2024年7月28日

純粋美術の絵のレベル上げ

自分は潜在的に、たしかにある種の芸術家気質の人物で実際、世界史的にそれなりにというか、ちゃんと記録されるアーティストなんだろうとおもう。それというのも、僕はもうあまり感心するアーティストがいないんである。毎日探してはいるんだけど。ということは僕自身がレベル99なんじゃねーかなとおもえてくる。ありそうな話でなくはないのかもしれない。

 無論これらがおごりである可能性しかないから、これらはレベル上げを以後しなくなることを全く意味しないんだけど。

 40年のうち15歳くらいから、25年間もずっと、修行というかレベルあげし続けまくり、しかも全力でやり続けたら、潜在的にある種の天才なら、レベル99にいったということもしばしばありうるかもしれぬ。しかし。くりかえすが、なんら、あるいはまったく油断ならないから毎日レベルあげはしようとして、実際できるだけそうはしているのだけど。絵にもしレベルの様なものがあればだが。
 みんな絵のレベルあげなんてやってない気がする。僕ほどというか僕と同じ方針では。なんでかというと、まずそんな根気がないのと、もともと目的がちがうのではないか。
 純粋美術目的の画家自体がまずみられない。

2024年5月17日

植民地略奪海賊団長

チャールズ3の肖像画の趣味の悪さは異常 タイトルが『血塗られた悪魔の肖像』なら通る 普通に怖いし明らかに西洋のラスボスの絵づら イギリスかぶれで器物損壊罪人をほめちぎりつつ大英博物館の春画展スルーしつつ藝大美術館の大吉原展は弾圧した二重基準のアート音痴・茂木健一郎といい勝負

いい加減に漂白して損壊したエルギンマーブルをギリシャへ返せ世界帝国の野望挫折後の邪悪な嫌味海賊団

国画及び純粋絵画論

琳派や浮世絵は純粋絵画ではなかった。超平面論も、純粋絵画論ではなく、むしろ中間芸術の擁護にすぎない。大吉原展は藝大が天心以来の国粋絵画を放棄し、純粋絵画の教育からも逸脱した証である。藝大は歴史的役割を終えた。国画は自ら描かれねばならず、それは非商業的・非大衆的な絵の追求たるべきだ。

2024年2月14日

或る画家へ𝕏で送った絵画の感覚言語論

大昔、20代前半くらいの頃。僕の高校からの友の小野君という彫刻から陶芸に行った人が、あなたと似た事をいいました。私はその時
「いや、言語化できない領域は人にとって存在しないとみてもいいので、言語化を諦めるべきではない」
などといいました。例えば「全世界」といった言葉に全てが含まれます。

 今では、「絵画言語が別にある」と、あなたの意見と少し似ていますが感じています。最近の私の意見としては、視覚美術、特に絵の言語とは、視覚細胞を通じた、それ自体の感覚言語なのだという事です。
 ただ私の意見はあなたの意見と物凄く違う所もあるとも感じます。それは普通の言語自体の問題です。

 いわゆる普通言語は全世界に、或る種の意味づけをするため使われがちです。例えばMガブリエルの説がそれです。
 所が私は彼の意見にも反対です。特に意味ない言語、感覚言語といったものがあると、我々画家は知っている(「わーって感じ」「なんかいいね」とか)。よって全言語は意味論に回収されない。

 しかも、あなたの意見との決定的違いは、あなたが言う所の文脈主義や、感覚の理論化について私はあなたほど消極的だったり見切ったり全然していません。確かに言語化が難しい所はありますが、あなたがいう脳内で別部分を使っている面もあるからといって、感覚言語を普通言語化する事が無益とは限らない。

 確かに我々――私も画家で油画・洋画系から教育を受けた側です――が明治以後依拠しがちな欧米美術の方が、その種の感覚領域の普通言語化に熟達していました。よって、例えば同時代人でいえば村上隆さんみたく、自分の技の理論化や説明能力に長けた人の方が、欧米側で容易に理解され易い点がありましたね。

 よってあなたが言う事は一種の、欧米の既往の美術思潮への反定立だと感じます。いわばロゴス(論理)中心主義に対するある種の根源的批判として。
 繰り返しますが、部分的にはあなたの意見に近い点もありますが、私はあなたの意見にも反対です。感覚を理論化できる部分は理解や伝達に便利だからです。
 また、私は詩など言語芸術にも以前から深く関心をもっているのですが、普通言語の発展自体に甚だ努力している分野がある事にも注意すべきだと思います。普通言語で可能な表現領域が拡張・委細化する事は、事実上、我々の認知や伝達能力のかなりの部分を以前より優れた状態に持っていく筈だからです。

 実際、あなたがここで言う事は『今日の芸術』で岡本太郎が言っている感覚至上主義又は主観至上主義を、別の言い方にしたにすぎないともいえます。車輪の再発明をわざわざせずとも、主としてあなたが欧米文脈主義の普通言語還元要素を否定的に扱う要素が、岡本の美学に若干付け加えられただけなのです。

2023年2月21日

茂木健一郎氏のブログ記事『クリムトのギャップ』への注意書き

クリムトの絵はいいんですが、画家を容姿でけなしたりほめたりする見た目主義の差別はとてもよくない。なぜなら絵描きとしての能力とは関係がないからです。
 単にあなたが美男子に劣等感をもつだけなので、それに自覚し、例えば美男子説あるヴィンチ村のレオナルドをねたんで仕事の評価まで変えない様に。

2022年1月5日

絵を描けない人

ゲルハルト・リヒターは装飾的犯罪者だ。その抽象画が大量の追随者を生み出し、それらの西洋画の描き手らは、悉く無意味な物を量産したからだ。彼は余りにまね易い様式を生み出し、それはあらゆる抽象画を否定するしぐさでありながら、それ自体を不定形として定式化もしていた。そしてこの営為は一つの詐欺で、何も意味のある形を生み出していないにもかかわらず、さも現代美術の一種かのよう彼のしごとを言い繕ってきたからだ。芸術的犯罪をおかしてから、リヒターは結局なんのしごとも成し遂げられないままこの世を去っていくだろうが、あとに残ったのは大量のごみだった。
 リヒターのまねごとをする連中の生み出し続ける大量の偽抽象画は、誰も感化せず、ひたすら西洋建築のどこかに置き続けられるなんとなくよさそうな色の塊として、その場を訪れる人々をうんざりさせ続けるだろう。

『ビルケナウ』は彼の詐欺の頂点で、遂には何も生み出していないこと自体が誰にもばれないだろうと大胆になった芸術家気取りの偽物の技として、永久にドイツという国の恥ずべき後進性の記念碑となったのだ。

 成程、リヒターは我々の時代の巨匠だろうが、それは反面教師としての、何も生み出せなかった人の無残な骸である。

 私は嘗て、美術家の友達、田中隆央氏らに「リヒターから出発しなければならない」といった。20代前半の頃だ。これは間違いだった。言わんとしていたのは次の事だ。当時の自分は「絵から出発しなければならない」といいかえるべきで、リヒターは最初に否定されるべき、絵を描けない人だった。

2020年8月20日

規範論

なぜ僕が漫画を嫌いになってきたかには色々な理由があると思うが、特に最近明らかに感じるのは漫画的デフォルマシオン(デフォルメ)が余りに漫画風の絵師らの間で共通しすぎてて、その典型的歪みが僕の目には醜悪なのだからだろう。目が大きすぎるとか。漫画絵風になった途端、生理的に気持ち悪い。
 浮世絵は今から見ると、なんでこんな目細いの、顔のかたち瓜みたいで気持ち悪いとかおよそ化け物にしかみえないが、当時の江戸人らはそこになんらかの脳内妄想を投影しており、現実感をもった偶像崇拝をしていたと考えられる。この江戸・東京人共通の脳内妄想の様式みたいなのが、僕には下衆に見える。
 ごく希に、漫画絵師の一部の人が、デッサン的、肖像的に実物の人を模写して、いわゆる絵画的・本画的な図像に近いのを描いている事がある。けどこの場合も、描写が過度に省略してあるから「あー漫画系統の人だ」って分かるんだが。どういう事かというと、漫画は妄想を描く様式でまず描く為の型がある。この型、例えば目の描き方とか、人物の線描の仕方など共通の様式があり、それをまず踏むと、既に人物っぽい線画ができあがる。そしてこれに色をベタぬりするか、そのまま完成品として出す(少年漫画雑誌ならそのままか、影を軽く定規等でつけるか、スクリーントーンを貼って終わり)という方法をとる。が。僕もそうだが、美術教育系の出自の人、特に油画の人は、西洋風のデッサンを学んでいる。それは石膏デッサンが典型例だが明暗法である。木炭や鉛筆で紙の上に、塑像にできる影を慎重に写し取る。現実の影は複雑なので、或る程度そこから抽出する共通様式があるが(際の処理、影の内部は略せるなど)、この西洋風デッサン、いわゆる写実の技法を一旦みにつけた側から見返すと、漫画とか浮世絵の人物をおもとする捏造様式って、なんというのか鋳型から粘土造形じみた金太郎飴を量産しているものでしかない。つまりどれもこれも、似たり寄ったりで、様式上に何の工夫も進歩もないし、しかも型が歪んでる。きのう『東京文化批判』で、新海誠とラッセンの共通性について結構辛辣に評してみたが、特有の幻想画に於ける型が先立つ、という点がそっくり同じである。そして新海の場合はこの型を漫画様式から借りている。それが僕には気持ち悪い。
 目も顔も形も歪んでるし塗りも単純すぎ。

