2007年1月16日

都市観

芸術という理念の目的が文明環境の伝播にあるのは疑いづらい。
 われわれは更に趣味という方便を通じてこの数奇な目的を追求する。人工的合理性を淘汰式に捻出するべくわれわれは趣味を制作する。美意識が趣味を規定する。審美はこの批判の用語。感性が導くところの終局は常に、人工における普遍的合理の批判にある。
 崇高が芸術の最終表現なのは、上記の筋に則り、われわれを超えて無限なもの、つまり自然の等価概念たる文明の形相的実現だから。
 芸術の大きな価値は生活の逆規定を為すところに由る。ゆえ根本的には不用ならず、却って他のあらゆる用途へさえ模式を与える。
 文化とはある時代の社会慣習だから、むしろ芸術自体の創発性に反抗する。もし合理批判でない工芸があれば、それは骨董品と呼ばれる。文化財はいずれ芸術ではなく、骨董の保存という慣習に過ぎない。
 君が以上の論旨を悉く理解すれば、絶えず建設破格されていく都市運動の中にしか究極の宝をみいださないだろう。
 傑作は時代象徴としての運命に終始する丈。そして完成品という理念が文明の内部ではすべて幻影であることを認知すれば、君を取り囲む現実性の様相においてのみ、理想を漸進させる継起を確定する様。言い換えれば都市建設を以て芸術の奥義とみなすがいい。