2007年1月2日

政治参観主義

以下哲学者は同時代政治にどの程度かかわるべきかの問題を解く。理論的指導という命題は常に、哲学者の政治術にとり現実的。学究閑暇の欠如により、哲人政治家の政事やまつりごと実践は不完全なものにとどまらざるを得ない。現実の代表使者は応急のため、理想的哲学者は永世のためにある。近遠の方法論確立が彼らの職能差異。日常市民言論の福祉向上と社会学的功績が、哲学者の政事にとっては最も適為だと考えられる。主として前者は議論の善導により、後者は政治学献での達見論述による。大秦王安敦の如き哲人政治の成功が史上一般に可能だったことはない。有能な政治家は指導実践術に長け、だが必ずしも理想的ではなかった。我々には始皇帝へ学識的に馬鹿の分子をより多く看、孔子の中により少なく観るのが偶然ではないと知れる筈だ。政治術には野性の狡智がしばしば必要であって、政治学には特に文明の理念が必要なだけ。智略の用法は文化多元的。哲学者は世論の側から批判することが民主主義の文明化へ役立つと知る。よって彼らの仕事は政治参加ではなく、目指しうる限りでの在野な独立された政治の理解でなければならない。我々は実存主義思想をこえて、言論は政治的実践とは独立した見識であればこそ哲学的であることを認めうる。言い換えれば政治的拘束から自由を目指す善導の源にのみ、philosophyの当為を見てとる。なぜなら理想は功利へかかわらずの最高目的、即ち政治学的世界市民主義の基本原理。そしてそれが実践術の理念を永きにわたり統括する役目を持ってこそ、哲学は史上政治学の水準を達成する。単なる政策は実用主義の範囲に属するものであり、理念にとり使い捨ての道具であるに過ぎない。だから時と場合により価値が変動し、すなわち同じ策でも善し悪しの境界線を流行曖昧中にしか見ない。
 私は暫く以上をもって哲学者の政治参観主義を唱える。彼らが担うべき言論政は大衆向け短期につき学者向け長期につき、あるいはまた賢衆へ向けた中期的見解にあれ在野独立の地位にあってのみ正義であると考える。我々は功利主義とは無縁の自律福祉術を追求するためだけに、政治的立身や具体的献身の成果を棄てなければならない。尤も、この最後の文脈が経済功利を否定する内容ではない事に注意せよ。ここでは政治学的功利主義とは公民制裁理論としてのそれを意味する。

趣味主義の基本

我々は数理科学によって世界認識のための抽象的方法論を発達させられた。仮証法的な漸進理解の際にのみ科学は成立する。文明とは精神に因果をもつ別体系の自然である。我々の理性とは最高目的としての思索する主体性の意味。結局、我々は理性を厳密には自然に対置し得ない。反自然的理性の定義は近代思想の誤解だった。理性とは自然が産み出した精神にすぎない。
 ところで我々は理性を究極目的にもつ精神実在を至高と見なすためにはあまりに恵まれた時空場にありはしないか。我々は未だなにも知らない。我々は宇宙世界の赤子に等しい。我々の文明は殆ど野性と言ってもよいほど幼稚で憐れで惨めなものでしかない。その様な最古代における人類の一員として、私は理性を観想における至上命題と考えたくはない。少なくともそう仮定することは理性批判という点から幾分なりとも建設的。無論、野蛮の旧弊にあった、形而上的人格観念たる神のせいにする気はないが、我々にとり理性という観念は常に、非我へのinterfaceを文脈づけるものでしかないだろう。
 我々が自然に働きかける仕方には促進とか、禅譲とか、回復とか養護とか再生とか、近代思想とは別の現代的見識も生まれうる。なぜなら主体性は媒介物とは別の理念であり、別の地位。我々は理性を自然の延長にある自律的精神として最定義する。それはしばしば後構造主義哲学の様に文脈上の道具にもなりうるし、また最高目的善化もされうるに違いない。
 自然と矛盾しない、その粋的見識を理性に対して描像するなら、我々は理想主義と道具主義とを止揚する新たな思念の立場を持つに至るだろう。いわば趣味主義という考えはこの範囲に属する。
 我々は理性を、entropyの次元でたえまなく遊戯する自然の、生化学的に抽出された本性とみなす。

博物学

問。人間とは大宇宙において如何なる存在なのか。精神とは銀河史においてなんの意味なのか。太陽系における地球の中で、人類とは、また個人とはなんの体系内価値をもつものなのか。造物・creationの理由と芸術・recreationの理由。
 繁栄の目的はなにか。なぜその目的が哲学合理づけられるのか。世界の化学的要因。生物が繁殖した組成原因と予測される結果を解け。彼らが生存闘争を生み出した理由はなにか。その背景と結論。
 可能なかぎりにおける、趣味の科学的な分析と理論化。正義や真理についても同様に。

2007年1月1日

何を為して何を為さぬのかは人の可能性を確立する。行動原理の探求が人生観を造る。

地階の住宅

 半地下に掘りぬいた、過半が地中にある週末住宅。鋼板で囲われている。天井面に大きなトップライトをとり、ひよけを設けて光度を調整。天気の精細な変化がじかに感じられる。トップライトの一部は太陽光発電装置をかねており、昼間以外も電気代を抑制している。室内の主な仕切りはカーテンにより、ゆるやかな一室空間がいろとりどり見え隠れする。この住宅は地下が地上より温度変化がすくない好条件を活かして、縄文時代の竪穴式住居がもっていた先駆的な利点を現代へ摂り返す事になるだろう。

内観

 
大まかな部屋毎に段差のある内部空間。それぞれの部屋ごとに独特のおちつきと、たかい天井高を確保できる。