 僕が以前は注目していた漫画・イラスト系の絵描きに今日マチ子って人がいる。僕はこの人がどこ卒なのか知らない段階で、おー、結構凄い、というかとてもいいと思ってエキサイトブログだった彼女の画廊サイト「千年画報」ってのを隈なくみていた。当時、彼女が描く多摩川沿いに住んでいたのもあって、例えば府中と聖蹟桜ヶ丘の間くらいの川沿いの高校の前の道とか、京王多摩川に近い多摩川原橋あたりとか、ジョギング・ランニング・自転車探検コースだったので毎度行き来しており、あーあそこだってのは似た様な風景にみえるが、ご近所さんには分かるしくみになっていた。あれは漫画の質ではなかった。そんで、僕は今日マチ子の絵にはなんら不快感を覚えなかった。というかいいじゃんいいじゃんと思っていたんだが、ま、ファンくらいのものだったから姉にも紹介した事があったんだが、なんかイチゴの戦争画みたいなのを描き出した辺りから商業化して行ってしまい、もうもとの新鮮味が僕にはなくなった。様式はほぼ類似の線描なのに、不快感を覚えない漫画ぽい絵ってのがあるわけだ。今日マチ子の絵は線描の上に淡い色彩で、しばしばパッサージュ風(デュフィが使う様な、ベタ塗りずらす手法)に滲ませながら塗り絵するのだが、ここでも通常の漫画家とかなり違うというか、風景画としても成立する質だった。
 あとから分かったんだが今日マチ子はどうやら芸大でてるらしい。
 それでこの作文の主題になる。一度、西洋美術の古典的技法を身につけたかは知らないが(身につけなくても芸大入ったり卒業できる)、少なくともそれらと違和しない形でも漫画様式を応用できる実例。それが彼女の絵だった気がする。ほかにもこの種の隠れ古典系の現代サブカルってあって、華風月、和楽器バンドや、特に鈴華ゆう子って人がそれかと思う。水戸だから僕(北茨城)の近所出身ともいえるが、一見するとボーカロイド流用のビジュアル系流行歌手に見えるのに、デフォで聴いてもなんか質が高い様な感じがする。しっかりしてて。質の高みの本質にあるのは、古典的格式、いわばカノン(canon、規範。正格)なのである。一度それを習得している人が再び現代サブカルやった場合、規範を知っている人には明らかに一段上の高みにいる様に感じ取れる。坂本龍一の作るピアノ楽曲みたいなもんである。
 そんで、新海も駿もこれがない。だから僕は新海はいうまでもないが(絵描きの目でみて全般しょぼすぎるから絶対に歴史に残らない事は僕の冷徹選球眼から断定できる)、駿も「漫画にしては頑張ってる」みたいにしか感じてない。
 手塚治虫はデッサン未修得の劣等感あったみたいな情報がある。デッサン下手っていわれたと。確かに下手。そして、これも断定できると思うが、僕は生で村上隆の絵をはじめて見た時「うわー不細工だな」ってなんの留保もなしに0.1秒でいった。ドラえもんの絵だった。僕はドラえもんは小2、3くらいからしぬほどテストの裏とかに描いてきて中3のクラス旗の意匠になったほどだからある種ドラえもん通である。僕が不細工という言葉を使った時なんて生涯でその時、ドラえもん展の時しか記憶にない。それだけ酷かった。あそこに提出されてた村上隆筆のドラえもんの絵。わざと下手に描いてたのかもしれないけど。
 最近のは弟子が描いてるか直接トレースしてるかで全然下手ではなく藤子不二夫Fのと同じだが。つまり漫画には漫画の規範がある。これもまた習得済みかどうかで明暗分かれる。
 ファンアートでも同人誌でもいいが、正格を穿ってる二次創作サブカルだと「上手い」か「違和感がない」となるが、穿ってないと「これは酷い」となる。必ずしもそっくりすぎる必要はなく逆にそれが気持ち悪い時もある。『ドラゴンボール超』はファンアートの類で、鳥山明ファンのとよたろうが描いてるので結構そっくりだが、なんか違う。まずキャラの行動原理みたいなのも演出みたいなのも微妙に堕落してて、表面滑っており、本物感がない。『MOTHER3』もそれ系で、所謂糸井節が物凄く自己模倣化されていて偽物感があった。マザー3の内情は伺い知れないので、糸井さんがどの程度シナリオ細部まで手をつけたか分からないにしても、『MOTHER2』の時のあの凄まじい詩の応酬(ほぼ日の川上弘美じゃないが、僕も小学生以来一大ファンの共通意見として、あれより凄いほんわかユーモア世界は一度もみた事がない)はみられない。

 結局、こういう事。
 規範を習得してるアーティスト、画家は、そうでない画家と違う次元の代物を作り出す事ができる。これが事実。そしてこの規範を習得済みかどうかってみる人がみればわかる。

 鍛えてある刀の例を村上隆が著書内で挙げてたが本当にそんな感じ。ここが一流以上の基本土台にあたるのだ。いわゆる大衆受け、人気取りの次元って、規範に到達してなかろうと余裕で勝ててしまうので、或る意味では次元が低い戦いである。天下一武道会にミスターサタンが出ても勝ててしまう。けどセル戦では歯が立たない。後者で死なない前提には、規範以上の議論をする必要がある。その種の心理戦が一軍の場だ。規範以上の議論といったが、画家当人が理論を流暢に語れる必要は決してない。単に実技できていればいい。理論家が実技巧者を兼ねているとは限らないにしても、言語化以前にその議論の中身を、直感で把握できてないと、規範以上の戦いって繰り広げられない。スーパーサイヤ人のなり方もコツで学んでいる。規範を踏まえた上で脱構築する。勿論これも必須要件で、型通りに行動してるだけでは簡単に動きを読まれてしまい、もっと複雑な動きをしてくるプレイヤー(他作家)に瞬殺されてしまう。逆に動かない戦法とかもある。ずっと同じ型くり返してる系。奈良美智やサザエさん。でも規範踏んでないと一瞬で負け。長谷川町子は死後いまだにアニメ続いてるだけに、漫画の規範に到達していたといっていいだろう。奈良は死後どの程度残るか分からない。少なくとも僕は初期の『雲の上のみんな』以外ひとかけらも評価していない。それ以後は進歩が実質止まっている作家(足踏み系)なので、飽きられたら急速かもしれない。ピカソは様式を一定期間で変えていたとされているが、あれとか完全に規範に対する位置取りゲームだったのである。古典主義があって、青の時代があって、ばらの時代があって、キュビズムがあって、また擬似古典があって、ゲルニカがあって、晩年の幼児様式に至る。ほぼセル戦以上にあたるが規範ずらし系。村上隆も雑な動きが大きい。僕がみてて一番すげー外してて、あれ? と思ったらすぐやめた(軌道修正してた)のに、なんかお尻で白髪一雄みたいに絵にのっかったかなんかのお下品な版画つくっていた。ボディペイント系。けど全然(イヴクライン後の)欧米文脈に乗らなかったと見えすぐ撤退していた。ボール球をぼんぼん投げ込む作家ってのもいる。ほんの希にしかストライク投げてこないし、それどころか一度もストライク投げ込んでこないがボール球の派手さだけで「非実力的に」人気って人。いっちゃ悪いかもしれないけどもうブロックしてきてるからいうけど、会田誠とか正にこれかと。全部三流作品だ。会田誠の絵でどれか一番ましなのをとりあげて当館に収蔵しましょうか? ってなった時、国中の学芸員は頭を抱える事になってしまう。外国勢ならまだジャポニズムの変態画家って文脈で、お下劣なのでも「はいオリエンタリズム~」ってエスパー伊東みたくいえるが、流石に自国の恥収蔵はきついものがある。かくて規範を踏んでもなければ(和風裸体画としてもオオサンショウウオ込みで同人漫画レベルかなぁって微妙だわ、あぜ道みたいなマグリット騙し絵ネタ系も発想が陳腐でどことなく間抜けでしかないとか、しっかりした所がない)、ボール球だらけ(玄人目に面白くない)だったら絵の寿命は極度に短くなる。

 最終結論としては、漫画にしても本画にしても、規範というものは古典学的な意味で確かにあるのだが、それをしっかりと抑えてあると安心してみていられる或る典雅さを発揮できる。そこから例え守破離的に逸脱していても、なお、或る背景知識の束として「よいお里」が感じられる事になる。これが本当の話。規範を抑えてないとセル戦以上に行った時、幾ら天才でもかなり辛い戦いを強いられる。なぜなら相手(一流以上の作家)は普通に抑えてくるからだし、例えばハーストはミニマリズム抑えてるからスポットペイントだし、クーンズは商品流用系だし、バンクシーは競売でレディメイド絵画脱構築するしとくる。そのガチンコの文化無差別級総合格闘技が行われている狂った異常乱闘の場に、絵を描く人が「天才」ぶって行くと、唯の規範技(文脈)程度で即死してしまう。或る種の国内的驕りがある会田誠が全然通用しなかったのはこの為、逆に規範を一応は抑えていこうと謙虚姿勢だった村上隆が通用したのもこの為だ。いうまでもない事だが、規範を完璧に抑えてくる定石使いが、かつ、独創的であってしかも天才という場合には、いかなる者も太刀打ちできない。そのレベルに行っていたのは過去の全美術史でも数人とかだろうけど、ウォーホルは多分そうだったろうし、ルネサンス時点ではレオナルドもそうだったろう。
 僕のみる限り日本にもその種の天才は、数人以上いた。尾形光琳、長谷川等伯、菱田春草、あるいは横山大観あたりがこれにあたるといえるだろう。日本画規範で最高峰の次元でありながら、同時に高度な独自様式の中で自己実現を図っており、余人に追随できない。寧ろ日本画の巨匠は独創性の面では圧倒的だ。大観の『群青富士』は、過去の全日本画でも、最も典雅な様式に到達した記念碑的作品といえるだろうが、この種の高貴なる絵を他国のいづれかの人が作り出せたとはまずいえない。という事は彼の画壇での地位は格別なもので、恐らく将来にわたってもそうだろう。規範を抑え、かつ、尋常ならぬ飛躍がある。僕が実物の『群青富士』をみたのは東京国立博物館でだったが、少なくとも古今東西であれだけの高雅の域に辿り着いていた画聖は、大観を置いてほかにいないだろうと確信された。畢竟彼の画論が精神論に終始していたのは、結果からみて、絵の技法は規範同様、最後には踏み台に過ぎないと示していたのだ。

