2020年8月10日

バンクシー論

バンクシーは嘗て少しの美術的要素があったが、今では通俗ネタ芸人くらいの物におちてしまっている。例えばホワイトキューブ制度やイギリス競売美術の批評をしていた時はその作品にある種の前衛性があったが、ディズニーを皮肉ったディスマランドやCOVID清掃絵ごっこは唯のコメディアン程度のものだ。
 彼の全作品で最もましだといえる『風船と少女』の方は『愛はゴミ箱の中に』よりあざとくない分、まだみれたものにせよ、それでも絵として純粋美術的か問われれば、大した代物ではないと断じざるをえない。落書きの風刺画家が真面目な主題を取り扱った時も、彼従来の浅はかさが目に余るという事だ。皮肉で批評的なイギリス人好みの態度。しかし真面目な絵画ではそのなににつけ斜に構える人としての欠点がみな露わとなる。彼の作品が後世でどう見られるか想像してみるまでもなく、現時点でも二流三流の作品しか残せていないのだ。俗物お気に入りのアート風芸人。気の利く所をみせたい社交場の小ネタ。
 同じイギリスでも、サザーランドとバンクシーを比べたら天と地というほど純粋美術上の格差がある。サザーランドも孤立した画家といえるだろうが、バンクシーの画業はもっとこっぴどい異端である。その原因は前衛性と話題性を混同している勘違いだけでなく、はじめからひねくれている作者の性格にある。

『風船と少女』が最もましな彼のベストの作品だと衆目一致していわれるのはなぜか? 単なる詩的解釈もできるイラスト程度のものなのだが。彼をミニマルな壁画デザイナーとして評価しているのだろうか?
 ステンシルでスプレーした、愛や恋あるいは心の象徴であるハート型の風船をとりにがした少女。
 並の絵描きが同等の作品をのっけようがいかなる公募展からも排除されるだろうし、逆に唯のイラストレーターや漫画家が同じ図柄を描いても完全に無視され忘却されたであろう。すなわち、他の悪趣味な落書きの数々に比べれば最も真面目っぽいだけ。その彼の画業内での対比で傑作扱いされてはたまらない。つまりこういう事だ。アートテロリストが希にまだましな作品を残した。それが唯一の気休めで、他はひねくれた器物破損罪の常習犯である。奈良美智がニューヨーク地下鉄構内で落書きの真似事して捕まった。これも随分おかしかったが、大文字LEDを突如点灯しお高く留まった偽伝統を破壊する方が面白い。

 一番気分が悪いのは某好事家のよう彼を手放しで賞賛する連中の、表層的な美術俗物ぶりである。そういう輩には高貴な純粋美術と、ポッと出ネタ芸人の違いなど永久にわからないだけでなく、後者を高殿に上げ前者を相対的に辱める日常の醜悪さがあるだけで、自分はそこに語り尽くせないほど嫌悪感を覚える。どの時代であれ。