2020年8月10日

バンクシー論

バンクシーは嘗て少しの美術的要素があったが、今では通俗ネタ芸人くらいの物におちてしまっている。例えばホワイトキューブ制度やイギリス競売美術の批評をしていた時はその作品にある種の前衛性があったが、ディズニーを皮肉ったディスマランドやCOVID清掃絵ごっこは唯のコメディアン程度のものだ。
 彼の全作品で最もましだといえる『風船と少女』の方は『愛はゴミ箱の中に』よりあざとくない分、まだみれたものにせよ、それでも絵として純粋美術的か問われれば、大した代物ではないと断じざるをえない。落書きの風刺画家が真面目な主題を取り扱った時も、彼従来の浅はかさが目に余るという事だ。皮肉で批評的なイギリス人好みの態度。しかし真面目な絵画ではそのなににつけ斜に構える人としての欠点がみな露わとなる。彼の作品が後世でどう見られるか想像してみるまでもなく、現時点でも二流三流の作品しか残せていないのだ。俗物お気に入りのアート風芸人。気の利く所をみせたい社交場の小ネタ。
 同じイギリスでも、サザーランドとバンクシーを比べたら天と地というほど純粋美術上の格差がある。サザーランドも孤立した画家といえるだろうが、バンクシーの画業はもっとこっぴどい異端である。その原因は前衛性と話題性を混同している勘違いだけでなく、はじめからひねくれている作者の性格にある。

『風船と少女』が最もましな彼のベストの作品だと衆目一致していわれるのはなぜか? 単なる詩的解釈もできるイラスト程度のものなのだが。彼をミニマルな壁画デザイナーとして評価しているのだろうか?
 ステンシルでスプレーした、愛や恋あるいは心の象徴であるハート型の風船をとりにがした少女。
 並の絵描きが同等の作品をのっけようがいかなる公募展からも排除されるだろうし、逆に唯のイラストレーターや漫画家が同じ図柄を描いても完全に無視され忘却されたであろう。すなわち、他の悪趣味な落書きの数々に比べれば最も真面目っぽいだけ。その彼の画業内での対比で傑作扱いされてはたまらない。つまりこういう事だ。アートテロリストが希にまだましな作品を残した。それが唯一の気休めで、他はひねくれた器物破損罪の常習犯である。奈良美智がニューヨーク地下鉄構内で落書きの真似事して捕まった。これも随分おかしかったが、大文字LEDを突如点灯しお高く留まった偽伝統を破壊する方が面白い。

 一番気分が悪いのは某好事家のよう彼を手放しで賞賛する連中の、表層的な美術俗物ぶりである。そういう輩には高貴な純粋美術と、ポッと出ネタ芸人の違いなど永久にわからないだけでなく、後者を高殿に上げ前者を相対的に辱める日常の醜悪さがあるだけで、自分はそこに語り尽くせないほど嫌悪感を覚える。どの時代であれ。

2020年7月17日

独創・模倣帯域論

ソウル・フラワー・ユニオンって人ら(今Spotifyできいてみてる)も宮廻正明みやさこまさあきという芸大教授もAftab Tuhinという写真家(なんだろう多分)も今日ツイッターで知った。
 タンブラーやピンタレストにも拡散されてたこの写真、バングラデッシュ、Chittagongで撮影された少女らしい。
(引用元、タンブラーピンタレスト

 美術手帳でも特集されてたが(「合法と違法の線引はどこに? 現代美術のアプロプリエーション」)、米国だとウォーホルやリキテンシュタイン辺りから特に、ピカソ・ブラックらのコラージュみたいなのを超えて、直接的な流用の度合いが高い物の美術的文脈化って行われてきた。
 しかし日本語ツイッター民の世論をみてると、欧米系美術では既に疑義されて久しいオリジナリティ(独創性)信仰が現役で生きていて、流用(盗作)系アートをみると「パクリ」といって、ピカソ発でジョブス、バンクシーらが流用した某名言「偉い芸術家は盗む」全否定にかかる。
引用元。オリジナルはバンクシーのサイトから削除済み)

 僕がみるに、みやさこ作品も十分に流用の基本要素を満たしてるから、仮に米国で裁判したら勝訴するだろうと思う。なぜ著作権法で認められた二次創作に許可が必要と、彼がインスタ発言で考え直したか分からないが、普通に同人誌などでは無許可で原作を翻案し、大規模にフェアユースしているわけである。
 ソウフラ側は、アフタブ氏にカネ払い原作を使わせてもらった。それはいいだろう。だって原作そのものを勝手にタダで売り物にしてたらそれは美術用語でいうappropriation(アプロプリエーション。日本語訳は未確定だが仮に流用、盗用、盗作)ですらなく、唯の盗難である。が、みやさこ作品は二次創作だ。
 又、彼が日本画系の芸大教授、しかも院展系だった点が興味深いので、僕はこれらをネタに朝方、二次創作した。
 なんでかというと、日本画の伝統にも流用・盗用・盗作の系譜ってあって、絵画には(日欧で常識的に)模写なる代物があるが、模写どころじゃなくて同一画題の反復だ。短歌でいう本歌取り。

 以下の物は同一画題の反復、すなわち日本版の流用・盗用・盗作、アプロプリエーションの系譜だ。最後のは僕が2009年に描いたやつ。ほかのは順に、宗達版、光琳版、抱一版。



著作権以前の世界だし切れてて当然アリなんだけど、二次創作も同じ理屈。
 今朝描いたこれ。
風神雷神図あるいは宮廻正明みやさこまさあき『銀河鉄道』 とソウル・フラワー・ユニオン『死ぬまで生きろ!』ジャケット写真からのappropriationアプロプリエーション
『風神雷神図』の日本画系譜からいったら、二次創作に於ける流用・盗用・盗作・アプロプリエーションって昔から本歌取り的な技法としてあったのに、何を今更驚いてるの、という意図がないとはいえないかもしれない。
 なぜ素人が騒いで慌てるのか。意図して流用してないのかと?

 又、次の観点もある。
 そもそもプラトンとその弟子アリストテレスは、特にプラトンは『国家』、アリストテレスは『詩学』で、詩人や画家について論じる中で芸術家の仕事を模倣(まね、ミメーシス)だとしていた。世界の模倣可能性を拡張したのが、漫画や雑誌、商品をコピーしたウォーホルらだった。
 芸術の本質が真に模倣かといえば、自分はそれは技全体の要素だと思うわけだが(現代の美術用語でいえば再現芸術については一部そういえるだろうが)、要はダヴィンチが画家はあらゆる物を模倣できなければならない、と手記に書き残した様な、神の創造の模倣者というのが伝統的美術家の立場だったのだ。
 風景画は自然を作ったのが人ではないからまぁOKとして、現実には里山だって海岸線だって河川や山林のかなりの部分も人々が作ってるし、微妙な点がある。人工度が高い代物、例えばスーパーの好きな商品とか、トヨタ広告ポスターとかをまんま複製したウォーホル、クーンズらは商業製品の模倣者だった。
 んじゃ、杉本博司って何者か? 自分が知る限り彼は重要な近代建築をわざとぼかして撮った写真が、最も流用的な作品だったと思う。サヴォワ邸そのものに相当の独創性があったとしても、リヒター風にぼかすことでその模倣そのものを否定するポストモダン仕草ネタ(あんまおもしくない)がある写真家である。
 村上隆もDOB君に関しては、いわゆるミッキーのどぶねずみ版と解釈でき、彼の著作(『起業論』の方だったと思う)から推測される範囲では、滞米中にNYの地下鉄でみた肥え太ったドブネズミに芸術用語でいえばインスパイアされ、俺もミッキーよりタフになってやらぁ、但しマンガでな、ってキャラだろう。

 ではカスラック的なものは一体どこから出現したのか(カスラックとは、著作権管理団体であるジャスラックが、高々近所の個人音楽教室がクラシック使用するのにすら課金したがる様な過度の規制をしており、それへの恨み節からきた「カスみたいなジャスラック」のかばん語と思われる俗語)。
 著作権を一番美術界で強く主張してきたのってディズニー社である。THE商業大衆美術。売り物を勝手にパクるな、という訳なんだが、いわゆる純粋美術(ファインアート、fine art、立派な芸術。完成された芸術)の文脈でそのネタは通用してない。
 音楽でいうとミクスチャー、リミックスみたいな手法があって、原作に対する何らかの再構成が評価される文脈って、DJ文化などから常識化されてきた。更にはYouTubeやニコ動で歌ってみた系とかMAD動画など、より広く原作の二次創作に余地が生まれた。独創性信仰ってそこでは制作全体の要素なのである。

 ではなぜ、絵画分野でだけ、かつ日本人素人だけ、やたら、パクリパクリと騒ぐのか。音楽なら初音ミクが許可なしに名曲歌って市民権得てるのに? 結局それって、彼らが欧米系アートも日本画系アートも無知で、多分、マンガかアニメしかわからないからなんじゃないか。いわば無教養、ロウブロウさで。
 恐らく文芸でも、小説(又は昔ながらの言い方なら物語)の方は、詩に比べると本歌取り的な文脈化が十分にされてなくて、模倣性~独創性の全帯域のうち、模倣度が高い部類になんらかの著作権商法的なカスラック判定をしがちではないだろうか? 実例はまだ知らんけど。『1Q84』なぞ『1984』流用なのに。

 更につきつめると、それならなぜ、日本のマンガアニメとそのファンら(すなわち一般化すれば「日本語圏オタク」)、あるいはTHE美術史的な造詣のない一般大衆(つまりは「日本語圏美術素人」)の間でのみ特に、独創性信仰が過度な形で残ってしまっているのだろう。
 恐らく原因は子供向けの商材だからだ。
 マンガアニメファンの知的水準は、極めて大雑把に分類するとだが、主に大衆中でも半分以下の一般知能の人達で、大人になっても児童向けの低俗(無知でも分かり易い)商材に夢中なくらいだから、ハイカルチャー側の常識を一切しらないのだろう。アプロプリエーションなんて初耳だという事なのだろう。
 音楽や詩の場合は、流用文脈が大人向けで確立されてきた経緯から、美術の日本語圏素人や日本語圏オタがツイッターや2chまとめサイトなどで毎度発狂するみたいな意味不明な事態がなかなか生じづらい。思うに東京五輪エンブレム問題に巻き込まれたデザイナー某氏もその独創性信者らの犠牲者なのだろう。

 では、一体その日本国内外の純粋美術と、国内限定のオタカル・美術素人のとんでもない落差について、我々はどう対処していくべきなのだろうか?
 隆スーパーフラット説みたくごった煮で、あるいは津田あいちトリエンナーレ2019キュレーションみたく炎上商法化しときゃいいんだろうか?
 僕はなんかそれらって場しのぎと思う。

 プラトンとアリストテレスのうち、プラトンはこの世の模倣者としての芸術家を無用な物としたが(厳密には、事物なるイデアの影を更に模倣する劇作家・美術家は、イデアを語る哲学者に比べて質の低い偶像制作者でしかないとする再現芸術否定論)、アリストテレスは寧ろ事物の本質を現わす者と定義した。
 アリストテレスによると劇(当時の言い方なら詩すなわち創作、作り事。ポイエーシス)とは、ありうる筋の再現で、民衆の感情を浄化するもの。喜怒哀楽で登場人物に共感しつつ、この世でありうる死生観に、創作の意義をみいだす点では、紫式部が『源氏物語』乙女で光源氏に語らせた物語論に似ている。
 彼らプラトンとアリストテレスの立場は、美術、ここでは特に絵画とは、プラトンにとっては当時しられていたのは具象絵画(再現美術)だったので高々偶像制作にすぎず、アリストテレスや式部にとっては創作一般が再現性を通じ人間の本質を浮かび上がらせる民衆娯楽的、あるいは学習教材的なものだった。

 では現代美術、現代芸術のうち(日本語で「美術」は一般に音楽・絵・彫刻・建築・文芸等が基本となるファインアートの訳語で、大衆的、商業的な民芸もしくは技術・工学、教養の意味など応用範囲がある広義アートの訳語たる「芸術」と専門的には峻別される事が多い)、現代絵画はいかなる意義があるか?
 ここで問題になるのは、近代には抽象画が出現し、プラトン的な偶像制作をのりこえたという点だ。そこでは言葉による哲学的な探求と同様、イデアそのものをより直接的に表現できる。それどころかタイトルが『無題』の場合にみられるよう、視覚表現でしか認知できないイデアに接近している場合すらある。
 またアリストテレスや式部の場合も、飽くまで再現的な手法を前提に、作り事(特に言語芸術の場合だが)を語っていたわけだが、同じ原理を絵にあてはめても、彼らは抽象性の高い代物を対象にしていなかった事になる。アリストテレスは舞台演出に視覚性絡めたり、式部は作中に絵巻物類も登場させてるが。
 という事は、近代以後の絵画論として、現時点では再現的な模倣に焦点を絞っては語りえない事になる。逆に例えばウォーホル『キャンベルのスープ缶』は商品の模倣、かつ平面上への(幻想的な)色彩配置による再現なので、寧ろ(グリーンバーグ説で考えられていたのと逆に!)伝統的系譜にある事になる。
 こうしてみると、リヒターはノートでウォーホルを中くらいの作家と評したが、それはリヒターが考えたようウォーホルが伝統美術家の無意味さ(過去の今更どうでもいい様な手法体系。例えばモチーフの暗喩みたいな事)に関わらなかったからではなく、ウォーホルが単に「古典的画家」だったからなのだ。

 一方、日本語圏オタと、同圏美術素人のロウブロウさは、先ず彼らが受けた明治時代的文脈に致命的な問題点があったと示している。
 黒田清輝が芸大にもちこんだボザール流の写実は、単に西洋の再現的伝統を植えつけるものだったが、逆に民間に流入したのが、高い独創度を主張していた印象派らだった。
 更に戦後、岡本太郎なる流行作家が出たのも影響がある筈。彼はピカソの精神的追随者で、独創性が芸術の本質だと主張し、かつそれが単に感性論・感覚論のみで受容されるべきだと高唱した。恐らく母・かの子が知識人で、自身が育児放棄気味にされた私怨への反抗、反知性主義は劣等感の裏返しだったろう。
 平成期の2009年に発売された『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』でエルシオン学院の或る生徒が、岡本流の感性論を美術の前提として(冗談ではなく、至って真理だという口調で)語る場面があり、いまだ日本語圏の大衆次元で、ロウブロウな感覚論が美術創作・鑑賞の態度として主流になっている一証だ。
 しかも美大芸大の落ちこぼれの様な商業漫画家なる売り絵描きのうち、殆どが美術的造詣を持っていないとは実際には奇妙な現象だが(玄人はだしを人気投票で選好しているアイドル抜擢風の少年雑誌制度自体にも原因があるのだろう)、日本語圏オタも、美術素人も、印象派級の独創信仰を現役で持っている。
 例えば美術側だと、デュシャン『泉』以後にはっきりと既製品の文脈が発生し、ルネサンスの万能人らによって再興されたものの古代ギリシア哲人らの時点から元々あった独創性への疑義が限界まで推し進められたのが、ここで懸案になっている流用・盗用・盗作、即ちappropriationの文脈なわけだ。
 現実には、独創~模倣帯域にはもっと複雑な要素が絡んでくるので、単純に白黒の間のグレースケールで語りえないが(アフリカ彫刻からの流用者であったピカソは、模倣先を知ればさして独創度が高いといいがたくもなると共に、挿入要素スキャンダリズムによる売名名手だった様に)、美術は二元論でない。
 日本語圏オタと、同圏美術素人は、
1.感覚創作・鑑賞至上論
2.独創信仰(独創と盗作の二元論)
という極めて独自進化した、世界的にみれば特殊な認知をもつ集団である。
 美術側で1についてはじめからその要素でしかないし、2については古代から根本的に疑義され続けてきた態度でしかない。
 現実の芸術・美術創作やその鑑賞は、彼ら和人オタ・素人系の独自ルール外でその過半が営まれているので、玄人又は専門家としては基本的に無視すればいいと私は思うのだ。大向うの意見と違い、美術(史)的な意味をもっていない為、和人オタ・素人が客な一般漫画家にしか意味をもたないともいえる。

 ここで問題なのは、院展系の芸大日本画教授ともあろうものが、なぜか二次創作を許可なしに描いてゴメンちゃいとか言い出しちゃった事の方にある。彼の態度は、いわば美術文脈(ハイブロウ)を自分からマンガ文脈(ロウブロウ)に置き換える態度であって、まず全くの謎としか言いようがないではないか?
 こういう道理で、自分は今朝、一計を講じ、さっき出した作品をむかし描いた風神雷神図の流用版(2009年の『雷』)と又別個に描いたわけである。
 なんでかなら、事件自体を文脈化した方がいいなと思ったからだ。
 流用対象が世界全体であればこそ人は創作できるんだから。基本色だって既製品だし。

 物語風にまとめよう。
 これは唯の神話だけれども、神という創造主がいると仮定し(擬人化なしに現代科学的には自然現象としてもいいが、簡便な説明の為)、その神はヒトも創ったんだから、ヒトの作り上げた人工物、芸術の全ても所詮神の掌の内。即ち超広義で自然である。それを模倣し何が悪いのか?
 ここで出現してくるのが、ディズニーという男である。この人は、版権とかいいだし、自作の模造品を潰しながら工房を会社化し、金儲けで彼の夢の国ディズニーランドまで作っちゃった。中々の玉なんだが、その瑕もでかい。彼の駆動も主力だったと思うが著作権が成立し、創作自由度が極端に下がりだした。
 元々、著作権がなかった時代の画家達って、自分から巨匠の工房に入って巨匠の画法のコピーをしていたのである。仕事だから。つまりは模造役。純粋なパクリ。それが叶わないと、教会や博物・美術館で巨匠の作品を模写して修行したりもした。自然を直接模倣せよとダヴィンチは書いたが、コピーも一般的。
 もし和人オタ・素人が歴代画家の修行みたら発狂で顔真っ赤に怒り狂い、もしくは陰で「あちらさん石膏デッサンしてはるで」とか京都弁でいいだし、フィデアス(Pheidias)の独創性を前提に全力で匿名ツイッターに紛れつつ口汚く集団攻撃したと思う。僕だって高校の頃ミケランジェロの模写とかしてたが。
 バンクシーってディスマランドとかいう恐ろしくイギリス的に趣味悪い、ゴシックの極みといえる様な、皮肉と嫌味で埋まった紛い物プロデュースしてたが、そんな事いったら、ウォルト・ディズニーじゃなくて鈴木ランドか雄介ランドでもつくりゃいいのか。それが君らのいう独創性なんか。疑問でしかない。
 日本画の巨匠らだって同じだ。なんで宗達のオリジナル(現時点までではそう信じられてるが彼だってなにかを素材に模倣していたのに違いない)に対し、光琳や抱一までそっくりなの描いたか。僕は画家さんだから多分よくわかるけど、あれって憧れもあれば、普通に学習したいから描くんですよ。模倣論で。
 そこらの和人の子供が、僕もそうだったが、ドラえもんだの今でいやあ鬼滅のなんちゃらだか、当時のマンガキャラをテストがすぐ終わって試験用紙の裏の空白に描き出すよね。それは模倣である。それにぶちぎれとるのが君ら。
 模倣は芸術の明らかな一角なんだが。再現芸術って。なんで著作権で模倣が制限されうると?
 著作権なんざ後づけで芸大くんだりの有識者ぶった素人あがりが偉そうに文化庁に出向いていって、必死になってダヴィンチとミケランジェロの模写してた若きラファエロを完全に侮辱しているのである。彼がいかに遠近法や、人体の肉付け技術を見習ってたかなんざ、ディズニー如きにゃ永遠に分からぬから。
 「飽くまで販売用ですから。ダメなのは。私的に模写するのはいいっすよ」とか言い出すでしょうか?
「二次創作の権利も利益折半が原則で一応かきこんであるんで、そんなにカスラックにぶちぎれなくとも」とか。
 それいったら日銀が大好きなプニクロなんざパタゴニア・フリースのパクリ安売り会社だったじゃんと。

 結局。最終結論。先ずオタと素人はロウブロウ・無教養系なので基本無視に限る。いってること(反知性主義的な感覚至上論、独創信仰)がおおよそ理論破綻してるんだから。
 著作権厨も所詮ディズニーの回し者って点が拭えず、究極で美術はその人達の商業的陰謀をのりこえてきたので、模倣可能である。
 クーンズのトヨタ広告の絵。ROOOMY!とかいうやつ、あれとかほぼ完全に現物のコピーである。(1983年の絵"New Rooomy Toyota Family Camry"
 独創度がサイズ拡大くらいしかなくてほかは丸パクリだが、訴えられないからアリになっている。これがガチ系模倣美術流儀なわけだ。
 模倣度が99%くらいで、独創性がコピーミスくらいの代物でも、ギリで創作とみなせる。中国のコピー絵画村みたいな感じ。結局そこって、著作権厨との具体的な裁判バトルを前提に文脈作りしていく世界である。
 究極、裁判での勝敗も、ウォーホルの『花々』すら賠償金で負けてんだからあんま関係ない。
 そんで、独創信仰の方だが、例えば新造形主義なんざ、モンドリアン自身が全人類は当然かれを模倣するもんだ位の主張で、純粋美術として独創を全否定している。完全コピー可能な点にこそ意味がある様式論だった。
 という事は、著作権厨の謎理論って、所詮、商売の都合なのである。嘘抜きで。
 例えばアイフォンの丸パクリをホンハイがオリジナルぶって売り出したらアップルは本気で訴えだすと思うが、そういうブランド的な囲い込みの為、商標があるわけである。全く同じ観点を、創作全般にあてはめようとしたのが著作権厨なんだが、色自体が既製品で理論的にはほぼ破綻してんだから唯の政争だ。
 メロディも俳句も有限のくみあわせなので、可視光線の帯域のいづれかを盗作した、と理屈の取り方によってはいづれの絵画創作も訴えられうる。したがって相手が著作権厨であれオリジナル(独創)厨であれ、政争で勝っていく、もし負けても進歩的な創作手法に関しては譲らない、すなわちその根本で、なんらかの観点からの模倣への唯の妨害にすぎない諸々の難癖を原則無視していく事が、美術的な王道だというのが今日的見解かと思う。

 最後の最後に自分個人の見解を置く。
 模倣・独創の帯域がある意味は、創作の観点に自由度(ステアリングでいうあそび)がある方が、望ましい表現を穿ち易いからだとしかいえないと思う。政争が面倒なら死後に発表される形でしまっておけばいいが、公にして同時代文脈化するのも、構想次第かと思う。

2020年6月24日

死ぬ前に見るべき絵

あるプログラマーぽい静岡人が、六本木ヒルズ・森美術館での『STARS』とかいう展覧会のツイートにぶら下がってて、草間弥生のもこもこボートみたいのに
「コロナの中でこんなの見る価値あるの?」
っていってて笑えた。
 確かに基本、全くないと思う。そういう意味で現代アートは全体としてゴミだと思う。

 このスターズって展覧会は、確かに美術雑誌的には欧米ウケした日本人って意味での頂点を集めてんだろうけど、それの粋がコロナで命失うリスク犯してまで必見じゃないのは明らかなんだから、欧米中心主義の現代アートがガチの聖地巡礼みたく命かけてまでみるべき作品を生み出せてないのは間違いない。素人目線で
「は? これが現代のスターっすか?」
っていわれて、当の美術家の側は逆切れしまくるんだろうが、僕が第三者としてみても、ガチで素人の肩をもたざるをえない。だって命よりしょぼい作品しか生み出せてないのに、命がけで見に来てくださいっておかしい。本当に失礼な話だと思う。観客に。
 結局、天心にたちかえると、精神がダメなんだろう。本当に命をかけ、命超えてまで是非みなければならないものを生み出そうとする気負いがない。明日死ぬと分かっている人が、『KOKOちゃん』みせられたらゲンナリする。草間、奈良はまだ癒し系ネタだからギリお笑いでも、杉本は流用ネタ写真にすぎない。イーウーファンはまあモノ派のネタだけれども、飽くまでコンセプチュアルなガラパゴス美術だから知性に訴えるだけで、感動を呼ぶ代物ではない。一番ましなのが明滅などで象徴的に永遠性を扱ってる宮島達男だけれども、六本木ヒルズのツタヤ前にあるしね。
 総じて欧米基準のエセ加減を明らかにする。

 死ぬ前に誰かがみるべき美術としては、どっかの美術館にあったロスコルームみたいなのだろう。三面が真っ黒のやつ。あれが崇高すぎるなら、モマのモンドリアンのブギウギか。他今色々考えてみたが特に思いつかない。大観の生々流転はコンセプトは別として長すぎて疲れると思うし。
 美術館じゃなくてテキサス州ヒューストンのRothko Chapelだった。崇厳な死の象徴としては最善の部屋じゃないか、知る限り。

2020年6月23日

古典絵画の素人修復からみる漫画様式の下らなさについて

そうかな2回目3回目の修復のが
君らの大好きなアニメやんけ
お前らは漫画のが写実より好きだろうに
京アニオタ向けのデフォルメじゃないの?
現実にさ
ホキ美術館とか絶対いかないっしょ
行くべきだとは言ってない
君らが行くのはエヴァ展でしょ100%
つまり君らの財布に合わせてる
だからくそつまらん絵になるわけじゃん
本気でさ
漫画を偉いという理屈が皆目不明
君らに理屈とか一切ない
村上隆の自虐史観だけ
写実絵画が偉いとは言ってない
素人が修復したら漫画になる
つまり君らが素人絵を好きだってこと
それなのになんで否定すんのか
異様に目がでかい様なのが好きじゃん
女性の性徴をやたら強調したのと
どうみても歪んだ下品なデフォルメ
それが君ら東京と京都の大衆商業画やん
僕はそれらが嫌いだし
だからこの修復後も無関心だけどな
写実画っつっても
いいのもそうでないのもある
巧さってそう単純ではない
現代の写実画でいい人みたことない
それは僕の目で見てきてだ
古典的な典雅さとか速描の妙とか
そう簡単に到達できない
写真写すとか時間かけりゃ誰でもできるし
その意味ではこの原画は写真的ではない
古典的手法が偉いのか?
リヒターがいってたよ
今日では努力しても永遠に
巨匠たちの古典と同じ絵画には
到達できないと悟ったって
当時は10年とかかけて
スフマートしながら仕上げたり
そもそも拠って立つ状況が違うしね
技法自体も失われてんだから
君らは古典絵画に価値を認めてんの?
じゃあなんで漫画にたかるのか
漫画絵なんざ
イラレでささっと数時間で描いてるやん
ラファエルに言ってたぞ隆が
そんなのがなんで古典より偉いのか
君らの価値づけって滅茶苦茶だよね
だからいつも僕は君らを軽蔑してるもん
見る目ないから
たまには面白い意見とかさ
鋭い作品をみせてくれ
漫画アニメのサブカル作家ども
かなり前に会田誠が
わざわざ経済学についてしらねーから
誰か教えてくれといってたから
周りが沈黙してたので
めんどくせえのに俺が
親切に長時間かけて教えてやったらだ
ものっすげー上から目線で
逆切れしてきたんだよねツイッターで
自分の経歴で地位があると思ってるの?
笑えましたね
まずさ
画家なら1個でもいい
1枚でいいから作品を描けよ
それで認められるんだよ
どうでもいい様な紙をね
まきちらしてね、美術家ってなに
1枚だよ? 考えてほしい
もうね力抜けますよ
まあわざわざ教える必要ないよ
だって絵が描けないのに美術って
大抵の漫画家みたいなもんじゃん
そうでしょ
リヒターが最近
そこらの紙に落書きみたく
抽象画かいてるじゃん
あれとか絵だもんね、普通に
美術的だし
みたらわかる話であって
サンショウウオで裸ですとか
そういうことじゃないわけです
で? って話
猥褻物ですか? って
美少女ぽいのは絵ですかって
先ずさ自分の地位を考えろ
絵描きとしてだ
僕が適当言ってると思いますか
ポジショントークっすか?
ただの誹謗にきこえますか
名誉毀損っすか? これ
美術評論ですよ普通のさ
だって美術じゃないやん
漫画を描いてね、美術でーすって
意味がわからないのよね
そこらにあるやん
そりゃ漫画かもしれんけどさ
先ず基本からやってくれってことよ
天心とか
あの時代の人ですらできてたもん
美術の基本的教育っていうか
理解できてたやん
大観に教えてたんだぞ天心先生
欧米に絵もっていって
これはこういう理屈なんだぞと
そうでしょ
だから遠近法崩し考えたんだぞ
朦朧体は印象派に対置されてんだわ
それを美術というわけよね
アートでもいいけど
正直な話
最近の日本人でさ
一流とは思わないけど
村上隆以外で美術の基本
できてるひとみたことないんだよね
滝の人とかもかじったくらいやん
他の人とか土俵の外ですよ
ブルーオーシャンかよ
まあそれでもいいけど
偶然ひっかかってくれ~ってだけよ
自分で喧嘩うりにいってねーもん
ハーストとかに
きのうも書いた気がするが
隆って僕から見るとね
モンドリアンからみたマカルトだよ
だって競売美術って現代の公募展だよ
前衛性はその脱構築でしかない
そんなの分かってるから
ストリートアートからバンクシーが
わざと茶化してたわけやん
ホワイトキューブ制度とか
バンクシーも最近つまんねーけど
バンクシーがね
面白くなくなったのは
大体、ディスマランドくらいから
かなと思う
ディズニー茶化す
それはわかるけれども
手を広げすぎなのよね
純粋美術じゃないもん
あと制度批判とかも段々と
通俗ネタ化で切れ味わるくなったし
ゲリラ展示からシュレッダー競売へ
アートテロが劣化してるっしょ
年齢的なものなのかも
もう50才くらいなのかもバンクシー
別にファンでもないけど
昔のHTMLのホムペは
かなり頻繁にみてたのに最近みないもん
インスタもフォローしてないし
だって面白くないんだもん
ファインアートのひとそうだと思う
みるだけのものない
時代を画してもそれだよ
絵は高度な芸だよ
今久しぶりにバンクシーのホムペ
みてみたけど
全体で2つだけいい
といってもましなくらいだけど
1個、
バスキアのキャラが取り調べられてるやつ
1個、
ビーナス像を不良現代女性みたくしたやつ
前者は2次元と現実の境界侵犯
後者はギリシア的エロスの再解釈が面白い
ほかは全部おもしくない
ま、でも
君、そこの
上から目線で酒飲んで
逆切れしてきたそこの君
俺が経済学講義してやったのに
カネどころか礼儀作法もわきまえない
自称偉い美術家の君
一つもいい作品ないよ?
教えてくれ逆に
結構渉猟的にみたけどよ
1個も作品ないだろ
それなのになんで威張ってるんだか
謎すぎるんだけども
ガラパゴスでね
ネタゲーやってますと
わかるう~
だからさ、俺がお世辞で
1個ほめてやっただろ
おぼえてねーだろうが
完璧にお世辞だけどな
植木鉢のやつだ
ある種の嫌味ですね
だって高校数学やん発想の次元が
勉強しようよ~って
落合陽一に朝生でいわれたか?
ベン図描けて偉いね自称Jアート代表
ガラパゴネタゲーといえば
サブカルがそれなんであって
すげーゆるい引用しかないけども
ある種の流用的世界観なわけよね
だって頭悪いからさ、アニメーター
正確に言うと勉強してる暇ないからさ
意図的に継承とかする伝統がなくて
パクリを犯罪だとか思ってるわけよ
その意味では美術と全く違う
君のはね
サブカルのネタゲーにすらなってない
エロゲが春樹の文体ぱくってますとか
そういう次元ですらないわけよ
は? ってこと
ハイアートの画廊で
しょぼい落書き展示
でもわたくし偉い芸大卒美術家ですと
そのネタ、おもしろいの?
誰かうけてるの? 笑
子供の頃からみてて
一度も笑えないすが
いってみればさ
芸大権威裸の王様ゲームみたいなのの
ガラパゴったサロン作家の間で
内輪受けばっか狙ってて
老いぼれたやつやん
それと芸大教授とどう違うわけ?
同程度の雑魚やんけ
なんでそれがいばりちらすのか
自分の地位を考えてもらいたいんだよな
美術は本気の分野なわけよね
世界をみてくれ
隆が偉いとは言ってないよ
当人も自覚してるとは思うけれども
ハーストの追随者くらいの位置でしかない
しかも絵自体は1個もよくないもん
バンクシーに片手でひねられるレベル
面白くないしね、ネタ自体
自虐ネタで白人のサルやってますうって
自分からユニオシ演じるレベルの醜態で
面白い筈がない
ただ、ガラパゴゲーのさ
ファインアートですらない
Jアートと名乗るのもおこがましい
ただの超絶雑魚のネタキャラがだよ
なんで上から目線で俺に
礼儀の一つも払わないんだよ
教えてやったろうが
お前が誰か教えてというから
てめえはよ
自分が馬鹿なのを自慢する不良か
不勉強は恥ずべきことだと知れ
1個も面白くない
なになに家の方針ですとか
それならツイッターで
ぽちぽち毎朝さえずりゃいいヤン
美術館でやることじゃないよ
政治ネタの扱いとしても下品なだけで
決してアートじゃないもん、習字
でかいだけ
それが偉いの
公金使ってたら本当にね
ブチギレ案件なわけ無意味すぎで
クリストに謝れ
ついでだからあいトリについても
ここで完膚なきまでにやっつけてやるわ
だってくそつまらんやん
アートですって何
どこが
是非ともお教え願いたい
別にね天皇ディスろうが
そんなんアート的にはどうでもいいよ
昔から一杯あるですよ権威との戦いネタ
教皇像をデフォルメしました~
反戦画ですうとか
お前はさ
俺にいったよな? きてねって
いくわけねい
お前はさ美術をなめてるの
面白くない展覧会にだ
きてねってなんだ
お前動物園の動物か
美術として意味がある事を先ずやれ
それだけなの、美術展といえるのは
そこらのゴミもってきてだ
天皇ディスったらアートとか
あまあますぎて宇治金時が激怒
ぶっちゃけね
ゲンロンスクールレベルなわけ
お子ちゃま
ひとりでもいいですよ
一個でもいい
世界的水準の美術作品を作ったか?
せめて伝統水準でもいいぞ
なんかあるの? ガチで
網羅的にみてた方だ、僕は
アートファンとかじゃなくてプロ
プロどころか純粋美術家
命捨てて21年歩んでるわけよね求道
お前はね
ここに美術の道があり
ここに幸福の道があり
前者には荒野しかなく
荒野行動の中で袋叩きしかなくて
しかもがきんちょに
後者には至福なる全宇宙の快楽がある
前者を択んで歩んでるひとどもにね
非情に非常に失礼なのよ
だってゴミ級のを並べてだ
アートでございってなめ腐ってんの
皆呆れた
むしろだよ
ゴミを並べた方が全然いい
だってそういう文脈あるもん
例えばモノ派でしょ
コンバインペインティングでそ
色々あるよミニマリズムとか
そんな高尚なのじゃなくとも
アルテポーベラとかある
ゴミに美をみいだそうって
昔からある潮流なわけ
ピカソとか千利休とかハースト
それがお前は何さ
愚劣な日本人の墓
そっちは全然いいよ
皮肉きいてていいやんきたねーけど
踏み躙るのもいいと思う踏み絵
あれも一応アートってか
ただのパフォーマンスビデオやん
反戦プロパガンダ著作権ネタねって
あと少女像とか普通に歴史的だしね
これらは問題ない
君のね態度がおかしいんだと思う
ネタの作品はね
飽くまで「色物」なわけよ
よくある話よ
リヒターが~ウォーホルが~
フジタが~ピカソが~
皆反戦ネタ、政治ネタってあるわけよ
ある意味ヒトラーにすらあるでしょう
けどそれって美術の主菜じゃないの
で、メインディッシュは?
えと、これでおわりっすか
ってなるやんね
面白くない
で、その主菜がね
探しても探してもね
二流未満のしかでてこないとするよ
つか、そもそも主菜がサブ扱いで
どうでもいい前菜がでかすぎると
おお、なんだこの料理店てなるよね
もうこねえわってなる
その前菜が中途半端にまずかったら
余計印象わるいよね
結局こいつ料理するつもりあるの?
美術やるの
絵は
絵自体の問題を探求しています
それが絵の主菜なわけ
純粋美術の展覧会ってそれをみにいく
どんな絵の探求があったんでしょう
ゴッホがどんな努力をして
当時の印象派をのりこえようとしたか
浮世絵から借りた手法はどこか
それがね
最初から耳きり事件がでかでかある
は? となるだけ
美術は?
一応僕もね
どんな主菜か全部みましたよ
ホムペから隈なく
でも面白いのない
というか国内の国際展って
大抵そんなだから一々行かない
二流の作家しかいないのが普通
一流の作家はピンでやれるんだもん
わざわざそこに出ないでしょ
それにきてねっていうなら
それは何か特別な意匠だよ
妹島監督ですと
あのタシスムみたいなさ
テレピン油みたいの垂らして
抽象画ぽくしたシワシワの紙
で綺麗でしょうっての
あれはまあまあ綺麗だけど
だからってアートとしてはウーンでしょ
で? ってだけであって
偶然性のバリエーションすかあ
エルンストの再解釈とかないしな
あとあのぶっ壊したアクソノの絵ね
アクソノメトリックの線描みたいのを
ぶっ壊したやつあるじゃん
あれもまあ、
つまんないことはつまんないが
三次元表現と二次元表現の間ですと
錯覚を展開してミニマルでしょうと
だから? ってだけなのよね
だからいってるでしょ2流しかねーなと
美術って普通にデフォで競技だから
みたら分かる
お前さんがさ
おれのじーちゃんの大学をでて
ブイブイツイートして
美術展でも国際的なの頼まれた
それはいいと思う
どうでも
普通にね美術を見せてほしいの
いいのをやってるってんなら
詐欺っといてさ、上から目線で
なんでいばりちらしてきたの?
詐欺やん素で
君水戸芸の現代美術センターからやれ
俺がね
最大限善解釈して
おめーの為にだぞこれ
いってやったやん、
スキャンダリズムの文脈化よかったねって
普通、そこまで言ってくれる人いない
俺批評家じゃねえもん
俺自身が絵描くわ
俺になんの利益もないわ
要はお前が好意的に解釈されるよう
国内の評論に流れつけてやった
したら逆切れって何
普通にありますよ
スキャンダリズムで大人気系
昔ときめくハーストとか
ほぼそのネタキャラだわ
ピカソなんざ完璧にそれ
岡本太郎も村上隆も
下手すると奈良美智の地下鉄もそう
天然かもしれんけどそうやん
色々あるよ事件
ゴーギャンと喧嘩しました~とかさ
興味深い場合もあるしね
谷崎vs芥川とか
普通にありますよ
スキャンダリズムで大人気系
昔ときめくハーストとか
ほぼそのネタキャラだわ
ピカソなんざ完璧にそれ
岡本太郎もハイレッドセンターも
下手すると奈良美智の地下鉄も
天然かもしれんけどな
色々ある事件
ゴーギャンと喧嘩しました~とかさ
興味深い場合もある
ブラマンクに切れられ
大体さっきいったバンクシーも
ほぼヴァンダリズムの中に
スキャンダル要素で売名したっしょ
だからお前さんもその脈でどうかと
いいね! ってところやんお前には
俺には一円の利益もねえがな
一毫のプラスもないが
むしろ損害だがな
2流の作家を間接的に褒めるリスク
単なる社交辞令でとるんだから
てめーがな
己のお友達スクールを権威だとか
学的裏づけあるんやとか思ってたとしたら
完璧に肩透かしだったわけ
基本、サブカル中心主義の空間やん
サブカルの学問的裏づけなんて
ほぼないに等しいもん
ぺらっぺらですよ
ぺらっ
ぺーっらぺらっすよガチで
漫画学科とか
手塚美学の論文とかあるって?
そもそもさ
国の権威とかも無に等しいもん
日本の美術
その逆じゃねえかむしろ
文展、日展ってガラパゴスだもん
だーれも気にしてないよ芸大美大すら
そしたらガチの美術家も気にしてないし
世界からみられてないし
適当な徒弟階級制だもん
師匠が天才でもないのにね
素人に毛が生えた程度のもんなのに
なんちゃら殿下記念賞でね
プロの間でしか知られてない
まあまあ専門メジャーな外人にね
賞やって、間に日本作家いれて
どうっすかとかその程度よ
権威づけのゲームを細々やってるけど
飽くまで世界では無名な賞ね
別にターナー賞を権威だと思い込んでる
モギケン擁護してねえけど一切
イギリスもサブ
それなのにさ
文科省に賞もらってますから
国の権威っすからっていわれても
美術関係者からしたらお笑いなのよ
それに気づかないのは君だけなの
それ自体、ああ喜劇やなあって
みんなおもってみてるよ本当に
素人の腹踊り可哀想って
で僕も黙ってられずに
優しさ100%で助け舟だしたんだよ
ほんとだよ
そのさ
あちこちの美術関係者
殆どは食えない上に誠実なだけ
必死で自己表現を探求するよう
国や学校で教わった人達
善意で助け舟を色々出している中
君はそれをブロックして回った
ただの誹謗厨扱いで
余りに不遜
余りにカンダタ
だから僕も遂に呆れて
蜘蛛の糸きれてから池の上で
ぐるぐる国連回った
国連の文脈がある
人権規約
それと引っかけて
あいトリ全体をなんとか文脈化したら
君がヒーローになれるよね
フェミニズムアートの旗手ですと
そこまで考えてんですよ美術家ってのは
だから僕は演技打って
国連側に色々打診してたやん英語で
ま報道でしか取り上げられなかったがね
でも意図は成就した
英語圏のメディア的にはだ
特に美術批評系だと
君らのゲンロン級よりずっと知的だから
オリエンタリズムかけるフェミニズムの
表層的文脈でしかうけとられなかった
フェミニズムアートの本質、
例えばオキーフがなんで女性器みてーな
花ばっか描いてたかとか一切触れずにね
大体、皇室タブーも省略した
それで君はだ
僕が惑ったガラパゴアーティストみたく
英語で演技したこと関係あったか知らんが
国際文脈としては一応、カバーされたよ
もし完全に僕がいじめを企図して
例えば君の元師匠の様な心の狭い観点から
君の俗物根性を攻撃してたらどうなったか
あいトリモブが君を磔にしたかもしれんがな
矛盾してるな
欧米美術批評界がずっと知的なのに
皇室タブーに理解が及ばないとか
要はね
君らの言語能力よりはましだってだけ
向こうは向こうが中心の文脈なわけ
そこに引っかける方法がある
フックをつくってあげましたってこと
それ以外で文脈化できなかった
放置したらテロが起きかねなかったしな
僕がいったことがね
まるで空想的であとづけで
合理化してるだけで
君にそんな実力あるの? と
しかも演技だったとかもウソやろと
本当に君は某氏に怒ってたヤンと
そもそも無名の雑魚やんと
本当にそうならいいですね
僕は目立つのが嫌いなんですね
シャイなので
でも要所を押さえてないわけでもない
ま、結局
僕がものすごい善意で
というかホトケの御心で
君が国内では天敵にされていても
国際では挑戦的展覧会の主催者みたく
文脈づけられる流れにしようとしたやん
いわゆるお膳立てでしょう
けど君はそれをちゃぶ台返しです?
その後
フェミニズムアート続けりゃいい
それが初期コンセプトだし
君はスキャンダル起こして
観客よびたいだけでした~みたいな
某評論家の入れ知恵に従って
初期コンセプトを押し出さずにだ
逆に炎上させたのはよくなかった
みたいな撤退戦に入っちゃったよね
君の本意じゃないのかもしれんけどさ
フェミニズム正義と
一本槍で行けば勝てた
俺も道作ってあげたもん
某評論家は子供がいるから~
会社の存続に差し障りあるから~
それ美術と一切関係ない
アーティストは全員命がけなのに
なんで君が将軍なのに腰引けてんだ
そこで貫けば勝てる流れにしたのにさ
なんで撤退の流れなのか
謎すぎましたね戦略
英語で上書きすりゃいいだけ
またフェミニズム弾圧かい? と
フェミニズム弾圧っすか~
一対一の比率で折角
アート業界の不均衡是正っていう
ネタでおしだしてるのに
あんたら政治ネタ如きで弾圧っすか
みたいな日本の後進性ネタ
国際的には完璧にその流れにした
僕もほんとに参戦してそうしてたもん
そしたらこの人ら助かるだろうなって
わたくし聖人君子だもん
実質は、今騒いでるみたいな
ネトウヨ煽りネタが問題だと
それは国内文脈として
別にみなかったことにして
国際文脈で上書きしとけば
炎上するほどネトウヨが不利やん
ついでに皇室タブーも破れちゃうし
それは計算できる範囲です
なんで某評論家が撤退要求か
少し自分の頭で考えてほしいのよ
臆病でも
普通にね
アート展、美術展のね
スキャンダル系って
マネのオランピアからはじまってね
全部半ば意図的に炎上させてんだぜ?
計算があって、戦略があって
それに引っかかるやつの口コミで売名
完全に罠にかけてるんだよ客を
それが普通なくらいで
フックに引っかけるわけです
大きな釣り針フェミニズム
小さな釣り針、皇室タブー
反日タブー
色々フックあったけれども
国際文脈化できたのは
フェミニズムだけと
だったら二重基準でさ
英語ではそれだけで煽ればいいやん
日本語では逆に小針で釣ればいい
そうすればいい状況にしてあげたと
なんでそこで逃げるの
別に表に出なくてもいいしな
主催者とか
そもそも作家が主役なんであって
意図通り炎上したらいっちょ上がりで
あとはさ展覧会主の方は
裏でニコニコしてたらいいだけやん
いい作家集めたんだぞって言って
それがスキャンダリズムのつくりやん
フリーズ展とかも主催者知らんわ
ハーストの名しかあがらなかったし
花をもつべき人がおかしいのよ
実際そういう状況になったら
すごく怖いのかもね
あちこちで脅迫されてるし
けど昔もあった気がするな
ゲシュタポが踏み込んできたり
ピカソのアトリエに
ま、アーティスト側は命かけてるけど
主催者側が困っちゃったって例で
最終的に表現に命かけますか
という一つの瀬戸際だったよね
内外二重基準で
僕もそうだけれども
普通にさ前衛表現に関しては
当時の常識を打ち破るか超えてるから
あちこちから妨害っていうか
無理解の余りあらゆるひどい目にあう
狂人扱いされるしな、素で
でもそれを前提に計略立てていくのが
いわゆる美術の王道なわけじゃん
願っても叶ったりやん目立つし
イエスもアートだ
どっちにしても
主菜がないんだよな
それが一番の問題
まあまあの副菜だけで
フルコースごっこできますかと
かなり高度な技だよ
僕が監督ならやれたかもしれんわ
まくしたてりゃいいやん
少女像バージョン論とか
これ別バージョンで複製美術だしとか
少なくとも国際化はできたわな
それくらいはできる
美術展のさ
インチキ加減を裏から明らかにしたと
そういう意味では趣深い
素人に監督させたらどうなりますかと
しかも目立つ場所で
実験としても興味深い一応の結果
美術の専門知って無意義じゃないと
そういう実証になりました
難しさの効用ってスノビズムだけでなく
知的下流を遠ざけることだった
ネトウヨ煽るネタとか
多分、幼稚な話ではあるんだが
そういう専門知的にはサブの話に
大勢まきこんで、アートでございって
よく考えるとお祭りとしては
巧く作られた構図である
趣味はすごく悪いけれども
話をもどすと、修復後の漫画
その方が君らの普段の好みであって
なんで古典絵画が貴重だという
未来人類は
イラレとかないかもだし
そのとき、今の技法は失われ
漫画だって修復できないだろう
この目の色どうやってんだ? って
デジタルデータ除けばそうだろう
ドットの修復とかJPEG画像だけだな
古典絵画を認めてんだろうか
漫画作家って
漫画描く奴の気分が寸分も分からん
技法としてつまらんし
某評論家がね
美術界はめんどっちいから
なんのメリットもないから
もうなるだけ関わりたくないといってた
これもかなり笑えましたね
浅田彰に聴かせたいもんですよ
教養人と称する人々が
美術は面倒だからスルーですって
あんたのいうリベラルアーツってなんすか
プラトン気取りか
ルネサンス無視か
そいつにしてみたら
漫画アニメはめんどくさくない
だって馬鹿ばっかだもんってか
サブカルも随分なめられたもんだ
手塚治虫も宮崎駿も
そこまで馬鹿かしら
近代小説家くらいのもんじゃないの実態
確かにファインアートとしては微妙でも
教養皆無とまではいかない
そこまで馬鹿にできた連中かしら
東大卒のひととかさ
褒められて育ってるから
批判されるのに極度に弱い
褒めてほめてって
ろくなことやってねえのに
科学みたいに単純じゃないの芸術
哲学っつか思想関係もそうじゃん
倫理哲学もほぼ弁証法であって
対話術であって否定前提で
時代でも個人でも前轍避けるだけで
褒められる余地ないしね
意図的にね
学術的な批評をさ
誹謗と誤認させようとしてたよ
さっき読んだ
変な東大おばさんが
そういうことじゃないですよ
誹謗なんざどうでもいいんだから
学術的な批評と誹謗の違いがね
完璧に見分けられるというのも勘違い
特に芸術分野は見分けつかないこともある
三島が太宰にあなた嫌いですとか
なんでそうなるか
道徳的な問題って
その個人に帰属するからだよ
個人的信念の部類だから
審美論、美学の類もしばしばそうだ
特にこれらを否定された場合、
それって誹謗とはいわないですし
人格的にお前のここがおかしいってのも
義に関する討論であって
それをね、世人では罵倒という
学者はメタ討論
ヘーゲルが書いたものとか
読んでみたらいいじゃない
滅茶苦茶ディスりまくってた気がする
あちこちの学者を
頭ごなしに全否定とかだよ
それを対話術とかいってんだよ
根拠とかあんまないんだよヘーゲル哲学
酔っ払いの与太話なんだもん
でもそれが成立するのが倫理分野で
儒学者同士の討議とか似てる
東大卒の人だけ主に集めたら
ダメになるという一つの例が
褒められたい症候群でしょうな
だって芸術とか正にその対極で
普通にさ、ロックレベルだもん
そうやん
反抗が前衛なんだもんほぼ常に
東大生に向いてないのは間違いないよ
芸大生もだけど
だって褒められて育ってるじゃん
貶されて偉いのさ
さっきチラッと書いたが
佐伯祐三が芸大卒業後
意気揚々とパリいって
ブラマンクに会って
僕の絵どうですか? っていったら
このアカデミック! っていわれた
それは誹謗だ~って君みたいな
軟弱モノは思うだろうけど真実で
だって黒田清輝派の学生なんだから
ボザールと戦う意味がわからないわけ
それは誹謗ではない
学術的な、美術批評的な感想で
ブラマンクも言葉足らずだが
「古典主義絵画を今更模倣して、
お前はパリ界隈の動向を知らないのか。
今色んな画家達が探求してる諸様式は
新たな表現で美術を更新してる。
公募展の連中は腐敗してるが、
我々こそ歴史の担い手なんだ」って意味
真理
今でいったら
漫画描いてる人とか
写実画描いてる人とかが
ニューヨークで絵みせてみたら
「で? これがなんでアート?」
って言われてびっくらこく
みたいなもんでは?
コンセプチュアルアートの文脈がない
彼我の落差
「かわいくないですか?」
「え? なんで?」と返ってきて
誹謗だ~と泣きだす
結局な
誹謗ってのもあるし
隠れた攻撃性でサイコ野郎女郎が
一見、理論的にみえるが唯の中傷を
芸大美大とか予備校の講師パワーで
不躾に馬乗りしまくってるだけなのが
いわゆる日本的インチキ美術教育よ
だからそんなの無視以外ないんだ
コンセプチュアルなど到底遠く
そもそも美術用語しらない部類
けれども、
日本国内の教育でだ
まともに美術批評の概念しらんまま
さも自分はリベラルアーツ修めたぶってると
ガチの美術評論よんでも、中傷といいだす
それが某記者と某評論家
ま、誠に情けない東京の大学事情ですよ
自由教養が寸分もないんだよね素で
芸大でも教えてないですしね
独学の知識人だけ
浅田彰を会田誠がディスってる
タイトルのなんかあったと思う
お前はつまんないものほめそやし
その責任いつとるのみたいなの
浅田が美術批評で目立った業績ないし
噛みつくところおかしいわな
唯のスノッブですよ関西の
よくいますよ神戸だ~京都だって
美術批評上に意義ある人叩かないと
正確にいうと叩くっていうか
批評的にのりこえないと
「悪い場所」なんてないんだよとか
ただ理論的に未熟だっただけだよとか
漫画アニメも知性主義で解釈すべきとか
だーれもそんなこといってないがな
でもそういうことだよ
スパフラは唯の中間芸術だよとかな
これは前から俺がいってるけど
美術での理論って
ゲームチェンジの批評的側面で
作品の実践を裏づけるもので
当人がやってることもあれば
周りの策士が作ることもあると
で、漫画っぽい修復も
君らが安直に残念だ~とか
漫画大好き日本人の自殺行為でしょ
「わあ~よくなったわね!」じゃんそこ
それが君らの誇りであり東京アートで
考えてもみてくれ
君ら一般大衆こと日本人東京京都人
君らの誇るべき自称メインアートって
いわゆる漫画形式であって線描で
デッサン論のヴァザーリ説でしょ
これが本物の線描だ! といいつつ
奇形デフォルメしてるわけだ
わざわざ隆がそれをもちこんで
ドヤ顔してくれているのに
なぜ素人修復を否定
「私達日本人の好みに近い!
素人でも参加できる前衛アートは
私達の世界だったんだ!」じゃん
子供でも描ける形式もどきなんで
それ自体、稚拙な観点で
陳腐な日本限定の東洋主義だろうが
現代ジャポニズムの現実ってそれだろ
隆の理論的限界もそこにはある
でもそれ以外なにがあるの?
サブカルに
大変長くなってしまった
でもここでいわんとしたのはそれ
必要なことしか書いていない筈
君らの誇ってる日本文化
特にサブカルのハイアートでの扱い
「変な子供っぽい絵を
素人デッサン含め正当化」の理論で
ミスターとか完璧にその上にいる
そこで修復ネタをなぜ使わない?
古典絵画って草とかいえよ
利用できる点があるのに
明らかに隙のある言説をする
意味がわからない
漫画スゲーで行きたいんだから
君ら都内知識人がさ口裏合わせろよ
矛盾してるだろ
漫画っぽくてダメだなって
じゃあお前らのアート全部ダメだろ
お前らが認めるアートが台無しだろ全部
素人の絵じゃないんでしょ漫画って
漫画は素人が
古典的デッサンできなくて
手塚治虫みたいな劣等感で
無理やり描いてるだけの話じゃなく
何か凄い独創性のもと
ほかの国々ではありえない発想で
やたらカワイイすばらしい世界観を作り
花札メーカーと共に各国の子供を洗脳し
未来がある表現様式なんでしょうに?
写実より偉いのだろうに
実際ね
僕にはどうでもいいかもしれない
だって距離置いてるもん
嫌いだし漫画アート的世界
けどいわれましたから
イギリス人オタに
漫画もゲームもアートだろって
僕は困りましたね
君らが馬鹿なだけだとは
彼にどう説明しましょう?
逆切れされるだけだし
同人誌もアートだろうなと皮肉いうしかない
君らが作った素人もどきの
謎の世界なんだからさ
自分らで最後まで始末してよ
僕はハイアートの側しか擁護できないし
漫画、アニメ、同人誌、ゲームも
大体どんな感じか知っているが
外人に説明する義務君らにあるんだから
そのうち迫られるんだから
同人誌のこのペド表現は? って
君らが説明しろよ
もし隆と奈良が出ずに
日本国内の一部でほそぼそと
ジャンプ読者が子供のコミックスとして
大人しく楽しんでたら無害だった
彼らがハイアートの一部にしたてた
そしたら説明責任生じるから
なぜですかと
美術だからそうでしょ美術館に入れる
キャプションになんて書くの?
それ考えるのが君らの責任
漫画アニメゲーム凄い凄いと
謎の消費を国内でやってますと
京アニ炎上で寄付よこせと
国連にもちかけて偉いでしょと
オタ煽る因果を知るべきだな
ハイアートは戦場なんであって
全方位から全力批評されるわけで
隆的理屈だと敗戦国の自慰だからな
それで貫くつもりなんだろうに
自虐史観の強化なだけ
さっきだした会田誠もそうだよ
彼には説明責任あるからね
国内には基本ないだろうけど
そういう厄介な役割を先送りしてるから
国際的になってないだけの話
知る必要ないとみなせるしな
実際純粋美術上の批評的内容がないし
漫画修復ネタで君ら東京文化人が
残念だ~とか馬鹿かって話
普段と話が違う
自虐史観の強化でしかない代物を
やたらもちあげる意味とか
アベノマスクより分からない
当然の如く全否定でいいだろうに
愛国とか無関係に、ウソだもん
隆個人の物語でしかないだろ
親がタクシードライバー
敗戦で黙っちゃいました~とか
朕はプリン鱈腹くってるぞ米軍だ~とか
漫画は自慰ではない
漫画アニメって別にアメリカにもある
ディズニー以外にもあるアメコミとか
最初からさ、ウソなわけよね隆の
それを分かってるのになぜ乗っかる
春樹が日本の風俗作家だくらいウソ
奴個人の頭の悪い妄想にすぎない
日本女を阿婆擦れとして描いて
外人ウケ狙ってるポルノ作家でしかない
下らないわな
英語できる奴が少ないので
少数派がウソこいて
自分に都合のいい物語ふきこんで
白人に擦り寄ってますみたいな
そういう内なる敵が2人の村上で
だから君らが嫌ってたのにさ
ノーベル賞ネタで手のひら返したり
一貫性ないんだよな批評の観点
東浩紀とルーブルの前庭いきました~
で手のひら返しでしょ
国全体に都合がいいかで
日本人なんざ180度態度を変えると
それを見越して隆は戦略組んで渡米
それも当人が語ってたのに
なーんでちゃんと読まないの
オタアートも所詮その売り込みで
そもそも挫折した対象だと書いてある
君らは馬鹿にされてるんだわな欧米に
自慰ネタまだやってるんだあって
その位置
外人のうちでも
よっぽどの馬鹿、あと子供
もしくはオタを除けば
美術的には隆の自虐史観だからね
オタアートの基本批評って
他にとっかかりない
それって国の名誉なんですか
君らはすぐ褒められて有頂天だが
小ばかにされ侮蔑され
チヤホヤされてると勘違い
本当の馬鹿じゃないすか?
都とか京都とか
君らに分かりやすい話してやるわ
政治でいったら親日派の韓国人
それが隆の米国での位置だわな
親米派の日本人
敗戦国からきて
日本でオタが自慰に耽ってるという
確かにそういう面もあり否定できない
だからってオタ全部がそうだろうか
宮崎駿コンプの行きすぎで
手塚治虫、鳥山明とか説明できてない
ワンピースだ~鬼滅だ~
どっちもね、全然面白くない
僕が読む限り
先ず絵も下手だし物語も下手
ジャンプって斜陽だよ
子供の質が低いのか、編集者が劣化か
マシリトの方が偉かったんだろうな
もう終わってんだわな国内的には
オタアートって
少子化で質も劣化って
斜陽産業誇るとかトヨタ級の話だよ
修復された漫画みたいな古典
随分戯画的な話なのに
逆に残念がるとか
じゃあお前らの存在自体が戯画じゃん
お前らがいない方がいい世界とか
正に自慰に耽る雑魚ってだけですよ
僕はそうではない
君らと違う存在だ
だから敢えて指摘してやった
敵に塩を送ってやった
そこで自己正当化すべきだろうにって

2020年4月24日

画家の仕事

画家は世界を素描する。彼らは自らの理想を再現する。画家はイデアを写す。

2020年3月29日

絵と写真の差

絵は絵にできる事だけ表せる。だが明らかに写真よりよい絵がある。つまり絵はある情報を抽出してあり、ある人の主観にとって望ましい形の情報伝達になっている。

絵画論

絵は決して完成しない。それは建築なども同じだが。少なくとも造形芸術は、この意味でなにかの模型でしかない。そのなにかとは当為としての理念であり、理想であり、イデアであり、エイドスなのだろう。設計図としての絵、これが確かな事だ。ある理想を典型にまとめあげているだけ。そして設計自体が違うと意味をもつ。

2005年9月15日

絵画論

写真の道具性、絵画の目的性。

2005年9月14日

絵画論

ジオット以降人類は写実主義を推し進めた。レオナルドにおいてそれは頂点を極めた。セザンヌはここから抽象に入った。モンドリアンが抽象を極めた。以上の絵画発展史の末端に居て、私は先ず純粋抽象絵画造形に賛同しよう。それは又、究極の具体絵画である。
 絵画の鑑賞は色彩に原因する。従って色彩を最純に扱った絵画に拠る鑑賞は最美である筈だ。なぜなら絵画において視覚は色彩で表現されるから。